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2020年5月21日 (木)

新・私の本棚 番外随想 淀川水系の終着地 木津川恵比寿神社と椿井大塚山古墳 追記 図版補充

                  2020/05/20 図版補充 2020/05/21

Kizu_001

 *東西交易の東の終着地
 今回、三年余りを経て、当記事を再確認したのは、淀川水系水運の要地であった木津は、瀬戸内海航路未形成の時代、東西交易の東の終着地として繁栄していたのではないかという考察によるものです。
 しきりに書いているつもりですが、ここに掲げているのは、論考ではなく随想であり、フィクションに属する書き物ですから、論考としての不備を攻撃するのは、ご容赦いただきたいのです。

*越すに越せない難所
 時代経過で変化しますが、三世紀当時、瀬戸内海航路には、淡路島南北の明石海峡、鳴門海峡以外にも、西端の関門海峡、四国北部と中国の間で多島海の岩礁が障害となる芸予諸島備讃瀬戸とも一カ所だけでも途方に暮れるような難所があって、これら全部を乗り越えて積載量のとれる荷船を運用する安定した交易が発展していなかったと(勿論、勝手に)みているのです。

*難所回避の試み
 別記事で、難所を避ける一説を述べましたが、その場合、西の九州島岸から海上移動して北四国に達し、一部丘越えもして辿り着いた燧灘沿岸沿いに東に進んだあと、突き当たりで本格的に上陸して丘越えの吉野川を東行し、最後は鳴門海峡の東に降り立つ「断然難所回避」経路が採用されていたのではないかと(勿論、勝手に 以下略)見るものです。そこから先は、特に難所のない河内湾、茅渟の海から、滔々たる淀川水系に入るのです。

*絶えない流れ
 勿論、そのような経路が通じていたとして も、東西交易としては、細々としたものであり、随所に背負子による陸路の荷物送りが介在していたため、物資の移動速度は、今日の眼で見ると遅々したものでしょうが、何しろ、「途方もない難所」の連発する経路は、根っから通過不能ですから、細々としていても繋がっている流路は、近隣に競争相手がなく、絶えない流れになっていたのではないかと思量します。

 ともあれ、荷物が河内湾岸まで届きさえすれば、後は、淀川水運で易々と運べますから、水が低きに流れるように、木津川政権に物資が流れよったものと見えます。古人曰く「流れる水は先を争わない」のです。

Kizu_002

*語られざる木津の繁栄
 そのような水運の終着地としての木津の繁栄が、いつ始まったのか、いつまで続いたのか、確かな記録は聞いたことがありませんが、色々考え合わせると、木津は、三世紀当時、燦々たる輝きを放っていた「東都」であったように思えます。
 古墳の遺物は無言ですが、無類の栄華を推定させるのです。

 また、木津の繁栄は、考古学者が認めるように、三世紀当時、巻向方面への物資の流れが、さほど潤沢でなかったことの説明にもなるのですが、古墳時代前倒しの大方針に逆らうので、大方の同意は得にくいでしょう。

*東都の誉れ
 西の伊都が半島を経た大陸交易で栄えていたのと比較すると、「東都」は虚名と見え、随分みすぼらしいかも知れませんが、同時代・同地域の世界観では、木津の天下は、木津の目が届き、やすやすと行き着ける範囲であり、到達に数か月を要しかねない伊都は、交易の鎖の彼方であるから、恐らく行き着くことのない異界であり天外だったので、精々風聞であり、木津は「天下第一」だったのです。ちなみに、鉄道の終着駅は、同時に始発駅でもあります。

 と言う事で、お話の細い鎖が、辛うじて繋がったところで、筆を置くのです。

                               以上

〇追記 2020/05/21

  ここに提示している淀川水系を経た木津川水運を、まずは、後世の平城京地区への道のり、あるいは、古墳時代の纏向への運送を想定して、定説とされているように見える大和川水運ないしは竹ノ内街道越えの河内経路と対比してみました。

 

 大和川は、素人目にも、季節によって水量が大きく変動する、激流で蛇行が激しい暴れ川であり、浅瀬も多いので、水運には、とことん不向きと見えます。また、二上山を越える竹ノ内街道は、図示するまでもなく、つづら折れの長い山道のため、図上の見た目より遥かに長い道のりです。つづら折れの旧道があったと言う事は、背負子で担いで登る行程だったのでしょうが、最古の古代街道ですから、大量輸送には向いていなかったと思われます。

 これに対して、木津から平城京地区への道筋は、精々背の低い「なら山越え」であり、道のりも片道十㌔㍍に及ばないので日帰り行程になっています。纏向となると、片道二十五㌔㍍程度ありそうですが、別に、木津川からそこまで届ける必要はないので、手近の「駅」で荷を下ろして、その日のうちに木津川に帰れる想定です。いずれにしろ、以後の道中は、大した難路のない古代街道になっています。

Kizu_003

 もっとも、纏向は、ぱっと見でわかるように、盆地東部に偏しているので、河内からの輸送は、さほど便利ではなかったのです。

 ブログ記事では定番のGIFですが、特に手の込んだ作図はなく、グーグルマップの提供する展望図に注釈を加えただけ、つまり、グーグルの規定通りの利用に止めています。

以上

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