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2020年4月17日 (金)

私の意見 「倭人」景初貢献 雑感の試み 2/2

*明帝野望の背景
 明帝は、先帝夭折で若年即位のため、古参重臣が多く、政権幹部たるべき同年代諸侯は、若く地位も低く、皇帝は老臣の諫言と苦闘していたのです。

 皇帝自身、古制の拘束を克服する格別の功名を必要としていたのです。

 かくして、格別の帝詔と壮大な下賜物は、明帝の野心表明と見えます。

*景初二年の遺命
 俗説のように、少帝曹芳治世の事歴なら、倭人への下賜物は質素となり、帝詔は魏志に収録されるものにはならなかったと思われます。

 倭人伝は、明帝健在時に全てが決裁、施行されたとの観点です。

*新帝の取り組み
 明帝没後の新政権は、明帝遺命により盛大な新宮殿造営事業を取りやめました。天下は未だ三国鼎立の戦時だったからです。一方、国家行事縮小に関わらず、下賜物が維持されたのは先帝遺命の詔書によると思われます。

*不釣り合い史観是正
 因みに、現代の俗な価値観を丸出しにした、倭人献上と明帝下賜が不釣り合いとする粗雑な見解が俗耳に馴染んでいるようですが、当事者、つまり、明帝の心情、価値観を察しない時代錯誤の意見です。明帝は、「倭人」来貢の画期的慶事に対する下賜物選定で、経済的な釣り合いは眼中にないのです。

*下賜物配送
 下賜物の輸送は、帯方郡まで青州、郡からは郡の責任でしょう。詳しく言うと、出先機関所在地らしい狗邪(韓国)への街道は郡責任、以降の倭地は倭人責任ですが、事前指示で街道整備、労務手配が整っていたはずです。

 世間には、狗邪に岸が着いてから乗船手配したとの解がありますが、郡を随分見くびっています。事前指示で乗船は抜かりなく用意されます。郡太守は、腕を振るって、疎漏のない手配を進めたはずです。

 郡太守は、いわば、お山の大将でしたが、あくまで一官吏であり、洛陽で更迭の声が出れば、一片の書面で首が飛ぶのです。

*魏使の権威
 正副使は、郡官人ですが、魏朝使節の権威は、いささかも変わりません。
 と言うことで、郡使と見るのは、大きな見当違いです。

 そもそも、皇帝の代理人に任じられた帯方郡官人は、もともと東夷統轄を任として新任太守と共に着任し、先帝の意向を奉じていたのです。また、随行書記役と通詞は、古参の郡能吏です。いや、無能なら、解任、更迭されたろうから、そう推定するのです。

*文林郎と鴻廬寺掌客
 後年、隋代に、当時の帝都長安から東夷の俀国に隋使が派遣されたのですが、隋使が、文林郎や鴻廬掌客の様な下っ端役人でも皇帝の名代であり、俀国国王の上座に座るのが使節の格というものです。いや、そもそも、隋使が、蛮人応対役の下っ端役人「掌客」を自称するはずがないのです。

〇終わりに
 やっと、魏使到着となり幕引きです。
 それにしても、現代人の国内視点を古代文献に無造作に塗りたくる諸説取り混ぜての倭人伝諸釈の、資料を起点とした是正は、かくの如く、拭えどきりのない、悪夢のような妖怪退治です。素人さんが、渦巻く雲の混沌と見ても、当然ですが、雲の下は人界であり、魔境や仙境ではないのです。

                                以上

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