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2020年6月 5日 (金)

陳壽(中国史)小論-15 (2013) 獻生口 2

                            2013/09/29  追記 2020/06/05
◯献生口
  なお、上記記事の後漢安帝時代は、前漢末から新朝、後漢登場の間の大乱による壊滅的状態から回復して、全国人口は5千万人程度、首都洛陽は周辺地帯を含めると100万人、ないしはそれ以上の住人がいたと思われるので、むしろ人口過密で人手不足はないと推定されます。また、宮廷や高官宅には有能な奴隷は居たので、手不足と言うことはないはずです。

 してみると、倭国から後漢への「獻生口」160人は、奴隷献上ではないと考えられます。

 魏朝の頃は、後漢末期からの戦乱で人口はかなり減っていたとは言え、女王国からの数十人の獻生口も、奴隷献上であれば、魏朝にとって不要と思われます。魏王朝は、一度不要な奴隷を送り込まれたら、二度と来ないようにしたはずです。

 それ以外に船舶航行の問題もあります。
 諸資料、意見はあるものの、当時は、帆船時代には尚早で手漕ぎ船と思われることも相まって、後漢や魏晋時代に洛陽に赴く際の船舶は少人数を乗せるのが精一杯であり、後漢時代に、お荷物となる奴隷を160人搬送するのは、全く現実的でないし、倭人傳記事の時代も、使節人員以外に数十人の人員を搬送する余裕はないことと思います。

 例によって、船酔いの問題も深刻を極めると推定します。

 どう考えても、風濤嶮岨の大海を越えて千里万里の奴隷献上は、実行不可能ではないでしょうか。

 地続きの中国周辺なら、戦闘捕虜の搬送もさほど困難ではないでしょうし、長年の戦乱で、勝った側が負けた側の兵士の捕虜を奴隷として取り込むのは、世の習いとして受け入れられたでしょう。

 また、古来、人口過密の城都では、種々の雑役に、衣食住付き、ただし、転居、転職不可能な束縛付きで売買可能な雇用形態で多数の「奴隷」を駆使していたものであり、普通考える「奴隷」というよりは、むしろ「年季奉公」の感があるのです。

*官奴談義
 文献では、官奴と称して、宮廷や官公庁の下働きを課せられた「奴隷」がいて、識者が、官奴に老人が目立つから、65歳で解放したらどうかと提言している例があります。

 労働力としてみると、老官奴は、早々に引退してもらった方が良いのですが、それは、本人にとっては失業だから、衣食住付きの官奴であれば70歳近くなっても生きていけるのですが、60代で早期に自由民となって食っていけたのかどうか。

 閑話休題

 最後になりますが、倭人傳の女王国に関する記事で気にとめる必要があるのが、女王について「以婢千人自侍」とする記事です。「婢」が奴婢だったのか、単なる召使いだったのか、はっきりしないのです。

 私見では、これだけ大勢のものを、非生産的な仕事に縛り付けていては、食料生産(農漁業)の人手が不足するし、「給与」や「福利厚生費」財源に、一般人に「課税」すると不満を煽りそうだし、どう見ても、分不相応な格好付けのように思えます。

 そうした不都合を無視して、「婢千人」だから、生口を多数送り出すこともできたはず、というのは、ちょっと乱暴な議論です。

 結論としては、百度百科の権威にもかかわらず、「獻生口」の意味はよくわからないのです。

この件続く

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