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2020年5月 8日 (金)

古代ロマンの試み 伊豫国宇摩郡 邪馬台国説 こと始め 序章 1/5  追記

                     - 2020/05/07, 05/08 05/10 2021/08/23
〇始めに
 本考は、当ブログでは番外も番外、長く続く外出自粛の夜の夢物語(ロマン)の試みです。果たして、一幕の随想としてうまく繋がるかどうか。
 ここでは、後のまとめを書き足して、5回ものにしました。(05/10)

〇また一つの「邪馬台国」説
 事は、ありふれた邪馬台国比定説ですが、その始まりは「字面」です。

 ご存じでしょうか。中国古代算術で、「邪」田は田地が斜めの平行四辺形ですが、廣従(幅縦)を掛ければ、方形の「方田」同様に面積計算できます。

 ここで、「邪馬」は、東北方向に向いた「斜馬」であり、当記事筆者が思いついたのは愛媛県の地形です。
 子供のいたずら書きみたいですが、伊豫/愛媛を、東北に駆ける馬に見立てて、発想を繋いでいくのです。

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*存在価値
 なお、この絵姿は、当考察のきっかけに過ぎず、「絵が下手」とか「馬じゃない犬だ」と断じても、考察の批判にならないので、うずたかい邪馬台国所在地諸説のすき間で、ひっそり生き延びられないものかと思っています。

*自画像ならぬ「児画」像
 三世紀当時、倭人の国都が、伊豫にあったとすれば、国王の手元に自国絵図が届いていても「おかしくはない」ので、中国語国名として「斜馬」ならぬ「邪馬」国を称したか思われます。

 誠に下手ですが、馬が出回っていなかったので姿が描けなかったとしてください。いやいや、地形は造作できないので、ただのつかみとします。

*投馬国水行説
 さて、魏志倭人伝道里記事は、朝鮮半島中部の帯方郡から海を越えて倭都に至るのに、九州上陸後、末羅、伊都、不彌を経た上で投馬へ、改めて「水行」したと読めます。何しろ、中国史書で「水行」は河川行ですが、倭人伝は「渡海」を「水行」と宣言したので、海を渡る水行に問題はないのです。

*乗り継ぐ船路
 東の関門海峡は、今日の強力な船舶も易々通過できない難所が非力な手漕ぎ荷船を阻むので、大きく南に迂回する経 路としたと見るのです。

 不彌から投馬へは、まず南に踏み出しても、東の国東半島北方で海岸に出て便船に乗り込むのです。馬のしっぽに見立てた三崎半島を南に臨む穏やかな伊予灘ですが、それが東西交易の主力として常用されたと思う原因です。

 便船は、一船、一商人の乗りきりでなく乗り継ぎしたと見るのです。荷船乗り継ぎは、当時、自然であり、港で荷下ろしして浜市で商った荷を積んだ次の商人の便船が進んだ、細くしなやかで、長続きする交易連鎖と見ています。

*続く旅路
 と言うことで、水行二十日の「投馬国」は、まだ少し先です。

 松山界隈から伊予灘を北上しますが、芸予諸島の難所を嫌って下船し、半島最北部を手短な山越えで横切り、今日の今治、後の伊豫国衙の地に出て、大三島の南方で便船を拾い南下したと思われます。

*続く旅路 改定 2021/08/23
 一年余りの間に、多少良い知恵が湧いたようです。松山界隈から伊予灘を北上するのを撤回し、現代の正木氏あたりから、石手川沿いに東に進み、比較的なだらかな峠越えのみちで、現代の西条、燧灘南岸に出る行程を採用しました。

*投馬お目見え~道前投馬国説
 そこからは、島影の見えない、穏やかな燧灘の旅であり、現在の西条に達しますが、本論では、ここを「投馬」国と見ています。山場を越えた割りには、劇映えしないのですが、それは、命がけの難所ではないからです。

 勿論、細々とした商いなので、海賊は、出てこないのです。

*改訂版 2021/08/23
 以上の伊予灘~燧灘行程は、当時としては、十分な思案のあげくですが、そのあと考え直したので、最新結論を書き残します。
 丁寧に、この間の陸路を模索すると、四国中央部を東西に走る中央構造線のおかげで比較的通りやすい経路が見つかりました。つまり、今日の伊予市で上陸して、石手川沿いに現在の東温市までゆるやかな上りであり、ここに、中継地を設けて、現在の西条に向けて山越えすれば、山道とは言え、比較的難路の少ない行程で到達できることがわかりました。つまり、船便で高縄半島北部まで行かなくても、山越えできる道があったのです。
 後ほどでてくる四国中央市からの東向き街道は、東方の吉野川上流の現在の池田に向かって、やはり、中央構造線の谷みちを利用してゆるゆる登っているので、実は、鳴門海峡付近に出るまで、中央構造線沿いの一文字の径と言うべきかも知れません。

 旧提案の船便は、貴重な船腹と漕ぎ手を長く労する上に、伊予灘の海況次第で難破する危険を抱えていたのですが、今回の提案では、短期間の山越えであって行程に危険は無く、労力と言っても、小分けした荷を農民達を動員して、必要なだけ人数を掛けて、先を急がずにゆるりと運べば良いので、大したものではないのです。
 言うまでもなく、農民達の義務には、収穫物の税だけでなく、年間一定日数の勤労奉仕も含まれていたので、ただ働きではないのです。もちろん、折角の動員ですから、食事が出るだけでなく、多少の小遣い稼ぎにはなっていたでしょう。そうでなければ、こうした行程は維持できないのです。

 また、行程上の要所で、市(いち)を開いて、売り買いすれば、はるか東方まで行き着く前に、荷が売りさばけてしまうかも知れませんが、その時は、市で仕入れた荷をまとめて、次に進むのかも知れません。

 と言うことで、本説で言う投馬国、西条地区までの行程は、現在の大分付近から三崎半島に至る、手短な「渡海」を除けば、並行する陸路で支えられているので、荷船を起用したとしても、官道経路としては「陸行」ですが、書類上は水行二十日に括られてしまったということでしょうか。

 毎度のことですが、史料に書いていないことはわからないのです。

                              未完

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コメント

 コメントありがとうございます。当記事の枕の部分で感情的に反発されたようですが、最後の着地点まで読んで頂けたでしょうか。
 古田説が当方の意識に「刷り込まれている」ことは、別に否定しませんし、氏が本居宣長を引いて「わが説にななづみそ」と言い置かれたことも刷り込まれているので、無批判な追従になっていないのは、見ていただいていることと思います。
 さて、今回は、懇切丁寧に前振りしているように、維持している「解」にも関わらず、特定の比定地に至る「一解」が「否定しがたい」、山とある諸説の末尾に名をとどめたいと言うだけのもの、と言っているだけで、先賢の諸説を一掃する意図は、全くないのは理解いただけましたでしょうか。
 また、最終的に、いわゆる直行説に染まっているものでもないのです。
 当方は、筑紫から纏向への独特の行程提唱を含めて、既存の俗説の山々を乗り越える特異な素人考えをこね回しているのであって、別に誰の説に追従しているわけでもなく、貴兄の非難は、だいたいのところお門違いと思います。
 いや、恐らく、先賢諸兄の九十九㌫は、つかみの部分で席を立っていることと想像しますから、おっしゃる趣旨はわかりますが、言っている当人が、懸命に、新説を飼い慣らそうとしているところがみていただけなかったのは残念です。なにしろ、「斜馬」発想を得て、ここ数年こね上げている所説と輻輳しない解になるように、一日でまとめたので、行き届かない点は多々あるものと思います。
 大抵の方は、比定地で一つ、枕の部分でまた一つ、取り付きだけで採否を決めることは承知していますし、とかく、当方の見える辺りに、自画像を投げつけてくるのは承知しているつもりです。
 と言う事で、誠にお愛想なしですが、苦言は苦言としていただいて、もう少し「宇摩説」を書き足して一旦幕を引き、ここまで掘り下げてきた小論の締めくくりにしたいと思います。
 因みに、半島内行程も、大分考証が進んできたので、新しい図示を試みています。全部見ていただけましたでしょうか。
以上 

 
 過去の投稿を振り返る最近の投稿については、時間もできたので読ませていただきました。
 貴方様は」邪馬台国問題については古田氏の『邪馬台国はなかった』から入られたようで、その思い入れと感動については良く伝わってきます。
 そして、長い間、古田氏の説と放射式記述説を最高の説として信じてきた貴方様にとっては放射式記述説を取り入れると「魏志倭人伝」記述の「投馬国の南水行一か月」というのが、実は大きな問題になることに気が付かれたのでしょうかね。おそらく。
 そうすると、貴方様は「魏志倭人伝」の水行という文句を従来のようにを瀬戸内海を行くというように、近畿説者と同様に定義しないと古田氏の説と放射式記述説というのが成立しないと思ったのですかね。
 ですが,投馬国を東の四国地方などにすると、邪馬台国の「水行20日、陸行一か月」も九州地域ではなくともよいので古田説ではなく近畿説にもなってしまうので、根底が崩れますすよね。この投稿は迷走に逆戻りのような気がしますが。

 いずれにしても、貴方様のような理知的で合理的、科学的な思考の持ち主でも、自説になると、次のようなかなり独善的な意見「何しろ、中国史書で「水行」は河川行ですが、倭人伝は「渡海」を「水行」と宣言したので、海を渡る水行に問題はないのです」というような根拠のない論理性のないものに囚われているのかもと、人間の業というのを感じた次第。
 マインドコントロ―ルという言葉は嫌いですが、生きてきた証である自分自身、自己を否定することは改めて難しいものだと、改めて感じた次第でもありますね。

 最後に、古代中国資料においては、「陸」という文字の定義は「水が無い高いところの場所、台地」というもので、現在のような「大地」という意味ではありません。そして、水と陸という文字の領域は、実は 「海((河川敷という原義と意味)」という文字の中に含まれています。それを証明しているのが『山海経」という題名です。この海は水と陸(台地)を包含している。

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