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2020年2月17日 (月)

新・私の本棚 番外 范曄後漢書倭伝 史料批判の試み 1 逐条審議 3/6

 私の見立て ★★★★☆ 必読好著、但し倭伝は虚構濃厚 2020/02/17

【其大】
[今]其大倭王居邪馬臺國。
大意:今、倭の大倭王は、邪馬台国に居するという。

*時代観
 さすがに後漢代の記事と見ます。それにしても、蛮夷の王を、天子を差し置いて、「大倭王」と至高の尊称で呼ぶのは無法です。後出しの交流事跡には倭[奴]国しかありません。諸国盟主の意とするのは、意味不明です。
 漢に「邪馬臺国」国号に意味はなく、唐突な自称と見えますが、小国、つまり、倭の三十国との関係が不明では、記事として不合理です。
 魏略西戎伝によれば、遙か西方に「大秦」と呼ばれた国が存在したようですが、西方の「無法」な国号を東夷に敷衍したとしても意図が不明です。
 それとも、「今」を補ったのが勘違いで、笵曄は劉宋視点で書いたのでしょうか。つまり、劉宋時に大倭が存在したのでしょうか。誠に不可解です。

【楽浪】
樂浪郡徼,去其國萬二千里,去其西北界拘邪韓國七千餘里。
大意:楽浪郡の徼は、其の国、邪馬臺国を去ること一万二千里。其の国の西北界である拘邪韓國を去ること七千里程度である。

*地理観
 其國とは、書いたばかりの邪馬臺國王の居処、居城でしょうが、楽浪郡界までの道里が一万二千里とする根拠が不明で、明らかに実測ではありません。

 冒頭記事では、倭は、韓の東南とされていて、楽浪郡との関係には触れていません。倭都は、楽浪郡治の東南に在ると見るべきなのでしょうか。

●絶遠一万二千里
 なお、この一万二千里は、当然「普通里」であり、絶遠一万二千里は、一日五十里行くとして、二百四十日、八ヵ月を要する道里であり、茫漠として地理情報になりません。郡が洛陽に紹介する際の義務が果たせていません。

 次に、初出の拘邪韓国までの道里七千里が表明されていますが、この区間だけで、百四十日、五ヵ月近くを要します。其国共々、絶遠です。

 拘邪韓国は倭の領域で郡管轄外ですが、そこに到るまでの大半の行程は、帯方郡管轄下であって、もはや荒地ではなく、街道制をしいた筈であるから、行程を明記する責任があるように見えます。(魏志韓伝には、弁辰の鉄を両郡に運んだと伝えられているが、後漢書に漏れている)

 先立つ三韓記事では、同様に「普通里」で「地合方四千餘里」としています。倭記事の全道里には「餘」がないのできっちり里数と読めます。史官なら、記法を首尾一貫させるはずです。

 正体不明の拘邪韓国は、其国の西北国境、つまり、其国と地続きと見てとれますが、正体不明の「国」までの韓地道里を七千里とする根拠は不明です。或いは、范曄は、朝鮮半島が遙か南に延伸していると見ているかも知れません。繰り返しますが、韓地内行程は不明です。

●倭人伝参照
 ここで、本考察では場外の倭人伝を、この場限りの参考例として想起すると、まず、先立つ辰韓記事で郡管轄下と明記した既知の「狗邪韓国」まで街道道里で七千余里として地域独特の「里」を確立し、全区間一万二千「里」の提起は後ほどですから、それぞれ地域独特の「里」と想定した上で妥当な位置に比定できる点が、当然とは言え用意周到で着実であるのと大いに異なります。つまり、倭人伝の狗邪韓国は、帯方郡と頻繁に文書連絡し、歳事に応じて国使が到来する程度の手近さなのです。
                                未完

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