09. 自稱大夫 - 読み過ごされた遺風 補充版
2014/04/29 補充 2020/05/14
〇大夫の由来
「大夫」が、秦・漢の官制で庶民の爵位であり、これを高官とするのは、遙か周制に遡るものと理解していました。
しかし、東遷以前の周朝の王都は、関中にあって後の長安に近く、東夷からすると遙かに西方の内陸で近づきがたいものであり、かといって、後の洛陽に近い東遷以後の周朝は低迷したのです。つまり、はるばる来貢した蛮夷が、周朝の官制について何らかの資料を持ち帰って、国内にその制を敷いたとは見えないのです。
*地に墜ちた大夫
衆知の如く、周が亡んだ後の戦国を天下統一した秦は、周の官制を捨て去り、自国の官制を天下に敷いたのですが、その勲爵制では、「大夫」は、単なる庶民階級となっていたのです。そして、漢は、秦の制度を引き継いだものです。
文字記録を知らない未開の東夷が、そのようにして学びとった、太古の大夫の制度を、秦漢制を受け付けずに数世紀後まで遺していたことには疑問を感じてました。
*新の復古
このたび、王莽の創設した新王朝の官制について調べたところ、「大夫」が政府高官の地位を与えられていたことがわかりました。
王莽は、新朝創設の始建國元年(9年)に、漢王朝の官制を根本的に改めて、十一公を最高の官位とし、これに従う官として「九爵」を設けています。
各爵には、下位官職としてそれぞれ三人の大夫を設け、各大夫には、下位官職として三人の元士を設けています。
つまり、十一公、九爵、二十七大夫、八十一元士が、新朝官制の頂点に形成されたのです。
言うまでもなく、このような官制は、周朝制度の復活を意図したものです。
歴史の流れを知っている現代人は、新朝が砂上の楼閣であり、その崩壊は必然であったように思いがちですが、当時、二百年続いた厳然たる漢王朝の全土支配体制を「正しく」引き継いだ政権であり、その威勢は百年もの、確固たるものと思われていたはずです。
まして、新朝の積極的な内外への覇権誇示の姿勢は、退潮気味であった漢朝末期の不振を払拭するもののように見えたでしょう。
従って、新朝の新官制は、四夷に伝達され、大夫の地位は、再び大きく高められたものと見えます。
*後漢黎明期の入朝
後漢光武帝建武中元二年(57年)の倭奴國入朝は、新朝からの政権交代直後であり、すでに、文明の光が及んでいた東夷に半世紀前に復古した大夫制度が残っていたとしても不思議ではありません。
*范曄創作疑惑
あるいは、陳寿の三国志編纂の百五十年後に後漢書を編纂する偉業に取り組んだ笵曄は、魏志東夷伝に先立つ東夷記事を構築する際に、工作を施したと見えます。実際、光武帝時代から、桓帝、霊帝までの一世紀余りは倭伝史料の無い空白の世紀ですから、例えば、「倭國大乱」は、風評に過ぎないことになります。
ここに「使人自稱大夫」とあるのは、魏志が初見のように書き立てている「倭人」は、実際は「倭奴」の美称に過ぎず、後漢代に既にその正体は知れていたと見せかけたようにも見えます。
して見ると、倭伝冒頭で謳い上げた「大倭王居邪馬臺國」は、漢武帝期以来の倭に関する時代不明の創作であり、後に三国志の守備範囲である献帝期、建安年間を避けるように遡行させた「卑弥呼」共立記事と相俟って、倭国/倭人の来歴をずりあげて、魏志の景初入朝記事を陳腐化させるべく創意を凝らしたのかも知れないのです。
范曄が、後漢書西域伝編纂に際して、原資料を風聞として廃棄して大がかりな創作をこらした事例から見ると、倭奴国使人が大夫を自称したとわざわざ書き込んだ手口は、そのように疑いたくなるのです。
倭人伝の「大夫」は、そのような波紋を巻き起こしている重大な一言なのです。
以上
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