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2020年6月 5日 (金)

陳壽(中国史)小論-17 (2013) 銅鏡談義

                              2013/10/01   追記 2020/06/05
◯銅鏡談義
 獻生口の蛇足で、これも大胆な私見ですが、魏朝から下賜された銅鏡百枚について憶測しています。

 漢時代には、官営工房が存在し、産銅地から銅器生産地への素材供給が確保され、加えて、銅器生産地の職人団の総合技能として、意匠の確定、銘文作成、鋳型制作、鋳造、仕上げの一連の工程の高度な分業活動も形成され、各工程の技術が世代継承されていたからこそ、数百年の期間にわたり安定した品位と品質で青銅器を生産供給できたのでしょう。

 しかし、そうした高度な生産体制ですが、官営故に後漢朝の崩壊とともに、素材供給の道は分断され、帝都洛陽の破壊とともに職人集団は散逸解体されていたと推定されます。

 倭国貢献の時点は、全国統一以前の分裂時代であり、官営工房は再興してないと思われます。産銅地からの素材供給も、回復できてないと思われます。職人集団は散逸から回復してないと思われます。

 とても、銅鏡百枚を新作するような状況ではなかったはずです。

 特に、後漢鏡など、お手本のあるサイズとデザインのものならともかく、一段と大型で、デザインの異なったものを新作することは、大型鏡の鋳造の不安も含めて、かなりの難行と考えます。どうにも、魏朝が難行に取り組むとは思えないのです。

 中国世界では、銅鏡に対する崇敬の念は衰退し、漢鏡、後漢鏡は、王宮などの宝庫に退蔵されていたのではないかと憶測しています。従って、倭国使節からの下賜依頼に応じることは、在庫の解消になったと推定しています。

 漢鏡、後漢鏡なら、デザインとサイズが定型化しているので、百枚新作するとしても、多少は取り組みやすい事業ですが、それでも、なぜそこまでしてやるのか、という疑問がついて回ります。

 これが、魏朝が、手間のかからない手順として、伝世の漢鏡(後漢鏡)の銅鏡百枚を下賜したと推定すると、銅鏡生産体制が崩壊した状況であっても、短期間で実行できたことになります。

 以上の推測を基にさらに推定すると、魏朝の銅鏡下賜は一度限りということになります。

 反対の声が渦巻いているので言い訳しますが、何の根拠もない獻生口談義も含めて、素人の憶測と推定の座興なので、余り強く受け止めないでください。

以上

 

 

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