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2020年6月24日 (水)

新・私の本棚 番外 川村 明「九州王朝説批判」改 4/7 隋使来訪記事の読み方

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*倭人伝を踏襲した行程記事
 俀国伝で、隋使の記録に明解な行程/道里が書かれていないと言うことは、明細が書かれていない行程は、実は未踏の地にいたるものではなく、既知の行程だったのではないか、と言う推定が浮上してきます。

*実移動行程の記録
 裴世清は、山東半島から、朝鮮半島には見られない大型の帆船で半島沖合を進み、百済の海港に立ち寄った後、耽羅から対馬に乗り付け、以下、倭人伝同様に壱岐を経て、竹斯国に入ったようです。

 現地にない大型船舶は、座礁などの海難を恐れて、安全な経路以外ではめったに寄港できなかったはずです。大型の帆船は、舵がききにくいので、その意味でも未知の海域に深入りはできないのです。また、現地の水先案内も、小型の手こぎ船は知り尽くしていても、未知の大型船舶が、港内の浅瀬などをどう避けるか、案内困難だったはずです。

 いや、沖合遙かを行けば、沿岸部での海難は避けられるのですが、食料と水の補給は必要であり、乗員の休息も含め、寄港は必要だったのです。

 対馬までは、陸上の街道が規定されていた倭人伝の半島内行程と異なり船での移動なので、寄港地を明記したものの、羅針盤(コンパス)のない時代、未踏の海域で海図がないから、進行方向は無意味なので書いていません。

 海図がないのは、六世紀末までに「航路」が全く確立されていなかったためであり、倭人伝行程で沿岸航行など規定していなかった証拠となります。

 倭人伝行程は、帯方郡から陸上行程で狗邪韓国に着き、その海岸から、水行渡海でまっしぐらに南に向かう想定でしたが、裴世清の乗船は、耽羅から対馬に直接入り、狗邪韓国抜きです。また、三度の渡船はなかったのです。

 同時代人が「普通に考える」なら、裴世清が、俀国への行程をつぶさに書かなかったのは、倭人伝で既報であり、竹斯国到着後は、そこにとどまり、以後行程は、報告欠落ではないと思わせるのです。

 例えば、「經十餘國達於海岸」と言う「十餘國」が、俗説の九州北部から大阪湾岸まで瀬戸内海を航行した途中の国々なら、都度、寄港地を明記するはずです。あるいは、延々陸行であれば、都度、各国記録が必須なのは、説明した通りです。

 隋煬帝に任じられた文林郎裴世清が、魏志が到達していない未踏の地に踏み込んで、何も書き残さないという事は、あり得ないのです。

*どこの海辺
 そのような考察から、「達於海岸」は、陸地を移動して海岸に出ると解釈するのが順当です。順当だから簡潔に書き留めているのです。また、「十餘國」は、倭を構成する三十国の一部で既知なので列記しないのです。倭/俀国は、海中山島で周囲は海なので、東方の海岸を示したに過ぎないのです。

*「浪漫」の物語
 氏は、「そのまま瀬戸内海を航行」と何気なく隋書にない言葉を連ねます。
 氏の改訂した特製の隋書では、隋使は、九州島に上陸せず「そのまま」九州北岸を航行して関門海峡から瀬戸内海に入り、さらに「そのまま」瀬戸内海を東に移動して大阪湾岸に到着したということなのでしょうか。

 以下、隋使は「大阪湾岸」に到着し、丁重な出迎えを受けて、東に山越えし推古帝居処に案内されたと見えますが、生駒越えの険しい山道を書き残すのではないでしょうか。

 軍事的には、隋軍がこの国を攻めるには、河内平野を占拠して勢力を蓄え、山越えで攻め込むので、進軍を阻む山並みは、必須記事でしょう。

 当時の倭(俀国)が大阪湾岸なら、上陸後の行程は要らないのですが、いずれにしろ、ここまで侵入するためには、竹斯以来の寄港地を悉く確保して、兵と船、食糧を徴用し、背後を襲われる心配無しに敵前上陸することになるから、各寄港の所要日数、各国名、戸数などを書き漏らすわけにはいきません。

 これほど、隋朝にとって大事な事項が書かれていない、どちらともわからない記事では、ものの役に立たないのです。(うち首ものです)

*もう一つの解釈
 万事判然としないということは、結局、隋使は、そのような新境地には至らなかったのではないかと思わせるのですが、どうでしょうか。

                               未完


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コメント

古代史おやじどの
 当ブログでは、賛否共々、コメントをいただくことが少ないので、応対を間違えているかも知れませんが、当方の考え方で公開して回答します。

 書き出されている「邪馬台国九州説を否定する」ことには、賛否共に余り興味がないのです。
 個人の意見は個人の勝手ですし、個人が持っている仮説を公開の場で断言するのも、どうも、当業界では通例のようなので、特に意見はありません。
 お説によれば、中国人が勝手に記録したお話と、日本人が勝手に記録した(あるいは後世になって、そのお話を見た上で創造した?)別のお話をつきあわせて、一つの仮説を編み出そうとしているように見えますが、どちらのお話も、正確な記録でないという可能性が「否定」できないので、所詮は、また一つ仮説が生まれるだけでしょう。正直、その手の仮説に、もう一つ付け加えても、誰も見向きもしないでしょう。
 折角のお言葉ですが、ついて行けないというのが、返事になります。
 素人の私見ですが、大事なのは、否定することではなくて、今後とも検討を続けるということではないでしょうか。
 コメントを付けて頂いた記事の目的も、当該記事の筆者の見過ごし、論理の穴と思える点を指摘したというだけです。別に、当該記事を否定してしまうのが目的ではありません。

 以上が、当ブログ管理者兼筆者の意見です。
 お気に障ったら、まあ、業界人でない素人のことなので、かたがたご容赦ください。
 

邪馬台国九州説を否定することなんて簡単です。卑弥呼は第×代の○○天皇である、と証明するだけで済む話です。
卑弥呼は、男王死後の混乱を収めるために共立されました。その死後、また男王が立つも国が治まらず、卑弥呼の一族の娘・壱代が即位して治まりました。

つまり、男女男女と即位した例を、古代の大和朝廷の系譜から探せば一発です。
簡単でしょう?

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