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2020年4月17日 (金)

私の意見 「倭人」景初貢献 雑感の試み 1/2

〇はじめに
 以下に述べるのは、東夷「倭人」が、三国時代の曹魏景初年間に洛陽に遣使したという故事に関する雑感ですが、エッセイ(小論文)などと分不相応な権威を押しつける意図ではなく、時代考証を試みたに過ぎません。従って、正誤判定は無用で、筋の通し方の一例とみていただければ幸いです。

*契機発端
 魏明帝の景初年間早々の帯方郡回復、つまり、公孫氏支配下の帯方郡に乗り込んで、太守以下の郡幹部を更迭し、魏朝直轄に回復した新任郡太守は、皇帝に面目を施す画期的な手柄として、周初期事績として史書に名のみ記載され、以後、所在不明の「倭人」の帰順を演出したのが、事の契機と見ます。
 ひとつには「倭人」は自称でなく帯方郡の発明した登録名との説です。

*明帝談義
 因みに、曹魏明帝は崩御後の諡ですが、事績特定に諡を使うのは定例です。また、元号に皇帝の諡を冠するのは在世中に限り、皇帝没後、新帝のもと元号が継続した時は、元号無冠が「春秋」以来の習わし「春秋の筆法」です。

 「明帝」の諡に悪い趣旨はないようなので、先賢に従い明帝と呼びます。

*参詣指示
 新太守は東夷「倭人」に可及的速やかな出頭を指示しました。市糴商用や自発参上であれば、道中関所が荷物を啄んで目減りし、辿り着いたときは見る影なしですが、倭使は郡過所、通行証で郡御用と名乗り被害を軽減したのです。

*鴻廬申告
 郡が、受け入れ部門である鴻廬に上申したのは、この東夷は、周朝初期に服属し以後消息不明の「倭人」であり、帝国の四夷評価基準で最遠一万二千里の遠隔であって、かつ絶海の境地と申告したものです。

 鴻廬にかく申告すれば、「倭人」は至高の東夷とされ、一万二千里の遠隔地からの来貢には、官制に従い、最高の黄金印綬、金印東夷の栄が与えられ、魏朝四夷伝に大書され、郡太守は格別の功臣と評価されるはずです。

*後漢金印談義 余談
 後漢書には、東夷倭奴国が創業者光武帝に貢献し、印綬を下賜されたとの記事がありますが、黄金印と書かれているわけではないのです。

 漢代、来貢した四夷の王と使節人員に気前よく印綬を下賜しましたが、大半は青銅「金印」であり、特段の高温を要する高貴金印は、身元不確かな小国には下賜されず、特例は特筆されたはずなので、金印の先例は不確かです。

*倭人来貢
 世上、倭人来貢趣旨が軽視されていますが、自主的に郡に来たのではなく、郡が呼集したと見るべきです。また、一万二千里の遠隔として紹介されているから、持参した貢物が質朴なのも、むしろ当然なのです。

*皇帝激賞
 皇帝は、前世の秦、両漢時代どころか、太古の有周、周朝に並ぶ威勢と見て大いに悦んだのであり、国庫浚えの大盤振る舞いは当然だったのです。

*皇帝の野望
 明帝曹叡は、後漢朝を瓦解から復興した武帝曹操、後漢朝を退け魏朝を創始した文帝曹丕が、二世紀に亘る偉容に辟易したのに対して、「烈祖」の廟号を用意し、新創業を企てて父から創業の栄誉を奪い取る気でいたのです。

                                未完

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