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2020年5月

2020年5月21日 (木)

新・私の本棚 番外随想 淀川水系の終着地 木津川恵比寿神社と椿井大塚山古墳 追記 図版補充

                  2020/05/20 図版補充 2020/05/21

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 *東西交易の東の終着地
 今回、三年余りを経て、当記事を再確認したのは、淀川水系水運の要地であった木津は、瀬戸内海航路未形成の時代、東西交易の東の終着地として繁栄していたのではないかという考察によるものです。
 しきりに書いているつもりですが、ここに掲げているのは、論考ではなく随想であり、フィクションに属する書き物ですから、論考としての不備を攻撃するのは、ご容赦いただきたいのです。

*越すに越せない難所
 時代経過で変化しますが、三世紀当時、瀬戸内海航路には、淡路島南北の明石海峡、鳴門海峡以外にも、西端の関門海峡、四国北部と中国の間で多島海の岩礁が障害となる芸予諸島備讃瀬戸とも一カ所だけでも途方に暮れるような難所があって、これら全部を乗り越えて積載量のとれる荷船を運用する安定した交易が発展していなかったと(勿論、勝手に)みているのです。

*難所回避の試み
 別記事で、難所を避ける一説を述べましたが、その場合、西の九州島岸から海上移動して北四国に達し、一部丘越えもして辿り着いた燧灘沿岸沿いに東に進んだあと、突き当たりで本格的に上陸して丘越えの吉野川を東行し、最後は鳴門海峡の東に降り立つ「断然難所回避」経路が採用されていたのではないかと(勿論、勝手に 以下略)見るものです。そこから先は、特に難所のない河内湾、茅渟の海から、滔々たる淀川水系に入るのです。

*絶えない流れ
 勿論、そのような経路が通じていたとして も、東西交易としては、細々としたものであり、随所に背負子による陸路の荷物送りが介在していたため、物資の移動速度は、今日の眼で見ると遅々したものでしょうが、何しろ、「途方もない難所」の連発する経路は、根っから通過不能ですから、細々としていても繋がっている流路は、近隣に競争相手がなく、絶えない流れになっていたのではないかと思量します。

 ともあれ、荷物が河内湾岸まで届きさえすれば、後は、淀川水運で易々と運べますから、水が低きに流れるように、木津川政権に物資が流れよったものと見えます。古人曰く「流れる水は先を争わない」のです。

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*語られざる木津の繁栄
 そのような水運の終着地としての木津の繁栄が、いつ始まったのか、いつまで続いたのか、確かな記録は聞いたことがありませんが、色々考え合わせると、木津は、三世紀当時、燦々たる輝きを放っていた「東都」であったように思えます。
 古墳の遺物は無言ですが、無類の栄華を推定させるのです。

 また、木津の繁栄は、考古学者が認めるように、三世紀当時、巻向方面への物資の流れが、さほど潤沢でなかったことの説明にもなるのですが、古墳時代前倒しの大方針に逆らうので、大方の同意は得にくいでしょう。

*東都の誉れ
 西の伊都が半島を経た大陸交易で栄えていたのと比較すると、「東都」は虚名と見え、随分みすぼらしいかも知れませんが、同時代・同地域の世界観では、木津の天下は、木津の目が届き、やすやすと行き着ける範囲であり、到達に数か月を要しかねない伊都は、交易の鎖の彼方であるから、恐らく行き着くことのない異界であり天外だったので、精々風聞であり、木津は「天下第一」だったのです。ちなみに、鉄道の終着駅は、同時に始発駅でもあります。

 と言う事で、お話の細い鎖が、辛うじて繋がったところで、筆を置くのです。

                               以上

〇追記 2020/05/21

  ここに提示している淀川水系を経た木津川水運を、まずは、後世の平城京地区への道のり、あるいは、古墳時代の纏向への運送を想定して、定説とされているように見える大和川水運ないしは竹ノ内街道越えの河内経路と対比してみました。

 

 大和川は、素人目にも、季節によって水量が大きく変動する、激流で蛇行が激しい暴れ川であり、浅瀬も多いので、水運には、とことん不向きと見えます。また、二上山を越える竹ノ内街道は、図示するまでもなく、つづら折れの長い山道のため、図上の見た目より遥かに長い道のりです。つづら折れの旧道があったと言う事は、背負子で担いで登る行程だったのでしょうが、最古の古代街道ですから、大量輸送には向いていなかったと思われます。

 これに対して、木津から平城京地区への道筋は、精々背の低い「なら山越え」であり、道のりも片道十㌔㍍に及ばないので日帰り行程になっています。纏向となると、片道二十五㌔㍍程度ありそうですが、別に、木津川からそこまで届ける必要はないので、手近の「駅」で荷を下ろして、その日のうちに木津川に帰れる想定です。いずれにしろ、以後の道中は、大した難路のない古代街道になっています。

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 もっとも、纏向は、ぱっと見でわかるように、盆地東部に偏しているので、河内からの輸送は、さほど便利ではなかったのです。

 ブログ記事では定番のGIFですが、特に手の込んだ作図はなく、グーグルマップの提供する展望図に注釈を加えただけ、つまり、グーグルの規定通りの利用に止めています。

以上

2020年5月20日 (水)

新・私の本棚 番外随想 淀川水系の終着地 木津川恵比寿神社と椿井大塚山古墳 2/2

                    2017/02/11 2018/12/10 補充 2020/05/20
*鄙の氏神
 さて、移住集団が最初に行うことは、神社の建立です。氏族の氏神に父母、祖父母をまつり、氏族集団の統御の象徴とするのです。それらしい神社を求めて探すと、木津川市加茂町の恵比寿神社が目につきました。

 木津川市サイトに公開の社伝によると、鎌倉時代末期、元弘年間創建としています。公式記録は尊重しますが、それ以前に神社がなかったのではないように思います。社殿の説明板によると、古文書らしい「蛭子明神記録」には、鎌倉時代寛元二年(1244)の棟札があったとされ参考になります。

 つまり、公式記録の元弘年間創建は、それ以前の神社を改装したということでしょう。創建したのなら、どこそこの恵比寿神社から祭神を招いたとあるはずですが、特にないから、あるいは、近畿最古と思うのです。特に証拠があるわけではないのですが。

*ひるこ幻想
 「えびす」の発音ながら、ことさら「蛭子明神記録」というのは、伊弉冉(いざなみ)伊弉諾(いざなぎ)の両神から生まれた「ひるこ」かもしれないのです。
 創世神話で、ひるこは早くに生まれたものの両親の意に沿わず、幼くして捨てられたとありますが、実際は、両親の意に反して家を出たために家系から外されたという見方も、独善を承知で、しようと思えばできるのです。

 緩やかに解釈すると、ここに定着した集団は、いずれかの時点で母国を離れた反逆児かもしれないのです。そうした推定には証拠はないのです。

*神社の継承
 古代以来、各地に無数といえるほどの神社が建立され、ほとんど廃社になった例を聞かないので、当神社は、古代木津政権の氏神の後身ではないかと思うのです。おそらく、この地が、氏神にふさわしい地形、方位であり、他に代えがたかったと感じるのです。

 先ほど、鄙と書きましたが、当時の人々にしてみれば、住めば都、ここが世界の中心だったはずです。

 近年まで、木津川対岸えびす岩に船で渡る神事が長く維持されていたということですから、時代が下っても、えびすさんは、地元住民の尊崇の的なのでしょう。

 木津川市サイトの解説では、社殿は、鎌倉時代創建ながら高床式建物といいます。おそらく、古代創建であり、その後、木津川の氾濫などで損壊して、再建されたのでしょう。

 西宮や堺に漂着した恵美須神社ご神体は、案外、木津川氾濫が由来かも知れません。となると、当地は、湾岸各地の恵美須神社の総本山ということになりますが、どうでしょうか。

 以上、あくまで推定です。

*おことわり
 以上のつじつま合わせで、一応もっともらしいお話になったように思うのですが、実は、以上は、すべて、ある一日(「建国記念日」)の午後に、PCでネットを彷徨いながら、古代に生まれ繁栄し、やがて、衰退して歴史に名を残さずに埋もれた一地方政権についての幻想を綴りあげたのです。

 決して、木津川市に実在する古墳や神社の古代歴史を勝手に書き換えて迷惑をかけようとしたものではないのです。あくまで、あくまで、「フィクション」です。

                               以上

新・私の本棚 番外随想 淀川水系の終着地 木津川恵比寿神社と椿井大塚山古墳 1/2

                       2017/02/11 2018/12/10 確認 2020/05/20
*はじめに
 木津川恵比寿神社にたどり着いたのは、元々、別の記事で批判した小林行雄氏の論説で古代の銅鏡配布の一大拠点とされている椿井大塚山古墳の被葬者、「木津政権」首長の故地をPC上で散策したものです。現地に行ったことはありませんが、随想を綴れるだけ詳しい状況を探ったのです。

*木津政権の萌芽

 グーグルマップで椿井大塚山古墳の位置を探すと、話に聞いたとおり、JR奈良線の軌道が横切っていて、広く見渡すと、ここは大阪湾から遡上した淀川水系の木津川の東岸であって、木津川は、南した後、大きく東に転じL字型の流路が開けています。

 木津川の西岸にはJR片町線が走っていて、南のJR木津でJR奈良線と連絡します。いわば、河川水運、陸上交通の両面で、要地を占めていることが見て取れます。いずれの時代か、いずこからか河内湾に来航した船団が淀川に入り、それぞれ好適と思われる地点に定住者を下ろしては遡上し、ここに一団が定住したようです。

 ずいぶん長い期間を要したでしょう。同じ淀川水系でも、木津川以外の支流である宇治川を遡行して琵琶湖に到着した集団や、桂川や賀茂川を遡行した集団もあったとも思われますが、その経緯は不明です。
 
*大いなる繁栄

 確かなのは、木津川流域のこの地点に定住した集団が、木津川の豊富な灌漑水量と水産資源を生かした農漁業で十分な食料を得るとともに、木津川-淀川-瀬戸内海という無類の幹線水路の水運を仕切って、交易収益により堂々と自立していたでしょうということです。
 
 そうした交易経路が確保できた原因は、淀川流域の要所に一族が定着して協調的に交易ができたということでしょう。いや、推測しているだけです。
 
 後年、木津政権が大量の銅鏡を得たのは、交易で入手(購入)したか、あるいは自身で銅鋳物を行ったか、と思われます。後者であれば、銅素材を交易で購入するについて、自前で鋳造した銅製品を提供(販売)していたとも思われます。

 何しろ、大量の銅素材や銅鏡を入手するには、大量の対価物が必要で、さほど広くない領地で穀物生産が格別潤沢とも思えず、それ以外に「売り物」が見当たらないので、銅製品の販売と思うのです。

 現代風の経済概念でいうと、「高度技術」による「付加価値」で大きく稼いでいたのではないでしょうか。もちろん、これほどの技術があれば、ほかにも売り物はあったはずです。

 とにかく、「夜郎自大」ではありませんが、壮大な宮殿こそ建てなかったもののこの地域の周辺では、抜群の威勢を誇っていたのではないでしょうか。

*ヤマトとの関わり
 ここは、山城国です。南のさほど高くない分水嶺を越えると曾布地域ですが、手近なので、先進木津政権の恩恵を受けたかもしれないのです。

 さらに南に下ると、平地と言っても距離のある葛城、三輪であリ、徒歩行で遠距離であるので、銅鏡「配布」時代に、利害衝突、さらには、武力衝突はなかったと思われます。もちろん、何の証拠もないのです。

                                未完

2020年5月17日 (日)

私の意見 ブログ記事 倭人伝「南至邪馬壹国女王之所都」の異論異説 ⑴~⑶ 1/1

古賀達也の洛中洛外日記 第2150話 2020/05/11
私の見立て ★★★★★ 論理的考察のお手本       2020/05/16

〇はじめに
 提示されているのは、倭人伝道里記事の終着点の解釈です。と言っても、当ブログ記事筆者の提案ではなく、古田武彦氏と古賀達也氏の意見です。ここであげるのは、別の視点です。

*異論異説紹介
原文 南至邪馬壹国女王之所都水行十日陸行一月

 通常、「南至邪馬壹国女王之所都、水行十日陸行一月」 と句点を打っていますが、..女王之所、都水行十日陸行一月」と句点する提案です。

 従来、「水行..陸行」は、古田氏提唱の「全行程通算日数」との読み畿内説の命綱の「最終通過点からの所要日数」との読みが角逐していましたが、「都水行..陸行」ならば、全行程通算とできるという見方です。

 衆知の如く、倭人伝原文は句読点なしにべったり書き連ねていて、これでは、日本人だけでなく現代中国人も解釈に苦しむので、古来、多数の碩学者が、長年苦吟の上で句読点を打っていて、中国史学会で伝統的に採用されている解釈ですから、絶対的な支持を得ていますが、素人の乏しい経験ながら、句読点の打ち間違いで、深意を取り違えている例は、いくつか見つかっています。

 句点に関する異議は、新説提起に慎重な古田氏が、「決定的論証が不足している」と提言を控え、その衣鉢を継ぐ古賀氏も、辛抱強く補強策を求めていますが、当方は、微力ながら背中を押したいのです。

〇「女王之所都」の不合理
 冷静に見ると、「女王の都とする所」とする解釈には多々難があります。
 「王都」は、二字熟語として、中国史書で言う「周王の都」と決まっていて、夷蕃王の治所に使うべき言葉ではありません。そして「王之所都」は、類似した意味のようですが、公式史書の定型文を外れた、変則的な言い回しです。

*班固「漢書」の教え
 先行する班固「漢書」西域伝でも、「王都」は、唯一、西域の超大国、安息だけであり、多数の小国は、「治」、「居」、「在」です。安息は、東西数千里の超大国パルティアであり、文字記録、金銀貨幣、全国街道の整った、漢と対等の文明国ですから、両漢は、例外として「王都」と呼んでいたのです。因みに、漢代に参詣した各国の来貢使節は、ほぼ例外なく、正史、副使、書記官、護衛官と上下揃って印綬を受領して帰国しています。

 「王都」は、漢の国内でも、郡国制で王をいただく国にだけ適用され、特別な例外を除けば、国王は皇帝同族の劉氏です。

 と言う事で、新来で、精々外藩の王に過ぎない女王の居処に、「王都」なる尊称は与えられません。まして、この位置は、景初遣使事績に触れる以前ですから、「女王」は由緒も何もない蕃王であり「所都」とは言えません。

*范曄「後漢書」の教え
 范曄「後漢書」は、「其大倭王居邪馬臺國」として「王都」と言わないし、個別の小国である「倭」と全体を束ねた「大倭」を書き分けて絶妙です。また、大部の笵曄「後漢書」西域伝も、夷蛮の国に関して、適確です。世上、笵曄が史家として至高の存在であると「崇拝」している向きがあるので、あえて、一言を述べたものです。

〇論証の重み
 以上は、証拠の山に支えられたものでなく、論理で構築した仮説です。

〇猫に小判
 所詮、本説を受け入れられない論法の方には、「猫に小判」と思うだけです。

                                以上

2020年5月14日 (木)

09. 自稱大夫 - 読み過ごされた遺風 補充版

                      2014/04/29 補充 2020/05/14

〇大夫の由来
 「大夫」が、秦・漢の官制で庶民の爵位であり、これを高官とするのは、遙か周制に遡るものと理解していました。
 しかし、東遷以前の周朝の王都は、関中にあって後の長安に近く、東夷からすると遙かに西方の内陸で近づきがたいものであり、かといって、後の洛陽に近い東遷以後の周朝は低迷したのです。つまり、はるばる来貢した蛮夷が、周朝の官制について何らかの資料を持ち帰って、国内にその制を敷いたとは見えないのです。

*地に墜ちた大夫
 衆知の如く、周が亡んだ後の戦国を天下統一した秦は、周の官制を捨て去り、自国の官制を天下に敷いたのですが、その勲爵制では、「大夫」は、単なる庶民階級となっていたのです。そして、漢は、秦の制度を引き継いだものです。
 文字記録を知らない未開の東夷が、そのようにして学びとった、太古の大夫の制度を、秦漢制を受け付けずに数世紀後まで遺していたことには疑問を感じてました。

*新の復古
 このたび、王莽の創設した新王朝の官制について調べたところ、「大夫」が政府高官の地位を与えられていたことがわかりました。
 王莽は、新朝創設の始建國元年(9年)に、漢王朝の官制を根本的に改めて、十一公を最高の官位とし、これに従う官として「九爵」を設けています。
 各爵には、下位官職としてそれぞれ三人の大夫を設け、各大夫には、下位官職として三人の元士を設けています。
 つまり、十一公、九爵、二十七大夫、八十一元士が、新朝官制の頂点に形成されたのです。
 言うまでもなく、このような官制は、周朝制度の復活を意図したものです。

 歴史の流れを知っている現代人は、新朝が砂上の楼閣であり、その崩壊は必然であったように思いがちですが、当時、二百年続いた厳然たる漢王朝の全土支配体制を「正しく」引き継いだ政権であり、その威勢は百年もの、確固たるものと思われていたはずです。

 まして、新朝の積極的な内外への覇権誇示の姿勢は、退潮気味であった漢朝末期の不振を払拭するもののように見えたでしょう。
 従って、新朝の新官制は、四夷に伝達され、大夫の地位は、再び大きく高められたものと見えます。

*後漢黎明期の入朝
 後漢光武帝建武中元二年(57年)の倭奴國入朝は、新朝からの政権交代直後であり、すでに、文明の光が及んでいた東夷に半世紀前に復古した大夫制度が残っていたとしても不思議ではありません。

*范曄創作疑惑
 あるいは、陳寿の三国志編纂の百五十年後に後漢書を編纂する偉業に取り組んだ笵曄は、魏志東夷伝に先立つ東夷記事を構築する際に、工作を施したと見えます。実際、光武帝時代から、桓帝、霊帝までの一世紀余りは倭伝史料の無い空白の世紀ですから、例えば、「倭國大乱」は、風評に過ぎないことになります。
 ここに「使人自稱大夫」とあるのは、魏志が初見のように書き立てている「倭人」は、実際は「倭奴」の美称に過ぎず、後漢代に既にその正体は知れていたと見せかけたようにも見えます。

 して見ると、倭伝冒頭で謳い上げた「大倭王居邪馬臺國」は、漢武帝期以来の倭に関する時代不明の創作であり、後に三国志の守備範囲である献帝期、建安年間を避けるように遡行させた「卑弥呼」共立記事と相俟って、倭国/倭人の来歴をずりあげて、魏志の景初入朝記事を陳腐化させるべく創意を凝らしたのかも知れないのです。

 范曄が、後漢書西域伝編纂に際して、原資料を風聞として廃棄して大がかりな創作をこらした事例から見ると、倭奴国使人が大夫を自称したとわざわざ書き込んだ手口は、そのように疑いたくなるのです。

 倭人伝の「大夫」は、そのような波紋を巻き起こしている重大な一言なのです。

以上

倭人伝随想 7 倭人伝談義/舊唐書倭国伝談義 1/1 補充版 舊唐書に「日本伝はない」

                            2018/12/06 補充 2020/05/14
□倭人「伝」談義
 伝は、史書の最小叙述単位であって、一人歩きできる体裁を持つものと考えますが、それは、叙述内容に由来するものと思われます。東夷伝倭人記事は、「倭人」の歴史、地理、風俗を語り、王都への行程を語り、近年の事象の経緯を語り、「倭人」 伝の形式を備えているように見えるのです。後世の素人読者の目にそう見えるという事は、陳寿の編纂方針は、「倭人伝」を確立していたと思えるのです。

 形式を備えた伝は、時には、他の伝に連なって列記され、時には、より広い範囲を語る伝の一項となっています。史書の構成を階梯と見るとき、その伝の扱い次第で階梯の上下が生じるのです。

 思うに、伝は、本来史書の最下部単位であり、条はその単位に満たない、挿話の扱いと思われます。しかし、倭人記事のように東夷伝の一部であっても、伝の体裁を保つものを条と見るのは、見当違いと思うのです。

 と言う事で、当ブログでは、倭人伝は、編纂者の意図として、伝の体裁を整えたと見て、僭越にも「倭人伝」と呼んでいるのです。

 さらに言うと、元々、倭人伝で格別の偉業を伝えられている卑彌呼も、伝が意図されたと思いたいのです。現状、その面影は掠れて伝の体裁を成さないので、勝手な思い入れに過ぎませんが、せめて、倭人伝が魏志掉尾を飾る役どころも評価して、「倭人伝」(紹凞本小見出し)と呼んでほしいのです。

 以上は、「倭人伝」を「魏志」独立記事と主張しただけですが、世上、聞きかじりで、『「倭人伝」という歴史書』など行きすぎた言い方があるのです。
 これを目にしたと思われる史学界権威が、(歴史書と誤解される)「伝」でなく、「条」とすべきであると苦言を呈しているのも当然と思われます。当方は、この至言は尊重するものの、やはり、倭人伝と呼びたいのです。

□舊唐書倭国伝談義
 「伝」談義で連想されるのは、唐時代記録の舊唐書(旧唐書)です。

 この正史には倭人伝後続の「倭国伝」があり、書き出しで歴代正史倭国記事に触れた後、唐代記事として唐に対する交通が順当に書かれています。これに対して、続く日本記事は、独立した伝としての「実」が整っていません。

 つまり、通常「日本伝」とされている記事は伝の要件を満たしていないので「倭国伝日本条」と見るべきものではないでしょうか。

 もっとも、維基文庫や中國哲學書電子化計劃は、刊本の巻頭見出や改行段落に従い、日本(伝)と認めているようです。いや、これらは、何れかの時点での原本改訂かも知れないので、必ずしも編者の意思を反映していない、かも知れませんが、それは、別儀としておきます。

 舊唐書を要約収録した太平御覧は、倭国と日本の記事を独立収録していますが、そのような文書形式に従ったものでしょう。ほぼ同時代の通典、唐会要での扱いも同様です。なお、新唐書は、倭国伝を置かず、「東夷伝日本」にまとめています。

 一方、岩波文庫「中国正史日本伝」は、倭国伝を「倭国日本伝」として日本記事を包括し、後続の国書刊行会書籍は「倭國伝」として、こちらも日本記事を包括し、どちらも「日本伝」を表示していませんが、これが日本史学界の舊唐書倭国伝に関する見解と思われます。

 世評では、舊唐書は二伝を併存させていて不都合としていますが、舊唐書に「日本伝はない」のであれば、そのような誤解の即断は正すべきと考えます。

参考資料 
 岩波文庫 「中国正史日本伝(2)」
  旧唐書倭国日本伝・宋史日本伝・元史日本伝
     石原道博編訳 1956年9月第一刷
 国書刊行会 「中国・朝鮮の史蹟における日本史料集成」正史之部㈠ 1975年
                                     この項完

2020年5月12日 (火)

今日の躓き石 毎日新聞の心ない報道 「 リベンジ」さらしに終わりはないのか

                               2020/05/12

 本日の題材は、毎日新聞大阪朝刊第14版スポーツ面ど真ん中の記事である。『「絶好調時ケガ」似た心境』と誠に舌足らずの不出来な大見出しで、続いて、『リオ雪辱に全霊「東京」延期』と乱れた言い回しで、もう、不吉としか言いようのない、暗雲漂う記事である。

 それにしても、全世界がパンデミックの猛威に沈み、発病した直接の関係者でなくても、数限りない人たちが、自粛や自主閉店、さらには、失業による収入途絶で、家計の支えとしていた収入源を失って悲嘆に沈んでいるのに、ご当人は大会の延期しか頭にないのは、国を代表する選手にしては、何とも、貧しいこころざしである。
 余計なことだか、「いざラストスパート」などと、見当違いな語り口も不吉である。大会前にラストスパートなどしたら、肝心の本大会では、疲れ切った姿をさらすだけではないのか。素人考えながら、普通、万事調整して、本番にピークの体力を残すものではないのか。
 このように沢山字数が空転しているが、要は、パンデミックなんて言うが、こんなもの、全然大したことない、ケガしたようなもので、何、乗り切ってみせるさ、と言うように、ぱっと見に見えてしまう。
 ご当人は、収入面に何の不安もないのか、何とも暢気である。その余裕からか、世間に暴言を投げつけていると見える。

 大体が、大会延期に至る成り行き全体を、何かに恨みを抱くだけで乗り越えて仕返ししようというのだから、始末に負えない。自己中心は当人の勝手だが、それを、わざわざこうした形で、全国紙の閑散なスボーツ面に大きな顔のさらし者にするのは、毎日新聞としてどういうつもりなのだろうか。こうして紙面に出てしまったら取り返しがつかない。当人名義のSNSとは、格が違うのである。

 そうした気分の頂点で、かつて、「見ていろ、2020年にはぶち殺してやる」と「リベンジ」を誓ったらしいが、何とも、自分で自分に泥を塗る発言ではないか。それが全身全霊とは、情けない。テロに荷担して何とも思っていないのである。
 これは、手記だから止められなかったのだろうか。せめて、世間に恥をさらす、子供に負の遺産を残す、罰当たりな表現は、何とかできなかったのだろうか。

 担当記者は、この記事を世に出したことで、特に何にも問われないだろうが、署名付きで手記を寄せた当人は、記者の勝手な解釈という言い訳も効かず、一生、この不手際を自身の咎として背負っていくのである。何とか、それだけは避けて欲しかったものである。読者は、記者の名前など念頭に無いから、毎日新聞の紙面にぶちまけられた選手の暴言と汚名が残るだけである。

 今回の「リベンジ」は、本人の血と汗がにじんでいるだけに、大新聞の報道としては、何としても取り除いて欲しかったものである。せめて、もっと筋の通った記事を書いて、毒消しして欲しいものである。

 それにしても、荒れ狂った選手手記は、末尾で、何の断りもなく、署名記者のコメントに移る。ちゃんと内容を読み通しているのである。それはそれとして、急に文章の視点が変わるのは、誠に不意打ちである。どういうつもりか困惑するのである。毎日新聞は、そういう報道方針なのだろうか。

以上

2020年5月 3日 (日)

番外記事 市民古代の会・八尾 「多元史観」シリーズ動画の紹介

 当記事は、書評、批判ではなく、単なる「文献」紹介です。

 冒頭の「古田武彦氏の多元史観で古代史を語る@」....を省略しています。

 一連の解説動画が、下記の通りYouTubeで公開されていますが、YouTubeの検索やら、竹村順弘 チャンネルなどでは、一連の動画を順序立ててみるのが、大変むつかしいので、以下に列記してみました。「古田武彦、邪馬壹国、九州王朝、倭国年号」と言ったキーワードを見ただけで「頭が白く」なるかたは、心身の健康のために避けて頂く方が良いのですが、それを除けば、賛成、反対、意見保留のいずれであっても、得るところの多い内容と思いますので、この際、まとめてみて頂くと良いと思います。
 もっとも、一編10ー25分程度なので、目下のご時世でなければ、中々見通せないでしょう。(まだ、半分しか公開されていないのです)

 概して、多数ある講演会ライブ動画と異なり、無観衆で冷静な語りで進んでいるのは、落ち着いて見るとこができます。また、音声も、講演会ライブ動画と異なり、随分聞き取りやすいものです。

 見たところ、市民古代の会・八尾 服部静尚氏の講演を竹村順弘氏が動画に収録、公開しているもののようです。世上の泡沫書籍と異なり、古田武彦氏の大部の著作を元に、着実な論考を積み重ねていて、御両所とも、大変な時間と労力を費やしたものと拝察し、賛辞を送ります。

 当記事筆者は、YouTubeで結構多数の動画を公開しているのですが、中々見やすいようにまとまらないので、身につまされて一工夫してみたものです。

 ご参考まで。
              -記-
1、邪馬台国と卑弥呼@その1、中国正史が示す邪馬壹国@DSCN7167     22分
1、邪馬台国と卑弥呼@その2、短里と長里1@DSCN7172          10分
1、邪馬台国と卑弥呼@その3、短里と長里2@DSCN7179          15分
1、邪馬台国と卑弥呼@その4、卑弥呼が朝貢した理由@DSCN7145      17分

2、古墳と多元史観@その1、考古学者が畿内説を支持する理由@DSCN7149  14分
2、古墳と多元史観@その2、箸墓は卑弥呼の墓か@DSCN7152        15分
2、古墳と多元史観@その3、盗まれた天皇陵@DSCN7535            22分

3、倭国独立と倭国年号@その1、倭の五王から冊封離脱まで@DSCN7542     17分
3、倭国独立と倭国年号@その2、白鳳は倭国の年号@DSCN7552       17分
3、倭国独立と倭国年号@その3、天皇系図にもあった倭国年号@DSCN7558  17分
3、倭国独立と倭国年号@その4、金石文に倭国年号が少ない理由@DSCN7562 13分

4、聖徳太子の実像@その1、天王寺と四天王寺@DSCN7566         25分
4、聖徳太子の実像@その2、十七条憲法は聖徳太子作ではない@DSCN7569  20分
4、聖徳太子の実像@その3、十七条憲法とは@DSCN7571            23分

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