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2020年6月

2020年6月28日 (日)

今日の躓き石 NHK BS「釣りびと万歳」 ベテラン俳優の「リベンジ」失言連発を歎く

                                    2020/06/28

 本日の題材は、偶々見てしまった番組で出くわした失言である。釣り番組はまず見ないので、実は、釣り番組は「リベンジ」暴言のクラスターかも知れないと思うので、わざわざ苦言を言い立てるのである。

 また、近年、他ならぬNHK BSで時代劇、現代劇問わず主役を務めているベテラン男優が、このような子供じみた暴言をするとも思えないので、多分「語り」のせいだろうが、大抵、大盗賊と激闘する「火盗改め」長官役者の暴言と思うのである。

 大体、釣り行が、毎回狙い通りの釣果に結びつくわけはなく、カメラを引き摺ってのロケ行で失敗する悔しさはあるだろうが、その度に、誰とも知れぬ仇敵を思い浮かべて、仕返しで血まみれにしてやるなどと、「テロ」宣言するとも思えないのである。

 いつも言うのだが、俳優もジャーナリストも、その場その場の思いつきでしゃべくる商売とは思えないので、なんとか、「リベンジ」などときたない言葉を口走らず、次代を担う子供達に汚染を伝えないで欲しいと思うのである。

以上

2020年6月24日 (水)

今日の躓き石「纏向遺跡の種 年代測定を巡って」揺らぐ毎日新聞古代史報道の良識  3/3

                         2018/05/28 追記 2019/01/29 2020/06/24
*考古学の課題
 素人考えながら、纏向遺跡というものの、このように多数の桃の種を埋蔵していた地中施設と附近の大型建物の関係を見定めることも必要かと思うのである。(追記あり)

*不吉な抱負
 因みに、中村教授の発言として引用されているが、「日本独自のデータが完成すれば、実年代も変わる可能性はある」と問題発言をされている。しかし、科学の不変の真理として、推定は推定である。理屈の上では、「可能性」は無限であるが、蓋然性の極めて低い「可能性」は、単なる雑念であり無視すべきである。

 別の較正曲線が書けたとしても、それはまた一つの別の推定であり、多大な批判、検討に浴するものであり、それによって妥当と認められたとしても、検討の俎上に上ることを許されるだけであって、「完成」などと呼べるはずがない。随分盛大な考え違いである。

 それとも、どこかから、完成目標を与えられて、「完成」するまでは研究成果として認めない、研究費をカットするぞ、と叱咤されているのだろうか。政治経済的な要因は、普通は、表面に出てこないのだが、考古学分野は、普通ではないのだろうか。

*ルール違反の使命
 仮に、較正曲線が、考古学会にとって好ましいように変更されて、それによって別の年代推定ができ、それにより「実年代」の推定値が変わるとしても、後世人の暗闘によって「実年代が変わるはずがない」のである。素人がとやかく言うのも僭越だが、このあたりは、まるで子供の口喧嘩の展開なのである。知性の復活を望むものである。

 時に言わざるを得ないのだが、当分野の学術的研究に投下された費用の由来は、国費や寄附のはずである
 真理の追究に注力せず、保身のために、科学的測定結果を『お化粧』するのに、血道を上げるのは、いかに多数の人員を擁した組織の維持のためとは言え、まことに、不適当なものと思えるのである。

 そして、全国紙が、客観報道の境地を外れて、「ルール違反」に加担しているのを見ると、嘆かわしいと見るものである。

*自然科学者の矜持
 その辺りの言葉遣いが不用意に断定的なのは、「結果至上の人文科学である考古学会の主観的考察の風土に由来する」ものだろうが、自然科学者の発言として、大変不穏当である。

 スポンサーの意を受けて、学会の総力を上げて補正曲線を好ましいところまでずらせば、実年代は当然スポンサーにとって「好ましい」方向にずれる、それは、関係者の努力と熱意次第である、これで終わったと思わず、精一杯頑張ります
と聞こえるのである。

*紙背読み取りの弁

 今回の記事は、総じて、冷静に書かれたものであるが、関係者の発言に、不穏なに響きがあるので、ほってはおけず、「不確かさの意義」に注意頂きたいとしたものである。

 もっとも、紙面からそのように感じ取れるということは、担当記者の真意が行間に隠されたものかも知れないが、科学の世界は、真理に奉仕するものである、と考え、行間どころが、紙背までほじくり出したのである。

                     以上

 追記 2019/01/29
 後日、NHKの纏向史跡の発掘現場取材番組で、桃種発見の様子が窺えたが、確かに地下の「ゴミ捨て場」から発掘されたというものの、広く散在していたようであり、三千個近い数の聖なる桃種を、たった一度の祭礼のために広く周辺の桃農園(?)から調達し、一気に地下に廃棄したとは考えにくいことに気づかされた。
 それにしても、桃栗三年というものの、果樹は、数が取れるまでに何年もかかるのであり、どのような政策で、数千に及ぶ桃を得られたのか、感嘆するしかないのである。別記事あり)

 銅鐸の廃棄遺物と同様に、同遺跡敷地の地鎮祭のおりに、旧態の祭礼を廃するために、しかるべき場所に収納されていた歴年の祭物を、まとめて除霊投棄したとも見えるのではないかと思量した。

 正しかるべき年代鑑定が、想定から大きく外れた、と見えるのは、そのような原因によるものかとも思われるので、ここに追記した。

 凡そ、善良な研究者たるもの、「七度探して他人を疑え」ではないか。

追記終わり

今日の躓き石「纏向遺跡の種 年代測定を巡って」揺らぐ毎日新聞古代史報道の良識 2/3

                              2018/05/28  補充2020/06/24

*不確かさの起源
 大気中の二酸化炭素ガスのC14含有率は、太陽光線に含まれる放射線が大気上層で大気成分を変化させることや火山噴火を含めて、地下から噴出する二酸化炭素ガスやメタンガスなどの炭化水素ガスのC14含有率の影響で、想定から変化するものである。

 ただし、記者が勢い任せで書き飛ばしているように「刻々」目立って変化するというものではない。ちと、錯乱しかけているようにも見えて、不審感に囚われる。記者は、何を懸念して焦っているのだろうか。

 大量の大気のことだから、C14含有率が変化するとしても、大変な時間がかかるのである。一番肝心なのは、測定対象となっている現地の古代の大気のC14含有率の実測データは存在しないのである。

*較正曲線の意義
 と言うことで、別の場所、別の時代の標本で得られたデータの推定手順を参考に、標本のあった場所の時間的な変化を推定し、桃の種が取り出された時点のデータを推定するしかないのである。

*不確かさの意義
 どのような測定データであろうと、一定の「測定誤差」、つまり、「不確かさ」は避けられないが、特に、C14年代測定の場合は、断定的に「測定」と言いつつ、実は推定の二段重ねなので、「不確かさ」は避けられないのである。

*不確かさ悪用の系譜
 これまでの考古学関係の研究成果では、C14年代測定の不確かさを逆手にとって、望ましい結果に向かって、適宜ずらして推定する手法が見られているとの批評が絶えず、この批評を克服できなかったことから、C14年代測定の信頼性を落としていた。

 今回の成果発表は、一転、科学的な信頼性の評価を高めたものである。

*人知を尽くす成果
 今回の測定、つまり、測定データと推定データの組み合わせで年代推定した中村名誉教授は、推定年代が絞り込めない事態を、「ご自身の能力不足、熱意不足の結果とみられるのを忌避してか、歯がゆいとしている」が、ご自身が十分理解しているように、自然科学に神がかりはないのである。測定データは、科学者の熱意に感じて変化するものではない。言い換えれば、測定データは人に騙されないのである。

*冷静な考古学者
 考古学者は、冒頭の方のように不遜なかたばかりでなく、冷静な発言が見られてほっとする。

 また、得られた最新の知見は、「資料批判」を重ねて検証した上で、長年にわたり多数の考古学者によって、広大な時代、地域に及ぶ遺跡、遺物の豊富な考察に基づいて蓄積された考古学の盤石の知見と組み合わせて、古代史の全体像を高めていくことを述べていて、期待するところ大である。(正直言って、何が「古代史の全体像 」なのか、なぜ。「全体像 」を高めることが尊いのか、無知な素人には、皆目わからない)

 素人考えながら、それが、学問の正道ではないだろうか。

                未完

今日の躓き石「纏向遺跡の種 年代測定を巡って」揺らぐ毎日新聞古代史報道の良識 1/3

                              2018/05/28  補充2020/06/24
 今回の題材は、毎日新聞夕刊、文化面のTopicsコラムである。
*勘違いの露呈
 それにしても、「100年の幅 いかに限定」とは、担当記者の大きな勘違いを衆目にさらけ出している。以下、どこが勘違いか、丁寧に指摘した。

*公表原則の乱れ
 因みに、「纒向学研究センターが14日に公表した放射性炭素(C14)年代測定の結果」とあるが、同センターのサイトに、そのような公表を行ったという記事は公開されていない。

 5-16のお知らせとして、研究紀要第6号が刊行物案内に記載されただけであり、5-28現在、5-16当時未公開だったPDFデータが公開されているというものの、平成30年3月10日付けの序文、3月30日付の奥付けを見る限り、5月14日に公開されたという裏付けは見つからない。どうやら、記者会見の場で各社に公開されたものでもなく、資料配付したものでもなく、特定の新聞社の担当記者に対して『発表』したようである。通常、報道機関向けの公式史料が「プレスレリース」として公開されるが、そのような公開史料は見当たらない。
 つまり、伝えられているのは、担当記者の所感であって、公式発表内容をどの程度正確に報道しているのか、読者には知りようがない。とても、学術分野の記事とは思えない。
 このような報道は、全国紙の記事として不正確ではないか。

*考古学者による酷評
 先ずは、本件に関して、考古学者から、持論の強化に役に立たない、つまらない科学的見解だと、酷評されている。つまり、費用の無駄遣いという趣旨のようである。
 しかし、考古学者に酷評されているとは言え、自然科学者が、物理現象を厳密に考察した結論であり、「自然科学は、考古学に隷従するものではない」と言う至極当然の真理を示したものであるから、担当記者にこの研究成果は高く評価すべきだという視点が欠けているのは、大人げないものである。

*自然科学者の使命
 自然科学者は、背後で責めつける外野の声に指図されているのではなく、目前の科学的事実に忠実であることが示されたのは、科学者全般にとって、大変好ましいものであったと考える。

 斯界の権威者から、「時期をもっと限定せねば意味がない」と専門分野の科学者としての生存を脅かされても、研究費のスポンサーの言いなりになってルールに外れた危険なブレーはしてはならないのである。いや、当然のことを言い立てて恐縮であるが、全国紙記者が、偏った視点で記事を書いているので、つい批判してしまったのである。

*乱調の紹介
 続いて、担当記者の意見らしいものが展開されるが、C14年代測定に関する手短な紹介は、「フェイク」では無いもののボロが目立つ。記者は、なぜこれほど幅が出たのかと、考古学者の非難口調に押されて、「不当に」詰問したのである。

*科学的紹介の試み
 関係者には衆知なので、念押しされていないのだろうが、C14は、二酸化炭素として大気中を浮遊している炭素に一定量含まれている放射性同位元素である。
 他の同位元素の大半、ほぼ全てが永劫不滅なのに対して、C14は、5,730年を半減期として崩壊していくものであり、大変緩やかに窒素(N14)に変化して減少していくことは、不変の真理である。
 減少は、数学的な指数関数なので、秒単位どころか、1/1000秒単位で、小数点下、100桁でも1000桁でも正確に計算できる。ここには、一切不確かさはない。

*測定の不確かさ
 年代測定で初めて発生する不確かさは、標本の化学分析であるが、測定値自体は、ほとんど不確かさを考える必要のないほど細かく計算できる。

 不確かさが生まれるのは、標本毎の違い、標本内の場所による違いであり、限られた場所に密集していた状態から見て、大きな不確かさはないはずである。
                     未完

2020年6月18日 (木)

私の本棚 6 上垣外 憲一 倭人と韓国人 改  3/3

 講談社学術文庫2003年 2014/05/21 分割再掲 2020/06/17

*あり得ない官費負担
 こうした画期的な遣使は、東夷が自発的に行うのでなく、中国側から半ば強制的に指示するものですが、中国側が、このような壮大な奴隷献上使節団派遣に要する食料、人件費、経費などを丸抱えしたとは思えないのです。

 百六十人の奴隷を伴った倭國使節の朝見で漢の威光は高まるでしょうが、洛陽までの巨額の旅費を丸ごと負担することなど論外でしょう。

*人員過剰~演出仮説
 宮廷には、数千人とも思われる、有り余るほどの終身雇用の「官奴」がいました。多少文字が読め、指図に従って雑用諸事をこなすので人手が足りないことはないのです。そこに、言葉の通じない、つまり、字が読めず、数を数えられない野蛮人が来ては、行儀作法の仕込めない「でくの坊」であり、ものの役に立たないお荷物です。

 それくらいなら、いっそのこと、官奴を選抜して東夷の扮装をさせ、献上儀式を演出すれば、皇帝の威光は確実に高まるのです。

 本紀の倭国使節来朝は史実でしょうが、倭伝記事は、このような演出による賑々しい儀式とすれば、誠に合理的な計らいと言うことになります。

 本論筆者は、物々しいばかりで実態の疑わしい「陰謀」論に荷担しないのですが、長々しい論考の果ての「演出」は、双方に手軽で、得られる効果が大きいので、十分ありえたものと考えます。百六十人の奴隷を倭国から洛陽まで連行、献上するという壮大な画餅に比べれば、妥当な推定と思うのです。

 どちらの判断が成立するか決定する根拠は存在しないから、奴隷貿易説の持論を廃し、作業仮説、私見として控えめに扱うのが学術的対応と思います。

*安直、公序良俗に反する摘発
 中国正史の記載とはいえ、後漢書の片々たる記載を論説の基底まで膨張させ、安直に、学説の形を借りて空想を紡いでいるように思います。

 いや、国内史学の視点から一介の「外国史料」に過ぎない後漢書倭伝を史料批判すれば、范曄による創作記事の疑いが否定しがたいと思うのです。

 後世の視点から人道に対する重罪を告発された当時の治世者には、告発に反論して自らを弁護する事が出来ないから、かかる告発糾弾は慎重にすべきです。まして、倭人傳諸国の中で、壱岐・対馬はほぼ確実に比定されていて、著者は、物証の提示なしに先入観に促されただけの状態で、壱岐・対馬の行った商行為は(非道な)人身売買と断定しています。

*勝手極まる独善
 著者は、本件に関して、自らを検察官兼裁判官なる法と秩序の執行者に擬して、このような重大な摘発と断罪を行っています。

 今日の法制度でも、私人による断罪は犯罪行為です。仮に、所定の司法機関に告発したとしても、客観的な裁定が有罪と決まるまでは、容疑者はあくまで推定無罪の境地に置かれるべきです。

 本書は、公序良俗に反する暴論で、無実の良民を断罪しています。

◯不当な断罪
 著者の両島断罪は、偏見と妄想に基づく不法な糾弾であり有罪です。

 後世に生きるものは、先入観で過去の人々を告発、裁断するのでなく、弁護の声にも耳を傾け、告発の妥当性を徹底的に検証すべきです。

 現代の著者にとって、古代史書の記事は、地の果ての土煙ほどのめざましさもないでしょうが、一人一人の古代人は一人の人間なのです。

                                以上

私の本棚 6 上垣外 憲一 倭人と韓国人 改  2/3

 講談社学術文庫2003年 2014/05/21 分割再掲 2020/06/17

*後漢書批判
 さて、倭伝の史料批判としては、倭国が大量の奴隷を、波濤と山嶮を越え、長期の旅程を経て、遠く洛陽まで送り届けたという記事解釈です。

*無謀な連行
 倭「奴隷」は、二度と帰れない異境に送り込まれると理解して、屠所に向かう羊のごとく従順に従うとは思えないので、逃亡、反抗を防ぐために兵士を同行させねばなりません。いくら反抗を恐れても、奴隷百六十人は八千キログラムに達する重量貨物で嵩高いのもあって、檻に入れていくことも出来ず、自分の足で歩かすしかないでしょう。

 手かせ、足かせで厳重に拘束してはまともに歩けないので、軽微な拘束しかできないと思われます。そうした状況で百六十人を長期に拘束するのは、難事業です。(普通の言葉で言うと、絶対不可能です)

 玉石、真珠類、貴重な鉱物、金属類や衣類を持ち運ぶのとは、比較ならない、とんでもない超難事業です。

*無理な使節団派遣
 著者も、百五十人の倭国使節団を想定しています。献上品である「奴隷」と合わせると三百十人に達する大集団です。

 海峡越えは三十人/一艘として延べ十艘が必要です。船の不足や天候待ちのことも考えると、海峡越えに一ヵ月近くかかりそうです。

*無謀な経費管理
 全行程のとば口である海峡越えも、経済活動の未発達なこの時代、どのようにして経費を捻出したのか心配です。総勢三百十人の行程中、食料現地調達として、貨幣経済なら漢銭持参で済むのでしょうか。

 とにかく、奴隷を生かして届けるためには、百六十人分の食料を日々支給しなければならないので、奴隷の食料に貴重な対価を払い続けるのです。
 このように、奴隷献上には、絶望的なほど膨大な「経費」が必要です。経費に、漢銭のような貨幣を充当するか、何か「財物」を充当するか、とにかく、「倭国国家予算の数年分」に達するかという巨額に及ぶと想定されます。

*国庫を虚にする大事業
 この時代の倭国は、発展途上の農業立国と思われますが、以上のような思考を適用すると、奴隷献上の遣使を自腹で行えば、数年の収穫備蓄を越えた大量の農水鉱産物と貴重な人材を投入することになり、これまた貴重なはずの百六十人の「奴隷」労力の喪失と併せて、国力が大きく消耗し、深刻な飢餓と疲弊で壊滅するのではないかと思われます。

 それでも、「どんな困難なことも成せばなる」と思うのでしょうか。この病には、付ける薬がないのでしょうか。

*中国の奴隷伝統
 因みに、太古以来、諸国抗争時の中原では、敗戦兵士が奴隷とされても、世間相場の対価を払えば自由の身になれたのです。時に、奴隷暮らしの中で蓄えを作って、あるいは、顔や見知りの基金を募って、自分を買い戻す例もあったのです。各国は、地続きですし、千里の彼方から連れてこられたのでもないので、根性で歩いて帰れば良いのですから、絶海の島国に帰るのとは大違いです。因みに、後世、奴隷の身分から自由を回復して「倭」に帰国した例があるのです。

 戦時奴隷以外に、奴隷階層があり、市場で契約書付きで売買されましたが、大抵、何かの理由で資産と自由を喪失しても、家事手伝いなどに用務が限定されていて、別に非人道的な扱い、虐待を受けていたとは限らないのです。一種の雇用契約とみても良いような成り行きだったようです。

                                未完

 

私の本棚 6 上垣外 憲一 倭人と韓国人 改  1/3

 講談社学術文庫2003年 2014/05/21 分割再掲 2020/06/17
 私の見立て☆☆☆☆☆ 滅ぼされるべき妄説   以外★★★☆☆

◯はじめに
 本書は、タイトルが示唆しているように、倭人伝時代が描かれていて、大変参考になる良書で、全体に堅実な論議が提示されていて、特に異論はないのですが、遺憾ながら、「生口」論は、史料の恣意に満ちた解釈で勝手放題の風評を醸しているので、断然異議を唱えるものです。

 本論筆者は、「生口」について先人諸賢の意見を徴していますが、この著者は、最初から、生口則ち奴隷と決めつけていて参考にならないのです。

 それに加えて、生口を献じた理由として、当時の交易の主力を為すものであったから、倭國が後漢に献上したのだとしています。正当な疑問は、何を根拠として、そうした仮説を言い立てるのかと言うことです。私見では、学術的な検証無しに、先入観によって決め込んでいるように思えるのです。

 以下、本論筆者の乏しい見識を総動員して、倭国の「奴隷」献上が、実現可能な「難事業」であったか、それとも、実現不可能な「不可能事業」であったか、吟味を試み、諸賢の批判を仰ぐものです。

▄鉄青銅論
 と言うことで、本書21ページの小見出し「鉄の道、青銅の道」に始まる議論に承服しがたいものを感じます。

*夢想の輸出統計
 ここで、著者は、「日本側の最大の輸出品目は、残念ながら奴隷であったとしか考えようがないのです」物知りぶって断じています。何が残念なのでしょうか。一度、鏡を眺めてほしいものです。こんな妄想を書き立てた「残念な」やつの顔が見たいと。

 著者は、当時の貿易統計でもお持ちのようですが、できれば、輸出品目上位五位まで開示いただければ幸いです。言うまでもなく、開示できなければ根拠なき言いがかりによる冤罪、誣告の大罪と言わざるを得ません。

 ダメ押しですが、冤罪を言い立てるのは、それ自体犯罪です。困った虚言癖です。

*安直な後漢書解読
 その根拠として、まずは、後漢書倭伝「安帝永初元年、倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見」を上げていますが、妥当な根拠と思えないのです。

 この記事は、西暦一世紀の時代、倭は、すでにこれだけの生口を引き連れた使節団を派遣できる航海力を保持していたという仮説が著者の学説の基底を成すものですが、史料批判された形跡がありません。

*倭人伝解読の錯誤
 続いて、魏志倭人伝の生口記事です。壹与の貢献は、「獻上男女生口三十人、貢白珠五千、孔青大句珠二枚、異文雜錦二十匹」と書かれています。

 著者は、賢そうに、生口三十人が重要で、他の貢物は添え物と独断していますが、そのような相対評価の根拠史料は、一切示されていません。

 著者は、史料に依拠して順当な仮説を提示しているつもりでしょうが、素人目には、無根拠の虚言の羅列と見えます。

*不可解な鉄通貨論
 「奴隷輸出」は、弁辰産鉄の輸入対価と想定しているようですが、鉄は通貨(銭)のように通貨扱いされたのであり、通貨買い付けの対価にはあり得ないと知るべきです。例えば、食料や食塩と交換されたと思われるのです。

 採掘は、帯方郡による官営事業であり、街道陸送の維持に努めたものと思われるのです。でなければ、弁辰の財力が韓地の天下を取っていたはずです。

 ここでも、史料批判のない、憶測が一人歩きしています。

 何事も、後世「素人」感覚で割り切るべきではないように思うのです。

                                  未完

私の本棚 32 上田 正昭 日本古代国家成立史の研究 再掲

 青木書店刊 1959-1971
 
  私の見立て★★★★★ 必読  2015/10/10 再掲 2020/06/18

◯名著再見
 本書(当ブログ記事筆者の近年の購入書籍)は、かねてより斯界の泰斗である著者の比較的初期(略半世紀以前)の論考ですが、ここに引用するのは、「魏志」(刊本)と「魏略」(逸文)の間の記事の異同を精査した上での、まことに味わい深い言葉です。

 ところで、逸文にみえる箇所についてさえ、これだけの異同があるのだからというので、人によっては、そのことによってただちに、「魏志倭人傅」の歴史性を疑う人があるかも知れない。けれどもこれはやはり尚早である。

 なぜなら「古事記」を作為の書としてすべてを否定的にあつかうことが誤りであるのと同様に、あるいはそれ以上に、こうした立場は、「魏志」の限界を不当に拡大した見地に他ならぬからである。

 むしろこの「魏略」と「魏志」」のずれが、「魏志」編者の立揚と解釈を素直に表明する揚合が多いからである。「魏志」を絶対視してふりまわしたり、逆に過少にみつもったりするまえに、われわれとしては「魏志」そのものについて、編者の考えにそくして本文をありのままに読んでゆくことが肝要であると考える一人である。

 そのことが、むしろかってな修正を字句に加えてゆく分析よりも合理的であり、邪馬台国問題解決への近道ではなかろうか。

*実らなかった提言
 折角の貴重な提言でしたが、今日まで半世紀以上の間、「魏志倭人傅」(倭人伝)に関して、「編者の考えにそくして倭人伝本文をありのままに読んでゆく」という提言に沿って、学術的に堅実な分析が行われた例は希少です。

 日本古代史の論議は、堅実で合理的な正論が疎んじられ、性急な断定がはびこる世界となっているのです。

*近著での提言
 著者の近著では、「文献の細部を詮索することに精力を浪費するのではなく、歴史の流れを読み取る努力が大事だ」との趣旨の提言がされているように見えます。斯界の泰斗にして、そのような諦観に近い意見を吐露されると言うことは、斯界の頑迷さの罪深さを知らされる思いです。
 これに対して、素人の異論を付け足すのは、素人の特権として、不遜とのそしりを覚悟の上で言わせていただくものです。

 「文献の細部」が少ない字数で書かれているにしろ、時として「文献の細部」の読み過ごしによって、大局の議論が迷走することは少なくないのです。「大局は細部に宿る」と手前味噌の箴言を気取りたいところです。

*閉ざされた道
 衆知のように、上記提言に従った論考の好例として、古田武彦氏の諸著作が刊行されていますが、そうした学究の姿勢に対して、関係学界からの反応は細かい揚げ足取りにとどまっていて、誰でも歩ける「邪馬台国問題解決への近道」は閉ざされているようです。

                                以上

2020年6月11日 (木)

今日の躓き石 毎日新聞野球記事の誤報 リモート「同級生」記事のふがいなさ

                                2020/06/11

 本日の題材は、毎日新聞大阪朝刊第14版のスポーツ面である。ひっそり続いている「無観衆」練習試合の記事なので、スタンド観戦していない記者は、ネタに窮しているのかも知れない。

 やり玉に挙げられているのは、もはや新人ではない、「若手」プロ野球選手の報道である。と言っても、別に大したことではない。偶々、本塁打が重なったと言うだけである。それを「3年目同級生」と見出しにするのは、実戦を長く見ていない記者の感覚がなまっているとしか思えない。
 「同級生」とは、大誤報である。一人は、早稲田実業、一人は、九州学院だから、同じ教室で勉強したこともなければ、同じチームでもなかったのである。全国紙がつまらない誤用に加担してどうするのか、ということである。

 プロ入りして3年目にもなって、高校時代の姿を引き合いに出される二人も迷惑であろう。担当記者は監督の戯れ言につられているようだが、それは、こども言葉に流されている姿であって、全国紙記者として大変残念な姿である。

 ついでながら、日ハム監督のコメントは、何とも珍妙である。ヤクルトの三年目は、既に二シーズン39本の実績を持っていて、今季は開幕四番かと取り沙汰されてるほど堂々たる実力を示しているが、監督の言う選手は、10本すらほど遠い。
 3年目を迎えて、新人を脱していないといけないのに、同期の先行者から半周から一周離されていて、誰が見ても不甲斐ない姿だから、「尻に火」どころか、全身火だるま状態のはずである。よほど、気迫に欠けるとみられているのだろう。これは、監督のぼやきなのかも知れない。

 このあたり、監督のつまらない冗談をそのまま報道しているのは、記者の感覚がなまっているのであろうか。厳しく言うと、二年続けて期待を裏切った「期待の新人」に寄せる期待は、もうとうに消えているのである。毎年新人が加入しているから、不甲斐ない三年目はただの伸び悩んでいる若手であり、実力勝負の世界で立ち止まっていたら、チーム内の生きの良い後輩に追い越されるのである。それだけのことである。

 と言う事で、三年目にもなっているのに高校時代の評判をつつき回している担当記者の感覚にはとてもついてけないのである。報道に値する新進選手をちゃんとした言葉で報道して欲しいものである。そして、もっと正しい日本語の維持について、真剣に勉強して欲しいものである。記者が新人なのか古参なのか知らないが、今回の記事は新米の不出来な記事に過ぎない。

以上

2020年6月 6日 (土)

私の意見 ブログ記事 倭人伝「南至邪馬壹国女王之所都」の異論異説 <補追記事>

古賀達也の洛中洛外日記 第2150話 などによる随想             2020/06/03, 06/06

〇はじめに 課題の明解
 今回は、前記事に続いて端的な課題の明解を模索します。提言者である古賀達也氏は、広大な中国古典書籍の用例を網羅して、堂々たる解析を進めていますが、当方(一人称単数)は、何分、浅学非才なので、直近の文脈を解析するところから出発し、文意の結論が出せたら脚を止めるので、道が異なるのです。

 当方は、電気工学技術者で、文系/理系の教養に乏しく、また、体系的に漢文解釈を学んだわけでなくて白川静師の漢字学著書や「字通」の教えを自分なりに展開します。史料の文献記事解釈は、素人なりに一歩一歩刻んでいく地道を進みます。権威者から主観的と叱責されかねないのは覚悟していますが、部外者による常道外れの異論提示が、当方の本分と見ているのです。

 当方の行き方では、古典用例は直近の文脈に関連が薄いので重きを置かないのです。勿論、優先度が低いだけで、排除しているわけではありません。蟻が富士山と背比べするような無謀さは、持ち合わせていないのです。

〇本論
 白川静師の「字通」、「字統」によれば、「王之所」は、それ自体「王の居城」を示す古典語法であり、「王之所都」と連ねるのは不自然と見ます。漢書西域伝で、数ある蛮夷の居処は「治」なのです。因みに、「所」は「ところ」を言う名詞です。

 史書は、古典語法を遵守すると共に、平易、明解に務めることから、ここは「女王之所」で句切るのが、順当な解釈ではないでしょうか。蛮夷の王の居城を記録するのに、変則的な語法を起用するはずがないのです。

*「中華」思想の誤伝 余談として
 つまり、東夷伝記事を「王之所都」と思い込むのは、時代観を見失っています。

 余談ですが、四百年後世の七世紀、国内史料(日本書紀)は、中国天子の行人(隋使 文林郎 裴世清)を迎えたとき、急遽任じられた「鴻廬掌客」が、蕃客接待したとしていますが、これは、中国古典を知らない別の東夷の粗忽の筆でしょう。

*「都」は「すべて」の意に落着
 以上に従うと、この部分の後半は「都水行十日陸行一月」となり、「都」は、辞書に掲示される代表的な定義の通り、「すべて」の意であり、全所要日数を示すと解するのが、文脈から、順当、妥当と思われます。そのため、当用例は、唯一無二でしょう。

*倭人伝記事の落着
 ここは、「従郡至倭」で始まった道里記事の総括として、全道里万二千里に相応の全所要日数が明記されたと見るのが、妥当と思われます。
 帯方新太守が、東域都護気取りでもないでしょうが、急遽洛陽に上申したと思われる東夷銘々伝の中の「倭人身上書」の要件を端的に明示するため、「女王之所」と「都水行十日陸行一月」が繋がって解釈されない行文としたと見ます。

 以上は素人考えの仮説ですが、一考に値すると感じています。

*積年の弊を是正する偉業
 それにしても、古来、史官の体得していた規律に従った行文を、(二千年後生の無教養な東夷の)後世の文献学者が句読を謬り、文意を誤解させた可能性がある、との古賀氏の指摘は卓見です。こうして見ると、先入観に囚われた史料誤読は、現代日本人の特技ではないのです。

*高句麗「丸都」の悲劇 余談として
 古賀氏が類似用例とされた「丸都」は、高句麗の創世記神話に由来するものであり、天下りした天子の治所を「都」と自称したのでしょうが、中国から見ると蛮夷の僭称であり、いずれ打倒されるべき「賊」なのです。
 一方、高句麗の世界観では、隋唐の皇帝は、かって高句麗に敵対し、時に臣従したとも思われる蛮夷(鮮卑 慕容部、拓跋部など)の「俗人」が、勝手に天子を名乗ったに過ぎないから相克します。
 どこかで聞いたような話ですが、それは、当記事とは無関係な空耳です。

                                以上

 

2020年6月 5日 (金)

陳壽(中国史)小論-23 (2013) 類書考

                              2013/10/07  追記 2020/06/05
◯類書考
 本小論では、ここまで、故意に「壹」「臺」論に触れていませんが、最後に私見を書き留めておきます。随分長くなった点をお詫びします。

 魏志倭人傳の結末付近に、
  「政等以檄告喻壹與、壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還、因詣臺」
 と、「壹」「臺」の両字が相次いで現れています。木簡,竹簡の時代には、一枚あたりの字数に限りがあるので、同じ「傳」でも、別の簡に書かれていて、前例を見過ごす可能性がありますが、ここまで至近距離で念入りに前触れされると、「壹」「臺」の取り違えは、まず起こらない、と言う仕掛けです。

 ここで、「臺」は、魏朝皇帝の意に用いられています。すると、直前の東夷の王名に「臺」を用いることは不敬に渉る可能性があり、不敬罪となれば親族まで連座して族滅されるのです。

 晋朝の史官は、そのような危険を避けるはずです。蛮夷の国名に「貴字」を使用するかどうかなどの優雅な話ではないのです、

 これほど至近距離ではないし、不敬罪にならない事項ですが、魏志倭人傳内には、ことさらに「壹拝」として「一」の正字を登場させているので、その日の字数を稼ごうと先を急いでいる写本工も、ここで目が覚める仕掛けです。

 もちろん、南朝劉宋の笵曄を始め、魏晋朝以降の後世史官や著者には、そのような危険はないのですが、重罪では、本人の処刑に家族、親類など三親等以内の親族が連座して処刑されるという族滅の制度自体は、すっと後世まで残っていますから、別の形でそのような使用回避の形跡が見られます。

 「史官の首が飛ぶ」と言うとき、現代人の理解と当時の時代人の理解とでは、それこそ、隔世の差があるのです。

 前置きはさておき、史料批判の問題に入ります。

 一般論ですが、正史は、代々厳格な照合を経て写本継承されます。国家事業としての写本では、専門家である写本工に的確な報酬と成績評価(賞罰)が課せられます。

 つまり、写本後に、原本との照合確認の上、正確であれば報酬を受け、誤写があれば罰を受けるのが、国家事業としての基本です。

 膨大な文字数を収めた文書の写本で、誤写の発生を極限まで減らすためには、写本の際の照合が不可欠であり、後年ですが平城京に於ける写経工房の管理で、このような管理が維持されていた事が、木簡史料から確認されています。
 もっとも、こうした品質管理以外に写本の信頼性を高める方法は無いのは自明なのですが。

 なお、重大な誤写が見過ごされて写本が世に出て、それが不敬罪を構成する文書となれば、上記のように親族まで連座して族滅されるのは、写本を主監する史官の定めです。編纂者として名をとどめるのすら、命がけなのです。

 このように、誤写の発生しないことを目指して写本されたと推定される、信憑性の高い正史刊本を克服して覆すには、少なくとも同等の信憑性を持つ史料を持ち出さなければなりません。

 見る限り、告発の証拠として提示される史料は、編纂資料の出所、信頼性が不明であるとか、資料引用の際の確認が不正確であるとか、果ては、史料自体の継承の過程が検証されていないとか、大きな弱点を抱えたものです。

*翰苑談義
 Wikipediaに曰く、「翰苑(かんえん)とは、唐の時代に張楚金によって書かれた類書。後に雍公叡が注を付けた。現在は日本の太宰府天満宮に第30巻及び叙文のみが残る。」

 後漢書引用の記事を見る限り、引用が不正確であり、信用するに足りないものと思われます。

 引用元の魏略は、残存していないので、魏略の引用の正確さについては推測の域を出ません。

 翰苑は、各資料について、孫引き、ひ孫引きになっています。

 つまり、元々大きな弱点を抱えている上に、史書としての校正、校訂がされていない、そういう本なのです。

 後世校勘で不正確な引用を校訂して補填するのであれば、それは、唐代資料でなく後代史料となります。

 また、「翰苑」は、ただ一冊のしかも断簡が残っているだけの孤立史料であり、他の「翰苑」と比較して写本の信憑性を検証できない点も考慮する必要があります。
 「翰苑」断簡は国宝であり、大変貴重な歴史文物です。

 ただし、現存する記事は翰苑の原記事かどうか検証不可能であり、従って、史料として信をおけるかどうか検証されているないと考えるのですが、素人の勘違いなのでしょうか。

*太平御覧談義
 太平御覧の記事は、原典直接引用でなく、孫引き、ひ孫引きであるとされています。

 魏略原本が残存しないので、魏略の引用の正確さについては推測の域を出ません。

 魏志原資料が、太平御覧制作時期まで残存していなかったのは自明です。

 太平御覧は、史書ではなく、史書として検討すると、引用が不正確な上に、史書としての校正、校訂がされていない、そういう本なのです。従って、他資料の引用についても、史書としての信を置くことが出来ないと考えます。

 ここで、ご参考までに、太平御覧倭國記事のPDF版を掲載します。句読点、改行は、漢字合成の技と合わせて、小論筆者の勝手な「著作」です。

「Gyoran_Wa.pdf」をダウンロード

*通志談義
 通志は、通史である史記を除くと各正史が王朝ごとの編纂であることを批判して、三皇から隋唐各代までの法令制度を記録する政書として編纂されたものですが、本小論で取り上げるのは、添付された「列伝」の倭の部分です。

 元々、各正史の倭・日本に関する部分を、歴史の流れに沿って手短に取り纏めて、膨大な正史の粗筋の手っ取り早い理解を助けるのが狙いであり、史書としての厳密さを目指したものでは無いのです。編纂の際に各正史の整合について、ある程度の時間は費やしたでしょうが、正史の校勘を目指したものでは無いのです。

 ここで、前回掲載の通志倭國記事のPDF版を掲載します。句読点、改行は、漢字合成の技と合わせて、小論筆者の勝手な「著作」です。

「Tsushi_Wa.pdf」をダウンロード

*寛容な史料批判
 関連史料の史料批判について、以下のように考えます。

 翰苑は、断簡自体信頼に耐えるものであるかどうか不明です。

 太平御覧の関連記事は、史書としての厳密な検証を経たものでは無く、写本継承の正確さに信頼が置けないので、御覧所引魏志に正史並みの信頼性を求めるのはお門違いです。

 通志の関連記事は、史書としての厳密な検証を経たものでは無く、写本継承の正確さに信頼が置けないので、通志所引記事に正史並みの信頼性を求めるのはお門違いです。

 「写本継承の正確さに信頼が置けない」のは、三國志の写本継承の正確さに遥かに及ばない程度という意味です。

 このような不確かな資料を根拠とする議論は、学術的でない憶測の議論です。

 こうした評価は自明と思っていましたが、「この世間」には、不確かな資料で確かな資料を否定する愚行が多いのに困惑します。

以上

陳壽(中国史)小論-22 (2013) 通志 テキスト

                            2013/10/04
◯通志紹介 
  浙江大學図書館所蔵 欽定四庫全書版 巻一百九十四(影印本)から読み取って書出したものです。Unicode対応端末(Windows 7, 8など)で読み取れるものと思います。

 原典のままでは読みにくいと思い、即席の勝手読みで、句読点と改行を追加しました。
 (  )は、Unicodeに無い(と思われる)文字を合成するものです。[  ]は、注です。

 以下、本文です。
< 新羅 >
    倭
倭自後漢時通焉。在帶方東南大海之中、依山島為國邑舊百餘國。
自漢孝武滅朝鮮、使驛通於漢者三十許國。國皆稱王、世世傳統。
自帶方郡至倭、循海岸水行、歴韓国乍南乍東、到其北岸拘邪韓國、七千餘里。
始度一海、千餘里、至對馬國。其大官、曰卑狗、副曰卑奴母離。所居絶島、方可四百餘里。土地山險多深林。道路如禽鹿徑。有千餘戶。無良田、食海物自活。乖船南北市糴。
又南渡一海、千餘里、名曰瀚海、至一大國。官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。方可三百里。多竹木叢林。有三千許家。差有田地耕田、猶不足食、亦南北市糴。
又度一海、千餘里、至末盧國。有四千餘戶。濵山海居。草木茂盛行不見前人。好捕魚、水無深淺皆沈沒取之。
東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚柄渠觚。有千餘戶。世有王、皆統屬於倭國。郡使往來常所駐。
東南至奴國、百里。官曰兕馬觚、副曰卑奴母離、有二萬餘戶。
東行至不彌國、百里。官曰多模、副曰卑奴母離、有千餘家。
南至投馬國、水行二十日。官曰彌彌、副曰彌彌(舟阝)利、可五萬餘戶。
南至邪馬臺、即倭國之所都也。[邪馬臺亦曰邪靡堆音之訛也] 水行十日陸行一月。官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮。可七萬餘戶。
自倭國以北、其戶數道里可得畧載。其餘旁國、遠絶不可得詳。
次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、次有彌奴國、次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有鬼國、次有為吾國、次有鬼奴國、次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴利國、次有支惟國、次有烏奴國、次有奴國。此倭國境界所盡。
其南有狗奴國。其官有狗古智卑狗不屬倭國。
自郡至邪馬臺二千餘里。
計其方向、當在會稽東冶之東、與儋耳相近。
男子皆黥面文身、露紒以木棉帕頭。其衣橫幅、但結束相連畧無縫。婦人被髮屈紒作衣如單被、穿其中央貫頭衣之。
皆徒跣。有室屋。父母兄弟卧息異處。以朱丹塗其身體如中國用粉也。食飲用籩豆手食。
其死、有棺無槨。封土作冢。始死停喪十餘日、當時不食肉。喪主哭泣、他人就歌舞飲酒。已葬、舉家詣水中澡浴以如練沐。
其行來渡海詣中國、恒使一人不梳頭不去蟣蝨、衣服垢汚。不食肉、不近婦人、如喪人名。之為持衰若。行者吉善、共顧其生口財物。若有疾病遭暴害、便欲殺。之謂其持衰不謹其有所。
舉事云為輙灼骨、為卜以占吉凶如中國。鑽龜法視火坼之兆而知之。
其會同坐起、父子男女無別。人情嗜酒。
見大人致敬但搏手以當跪拜。
國人多壽考、或百歳或八九十。
大姓皆四五婦、下戶或二三婦。婦人不淫不妬。
忌婚嫁不娶同姓。男女相悦者即為婚配。婦入夫家必先跨火乃與夫相見。
國多珍物。有青玉真珠。有如意寶珠、其色青大如雞子。夜則有光、云魚眼晴也。
其山有丹。其木有柟、梓、豫、樟、楺、櫪、(木殳)、橿、烏號、楓香。其竹篠簳桃支。有薑、橘、椒、蘘荷、不知以為滋味有。
黑雉有。獸如牛名曰山鼠。又有大虵吞此獸、虵皮堅不可斫。其上孔乍開乍閉時、或有光射中之即死。
無牛、馬、虎、豹、羊、鵲。
氣候温暖。草木冬青。土地膏腴、水多陸少。
種禾稻、紵、麻、蠶、桑、緝、績。冬夏皆食生菜。
兵有弓矢刀、矟、弩、禩(矛賛)、斧、戚漆皮為甲。
矢鏃用鐵或用骨。
樂有五絃琴笛。戯有碁博握槊摴蒲。
王所都、無城郭。
内官有十二等。一曰太德、次小德、次大仁、次小仁、次大義、次小義、次大禮、次小禮、次大智、次小智、次大信、次小信。員無定數。
有軍尼百二十人、猶中國牧宰。八十戶置一伊尼翼、如今里長也。十伊尼翼屬一軍尼。
其刑法彊、盜及姦皆死、盜者計贓酬物、無財者沒身為奴。自餘輕重或流或杖。毎訊冤獄不承引者、以木壓膝、或張彊弓以弦鋸其項、或置小石於沸湯中、令所競者探之。云理曲者即手爛。或置蛇缶中令取之。云曲者即螫手。
人頗恬靜、罕爭訟少寇盜。
頗敬佛法、始無文字。唯刻木結繩。後於百濟求得佛經方有文字。尤信巫覡。
每至正月一日、必射戲飲酒其餘節與華畧同。
漢建武中、遣使入朝自稱大夫。
安帝時、又遣朝貢。謂之倭奴。
靈帝光和中、其國亂、遞相攻伐歴年無主。有女子名卑彌呼、能以鬼道惑衆。國人共立為王。年長矣無夫婿。有男弟佐之治國。自為王以來、少有見者。
以婢千人自侍。唯有男子一人、給飲食、傳辭令。
居處宮室樓觀甚設。常有人持兵守衛。
魏景初三年、公孫淵誅後、卑彌呼始遣其大夫難升米、牛利等詣帯方郡求詣天子朝獻。太守劉夏遣史將送詣京師。
明帝詔賜卑彌呼為親魏倭王、假金印紫綬、以難升米為率善中郎將、牛利為率善校尉、假銀印青綬。
是歳明帝崩。齊王芳立。
明年改元正始。太守弓遵遣建中校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國、拜假卑彌呼爵命、并齎詔賜金帛錦罽刀鏡等物。
卑彌呼因使上表答謝。
四年、卑彌呼復遣使大夫伊聲耆掖邪狗等八人、上獻方物詔拜。掖邪狗等率善中郎將各假印綬。
六年又詔賜難升米黃幢、付帯方郡假授。
八年太守王頎到官。卑彌呼與狗奴國王卑彌弓呼交兵、遣其臣載斯烏越等詣郡、説相攻撃状。
郡遣塞曹掾史張政等、因齎詔書黃幢拜假難升米為檄告諭之。
卑彌呼已死、大作冢徑百餘歩。徇葬奴婢百餘人。
更立男子王、為國中不服。更相誅殺當時殺千餘人。復立卑彌呼宗女臺與為王。國中乃定。臺與時年十三。
政等以檄告諭臺與、臺與遣率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還因詣臺。
修其歳貢晋泰始初復遣使朝獻。
臺與死其国復立男王。
安帝時、有倭王讃者通表江左。
宋武帝永初二年詔曰倭讃遠誠宜甄可賜除授。
文帝元嘉二年、讃又遣使司馬曹達奉表獻方物。
讃死弟珍立。遣使入貢、自稱使持節都督倭百濟新羅任郍秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭國王。
表求除正。詔除安東將軍倭國王。
珍又求除正倭洧等十三人平西征虜冠軍輔国將軍等號。詔並聽之。
二十年、倭國王濟遣使奉獻復、以為安東將軍倭國王。
二十八年、加使持節都督倭新羅任(舟阝)加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東將軍如故、并除所上三十三人職。
濟死、子興遣使貢獻孝武大明六年。詔受興安東將軍倭國王。
興死弟武立。自稱使持節都督倭百濟新羅任郍加羅秦韓慕韓七國諸軍事安東大將軍倭國王。
順帝昇明二年遣使上表言、
「自昔祖禰躬擐甲胄跋歩山川。不遑寧處、東征毛人五十五國、西服衆夷六十一國、陵平海北九十五國。
王道融泰廓士遐畿。累葉朝宗不愆于歳道、逕百濟飾船舫而。句麗無道圖欲見呑、臣亡考濟亡兄興並欲大舉問罪。不幸奄喪父兄。使垂成之功不獲一簣。今欲練兵申父兄之志竊」
自假開府儀同三司其餘咸、各假授以勸忠節、詔除武、使持節都督倭新羅任郍加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭王。
齊建元中、除武、持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事鎮東大將軍。
梁武即位、進號征東大將軍自是迄于。
陳世使命不絶。
隋時、倭王姓阿毎字多利思比孤號阿輩雞彌。阿輩雞彌華言天兒也。王妻號雞彌。没官名太子為利歌彌多弗利。
開皇二十年、多利思比孤遣使詣闕。上令所司訪其風俗。使者言、「倭王以天為兄以日為弟。天明時、出聴政跏趺坐。日出、便停理務。云委我弟」文帝曰此大無義理。訓令改之。
大業二年、多利思比孤復遣使朝貢。使者云、「聞海西菩薩天子重興佛法。故遣朝拜無有」
沙門數十人来學竺乾道。
國書曰、「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」
煬帝覽之不悅謂鴻臚卿曰、「蠻夷書有無禮者勿復以聞」
明年、帝遣文林郎裴清使。
其國渡百濟、行至竹島、南望耽羅國、經都師麻國、逈在大海中、又東至一支國、又至竹斯國、又東至秦王國、其人同於華夏以為夷洲。疑不能明也。又經十餘國、達於海岸。自竹斯國以来、皆附庸於倭。
倭王遣小德阿輩臺從數百人。設儀仗鳴鼓角來迎。
後十日、又遣大禮歌多毗從二百餘騎郊勞。
既至彼都。其王與清相見設燕饗以遣復令使者隨清來貢方物。
先時、其王冠服仍其国俗。至是始賜與衣冠乃以綵錦為冠飾裳皆施(衤巽)[饌音]綴以金玉云。
唐貞觀五年、遣新州刺史高仁表持節撫之。浮海數月方至。仁表無綏遠之才、與其王爭禮、不宣朝命而還。
倭國之南、復有侏儒國。人長三四尺。又南、有黑齒國、裸國。船行可一年至。
使驛所傳極於此矣。
<  夫餘  >
 以上です。

 ちなみに、個人的利用には、上記テキストを縦書きPDF化して、手元資料としています。こうした資料を横書きで読むのは、字面が感覚に訴えるものが損なわれるので、感心しないのですが、仕方ないところです。

陳壽(中国史)小論-21 (2013) 倭傳原文資料

◯主要史料
 内容確認済みの権威ある史料として、「中國哲學書電子化計劃」サイトを紹介します。
 当初、テキストデータを掲示する予定だったのですが、権利関係が明確でないので、個別のリンクを掲示します。アクセスして、テキストデータを入手することは、さほど難しくないでしょう。
 下記サイトでは、所蔵テキストデータの全検索で、例えば「倭」の登場する文献を全部検索するようなことも出来ます。
 色々散策したあげく、こうして信頼できるデータにお目にかかれて下記サイト関係者に感謝しています。

 三国志
中國哲學書電子化計劃 魏書三十 倭人傳
http://ctext.org/text.pl?node=603372&if=gb
漢代之後 -> 魏晉南北朝 -> 三國志 -> 魏書三十 -> 倭人傳

 後漢書
中國哲學書電子化計劃 後漢書東夷列傳
http://ctext.org/hou-han-shu/dong-yi-lie-zhuan
先秦兩漢 -> 史書 -> 後漢書 -> 列傳 -> 東夷列傳

 通典
中國哲學書電子化計劃 通典 邊防一《倭》
http://ctext.org/zhhttp://ctext.org/text.pl?node=564583&if=gb
漢代之後 -> 隋唐 -> 通典 -> 邊防一

 太平御覧
中國哲學書電子化計劃 太平御覧 四夷部三·東夷三
http://ctext.org/taiping-yulan/782/zh
漢代之後 -> 宋明 -> 太平御覽 -> 四夷部三·東夷三 -> 倭

 通志は、まだテキスト化されていなくて、影印版になります。
 次回、筆者がテキスト入力したものを掲示します。

以上

陳壽(中国史)小論-20 (2013) 参考資料・文献

主たる参考資料は以下の通り。
 「俾弥呼 ひみか」 ミネルヴァ書房 古田武彦著 2011年初版
   紹熙本「三国志」(二十四史百衲本)魏志倭人傳写真版を収録
   俾弥呼魏使面接時30代との提言(初出未確認)を再録

 合本「市民の古代」第3巻  新泉社      1991年第1刷
   巻頭対談(古田武彦 木佐敬久)
           木佐氏から女子女王即位の提言あり

 歴史読本特別増刊 シリーズ「日本を探る」 2
  日本国家の起源を探る             1994年
   「古代史の争点となっている「邪馬台国」「倭の五王継体・欽明朝」を中心に」
   「これまでに発表された画期的論文の中から30篇ほどを選んで掲載」
    たとえば、榎一雄氏の古典的論文である「邪馬台国の方位について」
     1948年 「オリエンタリカ」所収 を収録

 以下の史料は、小論記入中に入手した物。
 「東アジア民族史 1 正史東夷伝」
   倭人伝(後漢書、三国志、晋書、宋書、南斉書、梁書、隋書)収載
     平凡社 東洋文庫 264 井上秀雄 他 訳注 昭和49年初版
 「東アジア民族史 2 正史東夷伝」
   倭・日本伝(南史、北史、旧唐書、新唐書、通典)収載
     平凡社 東洋文庫 283 井上秀雄 他 訳注 昭和51年初版
  注釈:テキストは汲古閣本を中心とし、百衲本、武秀殿本、南監本を参照した

◯正史データ
  権威あるデータ入手先としては、早稲田大学図書館蔵書の写真版がおすすめです。
 汲古閣本三国志(早稲田大学図書館蔵書)
  http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko11/bunko11_d0265/
   三国志画像の右下の「5」に倭人傳を含む冊子の写真画像が収録されている。
   PDFを選択すると一冊全部ダウンロードできる。
   HTMLを選択すると全頁の縮小画像が表示される。100以降が倭人傳である。
 後漢書. 1-90/范曄[撰];章懐太子注 (早稲田大学図書館蔵書)
 http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ri08/ri08_01735/ri08_01735_0037/ 
     後漢書画像の16番の冊子に倭傳が含まれている。
   PDFを選択すると一冊全部、どっさりダウンロードできる。
   HTMLを選択すると全頁の縮小画像が表示される。10と11が倭傳である。

陳壽(中国史)小論-19 (2013) 笵曄再考

                             2013/10/03  追記 2020/06/05

◯范曄度々
 以上書いたように、笵曄の史家としての資質をどう評価するかは別として、事情に通じた読者の目から見ると、范曄が、魏志倭人傳伝記事を潤色改訂して、倭人伝記事を逸脱した手口が見抜けるのです。しかし、なぜ後世史書が倭傳を記述する際に後漢書倭傳の記事を優越したのでしょうか。

 正史以外に権威ある歴史書として、唐時代に、杜佑が35年(CE766-801年)をかけて編纂した「通典」があります。(写真版が見つからず、頼りない原文を載せています)

 通典編纂期間は、唐王朝で言えば、大乱による打撃からの回復期でした。

 「安史の乱」(CE755-763年)は、首都長安が副都洛陽とともに反乱軍に制圧され、CE756年には皇帝一行が蜀に向けて逃亡し、反乱鎮圧後にようやく長安に復帰するような大乱でした。この異常な事態からの復興のめどが付き、壮大な史書を編纂できる程度まで回復したのがCE766年だったのでしょう。

 通典の「通」は、王朝変遷にこだわらず、時系列で歴史を記録するのであり、神話時代からつい先日である玄宗期までの超のつく長期間の記録です。

 当記事に関係する「通典倭傳」は、歴代正史の倭国関連記事をつなぎ合わせて一本の通史にしたものです。前漢時代から唐代に至る記事は、むしろ魏志倭人傳記事よりかなり短縮され、内容確認はさほどの手間ではありません。

 読んで気づくのは、通典倭傳は、後漢書倭傳を典拠としていると推定されるのです。なぜかというと、笵曄に始まった魏志倭人傳からの逸脱がここにも見えるのです。

 と言うことは、後漢書倭傳が魏志倭人傳を上書きするものでなければ、通典といえども、魏志倭人傳を乗り越える信頼性を持たないので、退けざるを得ないと言うことです。
*文献批判の前提
 さて、ここまでぐるっと回って、本小論の推定主題は維持されています。

 陳壽が編纂した三国志は、正史として注意深く写本継承された上で、継承された写本から注意深く写本版刻していると思われるので、正史としての信頼性は高いものである。
 注意深く写本継承されたものではないと推定される資料は、相対的に信頼性の低いものである。

 魏志倭人傳は、原情報を、ほぼ忠実に利用したと推定される同時代記事であり、史官である陳壽は信頼するに足ると推定される筆者であり、従って、魏志倭人傳記事は、総合的に判断して信ずるに足りると推定される記事です。

 これまで、魏志倭人傳記事に対する反対意見の証拠として提起されている資料の内、後年編纂された資料は、時を遡って魏志倭人傳を修正する根拠とはならないのです。

 同時代、ないしは、先行する可能性のある資料であっても、引用複写されたものや断片しか継承されていないものは、資料としての信頼性に欠けるので、魏志倭人傳を修正する根拠とはならないのです。

 よって、従来提起されている議論は、魏志倭人傳に推定されている信頼を覆すと推定するに足りないものと考えます。
*半終止
 ここまで、一介の素人の素人考えに、長々とおつきあいいただき感謝します。

 本小論では、倭人傳解釈について、導入部の資料尊重論の参考とした場合を除き、極力参考書籍の教えを請うことなく、魏志倭人傳記事と自分の経験と知識でこの小論を進めてきました。先賢の意見と重複していたとしたら、もの知らずの独り合点とご笑覧ください。

以上でとりあえず完結です。

陳壽(中国史)小論-18 (2013) 笵曄大亂

                              2013/10/02  追記 2020/06/05
◯笵曄大亂
 「桓靈間倭國大亂更相攻伐歴年無主」

 手口として、倭国は桓帝靈帝治世(CE148-188年)の40年間に渉る大亂としています。

 陳壽が「歴年」で足かけ2,3年程度の意味としているのですが、笵曄は40年戦争かと思えるほど、劇的に表現するために「大」乱としたのでしよう。

 ここで、「倭国」は、女王共立の対象ですから、のちの「女王国」、すなわち、戸数が多いとはいえ、あくまで一国の事情となります。一国に長年にわたる「大乱」があったとは思えませんし、もし、互いに殺戮し合う大乱であったとすると、大勢の戦死傷者が出て恨みの爪痕が残り、女王を共立しておさまるものではなく、その後に、魏志倭人傳に書かれているような一種のどかな風情は、実現できないはずです。

 大乱のせいで、青壮年男子の人口が減少し、女性の多い国になったと読むのは、限りなくブラックな深読みでしょう。

*創作談義
 以上のように、笵曄が魏志倭人傳に加えた変更の大半は、謎の新規史料を根拠にしたものでなく机上の創作と推定されます。

 かくして、後漢書倭傳は、改変字数こそ少ないものの、尊重すべき原典たる魏志倭人傳から処々で逸脱した創作物と化しています。

 以上の考えを、異界の笵曄(?)に伝えたところ、ぽつりと「食するものに火を通して、薑橘椒で滋味にするのが(文明)人だ」とのご託宣でした。(もちろん、ここだけの冗談ですが)

 察するに、司馬遷が、史記記事で文飾を加えたのに始まり、史実の潤色は史官の資質であり、笵曄の資質は、むしろ正統的なものだと言うようです。
 正史は史実記事の羅列ではなく、史官が自己の責任で自己の感情や思想を示す表現の場であって、それでこそ立派な著作なのだ、と言いたいようです。

 しかし、倭国現地の事情をそっちのけに、中国の春秋戦国時代の各国の模様を当てはめるような潤色は、褒められたもののではないでしょう。

 本小論は、後世史書が笵曄作品を典拠として、陳壽が多様な筆致で活写した倭人傳を、屏風の下張りのように隠したことを嘆いているのです。

 笵曄個人に関しては、超大作後漢書を輻輳する苦難の中で編纂したと賞賛し、不朽の功名を得るために、自身の創作意欲を重視し、これが倭傳でも十全に発揮されたたことについて、できれば、無理からぬ事と看過したいとまで思っているのです。

以上

 

陳壽(中国史)小論-17 (2013) 銅鏡談義

                              2013/10/01   追記 2020/06/05
◯銅鏡談義
 獻生口の蛇足で、これも大胆な私見ですが、魏朝から下賜された銅鏡百枚について憶測しています。

 漢時代には、官営工房が存在し、産銅地から銅器生産地への素材供給が確保され、加えて、銅器生産地の職人団の総合技能として、意匠の確定、銘文作成、鋳型制作、鋳造、仕上げの一連の工程の高度な分業活動も形成され、各工程の技術が世代継承されていたからこそ、数百年の期間にわたり安定した品位と品質で青銅器を生産供給できたのでしょう。

 しかし、そうした高度な生産体制ですが、官営故に後漢朝の崩壊とともに、素材供給の道は分断され、帝都洛陽の破壊とともに職人集団は散逸解体されていたと推定されます。

 倭国貢献の時点は、全国統一以前の分裂時代であり、官営工房は再興してないと思われます。産銅地からの素材供給も、回復できてないと思われます。職人集団は散逸から回復してないと思われます。

 とても、銅鏡百枚を新作するような状況ではなかったはずです。

 特に、後漢鏡など、お手本のあるサイズとデザインのものならともかく、一段と大型で、デザインの異なったものを新作することは、大型鏡の鋳造の不安も含めて、かなりの難行と考えます。どうにも、魏朝が難行に取り組むとは思えないのです。

 中国世界では、銅鏡に対する崇敬の念は衰退し、漢鏡、後漢鏡は、王宮などの宝庫に退蔵されていたのではないかと憶測しています。従って、倭国使節からの下賜依頼に応じることは、在庫の解消になったと推定しています。

 漢鏡、後漢鏡なら、デザインとサイズが定型化しているので、百枚新作するとしても、多少は取り組みやすい事業ですが、それでも、なぜそこまでしてやるのか、という疑問がついて回ります。

 これが、魏朝が、手間のかからない手順として、伝世の漢鏡(後漢鏡)の銅鏡百枚を下賜したと推定すると、銅鏡生産体制が崩壊した状況であっても、短期間で実行できたことになります。

 以上の推測を基にさらに推定すると、魏朝の銅鏡下賜は一度限りということになります。

 反対の声が渦巻いているので言い訳しますが、何の根拠もない獻生口談義も含めて、素人の憶測と推定の座興なので、余り強く受け止めないでください。

以上

 

 

陳壽(中国史)小論-16 (2013) 獻生口 3

                               2013/09/30   追記 2020/06/05
◯献生口
 それにしても生口は何者だったのか、一案を先賢に学びます。
 http://koji-mhr.sakura.ne.jp/PDF-2/2-3-4.pdf (無断Linkごめんください)

 獻生口の実態は技能工(匠)ではなかったかと提言しているものと思います。
 貴重な見識に感服はしましたが、承服はしかねるのです。

 中華王朝が、多年の歴史を誇る華夏文明(権威有る中国文明)に浴しない東夷の「匠」の技術を取り入れるとは思えないのです。
 中国を貫く儒教的世界観では、職人芸を尊ぶどころか、士人(一人前の人物)は、つまらぬ雑事(鄙事)に手を染めない、と手仕事を卑しみかねないほどに軽視するのですから。

 倭国も、貴重な匠を大挙して大陸に送り出したら、人材払底するし、匠の跡継ぎも生まれないので、不都合と思われます。倭国は、中国に対して、そこまで犠牲を払う理由はないと思われます。やはり、人員の移動があったとは思えないのです。
*新生口論
 さて、折角だから、否定だけで終わるのでなく、無理は承知で大胆な案を提示してみましょう。
 ここでは、生身の人間の献上、派遣は、大変困難性であり、「獻生口」とは、人数分の戸籍(戸口、今日の戸籍謄本)資料を献上したものであり、このような資料提出により魏朝への臣従を誓ったのではないかと思われます。

 「口」のつく熟語である「戸口」を分解すると、「戸」は「家」の管理情報であり、「口」は「人」の管理情報です。「生口」と合わせて、(各国王族の臣従の証拠となる)個人戸籍資料ではないでしょうか。

 これなら、献上品としての値打ちが高く、旅程上の荷物にならないし、もらった方も倭国の忠誠に価値を感じると共に、後の始末に困らないのです。

 つまり、「獻生口」とは、中国王朝への任官を願って身元資料、戸数資料、地図を献上し、献上地図の土地を知行地として与えるように求めているのであり、謝礼として礼物を献上しているのではないか、と言う「珍説」です。

 「難升米爲率善中郎將、牛利爲率善校尉」と書かれているように、正使副使は魏朝の高位の武官に任じられていますが、その際、先年の獻生口に基づく知行地を得ているはずです。二人は、魏朝の国家体制に組み込まれ、朝命が下れば、傘下の兵を率いて出兵する訳ですから、戸口資料でその陣容を上申しているはずです。

 なお、獻生口に基づく任官でも、これらの官位より下級の官職の任官記事は残らなかったのでしょう。

 このように、中国の王朝に忠誠を誓う獻生口の報酬として官位と印綬(記念品)を与えるのでしょう。魏朝としては、与える領地は元々本人たちの領地であり、中国の遙か彼方で国内の誰かが迷惑することもないのです。そして、各国国王は、女王配下の統治者としての権力を正当化されるという仕掛けです。

 魏朝から女王国に下賜された銅鏡100枚にしても、何か根拠がなければ100枚も纏めて下賜できないと思われますが、獻生口の見返りであれば、当面の任官の記念品となります。

 こんな「非常識な」方法で任官を誓願した外夷は、空前絶後で、かくも特異な記事になっているのでしょう。愉快な理論と思いますが、いかがでしょうか。

 聞けば聞くほど、獻生口とは、何のことかわからないと感じていただけたら幸いです。

 以上は、筋の通らない記事に筋の通りそうな意義を与える、無謀な素人考えなので、お忘れいただいて結構です。

 とにかく、「獻生口」の意味のわからないままに「奴隷」献上との解釈を定着させ、当時の統治者に、根拠もなく人身販売の汚名を着せるのは、好ましくない議論と思います。

 まして、一部の識者の論説にあるように、対海国、一大国が、食料、物資を調達する南北交易で、人身販売業に従事していたなどと論ずるのは、憶測による冤罪であり、今日の国際社会に波風を立て、後生に不安を与えるものではないかと懸念します。

 史上の人物、国家を論難するときも、確たる証拠無くして有罪としない「推定無罪」の適用が必要でしょう。

 毎度ながら、わからないことはわからないと認める勇気が、史料に対する誠実な対応法と考えます。

以上

陳壽(中国史)小論-15 (2013) 獻生口 2

                            2013/09/29  追記 2020/06/05
◯献生口
  なお、上記記事の後漢安帝時代は、前漢末から新朝、後漢登場の間の大乱による壊滅的状態から回復して、全国人口は5千万人程度、首都洛陽は周辺地帯を含めると100万人、ないしはそれ以上の住人がいたと思われるので、むしろ人口過密で人手不足はないと推定されます。また、宮廷や高官宅には有能な奴隷は居たので、手不足と言うことはないはずです。

 してみると、倭国から後漢への「獻生口」160人は、奴隷献上ではないと考えられます。

 魏朝の頃は、後漢末期からの戦乱で人口はかなり減っていたとは言え、女王国からの数十人の獻生口も、奴隷献上であれば、魏朝にとって不要と思われます。魏王朝は、一度不要な奴隷を送り込まれたら、二度と来ないようにしたはずです。

 それ以外に船舶航行の問題もあります。
 諸資料、意見はあるものの、当時は、帆船時代には尚早で手漕ぎ船と思われることも相まって、後漢や魏晋時代に洛陽に赴く際の船舶は少人数を乗せるのが精一杯であり、後漢時代に、お荷物となる奴隷を160人搬送するのは、全く現実的でないし、倭人傳記事の時代も、使節人員以外に数十人の人員を搬送する余裕はないことと思います。

 例によって、船酔いの問題も深刻を極めると推定します。

 どう考えても、風濤嶮岨の大海を越えて千里万里の奴隷献上は、実行不可能ではないでしょうか。

 地続きの中国周辺なら、戦闘捕虜の搬送もさほど困難ではないでしょうし、長年の戦乱で、勝った側が負けた側の兵士の捕虜を奴隷として取り込むのは、世の習いとして受け入れられたでしょう。

 また、古来、人口過密の城都では、種々の雑役に、衣食住付き、ただし、転居、転職不可能な束縛付きで売買可能な雇用形態で多数の「奴隷」を駆使していたものであり、普通考える「奴隷」というよりは、むしろ「年季奉公」の感があるのです。

*官奴談義
 文献では、官奴と称して、宮廷や官公庁の下働きを課せられた「奴隷」がいて、識者が、官奴に老人が目立つから、65歳で解放したらどうかと提言している例があります。

 労働力としてみると、老官奴は、早々に引退してもらった方が良いのですが、それは、本人にとっては失業だから、衣食住付きの官奴であれば70歳近くなっても生きていけるのですが、60代で早期に自由民となって食っていけたのかどうか。

 閑話休題

 最後になりますが、倭人傳の女王国に関する記事で気にとめる必要があるのが、女王について「以婢千人自侍」とする記事です。「婢」が奴婢だったのか、単なる召使いだったのか、はっきりしないのです。

 私見では、これだけ大勢のものを、非生産的な仕事に縛り付けていては、食料生産(農漁業)の人手が不足するし、「給与」や「福利厚生費」財源に、一般人に「課税」すると不満を煽りそうだし、どう見ても、分不相応な格好付けのように思えます。

 そうした不都合を無視して、「婢千人」だから、生口を多数送り出すこともできたはず、というのは、ちょっと乱暴な議論です。

 結論としては、百度百科の権威にもかかわらず、「獻生口」の意味はよくわからないのです。

この件続く

陳壽(中国史)小論-14 (2013) 獻生口 1

                           2013/09/28  追記 2020/06/05
◯献生口
 「安帝永初元年、倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見。」

 後漢書倭傳当記事は倭人傳になく、笵曄の文筆家としての凱歌と思えます。
 陳壽が、倭人来朝貢献は史上に燦然たる魏朝の功績と言うが、已に後漢朝に来朝しているので讃えるべきは後漢朝の威光となります。
 後世史家も、この一行故に後漢書倭傳記事を重視したのでしょう。

 しかし、後漢朝貢献の詳しい事情は何も書かれていない。詳しい経緯は知ることかできませんが、陳壽は、多分この来朝記事は見たが、特筆事項がないので触れなかったのでしょう。

*生口談義
 それにしても、倭傳、倭人傳でよくわからないのが、生口です。
 後漢書記事を皮切りとして、倭国からの「獻生口」記事があり、獻上物と併記されているので、価値ある何かに違いないし、単位が人であるから人間のように見えます。

 ここで、百度百科を参照すると、「生口」は、漢書、後漢書、三国志などで登場する古典的な二字熟語であり、用例の大半は、国内の奴隷や戦闘捕虜の記事であり、奴隶 俘虏 牲畜、つまり、奴隷、戦闘捕虜、犠牲用家畜の意味となっているので、奴隷で決まりのように見えます。

 しかし、よく吟味すると、倭傳、倭人傳の生口が、奴隷の類いとは思えないのです。
 生口として奴隷を献上するのであれば、倭国から中国の首都洛陽へ奴隷を連行することになります。故郷に還れない奴隷たちは、途中で脱走の恐れがあり、厳重な監視が必要と思われます。長期の移動に対して、食料も人数X日数分必要であり、諸般の始末も必要です。

 数人程度ならともかく、百人を大きく超える「奴隷」の献上は、とても、成り立つものではないと思われます。

*役に立たない労働力 
 中国側から見てもと、言葉の通じない、風習の異なる異境の奴隷を、繰り返し、多数献上されても迷惑と思われます。特に言葉が通じない、つまり、使い走りとして役に立たない野蛮人は、邪魔なだけです。力仕事にしか使えないのですが、手順を説明しても、一切通じない、わからないのでは、全くものの役に立ちません。せめて、言葉が通じていたら、何か仕込めるのでしょうが、まさか、各人に通字を二人ずつ付けるわけにも行かないのです。。

*光武帝の奴隷解放
 後漢光武帝の事績として奴婢解放があります。王莽の簒奪に始まる大乱によって発生した大量の奴婢を解放して、庶民(自作農民)に戻すという命令です。

 後漢朝創業者の栄えある事績は、安帝も承知していたはずであり、外夷から160人の奴婢を受け入れることはなかったのではないかと思われます。倭国も、これが初めての後漢への献使ではないので、役に立たない奴婢を大勢献上することはなかったと思われます。要は、後漢書倭伝記事は、范曄独自の安直な造作に過ぎないのです。

この件続く

 

陳壽(中国史)小論-13 (2013) 多女子

                                 2013/09/27  追記 2020/06/05
◯国多女子
 「國多女子大人皆有四五妻其餘或兩或三」

 結婚記事で、陳壽は、裕福なものは全て四、五人の妻を持つ。さほど裕福でないものでも、中には二、三人の妻を持つものがいると丁寧に説明したのに、笵曄は、裕福なものは四、五人、さほど裕福でないものも、二、三人の妻がいて、総じて多妻と断言しています。見事な文飾ですが、無邪気な勘違いと見るべきでしょうか。

 前段に、この国は女性が多いと4文字書き足して、反論や疑問がでないように根回しして周到です。

 魏志倭人傳は、女性が貞淑で嫉妬しないと書いて、そのため、多妻家庭でも平和との示唆があり、笵曄は、この趣旨は継承していますが、流麗な加筆で多妻説を強調しています。

 中国王家の例でも、多妻は、あくまで、国王の務めであって、当然発生する嫉妬の争いは、国の乱れに繋がるので、例えば、曹魏文帝曹丕は、嫉妬が激しいという理由で、夫人を何度か処刑していて、その一人は、明帝曹叡の生母なのです。と言うことになっているものの、あるいは、将来、自身の死後、皇帝生母として暴政を敷くのを怖れたものかも知れないのです。

 今回は息抜きでした。

以上

陳壽(中国史)小論-12 (2013) 世世傳統

                            2013/09/26  追記 2020/06/05
◯世世伝統の怪
この部分でも、笵曄が文飾を凝らして、魏志倭人傳を上書きする手順である切り捨てと創意工夫は、まずは冒頭に現れています。

 「使驛通於漢者三十許國。國皆稱王、世世傳統。」

 魏志倭人傳は、「倭人は」で書き出して、山島に三十国の「國邑」があるとしています。
 国邑の邑は、文脈に応じて、巨大な「国」の時もあり、地方領主の居城の時もあり、小村落という時もあって、陳壽のように意味を絞りたくない筆者にとって、融通のつきやすい便利な表現なのです。

 実情に通じた目で冒頭記事を読んで感じられるのは、三十国は、大小に大きな差があって、大きなのは人口10-20万人程度の結構大きな「国邑」ですが、大半は百人から千人規模の「国邑」村落と読み取れます。人口万の国々が、三十国ひしめき合っているのではないのです。
 このような実態であっても、国邑の意味が緩やかなので誇張や虚偽の報告にならず、魏朝皇帝や高官に対して遠路はるばる魏使を派遣し、大層な品物を下賜した面目が立つのです。

 案ずるに、「国邑」は魏使報告書の作品かもしれません。

 陳壽は、魏使報告書に書き込まれた現地情報を背景に、安んじて「国邑」と称したのですが、笵曄は、別に150年以上前の王朝や使節団の面目に配慮する必要はないので、別の言い回しをしたのです。已に時代は、倭讃の劉宋への献使時期に当たり、交流の両側で国情が大きく変動していました。

 ともあれ、笵曄は、過去を引きずる「倭人」を排除して「倭」といいきり、現地を、はっきり30許「国」と規定し、各国王が世襲しているとメリハリを付けているように見えます。ただし、未開の国が、全て王家を維持しているというのは、大変考えにくいのです。

 笵曄は、陳壽の凡表現を改善した一流の文筆家として称揚されたいと考えたのでしょう。

 滑り出しからわかるように、笵曄は、陳壽の記述に対してメリハリを付けているので、その結果、大変文意が読み取りやすい、流麗な文章となっているのですが、よく見ると誤解や勘違いが漂うものになっています。

 以下、魏使派遣先は、大倭国、即ちその国王の治所は「邪馬臺国」となり、二人目の女王は「臺與」となって、魏志倭人傳を逸脱しています。

以上

 

陳壽(中国史)小論-11 (2013) 鬼神道妖惑

                             2013/09/25 確認 2020/06/05
◯見えない卑弥呼の姿
 「有一女子名曰卑彌呼年長不嫁事鬼神道能以妖惑衆於是共立爲王」

 後漢書倭傳で、「卑弥呼は、女王共立時、年長で嫁に行ってない女で、死んだときは老婆になっていた」との風評が形成されたのです。
 魏志倭人傳の書いた、一女子を女王共立し、その後に成人(年長大)したのとは様変わりです。

 笵曄は、倭人伝の「事鬼道能惑衆」は、迫力不足と感じたのか、後漢書では「事鬼神道能以妖惑衆」と神と妖の2文字を足していますが、陳壽は、「神がかり」を強調せず淡々と書いてたのです。
*塗りたくられた卑弥呼の変貌
 倭人傳では祖霊や聖霊と交感して庶民を感動させた年若い一女子が、後漢書では「鬼神」に仕えて衆を妖しげに欺く老魔女に変貌したために、堅実質素な女王国見聞録は、色気のある大人の話に変身しています。とは、なんたることかと戸惑います。笵曄の筆力には敬服しますが、信じがたいものがあります。 

 いくら、古代の未開社会でも人の世であり、鬼神道とやらで詐欺師まがいのことをしたと否定的な描写で知られている女性を、こぞって女王に共立するものかどうか。そして、民間人時代に神通力で知られたにしろ、女王として引きこもって人と会わないでいては、めざましい鬼才も忘れ去られてしまうではないでしょうか。

 ずっと後世のことなので、参考にもならないと言われそうですが、北宋末期、江南で起きた方鑞の乱があります。マニ教の影響と思われる宗教集団が、「喫菜事魔」と呼ばれています。字面だけ見ると、卑彌呼も、同類とされてしまいそうです。

 中国では、長年にわたって、「鬼」や「魔」に事えるのは、かなりの淫祠邪教と思われていたのではないでしょうか。

 振り出しに戻って、女王は、衆を惹きつけた人柄を見込んで共立されたはずなのです。
 范曄倭傳では、女王国の政治を男弟が助けているという独特かつ重要な字句が抜けていますが、この逸脱も深刻です。

 魚嫌いの人に供するために大骨、小骨を取ってしまったら、魚の妙味は大きく失われるのです。

以上

陳壽(中国史)小論-10 (2013) 笵曄考 2

                             2013/09/24  追記 2020/06/05
◯笵曄考
 陳壽の三国志編纂以来150年を経ていますが、その間に倭国の事情は変化していたようです。

 宋に政権が移って早々に、倭賛が献使しています。当然、上表文に、自国の歴史と地理を紹介し、自国は西晋に貢献した女王国の正統な後継者であるという話にしたはずです。

 宋書以降の倭賛の国は、九州でなく東方、私見によれば、中国地方、ないしは、大阪湾沿岸、にあったことを伺わせますが、その際に、魏志の女王国国名を邪馬臺国と改称することにより、自国の先祖に引き込んだように思えます。

 ともあれ、倭賛と後継者の上表文を元に宋書以降の正史倭傳が書かれたのは当然として、後漢書にもその影響が現れているように見えます。

 以下は、あくまで、一個人の憶測です。左遷以前の笵曄には、倭賛の上表文を目にする機会が十分にあったと推定されます。笵曄の目には、そこに倭国の正確な歴史が反映されていると見え、これにより先行する正史を訂正できると感じたように思えるのです。

 笵曄は、陳壽の記事を典拠とし、時に潤色しながらも典拠に即した記事としているのですが、そのような潤色と関係のない倭国国名の改訂の動機は、そのようなところに求めるしかないのです。憶測も良いところですが、笵曄ほどの史官が、根拠無しに典拠記事を改訂するはずがないので、一種の状況証拠として記憶にとどめたいのです。

 なお、笵曄ほど鋭敏な人物が、派閥丸ごと左遷の次に、謀反の罪での刑死(三親等以内の親族連座を伴う、大逆罪)が待ち構えている可能性があることは悟っていたはずですが、厚遇が期待できる北朝側に亡命することもなく、任地にとどまって後漢書の編纂に多大な労力を費やしたことには、大きな覚悟があったものと感じます。(家長が北朝に亡命すれば、取り残された親族は全員刑死ですが)
*范曄後漢書の暗黒時代
 笵曄の刑死後、南朝側では、中原回復の展望を失ったなか王族間闘争による流血の惨事と仏教への逃避が盛んになり、国力は衰退してじり貧状態に陥ります。
 そして、同様に流血の覇権闘争を続けた北朝側は、一旦東西に分裂して衰退するかに見えた後、何故か隋に収束して強力な国勢を得、南朝の退勢と相まって、急展開の全国統一が達成されました。
 束の間の西晋全国統一を除けば、前後併せて300年続いた漢王朝以来の正統中国政権を名乗ります。

 編者范曄が、連座した嫡子共々刑死したとき、本来、断絶されるべき范家が存続したのは、嫡子が、王族有力者と婚姻関係にあり、孫が生まれていたからです。范曄後漢書が、散逸、廃棄を免れたのは、孫が范家を再興したおかげですが、大量の後漢書遺稿を誰が取りまとめて、誰が、帝室公認史書となるように上申したかは不明です。
 南朝劉宋は、激しい内紛の末に滅亡し、続く各南朝王家も、血なまぐさい内紛の末、世代交代していたので、劉宋に対する反逆罪など、疾うに消滅したのでしょうが、それでも、どのような経緯で范曄後漢書が声望を高めていったのか不明です。

 と言う事で、「陳寿が、随時上程できるように決定稿として後継者に託していたと思われる「三国志」が、直ちに、公式写本工によってに写本され、皇帝に上程されて、直ちに、皇帝蔵書に収録され、以後、最高の手順で、代々写本継承された」と記録されている「三国志」継承過程が明らかであることから、凡そ並みいる資料の中で、もっとも、正確に継承されたと思われるのに対して、史料批判されているわけでもなく、ただ訳もなく珍重されている范曄後漢書の暗黒時代は、深い闇に閉ざされているのです。

 本項の終わりです。

陳壽(中国史)小論- 9 (2013) 笵曄考 1

                           2013/09/23 追記 2020/06/05
◯范曄考

 さて、いよいよ別の正史「後漢書」と著者笵曄(はんよう CE398-445)について論評せざるを得ません。と言うことで、今回は長くなります。
 何せ、笵曄と陳壽が、倭(人)のほぼ同じ時代の同じ様相について、一部食い違った記事を書いていることが、陳壽に対する評価が揺らいでいる原因と思えるからです。

 笵曄は、陳寿の150年ほど後に後漢(CE 25-220)の正史を編纂したのです。

 後漢の初期に倭奴国貢献記事、その末期から魏朝にかけて女王国との交流がある事を手がかりに、魏志倭人傳に相当する時期まで包含した後漢書倭傳が書かれているのです。

 女王国の貢献は三国志時代であり後漢書の埒外なのですが、前提となる倭国の乱と女王の共立が後漢時代であったと叙述を凝らすことにより、笵曄は、魏志倭人傳記事を主たる典拠として後漢書倭傳記事をまとめ上げています。

 逆に、後世からは、陳壽が後漢朝末期(建安年間の曹操時代)を三国志に取り込んで、魏朝の創業を遡らせたとの非難を受けているのです。

 例えば、通典が歴代王朝通史を編纂するときに、三国志の後漢朝期記事は重視しないようです。つまり、正史の通読の際に、魏志倭人傳は、重要視されていないと言うことです。

*西晋から劉宋に
 下記の王朝継承事情は、笵曄の執筆態度の背景を知る上で、大変大事な点なので、重複をいとわずに書き残します。
 晋朝(西晋)は、魏を継いで三国を統一したものの、激しい内乱と外敵の侵略で国が崩壊して首都洛陽が兵馬に蹂躙される事態となりました。王朝文物は最重要のものを除き失われ、魏志倭人傳の原資料となる魏朝公文書や史料文書はうち捨てられたと推定されます。

 晋朝はいったん滅び、長江(揚子江)下流の呉の旧地に東晋を再興し、王朝文物の再構築が図られたのでしょう。逃げ延びた東晋は、中原回復を狙った無理な北伐で国庫を傾けたあげく、厚遇した軍隊の引き起こす内乱の結果、これを平定した宋朝(劉宋)に国を奪われたのです。

 笵曄は、こうして成立した劉宋政権の中枢にあって広く行政に参画していながら、王族の内紛により閑職の地方官に左遷された境遇で、先人の書き残した後漢書稿などの資料に自身の執筆を加えて後漢書を完成できたのです。

 笵曄が後漢書倭傳を編纂する際に、先行する正史である魏志の倭人傳記事を典拠としたことは、笵曄の史官としての資質をうかがわせるもので賞賛に値します。もちろん、後漢書稿や別種後漢書などに、信ずるに足る倭人記事が書かれていれば採用していたでしょうが、信じるに足る新資料がなかったので、書きようがなかったものと思われます。

 以下、続きます。

 

陳壽(中国史)小論- 8 (2013) 牛馬

                             2013/09/22  追記 2020/06/05
〇牛馬考
 陳壽の面白みについて、次の例を挙げます。どうも、今回は読書感想文になりそうです。

 魏志倭人傳には、この国に牛馬がいないと書かれています。

 しかし、倭国の数万戸を有する大国は、結構大きな農業国家なのに、牛馬の助けがなくて国が成り立つのでしょうか。

 あるいは、魏使が大挙到着して、大量の下賜物を運搬するのに、牛馬がつかえないとは、信じがたいものがあります。銅鏡100枚と言えば、頑丈に木箱梱包して総重量100kgを超えるはずです。移動経路には、山道も石ころ道もあるだろうに、担いで移動するのは至難と思います。

 それにしても、山道の徒歩行らしい記述はあるものの、使節団の移動が全行程徒歩とすると大変なものです。

*肉食論
 こうした食料の乏しい時代に、肉食のために穀物系飼料で牛を飼うのは、飼料の消費が激しく、人間様が飢えそうですが、何戸かが共有で飼育して農作業に労力提供させる分には、飼料も無駄ではないでしょう。

 「牛」がいないというのは、魏使を歓待しても牛肉は食べさせなかったと言うことでしょうか。(食べ物の恨み)

 食料として、ここに記載のない猪(飼豚)肉、狗(食用犬)肉を食べていたのでしょうか。それとも、明記されている魚介類以外は、完全な菜食主義だったのか、海の魚介類も生食する刺身主義だったか、疑問がわいてきます。

 この時代の中国で、沿岸部に刺身食の習慣があったようにも聞いていますが、魏使は、海の魚なら刺身でも食べたのでしょうか。

 このように、陳壽の抑制された表現は素朴な疑問を掻き立ててるのです。

 このように、陳寿は、なかなか味のある記事を書いているのです。

 私は、現に目で確認できる資料はそのまま読み取る主義ですから、魏志倭人傳の内容を紹介しています。

 

以上

陳壽(中国史)小論- 7 (2013) 男弟佐治國

                              2013/09/21  追記 2020/06/05 2022/06/09
〇男弟記事
 「有男弟佐治國自爲王以來少有見者」

 ここまでに書いた私の説では、魏使到着時、女王はせいぜい20歳前後と若いのです。

 政治実務を担当するとされている男弟は、「弟」ですから成人になるかならずかの若さと示唆されていることになりまます。
 しかも、女王は、引きこもっていて男弟政権の実力者であると思われる大臣たちと会見することはほとんどない。
 ここまでの記事は、読み方によれば、「鬼道に事えて衆を惑わし」ていたを見込んで女王に立てたのですが、人前に出なくては惑わしようがない、それなら、別に誰でもいいじゃないか、と言いたくなります。

 魏使の目から見て、そんなやり方で、二人の若い指導者が、総人口二十万人と推定される大「女王国」を、難なく統治しているとは、何とも浮き世離れした国だ、と言うおもしろさを秘めているように思います。

 文書統治と官僚制の進んだ中国本土やその地方官庁である帯方郡治で、統治者は、日々膨大な文書を読んで申請内容を決裁ないしは否決し、統治者の威令を轟かすべく、指示通達を発行し、また、多くの官吏を駆使して行政するので、権力者ほど文書処理、事務処理に忙殺されます。
 同時代、蜀漢の宰相であった諸葛亮は、北伐して大軍を率いていながら、日々、成都から届く厖大な裁可上申に全て目を通し、熟慮し、裁決を下していたため、過労で健康を損じたものと思われます。

 また、実世界の統治者のつとめとして、多くの手紙を読んだり書いたりするし、書類申請以外にも、申請事項の面談裁決、時には、紛争当事者の意見を聞いて、調停斡旋することも伴います。

 というものの、女王国が文書統治しているはずはないので、女王は書類の山に埋もれることはなく、また、臨見せずに引きこもっているので、面談に追われることももなく、俗世から孤立している女王が、無事に女王国を統治しているというのは、国のあり方として誠にのどかであり、陳壽にとって、ある種の夢物語であったのでしょうか。

 陳壽は、こうした記事を不審の目では書いていないので、倭人の振る舞いを書くことによって、政治のあり方を正そうとする「春秋の筆法」なのかなとも思いますが、結局は、よくわからないのです。

以上

陳壽(中国史)小論- 6 (2013) 年長大

                                 2013/09/20  追記 2020/06/05  2022/06/08
◯「年長大」の架ける橋
 中国語の「長」という漢字には、二つの独立した意味があります。
 一つの意味は、「長短」の度合いで、長いという意味(形容詞)です。
 もう一つの意味は、成長する、年齢が長じるという意味(動詞)です。

 それぞれの意味で、中国語の発音は少し違うのですが、文字は同じなので文脈で区別することになります。

 これに従い「長大」には大別して二つの意味があります。
 一つは、我々日本人にもなじみの深い、何かが大きいという意味(形容詞)
です。
 もう一つは、日本人にはなじみのない、人が成人(18歳)に達する、大人になる、という意味(動詞)
です。

 ここでは、「年長大」としているので、年齢の意味(動詞)
であることが明示されています。ただし、ここでも、大人であるという意味(形容詞)ではないのです。

 前に「已」が付くと、そう遠くない過去に成人に達したという現在完了の意味が読み取れれます。私の推定と異なって、女王共立がかなり昔であり、女王が成人をとうに過ぎていると現地で周知だったら陳壽は別の言い回しをしたはずです。

 後ほど、笵曄という大家の誤解の例が出てきますから、見過ごしても仕方ないのですが、それにしても、笵曄が、「年長大」は、「年長」+「大」、つまり年がいっていると読み解いたのは、元々の意味と変わってしまっている(逸脱)と思われます。

 陳壽は、丁寧に「年」を追加して「已年長大」と書き、体格の話でないことを明らかにするとともに、「已」で成人に達して間もないと示唆しているのです。一字の過不足もない見事な書き方です。

 なお、「長大」は、随分古典的な成句であり、中国語事典には、三国志(ということは、発生したのはそれ以前の歴史時代)から、近代・現代まで用例が収集されています。
 また、古典的な意味なので日本語の古典表現として国語辞典(例:広辞苑)にも載っています。

 「長大」の詳しい意味と使い分けは中国語の辞典/事典(例:百度百科)に出ているので、興味のある方はご確認ください。なお、現代中国語ではありふれた用語のようです。

 私の以上の論点から見ると、魏志倭人傳の「已年長大」という言葉は、これまで誤解され続けたようです。

 古田武彦氏は、近著「俾弥呼」でも、女王老齢の風評に反対して「長大」を30代と論じていますが、これは、魏朝皇帝曹丕の就任記事の用例に基づく解釈であり、百度百科にも小論の「成人になる」に続いて収録されている合理的な解釈です。

追記: 古田氏の早合点
 正確に言うと、当用例は、「呉志」であり「魏志」ではありません。また、孫権と臣下の問答の引用であり、当時、呉の宮廷で語られていた言葉遣い(地域用語)と言うだけであり、古典書本文ではないのです。ここでは、文章解釈はしていませんが、別記事で精査しています。一言で言うと、「老い耄れ」曹操の跡継ぎ曹丕を、「ケツの青い若造」と言っているのであり、曹丕の実年齢を正確に形容しているものではないのです。このあたり、古田氏にしては、速断・早計でもったいないのです。と言うものの、人は、「しめた」と悦んだときに、色々見落としをするのです。

*引例失当
と言う事で、三国史編者が、古典書に照らして適切と認めたものはないので、用例審査をすれば不適格と言えます。用例を早のみこみするのは、古田氏の史家としての限界と言えます。いや、大抵の史家は、大抵の場合、早のみこみで、しばしば誤解するので、どうという事はないのですが。

 しかし、それでは、字句を吟味して、未成年一女子として共立された女王が、今や成人に達したという倭人「長老」の感慨が失われ、陳壽の本意ではないと思います。陳壽は、なかなか味のある記事を書いているのです。
 因みに、魏使の取材に答えている「長老」は、別に、唯の年寄りではなく、倭人の最高指導者ということです。何れか有力氏族の元老なのです。

 私は、現に目で確認できる資料はそのまま読み取る主義ですから、魏志倭人傳の内容を紹介しています。また、以上は、中国語の解釈として、普通の手順なので、特に根拠を示していないことが多いのです。

以上

陳壽(中国史)小論- 5 (2013) 女子王

                              2013/09/19 確認 2020/06/05 2022/06/08  
〇女王国の由来
 陳壽の面白みについて、次の例を挙げます。
 魏志倭人傳は、この国「倭人」が女王国となった経緯と初代女王の人となりが述べられています。

 「乃共立一女子爲王名曰卑彌呼(-6字略-)年已長大無夫婿」
 案ずるに、元来、倭国は統一国家でない国家連合とはいえ、国の数で言えば小規模な村落国家と思われます。
 国家連合の盟主として男性の王を担いでいたら、あるとき国同士の喧嘩が収まらなくなった。卑彌呼という名の若い娘(一女子)を王に立てたところ、みんな仲良くなった。女王は、成年(十八歳)になった(年長大)。女王故に配偶者(夫婿)を持たない。
 政治を担当しているのは男弟である。女王は、人と会見することはほとんどない。

*「女子」の自然な解釈
 今回の私の読み解きは、一般的な理解と異なっています。
 当ブログ記事の発端は、ごく最近「一女子」が若い娘ではないかと思いついたことにあります。
 この意見の先例を調べたところ、随分以前に木佐敬久氏が、添付資料に出てくる対談で提示しているとわかりました。明らかに前例のある意見と言うことです。
 一般には、魏志倭人傳の記事で「一女子」は、成人女性と解されています。しかし、それなら婦人など別の言い方があります。ここは、素直に「女の子」と解したらいいのではないでしょうか。
 さらに年少なら「女児」「女孩」とか言いそうなものです。

 中国では、伝統的に18歳成年(数え)であり、中国語で年齢を形容するときには、これに従ったであろうということで、「一女子」の年齢は15歳程度(数え)となるのではではないでしょうか。

 因みに、若干ややこしいのは、中国語で「男子」と言うときは、伝統的に成人男性を指すことが多く、「女子」「男子」と対になっていても、簡単に類推できないのです。

 私が、共立時の卑弥呼を若い娘と見たのは、一呼吸置いた直後の「已年長大」との関連です。

*「長大」の自然な解釈
 「長大」は、幼いものが長じて(年齢を加えて)大(大人)になる意味ではないのかと、ある日思いついたのです。そう思って、魏志倭人傳を読み直して、直前の「一女子」に引っかかったのが、実際の検討手順です。

 「長大」論議が続きます。

以上

陳壽(中国史)小論- 4 (2013) 食い物のうらみ

                                     2013/09/18 2022/06/08

 ここまで読んでいただけた方は、辛抱強い読者と思いますので、ここからは、なるべく短く区切るようにします。
 陳壽の史官としての資質を明らかにするために、魏志倭人傳記事の面白みについていくつか例を挙げます。

 魏志倭人傳は、前半部分の記事では、魏朝正始年間に女王国に派遣された魏使の出張報告書を利用していると思われます。

 その中に、倭人は、韓半島に比べて温暖な土地で食料に恵まれているはずなのに、味気ない生菜を食べている、と言う記事に続いて、野生の薑(はじかみ)や椒(山椒かな)のような香辛料類や酸っぱい橘(酢橘かな)が採れるのに、それを食べ物に振りかけて、味を引き立てようとしない、という記事を採用しています。

 「倭地溫暖冬夏食生菜」 「有薑橘椒蘘荷不知以爲滋味」
 魏使は、帯方郡治から北九州に到達するまでの韓半島内の行程で、寒い思いをしたのでしょうか、海峡を越えて北九州に来たら温々して、毎日過ごしやすかったのでしょう。

 ただ食に関しては、「毎天百五」(今日も寒食、明日も寒食)とでも嘆いたのでしょうか。寒食でもあるまいに、来る日も来る日も、火を通さない生ものの味気ない食事ばかり、という嘆きが聞こえそうです。ご苦労様というところでしょう。
 寒食(かんじき)とは、春秋時代の介士推を偲ぶと言われ、冬至から百五日目の寒食節の日、火を通さない食事するものです。

 古来、食い物の恨みは恐ろしいと言います。魏志倭人傳は皇帝の目にも触れる公文書なので、不平不満を生の形で書いていませんし、魏使がそれをどう克服したかは書かれていませんが、倭人に依頼して食事の味付けを中国人好みに改善したのでしょうか。

 ひょっとすると、懐から香辛料の包みを出して、どさっと振りかけるようにしたのでしょうか。倭人が、使節の不作法に眉をひそめ、強い匂いから身を遠ざけるのが見えそうです。
 そうしてでも食事を改善しなければ、食の不満から強烈なホームシックにとりつかれて、長期滞在は大変な苦痛になったでしょう。

 陳寿は、このように味のある記事を書いているのです。

 私は、現に目で確認できる資料はそのまま読み取る主義ですから、魏志倭人傳の内容を紹介していきます。

以上

陳壽(中国史)小論- 3 (2013) 擁護論

                          2013/09/18  更新 2020/06/05 2022/06/08
*妄説横行
 インターネットサイトの記事や各種フォーラムで、陳壽が編纂した魏志倭人傳の記事が不正確と非難する人が結構多いのには驚きます。

 こういう発言をする人は、魏志倭人傳という、現に目で確認できる史料について、何を基準に不正確だと批評しているのか根拠を明言しないで所感を述べ立てる例まであり、また、根拠となる別資料が示されていても、一般人には参照困難な場合も多いので、議論の手順として大変不思議なのです。英語で言うフェイク「fake」ジャンク「junk」と呼ばれる塵芥の類いと思います。

 また、別の論法では、魏志倭人傳はこうだが、別の複数の権威ある資料には、そう書いてないから、魏志倭人傳記事は信用できない、との論法がありますが、元資料の内容を誰かが引用紹介している資料を根拠に、魏志倭人傳記事を否定することは、子供じみていて、大変不合理ではないかと感じています。
 実際、大抵の発言は、決めつけに終わって、他者を納得させるに至っていないのです。

 陳壽は、自分では非難に対して反論できないので、私が代弁しないといけないものと感じています。

*陳寿概要
 陳壽は、三国時代の後半を生き、自身の体験として記憶している同時代人であり、成人に達してから、西晋朝の三国志編纂任務を課されましたが、任務を果たすために、洛陽に帝都を置いていた後漢朝、魏朝の各種公文書を、任務のために参照することができました。

 古来、史書編纂を公務としている史官以外のものは、公文書を調査することは厳禁されていて、後漢代に漢書を編纂した班固は、当初、史官であっても、公務として指示されていない史書編纂を行ったとして、処刑されかけたのですが、班固が、正史編纂にふさわしい史官であることが認められて、命拾いしたとされています。

 少なくとも、西晋に至る各王朝では、部外者が、長安、ないしは、洛陽の公文書機密資料を渉猟することは、厳重に禁止されていたから、史官ではない素人が、史書を編纂するには、先行史書を引用するしかなかったのです。

 公務であれば、資材、人員が付与されるので、必要があれば、弟子などに指示して深く調査することができたし、あるいは、存命中の関係者に手紙で問い合わせたりすることも許されたのだから、史実と資料に大変近い足場で三国志を編纂たはずです。

 言い方を変えれば、陳壽は西晋朝でただ一人、三国志編纂で同時代史を書いたのです。

*中原喪失
 以下の時代の史官達は、陳壽と同等の立場に立てないことになっています。
 陳壽の存命中にはさほど目立っていないのですが、三国を統一して無敵となったと思われた晋朝が内乱で凋落して、戦乱の谷間に墜落していったのです。

 とば口は、晋朝王族であって各地に領地と兵力を持った王族間の権力争いである八王の乱(AD291-311)です。
 晋王朝の中央政府は、三国統一後の平和を祝うように、大幅に軍縮していたので、国内の統制力がなくなったにもかかわらず、各王は、独自に兵力を募って首都に進軍することが可能なほどの寛大な自治を許されていて、徒党を組んで首都を攻撃したのです。
 歴代王朝で農民反乱などで首都を攻撃された例はあっても、王族が堂々と首都攻撃を行ったのし珍しいのです。

 このように深刻な内戦で西晋朝は弱体化しましたが、各王族が互いに傷つけ合って、国内の軍事力が消耗する果てに、匈奴などの北方民族が傭兵として導入され、内外の戦力が逆転した果てに、北方民族の軍が侵入する永嘉の乱 (CE311-316)が起こり、ついに首都洛陽が蹂躙され、皇帝、皇妃を始め、八王の乱を生き残った王族まで連れ去られて、西晋朝は崩壊し亡国の憂き目を見ています。

 このように、ほぼ25年に及ぶ大乱 (CE291-316)で、首都洛陽が壊滅したことにより、大規模な資料散逸・消失が起こりました。

 辛うじて脱出に成功した王族によって、長江(揚子江)流域に東晋朝が復興しましたが、王朝が継承し蓄えてきた後漢代以来の公文書などの貴重な資料は、ほとんど取り戻せなかったのです。

 東晋朝と後継宋朝(南朝劉宋)が、後漢書編纂に懸命に取り組んだとしても、陳壽が、健在だった頃の西晋朝の豊富な公文書資料を駆使して同時代史を編纂した編纂環境の充実度には、到底、到底及ばないのです。従って、このような大変動の後に書かれた正史が、魏志倭人伝にない原資料を駆使して、より、正確に当時の現地事情を期日したとする意見には、賛成しかねるのです。普通に言うと、嘘は言うな、と言うことです。

 魏志倭人傳に不確かさがあっても、後発の正史や記録文書は、魏志倭人傳と同時代、同地域に関して書く時に伴う不確かさよりは、随分少ないとみるのが合理的な推定であり、そのような違いを考慮することなく比較議論するのは、合理的な論証手順ではないと思われます。

 以降、根拠のない陳壽批判を批判するのは、時間の無駄なので、陳壽擁護論を提案し高評を仰ぐことにします。

 私は、現に目で確認できる資料はそのまま読み取る主義ですから、魏志倭人傳の内容を紹介しています。

以上

陳壽(中国史)小論- 2 (2013) 魏志倭人傳

                                    2013/09/16   更新 2020/06/05
◯倭人伝という名の史料
 「魏志倭人傳」(倭人伝)に関する議論で、時々驚かされるのが、「魏志倭人傳」は通称であって正しい呼称でない、と言う大変強い指摘です。
 驚いたのは、権威のある歴史学者が、特に論拠も示さずにそのように発言していることです。

 しかし、中国正史「三国志」の現存版本(木版印刷出版物)である「紹熙本」(しょうき)の写真版(影印版)をみると、そこには、本文に先立つ行に「倭人傳」と見出しが書かれています。発言者は、紹熙本の史料を見ているのかいないのか、と不思議に思えると言うことです。
 権威者の発言でも、証拠の裏付けがなければ採用できないのが常識です。
 私は、現に目で確認できる資料はそのまま読み取る主義ですから、以下、「倭人傳」と読んで内容を紹介します。

 上に名前の出た「紹熙本」は、南宋紹熙年間(CE1190-1194)に出版された、ないしは、出版の指示が出た)版本であり、上で触れたように「三国志」の現存版本で、有力な資料とされているものですが、それ以外に紹興年間(CE1131-1162)版本「紹興本」が有力とされています。またも余談ですが、紹興年号は、同年間に命名された都市名である「紹興」と当地の地酒から発展したとされる紹興酒に名をとどめています。

 ともあれ両版本は、三国志執筆以来九百年にわたって営々と写本で継承されてきた史書を、木版印刷出版業の興隆したこの時期に、大々的に印刷発行したもので、おそらく正史史書として空前の普及を示し、後年版本の典拠とされたと見られます。

 数千年に渡る歴史を綴った正史史書は、本来の中原を追われて難局にある中国人に、過去、難局に立ち向かって乗り越えた先人の事績を知らせることにより、大きな勇気と自信を与えたのでしょう。

 ただし、近接して発行された両版本の倭人傳には、一部文字に違いがあり、引用参照する際には、慎重に比較確認して、利用した版本と所蔵先を明らかにするものです。

 なお、紹熙本は、靖康の変(CE1127)による宋朝南遷(晋王朝の二の舞でした)に先立つ北宋時代版本の復刻版で、現存最古の内容を保つと言われています。

 とはいえ、(大々的に)印刷発行されたはずの北宋版本は残存せず、確たる証拠に欠けた推定にとどまっています。結局、.北宋時代の木版印刷では、小部数発行されたにとどまり、大半が宋朝高官の手元に留まったのではないかと推定しています。

 北宋(AD960建国)は、戦乱に備えて内部まで隔壁城塞化した長安や洛陽でなく、運輸交通に便利で、城塞化もほとんどされていない開封に首都を置き、軍縮による軍事費縮小と兵力削減による人材民間活用を目指して、国内移動や商業活動をほぼ自由化したので、中国史上初めて市民階級の経済活動が本格化したと言われています。

 とはいえ、製紙技術定着以来千年を経ても、まだまだ紙の価格は高く、従って手ごろな価格の書籍を大量流通させる体制も整っていなかったので、書籍の中でも、分量が嵩張って、内容が専門的な正史史書の普及には至らなかったのでしょう。

 皮肉なことに、開封など めざましく繁栄した大都市を含む、黄河流域の中原を大きく取り囲む国土北半分を失い、長江(揚子江)流域に追いやられた南宋で、むしろ経済が発展して商工業が一段と拡大し、三国志版本の大量印刷販売が実現したのです。これにより、正史史書は富裕な市民階級まで普及し、幾度かの大乱を超えて生き残ったのです。

 いや、ご存じのように、三国志南宋刊本は、海を越えて「日本」に齎され、今日に至っているのです。中国本土は、王朝交代時の戦乱などによる損壊も多く、最後は、日本軍の空爆で、上海図書館が全壊したなどの戦災もあって、三国史南宋刊本の善本は、中国全土には希であり、むしろ、宮内庁書陵部に継承されている三国史南宋紹凞本など、徳川幕府や江戸時代有力大名の蔵書頼りなのです。

 今回、色々知を尽くして紹興本写真版を確認すると、「倭人傳」の見出しはないようで、これは、両版本間の相違点の一例です。

 とはいえ、現に紹熙本に倭人傳の見出しがあるので、「三国志魏書」のこの部分を「倭人傳」と呼ぶ根拠としたいと思います。現物確認主義は、手間がかかるのです。

 「魏志倭人傳」に対する否定的意見の根拠を案ずるに、史書の構成として、倭人に関する記事の段落は、「東夷傳」などの「傳」の一段下であり、これを「東夷傳」と同列に見せるような「倭人傳」扱いは、おかしいとの指摘なのでしょうが、三国志版本の見出し付けに対して、後世の文書管理論を元に否定し去るのは、過剰な介入ではないかと考えます。

 ということで、紹熙本を見る限り、「三国志-魏書-倭人傳」の構成が読み取れるのです。
 紹熙本「東夷傳」の他記事も「傳」の見出しがあるので「倭人傳」見出しは三国志紹熙本の原則通りであり順当かつ合理的な読みです。

 最後に、三国志の魏朝記事を、本来の書名である「魏書」でなく「魏志」と通称する理由は、以下のようなものと考えます。
 正史には、南北朝時代の魏(北魏)の正史である「魏書」があり、両者の混同を避けるには「三国志魏書」と呼ぶ事になり煩わしいのです。

 北朝の魏の通称である北魏は、三国時代の魏との混同を避けるために、便宜的に「北」と付けて呼んでいるだけで、国名は魏であり、正史は魏書なので、この正史を「北魏書」、「後魏書」と呼ぶのは、本来間違いなのです。

 結局、「魏志倭人傳」の通称は、以上の実際的な理由から工夫された通称であり、広く通じています。この呼称は、大きな間違いではないし何より簡便なのがありがたいのです。ということで、私は、以下、通称である「魏志倭人傳」で呼ぶことにします。

以上

陳壽(中国史)小論- 1 (2020) 序文

                                  2013/09/15 更新 2020/06/05 2022/06/08

〇はじめに
 陳壽(ちんじゅ CE233-297 陳寿)は、中国の歴史家と言うより、当時の晋(西晋)王朝の史官であり、紀元二-三世紀の中国三国分裂時代(CE184-280)の歴史書「三国志」の編纂者/筆者として名を残しています。

 私の見るところ、なかなか誠実な歴史家であり、自らも生きた三国時代の歴史、いわば同時代史を、蜀人としての個人的な意見や晋吏としての公的な立場をあまり表に出さずに、客観的な筆致で書き残しています。

 注目すべきは、晋朝の許可を得て、三国角逐の旧敵国である蜀宰相諸葛亮(CE181-234)の著作全集を編纂発行しています。

 特に、日本では、現在の日本に相当する地域、「日本列島」の一角にあった女王国が魏朝に貢献したことに始まる史上始めての「日中交流」を、漢字二千文字程度の紹介記事として、魏朝の公式歴史書である正史「三国志」に書き留めてくれたことが知られています。

*山成す風評被害
 しかし、陳壽とその著作である「三国志」に対して、多大な疑問と不満が提示されているのは、まことに残念なことです。それぞれの言い分を調べてみると、大半は、根拠の無いこじつけであり、

 私は、今や、10年以上以前に現役を引退した一介の民間人であり、もともと工学系の教育を受け、工学系の仕事に長年専念した者ですが、退職後暇になって、手薄な文系教養を掻き立てつつ関係資料を眺めた所、魏志の編者である陳寿に関して、素人目にも残念な意見が多いので、ここに、ささやかながら異論を呈したいと思います。

 ここまで、慎重に論争の種を避けた言い方をしてきましたが、私の意見の根幹は、陳壽の書き残した記事を、まずは、そのまま読み解く立場であり、これは、理工系分野では正統的な態度であるので、この立場から、世間に流布している陳壽記事に対する疑問と不満について、出来るだけ筋道を立てて擁護したいと考えます。

 もちろん、ここで開示するのは、一介の素人の意見(素人考えの私見)であり、文章の体裁上、出来るだけ留保を避けるものの、本来、こうした意見を他人に押しつけるつもりはないので、冷静に受け止めていただければ幸いです。

 なお、話題の性質上、一般読者に説明不足で理解困難でしょうし、論文気取りで根拠を示そうとすると膨大になり一個人の暇つぶしでできることではないの、不親切であることはご容赦ください。

 最低限の参考資料を後ほど開示したいと思いますが、逐一私見の典拠を書き出せないことを、あらかじめお断りします。

 また、先輩諸氏の発表内容を幅広く確認することは大変困難なので、見落としや漏れは、ご容赦ください。

以上

私の本棚 27 完全図解 邪馬台国と卑弥呼 2015 その7 女王像

  別冊宝島2244 宝島社                       2014年11月発行

 私の見立て★☆☆☆☆ 乱雑、粗雑な寄せ集め資料    2015/06/18  追記 2020/06/05

*女王像の適否
 ここでは、原文の女王像について、本書に提示された解釈を批判する。

 本書32ページに、「倭の女王」(壱与)が「魏を滅ぼした晋に使いを送った」と晋書に書かれていると言う。しかし、晋書四夷伝には、主語無しに「泰始初遣使重譯入貢」と書いてあるだけである。遣使したのが、「倭の女王」かどうか、女王は、壱与かどうか、ここで言う「倭」が、魏志倭人伝でいう女王国かどうか、全て、検証する必要がある。

 正確には、書いていないことは判然としないと言うべきである。

 事のついでに言うと、また、魏を「滅ぼした」晋とは書かれていない。史料引用を紹介すべき記事に、個人の感想に基づく余計な言葉が足されているのは、まことに不用意である。

*Wikipedia批判 余談の余談
 因みに、関連資料を求めて辿り着いたWikipediaで「晋書起居註」と書かれているのを見て、びっくりしたことがあるが、「晋書」に「起居註」がないのは、常識と言わないにしても、晋書を検索すればすぐわかるのに、当人のうろ覚えをWikipedia記事として書き立てる悪習が蔓延しているのである。このあたりの自明事項を見逃すのは、門外漢の素人書き込みという事だったのだろう。見当違いの議論がはびこっているのも、道理である。

閑話休題。本題に戻る

*年長大~誤解の宝庫
 口語訳では、「すでに相当な年齢に達しているのに夫や婿はなく」とあり、ここでも、史料原文を離れた筆致である。第一歩が、勝手な創作に堕して、このように傾いていては、以下の進行は推して知るべしである。

 本書46ページでは、「成人となっていたが、夫はなかった」と異例なほど穏健な書き方であるが、原文はもっともっと淡泊に書かれている。

 私見では、原文は(数えで15歳程度の若年の)「女子が共立された」、(魏使到着時点)「すでに成人となっていた」、「夫はなかった」と、淡々と書いているだけである。

 「已年長大」とは、記事の書かれた年、ないしは、数年前までのいずれかの年の元日に、数えで18歳になって成人となった、と言う意味
と思われる。少なくとも、現代中国語では「年長大」は大人になるという意味であって、いい年をした大人という意味ではない。

 ただし、後継の壹与は、13歳で女王となったと書かれているので、卑弥呼の年齢を伏せる書き方は、記事の調子が合わないのである。陳寿の元に、女王に共立されたときの紀年や年齢が書かれた資料がなかったためかどうかは、不明である。

 古田武彦氏は、倭人伝の裴注(裴松之注釈)を元に、倭人は、春秋の二度加齢する習慣であったと説いているが、そうであれば、記録には卑弥呼は7歳で女王となったと書かれていたはずである。陳寿は、その年齢を見たが、同じ記録に女子と書いてあって、幼女と書いてなかったので、辻褄の合わない年齢表記を避け「女子」表記を残したとも推定される。(女子謎かけ論は別記事に譲る)

 一夫多妻の風俗があった倭国で、成人女性で未婚というのは特記すべき事項と思われたのだろうが、記事は事実の指摘だけである。

*迷走する女王像創作競争
 共立した国に対して公平であるべき女王が、しかるべき地位の男性を配偶者とすれば、それ以降女王の判断は夫に影響される可能性があり、従って、夫の属する「国」に有利となり、不公平となることから、女王は、未婚のままでいるべきと判断されたということかも知れない。

 本書の他のページでは、この淡泊な記事に色とりどりの誇張が施されていて、原文を離れて、各自の世界観(各人が勝手に構築した架空世界という意味である)が高々と掲げられている観がある。各自の世界観は、各人固有の知的財産であり、これらを統一、収束させると言うことは、無理というものではないだろうか。

 本書57ページでは、「かなりの高齢で、おまけに独身だった」、と書かれている。独身は、おまけだったのである。数文字の「彩り」ある言葉の追加で、大きく印象が変わるのである。学術的な議論では、史料記事に勝手な彩色を与えるのは、自制、自戒すべきだろう。

*新羅本紀批判
 さて、こうした「卑弥呼老女」史観が、朝鮮「正史」三国史記の西暦173年に相当する新羅本紀に、「二十年 夏五月 倭女王卑彌乎遣使來聘」と書かれている記事を参考にしているとすれば、過去の行きがりや世間体を顧みず、考え直して頂きたい。

 別記事で批判を予定しているように、諸般の資料、特に、魏志東夷伝全体と比較参照すれば、三国史記のこの時期の記事は、後代記事を流用した時代錯誤の造作であることが明白なので、「倭女王卑彌乎遣使」記事は、全く信用できないと結論するものである。

 史料重視と言っても、「正史」と呼ばれている史料だから信用すると言うことでは無いのである。正史とは、正確な歴史という意味ではない。「正確な」歴史など、幻想そのものである。
 また、朝鮮などで蛮夷の国には、「正史」はありえない。勝手に言っているだけで論外である。
 色々、史料批判を妨げる誤解が出回っているようである。

未完

私の本棚 26 完全図解 邪馬台国と卑弥呼 2015 その6 兵站

  別冊宝島2244 宝島社                        2014年11月発行

 私の見立て★☆☆☆☆ 乱雑、粗雑な寄せ集め資料    2015/06/18  追記 2020/06/05

 古代学の分野では、考古学も書誌学も立ち入らないと思えるので、下賜物搬送に関する兵站について考察を加える。ただし、以下の議論は、具体的な資料に基づく考察は少ないので、当方の勝手な推測として、読み飛ばして頂いて結構である。

*下賜物搬送考
 ここで、原文を冷静に読み解いて下賜物の処置について考えてみる。

 ここに列記された下賜物は、銅鏡百枚という極めつきの重量物以外にも、なかなかの物量があって、箱詰めして総重量数トンはあろうかと推定される。いや、輸送に際して、小分けした荷を、人手で運ぶことが多いのを想定して、小分けされていたろうから、個別の荷の箱なり過誤なりの重量が結構厖大になるのである。

 銅鏡の外形寸法が明確に想定されていない以上、銅鏡百枚の正味重量は不確定であるし、どのように、一枚、一枚を梱包するかも不明であるから、数トンという総重量も推定であるが、総重量二百トン以上の金属貨物を輸出した経験から、おおむねその程度と憶測しているのである。少なくとも、十人程度で運べる嵩でも重量でもないと推定して、外れていないと思う。

 下賜物を、二人単位で担送できる程度の重量に小分け梱包した上で、それぞれの個別の木箱に担ぎ棒を付け、道中の陸送は、それぞれ二人の人夫で担送することになるのだろうか。それとも、個々の荷を背負い運ぶことになるのだろうか。
 全体で数十人の人夫となるものだろう。まさか、道中担ぎづめとは行かないだろうから、区間を決めて交代して。荷送りしたのではないだろうか。いや、魏帝国の官道は、税金代わりの穀物や専売品の食塩のような重量物が常時移動していたから、賃料目当ての人夫は、手ぐすね引いて待機していたのではないか。

 これに比べると、倭国使節の献上物は、軽量のものであり、せいぜい数人分の荷物と思われるから、洛陽に届ける際の人夫は少人数であり、帰り道、自分たちで担いで帰れとも言えないはずである。

 貨物運送が発達した時代ならいざ知らず、後漢末期以来の戦乱続きで倭國まで官営運送網は、人的資源も含めて十分に整備できていなかったと思われる。とにかく、高価かつ、大重量の下賜物を「大海」を越えて長距離運搬するには、相当念入りの準備が必要である。
 まずは、洛陽を出るとき、下賜物を運ぶ人夫は、魏皇帝の手配した信頼できる人夫と言うことになる。また、高価な物品なので、屈強な護衛が必要である。

 ついでに言うと、使節が持ち帰ることにすると、使節達に人夫や護衛が加わって大集団となった一行全員の食糧や宿泊を、全行程にわたって確保する必要がある。

 魏国内は、日頃船馬の往来が盛んで、各宿駅に対して帯方郡への荷送りの手配との文書通達だけで、各地での手配ができたとしても、渤海/黄海を越えて韓半島に渡った後はそうも行かず、帯方郡治で荷を引き継いで、郡の手配した人夫と交代というのが、物の道理と言うことであろう。

 魏朝の威光が韓半島末端まで行き届いていたとすると、帯方郡治にあらかじめ届いていた朝廷通達で、人夫の手配、途中の宿泊地の手配、船の手配、等々、この行列がつつがなく進むような手配ができたものと思われる。

 それ以外にも、行程途中の諸國、諸勢力が、高価な下賜物に手を出さないという確信が必要である。つまり、後漢朝から天下を引き継いだ魏朝の意向が、東夷にくまなく及んでいた徴である。

 以上のような手順は、時代によって、多少の違いはあっても、山東半島など中国大陸から倭國までの直行の船便が確立されるまでは、避けられない手順と思われる。

 かくも大量の下賜物の送達は、魏朝の権力と威光を物語る大事業だったのである。

*別送の顛末
 以上のように下賜物運送の全貌を想定してみると、このような大事業は、倭國遣使の帰国に間に合わなかったと見るのが至当と思われる。

 そのような大事業であるから、下賜物が全て倉庫に並んでいるのを確認した上で詔書を起草したとしても、輸送に必要な箱詰めには相当の時間がかかるから、そのために間に合わなかったということかも知れない。また、下賜物の運搬役や護衛役の陣容が揃わないという事情もあったろうし。

*20年一貢という事
 これまで、盛大な下賜物は、新来の東夷に対して魏帝国の威信を示すものであり、経費は度外視されたという趣旨で書いているが、それは、あくまでも、新来の東夷に対する措置であって、一度臣下になってしまえば、他の臣下との釣り合いもあって、定例的に大量の下賜物は支給できるものでは無いのである。また、頻繁に来訪されては、受け入れの負担が嵩むのもあって、例えば、20年に一回の来貢としていたのである。

 ここで言いたいのは、下賜物としての銅鏡百枚、および後年の追加支給であるが、魏朝皇帝の所蔵品として備蓄されていた銅鏡、おそらく、漢鏡や後漢鏡を払い出すことは、いわば、百年来の在庫の総ざらえとして実施できても、更なる支給を求められたとき、元々国内での需要が限定されていたことから、作り置きは限られていたと思われることから、仮に、次回は、20年先であっても、銅鏡の在庫が底をつくことは避けられ無かったはずである。

 いくら中原王朝とは言え、倭国からの貢献に対して百枚と言う大量の銅鏡を追加支給するのは、鋳造に大量の銅材を要する上に、少なくとも、皇帝付きの職人工房である尚方の鋳造職人の多大な労力を費やすことになり、天下を平定したわけでない、臨戦態勢の魏朝としては、とても、対応しかねるものだったに違いない、ということである。
 ちなみに、在世中の明帝は、戦時体制の国威を投入して、新宮殿の造営に注力し、多用される青銅装飾品の新作に、尚方は忙殺されていたのである。青銅素材も、払底していたに違いない。

 ひょっとすると、追加支給に替えて、鋳型と数個の鋳造サンプルを提供し、あとは青銅鋳造技術の確立されている倭国で、好きなだけ現地生産しろ、と言い渡したのではないかなどと余計な空想を巡らすのである。

未完

私の本棚 25 完全図解 邪馬台国と卑弥呼 2015 その5 景初遣使

    別冊宝島2244 宝島社                    2014年11月発行

 私の見立て★☆☆☆☆ 乱雑、粗雑な寄せ集め資料    2015/06/18  追記 2020/06/05

 口語訳批判に戻る。
*景初遣使と下賜物
 ここでは、原文の景初遣使にまつわる記事の翻訳について批判を加える。

27. 景初遣使
、ここでは、景初二年と原文のまま読んでいるが、本書19ページおよび21ページでは、景初三年と、根拠を称すること無く読み替えている。
 本書を、一冊の書籍資料としてみるならば、各部を継ぎ接ぎして並べるのではなく、全体としての説明が必要であろう。

28. 「その年の十二月」
 と書いた後に続いている「魏の皇帝曹芳」は、原文には書かれていない。
 魏志倭人傳の記事のまま、景初二年の遣使と読むのであれば、この時点の皇帝は、実名を挙げていないものの、曹叡(明帝)であり、明らかに解釈が混乱している。

*皇帝の付かない景初三年
 本書22ページなどでは、景初三年時の魏皇帝は、曹叡(明帝)と書かれている。無知は、いやしがたいものである。

 景初三年時の魏皇帝は「曹芳」である。皇帝曹叡は、景初三年一月一日になくなったので、以後皇帝曹芳なのである。正し、元号は、皇帝没後の翌年年頭なので、皇帝の付かない景初三年が続いていたのである。

 因みに、当代皇帝の実名を口に出したり、書き出したりすることは大罪であり、王朝が存続している間は、そのような大罪は避けねばならないのだが、後世の論者としては、そう呼ぶしかないのである。

 なお、皇帝曹芳のことが、時に斉王芳と書かれているが、これは、即位前および廃位(退位)後の地位を言うのであって、在位期間中、皇帝斎王芳と呼ばれてはいない。

 さて、魏皇帝の詔に、下賜物を「難升米、牛利に持たせ」るとは、原文には書かれていない。とても、手土産の粗品を持参した面々の持ち運びのできるような代物でないのは明らかである。「録受」せよと書いているのである。

 おそらく、翻訳者の脳裏には、御自分が想起した皇帝の言葉が鳴り響いていて、それをすらすらと書き取ったのだろうが、原文を遠く離れた創作となっている。

 魏皇帝の詔は、「録受」せよと書いているように、使節に目録を持たせるから、当座はそれを読んでおけ、追って、実物を送り届けると言っているのではなかろうか。

*下賜物兵站
 下賜物の搬送に、大層な準備時間と労力がかかるという事情に加えて、早世した明帝曹叡の国葬、即日後継皇帝に就職した新帝曹芳の即位儀礼など、優先度の大変高い国事が延々と続いたはずであり、結局、下賜物の発送は、正始元年となったと思われる。

 ここまでの走り読みでわかるように、皇帝詔書にまつわる記事の翻訳の際に、翻訳者は、自分なりに原文から読み取った成り行きを、いわば一幕のお芝居として描き、それを現代語で書き出しているようである。

 しかし、「自分なりに読み取った成り行き」は、すでに翻訳者の創作的な補充を多分に含んでいて、そのために、時代考証の視点から見ると「現実離れ」した情景を書き出してしまったものと見えます。

 と言うことで、新皇帝就位後の正始元年に、帯方郡から倭国に使節が派遣されているが、その際に、詔に記された小山のような下賜物が届けられたと見られる。

 この使節は、皇帝の名代である魏国使節と共に下賜物の運搬と護送のために、かなりの人数の兵士と人夫を伴った大使節団となっていたと思われる。

 原文によれば、倭国には、言うに足りるほどの牛馬がいなかったと言うことだから、人夫の担送は続くのである。それまでも、韓半島からの到来物はあったであろうから、ある程度の担送人夫はいたであろうが、手不足になって、周辺の農漁民に対し、「労役」を課したのであろう。

 以上のように、魏志倭人伝口語(現代語)訳は、労作であり、のどごしの良い滑らかな日本語になっているが、滑らかな文章にする際に添加された後代記事のために内容が不正確との疑義が拭いがたく、丁寧に言うと現代著作物となっているので、それは、決して、古代史史料ではなく、本書の言う一大プロジェクトの第一歩としては、ものの役に経たないと率直に言わざるを得ない。

 こうした指摘は、耳に痛いものなので、ひっそりとご本人に説明できれば良いのだが、そうも行かないので、ここに書き残すだけである。
 故人の名誉のために、どなたかダメ出しをすべきではなかったかと思われる。

未完

私の本棚 24 完全図解 邪馬台国と卑弥呼 2015 その4 沈む親亀

   別冊宝島2244 宝島社                     2014年11月発行

 私の見立て★☆☆☆☆ 乱雑、粗雑な寄せ集め資料    2015/06/18  追記 2020/06/05

 引き続き、口語訳の検討を離れて、本書の内容に触れる。

*沈む親亀/親船
 本書22ページに、「発掘調査での物証検出が、論争のキャスティング・ボートを握る」と書かれている。
 突如、意味不明の比喩が出て来るので、論理の流れがかき乱されて、読者は困惑する。と言うことで、以下、「キャスティング・ボート」は、casting voteのこととして、ここでの話を進める。

 唐突で説明不足と感じられる原因は、言うならば、この言葉をどこかから借りてきたものの、論者が自分自身の言葉にできていないのではないか。あえて言うなら、言葉の意味を取り違えているのではないか。そう感じるのである。

*沈まないボート
 仮に、多数決原理の例で絵解きしようとするなら、架空の100人集会の議決の場で、1人が議長となった99人議決で、A,Bの二派が対立し、それぞれ49人で票数が拮抗している事態を想定したとき、残る一人の意見次第でいずれかの派が50人に達して多数決が成立するので、僅か1票に、両派各49人、合計98票をあわせたものより強い決定力が発生すると言うものである。

 これは、例外的事態とは言え、現実の世界でも似たような事態が発生してるのであり、単純多数決の欠点とも、限界とも見える事態を図式化した比喩なのである。

 以上の説明で、この比喩の出てきた背景を理解いただけたら、この比喩を、邪馬台国論争に敷衍することの意義を考えてみよう。

 もし、邪馬台国論争が多数決原理で決着するものであって、その議決が、多数が確立されていないために決着していないと見たのであれば、「キャスティング・ボート」の比喩は、少なくとも有効かどうか判断の俎上に載るものと見られる。

 しかし、邪馬台国論争は、人文科学的な論争であり、(民主主義的な?)多数決原理で決定するものではない。いや、この判断が間違っていたら、ご指摘いただきたいものである。

 ただし、邪馬台国論争は、史料の解釈に絶対的な合意が得られない一点で今に至るも決着していないとすれば、そのような史料解釈の不確かさを一気に払拭するような物証が、学術的に物証として認定されれば、その物証は、実質的に、唯一有効な一票となり、過去の物証は全て、それこそ、幻覚の産物として、論争の場から姿を消すのである。
 これは、物証の数や「質量」(目方)で決定されるものではない。

 こうして、よくよく考えてみれば、どんな大家が言い始めた比喩か知らないが、率直に言って「キャスティング・ボート」は、場違いな、不適当な比喩と言うべきであろう。

 くれぐれも、自分で確かめていない、言うならば、不確かな土台の上に載って議論を進めないことである。土台が、居眠りしている大亀の背中であれば、亀が眼を策して移動すれば、土台は消失するのである。大地を踏みしめることをお勧めしたい。

 下手をすると、その土台の上に、時には、数十年にわたって研究、論文発表を構築していくから、後日土台が傾いているのに気づいても、土台を見捨てることはできないし、土台を築き直すこともできなくて、土台が傾いていることに気づかないふりを強いられる、どうしようもない事態となるのである。

 それにしても、ここで描かれているような事態は、報道記事に世間が一喜一憂して、世評が動揺してざわつくのである。繰り返して言うが、学術的な論争は、総選挙や多数決で決まるものではない。

未完

私の本棚 23 完全図解 邪馬台国と卑弥呼 2015 その3 誤り?

   別冊宝島2244 宝島社                      2014年11月発行

 私の見立て★☆☆☆☆ 乱雑、粗雑な寄せ集め資料    2015/06/18  追記 2020/06/05

 ここで一旦、口語訳の検討を離れて、本書の内容に触れる。

*史料の乏しさ
 本書18ページは、冒頭から不穏である。

 堂々と「魏志倭人伝の記述は誤り?」とスポーツ新聞の見出し風に吠えているが、本書に登場する各論者それぞれが、長年の模索を通じてものにした、ある意味、個性豊か、かつ、不正確な解釈をしているものであり、各論者は、魏志倭人伝の書かれている記事ではなく、自身の解釈を元にして激論しているのである。いわば、論争の種を地産地消しているのである。

 この部分の筆者が論じているのは、原史料の不備なのか、各論者が感じた不備なのか、趣旨が不明確である。
 邪馬台国論争は、論争と言いつつ一向に正否が示されず、収束しないのであるが、断片的な議論が迷走するだけで収束しないのは、無理からぬ所である。

 続いて、「邪馬台国や卑弥呼に関する歴史的史料の乏しさ」と書いているが、ことの実体は、「乏しさ」などと、お上品にぼやかして言うべき状態ではないのである。

 史料として信ずるに足りる資料は、何より魏志であり、以下、おおむね魏志の引用で書かれた後漢書かあるだけであって、本質的に、信ずるに足りる史料は魏志一件しかないのである。
 記事も認めているように、該当する時代に関して記述していると思われる国内史料には「邪馬台国や卑弥呼」は登場しない。まことに、へんてこな話ではなかろうか。

*誤解・誤読の海
 続いて、『「邪馬台国」が史書に初めて登場したのは、3世紀末の魏志倭人伝と漢書地理志』とあるが、漢書地理志は、後漢時代に編纂されたのであり、3世紀末と言うと随分時点がずれている。また漢書地理志には、当然「邪馬台国」とは書かれていない。それとも、何か異本を見ているのだろうか。

 と言う事で、何のことが意味不明である。誤字、誤記の類いで起きる間違いではなく、コピペ操作の失敗であろうか。ちゃんと、自分で推敲すべきである。(魏志倭人伝に「邪馬台国」と書かれていないという、まことに当然の指摘は、ここでは差し控える)

 素人考えで失礼かも知れないが、これは「史実認定」が不正確といいたいところである。

 誰がどうと言うほど限定された話ではないが、編者は、各自の見解をつきあわせて議論したいと言うが、それ以前に、勘違いや書き違いを前提に持論を構築しているのであれば、各論者の見解の相違をつきあわせて、正否を吟味することはできないのである。

未完

私の本棚 22 完全図解 邪馬台国と卑弥呼 2015 その2 口語訳

   別冊宝島2244 宝島社                   2014年11月発行

 私の見立て★☆☆☆☆ 乱雑、粗雑な寄せ集め資料    2015/06/18  追記 2020/06/05

倭人在 
 さて、一例として、書き出しはどう訳されているか読んでみる。

1.「山に囲まれ島を連ねて国を作っています」
 と口語訳は滔々と述べているが、そのような言葉は原文にはない。

*口語訳という名の創作
 口語訳を書き出した前提として、翻訳者は、ここに日本列島の姿が描かれていると見たかったとも思えるが、「倭人」、ないしは「倭国」がそのような広がりを持っているとは原文には書かれていない。

 原文は、「倭人在帯方東南」と書き出していて、これは 「倭人は、帯方東南に在る」と簡潔かつ明解に言い切っているとみられる。

 その意味では、「倭人」ないしは「倭国」の所在は、後に言う「九州島」(の北の方)だけが想定されているのである。「北九州」と言いたいところだが、それでは、「北九州市」と紛らわしいので、普通は避けられている。古代地名の「筑紫」と言いたいところであるが、どうも、一部で嫌われているようで、定着していない。困ったものである。

*いきなり脱輪
 論者によっては、原文に書かれている内容を認識した上で、「実際には日本列島が連なっているのだから、そのように読み替える」と論拠を示して読み替えている例もある。いきなり、史料改竄である。同時代最有力の史料を、誇示船的な感慨で書き替えるのは、「蛮勇」と言いたくなるような、大した度胸と言える。このあたりが、「言ったもの勝ち」の乱雑論議と言われる原因である。

 しかし、ここで「倭人在」と言うのは、地図上の「海中山島」の配置を言うものではなく、「倭人」ないしは「倭国」の所在を言うのである。してみると、「実際にというものの、自身の個人的な定見以外に根拠は特にないはずである。定見は、論者自身が編み出すものではなく、原文から読み取るべきものである。

 論者の個人的な定見を元に史料を読み替えるのは本末転倒であり、行きすぎた解釈というものであろう。

10. 「不弥国から邪馬台国へは」
 前記事で書いたように、ここでは原文に無い記述を当然の如く書き足している

*道標を外された分かれ道
 また、「水行十日陸行一月」は、不弥国から邪馬台国への行程として書き出している。行程記事解釈で、多くの論者が選択している読み方であり、その解釈の上に、膨大な論考が繰り返され、高々と積層しているので、この読み方に固執している例も少なくないように見る。

 これに対して、本書18ページでは、「水行十日陸行一月」は、不弥国から邪馬台国への行程でなく、「帯方郡から邪馬台国までの距離と日数が示されている」と書いている。

 解釈として、一考に値する筋の通ったもののように思えるが、この読み方が世に出て久しいのに、頑として見向きもしない、一顧だにしない論者が少なくないようである。

 と言う事で、両論は、並立しているとの説明のないまま、併存しているのである。誠に、乱雑である。

*手遅れの忠言
 今回の記事に限らず、百年論争の果てに見えている事象を当ブログで言い立てる原因は、原点から脱線して走り始めて、そのまま迷走し続けている議論が多いと言うことである。不毛などと言うものではない
 と言っても、一介の私人が私見を述べても、各論者の耳には届かないのだろうが、例えて遅れでも、ここで言うしかないのである。。

未完

私の本棚 21 完全図解 邪馬台国と卑弥呼 2015 その1 序論

    別冊宝島2244 宝島社                  2014年11月発行

 私の見立て★☆☆☆☆ 乱雑、粗雑な寄せ集め資料    2015/06/18  追記 2020/06/05

序論
*口語訳の動員

 本書は、前書きで、「邪馬台国論争の原点」とすると編纂の方針を掲げ、『三国志』 「魏志」 倭人伝口語訳として、亡き池田仁三氏の訳文を掲載している。なお、魏志倭人伝自体は、著作権の消滅した公有著作物であるが、現代語訳は、翻訳者の「著作物」であり、ここでは、出典を明記した上で、引用、紹介しているので、適法な引用かな、と言うだけである。

 さて、「邪馬台国論争の原点として資料提供する」と言う本書編集方針は、その第一歩で脱線している。原点が、すでに原典資料から、大きく食みだしているのである。

 表紙裏「南至邪馬壹国」から「七萬餘戸」の部分の口語訳の抜き書きが掲示されていて、不吉な徴となっている。

 口語訳と書いているのは、いわゆる、漢文書き下し文が文語調で読み解きにくいので、そうではなく、普通読み書きしている文章にしていると言うことだろう。ただし、ここで問題になるのは魏志倭人伝の「原文」(紹凞本準拠と思われる。以下、単に原文という)の口語訳の際に、かなりの書き足し、読み替えが加えられていると言うことである。つまり、本書で展開されているのは、池田市の著作に基づく論議であり、原資料に基づいて稲とは言い切れないのである。

 「不弥国の南方向に行けば邪馬台国に着きます」と書き切っているが、原文には「不弥国の」はないし、毎度おなじみであるが、「邪馬台国」もない。申し訳ないが、ついていけない。

 史料翻訳の際に、自分の観念で書き換えるのであれば、書き換えた部分を明記すべきであり、またその根拠を示すべきと思われる。ここに掲載されているのは、注記の無い「べた書き」なので、口語訳でなく「超訳」と言うべき現代著作物となっているように見える、と言ってしまうと、故人に対して過酷な言い方になってしまう。

 察するに、ご本人の意思は、自分なりの読み解きを試行しただけであって、学術的な資料として細部に至るまで厳密さを要求される、いわば、測定原器として完成したものではないと思うのである。

 つまり、こうした利用は、当人にとって本意でないように思うので、著作権の中でも、著作人格権が侵害されているように思う。

 その辺りは、従って、以下の批判の口調から割り引いていただきたいのだが、当方としては、編者から、「百年論争」にとどめを刺す、新原典資料として提案されたものとして、批判を加えるしかないのである。くれぐれも、その辺りの情状を酌量頂きたい。

 また、当ブログの古代学論の全体を通じて言えることでもあるが、以下は、私見でしかない。

*多難な前途
 簡にして要を得た魏志倭人伝の原文は、決して、現代(日本)人が容易に趣旨を読み取れるものではないが、当方は一介の素人なので、一部独善論者が言うように、三国志全体を読破理解しないと、的確な理解ができないと言い放つつもりはなく、先人の偉業をなぞりつつ、一方で原文の字面を、懸命に追いかけていくのである。

 ただし、現代人の俗な世界観(「世界」をどう見ているかという意味である)を離れて、陳壽の世界観に馴染まないと、理解を誤ることが多い。そこは、先人の偉業に示された足跡を見て陳腐な落とし穴を避けることである。

 そのためには、十分注意して、絶えず、推定が妥当かどうかを自問自答すれば、避けられると思う。

未完

今日の躓き石 将棋記事に「リベンジ」発症 毎日新聞に悪疫蔓延の予兆か 

                               2020/06/05

 本日の題材は、毎日新聞大阪朝刊第14版「総合・社会」面トップの将棋ネタである。想定範囲の予定記事であるから、推敲の時間は取れたはずなのだが、輝かしかるべき記事に大きな汚点を記している。

 「本人にリベンジの気持ちはないと思うが」と口調を和らげているが、案ずるに、50代初頭の師匠は、内心に「リベンジ」の「暗黒」を抱えていて、10代の新進の心中を探っているようである。しかし、弟子を思うのなら、このような忌まわしい言葉にふれないのが、本人のために最高、最善である。今回の一言で、話題の棋士は、口には出さないが、実は激しい憎しみを原動力にしているのではないかとの疑念がわき上がるのである。ことさら否定するような師匠の談話であるから、額面通りにはとれないのである。

 この下りは、談話の引用であるから、担当記者は、事実は事実として報道するしかないと言い訳しそうであるが、別に言い換えても何の問題もないはずである。何しろ、痛い目に遭わされた相手との再戦ではないのであるから、血塗られた「リベンジ」、隣国の「トラ」さんの掻き立てる「テロ」はお門違いなのである。まして、先の(手痛い)敗戦は、相手の策謀に騙されたわけでもなく、最終盤に判断を誤ったための敗戦だから、責任は、自分に持っていくしかないのである。

 つまり、署名した担当記者二名も、脳内を血塗られて汚染されているものなのか、偉業を讃える記事の意義を損なっていて、毎日新聞としては大事件と言える。是非、このような不穏な表現は、とことん駆除していただきたい。

 根本的な問題として、将棋の世界に怨念とか復讐を見る前世紀の風潮は、カタカナ語に書き替えてごまかすのでなく、断乎排除して欲しいものである。そうしないと、師匠と弟子という関係にまで、悪弊の伝承という疑念が投げかけられるのである。

 毎日新聞は、全国紙として、国民の言語文化を保全する「言葉の護り人」の任にあると自覚して欲しいものである。いや、この際、気づいて欲しいのである。全記者の中の一人が無自覚に忌まわしい言葉を紙面にぶちまけたら、全社で進めている地道な活動が崩壊しかねないのである。今日改めれば、今日から改善が進むのである。

以上

2020年6月 1日 (月)

今日の躓き石 「サブライズ花火」と言わないで

                                 2020/06/01

 本日の題材は、5/29の毎日新聞の記事であったが、扱いに困っていたのである。

 各地で一斉に花火サプライズ 「大曲の花火」参加者らがネットで資金募る。

 結局、全国紙ともあろうものが、カタカナ語の扱いに失敗しているのである。

 現在の合衆国大統領の暴言に表れた悪夢であるが、「武漢ウィルス」を合衆国に対する中国の「サプライズ」攻撃と受け止めて、定番で「パールハーバー」真珠湾攻撃の奇襲と「9.11」多発テロを引き合いに出すのである。詳しく言うと差し障りがあるので、手短に言うと、それぞれ無残な報復攻撃があったのであるから、当今の動きは驚くものではない。これが、その人たちの品性である。

 ちなみに、surpriseは、特に言い訳しない限り、不愉快な不意打ちである。アメリカ人を含めて、英語圏では、そう受けとめて不愉快に感じる人が大勢いる以上、安易に使って欲しくないカタカナ語である。それにつけても、後先考えない安直な名付けは、勘弁して欲しいものである。

 と言うべきかと思いながら、踏み切れずに躊躇っていると、時事通信の近報では「シークレット花火」と言い直していて、ほっとするのである。

 全国一斉にシークレット花火 相次ぐ大会中止で業者支援―CFで費用募る・秋田 

 と言う事で、安心していやなことを言わせて頂くのである。言葉は届かなくても、大曲には、既にこころざしが届いているので、空振りしても苦にならないのである。

 毎日新聞ともあろうものが、主催者の「サプライズ」御用に悪乗りしたのは、情けないことである。苦言を呈して、たしなめてあげるべきである。次世代に澄んだ言葉遣いを伝えるべき言葉の護り人は、そうあって欲しいのである。

以上

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