陳壽(中国史)小論-10 (2013) 笵曄考 2
2013/09/24 追記 2020/06/05
◯笵曄考
陳壽の三国志編纂以来150年を経ていますが、その間に倭国の事情は変化していたようです。
陳壽の三国志編纂以来150年を経ていますが、その間に倭国の事情は変化していたようです。
宋に政権が移って早々に、倭賛が献使しています。当然、上表文に、自国の歴史と地理を紹介し、自国は西晋に貢献した女王国の正統な後継者であるという話にしたはずです。
宋書以降の倭賛の国は、九州でなく東方、私見によれば、中国地方、ないしは、大阪湾沿岸、にあったことを伺わせますが、その際に、魏志の女王国国名を邪馬臺国と改称することにより、自国の先祖に引き込んだように思えます。
ともあれ、倭賛と後継者の上表文を元に宋書以降の正史倭傳が書かれたのは当然として、後漢書にもその影響が現れているように見えます。
以下は、あくまで、一個人の憶測です。左遷以前の笵曄には、倭賛の上表文を目にする機会が十分にあったと推定されます。笵曄の目には、そこに倭国の正確な歴史が反映されていると見え、これにより先行する正史を訂正できると感じたように思えるのです。
笵曄は、陳壽の記事を典拠とし、時に潤色しながらも典拠に即した記事としているのですが、そのような潤色と関係のない倭国国名の改訂の動機は、そのようなところに求めるしかないのです。憶測も良いところですが、笵曄ほどの史官が、根拠無しに典拠記事を改訂するはずがないので、一種の状況証拠として記憶にとどめたいのです。
なお、笵曄ほど鋭敏な人物が、派閥丸ごと左遷の次に、謀反の罪での刑死(三親等以内の親族連座を伴う、大逆罪)が待ち構えている可能性があることは悟っていたはずですが、厚遇が期待できる北朝側に亡命することもなく、任地にとどまって後漢書の編纂に多大な労力を費やしたことには、大きな覚悟があったものと感じます。(家長が北朝に亡命すれば、取り残された親族は全員刑死ですが)
*范曄後漢書の暗黒時代
笵曄の刑死後、南朝側では、中原回復の展望を失ったなか王族間闘争による流血の惨事と仏教への逃避が盛んになり、国力は衰退してじり貧状態に陥ります。
そして、同様に流血の覇権闘争を続けた北朝側は、一旦東西に分裂して衰退するかに見えた後、何故か隋に収束して強力な国勢を得、南朝の退勢と相まって、急展開の全国統一が達成されました。
束の間の西晋全国統一を除けば、前後併せて300年続いた漢王朝以来の正統中国政権を名乗ります。
笵曄の刑死後、南朝側では、中原回復の展望を失ったなか王族間闘争による流血の惨事と仏教への逃避が盛んになり、国力は衰退してじり貧状態に陥ります。
そして、同様に流血の覇権闘争を続けた北朝側は、一旦東西に分裂して衰退するかに見えた後、何故か隋に収束して強力な国勢を得、南朝の退勢と相まって、急展開の全国統一が達成されました。
束の間の西晋全国統一を除けば、前後併せて300年続いた漢王朝以来の正統中国政権を名乗ります。
編者范曄が、連座した嫡子共々刑死したとき、本来、断絶されるべき范家が存続したのは、嫡子が、王族有力者と婚姻関係にあり、孫が生まれていたからです。范曄後漢書が、散逸、廃棄を免れたのは、孫が范家を再興したおかげですが、大量の後漢書遺稿を誰が取りまとめて、誰が、帝室公認史書となるように上申したかは不明です。
南朝劉宋は、激しい内紛の末に滅亡し、続く各南朝王家も、血なまぐさい内紛の末、世代交代していたので、劉宋に対する反逆罪など、疾うに消滅したのでしょうが、それでも、どのような経緯で范曄後漢書が声望を高めていったのか不明です。
と言う事で、「陳寿が、随時上程できるように決定稿として後継者に託していたと思われる「三国志」が、直ちに、公式写本工によってに写本され、皇帝に上程されて、直ちに、皇帝蔵書に収録され、以後、最高の手順で、代々写本継承された」と記録されている「三国志」継承過程が明らかであることから、凡そ並みいる資料の中で、もっとも、正確に継承されたと思われるのに対して、史料批判されているわけでもなく、ただ訳もなく珍重されている范曄後漢書の暗黒時代は、深い闇に閉ざされているのです。
本項の終わりです。
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