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2020年3月

2020年3月29日 (日)

今日の躓き石 NHKBS1スペシャル パン職人に「血の復讐」は似合わない

                          2020/03/28  追記 2020/04/02

 今回の題材は、元々は、NHKが番組の合間に挟んでいる「プレマップ」なる番組予告である。躓くどころか、向こうずねを丸太、と言う感じであった、英語で言う【Surprise】であったが、それが、何度もやってくるのは、難儀であった。

追記:ここ数日の番組予告は短縮されていて、「リベンジ」が耳に入らなくなった。少なくとも、指摘した問題点は消滅していることを追記した。

再追記:いや、予告編に長短二種があるると言うだけで、長扁は、相変わらず血塗られているのである。公共放送たるものが、このようなとんだ恥曝しの言葉遣いを、次代を担う子供達に学ばせているというのは、何とも、困った風景である。

 不定期ながら、結構ぶちのめされる頻度が高く、社会に大きな害悪を流しているので、この言葉の蔓延拡大を抑えるためには、きつく言わざるを得ないのである。と言うことで、調べてみると、これは下記番組紹介が汚染源らしい。まあ、当然だろう。こうした悪質な言い方は、みんなが止めないとどんどん拡散するのである。

[番組紹介]NHKサイトから引用
BS1スペシャル「目指せ!世界一のマエストロ パン職人たちの頂上決戦」
今年1月、パリで行われたパン職人の頂点を決める4年に一度の世界大会に、日本代表が挑んだ。3人チームで8時間の制限時間内に味・技術・スピード・芸術性を競うもので、日本代表は前回6位と低迷。今回はリベンジを果たすべく、研究を重ね、最強の布陣でのぞむ。番組は世界一のマエストロを目指す日本チームに完全密着。世界最高峰の職人たちの類まれな技術、気温やわずかな水の量などで出来上がりが違うパンの奥深さに迫る。
【出演】服部幸應,【語り】秋元才加

 どうも、パン職人の世界大会で優勝をめざす姿を紹介する番組のはずが、何を勘違いしたのか「リベンジ」と血なまぐさい復讐譚に仕立てている。よくみる、前回5位に落ちたのがよほど不満だったらしいが、世界で5位になったのが生死に関わる屈辱とは、ある意味、大した自信と思うのである。
 それにしても、なぜ、普通につまり謙虚に「チャレンジ」と言わないのか。パン職人は、スポーツ畑の粗暴な口の利き方なのだろうか。

 素人の勘違いかも知れないが、パン職人の腕比べは、格闘技などではなく、芸術の分野だと思うのである。少なくとも、やるかやられるか、やられたらやり返すという野蛮な世界ではないはずである。

 いろいろ考えると、どうも、NHKのスタッフが勝手に興奮して、「決戦」などと血しぶきをまき散らしているのではないかと思われる。担当者が興奮して、パン職人に泥を塗る暴言を浴びせたようである。「完全密着」の副作用だろう。それにしても、公共放送は、客観報道が基本だろう。

 色々書き散らしたが、話の落ち着き先として、どうか、書いた言葉がそのまま全国放送される方々は、もっともっと言葉の暴力に気づいて欲しいのである。誰も耳を貸さない、素人の不注意な暴言ならともかく、後世を担う子供達のお手本として、正しかるべきNHKスタッフの言葉遣いが、これほど粗雑では、たまらないのである。

以上

 

2020年3月16日 (月)

新・私の本棚 晋書倭人伝談義 もう一つの倭人伝  2/2

                             2020/03/16
*倭人伝引用
 今日、維基文庫を参照すれば、四庫全書版テキストを参照、引用できます。
 字数が少ないので、ここに全文引用しますが、当史料は、著者没後百年以上経過しているので、著作権の消滅している公有文献として扱えるのは、いうまでもありません。その際、引用元を明記するのは当然の義務です。これは、読者の検証を可能とするものでもあります。

*本文引用 四庫全書版 (維基文庫による)
 倭人在帶方東南大海中,依山島爲國,地多山林,無良田,食海物。舊有百餘小國相接,至魏時,有三十國通好。戶有七萬。男子無大小,悉黥面文身。自謂太伯之後,又言上古使詣中國,皆自稱大夫。昔夏少康之子封於會稽,繼發文身以避蛟龍之害,今倭人好沈沒取魚,亦文身以厭水禽。計其道里,當會稽東冶之東。其男子衣以橫幅,但結束相連,略無縫綴。婦人衣如單被,穿其中央以貫頭,而皆被髮徒跣。其地溫暖,俗種禾稻糸甯麻而蠶桑織績。土無牛馬,有刀楯弓箭,以鐵爲鏃。有屋宇,父母兄弟臥息異處。食飲用俎豆。嫁娶不持錢帛,以衣迎之。死有棺無槨,封土爲塚。初喪,哭泣,不食肉。已葬,舉家入水澡浴自潔,以除不祥。其舉大事,輒灼骨以占吉凶。不知正歲四節,但計秋收之時以爲年紀。人多壽百年,或八九十。國多婦女,不淫不妒。無爭訟,犯輕罪者沒其妻孥,重者族滅其家。舊以男子爲主。漢末,倭人亂,攻伐不定,乃立女子爲王,名曰卑彌呼。

 宣帝之平公孫氏也,其女王遣使至帶方朝見,其後貢聘不絕。及文帝作相,又數至。泰始初,遣使重譯入貢。

*大意
 晋書独自記事である最終段落大意です。併せて先賢の業績を参照して下さい。因みに「東アジア民族史1 正史東夷伝」(井上秀雄 他訳注 東洋文庫204)で、著者は「訳文は、現代語訳をめざし」と大変謙虚です。

 これは、史学に於いてあくまで「史料原文そのものが史料」との明言です。当方、つまり、当ブログの筆者は浅学非才であり、少なくとも本稿では「現代語訳」などとは、言えないのです。

 宣帝(魏宰相司馬懿への追号)が、魏明帝勅命で遼東公孫氏を平らげんと赴いたとき、倭人女王が帯方に至り朝見しました。倭人貢献は、景初、正史年間を通じ続きました。文帝(司馬昭への追号)が宣帝を継ぎ、魏相に任じられたときも何度か来貢しました。晋朝では泰始に初めて訳を重ね来貢しました。

*考察
 「大意」から割愛した前段の「漢末倭人亂」は史官達意の寸鉄文であり、范曄後漢書が、文筆家としての意識を昂揚喚起して、その筆の赴くまま、いわば自由な達意の創作を施しているのと根本的に異なるものです。

 また、主と王の書き分けは、重大な意義を持つものであるから、史料解釈の原点として保持し、安直な改竄を施さず、尊重すべきです。

 なお、二度起用の「其」は同一意義と思われます。現代人には、文意の解釈は困難ですが、等閑視できないと思われます。

 思うに、晋書編者は、女王国都名、共立など、自身が些末と判断した事項は略しています。

 同様に、些末と見たであろう(景初)遣使年次や公孫氏討滅との後先(あとさき)は明記されてないので、そのように示唆すらされていない事項を安易に勝手読みして持論補強に援用すべきではありません。

 なお、余り触れている例は見ませんが、そのような略記の流れの中で、「女子」が、ことさら温存されて明記されているのは、私見によれば重視すべきです。

〇結語
 晋書倭人伝の解釈については、従来、牽強付会の強引な読解が多かったので、この際、当ブログの方針に従い、丁寧な読解を試みたものです。あくまで、一私人の意見ですので、そのように理解いただきたいのです。

 なお、晋書四夷伝は、倭人伝に限らず、ほぼ西晋記事で尽き、亡国南遷後の東晋の四夷記事は大変貧弱であり、言うならば「西晋書」四夷伝です。加うるに、西晋時代も、西域交流は数度の来貢に尽きてしまい、後は、前世記事の使い回しで何とか紙数を稼いでいる始末です。何しろ、魏代の西域記事は、魏志西域伝が成り立たなかったほど貧弱ですから、何ともお粗末なものです。

 追記:以上、つい筆が走ってしまったので、言葉を足すものです。
 晋の四夷記事には東夷来貢記事が多いのですが、それは、魏の楽浪、帯方両郡回収の恩恵を被った西晋時代のことです。帯方郡にすれば、馬韓、秦漢、弁辰の領域は、いわばお膝元であるので、それこそ、一年一貢に近い頻度で、各国使節の山東半島経由の洛陽参詣が行われたようです。但し、これも、四世紀初頭の滅亡に至る両郡の衰退、そして、最後は晋朝の南遷のため、東夷の晋朝貢献は、ほぼ消滅したのです。
 いや、新興の百済は、一貫して南朝と親交を結んだようですが、何しろ、建康への交通は困難だったのです。

                               以上

新・私の本棚 晋書倭人伝談義 もう一つの倭人伝  1/2

                             2020/03/16
〇はじめに
 当ブログの守備範囲は「倭人伝」談義であり、一般的に、これは「魏志倭人伝」の通称ですが、正史の中でも、晋書は「倭人伝」を備えているので、ここでは、「もう一つの倭人伝」談義を試みています。

□晋書紹介
 晋書は、中国正史二十四史において、「史記」、「両漢書」(漢書、後漢書を合わせて、漢朝一代の正史と見た呼び方)の「三史」の後に位置し、三国志に続いていて重要な地位を占めています。対象は、西晋(265~316)、東晋(317~420)を通じた司馬晋の百五十五年間であり、一部、魏代に政権を掌握した司馬氏の功績も記述されています。

*編纂経緯

 晋書は、南朝滅亡後、隋による統一を継いだ唐において、王朝興隆の基礎を確立した太宗の治世下、重臣房玄齢によって編纂されました。房玄齢は、太祖李淵の次子李世民に仕え、太子李建成を廃して二代皇帝となるのに知謀をもって大いに貢献したことから、太宗期に重用されています。
 当時、房玄齢は、尚書左僕射(尚書省長官、筆頭宰相)・監修国史、つまり、最高位の重臣であって、合わせて史書編纂の最高権威とされ、編者とされていないものの、当時編纂のできていなかった「北斉書」・「周書」・「梁書」・「陳書」・「隋書」を総括して主宰し編纂ましたが、特記して、褚遂良らと共に「晋書」を撰したと記名されていますから、唐朝の国威を示す国家事業である諸国史編纂にあたり、特に晋書を重視したと思われます。

 因みに、南朝の劉宋、斉の史書である「宋書」、「南斉書」は南朝梁代の編纂史書が正史とされています。また、北朝魏の正史であって、時に三国志の魏書と混同される魏書は、混同を防ぐため後魏書、さらには、「魏収後魏書」と呼ばれますが、北朝斉の魏収の編纂した正史とされています。

 唐代以降、正史の編纂は、多数史官の共同編纂となり、三国志、後漢書が、個人著作とみなされたのとは時代を画しています。

*全巻構成

 晋書全巻は、三国志の六十五巻に倍する百三十巻に達しています。また、正史の要件である天文、地理などの「志」も完備しているものです。

 西晋が全国支配した王朝であることも考慮して、大部の史書としていますが、折角陳寿が、魏志の編纂で確立した切り詰めた正史のお手本を外れて、 裴松之の不本意な野史取り込み付注をも越えて、司馬氏毀損の伝聞まで盛大に収容したという「風聞」がありますが、その当否の程は当記事の圏外です。何しろ、晋書倭人伝は、一瞥で読み取れる字数ですから、山成す先入観を棄てて史料だけ読み取れば良いのです。

 いずれにしろ、晋書は、先行する晋書稿があったにせよ、東晋を継いだ南朝の滅亡によって散逸しかけていたと思われる晋代資料を、唐代の権威筋が衆知を集めて、玉石混淆の史料の山から総括したものと見られます。

 因みに、別記事で考察した「晋書地理志」は、太古(殷周代)以来の里制変遷を網羅し、大変貴重です。端的に言うと、晋が全国に布令した秦制は、実は、周制そのものであり、周代以来一貫して「普通里」が施行されていたことが読み取れるのです。

 とかく趣旨を誤解される始皇帝の布令は、春秋、戦国時代の各国が、周制を遵守せずに、長短バラバラの度量衡、土地管理制度、里制を敷いていたのを、秦制、つまり、周制に統一したものなのです。

▄倭人伝の所在・呼称

 晋書「倭人伝」では、雑駁な呼び方とも見えますが、正式に「晋書/卷九十七/列傳第六十七/四夷/東夷/倭人」条とでも呼ぶのも、長蛇の観があります。当ブログは「倭人伝」散歩道でもあり、俗を避けずに晋書倭人伝とし、本稿では、時に倭人伝と略称します。

 魏志倭人伝と同様、晋書倭人伝は、「倭人在帶方東南」の地理紹介で始まるので、中国古典書籍の呼び方では、冒頭二文字をもって「倭人」と称され、大抵は、史書の頂点から下ってそこに到る階梯数段の深さを無視して「伝」と見なされているのです。要は、具体的な記事のまとまりが「伝」と呼べるのなら伝と呼べば良いという割り切りです。

 但し、倭人「伝」と言いながら、晋書倭人伝の大要は、魏志倭人伝の抜粋に止まっているので、「伝」の要件を欠いているとも見えますし、先行史書に書かれている事項は出典を書かなくてもここに書かれていると見なせるとの観点であれば、既に「伝」の要件を備えていることになります。別に、潔癖になって得られるものはないので、当記事含め、当ブログでは、「晋書倭人伝」と呼んでいます。

 以上面倒ですが、素人なりに、確認の手順を踏んだことを書き遺すものです。

                                未完

2020年3月15日 (日)

私の意見 「倭人伝」談義の行き詰まりを歎く話~付 翰苑談義、写本談義 2/2

                              2020/03/13
■弐 史料比較論の不毛
古田武彦氏は倭人伝に「邪馬台国」はなく「邪馬壹国」であると主張したが、「三国志」は数ある史料の中のたった一冊でしかない。「翰苑」や「後漢書」の「邪馬臺国」を信ずるべきである。


*短評 知性の枯渇
 三国志は、後世で言う「正史」ですから、単なる著作物で無く歴代国家が聖典として奉じた稀覯書であり、現代の出版書籍のように、一冊と数えて済ませられるものではありません。重みが格別なのです。

 史論では、現代人の軽薄な「実感」は、一旦脇にどけて、同時代の観点を再現する必要があります。それが、現代人に求められる知性というものです。

 三国志の宋代刊本(木版印刷)自体は、少なくとも、それぞれ、数十件から数百件の範囲で、いわば、完璧に複製され、そのようにして配布された刊本を種本とした写本が、数倍規模で出回るので、数としては「極めて多数」と見るべきです。

 それにしても、総じて、関係史料三種を「数ある」で済ませて良いものか。史料の意義は冊数で済ませて良いのか。もっと丁寧に、質や重みを見るべきではないのでしょうか。このように、極論の筆が豪放に唸るのは、ご当人にとって口調として心地良くても、書かれる文字は、頼りなくそよぎ続けるので、読者の書斎まで深意が届かないのです。

*翰苑小論
 「翰苑」は全世界に「一冊」の貴重資料ですが、先賢、例えば、内藤湖南氏、古田武彦氏の早期の丹念な史料批判をたどる限り、翰苑の歴史記事は「誤記」だらけであり、また、このような孤立した、原本に対する忠実度を検証不能な「断簡」に善本としての信を置くべきではありません。両氏の史料批判は、常道に従い現存史料を是とするのが原点、出発点であるため、各記事を肯定的に見ているように解されていますが、それとこれとは別儀です。誤記が多いが、まずは書いてあることをそのまま読み取ろうというのと、無批判に信用するのとは、大きく異なるのです。

 翰苑は、貴重書として継承されたと言うものの、史書として適確に評価した場合は、原点的に受け入れるだけであり、特に、歴史記事の正確さは求られません。思うに、原史料引用のさいの軽率な扱いに加え、少なくとも一度、原本と対照した校正を怠った低質写本が行われため、端的に言うと、悉く信の置けないゴミと化しているのです。

*美文集成の意義
 翰苑は、史書ではなく、百科全書的「類書」でもなく、まずは、当時必修の四六駢儷体形式美文集であり、規則の多い文体に合う整形、改竄が見て取れます。(別記事あり)
 翰苑断簡には、別項の薬草目録がありますが、薬草名の誤写は致命的なので、専門家が逐一照合した精密な校正をしたはずです。気合いの入り方が違うのです。

*極度に粗略な写本
 翰苑自体の写本継承が、校正不備の粗略なものであるのは、影印本を一瞥するだけでも明らかです。その意味でも、大変貴重な史料です。

 付言すると、翰苑に魏書引用「臺」とあっても、原典が不正確な低質写本であった可能性や引用の際の誤記、当時常用されていたという草書走り書きによる後伝達の疑いも多々あります。

*低質写本の誤記連鎖
 唐代以後、帝都で流通している写本を担いで、遠隔地の有力愛書家に売り込む商売があって低質写本が伝播・普及した感じです。伝播写本は、「経済原理」に従うもので、俗信の通りの誤記連鎖がはびこったものと思われます。

*原本不朽の原則
 翰苑記事が不確かということは、当時、翰苑編者の身辺には、粗雑な史料写本が氾濫していたことになります。但し、数多い粗雑な写本が、帝室書庫の最善写本に遡及することはないので「原本不朽」の継承原則をご記憶戴きたいものです。

 但し、北宋末の国家大乱時に、三国志などの正史に止まらず、経書などの国宝書籍も含めて、帝室書庫書庫のみならず、良質写本、刊本を分散所蔵していた地方書庫などの所蔵本が、版刻に使用した版木まで含めて一掃される空前絶後の異常事態があり、その後、再興した南宋の初期に、各地の良質と思われる写本を糾合して、失われた帝室原本を復元する国家挙げての大事業が行われましたから、原本不朽は絶対と言えなくなったのですが、原則とはそう言うものです。むしろ、宋代、全土に流通した多数の写本を根こそぎにするのは不可能だったことがわかるのです。

 因みに、木版印刷による刊本が登場して、写本は一気に廃されたと思っている方もあるようですが、全土に写本事業があったから、刊本を種本とした写本は、遙か後代まで続いたのです。政府が刊本を配布したのは、各地に正確な書籍を配布することにより、低質写本の質の向上を図ったものと思われます。

*挑戦資格の追求
 そのような史料批判を怠り、無造作に翰苑を三国志並の正史の一冊として、後漢書と同列に論ずるのは無謀です。比較できないものを比較するのは法外です。どんぶりならぬバケツ勘定を信用してはいけません。

 また、范曄「後漢書」と「翰苑」が、僭越にも三国志と対等と言うなら、両史料の原本はあるかとか、第三者が原本を確認したとの報告はあるのか等々、厳格な史料批判の試錬に曝すべきです。学術論議は、感情や思い入れを排し、論理のみに基づくものとすべきです。

〇結語
 ここでは、范曄「後漢書」と「翰苑」が尖兵として起用されたため、両書がきつい批判を浴びていますが、別に、両書にそれぞれの意義があることを否定しているわけではなく、この手の場違い、的外れな論議が迅速に終熄するように、それぞれに相応しい位置に封じただけです。
 最後に確認したいのは、このような極論は、議論で敗勢に陥っている陣営の論者が、強引な論法で悪足掻きしていると見られて逆効果だということです。ご自愛ください。

 端的に言うと、倭人伝論は、現存史料を共通の原点として、そこからいかに自身の議論を展開するかという、公正な論戦の時代の機が熟しているように思うのです。そうでなければ、史料軽視、先入観重視の、勝手な論議が蔓延するのではないか、との危惧を感じるのです。

 各自は、自身の意見を持っていますから、自身で納得しない限り、意見を変えることは無いでしょうから、せめて、感情の起伏を抑えて、冷静に議論を辿って。ご自身の視野を広げて戴ければ幸いです。
                                 完

私の意見 「倭人伝」談義の行き詰まりを歎く話~付 翰苑談義、写本談義 1/2

                              2020/03/13
〇極論症候群の話し
 よろず、論議が行き詰まると極論が連発されるのですが、ここではネット上を徘徊して見かけた複数の「倭人伝」極論の比較的行き渡っていると見られる諸論を、ぐるっとまるめて、論法批判を含めて、丁寧に批判しました。
 これは、特定の個人や特定のブログ記事、サイト記事の批判ではないので、他人事として気楽に読み取り、その後自問自答いただきたいものです。何しろ、凡そ論客の最初で最強の論敵は自分自身と思うのです。

■壱 三国志の文献批判
『三国志』は、何度もの書写を経て継承されたものであり、原本確認できないから、記述が正しいとはとても思えない。かなりの誤写は間違いない。

*短評 根拠の無い暴言
 「何度もの書写」と言うのは、具体的に何度で問題が出るのか知りたいものですが、よく考えると、各資料に原本からの写本回数は書かれていないから、当否の検証のしようがありません。
 それにしても、咎め立てているのは百回なのか一万回なのか。大の大人が、雑駁な断言に凝っていては、困ったものです。

  1. 誤字0.1㌫以下、信頼性99.9㌫以上なら、原本は延々と適確に継承されます。
     倭人伝で言うと、全文二千余字に、一,二字誤記があるかどうかですから、慎重に全文字を校正すれば、確実に誤記を発見、訂正できるので、誤記は、ほぼ完璧に除去できます。
     官製写本は、豊富な予算と優れた人材を投入し、当然、信賞必罰、特に誤記に厳罰の下る厳しい評価に曝されるので、所要期間や労力は度外視した、つまり「経済原理」の埒外の完全主義というか、成果至上主義になるのです。

  2. 誤字10㌫余り、信頼性90㌫余りなら、一度の低質の写本で、史料はゴミと化します。
     倭人伝で言うと、全文二千余字に、二十字の誤記があることになりますから、ちょっと丁寧に見れば、誤記が多いと見て取れるはずです。つまり、その程度の写本では、写本工は、文字の適否も、書かれている意味も判断できない程度の(無)教養の持ち主であり、出来映えの確認も、字面を眺めるだけで済ませていて、そのような不出来な写本が世に出るのです。
     あるいは、類書のように、百科事典的に膨大な資料を抜粋引用する場合、引用先は概して、原典の引用もあれば、子引き、孫引きであることも多く、また、高級写本の利用には厳しい制限があるため、職業的な写本工に信頼性で大きく及ばない、性急な素人写本になるため、ほぼ確実に低質写本に陥るのです。
     そのような低質写本の発生する背景は、納期短縮、粗製濫造が利益確保のための至上目標となる商用写本の「経済原理」であり、そのようにして世に出る低質写本の数は圧倒的に多いし、また、世上に気軽に出回って人目に付くので、正史写本といえども、信頼性の低いものが至上の大勢を占めるのです。
     そして、一般読者は本来の原本を知らないので、当人にとってはそれが原本となるのです。
     こうした流れに乗っている写本の誤字は、一度増えたら回復することはないのです。

 それぞれの特質を見極めれば、現存刊本に至る何度もの写本が、どちらの写本工程で行われたか、容易に理解できるはずです。
 手短に言うと、写本の回数を数えて数値化しても、そのようなデータは、現存刊本の信頼性について何も語ってはいないのです。論者は、実務を見ずに、自身の想像で論じているのです。

*完璧主義と言うこと
 写本の信頼性は、写本工の資質と仕事の仕組みにかかります。
 太古以来、国家文書書写は、組織的に維持されていたのであり、魏晋代以後も皇帝付きに高度な知識と技術を有する専門家集団がいたのです。専門家は、簡単に養成できないので、古来、写本工や校正者を常任、恐らく世襲化、ないしは、徒弟養成にしたのでしょう。因みに、史官も、多くの場合世襲でした。

 官製写本、つまり、国家事業の写本は、最後に、写本工の書写した写本と原本を並べて最終確認し、それまで見逃されていた誤字も、ほぼ完璧に発見、訂正できたのです。つまり、誤字はとことん低減できたのです。

 もちろん、写本工程の信頼性が根幹です。世上、いくら優れた写本でも、誤写は絶滅できないとする風評が出回っていますが、完璧写本は、数次の校訂で達成するのです。もちろん、二千余年間、倭人伝の二千余字が完璧に継承されたとの断言ではありません。執務の規準を示しているのです。

*無意味な「原本確認」
 確かに三国志原本は現存しないのです。だからといって、『現存本の「記述が正しい」と言えない』とは無茶です。全ての原本は、時と共に消えるのであるから、この場合だけを言い立てる意義が見て取れません。

 確かに、先賢にも同様の発言は見えますが、よくよく見ると「史料原本は、当然残っていないので現物確認はできない(から、そこで止まらず最善の史料考察を通じ原本に迫るべきである)」との前向きの至言と見えます。諸兄は、耳当たりのよい解釈に取り憑かれているようですが、頭かじりで止めず、しっぽまで囓って咀嚼し、行間や紙背まで見通して、その真意を確認願いたいのです。なお、先賢による永年の倭人伝考究で、原本の姿は、ほぼ把握されて原点とされているのです。先賢が論じているのは、原点、第ゼロ歩から踏み出す第一歩の選択肢なのです。

 それにしても、子供に言うようなことを、感情的に書き飛ばしたら信用をなくすのです。

*自嘲合戦の兆し
 続いて、「思えない」とご本人の思考力不足を公言し、史料に責任転嫁するのは、まことに見苦しいものです。論拠を示さない私情発露は、要するに、見苦しい泣き言です。とにかく、古来、無知蒙昧に付ける薬はありませんから、これ以上の説き聞かせは控えます。

 また、おおざっぱに言うと誤写はゼロ件でありませんが、そのような大局観を漠然と述べるので無く、二千余字、つまり二千文字程度の史料だから、具体的に一字一字の精査で論ずべきです。

*証拠のない憶測
 論者も自覚しているでしょうが、いくら「かなりの誤写」と言い立てても、相変わらず、現実世界では「邪馬臺国」と書いた倭人伝は一冊もありません。新史料の発見もありません。これが、全ての議論の出発点、万人が共通して認識できる「原点」です。それを原点と認めるのに、絶大な心理的抵抗があるのでしょうが、現にそこにある物的史料を頭から否定して、何を規準に、何を論議しようというのでしょうか。

 『三国志の「誰も見ていない」原本に「邪馬臺国」とあったのが「邪馬壹国」と誤記された』との趣旨であれば、それは言っている当人にしたら、眼前の実景に見えても、実は、当人だけの夢想「現実」ですから、いかに激烈な言葉を費やし、熱をこめて弁じても、読者に伝わらないのです。
 現実世界では、いくら極論を凝らしても、その主張が立証されなければ無効です。

                               未完

倭人伝の散歩道 道草 「百済禰軍墓誌」再考 「日本」は錯覚では

                                  2018/01/08 記 2018/05/11 2020/03/15 補充

 先に印象を述べたNHKBSの盗まれた長安 よみがえる古代メトロポリスに、ある意味場違いな挿話として挿入された墓誌であるが、全文を見る機会に恵まれたので、一つの墓碑記事の文書として解釈を試みる。

*番組紹介(復習)
 当記事だけ読む人もあると思うので、重複気味の紹介を追加する。

 番組自体は、長安(現 西安)近郊の唐代未発掘遺跡が墓泥棒の盗掘にあったと露見し、関係機関の捜査により流出した大量の遺物が回収されたというお話である。
 ところが、番組中盤に、番組告知に何の紹介もない墓誌画像が登場して、新発見紛いの紹介がなされていたので、不当な紹介ではないかとNHKの報道に抗議する趣旨で裏付けを求めたのである。

 と言うことで、既報記事に記した詳しい紹介を省略するが、既に、碑文自体は全国紙に報道されていて、精緻な研究論文も登場していて、ある意味、既知の史料だったのであるが、なぜか、NHKは、これらの意見を無視したのである。
 要は、この番組の功績は、それまで、碑文拓本紹介主体で、所在不明とされた遺物現物を明らかにしたものであり、番組の本筋を外れて興味本位気味の報道となったにしても、本来不可欠なはずの先行文献調査が欠けたものである。

 ここでは、その際の批判は置くとして、入手できた先行論文を見た上で、内容の考察を少し割下げたものである。

〇文書検討
*墓誌背景

 この文書は、本藩(百済)に代々勤めた高官が、官軍によって本藩が平定された際に、官軍に降伏、臣従し、官員として重用されたことを記している。つまり、墓誌は、唐の官員としての視点で書かれているものである。(後日誌文をよく読むと、事前に、唐陣営から勧誘されて移籍していたので、本藩平定の際には、官軍の一員として百済王に降伏を勧告ことを顕彰したようであるが、これは、当記事の論議には影響しない。 18/05/11追記)

*課題確認~于時日、本餘噍
 課題部分には、「于時日本餘噍」とあるが、案ずるに、単に「餘噍」(残党)では、どこの何者か素性が全くわからないと解釈されることが懸念されるので、「本餘噍」、つまり、「百済の残党」と語っていると思う。

 そのような堅実な解釈を斥けて、いつの間にか定説化しつつある「日本餘噍」と解釈するには、そこまでの墓誌に、官軍が、百済平定時に、これと不法にも結託した「日本」なる存在をも平らげたことが記されていなければならない。

 順当な解釈を排するには、「格段に堅固な論拠」が求められるのである。

 あるいは、墓誌策定当時、「日本」が何者であるか衆知、自明であったとの仮定となるが、そのような仮定を指示する先行文書は、教養人が援用できる古典書籍に見当たらない。凡そ、墓碑は、読者に難題をふっかけるものでなく、その場で賞味されるものを目指しているので、いわば、不意打ちの新語はありえないのである。

 つまり、「日本」は、同時代の知識人である墓誌読者には、全く未知の概念で、一読して理解できないし、古典書籍に前例が無いから、墓誌編者に想定外の読解とみられる。

 そのように古典書籍に存在しない異様な用語を書き入れた不遜な墓碑は、ごうごうたる非難を浴びるはずである。

 いうまでもないだろうが、墓誌編者は、「施主」から高額の謝礼を受け取って、最善の墓碑を要求されているのである。また、当墓碑で高い評価を受けることにより、数多くの依頼を受ける同時代最高の墓碑編者の名声を求めたはずである。そこに、不都合、不出来なものが生まれるはずは無い。もちろん、草稿段階に、一度ならず施主の承認、ダメ出しを経ているから、一切手違いはあり得ない。

*百済再興の意義
 唐の視点では、百済平定は、国王が降伏し百済が亡んだ時点で完了している。その時点で、百済なる国家は消滅しているのである。

 いわゆる百済再興の戦いは、唐朝にとって、百済旧地に設けた都督府が鎮圧すべき地域叛乱であり、格別の意義は無いものと思われる。もちろん、「餘噍」はその文脈で書かれているのである。

*「日本」の関与
 先ずは、官軍によって本藩が平らげられた際に、官軍が「日本」なる半島外の援兵を平らげたとする形跡はない。詳細は省略するが、墓誌内に記述がなく、同時代の内外諸史料にもない。また、墓誌策定当時、「日本」の素性が知られていた形跡もない。

 してみると、先に提示したように「本餘噍」とは、本藩、即ち、百済の残党と解釈するのが、妥当と思われる。そのような「残党」が海を渡って扶桑に逃亡したと言うのは、墓誌読者の理解可能な事態である。

 先立つ三字「于時日」は、他に例を見ないが、「于時」と二字句が定例であるものを、墓誌の体裁上から「于時日本餘噍」と六字句にしたものであろう。字句を、文体に合わせて伸縮し、体裁を整えるのは、墓誌編者の腕の振るいどころである。

 中国側でも、百済が平定された時に半島外から援軍が来ていたとの記録はなく、墓誌策定時の視点では、逃亡者は百済の残党以外いないのである。(唐書を再読すると、「倭」の援軍に言及しているので、誤解、言い過ぎの可能性があるが、「日本」が援軍を派遣したとは書いていない。ことは、国号論であるから、意義深いのである。18/05/11追記)

〇結論
 常識を働かせて読み取ると、以上のような解釈に至るのだが、いかがであろうか。

 いや、別に当方は漢文がすらすら理解できるわけではないし、当時の事跡に特に詳しいわけでもないが、確か、書紀では、百済が唐、新羅連合軍に平定された時点では、援軍を送っていなかったはずである。史料の解釈は分かれるとしても、その際、「日本」が海峡を越えて援軍を送ったとの解釈は、見かけないのである。

 何分、自称「倭人伝専科」で、当時代、地域に関しては、浅学非才を自認しているから、素人考えの的外れの理解であればお詫びする次第であるが、知る限り「的」の片隅をかする程度のあたりはあると思っているから、ここに書き遺すのである。

 当該墓誌が知られてから、かれこれ6年経って、だれもこの解釈を言い立てないということは、とんでもない誤解かも知れないが、現物の所在が、他ならぬNHKの権威あるカメラによって、一般視聴者に広く報道されたという画期的な事態に触発されて、素人の一説として旗を揚げたものである。
                                                                                     以上

2020年3月 2日 (月)

新・私の本棚 番外 邪馬台国論争は必要なかった サイト記事批判 4/5

 古樹紀之房間(こきぎのへや) 宝賀 寿男     記2020/03/02

Ⅰ はじめに 承前
文書史料の成立・伝来の過程まで総合的に考慮する。写本に誤記や追補記事はつきもの。行程記事は、現実に倭地に出張した帯方郡使の報告書に基づくものであった。

 「写本に誤記や追補記事はつきもの」と言うのは、それは異世界の議論/空論である。「倭人伝」の誤記は、そのような空論を唱える暇があったら、具体的な証拠を持って来いという事である。因みに、追補記事が致命的に悪ければ、国内史料は、ほぼ全滅ではないかと危惧する。そんな断罪を放言して、氏の身分は危ういのではないか。冗談はさておき、漠然たる断言は、史料の実物を精査した上での発言でなければ、無責任な放言である。

 唐突な行程記事論は、倭人伝道里記事と無関係である。何が「現実」か、二千年の後世人には、全くもって不審であるが、氏の行程記事の素人理解が不明なので簡単に答えられない。そして、こじつけの目的となっている、断じて譲れない所在地論はどうなのかである。

原文が漢文なのだから、教養ある中国人が普通に読んで、読みとれる内容を考える。

 趣旨不明の放言である。原文が漢文古文なのは、衆知なので、この念押しは読者を馬鹿にしていることになる。不遜である。

 取り立てて言うのも辛いのだが、史料として依拠できるのは原文だけである。倭人伝の翻訳物は、全て、少なからぬ(多量の)誤解を含んでいるので、翻案ものであり、安直に信じてはならないというのが「よい子の常識」であるが、氏にとっては常識でないようである。それは、多少一般教養に富んでいても、現代の普通の中国人が読むとしても、大差ないのである。

 「倭人伝」は、「当該時代の古典素養を有する数少ない中国人」、つまり、魏晋朝高官など三世紀の教養人向けの課題であり、後世人を含め、無教養な者が気軽に読んで、読み解けるものではない。中国人といえども、不勉強なものは、読解できないのである。
 陳寿の知性と教養を見くびってはいけない。

当時の倭地の習俗・祭祀・産物(鉄や絹など)・動植物などの記事も考慮する。ただし、これが決定的な判断要素になるわけではないことにも留意。

 雑駁な放言である。倭地に産鉄はないので、鉄遺物の意味か。とは言え、正確に記事を解読すればの前提であれば、それなら、「かなり重要な判断要素」となると見るのが順当ではないか。

地名の長期保存性も考慮する(中略)

 「地名の長期保存性」は、時代錯誤で意味不明な放言と見える。

東夷伝はもちろん、『三国志』のみならず、中国正史の全体(とくに『後漢書』~『新唐書』の合計十一正史)のなかで考える。その他、朝鮮半島などの関係史料も含め、東アジア全体の総合的視点からの検討も当然必要。

 色々、雑多な資料を採り入れよと言うが、何を指すのか不安定である。後代資料は、まずは排除すべきではないか。そうでなければ、人の採り入れられる量を遙かに超えているのである。「倭人伝」の二千字程度はとっかかりとしても、直後の魚豢「魏略」西戎伝は三千字余りあり、豊富に書き込まれている地名、道里などを読み解くのに要する努力は、並大抵ではない、そして、まだ、「魏志」完読には遠い。いつ、議論が始められるのだろうか。

 要は、「邪馬台国」という語が基本文献『魏志倭人伝』において一個所しかない以上、当該文献を主体にして具体的総合的に考察することが必要である(このことを強調する見解は、これまでも多くある)。学究でも、基本文献をきちんと読んでいない方々がかなり多く見られ(読んでいても平気で記事を無視する方々も多い)、これがつまらない論争が永く続く要因になっている。

 部外者で見過ごしかも知れないが、前段で大風呂敷を広げて、読者を煙に巻いた上で、突如、「要は」は見当違いである。

 論戦混乱を振り払って、基本の基本に還ると、魏志倭人伝に「邪馬台国」はない、との認識が、諸論の原点ではないか。論議は、目の届く、手の届く範囲で煎じ詰め、正しく議論できたら、一段広げるのが常道であろう。

 ちなみに、氏の難詰する「方々」が、氏の提言するような当然の理屈を平気で無視したか、それとも苦渋の決断で回避したか、万能の神以外にはわからない。恣意的感慨を押しつけては、反対陣営を説得できるはずがない。

 なお、記紀も本来は参考になる面がないでもないが、恣意的な解釈に流れるおそれが強くあり、論者によっては反発もあるから、基本的には利用しないで対応するのが無難な線。

 事は、難、無難を言うべきではない。感情的な反発を是認して韜晦するのはどんなものか。

 記紀は、数世紀後の異国/蛮夷のものであるから、「倭人伝」時代、「倭地」なる地域との関連性が希薄で(つまり、無いに等しく)、従って、あくまで、あくまで、参考利用に止まるのは自明である。そして、どんな史料も、参考としての利用を排除することはできない。

                                未完

新・私の本棚 番外 邪馬台国論争は必要なかった サイト記事批判 1/5

 古樹紀之房間(こきぎのへや) 宝賀 寿男     記2020/03/02
邪馬台国所在地問題の解決へのアプローチ

〇はじめに
 当記事は、サイト記事の批判という事で、番外も良いところなのですが、まずは、商用出版物を多数公刊されている著者であり、氏の持論が熟慮の上公開されているので批判して良いと解したものです。また、氏の著書に、当分野のものが見られないので、ここで議論するしかないと見たのです。定めしご不快であろうが、非礼は、ご容赦いただきたい。

 失礼ながら、当サイトで長らく公開されていても、多くの目に触れているとは思えないので、当ブログで具体的に批判することで、氏の方法論を広く公開するとともに、当方の意見の食い違いを明瞭にしたので、重ねて、失礼に当たる点は了解いただければ幸いです。

 早々の概評ですが、氏の提言には、論争時の人格攻撃、戦線拡大、論拠韜晦など、悉く、非勢の側が試みる延命策の常套手段の響きが見られます。少なくとも、当記事は、前振りの謙虚な口ぶりはどこへやら、全体に剛腕で快刀乱麻の運びですが、頭隠してでしょうか。素人目にも、もったいない話です。

〇本文
 本稿は、当初は簡単なレジメ風のものを考えていましたが、多くの書・論考を読み込み、それに応じて書き込んでいくうちに、次第に長いものとなってしまいました。そのため、本稿を読まれる方々は、表題のテーマに関心が強い場合は、「Ⅰ はじめに」を読まれた後に第二部のほうに飛んでいただいても結構です。所在地論に関心が大きい場合には、このまま順に読み進めてください。書いた当人としては、読む順番はともかく、両方をきちんと読んで記事の趣旨を把握していただくのが良いのですが、その辺はご随意にということです。

Ⅰ はじめに

 前言:俗に「信じる者は救われる」というが、上古史研究にあっては、まず信じる者は救われない。考察にバランスの取れた冷静さと合理性を欠くと言うことである。

 タイトルで問われるのは、(日本)上古史、つまり、記紀以前の列島内古代史でなく、中国古代史である。著者は、前者を説いているだろうが、対象史料は後者であり、「部外者所感」との先入観を持たれるのである。

 だから、古田武彦氏のように徹頭徹尾、陳寿を信じるという姿勢は、編者の陳寿は万能の神ではない(西晋では治書侍御史〔検察秘書官的な役割〕で、著作郎の官歴もあるが、陳寿の『三国志』自体も元は私撰にすぎない。その魏志の東夷伝倭人条も、普通に読めば雑然としている感がある。当時の古典の全てに通じていたわけでもない)のだから、信念はかえって合理的解決の妨げとなる。

 世の中には、「徹頭徹尾陳寿不信」論が根強く、古田氏の言は、売り言葉に買い言葉の感であり、氏の発言を、原文も文脈も示さず、断定的に断じるのは、公正に欠けると思われる。ことさらに名指しする以上、代表著書を示すべきではないかと思われる。
 私見では、古田氏の「姿勢」は「陳寿が責務を果たしたと信じる」という妥当なもので、推定するに、陳寿万能信仰ではないと思われる。「古田氏の信念」観は、氏自身の万能の神(全知全能の意味か?)のものだろうか。

 なお、「私撰」の理解が、私人編纂と言うことなら、それは大きな誤解である。私人による史書編纂は「重罪」(死罪必至)であったし、私人は公的資料を一切参照できないから、不可能犯罪でもある。

 わざわざ、根拠を示していない放言に反論するのも難儀なのだが、陳寿は、ただの人間だったから、史官としての職に耐えるだけ古典に通じても、当然「全て」ではなかった。また、いくら慎重を期し、校閲を経ていても、その著作には、間違いや勘違いもあり得たのは当然至極である。当然、あらゆる記事の疎漏を、漏らさず全部是正したわけでもない。史官として、その欠点が、普通の史官より格段に少なかっただけである。もちろん、普通の者は、到底、周到な訓練を経た史官に及ぶはずが無い。以上、当然の推定で、特に、根拠を示す必要はないはずである。一方、当然でない発言には、論証が不可欠と考える。

 余談ながら、氏は、三世紀中原人並みに原文が読めるのだろうか。「普通に読めば雑然 」と何気なく書いているが、倭人伝を普通に読めるとは、当聖人の窺い知ることも困難な至高の境地なので、そう言われても、素人には信じがたい(信じられない)というのは無礼だろうか。

                                未完

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