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2020年6月 5日 (金)

私の本棚 26 完全図解 邪馬台国と卑弥呼 2015 その6 兵站

  別冊宝島2244 宝島社                        2014年11月発行

 私の見立て★☆☆☆☆ 乱雑、粗雑な寄せ集め資料    2015/06/18  追記 2020/06/05

 古代学の分野では、考古学も書誌学も立ち入らないと思えるので、下賜物搬送に関する兵站について考察を加える。ただし、以下の議論は、具体的な資料に基づく考察は少ないので、当方の勝手な推測として、読み飛ばして頂いて結構である。

*下賜物搬送考
 ここで、原文を冷静に読み解いて下賜物の処置について考えてみる。

 ここに列記された下賜物は、銅鏡百枚という極めつきの重量物以外にも、なかなかの物量があって、箱詰めして総重量数トンはあろうかと推定される。いや、輸送に際して、小分けした荷を、人手で運ぶことが多いのを想定して、小分けされていたろうから、個別の荷の箱なり過誤なりの重量が結構厖大になるのである。

 銅鏡の外形寸法が明確に想定されていない以上、銅鏡百枚の正味重量は不確定であるし、どのように、一枚、一枚を梱包するかも不明であるから、数トンという総重量も推定であるが、総重量二百トン以上の金属貨物を輸出した経験から、おおむねその程度と憶測しているのである。少なくとも、十人程度で運べる嵩でも重量でもないと推定して、外れていないと思う。

 下賜物を、二人単位で担送できる程度の重量に小分け梱包した上で、それぞれの個別の木箱に担ぎ棒を付け、道中の陸送は、それぞれ二人の人夫で担送することになるのだろうか。それとも、個々の荷を背負い運ぶことになるのだろうか。
 全体で数十人の人夫となるものだろう。まさか、道中担ぎづめとは行かないだろうから、区間を決めて交代して。荷送りしたのではないだろうか。いや、魏帝国の官道は、税金代わりの穀物や専売品の食塩のような重量物が常時移動していたから、賃料目当ての人夫は、手ぐすね引いて待機していたのではないか。

 これに比べると、倭国使節の献上物は、軽量のものであり、せいぜい数人分の荷物と思われるから、洛陽に届ける際の人夫は少人数であり、帰り道、自分たちで担いで帰れとも言えないはずである。

 貨物運送が発達した時代ならいざ知らず、後漢末期以来の戦乱続きで倭國まで官営運送網は、人的資源も含めて十分に整備できていなかったと思われる。とにかく、高価かつ、大重量の下賜物を「大海」を越えて長距離運搬するには、相当念入りの準備が必要である。
 まずは、洛陽を出るとき、下賜物を運ぶ人夫は、魏皇帝の手配した信頼できる人夫と言うことになる。また、高価な物品なので、屈強な護衛が必要である。

 ついでに言うと、使節が持ち帰ることにすると、使節達に人夫や護衛が加わって大集団となった一行全員の食糧や宿泊を、全行程にわたって確保する必要がある。

 魏国内は、日頃船馬の往来が盛んで、各宿駅に対して帯方郡への荷送りの手配との文書通達だけで、各地での手配ができたとしても、渤海/黄海を越えて韓半島に渡った後はそうも行かず、帯方郡治で荷を引き継いで、郡の手配した人夫と交代というのが、物の道理と言うことであろう。

 魏朝の威光が韓半島末端まで行き届いていたとすると、帯方郡治にあらかじめ届いていた朝廷通達で、人夫の手配、途中の宿泊地の手配、船の手配、等々、この行列がつつがなく進むような手配ができたものと思われる。

 それ以外にも、行程途中の諸國、諸勢力が、高価な下賜物に手を出さないという確信が必要である。つまり、後漢朝から天下を引き継いだ魏朝の意向が、東夷にくまなく及んでいた徴である。

 以上のような手順は、時代によって、多少の違いはあっても、山東半島など中国大陸から倭國までの直行の船便が確立されるまでは、避けられない手順と思われる。

 かくも大量の下賜物の送達は、魏朝の権力と威光を物語る大事業だったのである。

*別送の顛末
 以上のように下賜物運送の全貌を想定してみると、このような大事業は、倭國遣使の帰国に間に合わなかったと見るのが至当と思われる。

 そのような大事業であるから、下賜物が全て倉庫に並んでいるのを確認した上で詔書を起草したとしても、輸送に必要な箱詰めには相当の時間がかかるから、そのために間に合わなかったということかも知れない。また、下賜物の運搬役や護衛役の陣容が揃わないという事情もあったろうし。

*20年一貢という事
 これまで、盛大な下賜物は、新来の東夷に対して魏帝国の威信を示すものであり、経費は度外視されたという趣旨で書いているが、それは、あくまでも、新来の東夷に対する措置であって、一度臣下になってしまえば、他の臣下との釣り合いもあって、定例的に大量の下賜物は支給できるものでは無いのである。また、頻繁に来訪されては、受け入れの負担が嵩むのもあって、例えば、20年に一回の来貢としていたのである。

 ここで言いたいのは、下賜物としての銅鏡百枚、および後年の追加支給であるが、魏朝皇帝の所蔵品として備蓄されていた銅鏡、おそらく、漢鏡や後漢鏡を払い出すことは、いわば、百年来の在庫の総ざらえとして実施できても、更なる支給を求められたとき、元々国内での需要が限定されていたことから、作り置きは限られていたと思われることから、仮に、次回は、20年先であっても、銅鏡の在庫が底をつくことは避けられ無かったはずである。

 いくら中原王朝とは言え、倭国からの貢献に対して百枚と言う大量の銅鏡を追加支給するのは、鋳造に大量の銅材を要する上に、少なくとも、皇帝付きの職人工房である尚方の鋳造職人の多大な労力を費やすことになり、天下を平定したわけでない、臨戦態勢の魏朝としては、とても、対応しかねるものだったに違いない、ということである。
 ちなみに、在世中の明帝は、戦時体制の国威を投入して、新宮殿の造営に注力し、多用される青銅装飾品の新作に、尚方は忙殺されていたのである。青銅素材も、払底していたに違いない。

 ひょっとすると、追加支給に替えて、鋳型と数個の鋳造サンプルを提供し、あとは青銅鋳造技術の確立されている倭国で、好きなだけ現地生産しろ、と言い渡したのではないかなどと余計な空想を巡らすのである。

未完

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