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2020年5月

2020年5月27日 (水)

新・私の本棚 番外 邪馬台国ブームに火をつけた男の情熱 2/2

 推定地今や50超..    編集委員・宮代栄一  朝日新聞デジタル  2020年5月14日

*尊大な初心者たち
 国内史料などの異分野で築いた広大な歴史ロマンの愛好家、ホビーストの根拠なき自尊心が、上質の中国史料に直面した時に要求される、一介のアマチュアとしての謙虚な学びを疎外しているように見えます。これは、純然たるアマチュア初心者より質(たち)が悪いのです。実際は運転未熟なのに、なまじ、暴走運転するだけの能力、技術が備わっていると名声が漂っているため、無批判に追従する衆生が結構あり、誠に危険です。
 特に、論拠に自信が持てない時に、大言壮語して、気迫で押しつぶす論争術は一段と危険なものです。この厚顔無恥の姿勢に、多くのアマチュアが無批判に追従している風潮は、実に重大な暴挙拡散です。

*求められる資質
 「きちんと史料批判」と言うからには、当の史料は当然として、同時代同環境の史料を、自力で読み解(ほぐ)す読解力を求められているのです。

 史料読解力が不足し、学習力もない、古代史権威者という「仮面の似而非アマチュア」諸説が、堂々と氾濫しているのを見ると、倭人伝に真摯に、かつ堅実に取り組む純正「アマチュア」は、簡単に排除できないものと見ます。

 氏が、自身、中国文献を読解してのご意見かどうか、記事からは知り得ませんが、折角の断定の論拠がぼやけているので敢えて書き出すのです。いや、偶々、氏の発言が基点となっていますが、氏がそうした世相に無頓着だと言っているのではありません。ちょっとした石ころに躓いただけなのです。

*一つの失敗事例
 因みに、付随する記事で、高島忠平・佐賀女子短期大学名誉教授が謙虚に指摘の事例が著名です。
 国内古代史学の泰斗、小林行雄・京都大名誉教授が、木津の墳丘墓から多数出土した銅鏡、三角縁神獣鏡を見て、これは卑弥呼が百枚下賜されたと倭人伝にある魏鏡であり、各国に配布する任務を与えられた地域支配者の手元に大量集積されたと絵解きしましたが、中国視点から見て、魏が女王に下賜した銅鏡は三角縁神獣鏡と別物です。

 また、広域国家が未形成であった有り様から見て、当時貴重な財貨であった銅鏡の配布を、服属関係にない別地域の支配者に付託できるはずがないと想定されます。いや、服属関係にあっても、そのような壮大な付託はあり得ません。そもそも、厳命された地域支配者が、大量死蔵するなど許されなかったはずですし、厳命を厳守させなければ、上位支配者の権威はないのです。

 小林氏は、長年醸成した所説による妥当な考察と自負したと思いますが、当方のような素人が、氏を忖度しなければ、根拠の乏しい推測だったのです。

*古代史浪漫派公害
 古代ロマンに心酔した「浪漫」派学者は、ある意味、「アマチュア」同様であり混沌の中から湧き出た自身の卓見に陶酔して、きれいな結論に飛びつき、我を忘れて自己陶酔するために判断を誤るのです。

*素人の誤断・玄人の誤断
 素人が誤断すれば、その害毒は素人の身辺ですみますが、泰斗が誤断すれば、広く長く漂う暗雲となるのです。

*糺し難い偉大な誤謬
 高島氏は、そのような失礼な言辞を物してはいませんが、当記事の最後を占める意見である以上、学界の一部にある「アマチュア」排除に対する、強い反論と忖度して、素人考えで、全く勝手、不遜に発言するのです。

〇最後に
 全国紙は、冷静な「史料批判」を、本気で称揚して「浪漫」派跳梁の抑制に努めていただきたいものです。

 報道媒体としては、各方面に差し障りはあるでしょうが、近来、素人目にも「浪漫」派偏重の非科学的な発表が目立つので、自制を望みたいのです。いや、決して、当記事を誹っているのではないのはご理解いただきたいのです。

                                以上

新・私の本棚 番外 邪馬台国ブームに火をつけた男の情熱 1/2

 推定地今や50超..    編集委員・宮代栄一  朝日新聞デジタル  2020年5月14日

私の見立て ★★★★★ 適確な紹介と論評     2020/05/27

〇はじめに
 当方は、朝日新聞の購読者ではないので、掲載当時は気づかなかったのですが、十日ほど経って邪馬台国の会サイトの紹介で気づき、朝日新聞デジタルの会員記事を確認したのです。
 記事全体は、簡潔にして丁寧な構成であり、「まぼろしの邪馬台国」なるベストセラー書を世に送った宮崎康平氏の功績に、ふさわしい脚光をあてていて、当今のジャーナリズムには珍しく冷静な記事です。

*躓きの滑り出し
 但し、導入部の部分に、次のように、当節定番と言える誤解を振りまいて感心しません。
 日本古代史最大の謎といわれる邪馬台国。3世紀に編纂(へんさん)された中国の歴史書「三国志」の「魏志倭人伝」に登場し、当時の日本列島の国々の盟主的存在だった同国の女王・卑弥呼は、239年に魏へ使者を送り、金印や銅鏡を下賜(かし)されたと伝えられる。だが、その国のあった場所は、いまだにわかっていない。

 「当時の日本列島の国々の盟主的存在」は筆が踊っています。「当時の日本」でないのはさすがですが、古代史用語「日本列島」は誤解を招きやすいので、丁寧に列島西部と言うものでしょう。当時「畿内」も吉備も盟主に仰いでいなかったと見ます。厳しく言うと「国々」も誤解を誘い不用意です。
 遣使は、238年ないし239年というものでしょう。不用意です。
 いや、当節定番というように、記事を起こすほどの大問題ではないのです。

*解けない疑問
 最後が、大事な疑問です。「当時の日本列島の国々の盟主的存在」であったのなら、それにふさわしい栄誉で末永く後継されたはずであり、その国のあった場所は不明の筈がありません。
 王宮の場所が知れないというのでしょうか。確かに、飛鳥時代の王の居処は、知れていないことがありますが、飛鳥地域の内部と知れているのです。ここに説かれているのは、国内史料に一切登場しない「まぼろし」です。

 こう書かないと、記事が成り立ちませんが、一般読者に、日本列島には脈々たる系譜が刻まれているという誤解を植え付けるのは、大新聞の取るべき姿勢でないように思います。

〇 隠れた本題
 言い忘れていたようですが、記事本体部分には、特に文句はありません。
 そして、以下の論議は、記事自体に基づく批判ではありません。記事が引用する談話に触発された、重大な問題提起です。

*無免許論議は禁止か
 末尾で鈴木靖民国学院大学名誉教授は、「アマチュア研究者が中国の文献である魏志倭人伝をきちんと史料批判するのはなかなか難しい」と論じます。
 まず、氏の世代が「なかなか難しい」と言う時は「事実上不可能」の趣旨の全否定、断言と酌み取るべきです。日本語といえども注釈が必要です。

 言うならば、無免許の素人は、公道を走るなと言うお叱りです。

*もう一つの無免許暴走
 しかし、冷静に眺めると、「アマチュア」研究者を倭人伝論議から排除すると言っても、当分野には、別の種類の無免許運転が横行しているのです。

*異分野での新境地順応
 国内古代史の研究者は、いかに権威でも、中国文献に関して適切な専門的知識がなければアマチュアであり、適確な史料批判は「大変難しい」のです。でありながら、一人ならず、尊大な態度で、頭ごなしに、中国史料の罵倒を繰り広げるから、「きちんと史料批判」などはなから無視していると見えます。
 要は、国内史料で形成した所説に反していると見てとって、山ほど「塩を撒いて」いるのですが、それは、権威者の保身であって、新参者の取る態度ではありません。

 これを、無免許運転と言わずにどうしましょうか。

                                未完

2020年5月21日 (木)

新・私の本棚 番外随想 淀川水系の終着地 木津川恵比寿神社と椿井大塚山古墳 追記 図版補充

                  2020/05/20 図版補充 2020/05/21

Kizu_001

 *東西交易の東の終着地
 今回、三年余りを経て、当記事を再確認したのは、淀川水系水運の要地であった木津は、瀬戸内海航路未形成の時代、東西交易の東の終着地として繁栄していたのではないかという考察によるものです。
 しきりに書いているつもりですが、ここに掲げているのは、論考ではなく随想であり、フィクションに属する書き物ですから、論考としての不備を攻撃するのは、ご容赦いただきたいのです。

*越すに越せない難所
 時代経過で変化しますが、三世紀当時、瀬戸内海航路には、淡路島南北の明石海峡、鳴門海峡以外にも、西端の関門海峡、四国北部と中国の間で多島海の岩礁が障害となる芸予諸島備讃瀬戸とも一カ所だけでも途方に暮れるような難所があって、これら全部を乗り越えて積載量のとれる荷船を運用する安定した交易が発展していなかったと(勿論、勝手に)みているのです。

*難所回避の試み
 別記事で、難所を避ける一説を述べましたが、その場合、西の九州島岸から海上移動して北四国に達し、一部丘越えもして辿り着いた燧灘沿岸沿いに東に進んだあと、突き当たりで本格的に上陸して丘越えの吉野川を東行し、最後は鳴門海峡の東に降り立つ「断然難所回避」経路が採用されていたのではないかと(勿論、勝手に 以下略)見るものです。そこから先は、特に難所のない河内湾、茅渟の海から、滔々たる淀川水系に入るのです。

*絶えない流れ
 勿論、そのような経路が通じていたとして も、東西交易としては、細々としたものであり、随所に背負子による陸路の荷物送りが介在していたため、物資の移動速度は、今日の眼で見ると遅々したものでしょうが、何しろ、「途方もない難所」の連発する経路は、根っから通過不能ですから、細々としていても繋がっている流路は、近隣に競争相手がなく、絶えない流れになっていたのではないかと思量します。

 ともあれ、荷物が河内湾岸まで届きさえすれば、後は、淀川水運で易々と運べますから、水が低きに流れるように、木津川政権に物資が流れよったものと見えます。古人曰く「流れる水は先を争わない」のです。

Kizu_002

*語られざる木津の繁栄
 そのような水運の終着地としての木津の繁栄が、いつ始まったのか、いつまで続いたのか、確かな記録は聞いたことがありませんが、色々考え合わせると、木津は、三世紀当時、燦々たる輝きを放っていた「東都」であったように思えます。
 古墳の遺物は無言ですが、無類の栄華を推定させるのです。

 また、木津の繁栄は、考古学者が認めるように、三世紀当時、巻向方面への物資の流れが、さほど潤沢でなかったことの説明にもなるのですが、古墳時代前倒しの大方針に逆らうので、大方の同意は得にくいでしょう。

*東都の誉れ
 西の伊都が半島を経た大陸交易で栄えていたのと比較すると、「東都」は虚名と見え、随分みすぼらしいかも知れませんが、同時代・同地域の世界観では、木津の天下は、木津の目が届き、やすやすと行き着ける範囲であり、到達に数か月を要しかねない伊都は、交易の鎖の彼方であるから、恐らく行き着くことのない異界であり天外だったので、精々風聞であり、木津は「天下第一」だったのです。ちなみに、鉄道の終着駅は、同時に始発駅でもあります。

 と言う事で、お話の細い鎖が、辛うじて繋がったところで、筆を置くのです。

                               以上

〇追記 2020/05/21

  ここに提示している淀川水系を経た木津川水運を、まずは、後世の平城京地区への道のり、あるいは、古墳時代の纏向への運送を想定して、定説とされているように見える大和川水運ないしは竹ノ内街道越えの河内経路と対比してみました。

 

 大和川は、素人目にも、季節によって水量が大きく変動する、激流で蛇行が激しい暴れ川であり、浅瀬も多いので、水運には、とことん不向きと見えます。また、二上山を越える竹ノ内街道は、図示するまでもなく、つづら折れの長い山道のため、図上の見た目より遥かに長い道のりです。つづら折れの旧道があったと言う事は、背負子で担いで登る行程だったのでしょうが、最古の古代街道ですから、大量輸送には向いていなかったと思われます。

 これに対して、木津から平城京地区への道筋は、精々背の低い「なら山越え」であり、道のりも片道十㌔㍍に及ばないので日帰り行程になっています。纏向となると、片道二十五㌔㍍程度ありそうですが、別に、木津川からそこまで届ける必要はないので、手近の「駅」で荷を下ろして、その日のうちに木津川に帰れる想定です。いずれにしろ、以後の道中は、大した難路のない古代街道になっています。

Kizu_003

 もっとも、纏向は、ぱっと見でわかるように、盆地東部に偏しているので、河内からの輸送は、さほど便利ではなかったのです。

 ブログ記事では定番のGIFですが、特に手の込んだ作図はなく、グーグルマップの提供する展望図に注釈を加えただけ、つまり、グーグルの規定通りの利用に止めています。

以上

2020年5月20日 (水)

新・私の本棚 番外随想 淀川水系の終着地 木津川恵比寿神社と椿井大塚山古墳 2/2

                    2017/02/11 2018/12/10 補充 2020/05/20
*鄙の氏神
 さて、移住集団が最初に行うことは、神社の建立です。氏族の氏神に父母、祖父母をまつり、氏族集団の統御の象徴とするのです。それらしい神社を求めて探すと、木津川市加茂町の恵比寿神社が目につきました。

 木津川市サイトに公開の社伝によると、鎌倉時代末期、元弘年間創建としています。公式記録は尊重しますが、それ以前に神社がなかったのではないように思います。社殿の説明板によると、古文書らしい「蛭子明神記録」には、鎌倉時代寛元二年(1244)の棟札があったとされ参考になります。

 つまり、公式記録の元弘年間創建は、それ以前の神社を改装したということでしょう。創建したのなら、どこそこの恵比寿神社から祭神を招いたとあるはずですが、特にないから、あるいは、近畿最古と思うのです。特に証拠があるわけではないのですが。

*ひるこ幻想
 「えびす」の発音ながら、ことさら「蛭子明神記録」というのは、伊弉冉(いざなみ)伊弉諾(いざなぎ)の両神から生まれた「ひるこ」かもしれないのです。
 創世神話で、ひるこは早くに生まれたものの両親の意に沿わず、幼くして捨てられたとありますが、実際は、両親の意に反して家を出たために家系から外されたという見方も、独善を承知で、しようと思えばできるのです。

 緩やかに解釈すると、ここに定着した集団は、いずれかの時点で母国を離れた反逆児かもしれないのです。そうした推定には証拠はないのです。

*神社の継承
 古代以来、各地に無数といえるほどの神社が建立され、ほとんど廃社になった例を聞かないので、当神社は、古代木津政権の氏神の後身ではないかと思うのです。おそらく、この地が、氏神にふさわしい地形、方位であり、他に代えがたかったと感じるのです。

 先ほど、鄙と書きましたが、当時の人々にしてみれば、住めば都、ここが世界の中心だったはずです。

 近年まで、木津川対岸えびす岩に船で渡る神事が長く維持されていたということですから、時代が下っても、えびすさんは、地元住民の尊崇の的なのでしょう。

 木津川市サイトの解説では、社殿は、鎌倉時代創建ながら高床式建物といいます。おそらく、古代創建であり、その後、木津川の氾濫などで損壊して、再建されたのでしょう。

 西宮や堺に漂着した恵美須神社ご神体は、案外、木津川氾濫が由来かも知れません。となると、当地は、湾岸各地の恵美須神社の総本山ということになりますが、どうでしょうか。

 以上、あくまで推定です。

*おことわり
 以上のつじつま合わせで、一応もっともらしいお話になったように思うのですが、実は、以上は、すべて、ある一日(「建国記念日」)の午後に、PCでネットを彷徨いながら、古代に生まれ繁栄し、やがて、衰退して歴史に名を残さずに埋もれた一地方政権についての幻想を綴りあげたのです。

 決して、木津川市に実在する古墳や神社の古代歴史を勝手に書き換えて迷惑をかけようとしたものではないのです。あくまで、あくまで、「フィクション」です。

                               以上

新・私の本棚 番外随想 淀川水系の終着地 木津川恵比寿神社と椿井大塚山古墳 1/2

                       2017/02/11 2018/12/10 確認 2020/05/20
*はじめに
 木津川恵比寿神社にたどり着いたのは、元々、別の記事で批判した小林行雄氏の論説で古代の銅鏡配布の一大拠点とされている椿井大塚山古墳の被葬者、「木津政権」首長の故地をPC上で散策したものです。現地に行ったことはありませんが、随想を綴れるだけ詳しい状況を探ったのです。

*木津政権の萌芽

 グーグルマップで椿井大塚山古墳の位置を探すと、話に聞いたとおり、JR奈良線の軌道が横切っていて、広く見渡すと、ここは大阪湾から遡上した淀川水系の木津川の東岸であって、木津川は、南した後、大きく東に転じL字型の流路が開けています。

 木津川の西岸にはJR片町線が走っていて、南のJR木津でJR奈良線と連絡します。いわば、河川水運、陸上交通の両面で、要地を占めていることが見て取れます。いずれの時代か、いずこからか河内湾に来航した船団が淀川に入り、それぞれ好適と思われる地点に定住者を下ろしては遡上し、ここに一団が定住したようです。

 ずいぶん長い期間を要したでしょう。同じ淀川水系でも、木津川以外の支流である宇治川を遡行して琵琶湖に到着した集団や、桂川や賀茂川を遡行した集団もあったとも思われますが、その経緯は不明です。
 
*大いなる繁栄

 確かなのは、木津川流域のこの地点に定住した集団が、木津川の豊富な灌漑水量と水産資源を生かした農漁業で十分な食料を得るとともに、木津川-淀川-瀬戸内海という無類の幹線水路の水運を仕切って、交易収益により堂々と自立していたでしょうということです。
 
 そうした交易経路が確保できた原因は、淀川流域の要所に一族が定着して協調的に交易ができたということでしょう。いや、推測しているだけです。
 
 後年、木津政権が大量の銅鏡を得たのは、交易で入手(購入)したか、あるいは自身で銅鋳物を行ったか、と思われます。後者であれば、銅素材を交易で購入するについて、自前で鋳造した銅製品を提供(販売)していたとも思われます。

 何しろ、大量の銅素材や銅鏡を入手するには、大量の対価物が必要で、さほど広くない領地で穀物生産が格別潤沢とも思えず、それ以外に「売り物」が見当たらないので、銅製品の販売と思うのです。

 現代風の経済概念でいうと、「高度技術」による「付加価値」で大きく稼いでいたのではないでしょうか。もちろん、これほどの技術があれば、ほかにも売り物はあったはずです。

 とにかく、「夜郎自大」ではありませんが、壮大な宮殿こそ建てなかったもののこの地域の周辺では、抜群の威勢を誇っていたのではないでしょうか。

*ヤマトとの関わり
 ここは、山城国です。南のさほど高くない分水嶺を越えると曾布地域ですが、手近なので、先進木津政権の恩恵を受けたかもしれないのです。

 さらに南に下ると、平地と言っても距離のある葛城、三輪であリ、徒歩行で遠距離であるので、銅鏡「配布」時代に、利害衝突、さらには、武力衝突はなかったと思われます。もちろん、何の証拠もないのです。

                                未完

2020年5月17日 (日)

16. 年已長大 - 読み過ごされた生涯

                       2014/05/06 追記 2020/05/17
「年已長大。無夫婿。」

 ここまでに記した小論を復唱すると、卑彌呼は、(数えで)15,6歳で即位し、魏使来訪の時は、最近18歳を過ぎた(年已長大:すでに成人となった)と云うことになります。

 下記論説によれば、中国史学界では、倭人傳から「わずか十五、六歳の少女卑弥呼を王として」と読み取っていると思われますが、これは、中文としての文意が明解だからだと思われます。

 「倭國と東アジア」 沈 仁安 六興出版 1990年2月発行
 ただし、124ページの以下の記事には驚きました。
 『しかし、長い間、中日両国の史学界では、次のような見方が行われている。即ち、わずか十五、六歳の少女卑弥呼を王として「共立」したのは、「古代の母権社会における女人政治の典型」あるいは「原始的民主制」であり、卑弥呼はシャーマンと開明の「二つの顔」を持つ原始的巫女王であったと思われている。これは、必ずしも倭人伝の原意を正確に理解しているとは言えないであろう。』

 急遽、引用文献として挙げられている石母田正氏の「日本の古代国家」(岩波書店 日本歴史叢書 1971年刊)を購入し、内容を見ましたが、「わずか十五、六歳の少女卑弥呼を王として」と書かれている箇所は発見できませんでした。
 また、見聞の及ぶ限り、日本の史学界で長年行われている見方とは言えないようです。

 むしろ、日本国内の史学界では、卑彌呼は、壮年で倭國王に即位したのであり、国難の際には自ら戦陣に立ち、強いリーダーシップを持っていたものと見ているように思いますが、これは、文献史料に基づく妥当な推定とは思えないのです。
 諸賢には、講談や浪曲の英雄譚が、幼児期や少年期の原体験として刷り込まれているような気がします。

 その一つは、萩民謡「男なら」に歌われた「神功皇后さんの雄々しい姿が鑑」となった、卑彌呼像ではないかと思われます。あるいは、女として母として、徳川政権に果敢に挑んだ「淀殿」(茶)の姿でしょうか。

 以上の読み解きに従って現代語風に書き連ねると、以下のようになります。

 (この年頭で)已に成人(数えで18歳)となった(という)。配偶者はいない
 追記 2020/05/17
 丁寧に説明すると、後代資料である范曄後漢書が、「遅くとも霊帝代に、倭で大乱が起こり、それを収拾するために、当時成人であった卑弥呼を共立したと想定し、卑弥呼の女王時代は、後漢代であった」と語っているため、ここに書いたような若年即位の解釈は、棄てられていますが、慎重に考えれば、後漢書に対して無批判に追従するのは、倭人伝の解釈を後代資料で改竄するものであり、再考の必要があるように感じます。
 また、卑弥呼の壮年即位、君臨は、倭人伝に書かれている人物像ではなく、国内史料などから編み出された古代国家君主像に依存していて、これまた、慎重に考えれば、倭人伝の解釈を数世紀後の別系統の伝承史料の解釈などにより糊塗するものであり、再考の必要があるように感じます。
 どちらの場合も、素人目にも、倭人伝の深意を読み過ごしているものと思われるのです。

 当記事だけでは、論拠を言い尽くせませんが、定説に異議を言い立てるのは、それなりに根拠があってのことと理解いただきたいのです。
以上

 2015年5月16日 補訂

私の意見 ブログ記事 倭人伝「南至邪馬壹国女王之所都」の異論異説 ⑴~⑶ 1/1

古賀達也の洛中洛外日記 第2150話 2020/05/11

私の見立て ★★★★★ 論理的考察のお手本       2020/05/16

〇はじめに
 提示されているのは、倭人伝道里記事の終着点の解釈です。と言っても、当ブログ記事筆者の提案ではなく、古田武彦氏と古賀達也氏の意見です。ここであげるのは、別の視点です。

*異論異説紹介
原文 南至邪馬壹国女王之所都水行十日陸行一月

 通常、南至邪馬壹国女王之所都、水行十日陸行一月 と句点を打っていますが、..女王之所、都水行十日陸行一月と句点する提案です。

 従来、「水行..陸行」は、古田氏提唱の「全行程通算日数」との読みと畿内説の命綱の「最終通過点からの所要日数」との読みが角逐していましたが、「都水行..陸行」ならば、全行程通算とできるという見方です。

 衆知の如く、倭人伝原文は句読点なしにべったり書き連ねていて、これでは、日本人だけでなく中国人も解釈に苦しむので、古来、多数の碩学者が、長年苦吟の上で句読点を打っていて、中国史学会で伝統的に採用されている解釈ですから、絶対的な支持を得ていますが、素人の乏しい経験ながら、句読点の打ち間違いで、深意を取り違えている例は、いくつか見つかっています。

 句点に関する異議は、新説提起に慎重な古田氏が、決定的論証不足と提言を控え、その衣鉢を継ぐ古賀氏も、辛抱強く補強策を求めていますが、当方は、微力ながら背中を押したいのです。

〇「女王之所都」の不合理
 冷静に見ると、「女王の都とする所」とする解釈には多々難があります。
 「王都」は、二字熟語として、中国史書で言う「王の都」と決まっていて、夷蕃王の治所に使うべき言葉ではありません。そして「王之所都」は、類似した意味のようですが、公式史書の定型文を外れた、変則的な言い回しです。

*班固漢書の教え
 先行する漢書西域伝でも、「王都」は、唯一、西域の超大国、安息だけであり、多数の小国は、「治」、「居」、「在」です。安息は、東西数千里の超大国パルティアであり、文字記録、金銀貨幣、全国街道の整った、漢と対等の文明国ですから、両漢は、例外として「王都」と呼んでいたのです。因みに、各国の来貢使節は、ほぼ例外なく、正史、副使、書記官、護衛官と上下揃って印綬を受領して帰国しています。

 「王都」は、漢の国内でも、郡国制で王をいただく国にだけ適用され、特別な例外を除けば、国王は皇帝同族の劉氏です。

 と言う事で、新来で、精々外藩の王に過ぎない女王の居処に、「王都」なる尊称は与えられません。まして、この位置は、景初遣使事績に触れる以前ですから、「女王」は由緒も何もない蕃王であり「所都」とも言えません。

*范曄後漢書の教え
 范曄後漢書は、「其大倭王居邪馬臺國」として「王都」と言わないし、個別の小国である「倭」と全体を束ねた「大倭」を書き分けて絶妙です。

 また、大部の後漢書西域伝も、夷蛮の国に関して、適確です。

〇論証の重み
 以上は、証拠の山に支えられたものでなく、論理で構築した仮説です。

〇猫に小判
 所詮、本説を受け入れられない論法の方には、猫に小判と思うだけです。

                                以上

2020年5月14日 (木)

09. 自稱大夫 - 読み過ごされた遺風 補充版

                      2014/04/29 補充 2020/05/14

〇大夫の由来
 「大夫」が、秦・漢の官制で庶民の爵位であり、これを高官とするのは、遙か周制に遡るものと理解していました。
 しかし、東遷以前の周朝の王都は、関中にあって後の長安に近く、東夷からすると遙かに西方の内陸で近づきがたいものであり、かといって、後の洛陽に近い東遷以後の周朝は低迷したのです。つまり、はるばる来貢した蛮夷が、周朝の官制について何らかの資料を持ち帰って、国内にその制を敷いたとは見えないのです。

*地に墜ちた大夫
 衆知の如く、周が亡んだ後の戦国を天下統一した秦は、周の官制を捨て去り、自国の官制を天下に敷いたのですが、その勲爵制では、「大夫」は、単なる庶民階級となっていたのです。そして、漢は、秦の制度を引き継いだものです。
 文字記録を知らない未開の東夷が、そのようにして学びとった、太古の大夫の制度を、秦漢制を受け付けずに数世紀後まで遺していたことには疑問を感じてました。

*新の復古
 このたび、王莽の創設した新王朝の官制について調べたところ、「大夫」が政府高官の地位を与えられていたことがわかりました。
 王莽は、新朝創設の始建國元年(9年)に、漢王朝の官制を根本的に改めて、十一公を最高の官位とし、これに従う官として「九爵」を設けています。
 各爵には、下位官職としてそれぞれ三人の大夫を設け、各大夫には、下位官職として三人の元士を設けています。
 つまり、十一公、九爵、二十七大夫、八十一元士が、新朝官制の頂点に形成されたのです。
 言うまでもなく、このような官制は、周朝制度の復活を意図したものです。

 歴史の流れを知っている現代人は、新朝が砂上の楼閣であり、その崩壊は必然であったように思いがちですが、当時、二百年続いた厳然たる漢王朝の全土支配体制を「正しく」引き継いだ政権であり、その威勢は百年もの、確固たるものと思われていたはずです。

 まして、新朝の積極的な内外への覇権誇示の姿勢は、退潮気味であった漢朝末期の不振を払拭するもののように見えたでしょう。
 従って、新朝の新官制は、四夷に伝達され、大夫の地位は、再び大きく高められたものと見えます。

*後漢黎明期の入朝
 後漢光武帝建武中元二年(57年)の倭奴國入朝は、新朝からの政権交代直後であり、すでに、文明の光が及んでいた東夷に半世紀前に復古した大夫制度が残っていたとしても不思議ではありません。

*范曄創作疑惑
 あるいは、陳寿の三国志編纂の百五十年後に後漢書を編纂する偉業に取り組んだ笵曄は、魏志東夷伝に先立つ東夷記事を構築する際に、工作を施したと見えます。実際、光武帝時代から、桓帝、霊帝までの一世紀余りは倭伝史料の無い空白の世紀ですから、例えば、「倭國大乱」は、風評に過ぎないことになります。
 ここに「使人自稱大夫」とあるのは、魏志が初見のように書き立てている「倭人」は、実際は「倭奴」の美称に過ぎず、後漢代に既にその正体は知れていたと見せかけたようにも見えます。

 して見ると、倭伝冒頭で謳い上げた「大倭王居邪馬臺國」は、漢武帝期以来の倭に関する時代不明の創作であり、後に三国志の守備範囲である献帝期、建安年間を避けるように遡行させた「卑弥呼」共立記事と相俟って、倭国/倭人の来歴をずりあげて、魏志の景初入朝記事を陳腐化させるべく創意を凝らしたのかも知れないのです。

 范曄が、後漢書西域伝編纂に際して、原資料を風聞として廃棄して大がかりな創作をこらした事例から見ると、倭奴国使人が大夫を自称したとわざわざ書き込んだ手口は、そのように疑いたくなるのです。

 倭人伝の「大夫」は、そのような波紋を巻き起こしている重大な一言なのです。

以上

倭人伝随想 7 倭人伝談義/舊唐書倭国伝談義 1/1 補充版 舊唐書に「日本伝はない」

                            2018/12/06 補充 2020/05/14
□倭人「伝」談義
 伝は、史書の最小叙述単位であって、一人歩きできる体裁を持つものと考えますが、それは、叙述内容に由来するものと思われます。東夷伝倭人記事は、「倭人」の歴史、地理、風俗を語り、王都への行程を語り、近年の事象の経緯を語り、「倭人」 伝の形式を備えているように見えるのです。後世の素人読者の目にそう見えるという事は、陳寿の編纂方針は、「倭人伝」を確立していたと思えるのです。

 形式を備えた伝は、時には、他の伝に連なって列記され、時には、より広い範囲を語る伝の一項となっています。史書の構成を階梯と見るとき、その伝の扱い次第で階梯の上下が生じるのです。

 思うに、伝は、本来史書の最下部単位であり、条はその単位に満たない、挿話の扱いと思われます。しかし、倭人記事のように東夷伝の一部であっても、伝の体裁を保つものを条と見るのは、見当違いと思うのです。

 と言う事で、当ブログでは、倭人伝は、編纂者の意図として、伝の体裁を整えたと見て、僭越にも「倭人伝」と呼んでいるのです。

 さらに言うと、元々、倭人伝で格別の偉業を伝えられている卑彌呼も、伝が意図されたと思いたいのです。現状、その面影は掠れて伝の体裁を成さないので、勝手な思い入れに過ぎませんが、せめて、倭人伝が魏志掉尾を飾る役どころも評価して、「倭人伝」(紹凞本小見出し)と呼んでほしいのです。

 以上は、「倭人伝」を「魏志」独立記事と主張しただけですが、世上、聞きかじりで、『「倭人伝」という歴史書』など行きすぎた言い方があるのです。
 これを目にしたと思われる史学界権威が、(歴史書と誤解される)「伝」でなく、「条」とすべきであると苦言を呈しているのも当然と思われます。当方は、この至言は尊重するものの、やはり、倭人伝と呼びたいのです。

□舊唐書倭国伝談義
 「伝」談義で連想されるのは、唐時代記録の舊唐書(旧唐書)です。

 この正史には倭人伝後続の「倭国伝」があり、書き出しで歴代正史倭国記事に触れた後、唐代記事として唐に対する交通が順当に書かれています。これに対して、続く日本記事は、独立した伝としての「実」が整っていません。

 つまり、通常「日本伝」とされている記事は伝の要件を満たしていないので「倭国伝日本条」と見るべきものではないでしょうか。

 もっとも、維基文庫や中國哲學書電子化計劃は、刊本の巻頭見出や改行段落に従い、日本(伝)と認めているようです。いや、これらは、何れかの時点での原本改訂かも知れないので、必ずしも編者の意思を反映していない、かも知れませんが、それは、別儀としておきます。

 舊唐書を要約収録した太平御覧は、倭国と日本の記事を独立収録していますが、そのような文書形式に従ったものでしょう。ほぼ同時代の通典、唐会要での扱いも同様です。なお、新唐書は、倭国伝を置かず、「東夷伝日本」にまとめています。

 一方、岩波文庫「中国正史日本伝」は、倭国伝を「倭国日本伝」として日本記事を包括し、後続の国書刊行会書籍は「倭國伝」として、こちらも日本記事を包括し、どちらも「日本伝」を表示していませんが、これが日本史学界の舊唐書倭国伝に関する見解と思われます。

 世評では、舊唐書は二伝を併存させていて不都合としていますが、舊唐書に「日本伝はない」のであれば、そのような誤解の即断は正すべきと考えます。

参考資料 
 岩波文庫 「中国正史日本伝(2)」
  旧唐書倭国日本伝・宋史日本伝・元史日本伝
     石原道博編訳 1956年9月第一刷
 国書刊行会 「中国・朝鮮の史蹟における日本史料集成」正史之部㈠ 1975年
                                     この項完

2020年5月13日 (水)

新・私の本棚 平本 嚴 邪馬台国はどこにあったのか:  2/2

倭王卑弥呼の朝貢から読み解く 22世紀アート  アマゾンKINDLE電子ブック 2019年8月刊

〇既成概念の残光
 書評の務めですから、瑕瑾をつまみ上げて指摘することになります。

 案ずるに、意識してか無意識にか、さまざまな既成概念に影響されて倭人伝考察に取り組んでいて、着実な考察が妨げられているのが惜しまれます。

 その一つは、邪馬台国が、豊かな国力を持っていた古代国家であるという前提であり、そこから、六艘に及ぶ朝貢船団を連ねた延々たる行程となり、それ故、何としても、船団で乗り続けたとの視点に囚われているのが、もったいないところです。言い換えると、この前提を取り下げると、本書のかなりの部分が空転するのですが、前提を書き替えてしまうと、本書は別のものになってしまうのです。つまり、後段の批判は、向けな注文であることは、承知の上なのです。よろしくお含み置きください。

 但し、氏は、海路遣使の幻想に耽るのではなく、地に足の付いた考察を進めていますから、世にはびこるジャンク本と一線を画している点が、ここで賞賛されているのです。

*帯方郡の不思議
 折角、景初元年八月に、魏の支配下に復帰したとしながら、使節は、その事態急転に気づかず自律的に遣使を決意し、二年の早い時期に郡に到着したのに戦雲巻き起こる遼東に赴いたのは、ちょっと、説明のつかない事態です。

 ついでながら、倭人が遼東郡に隷属したと想定していますが、それなら、魏の攻撃に備えて韓濊倭に動員がかかったはずです。思うに、遠隔蛮夷の隷属は面倒なだけで、単なる服属と貢納でよしとされ、戦力視はされてなかったでしょう。

 勿論、氏の既成観念を指摘しただけで、当否を言うものではありません。

*後漢書崇拝の咎
 無造作に范曄後漢書倭伝を利用していることも不都合です。

 倭奴国貢献は本紀であり、光武帝は印綬を下賜しただけで、金印下賜とは書いていないのです。また、考安帝本紀は、貢献を示すだけで、生口は倭伝独特記事、つまり、范曄得意の根拠のない文飾と見えます。

 倭人伝には、情報源の詮索や、誤記、曲筆の疑惑が浴びせられていますが、後漢書倭伝は、無批判な引用が目に付きます。これは、正当ではありません。いや、これは、俗説の安易さを歎いたものであり、氏への批判ではありません。

*洛陽への遠い道
 氏の考察のかなりの部分が、狗邪韓国経由帯方郡の海上経路に費やされ、さらに郡から遼東にいたり、そこから、洛陽に転ずる街道の想定で、相当の労力を費やしたと思いますが、労苦に賛辞を呈するものの、疑問があります。

 黄河河口付近は、巨大な暗黒地帯であったとの指摘は、軽率な論者に対し貴重な問題提起ですが、使節は、遼東に寄らなければ、この迂回は不要だったと歎かなかったのでしょうか。

*嫌われた順路
 そのような経路を敢えて進んだ前提として、郡から山東半島への経路が難所とされていますが、どう見ても、ほんの一またぎの水たまり越えの散歩道で、激流の荒海でないと思うのですが、難所の根拠はあるのでしょうか。

 漢書には、武帝の朝鮮派兵で利用した経路とされています。

 帯方郡から見ると、山東半島から洛陽に至る青州路は、つい先年まで、公孫氏の支配下にあり、土地勘のある郡官吏もいたでしょう。帯方郡収監の際に渡来した兵士も少なくなかったものと見ます。随分近道ですからね。

 狗邪~郡街道史料が見当たらないとありますが、弁辰産鉄の運搬は、郡命により、日程厳守できる官道経由のはずで、それに備えて宿駅整備がされていたはずです。街道が当然だから、特に書かなかったと見ます。氏は、半島南部沿岸に、寄港地が整備されていたと見ますが、帯方郡としては、陸上街道整備だけで目的を達成できるのであり、遠隔僻地にそのような整備を行う動機が見えません。郡は、専政領主ではなかったのです。

〇最後に
 いや、氏の辿った地道な論考は、業界では異端の道であって、先賢の助言は得られなかったのでしょうが、氏ほどの慎重さで考察を固めながら、これほど見過ごしが残っているのは不思議です。月並みで恐縮ですが、弘法も筆の誤り、という事でしょうか。
                                以上

新・私の本棚 平本 嚴 邪馬台国はどこにあったのか:  1/2

倭王卑弥呼の朝貢から読み解く 22世紀アート  アマゾンKINDLE電子ブック 2019年8月刊

私の見立て ★★★★★ 好著必読  2020/05/12

〇始めに
 見事なのは、「はじめに」として、本著の基本理念が適確に表明されていることです。これは、「商品」として不可欠ですが、近年古代史で目立つジャンク本では、一流出版社の単行本でも欠落していることがあり、むしろ貴重な特質です。

 本書は、「景初二年の朝貢から見た邪馬台国の所在地論」です。 研究に関し重要なポイントを「発想」という視点で述べます。

 当ブログで機会ある毎に説いていた準備、そして実行という着実な考察が書かれていて、心強いものでした。また、極力、倭人伝記事の妥当な解釈による考察であり、それ自体大変説得力のあるものでした。

 それにしても、22世紀アート社は、編集部に優れた人材を擁しているようで、これなら、書店店頭で立ち読みできないご時世でも、安心して大枚を投じられるかと思うものです。掃き溜めに鶴と言いたいところです。

*丁寧な準備
 前例のない大事業に乗り出すには、内外情勢確認、実施手順策定、そして、実施に際して、綿密な工程管理、進度管理が必要です.参上する相手との綿密な交信も必須です。そういった段取り事情を丁寧に説き起こす倭人伝考は、ここ以外では見かけることがありません。世に、ジャンクフードの画餅が氾濫していて、このように、歯ごたえのある正餐に出会うと感嘆するのです。

 後ほど、無作法な批判をしますが、随分前から、言葉遣いの節度をなくしているので、お許しいただきたいのです。

*両論併記の取り組み
 本書で感心するのは、畿内説と筑紫説の両論を併記して、それぞれに於いて、適切な考察を試みていることです。
 「当分野」は、まずどちらの説で書かれているかで、書棚行きの積ん読かゴミ箱投棄かが決まり、所在地比定の論考でも、恣意だとか、偏向だとか、感情論で切り分けられ、投げ出されていしまうため、折角の著者の考察が、読者の眼に届かない様子を見ると、ここは大人の行き方と見ます。何しろ、諸説の上っ面をつまみ読みして、理解できないままに、「全部間違いに決まっている」と絶叫する論者が目立つのです。

 ここでは、畿内王都と仮定して、半島事態を知るのに要する時間、畿内での準備期間、半島までの行程日数を合わせ考えると、景初二年六月には帯方郡に着かないと見え、三年誤記説に逃げず、どう解決するのか興味のあるところです。

 当方の考えでは、王の意志決定に従い、派遣使節人員の大半と荷物、そして、乗船は、筑紫拠点に手配を指示し、畿内からは、大夫一人、ほとんど手ぶらで出たと見ます。大夫が乗馬できれば移動時間は大幅に短縮できます。

 私見では、急遽派遣という状勢であるから、人員も荷物も、随分小振りで書面指示したはずですが、氏の意見は別で、王都に集中しているようです。

 郡に申告しておけば、御用達で、街道関所は、過所(通行証)いらず、関税免除、宿は官費です。数十人の大使節団はそう行かないでしょうが、倭人伝の貧相な使節なら、むしろ、同情されてもてなしを受けられたでしょう。

*若干の異議
 そのように思うのは、以下書くように、氏が想定した使節団が場違いにでかいからです。氏がそのように感じたのは、野性号案件が、漕ぎ手固定の手漕ぎ船で、積み荷の多寡、漕ぎ手の消耗はともかく、遮二無二、一貫航行できる、為せば成ると証明されたように報告を言い繕ったからでしょう。

 当ブログでは、維持不能な公用交通手段とみていて、意見が分かれます。

                                未完

2020年5月12日 (火)

今日の躓き石 毎日新聞の心ない報道 「 リベンジ」さらしに終わりはないのか

                               2020/05/12

 本日の題材は、毎日新聞大阪朝刊第14版スポーツ面ど真ん中の記事である。『「絶好調時ケガ」似た心境』と誠に舌足らずの不出来な大見出しで、続いて、『リオ雪辱に全霊「東京」延期』と乱れた言い回しで、もう、不吉としか言いようのない、暗雲漂う記事である。

 それにしても、全世界がパンデミックの猛威に沈み、発病した直接の関係者でなくても、数限りない人たちが、自粛や自主閉店、さらには、失業による収入途絶で、家計の支えとしていた収入源を失って悲嘆に沈んでいるのに、ご当人は大会の延期しか頭にないのは、国を代表する選手にしては、何とも、貧しいこころざしである。
 余計なことだか、「いざラストスパート」などと、見当違いな語り口も不吉である。大会前にラストスパートなどしたら、肝心の本大会では、疲れ切った姿をさらすだけではないのか。素人考えながら、普通、万事調整して、本番にピークの体力を残すものではないのか。
 このように沢山字数が空転しているが、要は、パンデミックなんて言うが、こんなもの、全然大したことない、ケガしたようなもので、何、乗り切ってみせるさ、と言うように、ぱっと見に見えてしまう。
 ご当人は、収入面に何の不安もないのか、何とも暢気である。その余裕からか、世間に暴言を投げつけていると見える。

 大体が、大会延期に至る成り行き全体を、何かに恨みを抱くだけで乗り越えて仕返ししようというのだから、始末に負えない。自己中心は当人の勝手だが、それを、わざわざこうした形で、全国紙の閑散なスボーツ面に大きな顔のさらし者にするのは、毎日新聞としてどういうつもりなのだろうか。こうして紙面に出てしまったら取り返しがつかない。当人名義のSNSとは、格が違うのである。

 そうした気分の頂点で、かつて、「見ていろ、2020年にはぶち殺してやる」と「リベンジ」を誓ったらしいが、何とも、自分で自分に泥を塗る発言ではないか。それが全身全霊とは、情けない。テロに荷担して何とも思っていないのである。
 これは、手記だから止められなかったのだろうか。せめて、世間に恥をさらす、子供に負の遺産を残す、罰当たりな表現は、何とかできなかったのだろうか。

 担当記者は、この記事を世に出したことで、特に何にも問われないだろうが、署名付きで手記を寄せた当人は、記者の勝手な解釈という言い訳も効かず、一生、この不手際を自身の咎として背負っていくのである。何とか、それだけは避けて欲しかったものである。読者は、記者の名前など念頭に無いから、毎日新聞の紙面にぶちまけられた選手の暴言と汚名が残るだけである。

 今回の「リベンジ」は、本人の血と汗がにじんでいるだけに、大新聞の報道としては、何としても取り除いて欲しかったものである。せめて、もっと筋の通った記事を書いて、毒消しして欲しいものである。

 それにしても、荒れ狂った選手手記は、末尾で、何の断りもなく、署名記者のコメントに移る。ちゃんと内容を読み通しているのである。それはそれとして、急に文章の視点が変わるのは、誠に不意打ちである。どういうつもりか困惑するのである。毎日新聞は、そういう報道方針なのだろうか。

以上

2020年5月10日 (日)

古代ロマンの試み 伊豫国宇摩郡 邪馬台国説 こと始め 女王論 5/5 追記

                     - 2020/05/07, 05/08 05/10 2021/08/23
*女王の姿
 女王は、高い継承順位にあった有力国の王族と見ます。中国東部斉地で、氏族代表者は、実子の内、男女各一名を神官と巫女とし、氏神祭事に専念させたようです。この季女(末娘)制は白川静氏の著書に記されています。

 倭人伝の手短な共立談義から察すると、政治後継者に不都合があったのか、男王が譲位できない事態に至り、敢えて権威ある神職を起用したようです。

*女子共立
 「女子」と言う形容を、古典に即して深読みすると、男王の娘の子、外孫、ここでは、嫁ぎ先で産んだ娘となります。寸鉄の書法です。

 つまり、その人は、実祖父である男王の家と、その娘、つまり実母が嫁いだ先の実父家と、両家を受け継いでいたので、両陣営で妥協が成立し、男王も孫への譲位なので納得したのです。遠巻きにして事態を注視していた重臣や第三国も、内戦勃発が避けられたので悦んで同意したのです。

 つまり、ここで言う「共立」は、二者合意が支持されことを言うのであって、別に総選挙や諸國氏子の総会を催したのではないのです。

 因みに、結構、時代錯誤の理解が出回っていますが、「名卑弥呼」とあるのは、当然親に貰った実名です。他人に名付けされるのは不当です。

*王位継承
 本来、子供を持てない巫女は、王位継承に不適格です。それが通ったという事は、決まった短い任期の後、別氏族の宗女に譲ると決めたのでしょう。

 終身在位となると、いつ墓陵を造成していいのかわからないし、継嗣も、いつまで待機して良いかわからないので困るのです。俗説で七十才の長寿では、継嗣候補が次々鬼神になって、跡継ぎに困るのです。次代閣僚を期した面々も、とうに世を去って代替わりし国の形は揺らいでいたはずです。

 もとより、若い頃から長年不仲であった狗奴国王は、存命としても、老境で、相争うことができなかったはずです。

 いや、世にある俗説が、余りに現実離れで、余計なことを書き連ねましたが、古代人は世代交代の難儀を知っていたので延々在世はしなかったのです。

 それにしても、中国太古の王制伝統に倣うと、「邪馬」の王統は直系相続と限らず、むしろ、有力氏族間の回り持ちの可能性が高いようです。その時点で若くて意気盛んなものが、各国を導くべきと知っていたのです。

*巡回王都
 回り持ち時代の倭都倭王の所在を推定すると、伊都主導の「邪馬」は背なの里山であり、投馬主導の「斜馬」は東方の宇摩の山沿いの地でしょう。

 倭都は、多数の官僚を擁する政治経済中心でなく、総社、総氏神の一の宮で、神職小数が在住する門前町であり、伊都を離れて巡回してもも国都は保てましたが、倭都位置は明記できず、不動の 伊都を公的、つまり、中国の天子に申告する国城としたのです。それで、一応の理屈は通ります。

*余談の山
 いや、西戎伝から想を得て話しを面白くすると、倭女王は、一ヵ月を四分割した「週」毎に、御神輿のように身軽に各国御旅所に行幸して、直訴まで受け付けて、巡回調停したかも知れません。ちと行きすぎでしょうか。
 諸国間調停限定といえ、文書のない時代は実情がわからず適確に裁けなかったでしょう。女王を全知全能と見る人もいますが、それは絵空事です。

*二十年の都
 ついでに言うと、当時の建物は、二十年と経たずに建て替えが必要で、千年の都は想定外だったのです。西洋の箴言で「ローマは一日にしてならず」は石造建築で石畳だったのですが、こちらは、精々、丸柱藁縄組みの藁葺きでけもの路だったのです。
 ここでは、国を貫くこころざしを見てほしいものです。

〇まとめ
 と言うことで、うまく持論を着付け直しできたでしょうか。ともあれ、三世紀は三世紀の心で語るべきで、結果論の無理筋は、最後の最後の手段です。と言っても、ここまでついてきた読者はいないものと覚悟しています。

 なお、本件の考証の諸処で、白川静氏の古代史論のお世話になっていますが、いつもお世話になっているという事でもあります。

 比較の意味で、伊豫路から畿内纏向に至る行程を図示してみました。余り見かけない経路でしょうが、熱の引いた後に見ていただきたいものです。

1500km_s2_20200510131101                              

*改訂版追記 2021/08/23
 今回の改訂は、行程の更新だけです。上図に反映するには時間がかかるので、言葉だけで書き残します。

*一条の「山のみち」
 まず、伊都国以後の行程は、上図では、九州島北岸を迂回していますが、その血目に、国東半島から渡海する図になっていて、改訂が必要でした。今回の提案では、図上の伊都国から南下して、谷筋を通り、現在の大分付近の海港に出る案になっています。
 上図の案では、途上、多くの国邑を暦するので、何も書かないわけには行くまいと言うことです。山中の抜け道が想定されています。

 三崎半島への渡海後は、極力船便を避けるのが賢明と考えました。漕ぎ手の手が要らず、南遷の心配も無い、安定した陸上行程が、当時として最善だったろうという事です。改定案は、基本的に、「中央構造線」が大地に刻み込んだ真一文字の道筋が頼りであり、当時、当地では、最強の輸送路であったと見るのです。後世、瀬田内海の難所が克服され、「海のみち」を通じた大量輸送が始まると、この「山のみち」は、歴史の闇に沈んだのでしょう。

 以上は、一介の素人の紡いだ物語ですから、ほころびがあることは言うまでもありません。一時の夢物語であれば良いと願う次第です。

以上

古代ロマンの試み 伊豫国宇摩郡 邪馬台国説 こと始め 王都論 4/5 追記

                      - 2020/05/07, 05/08 05/10分割 2021/08/23

〇治まらない道里論
 本編では、道里論議は棚上げしましたが、図上測量で、末羅から投馬まで450㌔㍍、千普通里と見ると、六千地域里になり、道里を通算すると、全行程万二千地域里に治まりませんから、持論の「エレガントな解法」では、説明困難です。
 とは言え、ここでは、困難は不可能と同義でなく、やり甲斐のある難題とみて、以下の様に組み立てを変えてみました。

 時代考証を練り直し、国の身の丈に合わせて着付けを工夫して見ましょう。

800km_s
*倭人の国の姿
 公孫氏以来、郡倭通信往来で、郡文書使は伊都国止まりで、倭都の万二千里も、通算四十日も、伊都国を倭都扱いしたと見るのです。つまり、倭人伝の倭都描写は魏使の創作と見え、倭人の国の姿を再考証する必要があります。

 郡「外交」は、伊都国王が全権委任されていたので、王都往復日数は勘定していないと見えます。伊都駐在の大宰、大夫が代行したかも知れません。

*安息国先例
 そのような対処は、中国にとり先例の無い無法なものだったのでしょうか。
 そこで想起されるのは、史記大宛伝、漢書西域伝、魏略西戎伝、後漢書西域伝に書かれている、西方の超大国安息国(パルティア)との交渉です。
 安息国は、武帝が最初の使節を送った頃に現在のイラン高原、南北数千里の広大な国土を確立し、王都をメソポタミアに置きましたが、王国発祥の地で、歴代王墓の地、カスピ海東岸南方の「安息領域」を東都としていました。
 漢書にも、漢使が東都に到着すると、西方数千里の王都に急使を発し、知らせを聞いて駆けつけた王の使節が親しく漢使を歓迎したと書かれています。
 「国交」樹立の際を含め、両漢は使節を派遣していますが、使節が西方の王都を訪れたことはなく、副都を安息国都と扱っていました。

*漢使王都訪問記の不在
 漢書から、魏略を経て、後漢書に至る正史記録は、副都を安息国王治所として、漢都(長安、後に洛陽)からの里程を記録し、後漢書に至っては、この「国」は、「小安息」であって南北数千里の大国ではないとしています。

 安息は、独自の文字、文化を有し、漢帝国に匹敵する古代国家であり、漢に服属しませんでしたが、相互に敬意を払う「国際」関係だったようです。そして、使節が王都を訪問せず、副都で「小安息」王に接見するだけで、漢安息の良好な関係が、魏代の安息亡国まで維持されたのです。

 当然、訪問していない王都への往還記、情景描写はなく、漢書は、安息国長老、恐らく、小安息高官のカスピ海東岸からの眺めを記録し、西方メソポタミアからの眺めは見当たらないないのです。

 陳寿は、後漢書を読んでいないものの、漢書と魏略西戎伝を熟読していたので、伊都国を倭都扱いした記録に筆を加えなかったのです。

 因みに、古田武彦氏は、倭人伝解釈の際に、漢書西域伝に言及し、安息国をイラン高原全体を統一支配したアケメネス朝のペルシャと混同して、そのために、「安息国長老」の言の趣旨を誤解したようです。

*魏使の成り行き推定
 こうして見ると、魏使が伊都国に止まり、そこに、女王の代理人が臨席することにより、魏帝の下賜物が、印綬と共に女王に嘉納されたことや、帯方郡からの道里が、所要期間と共に、伊都国までの行程に対して記録されたことも、無法なものではないことがわかるのです。

 いえ、決定的な意見ではないものの、古田氏初め、この際の魏使が女王に謁見しなかったとの解釈に異を唱えている諸兄への有力な反論とみるのです。

*緩やかな国家像
 以上のように解明すると、伊都国から投馬国への里程は、水行二十日とあるものの、続く、倭都行程は記述されない理由が一応説明されるのです。
 また、倭都描写は紋切り型で、現地踏査したものでない事情がわかります。

 あるいは、以後数世紀の何れかの時代に、女王の権威や王都の位置は変貌したでしょうが、倭人伝記事から推測されるのは、緩やかな国家像です。

 概して、諸兄は、「倭人」に、後世風の強力な国家を想定しているのですが、文書行政なくして、鉄血国家は、成立し得ないし、そのような時代錯誤の強権国家の必要もなかったのです。

                                未完

 

2020年5月 8日 (金)

古代ロマンの試み 伊豫国宇摩郡 邪馬台国説 こと始め 偽終止 3/5 追記

                     - 2020/05/07, 05/08 05/10 2021/08/23

 ページ割りの都合で、末羅からの行程図をここに載せます。
 _s_20200508210301
*伊豫路の旅
 旅路は、宇摩で果てるのでなく東方に続くのですが、当時は、伊吹島から備讃瀬戸に出る経路が、明石/鳴門海峡の難所に阻まれるため、これを迂回して陸路に転じ、今日の阿波池田へ山越えした後、吉野川沿いに進んだと見ます。あるいは、深く刻まれた吉野川河岸から川船で通ったかも知れません。

*黎明期の東西交易要地
 最終的に、鳴門海峡の東方に降り立つので、全体を通して、難所のない、つまり、遅くても確実な瀬戸内海航路となります。各地の商人には、少ない人材、機材と短い日時で見返りの得られる、確実な商いが続けられます。

 と言うことで、宇摩国は、荷船が瀬戸内海を往来できなかった時代、九州北部と淀川水系を繋ぐ要地であり、物資の集散地であったように思います。

 後年、背後の山地に豊富に自生する楮、三叉を活用した製紙業が地域産業となったことも、付記しておきます。

*完稿宣言

 か細い論理の鎖ですが、平和なオチが付いたので、ここにお披露目します。

*図版の著作権確認 [重要]
 添付図で、愛媛県の地形図は、特に著作権の主張されない公有の地形図から作成したものです。下手くそな馬の絵は、自作です。後は、GoogleMapの3Dビューで生成した架空視点展望ですが、利用条件に従い、著作権情報を残し、最低限の注記を付記しています。

 一部の篤実なかたを除き、著作権に関するコンプライアンス意識が低い論者が多く、無造作な盗用が目立つので、念のため書き残しています。今回の例でも、Googleの設定している制限は緩やかなものですが、簡単な付記を除き原図「無改造」引用が原則であり、勿論、権利表示は、隠さないことが必須条件です。

 ここでは、PDF出力を介してJPGファイルにし、文字書き込みなどしているものです。おわかりのように、本来、大小随意ですので、興味のある諸兄は、GoogleMapを試したらいかがでしょうか。
 画面表示のため横1280ドットに縮小したので、細部は見えにくくなっていますが、提供された図版で見て取れる適切な遠近感は、遠景のかすみ具合も含め絶妙で、本小論が追求する現実的世界観を支持するものです。

 なお、ここに示された架空視点には、昨今多用される精密地図の空々しさはなく、当時識者の世界観、近年言われる空間認識を想起させるものと見ていますので、時代錯誤の非難は、ご勘弁いただきたいのです。

*遠すぎる楽土
 GoogleMapの助けを得て、九州北部末羅から宇摩の想定経路を計測しましたが、400㌔㍍を越え五千地域里程度(概数)のようです。いずれにしろ、経路は推定であり、海上部分は測量できず、数字に大した意義はないのです。

 難路を避けて順当な日数計算として、船待ち、潮待ちを見込んで、不彌国から水行二十日に押し込めても、郡から倭都まで万二千地域里を、かなりはみ出します。
 これは、この場では説明しきれず、後ほど談義します。このあたりは、日頃批判する各地説と同断で、慚愧の至りですが、遠隔地比定の宿命とご理解いただきたい。

*謝辞
 本小論の推進にあたり、合田洋一氏の提唱された、西条付近を含めた越智国を往時の地域政治経済中心とみた諸論考を参考にしましたが、敬意を払いつつも過度に依存しないように気をつけたので、この場で謝辞を述べるに止めます。また、各種郷土史事項は、現地常識と理解いただきたいのです。
 論文ではないので、細々とした出典は省略します。

*仮泊まり
 なお、全体の筆致、特に、宇摩考察でおわかりのように、当記事は、筆者の生まれ育った地を、半世紀を隔てて回想して書き出したものです。
 他の記事では、諸兄の考察を我田引水と批判していますが、筆者とて、生まれ育った地への愛郷心は持ち合わせているのでつい甘くなっているのです。
 と言うことで、懸案を残しつつ、一旦締めくくります。
                               未完

古代ロマンの試み 伊豫国宇摩郡 邪馬台国説 こと始め 半終止 2/5 追記

                       - 2020/05/07, 05/08 05/10 2021/08/23
*霊峰と神井の投馬
 不彌から水行二十日と解釈されることの多い道里記事は、あくまで目安ですが、山越えの連絡を含め、さほどの見違いはないと見ています。

*石鎚の山、伊予の海 余談
 投馬の南に聳える石鎚山は、今日、西日本随一の二千㍍級高山ですが、弧峰でなく、競い合う高嶺を連ねた石鎚連峰となっています。

 高校野球の名門、松山商業の校歌は、冒頭で「石鎚の山伊予の海」と叙景していますが、松山から石鎚は見えず、して見ると、伊予の海も松山の前面に広がる伊予灘でなく、燧灘かと思うのですが、引き続く「金亀城頭春深し」は、名城松山城を謳うので、思い過ごしでしょうか。
 今回の改訂で言うと、伊予灘から石鎚の高嶺を目指していく行程とも見えるので、古代には、伊予灘は石鎚連峰の裳裾と感じていたとも思えるのです。

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〇豊穣の投馬国

 当地は霊峰のお膝元で、南方の太平洋からの熱く湿った海風が、高峰に冷やされて雨として、山肌に降りしきったものが豊富な地下水となり、小雨地帯である燧灘南岸でも、「神井」の掘り抜き井戸は自噴する「水の宝庫」であり、投馬国は、戸数の如く国力随一と思われます。

*水神 余談

 水田稲作は、期間を通じ、強い日射、温暖な気温と共に、潅漑水量が潤沢でなければならないのです。水の神に守られた投馬と言うことです。むしろ、夏季は、晴天日が多く、降水量の不足が懸念され、後世ため池が造成されます。「天の恵み」を願うなら、水の恵みと思うのですが、それにもかかわらず、水神が最高神でないのには不審を感じます。太陽の熱は、力強い男神に相応しく、水の艶は、豊かな女神に相応しいと思います。

 あるいは、男性の太陽神と女性の水神が、文字記録のない世紀を超えている内に交錯して、太陽女神が最高神、水神は壁の花になったのでしょうか。

〇斜馬国にいたる道

 続いて、特に難関もなく、くにざかいの丘陵を幾つか越えて、後世宇摩(馬)と呼ばれた伊豫東界につきますが、ここが、「斜馬」国と思われます。
 かくして、「邪馬台国」に到達したのです。特に轟音も響きませんが、漠然たる四国説ではないのです。難所を避けた「海路」を時代考察しているのは、実は、目新しいはずなのです。

*合わない勘定

 諸兄から、宇摩は、投馬のすぐ向こうだから道里記事に合わないと言われそうですが、書かれている水行十日、陸行三十日は、帯方郡からの全所要日数であり、投馬や不彌からの日数ではないと見る説に従うのです。

 辻褄合わせは難儀ですが、それは、別途考えることとして、話を進めます。

*伊豫の二つの顔、二つの名

 今日、伊豫は愛媛県ですが、盛時には、四国全島を伊豫と呼んでいたと想定しています。宇摩は、政治経済中心だけでなく、地理的にも、大「伊豫」中央と見えます。勿論、二、三世紀同時、四国全島を易々と支配していたとは思えませんから、多少誇張気味にそう称していたのでしょう。

*宇摩三嶋の由来
 後世に至るまで、伊豫三嶋神社として船人の絶大な尊崇を集めた大山祇神社ですが、暴風の高波でご神体の一部が流出し、燧灘の海流に乗って宇摩の海岸に辿り着き、祀られたのが、宇摩の三嶋神社の起源として伝わっているように、宇摩は大三島と縁が深いのです。

                               未完

古代ロマンの試み 伊豫国宇摩郡 邪馬台国説 こと始め 序章 1/5  追記

                     - 2020/05/07, 05/08 05/10 2021/08/23
〇始めに
 本考は、当ブログでは番外も番外、長く続く外出自粛の夜の夢物語(ロマン)の試みです。果たして、一幕の随想としてうまく繋がるかどうか。
 ここでは、後のまとめを書き足して、5回ものにしました。(05/10)

〇また一つの「邪馬台国」説
 事は、ありふれた邪馬台国比定説ですが、その始まりは「字面」です。

 ご存じでしょうか。中国古代算術で、「邪」田は田地が斜めの平行四辺形ですが、廣従(幅縦)を掛ければ、方形の「方田」同様に面積計算できます。

 ここで、「邪馬」は、東北方向に向いた「斜馬」であり、当記事筆者が思いついたのは愛媛県の地形です。
 子供のいたずら書きみたいですが、伊豫/愛媛を、東北に駆ける馬に見立てて、発想を繋いでいくのです。

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*存在価値
 なお、この絵姿は、当考察のきっかけに過ぎず、「絵が下手」とか「馬じゃない犬だ」と断じても、考察の批判にならないので、うずたかい邪馬台国所在地諸説のすき間で、ひっそり生き延びられないものかと思っています。

*自画像ならぬ「児画」像
 三世紀当時、倭人の国都が、伊豫にあったとすれば、国王の手元に自国絵図が届いていても「おかしくはない」ので、中国語国名として「斜馬」ならぬ「邪馬」国を称したか思われます。

 誠に下手ですが、馬が出回っていなかったので姿が描けなかったとしてください。いやいや、地形は造作できないので、ただのつかみとします。

*投馬国水行説
 さて、魏志倭人伝道里記事は、朝鮮半島中部の帯方郡から海を越えて倭都に至るのに、九州上陸後、末羅、伊都、不彌を経た上で投馬へ、改めて「水行」したと読めます。何しろ、中国史書で「水行」は河川行ですが、倭人伝は「渡海」を「水行」と宣言したので、海を渡る水行に問題はないのです。

*乗り継ぐ船路
 東の関門海峡は、今日の強力な船舶も易々通過できない難所が非力な手漕ぎ荷船を阻むので、大きく南に迂回する経 路としたと見るのです。

 不彌から投馬へは、まず南に踏み出しても、東の国東半島北方で海岸に出て便船に乗り込むのです。馬のしっぽに見立てた三崎半島を南に臨む穏やかな伊予灘ですが、それが東西交易の主力として常用されたと思う原因です。

 便船は、一船、一商人の乗りきりでなく乗り継ぎしたと見るのです。荷船乗り継ぎは、当時、自然であり、港で荷下ろしして浜市で商った荷を積んだ次の商人の便船が進んだ、細くしなやかで、長続きする交易連鎖と見ています。

*続く旅路
 と言うことで、水行二十日の「投馬国」は、まだ少し先です。

 松山界隈から伊予灘を北上しますが、芸予諸島の難所を嫌って下船し、半島最北部を手短な山越えで横切り、今日の今治、後の伊豫国衙の地に出て、大三島の南方で便船を拾い南下したと思われます。

*続く旅路 改定 2021/08/23
 一年余りの間に、多少良い知恵が湧いたようです。松山界隈から伊予灘を北上するのを撤回し、現代の正木氏あたりから、石手川沿いに東に進み、比較的なだらかな峠越えのみちで、現代の西条、燧灘南岸に出る行程を採用しました。

*投馬お目見え~道前投馬国説
 そこからは、島影の見えない、穏やかな燧灘の旅であり、現在の西条に達しますが、本論では、ここを「投馬」国と見ています。山場を越えた割りには、劇映えしないのですが、それは、命がけの難所ではないからです。

 勿論、細々とした商いなので、海賊は、出てこないのです。

*改訂版 2021/08/23
 以上の伊予灘~燧灘行程は、当時としては、十分な思案のあげくですが、そのあと考え直したので、最新結論を書き残します。
 丁寧に、この間の陸路を模索すると、四国中央部を東西に走る中央構造線のおかげで比較的通りやすい経路が見つかりました。つまり、今日の伊予市で上陸して、石手川沿いに現在の東温市までゆるやかな上りであり、ここに、中継地を設けて、現在の西条に向けて山越えすれば、山道とは言え、比較的難路の少ない行程で到達できることがわかりました。つまり、船便で高縄半島北部まで行かなくても、山越えできる道があったのです。
 後ほどでてくる四国中央市からの東向き街道は、東方の吉野川上流の現在の池田に向かって、やはり、中央構造線の谷みちを利用してゆるゆる登っているので、実は、鳴門海峡付近に出るまで、中央構造線沿いの一文字の径と言うべきかも知れません。

 旧提案の船便は、貴重な船腹と漕ぎ手を長く労する上に、伊予灘の海況次第で難破する危険を抱えていたのですが、今回の提案では、短期間の山越えであって行程に危険は無く、労力と言っても、小分けした荷を農民達を動員して、必要なだけ人数を掛けて、先を急がずにゆるりと運べば良いので、大したものではないのです。
 言うまでもなく、農民達の義務には、収穫物の税だけでなく、年間一定日数の勤労奉仕も含まれていたので、ただ働きではないのです。もちろん、折角の動員ですから、食事が出るだけでなく、多少の小遣い稼ぎにはなっていたでしょう。そうでなければ、こうした行程は維持できないのです。

 また、行程上の要所で、市(いち)を開いて、売り買いすれば、はるか東方まで行き着く前に、荷が売りさばけてしまうかも知れませんが、その時は、市で仕入れた荷をまとめて、次に進むのかも知れません。

 と言うことで、本説で言う投馬国、西条地区までの行程は、現在の大分付近から三崎半島に至る、手短な「渡海」を除けば、並行する陸路で支えられているので、荷船を起用したとしても、官道経路としては「陸行」ですが、書類上は水行二十日に括られてしまったということでしょうか。

 毎度のことですが、史料に書いていないことはわからないのです。

                              未完

2020年5月 3日 (日)

番外記事 市民古代の会・八尾 「多元史観」シリーズ動画の紹介

 当記事は、書評、批判ではなく、単なる「文献」紹介です。

 冒頭の「古田武彦氏の多元史観で古代史を語る@」....を省略しています。

 一連の解説動画が、下記の通りYouTubeで公開されていますが、YouTubeの検索やら、竹村順弘 チャンネルなどでは、一連の動画を順序立ててみるのが、大変むつかしいので、以下に列記してみました。「古田武彦、邪馬壹国、九州王朝、倭国年号」と言ったキーワードを見ただけで「頭が白く」なるかたは、心身の健康のために避けて頂く方が良いのですが、それを除けば、賛成、反対、意見保留のいずれであっても、得るところの多い内容と思いますので、この際、まとめてみて頂くと良いと思います。
 もっとも、一編10ー25分程度なので、目下のご時世でなければ、中々見通せないでしょう。(まだ、半分しか公開されていないのです)

 概して、多数ある講演会ライブ動画と異なり、無観衆で冷静な語りで進んでいるのは、落ち着いて見るとこができます。また、音声も、講演会ライブ動画と異なり、随分聞き取りやすいものです。

 見たところ、市民古代の会・八尾 服部静尚氏の講演を竹村順弘氏が動画に収録、公開しているもののようです。世上の泡沫書籍と異なり、古田武彦氏の大部の著作を元に、着実な論考を積み重ねていて、御両所とも、大変な時間と労力を費やしたものと拝察し、賛辞を送ります。

 当記事筆者は、YouTubeで結構多数の動画を公開しているのですが、中々見やすいようにまとまらないので、身につまされて一工夫してみたものです。

 ご参考まで。
              -記-
1、邪馬台国と卑弥呼@その1、中国正史が示す邪馬壹国@DSCN7167     22分
1、邪馬台国と卑弥呼@その2、短里と長里1@DSCN7172          10分
1、邪馬台国と卑弥呼@その3、短里と長里2@DSCN7179          15分
1、邪馬台国と卑弥呼@その4、卑弥呼が朝貢した理由@DSCN7145      17分

2、古墳と多元史観@その1、考古学者が畿内説を支持する理由@DSCN7149  14分
2、古墳と多元史観@その2、箸墓は卑弥呼の墓か@DSCN7152        15分
2、古墳と多元史観@その3、盗まれた天皇陵@DSCN7535            22分

3、倭国独立と倭国年号@その1、倭の五王から冊封離脱まで@DSCN7542     17分
3、倭国独立と倭国年号@その2、白鳳は倭国の年号@DSCN7552       17分
3、倭国独立と倭国年号@その3、天皇系図にもあった倭国年号@DSCN7558  17分
3、倭国独立と倭国年号@その4、金石文に倭国年号が少ない理由@DSCN7562 13分

4、聖徳太子の実像@その1、天王寺と四天王寺@DSCN7566         25分
4、聖徳太子の実像@その2、十七条憲法は聖徳太子作ではない@DSCN7569  20分
4、聖徳太子の実像@その3、十七条憲法とは@DSCN7571            23分

以上

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