陳壽(中国史)小論-18 (2013) 笵曄大亂
2013/10/02 追記 2020/06/05
◯笵曄大亂
「桓靈間倭國大亂更相攻伐歴年無主」
◯笵曄大亂
「桓靈間倭國大亂更相攻伐歴年無主」
手口として、倭国は桓帝靈帝治世(CE148-188年)の40年間に渉る大亂としています。
陳壽が「歴年」で足かけ2,3年程度の意味としているのですが、笵曄は40年戦争かと思えるほど、劇的に表現するために「大」乱としたのでしよう。
ここで、「倭国」は、女王共立の対象ですから、のちの「女王国」、すなわち、戸数が多いとはいえ、あくまで一国の事情となります。一国に長年にわたる「大乱」があったとは思えませんし、もし、互いに殺戮し合う大乱であったとすると、大勢の戦死傷者が出て恨みの爪痕が残り、女王を共立しておさまるものではなく、その後に、魏志倭人傳に書かれているような一種のどかな風情は、実現できないはずです。
大乱のせいで、青壮年男子の人口が減少し、女性の多い国になったと読むのは、限りなくブラックな深読みでしょう。
*創作談義
以上のように、笵曄が魏志倭人傳に加えた変更の大半は、謎の新規史料を根拠にしたものでなく机上の創作と推定されます。
かくして、後漢書倭傳は、改変字数こそ少ないものの、尊重すべき原典たる魏志倭人傳から処々で逸脱した創作物と化しています。
以上の考えを、異界の笵曄(?)に伝えたところ、ぽつりと「食するものに火を通して、薑橘椒で滋味にするのが(文明)人だ」とのご託宣でした。(もちろん、ここだけの冗談ですが)
察するに、司馬遷が、史記記事で文飾を加えたのに始まり、史実の潤色は史官の資質であり、笵曄の資質は、むしろ正統的なものだと言うようです。
正史は史実記事の羅列ではなく、史官が自己の責任で自己の感情や思想を示す表現の場であって、それでこそ立派な著作なのだ、と言いたいようです。
しかし、倭国現地の事情をそっちのけに、中国の春秋戦国時代の各国の模様を当てはめるような潤色は、褒められたもののではないでしょう。
本小論は、後世史書が笵曄作品を典拠として、陳壽が多様な筆致で活写した倭人傳を、屏風の下張りのように隠したことを嘆いているのです。
笵曄個人に関しては、超大作後漢書を輻輳する苦難の中で編纂したと賞賛し、不朽の功名を得るために、自身の創作意欲を重視し、これが倭傳でも十全に発揮されたたことについて、できれば、無理からぬ事と看過したいとまで思っているのです。
以上
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