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2020年6月

2020年6月30日 (火)

新・私の本棚 日本の古代 1 「倭人の登場」 5「倭人伝」の地名と人名 改

 中央公論社 単行本 1985年11月初版 中公文庫 1995年10月初版

 私の見立て ★★★★☆                2020/01/15 追記再公開 2020/06/30

〇初めに
 本書の本章は、森博達氏の執筆であり、倭人伝に書かれている漢字地名、人名の発音を推定する際に「上代日本語」の発音を参考としたものです。
 安本美典氏の近著で、森氏の見解に言及しているので、急遽、趣旨確認したものです。

*概論

 森氏の以下の提言は、結論を急いだものでなく、適用範囲を限定している作業仮説です。案ずるに、科学的議論は、かくあるべきです。

*提言要約の試み

 「倭人伝」の地名と人名は、三世紀当時の「倭人語」の漢字表記であり、倭人と中国人の交流から、一定の発音規則に基づいて生成されたものです。

 ここで倭人語と対照可能な言語として、「文献によって音韻体系を窺い知ることのできる最古の日本語は、七~八世紀大和地方の言語で、これを上代日本語と呼ぶ」と明記の上で、倭人語と上代日本語の分析を進めています。

*上代日本語
 上代日本語は、文字通り上代の「日本語」であり、「日本」国家成立以前から同地域で話されていた言語ですが、同時代には文字記録、つまり、漢字の発音を利用して言葉を記録することができなかったため、後代、「日本」成立後、万葉仮名などの手法により文書に記載された資料から、上代日本語の発音を推定して、そこから、往時の音韻法則の大系を推定する研究が進んでいるということです。

*倭人語
 倭人語は、発音面で言うと、倭人伝で起用されている地名、国名、人名、官名などの漢字表記から推定されているものであり、古代中国語の発音に従うものと推定できるとして、限られた資料ですが、上代日本語と共通する音韻法則に従っている可能性が高いとみているのです。

*中国古代音韻
 現存資料で得られる中国語音韻は「切韻」に収録された中古音です。中古音は、魏晋代の音韻であり、秦漢代音韻は、中古音と必ずしも同様ではない上古音であり、私見では、中古音音韻から遡上推定されているようです。


 森氏は、倭人語は、上代日本語と同様の規則に従っているものと見ています。

*残された課題

 森氏は、倭人語発音の推定に、次のような課題が残っているとしています。
⑴ 「倭人伝」の地名・官名・人員はどの時代に音訳されたのか。
⑵ 先秦から魏晋まで、漢字音はどのように変遷したのか。
⑶ 音訳者(複数と考えられる)はどのような姿勢で音訳したのか。

 ⑶の音訳の「姿勢」は、別に、音訳者が正座していたかとか、寝そべっていたかという話ではなく、一つには、倭人語が中国側の当てはめによるのか、倭人側の提言によるのか、ということになります。
 つまり、「卑弥呼」が倭人語の中国語への音訳か、この漢字三字が起源の倭人語か、ということです。後者なら「卑弥呼」の発音は倭人語に馴染まない可能性があります。

*まとめ

 以下、森氏が明言していない「要旨」であり、先に述べた紹介とともに、文責は当ブログ記事筆者に帰します。
 お疑いの方は原書をご確認ください。


 「邪馬壹(臺)国」なる国名が、三世紀時点に倭人語から音訳されたのであれば中古音であり、倭人発音は、上代日本語に従う可能性が高いが、後漢書で漢代「初出」の国名なので、上古音の可能性があり、倭人発音は、上代日本語の規則に従わない可能性があります。また、帯方郡や楽浪郡の音訳であれば、「地域発音」の可能性もあります。

 ということで、森氏は、言語学という現代科学の求めに従い、法則としての妥当性とその限界を論じ、特定の国名、人名に関する断定は慎重に避けているのです。

*安本氏の見解
 安本美典氏は、著書で、森氏の提言を踏まえ、慎重に言葉を選んで、不用意な断言は避けているものと解します。
 この点は、別途書評する予定です。

                             この項完

2020年6月29日 (月)

私の意見 古代史随想 「掌客」にみる日本書紀独特の世界観 補筆版

                          2020/01/17  補充再公開 2020/06/29
◯概要
 色々調べてみましたが、国内史料の「掌客」は何らかの勘違いと見えます。

*「客」に関する誤解
 六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津、是日以飾船卅艘迎客等于江口、安置新館。於是、以中臣宮地連烏磨呂・大河內直糠手・船史王平、爲掌客

 これは、日本書紀の推古天皇十六年(CE608)六月十五日の記事です。

 記事では、江口に三十艘の飾り船を連ねて、来航停泊していた「客」、ここでは隋使裴世清を出迎え、難波津新館に招じ入れたということです。現代人ならずとも、「客」は国賓、賓客と誤解しそうです。

 宮地連、大河內直、船史王平の三名は同格の「掌客」、客接待役でした。栄誉ある職務に任じられたという趣旨で書かれている記事のように見えますが、後ほど判明するように、掌客は、外国使節応対の高位職ではなく、隋制に照らすと、国内官位に相応しくない下級職なのです。

*漢蕃関係と鴻臚
 中原諸王朝を総称して「漢」と言うと、「客」は漢蕃関係の用語で外夷訪問者です。隋官制は、遠く秦漢代から着々と継承されていて、一般に「蛮夷」と称される異民族諸国の使節として来訪の蕃人を「客」と言うのです。

*書紀の世界観
 それはそれとして、書紀は東夷視点なのか誤解なのか、隋使を夷蛮扱いしています。隋制の趣旨を理解した上であれば辛辣で、「漢蕃」ならぬ「和蕃」だったのかも知れません。隋使が、蛮人に「客」扱いされたと知れば激怒し、皇帝にその旨報告したでしょう。

*掌客の職務
 見識豊富な現代論客でも、「隋唐代に、使節行人は「掌客」が常態で、隋代にその記録がないのは、煬帝により「掌客」職が廃止されていたためだ」との解釈が見られますが、勘違いというものでしょう。
 よく時代状況を見てみると、隋煬帝は、蕃客所轄の鴻臚(寺)の「客」応対部署を、典客署から典蕃署に改称したものの、担当者「掌客」を「掌蕃」に変えたという記録はありません。細かいことは良いから、役所の看板に「客」などとは目障りだという事ではなかったかと思われます。皇帝お目見えどころか、昇殿すら叶わぬ下っ端の職名など、どうでも良かったのでしょう。

 そうして、四夷受入窓口を大幅に拡充した煬帝が、蕃客対応に経験豊富な実務担当者を一挙に解任することはないのです。史料解釈は、念入りに時代考証して判断すべきです。いや、この事例だけでの戒めというわけではありませんが。

 隋の厖大な官制を知るはずがない遣隋使が、目前に現れて、役職を名乗り接待し、宮廷儀礼に肝心な作法を指南してくれた親切な隋掌客を、てっきり高官に違いないと判断したとしたら、それは、早計な誤解によるものです。鴻廬掌客は、夷蕃使節応対の実務/雑務担当の最下級職であり、行人、つまり、帝国の外交官として皇帝の代理を務めるべき役職にはほど遠いのです。

 諸兄は、隋使の役職について、国内史料に鴻廬掌客と書いてあるのを優先しているようですが、隋書には文林郎と明記されていて、隋使の役職は、隋書を信じるべきであると考える次第です。誤記も誇張も春秋の筆も、一切関係ないのです。
 因みに、隋使は、皇帝の名代を背負っているのであり、自身の下級職名を名乗るはずがないのです。これは、時代考証するまでもない、当然の事項と考えます。

*未開行路開拓の功
 そのような背景で、鴻廬寺掌客ならぬ「文林郎」裴世清が、下級官人の身で、東夷俀国に派遣されたのは、一つには、公文書に通じた教養人であり、皇帝の名代にふさわしいという事と、行路未検証・未踏の絶海の俀国が、まことに危険と見えたためで、いわば、生還を期していない人選でしょう。

 現に、数十人の使節便船は、地域空前の大帆船でしたが行路、寄港地が不確かなため、百済海人の指導を得て黄海を乗り切ったようです。煬帝には、国書で「天子」を自称する不遜な東夷討伐の抱負があったのかも知れません。

 世上、魏代に半島沿岸航路を見てとる方(かた)が残存していますが、これもまた時代物の誤解と言うべきです。既知行路なら、隋書は、細々(こまごま)と書かないのです。

 後年、唐水軍が、百済制圧の際に、行路開拓に苦労しなかったのは、この際の裴世清の功績によるものでしょう。

◯まとめ
 魏晋代以来の交流記録、さらには、初回遣隋使の報告を元に、隋の官制を丁寧に調べていれば、掌客に関する誤解は避けられたはずです。
 いや、書紀記事がこのように伝えられているという事は、史上、誰も、この点に気づかなかったのでしょうか。素人には、知るすべがありません。

                                 完

2020年6月28日 (日)

今日の躓き石 NHK BS「釣りびと万歳」 ベテラン俳優の「リベンジ」失言連発を歎く

                                    2020/06/28

 本日の題材は、偶々見てしまった番組で出くわした失言である。釣り番組はまず見ないので、実は、釣り番組は「リベンジ」暴言のクラスターかも知れないと思うので、わざわざ苦言を言い立てるのである。

 また、近年、他ならぬNHK BSで時代劇、現代劇問わず主役を務めているベテラン男優が、このような子供じみた暴言をするとも思えないので、多分「語り」のせいだろうが、大抵、大盗賊と激闘する「火盗改め」長官役者の暴言と思うのである。

 大体、釣り行が、毎回狙い通りの釣果に結びつくわけはなく、カメラを引き摺ってのロケ行で失敗する悔しさはあるだろうが、その度に、誰とも知れぬ仇敵を思い浮かべて、仕返しで血まみれにしてやるなどと、「テロ」宣言するとも思えないのである。

 いつも言うのだが、俳優もジャーナリストも、その場その場の思いつきでしゃべくる商売とは思えないので、なんとか、「リベンジ」などときたない言葉を口走らず、次代を担う子供達に汚染を伝えないで欲しいと思うのである。

以上

2020年6月27日 (土)

新・私の本棚 刮目天一 プログ記事公開質問への回答    3/3

                                       2020/06/27

*達成すべき使命
 中国側が、俀国を九州北部の手近な場所でなく遠隔の地と見ていたのなら、其の地に至る行程を書き漏らすのは、皇帝への抗命であり、他ならぬ「煬帝」に対してそのような抗命をしては、「ただでは済まない」のです。

 最悪、使節団一同全員死罪であり、皇帝の意向次第では、全員の妻子も皆殺しになるのですから、裴世清一行は抗命などせず、使命を果たしたのです。隋書を原文に忠実に解釈するというのは、そこまで突き詰めることです。

*川村氏論考への感慨
 以上、丁寧に書いたので、できたら川村氏ご自身の批判を受けたい位です。

 ただし、川村氏は、日本書紀という国内史料を、深く、深く読み込んで、そのように解釈すると決めているので、その理路に従うなら、そのような隋書解釈が正しいことになるのですが、小生は、隋書、さらには、倭人伝しか見ていないので、川村氏の国内史料規準の隋書解釈には同意できないのです。小生の論は、その辺りを承知の上で、事実誤認、時代錯誤を説いています。

 就中、論戦での批判対象誤認について、気づいていただきたいのです。

◯苦言・諫言
 最後に、貴兄は、「文献にあることをバカ正直」に信じることを強いことばで蔑視されますが、この手の発言は、たっぷり「おつり」が帰ってくるので損だと思います。一度、慎重に考え直していただければ幸いです。

 「まずは」文献読解に努め、外部資料は厳格な史料批判を経るというのが、素人の学ぶ道として古代史学の唯一の正道と思いますので、ご意見には同意しかねます。貴兄が、持論の古代史浪漫を絶対視していて、その邪魔になる議論は、何から何まで棄却するというのでは、中々諫言もできないのです。

*安本氏見解観
 そうそう、途中で、安本美典氏の見解を転送されていますが、同書と被引用書を読む限り、安本氏は、自任されているように、史学者、つまり、あくまで学問の徒であるから、確実な根拠なしに断言せず、私見ですが「三世紀九州の言葉と後世の大和の言葉が、遠大な距離と数世紀の時間を経て、文字記録に頼らずに繋がっていると見たら、依拠されている論議が正しいと判断できる」との趣旨による、条件付きの慎重な見解と思います。(別記事あり)

 貴兄は、安本氏の発言を引用してないので、斯くなる私見は、的外れかも知れませんが、憶測するに、安本見解のパッと見にとらわれて、前提条件をすっ飛ばしていているように見え、厳密な引用ではないものと思量します。議論は、貼り付けた著書表紙の惹句では示せないのです。

 世にある「馬頭星雲」を避ける方法が見当たらなかったので回答が遅れましたが、貴兄の指摘を受けて、すぐさま同書を買い込んで念入りに読んだ上の意見です。貴兄に不愉快な言い回しになったとしたら、それは、小生の至らぬせいであり、御寛恕下さい。この程度の論者と見限って、諦めてください。

*最後に
 以上、貴兄の心情と食い違うので、ご不快かも知れませんが、少なくとも、古代史分野では、「文献」を深く理解するのが、第一歩であり、たとえ、不快な見解でも、説き伏せられてみることが必要かと思います。

 自分はどうかと言われそうですが、守り切れない自戒の言葉とお考えください。当方は、一介の電気技術者骨董品で、専門家ではなく、あちこちで素人と触れ回っているので、くれぐれも誤解しないでいただきたいものです。

                                以上

新・私の本棚 刮目天一 プログ記事公開質問への回答    2/3

                                       2020/06/27

*悪書論再び
 小生は、熟読の結果、無知で無神経な論者と見ているのです。「正史」に「海路」が登場しないのは、当時概念がなかった、つまり、海路制度は無かったのです。自稿批判なしに、独善を書き立てて出版したところに、「言ったもん勝ち」の悪辣さを感じたのです。
 とにかく、なぜ、確立された半島内陸路を行かないのか、納得のいく説明がないのです。

 同書は、史論書として余りにも無残なので、別途書評をご確認いただきたい。

 私の本棚 長野正孝 古代史の謎は「海路」で解ける 1/9
*まぼろしの大和川遡行
 河内から大和に入る大和川遡行は、過去記事で否定しているので、貴見には従えません。大和川は、漕ぎ登れる流れではないのです。また、川沿いで曳き船もできないのです。下り船で荷を運んでも、帰り船ができないので大変な負担になります。森浩一氏や直木孝次郎氏のような、実証を重んじる考古学者でも、貴兄と同様の大和川観に陥っているのは誠に残念です。

 大和川荷船は、終点柏原の波止場で荷下ろしし、「痩せ馬」部隊が、小分けした荷を背負って、けもの路ならぬ人道を登ったでしょう。

 話しの流れに戻ると、数百人どころではない武装軍兵が、小型の漕ぎ船に分乗し、大和川急流を漕ぎ上る図は、到底あり得ない戯画と考えます。言いくたびれるのですが、画餅ですらないのです。

 行軍に際しては、必要であれば、訓練された工兵が山林を伐採して桟道を設け、時には、船橋を敷いて、とにかく徒歩で行軍するのが、兵法の大原則であり、山があっても時間をかければ、乗り越えられるものなのです。そして、流れに身を浸して川を渉るのは、軍律違反なのです。

*生駒暗峠の矢戦
 司馬遼太郎氏の少年期懐旧談で、生駒山暗峠西斜面のあぜ道に、石鏃が結構な数埋もれていたそうですから、峠越え軍を頂上から射すくめたようです。

*主流の木津経路
 ちと余談めきますが、近隣で漕船運航があり得るのは、傾斜も流れも緩やかな大河淀川です。小生のお勧めの進軍路は、淀川を比較的大きな船で遡行して最後は木津に至り、比較的背の低い「なら山」越えで後の平城京域に入るものであり、以下、平地続きで特に難関は無いというものです。特に支持者のない素人談義ですが、労少なくて功の多い妙策と見ています。

 折角のご意見を聞き流しているようで恐縮ですが、この批判を提示するまでに、それぞれの議題でかなり資料を読み込んでいるものとご理解ください。

*無縁の邪馬台国正当化
 次ぎに、ご教示いただいている「邪馬台国」論ですが、小生は、隋使来訪で言えば、敵の目的地は「竹斯国」であり、ここに腰を落ち着けて探偵したと隋書を読んでいるので、倭人伝誤記論などは、お呼びではないのです。

 因みに、隋書は、俀国について、「魏晋代以来中国と交流を続けていた」、倭の後継と明記しているので、「倭」は、変わりなく九州北部と認識していたことが明示されていると考えます。「九州王朝説」など無用です。

*裴世清談義
 川村氏は、隋書の「竹斯国から東に十余国を経ると海岸があるのを知った」との明快な記事を、長期間を経て海上移動で河内湾岸に着いたと解釈していますが、これは、解釈でなく「創作」です。

*信じがたい疎漏
 隋使が、延々数ヵ月に上る長距離移動の顛末を、すっぽり書き漏らしたと決め込んでいますが、裴世清は、文林郎、つまり、図書館司書の役所(やくどころ)であり、職業柄、公文書を熟知していたので不用意な書き漏らしなどしないのです。まして、未踏の敵地で、何ヵ月も費やして遠路遙かに移動し、困難な寧遠任務を果たしたという一大功績を、逆粉飾して何も書かないはずがないのです。

                                未完

新・私の本棚 刮目天一 プログ記事公開質問への回答    1/3

                                       2020/06/27
 本件、貴ブログで公開質問いただいたので、対して公開回答いたします。
 九州王朝説は古代史の躓き石だろ(^◇^)

◯始めに
 貴ブログを折に触れて拝見しているのですが、それぞれの記事の貴見の元になっている史料の「史料批判」が、大抵の場合、よくわからないので、安易な批判を避けています。
 要は、大抵のご意見は、どんな根拠でそのような理解に至ったかよくわからないのです。

 今回も、折角時間をとっていただいたのに、貴質問の趣旨が今ひとつわからないので、小刻みに回答いたします。

 まず、小生のブログ記事は、別に川村氏の人格攻撃でなく、また、氏の国内史料基点の論考の筋道を非難しているものでもないのです。むしろ、確たる基点から進めているにしては、事実誤認や時代錯誤が目立つので、丁寧に字数をかけて指摘しているものです。

 また、学術論であれば、批判対象の「九州王朝説」の全貌を確認した上で展開すべきです。ここは、末節である古代史書の評価基準を論難しているようですが、それは、「九州王朝説」批判と言っていいのか、大変疑問です。

 小生のいう「躓き石」は、「大丈夫」(巨漢のこと)が気づかずに踏み越えても、子供が大けがする邪魔ものを言うのです。要は、間違った、きたない言葉を、後世を担う子供達に伝えたくないから、延々と、全国紙記者や公共放送担当者に対して、うるさく警鐘を鳴らしているのです。趣旨をご理解いただけていますでしょうか。

 世人に警告するなら、どこでどう躓くのか指摘しなければなりませんが、川村氏は、気づいてないのでしょう。

 と言うような事どもは、議論しても進まないので、隋書俀国伝の史料解釈に挑んでいるわけで、川村氏非難でないことを繰り返します。

*各論展開
 と言う事で、ようやく、貴兄の見解に対応できるわけです。

 まず、長野氏を「古代海洋技術の専門家」と崇めて、無批判で称揚するのに賛成できません。掲示の新書は、小生が手厳しく虚偽(フェイク)の塊、「全体として悪書」と批判していて、貴兄と評価が大きくずれているので、この際、貴見に従うことはできません。なお、「古代海洋技術」なる新語は、古代史論には通用しません。用語の時代錯誤には、目立つものも、目立たないものも合わせて、くれぐれもご注意ください。

 また、長野氏が、憶測の根拠とされている「日本書紀」は、少なくとも、当分野では、「史料として全面的には信頼できない」として保留しているので、これもまた議論の俎上には載せられません。史料批判で門前払いです。

 と言う事で、折角のご批判ですが、誠に恐縮ながら、六世紀末、ないしは、七世紀初頭、瀬戸内海を、隋から渡来した帆船が易々と航行したとする根拠はいただけなかったと考えます。「易々と」というのは、隋使船を案内して万に一つの失敗もない、と言う意味です。

 要するに、陸上街道に難船の危険は全くないのに命がけで船に乗るのが理解できません。中原人は、山東半島まで、安全、安心な大地を行く街道行程であり、竹斯国まで(倭人伝)万二千里の大半が海船の地獄行程を無事乗り切ったのに、不沈大地を離れる危険に取り組むことが理解しがたいのです。

 裴世清は、軍命達成になら命をかけたかも知れませんが、文官であり、使命を果たして無事帰国報告が至上命令ですから、命を惜しんだと思うのです。

 言うまでもありませんが、小生が述べているのは、数多くの難所があり、地元漁師の手漕ぎの小舟ならいざ知らず、吃水が深く、幅広で、舵の効きが悪い大型の帆船は、無事通れない(可能性が大変高い、絶対安全とは言えない)というのであり、反論には、難所を残らず解消したとの論証が必要です。信用できない著者の伝聞や史料を盾に取るのではなく、信じるに足る論証を提示いただくようお願いします。

*無法な悪書
 因みに、長野氏への重大な難詰は、史記、漢書から魏志に至る中国「正史」に一切登場しない「海路」なる無法な用語を振り立てて、無法、無意味なな推論を繰り広げている点です。
                                未完

私の本棚 図説検証 原像日本 2 大地に根づく日々 改 2/2

   私の見立て★☆☆☆☆     2017/02/10 補充再掲 2020/06/27

*戦国難民考
 ちなみに、筆者は、中国の戦国時代のおそらく末期、秦による全国統一の際、中国北部の燕から、多数の人々が朝鮮半島を南下し、大海の彼方の日本列島に渡来したとみています。不明瞭なので、個人責任で明確化しています。

 燕が滅んだのは、BCE222年ですが、すでに他の諸国は、悉く秦に侵略されているので、燕の王族や貴族が逃げるなら、選択肢は、いずれも夷蕃で、北方の匈奴の世界でなく、温和な朝鮮半島を選んでも不思議はないのです。それにしても、家族一同移住できたのは貴族階級であり、従って逃亡でなく中国文化を持ち込んだ亡命と見ているのでしょう。

*遺らなかった文化資産
 それなら、定着地で中国語を語り、漢文を書き記し、中国文化の種をまいたものと思うのです。そのためには、木や竹から簡牘を作り、筆と墨を作り、持ち込んだ豊富な書籍に親しみ、時に応じて文筆活動したはずです。衣類も、中国のものとして、麻などの種子を栽培したはずです。

 断髪、文身、黥面は論外です。生食は禁忌です。牛肉、狗肉が必要です。

 祭礼として、家族の祖先をまつることも当然です。これは、中国文化の根幹です。家を守るという事は、「姓」を墨守します。中国の暦から切り離されても、月日の経過を年代記に書き綴り、また、墓碑や家系図を残したはずです。

 「文化」とは、固持すべき必須要件を持ち、かつ、それを支える多くの要素を持つものです。単なる風俗・習慣の集合体ではないのです。

 それにしても、古代遺跡で、中国南方の影響は、稲作や氏神祭礼などが多く、北方風俗の伝播は、目立たないように見えますが、錯覚でしょうか。

 燕の文化は、大地に溶け込んで、伝来風物なる微かな断片だけが遺ったのでしょうか。

*文化幻想
 著者は、縄文文化が消え弥生文化が広がったというのですが、文字なき社会に文化も文明もないのです。「文化」は、確固たる漢語であり、後世日本人が、勝手に言い崩すのは、ありふれた、無教養の語彙錯誤です。

 亀卜談義がありますが、筆者は、亀卜の趣旨がわからないと逃げます。しかし、占いたい趣旨を書き込んだ上で亀卜し、神の回答である割れ目解釈するのが、亀卜であり、託宣には、確立された解釈法があったはずです。

 そのためには、亀卜文字の大系が必要です。殷(商)は、卜辞の解釈に適用するために漢字を創出したと言われています。ついでに言うと、易の筮竹も、易経に基づく解釈がなければ、託宣できません。いずれも、文化の一部です。

*憶測の集成
 「弥生文化」の開花に、中国文化の流入を説く割には、文化に即した具体的な物証、論証が欠けているのです。考古学にしては、域外の話題なのでしょうが、ちと、不勉強に過ぎます。なお、記事に於いて依拠した文献史料も、明示されていません。憶測の堆積でないでしょうが、かなり疑問に感じます。

◯まとめ
 念のため言うと、不満の対象は、不確かな文献解釈への無批判の依存であり、遺跡、遺物の実見による「純然たる」考古学的考察に、素人が口を挟むものではないのです。文献解釈を、時代同定に持ち込まざるを得ないとしたら、安易に俗耳に訴える「定説」に無批判に追従するのではなく、自律的な史料批判を怠るべきではありません。
 もし、考古学が、定説に追従して定見としたら、逆に、そのような考古学定見を根拠として定説が強化され、混迷が深まるのです。
 いや、現に深まっているのですが、その責任の過半は、考古学界の無定見な追従姿勢にあるのです。

 毎度のことですが、以上は、一個人、素人の意見ですから、断言調で展開していても、別に絶対視されるべきと確信しているわけではないのです。

 ご一考いただきたいというだけです。

                               以上

私の本棚 図説検証 原像日本 2 大地に根づく日々 改 1/2

 古代人と神々 水野 正好 (第5段に相当 表記なし) 旺文社 1988年

 私の見立て★☆☆☆☆     2017/02/10 補充再掲 2020/06/27

◯はじめに
 「図説検証原像日本」シリーズは、編集委員として、陳舜臣、門脇禎二、佐原眞と大物を据えた意欲的な取り組みであり、豊富な図版と多くの筆者の論考をを大型本五冊に収容した大著です。
 今回、古書店から購入したとは言え、図版資料としての重要性は絶大です。
 記事部分は担当者の見識で書かれているので、しばしば躓かされます。

*倭人伝談義に異議あり
 ということで、目下関心を持って読み進んでいるのは、古代記事なのですが、当段筆者の古代世界観の一端が、次の段落に明示されています。

 政治を反映する青銅器
 翻って『三国志』の魏志東夷伝倭人条によれば、日本は倭国(わ)、王都は邪馬台国(やまと)とされる。そして、九州の対馬(つしま)・一支(いき)・末廬(まつら)・伊都(いと)・奴(な)・不弥(ふみ)の諸国を統轄し、魏使等と倭国王、王都間の連繋をとる機構として「大率」が置かれている。言うまでもなく邪馬台国は大和であり、大
は後世の太宰府に相当する機構である。こうした倭国の機構に対応する形で、青銅器の世界が展開している。倭国中枢の邪馬台国が直接統轄する範囲に銅鐸が分布し、大率なり率に統轄を委ねている範囲に銅矛が分布するのである。

 つまり、著者は、文献資料である魏志倭人伝の自分流の解釈に合わせて、青銅器の分布を解釈するという態度をとっていますが、これは、考古学者の論考の進め方として、本末転倒でしょう。
 それにしても、著者の脳裏に反映されている「政治」は、どの時代のどの国の言葉なのでしょうか。ちと、粗雑な言い回しです。

 以前、自身が盆栽と化した著者が、資料を丹精して盆栽を仕立てていると揶揄しましたが、本記事もその一例です。「自縄自縛」と言いかけるのですが、少しは、趣(おもむき)のある言い回しを採ったものです。

 倭人伝を持ち出す以上、勝手な解釈を展開すべきではありません。まずは、独善を押しつける「日本」表記です。三世紀当時どころか、はるか後世の八世紀冒頭まで、「日本」は存在しなかったのです。また、当時蛮夷の王は、「王都」と称することを許されてなかったのです。勿論、地理概念の大和も存在せず、青銅器世界の展開も、手前味噌の概念なのです。

*文献史料の操作
 もし、ご自身の学究の手順として、文献を優先・先行させるのなら、各地で出土した青銅器を、先入観のない客観的な目でつぶさに観察、計測、分析したのと同じ客観的な目で文献を読み、科学的な目で史料批判すべきです。

*独自解釈の押しつけ
 古田武彦氏の古典的指摘を確認するまでもなく、倭人伝の倭王の居処は邪馬壹国であり、邪馬台国は後漢書由来です。その国が、僻遠のヤマトという説も有力ですが、九州北部にあったとする有力な学説が存在しています。

 文献解釈が分かれている中、一方にのみ依拠して自分流の解釈に固執し、文献に書かれている文字を自身解釈で書き換え、それに基づいて青銅器に反映されているとする「政治」を説くのは、科学的な態度といえないのです。

 つまり、ここに書かれた自己流倭国構造は一つの仮説であり、不確かな世界観に基づく文献解釈、不安定な仮説に基づいて、青銅器の意義づけを解釈するのは、仮説の正否以前の問題として学問の正しい手順を外れています。

 そのような不適切な論法を、原文献を参照できない一般読者に押しつけるべきではないと思うのです。

                              未完

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2020年6月24日 (水)

新・私の本棚 番外 川村 明「九州王朝説批判」改 4/7 隋使来訪記事の読み方

                                              2016/03/20 2018/05/05  2019/03/01 2019/04/20 2020/06/24

*倭人伝を踏襲した行程記事
 俀国伝で、隋使の記録に明解な行程/道里が書かれていないと言うことは、明細が書かれていない行程は、実は未踏の地にいたるものではなく、既知の行程だったのではないか、と言う推定が浮上してきます。

*実移動行程の記録
 裴世清は、山東半島から、朝鮮半島には見られない大型の帆船で半島沖合を進み、百済の海港に立ち寄った後、耽羅から対馬に乗り付け、以下、倭人伝同様に壱岐を経て、竹斯国に入ったようです。

 現地にない大型船舶は、座礁などの海難を恐れて、安全な経路以外ではめったに寄港できなかったはずです。大型の帆船は、舵がききにくいので、その意味でも未知の海域に深入りはできないのです。また、現地の水先案内も、小型の手こぎ船は知り尽くしていても、未知の大型船舶が、港内の浅瀬などをどう避けるか、案内困難だったはずです。

 いや、沖合遙かを行けば、沿岸部での海難は避けられるのですが、食料と水の補給は必要であり、乗員の休息も含め、寄港は必要だったのです。

 対馬までは、陸上の街道が規定されていた倭人伝の半島内行程と異なり船での移動なので、寄港地を明記したものの、羅針盤(コンパス)のない時代、未踏の海域で海図がないから、進行方向は無意味なので書いていません。

 海図がないのは、六世紀末までに「航路」が全く確立されていなかったためであり、倭人伝行程で沿岸航行など規定していなかった証拠となります。

 倭人伝行程は、帯方郡から陸上行程で狗邪韓国に着き、その海岸から、水行渡海でまっしぐらに南に向かう想定でしたが、裴世清の乗船は、耽羅から対馬に直接入り、狗邪韓国抜きです。また、三度の渡船はなかったのです。

 同時代人が「普通に考える」なら、裴世清が、俀国への行程をつぶさに書かなかったのは、倭人伝で既報であり、竹斯国到着後は、そこにとどまり、以後行程は、報告欠落ではないと思わせるのです。

 例えば、「經十餘國達於海岸」と言う「十餘國」が、俗説の九州北部から大阪湾岸まで瀬戸内海を航行した途中の国々なら、都度、寄港地を明記するはずです。あるいは、延々陸行であれば、都度、各国記録が必須なのは、説明した通りです。

 隋煬帝に任じられた文林郎裴世清が、魏志が到達していない未踏の地に踏み込んで、何も書き残さないという事は、あり得ないのです。

*どこの海辺
 そのような考察から、「達於海岸」は、陸地を移動して海岸に出ると解釈するのが順当です。順当だから簡潔に書き留めているのです。また、「十餘國」は、倭を構成する三十国の一部で既知なので列記しないのです。倭/俀国は、海中山島で周囲は海なので、東方の海岸を示したに過ぎないのです。

*「浪漫」の物語
 氏は、「そのまま瀬戸内海を航行」と何気なく隋書にない言葉を連ねます。
 氏の改訂した特製の隋書では、隋使は、九州島に上陸せず「そのまま」九州北岸を航行して関門海峡から瀬戸内海に入り、さらに「そのまま」瀬戸内海を東に移動して大阪湾岸に到着したということなのでしょうか。

 以下、隋使は「大阪湾岸」に到着し、丁重な出迎えを受けて、東に山越えし推古帝居処に案内されたと見えますが、生駒越えの険しい山道を書き残すのではないでしょうか。

 軍事的には、隋軍がこの国を攻めるには、河内平野を占拠して勢力を蓄え、山越えで攻め込むので、進軍を阻む山並みは、必須記事でしょう。

 当時の倭(俀国)が大阪湾岸なら、上陸後の行程は要らないのですが、いずれにしろ、ここまで侵入するためには、竹斯以来の寄港地を悉く確保して、兵と船、食糧を徴用し、背後を襲われる心配無しに敵前上陸することになるから、各寄港の所要日数、各国名、戸数などを書き漏らすわけにはいきません。

 これほど、隋朝にとって大事な事項が書かれていない、どちらともわからない記事では、ものの役に立たないのです。(うち首ものです)

*もう一つの解釈
 万事判然としないということは、結局、隋使は、そのような新境地には至らなかったのではないかと思わせるのですが、どうでしょうか。

                               未完


新・私の本棚 番外 川村 明「九州王朝説批判」改 3/7 隋使来訪記事の読み方

                       2016/03/20 2019/03/09 2020/06/24

第2章 七世紀の倭都は筑紫ではなかった    川村 明

 引き続き、日本書紀に大部分を依拠した考察を通じて、川村氏の「九州王朝」否定論の言い過ぎを指摘したいのです。

 「つまり、対馬、一支、筑紫を経て東行し、秦王国を過ぎたあと、そのまま瀬戸内海を東行して大阪湾岸に着き、俀王の出迎えを受けて都に着いた、と素直に読めるである。これは魏志倭人伝と比べると、他に解釈の余地のない、あまりにも明快な行路記事である。」

 部分引用ですが、「あまりにも」楽天的な読み取りだと思わせます。

 魏志倭人伝が、多くの國名を列記したり、行程中に道里を書いたことが、後世国内古代史論に多様な解釈を招き論争が絶えないことが、川村氏のお気に召さないようです。
 しかし、魏志倭人伝が、道里を細かく書いたのは、新規に中国王朝の臣下に連なった東夷の素性、所在地、現地行程をつぶさに書き留めることに努めたため過度に立ち入った記事に見えるのです。
 そう考えると、輻輳して見える解釈は、見当違いの「読み」と見るのです。天子は、倭地の小国の行程のつながり具合は、関心外なのです。

 これに対して、隋書/通典記事は、一見明解としても、それは、現地を全く知らない後世中国人の早計というものですが、それにしても倭人伝の記事を適確に踏襲していて、倭人伝は古典です。

*素直でない読者
 氏は、隋使裴世清は、「秦王国を過ぎたあと、そのまま瀬戸内海を東行して大阪湾岸に着き、俀王の出迎えを受けて都に着いた、と素直に読める」とおっしゃいますが、原文には、そのような記事は書かれていなくて、そもそも、後世日本の素人読者に「わかりやすい」ようには書かれてないのです。
 史料に書かれていないことを、ご自身の推量に合うように補筆して読み取るのは、一種の二次創作であり、氏の独自の創作に基づいて議論するのは、いわゆる「勝手読み」お手盛り読みの儀式です。

 ご当人は、ご自分の慧眼に感心しても、氏と史観を共有しない読者は不可解のままです。史料解釈の進め方として、独り合点(ガッテン!)には同意できないのです。

*論説批判
 と言うことで、ここに示された見解に対する批判に入ります。
 正史である隋書は、このときの隋使の行程として、「東至秦王国」と書いた後ちょっと飛ばして、「經十餘國達於海岸」と書いているだけです。

 「經十餘國」は、倭人伝の「歴韓国」同様に、陸上街道を旅するのであり、終止陸上移動なので、「達於海岸」とは海辺の陸地に達するということで、船旅に出たとは書いてないのです。言うまでもなく、出ていない船旅の果てに「大阪湾」の海岸に着いたとは書いてないのです。今一度、謙虚な目で隋書原文を見直していただきたいものです。

*未到の境地
 それまでの正史、三国志には、九州島内の倭王都までの行程が書かれていて、東方遙かの倭種の地に行く記事はなかったから、中国王朝にとって、この隋使行程は、未踏、初見の境地の筈です。

 未踏の地に派遣された隋使は、勅命として、最終目的地に至る道里を報告することを厳命され、そのためには、行程中の各通過点を明示して道里を書かねばならないのです。
 そのような使命を前提にすれば、これは、隋使として随分不出来です。(柔らかく言っても、斬首ものの失態です)

 と言う事で、以下、改めて展開します。

                                未完

 

新・私の本棚 番外 川村 明「九州王朝説批判」改 2/7 通典の読み方

                 2016/03/20 2019/03/09  2020/06/24

*通典編集の台所
 通典は、隋代記事まで書き連ねた後、最終段落で編者の時代に近い唐代記事を収録し、その際は、「日本」らしいのですが、倭の別称として紹介されているだけであり、記事全体を「日本」記事に改題するには至っていないのです。そのため、体裁は至って明解で、通典に「日本伝」は無いのです。

 実際のところ、通典編纂者のもとに、どのような史料が届いていたかは、知るすべがないのですが、概容を知る手がかりは旧唐書の記述です。

 旧唐書編者は、通典編者と同等資料を見たが、自身の見識で倭伝を立て、伝体裁を採らずに日本を記したのです。当時の正史編者の基本的な倭観です。

 いや、通典邊防篇編者の脇に正史蕃夷伝の収録された巻の上級写本が並んで、都度、直接そこから引用したとは思えないのです。下級編者が正史から引用した「倭伝稿」を、上級者が編集していたと思えるのです。

 その際には草書系早書きが多用されるということなので、「文字化け」が多発したでしょう。常套句は、編纂者が校閲できますが、蛮夷の人名や国名は、校閲できなかった可能性が高いのです。

 通典には、史書ならぬ特有の欠点があることを、覚悟すべきなのです。

*駿馬と鈍亀
 当ブログ筆者は、別記事で、できの悪い比喩を創造して、正史編纂者の態度を、地を這う亀と評しました。のこのこと前進するだけの鈍重な生き物ですが、滅多に転けないのです。

 それ故に、正史の記事には、比較的高い信頼を置けます。(なかには、笵曄のように、駆け出す亀もいますが)

 通典などの百科全書的大著は、記事分量が膨大なので、地を駈ける駿馬のような疾走ですが、駿馬は転けるのです。

 それ故、通典など非史書歴史記事に史料として高い信頼を置けないのです。

*非史書としての通典
 ただし、以上の論旨は、通典記事が、はなから全て信用できないと言っているのでないことは了解頂けるものと思います。

 つまり、通典は、厖大な大著に歴代王朝の儀礼や官制を網羅して、大変貴重な史料であることは言うまでもないのですが、念のため付記します。

*粟田真人談義
 氏の主張で無邪気と思うのは、通典倭記事の最後に出て来る入唐倭人に関する「有名な大和の人物である粟田真人」と言う粗雑な発言です。

 「有名な」が意味不明で、たぶん「人物」にかかるのでしょうが、ここは中国史料の史料批判を試みている場であり、その環境では、戸のような発言は、論拠と意義が不明です。

 「大和の人物」と仮睡しても、通典に「大和」はなく、また、「粟田真人」は倭の人物です。氏の内面で、通典記事は、「大和」史観、世界観で読み替えられているのでしょうか。論議の際は、どの史料をどう解釈しているか明解にしなければ、すれ違うだけです。誰も、氏の脳内を覗くことはできないので、氏の書かれた文字を追うしかできないのです。

 国内古代史史観に囚われて、中国史料の文意解読の際の論理が混乱しているのではないでしょうか。同時代の何のと言う以外に、どんな世界観で書かれているか拝察すべきでしょう。

                              この項完

新・私の本棚 番外 川村 明「九州王朝説批判」改 1/7 通典の読み方

                           2016/03/20 2018/05/05 2019/03/09  2020/06/24
私の見立て ★★★☆☆

「九州王朝説批判」 更新の弁
 個人サイトの記事の批判ですが、個人攻撃でないと了解いただきたい。
 最近閲覧件数が伸びているので、全体の言い回しを少々調整しましたが、論調、論旨は変えていないものです。
 以後、再読して、書き足しました。
 ここでは、倭人伝から隋書にいたる中国史料を基点としているので、日本書紀は、史料批判を要する外部文献に過ぎないのです。

第1章 中国史書の「倭」と「日本」  川村 明
 いや、川村氏は、「九州王朝説批判」というより、古田氏の提唱した「九州王朝説」の否定に、色々強弁をふるわれていますが、偏った主張に流れている部分に対しては、第三者の意見として批判させていただきます。

 ちなみに、当方は、ほぼ倭人伝専攻で、国内史書は、原則として倭人伝と輻輳するときだけ批判を加える方針でしたが、必要に迫られて、史料批判を加えているので、一部ご不快の方もいらっしゃるかと思います。中国史料を基点としているので、そのような解釈が必然となるのです。(2020/06/24)

*信条批判
 まず、古田武彦氏の信条として次の方法論を取り上げ、これが、常に正しいわけではないと主張されています。素人目には、至って控え目な前提ですが、このように「方法論」をやり玉に挙げて大局的に否定するのは、単に方法論の部分的な否定(誰でも欠点はある)であって、具体的に「九州王朝説批判」にどう繋がるのかよくわからないのです・何か、大きな勘違いをしているようです。
 とは言え、これもまた、「方法論」批判に類するので、取り敢えずご意見を拝聴することにしました。

b 当該王朝で作られた史書は自分自身の利害による加削がありうるから、利害のない外国史書の記述の方が客観的で信用できる。

*通典概観
 ここに提示された方法論を否定する根拠として、なぜか、通典(邊防)が引き合いに出されます。しかし、素人目にも通典は史書ではなく、三國志や後漢書のように、正史として厳格な考証を踏まえたものではないのです。

 通典は、「類書」、いわば百科全書であり、提示されている邊防篇は、周辺諸蕃の経歴を「わかりやすさ」を旨とし、正確さは二の次にまとめています。

 論拠として提示する資料は、よくよく史料批判して提示しなければ、単なるこじつけと受け取られて、大変損をします。

*「倭」大観
 その証拠に、倭(國)に関する記述は、後漢代に交流が開始して以来の経緯が書かれていて、自称、他称国号にお構いなしに、全て「倭」記事として整形され、「倭」記事に書かれた国は、連綿と国体が継承されていると読めます。些末にはこだわっていられないという事でしょう。

 古田氏の「九州王朝説」は、この事情を捉えて、自説の基礎として唱えているように思います。これが川村氏の基調と筋があわないとしても、それは、それと受け入れるべきと思います。論破可能なのは、具体的な論議のみです。

 少なくとも、ここまで、古田氏の提唱した「九州王朝説」に「説」として不都合な点は特に無いようです。

 ただし、bのような雑ぱくな方法論であらゆる資料評価ができるのではなく、個々の事例毎に、労苦を厭わず精査しなければならないと思うのですが、この断片では、古田氏の深意が不明なので、ここまでに止めます。



                               未完

 

 

今日の躓き石「纏向遺跡の種 年代測定を巡って」揺らぐ毎日新聞古代史報道の良識  3/3

                         2018/05/28 追記 2019/01/29 2020/06/24
*考古学の課題
 素人考えながら、纏向遺跡というものの、このように多数の桃の種を埋蔵していた地中施設と附近の大型建物の関係を見定めることも必要かと思うのである。(追記あり)

*不吉な抱負
 因みに、中村教授の発言として引用されているが、「日本独自のデータが完成すれば、実年代も変わる可能性はある」と問題発言をされている。しかし、科学の不変の真理として、推定は推定である。理屈の上では、「可能性」は無限であるが、蓋然性の極めて低い「可能性」は、単なる雑念であり無視すべきである。

 別の較正曲線が書けたとしても、それはまた一つの別の推定であり、多大な批判、検討に浴するものであり、それによって妥当と認められたとしても、検討の俎上に上ることを許されるだけであって、「完成」などと呼べるはずがない。随分盛大な考え違いである。

 それとも、どこかから、完成目標を与えられて、「完成」するまでは研究成果として認めない、研究費をカットするぞ、と叱咤されているのだろうか。政治経済的な要因は、普通は、表面に出てこないのだが、考古学分野は、普通ではないのだろうか。

*ルール違反の使命
 仮に、較正曲線が、考古学会にとって好ましいように変更されて、それによって別の年代推定ができ、それにより「実年代」の推定値が変わるとしても、後世人の暗闘によって「実年代が変わるはずがない」のである。素人がとやかく言うのも僭越だが、このあたりは、まるで子供の口喧嘩の展開なのである。知性の復活を望むものである。

 時に言わざるを得ないのだが、当分野の学術的研究に投下された費用の由来は、国費や寄附のはずである
 真理の追究に注力せず、保身のために、科学的測定結果を『お化粧』するのに、血道を上げるのは、いかに多数の人員を擁した組織の維持のためとは言え、まことに、不適当なものと思えるのである。

 そして、全国紙が、客観報道の境地を外れて、「ルール違反」に加担しているのを見ると、嘆かわしいと見るものである。

*自然科学者の矜持
 その辺りの言葉遣いが不用意に断定的なのは、「結果至上の人文科学である考古学会の主観的考察の風土に由来する」ものだろうが、自然科学者の発言として、大変不穏当である。

 スポンサーの意を受けて、学会の総力を上げて補正曲線を好ましいところまでずらせば、実年代は当然スポンサーにとって「好ましい」方向にずれる、それは、関係者の努力と熱意次第である、これで終わったと思わず、精一杯頑張ります
と聞こえるのである。

*紙背読み取りの弁

 今回の記事は、総じて、冷静に書かれたものであるが、関係者の発言に、不穏なに響きがあるので、ほってはおけず、「不確かさの意義」に注意頂きたいとしたものである。

 もっとも、紙面からそのように感じ取れるということは、担当記者の真意が行間に隠されたものかも知れないが、科学の世界は、真理に奉仕するものである、と考え、行間どころが、紙背までほじくり出したのである。

                     以上

 追記 2019/01/29
 後日、NHKの纏向史跡の発掘現場取材番組で、桃種発見の様子が窺えたが、確かに地下の「ゴミ捨て場」から発掘されたというものの、広く散在していたようであり、三千個近い数の聖なる桃種を、たった一度の祭礼のために広く周辺の桃農園(?)から調達し、一気に地下に廃棄したとは考えにくいことに気づかされた。
 それにしても、桃栗三年というものの、果樹は、数が取れるまでに何年もかかるのであり、どのような政策で、数千に及ぶ桃を得られたのか、感嘆するしかないのである。別記事あり)

 銅鐸の廃棄遺物と同様に、同遺跡敷地の地鎮祭のおりに、旧態の祭礼を廃するために、しかるべき場所に収納されていた歴年の祭物を、まとめて除霊投棄したとも見えるのではないかと思量した。

 正しかるべき年代鑑定が、想定から大きく外れた、と見えるのは、そのような原因によるものかとも思われるので、ここに追記した。

 凡そ、善良な研究者たるもの、「七度探して他人を疑え」ではないか。

追記終わり

今日の躓き石「纏向遺跡の種 年代測定を巡って」揺らぐ毎日新聞古代史報道の良識 2/3

                              2018/05/28  補充2020/06/24

*不確かさの起源
 大気中の二酸化炭素ガスのC14含有率は、太陽光線に含まれる放射線が大気上層で大気成分を変化させることや火山噴火を含めて、地下から噴出する二酸化炭素ガスやメタンガスなどの炭化水素ガスのC14含有率の影響で、想定から変化するものである。

 ただし、記者が勢い任せで書き飛ばしているように「刻々」目立って変化するというものではない。ちと、錯乱しかけているようにも見えて、不審感に囚われる。記者は、何を懸念して焦っているのだろうか。

 大量の大気のことだから、C14含有率が変化するとしても、大変な時間がかかるのである。一番肝心なのは、測定対象となっている現地の古代の大気のC14含有率の実測データは存在しないのである。

*較正曲線の意義
 と言うことで、別の場所、別の時代の標本で得られたデータの推定手順を参考に、標本のあった場所の時間的な変化を推定し、桃の種が取り出された時点のデータを推定するしかないのである。

*不確かさの意義
 どのような測定データであろうと、一定の「測定誤差」、つまり、「不確かさ」は避けられないが、特に、C14年代測定の場合は、断定的に「測定」と言いつつ、実は推定の二段重ねなので、「不確かさ」は避けられないのである。

*不確かさ悪用の系譜
 これまでの考古学関係の研究成果では、C14年代測定の不確かさを逆手にとって、望ましい結果に向かって、適宜ずらして推定する手法が見られているとの批評が絶えず、この批評を克服できなかったことから、C14年代測定の信頼性を落としていた。

 今回の成果発表は、一転、科学的な信頼性の評価を高めたものである。

*人知を尽くす成果
 今回の測定、つまり、測定データと推定データの組み合わせで年代推定した中村名誉教授は、推定年代が絞り込めない事態を、「ご自身の能力不足、熱意不足の結果とみられるのを忌避してか、歯がゆいとしている」が、ご自身が十分理解しているように、自然科学に神がかりはないのである。測定データは、科学者の熱意に感じて変化するものではない。言い換えれば、測定データは人に騙されないのである。

*冷静な考古学者
 考古学者は、冒頭の方のように不遜なかたばかりでなく、冷静な発言が見られてほっとする。

 また、得られた最新の知見は、「資料批判」を重ねて検証した上で、長年にわたり多数の考古学者によって、広大な時代、地域に及ぶ遺跡、遺物の豊富な考察に基づいて蓄積された考古学の盤石の知見と組み合わせて、古代史の全体像を高めていくことを述べていて、期待するところ大である。(正直言って、何が「古代史の全体像 」なのか、なぜ。「全体像 」を高めることが尊いのか、無知な素人には、皆目わからない)

 素人考えながら、それが、学問の正道ではないだろうか。

                未完

今日の躓き石「纏向遺跡の種 年代測定を巡って」揺らぐ毎日新聞古代史報道の良識 1/3

                              2018/05/28  補充2020/06/24
 今回の題材は、毎日新聞夕刊、文化面のTopicsコラムである。
*勘違いの露呈
 それにしても、「100年の幅 いかに限定」とは、担当記者の大きな勘違いを衆目にさらけ出している。以下、どこが勘違いか、丁寧に指摘した。

*公表原則の乱れ
 因みに、「纒向学研究センターが14日に公表した放射性炭素(C14)年代測定の結果」とあるが、同センターのサイトに、そのような公表を行ったという記事は公開されていない。

 5-16のお知らせとして、研究紀要第6号が刊行物案内に記載されただけであり、5-28現在、5-16当時未公開だったPDFデータが公開されているというものの、平成30年3月10日付けの序文、3月30日付の奥付けを見る限り、5月14日に公開されたという裏付けは見つからない。どうやら、記者会見の場で各社に公開されたものでもなく、資料配付したものでもなく、特定の新聞社の担当記者に対して『発表』したようである。通常、報道機関向けの公式史料が「プレスレリース」として公開されるが、そのような公開史料は見当たらない。
 つまり、伝えられているのは、担当記者の所感であって、公式発表内容をどの程度正確に報道しているのか、読者には知りようがない。とても、学術分野の記事とは思えない。

 戸のような報道は、全国紙の記事として不正確ではないか。

*考古学者による酷評
 先ずは、本件に関して、考古学者から、持論の強化に役に立たない、つまらない科学的見解だと、酷評されている。つまり、費用の無駄遣いという趣旨のようである。

 しかし、考古学者に酷評されているとは言え、自然科学者が、物理現象を厳密に考察した結論であり、「自然科学は、考古学に隷従するものではない」と言う至極当然の真理を示したものであるから、担当記者にこの研究成果は高く評価すべきだという視点が欠けているのは、大人げないものである。

*自然科学者の使命
 自然科学者は、背後で責めつける外野の声に指図されているのではなく、目前の科学的事実に忠実であることが示されたのは、科学者全般にとって、大変好ましいものであったと考える。

 斯界の権威者から、「時期をもっと限定せねば意味がない」と専門分野の科学者としての生存を脅かされても、研究費のスポンサーの言いなりになってルールに外れた危険なブレーはしてはならないのである。いや、当然のことを言い立てて恐縮であるが、全国紙記者が、偏った視点で記事を書いているので、つい批判してしまったのである。

*乱調の紹介
 続いて、担当記者の意見らしいものが展開されるが、C14年代測定に関する手短な紹介は、「フェイク」では無いもののボロが目立つ。記者は、なぜこれほど幅が出たのかと、考古学者の非難口調に押されて、「不当に」詰問したのである。

*科学的紹介の試み
 関係者には衆知なので、念押しされていないのだろうが、C14は、二酸化炭素として大気中を浮遊している炭素に一定量含まれている放射性同位元素である。
 他の同位元素が永劫不滅なのに対して、C14は、5,730年を半減期として崩壊していくものであり、大変緩やかに窒素(N14)に変化して減少していくことは、不変の真理である。
 減少は、数学的な指数関数なので、秒単位どころか、1/1000秒単位で、小数点下、100桁でも1000桁でも正確に計算できる。ここには、一切不確かさはない。

*測定の不確かさ
 年代測定で初めて発生する不確かさは、標本の化学分析であるが、測定値自体は、ほとんど不確かさを考える必要のないほど細かく計算できる。
 不確かさが生まれるのは、標本毎の違い、標本内の場所による違いであり、限られた場所に密集していた状態から見て、大きな不確かさはないはずである。
                     未完

私の本棚 大庭脩 親魏倭王 6/6

 学生社 2001年9月 増訂初版           2018/05/26 補充再公開 2020/06/24

*会稽東治論
 続いて、会稽東冶論が登場する。

 この時点で、氏は、古田氏の論拠を見ていないと明言しているから、氏の推定私見も良いところなのだが、以下論じられている「会稽郡東冶県」論は、氏の認識不足のように思う。

 中国古典における地理概念としての「会稽」は、会稽山附近の狭い地域を指すものである。
 因みに、「水経注」などの郡名由来記事によれば、会稽郡は、禹の会稽の地、会稽山が「東治之山」と呼ばれていたのに因んで、秦始皇帝の宰相李斯によって命名されたと言う事である。秦漢代から魏、東晋までは、周知だった事情である。本来、倭人伝の会稽東治論は、それで決着するものである。

 行政区画の「会稽郡」は、漢時代、古典的地理概念の会稽の遙か南方の辺境地域まで含めたことがあるが、あくまで一次的な行政区画であり、史書の用語として定着したものではない。会稽郡南部は、会稽郡治との連絡が困難であったことから、事実上自立とされ、三国東呉時代に会稽郡から不可逆的に切り離され、会稽郡の県と呼べなくなっている。史官が史書にそのような不安定な概念を書き込むはずがない。

 古田武彦氏は、陳寿が、三国鼎立期の東呉の国内事情、特に行政区画の変動を逐一時代考証して、倭人伝をまとめたと見ているが、倭人伝読者が倭人伝を解釈する際に、三国志呉書を参照しないといけないような、不安定な地理概念を参照する記事を書いたとは思えないのである。まして、呉書は、魏書とは別の国志、別の巻物であり、倭人伝読者に呉書記事を確認させるのは、不遜ではないかと思われるのである。

 当然、会稽南部、東冶県の民は、遥か北の果ての禹の会稽を見たことも聞いたこともなく、夏后少康のことも知らないはずである。会稽郡治の住民は、東冶県の風俗など知らなかったと見えるのである。

 因みに、東冶、後の福州、厦門と会稽の間は、海岸に迫り出した巨大で険阻な福建山地で厳重に隔離されていて、官道どころか通商路も、陸上街道を利用できなかったのである。分郡するしかなかったのである。

 著者は、中国古代人と一口に言うが、古代人は、長安、ないしは、洛陽という中原世界の住人であり、その地理知識は、東冶、今日の厦門まで及んでいなかったのである。
 晋朝の南遷によって、東晋帝都建康からさほど遠隔でないことになったが、それは、あくまで、三国志魏書編纂時の百五十年後の異世界であり、洛陽人の世界観ではないのである。

*笵曄の地理観
 と言う事で、後漢書を書いた笵曄は、古典的な中原世界の人でなく、長江下流の建康に都した南朝劉宋の人である。

 行政官としての笵曄は、南方の東冶まで知っていたかも知れないが、劉宋当時、会稽郡に東冶地区は含まれず、後漢朝時代の史料解釈や魏志の解釈で、地理概念の時代錯誤が発生していた可能性はあると思うのである。

 この辺りは、氏の専門分野を外れているので、一種受け売りになって、正確さを欠く議論となっているのはもったいないのである。

*東アジア再訪
 巻末には、三~五世紀の「東アジア」として、時代ごとの地域勢力地図が書かれているが、地図に描かれているのは中国と東夷諸国である。 中国というが、地図は、今日中央アジアとしている地域を含んでいるから、「東アジア」とは、ずれているように思う。ベトナムは東南アジアと思う。良い言い方は無いものか。

*結語
 と言うことで、部分的に突っ込みは入ったが、全体として、とても好ましい知的体験を得られるのである。

*余談
 それにしても、古代史学の世界で、この時期までしきりに行われていた「良い意味での論争」が消え失せたのは、何とも残念である。特に、「邪馬臺国」論争が、「臺」派の「論争忌避」によって途絶しているのは、何とももったいないように思うのである。曹操に敗北宣言して、転進すべきでは無いかと思われる。
 「遠絶」とは、地理上の遠隔を言うのでなく、交流の断絶を言うのである。

 後生の東夷人が、自身を好んで遠絶の境地に置いて、倭人伝論の炎上を高みの見物している図は、感心しないのである。いや、勿論、これは、本書のことでもなければ、大庭氏のことでもない。「定説」と証して、俗耳に訴えている牢固たる論陣勢力を言うのである。

                                           完

私の本棚 大庭脩 親魏倭王 5/6

 学生社 2001年9月 増訂初版           2018/05/26 補充再公開 2020/06/24

*景初三年私見
 さて、続いて、著者が力説された「景初三年」が、実は、倭人伝に景初二年と書かれている大問題に挑んでいる。

 ここでは、著者自身の原則が最大の論敵のようである。

*順当に解釈した両郡回復
 著者は、文献を丁寧に読んで、韓伝の「景初中、明帝密かに....二郡を定めしむ」の「密かに」を適確に解釈し、東夷伝の「淵を殺す。又、....楽浪、帯方の郡を収め、....」の「又」を、安易に「その後」と解さないので、景初二年の事と解することができると適正に紹介する。

*遅れた/順当な下賜物発想
 著者は、景初二年説を採用しない理由として、皇帝の制詔は二年十二月に出たのに、皇帝のお土産が正始元年に届けられたのは一年後で一年遅れていることを挙げている。

 景初二年派は、それは、大量のお土産の品揃えが、前皇帝明帝の服喪によって、大きく手間取ったと見ている
 また、大量の土産を、送り届ける途中行程の輸送手段の段取りに時間がかかったと見ることもできる。何しろ、少なくとも、伊都国に到るまでの輸送手段、輸送人員の指示に対して各地から応答があって、手段が確立できたと報告が入るのを待ったようである。
 いや、別に文献記録はないが、帝国の運用として、当然の手順ではないかと思う。

 大庭氏の難詰は、別に決定的なものではないように思われる。

*改暦談義~余談
 続いて、景初三年元日に明帝が逝去したことに始まる景初から正始への移行について解説頂いているが、若干、論理が乱れている。正始改元は、景初三年正月を景初二年「後十二月」にした後で行われていて、景初二年が一ヵ月増えていると思う。

 二年が平年なら13ヵ月、閏年であれば14ヵ月の年となる。三年が一ヵ月増えたのではないと思う。いや、すでに三年の暦が各地に配布されていて、年中の改暦、改元は、当の時代人にとって、理解しがたかったように思う。
 政府記録などに旧暦年月と新暦年月が混在し、調整するのは、大変だったと思うのである。

 又、魏暦を引き写していたと思われる東呉、蜀漢の二カ国は、魏暦に追随するのに苦労したと思うのである。後世人の理解が困難(実質的に不可能)であることは言うまでもない。

 いずれにしろ、日本書記神功紀が引用したと解釈されている「明帝景初三年」は、正史記事にあり得ない無法な書き方であり、つまり、正しい引用がされていないのである。皇帝没後の期間は、皇帝諡号を冠としない無冠の期間なのである。景初三年の場合、一年を通じて、無冠なのである。いわゆる春秋の筆法でも、イロハのイであり、周知の原則であるから、知らない奴は、もぐりなのである。
                      未完

私の本棚 大庭脩 親魏倭王 4/6

 学生社 2001年9月 増訂初版           2018/05/26 補充再公開 2020/06/24

*蛮王の栄光
 さて、⒋で、著者は、景初三年六月記事から、倭人伝の調子が変わったと感じるとおっしゃる。お説の通りである。
 ここまでは、客観的な記録文書であるが、この後の部分は、魏朝皇帝の制詔を骨格とした史実に即した記事であるとしている。

 魏志の記事と対比して、卑弥呼は、蛮王として、国内の王より一段も数段も低い格落ちになっているとされていて、わざわざ「帯」に大書、特筆されているが、不当な扱いでなく、むしろ、秦漢魏三代の官制に即していて、順当な扱いと見るべきである。私見では、むしろ、弱小遠隔でありながら、いや、極限の遠東故に、立ち所に極度の厚遇を受けたと見るのである。

 漢では、王は皇帝の一族に限定された。建国当初任じられた異姓の王は、長沙王なる例外を除き全て誅殺された。その後も、漢制の王は、皇帝の縁戚だけが任じられる、極めて高貴な身分であった。

 建安年間の末期、漢朝の威光を天下に回復した曹操が、その無比の大功により、魏王に任じられたのは、その光明の頂点、つまり、死の直前であった。「王」とは、そのように、臣下を超絶した天子に通じる境地なのである。漢代、臣下の頂点は、通侯ないしは徹侯と称されたが、王は、その上に位置するのである。

 対して、蛮夷は、中国の文化を身につけていないものであるから、決して中国の一員になれないのである。

 蛮夷は、中国の文字を知らず、中国の言葉を知らず、よって、先哲の書を知らず、中国の暦に従わず、中国の衣服を身につけず、まして、女性を王としているからには、中国でなく蛮夷なのである。一段格下で、何が不都合なのか、理解に苦しむ。

 この辺り、著者の面目躍如の分野であり、諸王朝の法制史料を広範に照会しているので説得力の高いものである。まことに著者の真骨頂であるが、当方の口を挟むものではないので、書評はしない。

*倭人伝本文批判 再び
 以下、倭人伝記事について、普通、あてにならないとされる書記記事まで援用して議論を進められるが、帯方郡太守が皇帝に「使」を送るのはもってのほかであり、「吏」を送ったと解すべきである、と具体的な校正を行っている。

*丁寧な古田説批判
 さて、そこで、倭人伝に一度登場する「邪馬壹国」が、「邪馬臺国」の誤写であるとする俗説に断固反対する古田武彦氏の論考に対して、丁寧に考察を加えて私見を示されているのは、貴重である。

 著者は、俗説として世に蔓延っている、『現に史料に書かれている「邪馬壹国」を「邪馬臺国」に読み替えるべきだ』という無根拠で短絡的な議論には同意していないが、古田氏の後漢書に対する論考には、同意できない乱れを感じている。まことに、おっしゃるとおりであろう。

*古田氏の後漢書論
 古田氏は、現存史料はもっとも尊重されるべきだとの原則を保っているから、後漢書に「邪馬臺国」と書かれていることを、論考無しに否定することはできないのである。それが、手際が悪いと見える後漢書史料粗飯になっているのであるから、著者の意見は妥当なものと思える。

 つまり、古田氏の「「邪馬台国」はなかった」論が、倭人伝に「邪馬台国」はなかったとするにとどまっている最大の論敵は、古田氏自身なのである。

                      未完

私の本棚 大庭脩 親魏倭王 3/6

 学生社 2001年9月 増訂初版           2018/05/26 補充再公開 2020/06/24

*後漢「最後の皇帝」
 10年近い混乱を経て、後漢最後の復興期となる。と言っても、復興したのは、皇帝 が、僅かな側近と共に 悪党どもが徘徊し荒廃した西都長安から脱出し、東都洛陽に逃げ延びたものの支持者はなく、孤立、逼塞していた窮状を好機と捉えた英傑曹操が自陣営に迎え、皇帝の権威で乱世の統一を図ったためである。
 後漢の最後の光芒とも見える、特別な期間である建安年間があったが、中原世界天下統一の完成と共に、後漢皇帝(献帝)は、その役を終え、魏に政権を譲ったのである。

*帝国の終焉
 いろいろ、前後四百年にわたる栄光の漢帝国の終幕への批判はあるだろうが、最後の皇帝献帝自身、幼くして暴威の董卓に押し立てられて即位して以来、波瀾万丈の治世で皇帝として権力を行使したことはなく、曹操に救済されるまでは、浮浪者として逼塞していたのだから、曹操の後ろ盾のおかげとは言え、建安年間二十数年間にわたって、最後の漢帝として帝都の宮殿に君臨できたのは、望外の幸運であったはずである。

*公孫氏台頭
 それはさておき、遼東に勢力を確立した公孫氏は、後漢中央政府の無力化につけ込んで、そこから名目的な任命を受けたとは言え、いち早く、自立を図ったと言える。いわば、小皇帝であったと思える。

*長口説
 いや、結構この部分が長いし、語られる議題はそれだけではないが、根拠となる史料記事満載だし、素人に見解を押しつけるものではないので、大変参考になるのである。

*古代史泰斗の所感
 著者のやや自由な引用であるが、内藤湖南氏が、支那史学誌に書かれた言葉として、「三国志には、陳寿が執筆、編纂に際して参照した原資料が、削除、加筆されずに、原型のまま残されている箇所が多い」との趣旨で評されているとのことである。

 よく論説の道具として振り回される「多い」と言う言葉であるが、文脈で、5を言うのか100万を言うのか、読者に判断を強要するのである。それに加えて、人それぞれの大小、多少感覚も作用するから、感心しない言い草と言える。いや、この部分は、内藤湖南氏の用語なので、大庭氏の感覚とも違うと思うのである。

 結局、ここで湖南氏の言う「多い」が、どの程度のことを言うのかは不明であるが、おそらく大半の意ではなく、散見される程度と解釈しても、目に付きやすいとの意味であると思われる。

 著者は、皇帝が下した制詔の引用に、殊更「制詔」と書き出しが温存されているのは、その一例だとしている。つまり、制詔全体が、ほぼ原史料の引用だと見ているのである。

*暴言の伝承、蔓延
 冒頭の考古学者の暴論は、皇帝が鏡百枚と詔を下していても、実数は不足しているなどと、何の根拠もなしに主張していることになるのである。(そうであれば、大魏の天子たる皇帝は、恥知らずな嘘つきということになる

 自身の安直な仮説を補強するために、万事に勝る重大な史料を曲読(曰く、正解)するのは、史書は、全てウソを書いているとする一部古代史家の論法に通じるものがある。
                      未完

私の本棚 大庭脩 親魏倭王 2/6

 学生社 2001年9月 増訂初版           2018/05/26 補充再公開 2020/06/24

*倭人伝知らずの倭人伝批判
 どうも、著者は、三国志現存史料のうちで、南宋時代の紹興本と呼ばれる版を利用しているようだが、もう一つの有力な版である紹凞本では、わざわざ「倭人伝」と小見出しを置いて区分を示し、続いて、新たな部分として「倭人伝」記事を書いているので、魏書第三十巻に併合されているものの、この部分は、事実上、「倭人伝」なる書物として取り扱われていると見えるのである。

*なじまない東アジア
 続いて、著者の用語に不満なのは、多分、学会用語として通用しているものと思うのだが「東アジア」なる現代語が使用されていることである。他の古代史書でも見かけるから、学会基準かも知れないが、素人目には、異議が感じられる。

 「東アジア」というからには、古代に「アジア」全域の地理の知識があって、そのうち、一部分を「東アジア」と呼ぶという前提だと思うのだが、何も定義されずに登場するので、大変居心地が悪い。やはり、古代史論で、意味の明確でないカタカナ語は避けたいものである。

 実際、三世紀当時の東地中海、つまり、ギリシャの視点では、お膝元の地元がヨーロッパであり、エーゲ海を隔てた対岸、今日言う小アジアの地域が「アジア」だったから、中国東部と朝鮮半島を中心とした地域とは、何の関連もないのである。要は、良くある「時代錯誤」であり、丁寧に説明して使わなければ、一般人に「ウソ」を押しつけていることになると思うのである。

 と言うものの、著者が、当時の倭だけをとらえるのでなく、倭を中心として地域を包含して捉える視点は、大変貴重なものがある。特に、倭から西北に遼東に到る直線的な経路だけでなく、帯方郡、遼東郡と青州、山東半島との連携を見出して、渤海湾を囲む環渤海圏の「地中海」的交流を描くのは、大変ありがたい。

 つまり、著者は、広大な地域を示す「東アジア」と言うが、実際意義があるのは、環渤海圏+朝鮮半島、倭という、限定された世界であり、当時の人々にとっては、それが、辛うじて認識可能、到達可能な範囲と思うのである。当時の倭、韓、帯方世界が認識していない「東アジア」は、無用のように思う。

 いや、帝都の史官は、東西全ての地域を、地理志によって把握していたかも知れないが、ここでは、東夷諸國とそれを束ねていた楽浪/帯方の両郡など、倭人伝編纂に関わった人々の意識を言うのである。倭人伝は、倭人伝の元史料を書き留めた人々の世界観で書かれているのである。

*邪馬台国の国際関係
 現代感覚で「国際」なる小見出しを付けているが、実際、国としての構造を保っていたのは、せいぜい、後の魏・呉・蜀三国であり、遼東の公孫氏政権は、国と称したものの、国家としての体裁を成していなかったと思われる。
 東夷伝諸國、特に、細分化された「小国」は、単なる「蛮夷」の集落であり、言葉に基づく文化を「中国」と共有していないから、「国際関係」は持てなかったと見るのである。

 時代相応の言葉を選ぶと「漢蕃」関係である。蕃にしても、漢、つまり、中国の大帝国を、自分たちの同類と見たのは「夜郎」のようなお山の大将なのである。「邪馬台国」は、仲間内では、対象扱いされていたかも知れないが、漢を相手に背比べを挑むような意識はもなかったと見るべきではないか。

 倭人伝談義に後世用語を無批判につなぎ込むと、一般読者に誤解を押しつけることになると思うのである。

*諸国状勢

 以下、著者は、後漢末期から、三国時代の中国及び東夷の状勢を描いていて、貴重である。とかく、国内古代史論者は、後漢桓帝、霊帝の治世と無造作に言うが、両帝期は、いわば、後漢朝衰亡(衰退・滅亡)期であることを理解しているかどうか不明なのである。

                      未完

私の本棚 大庭脩 親魏倭王 1/6

 学生社 2001年9月 増訂初版           2018/05/26 補充再公開 2020/06/24

 私の見立て ★★★★☆ 豊かな見識を湛えた好著

 最初に見立てを入れるのは、以下、細かい異議を連ねていくのを非難と取られたら困るからである。

*暗愚な考古学者の文献曲読
 著者が本書を書くに到った動機は、ある古代史シンポジウムで、考古学関係者が「魏帝の詔に書かれている鏡百枚は多すぎる」と軽薄に論じたのに対して、「史書として書かれている倭人伝の皇帝の詔すら、自説の邪魔になるなら書き替えて読むという安直な暴論に対して、異を唱えねばならない」というもの(義憤というべきか)であったそうである。

*法制史の物差し
 著者は、中国法制史、つまり、各王朝の定めた法律とそれに従って運用されていた政府機構のあり方を研究するのであり、本書は、そうした専門家の目で、魏志倭人伝を読み解き、我々素人にも理解しやすい書物としたものである。

*学問の本分 大学の本分
 凡そ大学の使命は、学問の道を究めることにあると思うが、併せて、学問の道を究めた、いわば学究の成果を広く一般大衆に伝えることにあると思うのである。わざわざ言うのは、時として、忘れ去られているからである。私学といえども同じ、まして、憲法に違反しながら、国庫補助を受けているのだから、謙虚であって欲しいと思うのである。尊敬され、国費の支援を受けているのは、学問の道に邁進していると広く認められているからである。

 いや、の議論は、大学一般について論じているのであって、著者を非難しているのではないのは、言うまでもないと思う。

 その意味で、本書はまことに有意義な書物である。

*不揃いな錯覚
 冒頭、「卑弥呼と諸葛孔明」と題して、卑弥呼の時代が、三国志の蜀漢宰相諸葛孔明の時代に重なると説いている。国内古代史と中国史の関係が容易に浮かんでこないことを歎いている。おっしゃるとおりと思う。ただし、特に関係がないのだから、一般人の意識に上らないのは、むしろ当然である。

 ところが、続いて直ちに『同じような錯覚が「魏志倭人伝」にもある』と書き出されているのは感心しない。今書いたばかりの一般的な認識に照らして、乱暴な飛躍としかとれない。

 続いて、中国には「魏志倭人伝」という書物はない、と書かれているが、これが「錯覚」だと解すると、著者が自己否定していることになるので、おそらく、おっしゃりたいのは「魏志倭人伝」は国内の感覚であって、中国古代史と関係が成り立っていない錯覚である、と言うことだと思うが、錯覚を断じる論理が、混線して錯綜している上に不正確である。

 著者ほどの識見の持ち主にして、不用意な行文であり、また、不用意な断言である。どんな読者を想定しているのか、一瞬、見て取れなくなる。

                      未完

2020年6月23日 (火)

新・私の本棚 古田 武彦 「俾彌呼」 西域解釈への疑問 3/3

 ミネルヴァ日本評伝撰 ミネルヴァ書房 2011/9刊行          初出 2020/04/21 補充 2020/06/23

〇漢書安息記事
 「王治番兜城,去長安萬一千六百里」なる漢書の安息地理情報は、本来明解です。

 安息は、現地にいる漢使にとって、目前の番兜(ばんとう)城を治所とする「大国」であり、大月氏や烏弋山離のすぐ西の隣国となっています。ところが、それに続いて、安息は、方数千里の「超大国」であり、「国都」は西方数千里の彼方、とあるので、長安帝都の関係者は混乱したようです。この混乱は、順当に後続史書に受けつがれます。

史官の務め色々
 言いきってしまうと、誤解を招くかとも思うのですが、ここでは史官の務めを確認したいのです。史官は、手元の史書、資料に混乱があると見えても、勝手な解釈から小賢しい是正を加えてはならないということです。混乱していると見えても、是正せずに継承していれば、あるいは、後世、無理のない是正ができるかも知れないのです。棄てず作らずと言うことです。

 ただし、後世に史官の務めを知らない、小賢しい輩が現れて、気に入らない原史料を棄ててしまったら、後世にはその勝手な解釈による改竄結果しか残らないのです。
 ここで言うなら、西域記事に関しては、范曄後漢書の西域伝が、大々的な是正を加えているので、危うく歴史改竄がまかり通っていたのです。幸い、原史料が、裴松之によって魏書第三十巻に収録された「魏略西戎伝」に温存されているので、後漢書が何を消してしまったかわかるのです。

 とすると、後漢末(桓帝、霊帝、献帝)から魏(武帝、文帝、明帝)にかけての東夷伝記事で、范曄と陳寿のどちらを信じるべきか、はっきりしてくるように思います。

 いや、このような両史家の資質評価は、古田氏の持論とも一致するので、ここに書いても許されるように思った次第です。

*混乱解決の手掛かり
 この際の混乱の由来を整理すると、安息は、大王国の国名であると同時に、王国東端の小安息で漢使を応対した「長老」にしてみたら自国の 国名なのです。小安息は方千里程度なので、近隣諸国と比肩できます。

 このように認識すれば混乱は解消するのです。特に、漢使到着の時点は、大安息西方の大発展、イラン高原統一が完了した時点なので、まだまだ、安息と言えば、長年王国を維持してきた全天下の地理観、世界観が通用していたように見ます。

 と言うことで、漢使の安息到着以来、二千年を越えようかという條支比定の課題は、にわかには、 解決しないでしょう。

 それはさておき、條支は、安息から見て、国境~国境で数日程度の隣国です。

 後の魚豢「魏略西戎伝」に依れば、條支は、安息と大海カスピ海を挟んだ隣国で、大海(南部)を横断する皇帝と共に、南岸を経巡る訪問行程が描かれています。條支王都は、安息人が「海西」と通称するように大海の西岸ですが、そこから西に百余日河川遡行しても、西方の山地を越え、黒海なり、今日の小アジア(トルコ)に出る程度で、その認識は、今日のヨーロッパに届いていないのです。

 「條支」は、字面から言うと、分かれ道、川の支流ということのようですが、当時、東西の狭間で双方と通じていたアルメニア王国を指すようです。(これは、少数意見です)

 安息を等身大に解釈するだけで、大半の混乱は解消するのです。

*「西方」観の相違 余談
 漢人の西方は、西王母の住む仙境であって、こころのふるさとなのですが、安息人には、西は交易相手の隣国が在るというだけで、格別の感興はないのです。現世の思いとして、漢人に西方諸国を知られると、安息迂回の貿易路を開設されて巨利を失う危険があることから、とぼけ通したとも見えます。

*西の狼、東の虎 余談
 現実には、メソポタミアの向こうの地中海東岸には、強力な軍備のローマの大軍が駐屯していて、往年のアレキサンドロス大王ばりの侵略を企てていると見られるので、東方の大国と交通させるわけにはいかなかったのです。

 何しろ、漢は、東方オアシス国家を支配した北の匈奴の排斥戦略として、安息の仇敵大月氏と同盟を企てていて、敵に回さないで敬遠したかったはずです。

 と言うことで、安息国の長老、おそらくは、小安息の国王、ないしは、側近は、漢人の聞きたい幻想譚を示唆しただけに止めたのでしょう。

〇まとめ
 以下、率直に、本書に示された古田武彦氏の西域観の瑕瑾を指摘して、本記事を終わります。

 1.漢書西域伝から読み取った安息、條支の地理情報が誤解されています。
   そのために、漢書、後漢書の西域観を読み損ねています。

 2.東夷傳序文に示された陳寿の漢魏西域交流総括が軽視されています。
   それが、東夷伝解釈に反映していて、不満です。

〇謝辞
 以上の素人考えの背景は、主として、以下の諸書によるものです。

 白鳥庫吉 白鳥庫吉全集 岩波書店
  第六巻 西域史研究 上    第七巻 西域史研究 下

  史記に始まり唐書に至る正史西域伝に残された漢文明と西域との交流の歴史解明と欧州文書など大量の資料を基盤とした考察は、世界的先進かつ最高峰として高評価を受けていて、後世の素人に、大変貴重な労作の高峰です。

 塩野七生 ローマ人の物語
 東方のペルシャ帝国を打倒したアレキサンドロスの偉業を慕うローマにとって、「ヨーロッパによるアジア制覇」は国民的願望として、共和制末期を飾るポンペイウスのセレウコス帝国打倒、続く、クラッススによるバルティア遠征と破綻、皇帝ネロの和平構築、等の出来事が丁寧に紹介され、ローマ視点のパルティア観を明らかにしていて大変貴重です。

 東西超大国の狭間でしたたかに生き続けたアルメニア王国の姿は、ここ以外では、中々読めないものです。

 本記事筆者は、西域伝/西戎伝に現れる大国「條支」は、アルメニア王国に違いないと確信しています。

                                以上

新・私の本棚 古田 武彦 「俾彌呼」 西域解釈への疑問 2/3

 ミネルヴァ日本評伝撰 ミネルヴァ書房 2011/9刊行          初出 2020/04/10 補充 2020/06/23

〇安息の国パルティアにまつわる誤解
 古田氏が、安息国を「ペルシャ」と解しているのは誤解です。ペルシャは、太古以来、今日に至るまで、湾岸沿い高地の一地域です。当該地域の政権が興隆して、イラン高原全体を支配したのは、古代のアケメネス朝と後世のササン朝の二度に亘っていて、それぞれ東地中海に進出したこともあって、ギリシャ、ローマの史書に名を残していますが、安息国は、それとは別の地域から興隆した王国なのです。

 それはさておき、安息国、パルティアは、たしかに、西は、メソポタミアを包含して、広くイラン高原全域を支配し、後年「シルクロード」と呼ばれるようになった東西交易の要路を頑固に占拠し、交易の利益の大半を得ていたのです。
 其の国都「クテシフォン」は、大「王国」西端のメソポタミアにありましたが、漢使が五千里の彼方の国都に赴いたはずは無く、安息国内情報を取材したのは、全て、カスピ海東岸の安息の周辺だったのです。

 パルティアは、この地の小国(范曄後漢書の言う小安息)から起こって、イラン高原を西に展開し全土を支配しましたが、西の王都は当然、「安息」(パルティア)と称していたと共に、発祥の地である旧邦も引き続き「安息」(パルティア)としていたのです。
 東西両地域間には、北のメディア、南のペルシャの地域が介在しましたが、安息はね中央集権で圧政を敷いていたわけではないのです。

*小安国の世界観 余談
 漢使の取材に応じた安息の長老は、小国の代表者であり、その世界観は地域的なものだったのです。従って、ここで言う「西海」は、目前の「大海」、カスビ海であり、條支は、その西岸の大国、「海西」だったのですが、そこに到るのに、「大海」を百日航海するというのは、何らかの錯誤でしょう。西戎伝で見る限り、安息西境から條支国都まで、十日とかからなかったようです。

 古代史書に表れる「大海」は、今日想定されるような「海洋」などではなく、辺境に広がる塩水湖であったようです。少なくとも、後漢書、魏略西戎伝に至るまでの史書で、西の大海がカスピ海でなく、地中海、黒海、ペルシャ湾などを「大海」であったと論証するのは、大変困難と思われます。

*條支の西
 條支の先は、黒海か地中海ですが、安息長老は、旅行記を取り次いだ程度と思うのです。條支から西に行くには、「地中海」航路もあれば、アドリア海を渉る「渡船」もあり、また、その北の陸地を渉る陸上行程も知られていたようです。圏外になりますが、ギリシャ、ローマ側の記録は、結構豊富なのです。
 ともあれ。後漢朝の史官が史実の報告として史書に掲載したのは、大月氏までであり、条支以西は実見していないので風聞の採録に止まったのです。

*謝承後漢書考 余談
 謝承後漢書なる断片史書ですが、外夷伝を備えたと伝わっていて、その東夷伝が魏志東夷伝の原史料との主張が見られます。憶測の風聞が、現行刊本の信頼性を毀損するのは、無法なことです。亡失資料に関して確実なのは、謝承が後漢書公文書(漢文書)を閲覧できなかったことです。
 謝承は、後漢末から三国の呉人で、洛陽で史官の蜀に就いてないから、書庫に秘蔵の文書は閲覧不可能でした。できたのは、先行史料の引用だけです。

*魚豢魏略考 余談
 魏略を編纂した魚豢は、史官に準じる官職に合ったと見られる魏朝官人であり、漢文書を魏略に収録できたと見えます。魏略、特に西戎伝には、漢文書が豊富に引用されているので、魚豢が、漢文書を史書に取り込んだものと見えます。

 因みに、古来、史書執筆の際に先行資料を取り込むのは、史官の責務であったので、陳寿はじめ各編者は、魚豢魏略を、(断り無く)利用したものと見ます。裴松之も、魚豢魏略が史書として適確と知っていたから、西戎伝を丸ごと補追したのです。

 世の中には、范曄後漢書が、正体不明の先行史書を引用したと推定しているものがありますが、いかに、史官の責務に囚われない范曄にしても、それは無謀というものです。後漢書西域伝で、笵曄は、先行資料の筋の通った解釈ができない風聞は割愛したと述べているほどです。范曄なりの史料批判に怠りはなかったのです。

〇条支国行程
 古田氏は、條支に至る行程について、漢書西域伝の解釈を誤っています。

 漢書は、西域の果ての諸国の位置を書くのに、帝都長安からの距離に従い順次西漸しています。条支は、安息の東方にあったと思われる「烏弋」(うよく)山離から百日余の陸上行程で。安息は、烏弋と條支の間なので、安息~條支間は、陸上百日よりかなり短いはずです。

 いや、以上のような批判は、よほど西域事情について考察しないと判明しないのであり、洋の東西を問わず、ほぼ、全学会が、條支行程について誤解しているので、古田氏が世にはびこる誤解に染まったとしても、無理からぬ事です。

                                未完

新・私の本棚 古田 武彦 「俾彌呼」 西域解釈への疑問 1/3

 ミネルヴァ日本評伝撰 ミネルヴァ書房 2011/9刊行          初出 2020/04/10 補充 2020/06/23

 私の見立て ★★★★★ 豊穣の海、啓発の嶺

〇はじめに
 以下は、古代史における不朽の名著の裳裾の解れを言い立てているに過ぎません。多年に亘り広範な史料を渉猟し、雄大な構想のもとに展開された歴史観ですから、一介の素人は、その一部すら考証する力を有さず、たまたま、氏の学識の辺境に、思い違いを見つけて指摘するだけです。
 本記事は、単に、氏が陳寿の東夷観の由来と見た、漢書西域観の勘違いを言うものです。

 いうまでもないと思いますが、巨大な山塊に蟻の穴があっても、山塊の堅固さに何の影響も無いように、ここに挙げた「突っ込み」は、氏の名著の価値をいささかも減じるものではありません。

 「余談」としたのは、氏の見解に関係しない勝手な余談論議です。

〇漢書西域観
 後漢の史官班固が編纂した漢書は、西域伝を設けて、高祖から王莽に至る歴代の西域交渉を、国別に、いわば小伝を立て、主要国については、小伝内に年代記として描いています。漢書西域伝の書法は、陳寿のお手本であり、後世人も、大いに学ぶところがあるのは、言うまでもありません。

〇東夷伝序文考
 氏は、東夷伝序文を引用したあと、漢書西域伝の言として、安息国長老の言を漢書から引用しています。しかし、東夷傳序文に、魏代事績として再々奉献と列記された西域大国に安息の名はありません。ちぐはぐです。

 序文を少し戻ると、武帝が張騫を西域に派遣した結果、諸国との交通が開き、各国に百人規模の大使節団を派遣して、服属ないしは通交を求めたため、得られた各国情報が漢書に記されたとしています。よくよく考えると、漢書に魏代記事があるはずは無く、陳寿の知識がどこから来たものか、一瞬戸惑います。東夷伝を見ると、当時、後漢代史官記録は、いまだ公式集成されていなかったと見えます。そんな状況で、東夷伝序文の出典として注目されるのが、末尾の魏略西戎伝です。

 裴松之が補注に全文を採用したのでわかるように、魏略は公式史書に準ずる権威が認められ、陳寿も、序文を書くに際して参照したと見られるのです。

〇印綬下賜談義 余談
 通典収録の記録によると、漢朝は、反匈奴勢力拡大のためか、来朝使節の低位者にも印綬下賜したと言います。漢朝を再興した後漢朝が、小国にまで印綬下賜した可能性はあります。後継たる魏朝も闊達に下賜したようです。

 というものの、陳寿が東夷傳序文に挙げた魏代西域交流が事実なら、魏志特筆の月氏への黄金印下賜は場違いです。漢武帝時代以来欠かさず遣使していたお馴染みが、長年ご無沙汰(絶)としていた後、忽然と洛陽に顔を出したのなら、過度の厚遇は不要です。

 総合すると、実は、序文記事は、史官として苦心の粉飾で、桓・霊以来西域との音信不通、交通遮断の魏朝にとって、この来訪は干天慈雨だったのでしょうか。としても、さすがの陳寿も、この一件だけでは、魏志西域伝の書きようがなかったのでしょう。

*金か「金」か 余談
 多発されたのが、黄金の金印か青銅印か不明ですが、大半は、太古以来「金」と呼ばれていた青銅でしょう。皇帝付きの尚方工房は、大物も交えた精巧な青銅器を日々鋳造していたから、印面はともかく、四角四面の角棒に紐飾程度の作品は、茶飯事でしょう。材料は倉庫に山積みだったでしょうし。

 それはさておき、「陳寿は漢書を意識した」の段落には、これまで取り上げられなかった、魏略西戎伝の影響の再評価が必要です。何しろ、魏志夷蕃伝に対する裴松之付注、「裴注」の主力を成しているのですから。

                                未完

2020年6月19日 (金)

私の本棚 8 都出 比呂志 古代国家はいつ成立したか 改 5/5

 岩波新書 2011年8月   2014/05/23 分割再掲 2020/06/17

*考古学所見の前提不備 
 誤解されると困るので再説すると、本書の以下の部分で展開されている遺跡・遺物に関する知見は絶大なものがあります。

 たとえ、確かな知見に基づく考察の最終的な結論が正確なものであるとしても、そこに至る論説が不正確なものであり、その過程で、論旨のすり替えを弄したり、立証不十分なものを既定の事実のごとく論じたりしているのでは、学術的に価値の無いものと見ざるを得無いのです。

 古代史の「世の中」には、結論さえ良ければ、つまり、「結果」が出さえすれば、発端も途中経過もどうでも良いという風潮が漂っているようですが、都出氏は、学の人と思うので、敢えて苦言する次第です。

 当ブログ筆者の守備範囲はここまでとして、締めくくりにかかります。

◯総評~論証なき世界観の押しつけ
 著者ならぬ作者の提示した資料とそれに基づく学術的な分析を虚心に読み取ると、三世紀には、「地方権力」が分立していて、「西日本」を包括する「古代国家」は形成されていないのであり、「古代国家」は、早くて六世紀、おそらく七世紀後半に成立したと見るのが順当な見方と考えます。

*物には脚がある
 高価貴重な物は、遙か彼方の相手に進物として贈呈されることがあっても、往来に数ヵ月を要する遠隔地は、遠征征服が至難な別天地であり、そうした遠隔地を征服、従属させても、現地地図と戸籍を提出させ、それに基づいて年々公租を取り立て、時に、戸籍を根拠に派兵指示して従わせる「支配」の必須の要件は文書あってのことであり、それを文字の無い三世紀に実現するのは、更に困難(不可能)と言わざるを得ません。

 広域支配する古代国家が持続可能に成立するかどうか決するのは、その時代相応の社会基盤(インフラストラクチャー 「インフラ」)の整備状況であり、その視点から点検すると、「西日本」を支配する古代国家を三世紀に早々と実現するのは、不可能と見るのが順当な解釈と考えます。

 言い換えれば、インフラが完成するまでは、数世紀にわたり緩やかな交流が続いていたと見るべきでしょう。「物には脚がある」とは、近隣交易の「鎖」が繋がれば、遠隔地まで、いろんな物が自律的に移動するという意味です。

 作者の説く古代国家早期形成説は、遺物、遺跡解釈と遊離し、「邪馬台国」が畿内で西日本を統一支配したとする古代「ロマン」の世界に遊ぶものです。

 因みに、塩野七生氏によれば、「インフラストラクチャー」は、古代ローマ起源の概念なので、三世紀史論で時代錯誤ではないのです。

*火と水の試錬による検証
 そのようなロマンが健全な学説となるには、古代国家の骨格となるインフラの論証が必須でしょう。

 古代「ロマン」あふれる世界観は、第三者の追試によって原データの厳正さとそれに基づく論理の有効性の試錬なくして本物と言えず、それなくして、時代ずり上げ古代史観は成立不可能でしょう。

*「前提の乱調」整備の提案
 この無理な論説を取り除いても、氏の本来の論旨は揺るがないと見るので、ここに思い違いの数々をことさら無遠慮に指摘させていただいているのです。

*編集不備の指摘
 小生のような、一介の素人にぼろぼろと学術的な欠点を指摘されるようでは、本書の校正は手抜かりが多いと慨嘆を禁じ得ず、また、地方自治体が主催した「古代歴史文化賞大賞」の選考過程に疑問が感じられます。

 合わせて、厳正な論文審査がなされていないように危惧します。

 本書を古代浪漫として唱えるのであれば、歴史文化賞の対象でなく、フィクションとして評価すべきと思われます。

                                以上

私の本棚 8 都出 比呂志 古代国家はいつ成立したか 改 4/5

 岩波新書 2011年8月   2014/05/23 分割再掲 2020/06/17

*記事批判 承前
*「古墳時代」ずり上げの暴挙
 作者は、ここまでに現れたように、自説の展開に好都合なように諸資料を踏みならしているのではないかと不信感が募ります。「学術」を標榜するにしては、誠に、無責任な言い切りと言えます。伝奇小説、フィクションと呼ばざるを得ないのです。

 作者は、古墳時代に、「地方権力」の中でも近畿政権が勢力を増して、支配を広げていったといいますが、作者が吊り上げた古墳時代を真に受けると、邪馬台国時代に、すでに古墳形成が活発であると言うことになります。

 そんなに早く大規模古墳を作り始めたら時代が錯綜すると思うのですが、お構いなしです。いずれかの時代に起こったこととしても、それがいつであったかと証する確たる文献がない限り、考古学による年代比定は、常に推測/憶測となるはずです。

 果ては、継体時代に「日本」(?)が朝鮮半島に進出して古墳を形成したことになっています。これもまた、壮大な古代ロマン(妄想)と言わざるを得ません。作者には、心地良い成り行きでしょうが、それは、適確な裏付けがない限り歴史考証でなく、作者の夢想でしかないのです。「浪漫派」宣言なのでしょうか。

*史料誤引用
 84ページ 宋書倭国伝によるとして、「」書きで申し立ての趣旨を引用していますが、引用の諸所で、原文史料の簡潔な語句を潤色しているので、誤伝の類いではないかと懸念されます。

 宋書に収録された上表文には、この通りに書かれていないのです。引用手法のルール違反です。コピーペースト手違いでしょうか。

*誤記の踏襲
 ついでながら、ここで出てくる「宋」は、中国南北朝時代の南朝側の宋であり、劉氏が皇帝となったので「劉宋」と呼ばれます。
 南宋と呼ぶのは、後世の趙氏の宋と錯乱していて、明らかな間違いです。

 清張氏の「空白の世紀」にも、同一の誤記があるので、どちらかが引き写ししたのか、どこかに親亀がいるのか、興味を引かれます。コピーペーストの手違いでしょうか。

*史料誤解の山積
 以下の諸国形勢の書き方も、不正確な言い回しが多く、作者の(無)理解のほどが懸念されます。

 高句麗は、「朝鮮半島北端」の国などではなく、おそらく、西暦紀元前二世紀頃に現在の中国東北部に発生した国です。それが、二世紀頃になって、朝鮮半島北部にも勢力を伸ばしてきたものです。

 以上のような思い違いや恣意のこもった言いつくろいが多数見受けられるので、本書の学術的な著作としての主張に信を置くことができません。

*素人迷走の抑制策
 総合すると、作者は、文献批判の習慣がなく、また、相当中国史に(かなり)弱いようですが、それならそれで、自作を発表する前に、中国古代文献に造詣の深い、信頼できる専門家のチェックを受けるべきではなかったのでしょうか。そうした当然の手順を踏んでいれば、ここで、素人のアラ探しに身をさらすことはなかったのです。大変、勿体ないことです。

 あるいは、出版社編集部の校閲の範囲とも見えます、新書部門は、原稿校正しないのでしょうか。信用をなくすというと聞き心地が良いのですが、既に、新書は、一切信用はされていないのでしょうか。

                                未完

私の本棚 8 都出 比呂志 古代国家はいつ成立したか 改 3/5

 岩波新書 2011年8月   2014/05/23 分割再掲 2020/06/17

*記事批判 承前
 それ以外の点として、著者の史料解釈と言うか史眼には疑問を感じます。

 76ページ 魏晋政権移行の読み解きは不可解です。
 司馬懿が敵対勢力を一掃したのは、正始十年(249)であり、倭国景初遣使の十一年後です。
 倭人伝を含めた魏志をそのまま読むと、倭国の使者が着いたのは、(明帝)曹叡の末年であり、引き続いて養子となっていた曹芳が、司馬懿と曹爽の補佐下に即位し、司馬懿の簒奪は随分後になります。
 司馬懿が敵対勢力を打倒するのは、一旦、政権から身を引いて、老耄と見せた擬態の後です。何か、勘違いをして、このように書いたのでしょうか。受け売りするにしても、相談する相手を間違えたのでしょうか。

*時代考証の不具合
 続いて、三国時代の魏は、南の呉と東北の公孫氏に挟まれて危機にあったとしていますが、魏の現実の脅威は、西方で、魏を打倒して漢を再興しようと関中に侵略した蜀漢であり、これは、妥協を許されない大敵なのです。

 ついでは、蜀漢の進撃に乗じて、東方で江北への進出を図る呉ですが、呉は、江南での自立を狙っていて、魏を打倒することまでは目論んでいなかったので、ついぞ、国力を傾けて侵略してくることはなかったのです。何しろ、東呉の都合で心服してくるのですから、真剣に争うものではないのです。相談する相手を間違えたのでしょうか。

 東北の公孫氏は、これら三国に比べて断乎小者であり、遼東で自立を図る小政権に過ぎず、後漢の「郡」であったものが、魏に追従したものであり、公然と自立したのは、討伐を承ける直前の短期間のことです。これを魏の「宿敵」と呼ぶのは、誇大表現も甚だしいのです。
 公孫氏が、魏を打倒して中原を制する野望を持っていたとしたら、それこそ、身の程を知らない「夜郎自大」と言うべきものです。

 魏と公孫氏の国力の差を示すように、司馬懿は、蜀漢との闘争の合間に、呉の進出を恐れることなく、決然と大軍の討伐軍を率いて進撃し、速戦即決、と言っても、一年かかったのですが、それはそれとして、一方的に討ち滅ぼしてしまったのです。
 しは、中国史に疎かったとして、受け売りするにしても、相談する相手を間違えたのでしょうか。

 自作の展開に都合がいいからと言って、周辺諸国の情勢を手前味噌の解釈で煮染めていくのは、感心しない手法です。信用をなくす原因です。

*謎の公孫氏銅鏡
 80ページ 卑弥呼は三世紀初めに公孫氏から画文帯神獣鏡を入手し、近畿周辺首長に配布したとしますが、史料に基づかない空想(古代ロマン)です。そのような記録は、一切残っていないのです。

 確実なのは、近畿周辺の首長ないしはリーダーが、何らかの手段で画文帯神獣鏡を入手したということだけであり、入手の時期も入手先も、何もわからないと言うのが正確な見方です。あえて自説を打ち出すのであれば、推定の根拠と共に、推定であることを明記するものでしょう。

*日本最初の王
 82ページ 卑弥呼を「日本最初の王」と呼んでいますが、意味不明です。
 「卑弥呼」の時代「日本」は存在しないので意図的な時間錯誤です。
 魏志倭人傳には、卑弥呼以前は男王と明記されています。「男王」は「王」ではないのでしょうか。
 それ以前、倭に、王はいなかったのでしょうか。なぜ、そう思うのでしょうか。

 ここまでに、古代(三世紀のことか)における「日本」が何を指すのか明示されていないので、現代人の感じる「日本」と見ざるを得ないのですが、古代「日本」は、存在しないので、王などいるはずがないのです。
 また、作者自身が一度「西日本」と言い、次は、「日本」というのは迷走しています。

 要するに、素人考えで迷走して、読者の信用をなくしているだけです。それとも、受け売りするにしても、相談する相手を間違えたのでしょうか。
                              未完

私の本棚 8 都出 比呂志 古代国家はいつ成立したか 改 2/5

 岩波新書 2011年8月   2014/05/23 分割再掲 2020/06/17

*記事批判 承前
 42ページ 「卑弥呼が亡くなり葬られだ前方後円墳」と突然言い放っていますが、何か根拠はあるのでしょうか。
 前後しますが、
 66ページ 「卑弥呼の墓が前方後円墳になるのは当然の成り行き」と前提なしに無理な仮説が打ち出されている関連記事であり、このようなけったいな意見を、どんな顔で言うものなのかと、著者のお顔を拝見したくなりますが、もちろん、テレビ電話など頂きたいのではありません。

 62ページ 「大和は三世紀前半から政治の中心であったのは確か」と書かれていますが、このような根拠不明、趣旨不明確な(問題)発言をぽんと投げ出すのは、作者の癖(ダイハード)と見えます。関西の子供風に「どこがどう確かやねん。何もめーへんで」と言うところです。

 案ずるに「大和」は(大和の、あるいは畿内の)政治の中心だった、と言う意味でしょうか。「畿内」の定義を辿ると、政権の中心を取り巻く地域を畿内と呼ぶのであり、「畿内」の定義が堂々巡りしている感があります。

 好意的に「大和とそれに服従する地方権力の政治の中心」と読み解くとしたら自明の言い分でしかないので、この発言が何を物語っているのか、何を言いたいのか、皆目わかりません。

 論旨が不明で主張の声音の甲高さが耳に付くのは作者の特徴なのでしょう。

*やまと幻想の由来
 いや、三世紀の「大和」がどの程度の広がりを持ち、どこに存在していたかについて語らないのは、読者が勝手に、現在の地図上に広がる奈良県を想起することを期待しているのでしょうか。
 ちなみに、奈良県は南半分が山地であり、とても、三世紀時点、何かの政治の中心とは言えないのです。

 率直なところ、当時の「大和」政権は、実態としては、奈良盆地南端の大和三山付近の交通不便な山間僻地(まほろば)で、山並みに外敵から守られて、ひっそりと隠遁していたように思えるのです。現代で言う「中和」界隈です。
 その姿を臥竜と見る人もいるですが、多分に結果論の産物でしょう。数世紀にわたる長い「午睡」とも見えます。

 これもまた、現代の世相を、無造作に、誇大に、古代に投影して読者に勝手な心証を形成させる時間錯誤戦略の一例と言えます。

*里程素人への苦言
 以下、冒頭の古代ロマンから、突如、魏志倭人傳の里程表記の解釈談義にそれてしまいますが、言いかけた大理論を放棄して、里程を論ずる意義が不明です。まして、倭人伝の里程記事解釈は、所説混沌の闇鍋状態であり、考古学者の素人思案の介入すべき分野ではないと見ます。

 ともあれ、同時代唯一の文字資料「倭人伝」の順当な解釈によれば、「大和」は出る幕が無いというのが、学問としての大勢なのですが、隔離された世界で、三世紀前半と明記された時点で、大和が中心だったという同時代史料は。本当にあるのでしょうか。
                                未完

私の本棚 8 都出 比呂志 古代国家はいつ成立したか 改 1/5

 岩波新書 2011年8月   2014/05/23 分割再掲 2020/06/17

 私の見立て★☆☆☆☆ 文献史学は鬼門かな 以外★★★★☆

◯始めに
 天下の岩波新書であり、島根県主催の「古代歴史文化賞大賞」受賞作だけに、高度な著作との触れ込みで、重大な敬意を以て批評します。

 なお、当記事は、倭人伝という文献の解釈に関する異論/批判が主体で、氏の本領と思われる考古学分野で、遺跡、遺物という時代記録のない現物の考古学考察を文献解釈に連動させるよう糊塗していると論じているのみです。

 端的に言うと、本書タイトルは、考古学的論考に対して不適当なのです。

*劈頭脱輪~史料無視の独断
 本書は、大上段に振りかぶっていますが、出だしで大きく脱輪しています。

 魏志倭人傳には、邪馬台国も壱岐国も書かれてないのに、原史料を確認することなく、誤釈の可能性のある読み下し文や孫引き史料に依存して正史記事そのままと誤断し誤伝を広めているのは、学術的では無いと思います。

 本書は、その基盤となる部分の記述が学術書の物ではなく、伝奇小説の語り口と見えるので、以下、作者と呼ぶことにします。

*記事批判
 13ページ 「西日本が邪馬台国に統一された二世紀末」と言い切っていますが、何か根拠はあるのでしょうか。多分に古代ロマンのように思えます。

 16ページ 「都市は、生活の基盤を外部に依存する社会」と規定していますが、と言うことは、都市から郊外の「外部」との間の連携として、人の往来と食料搬入を支える「道路」とその上を走る車両や荷役する「駄馬」が「インフラ」(基盤)として必須なのは自明ですが、その点の考察は整っていないようです。もちろん、都市には水運も必須です。現実は厳しいのです。

*後世世界観の押しつけ
 現代読者から見ると、「畿内」、「東海」、「関東」の地域名が、遙か後世の命名であり「西日本」も、現代語感で解釈することになり、九州、四国、中国から近畿まで包含した広大な版図と勝手に受け止めて感動します。

 しかし、作者自身、筑紫以外の九州、四国、出雲以外の中国、畿内以外の近畿などについて語っていないので、「西日本」がどの範囲かは不明です。

*フィクション語りの手口
 と言うことは、作者としては、ご自身の主張はともかく、読者の勝手な理解に責任なしと言うのでしょう。これは、フィクション作者の語り口です。

 このような作者所感は、少なくとも、ここまで紹介したような、唯一の文献史料である魏志倭人傳の記述とかけ離れたものであり、それ以外のどのような史料で裏付けられたものなのか、怪訝に思うのです。

*浪漫派宣言
 他に、作者は、全体に、古代国家の萌芽形勢、権力闘争の側面を強調し、読み物的な叙述で、先進諸国の視点や後世の時点をずらしてあてはめながら、古代世界に古代ロマン満載の仮説を展開しています。

 このような書き方は、現代の読者には、自身の世界観と近い言葉で書かれているので、古代史絵解きとして滑らかなものがありますが、俗受けを脇に置いて、論理的に評価すると空白だらけ、隙だらけと言わざるを得ません。

 やはり、学説を打ち立てるためには、「ロマン」の自画自賛ではなく、確実な資料に基づく、堅実な論旨展開の道を辿るべきではないでしょうか。

                               未完

2020年6月18日 (木)

私の本棚 7 礪波 護 武田 幸男 隋唐帝国と古代朝鮮 改 3/3

中公文庫 世界の歴史 6 2008年3月 文庫版 2014/05/22 分割再掲 2020/06/17

*手軽な書き替え
 このように見ると、本書では、一連の事象を、現代の読者がするりと呑み下せるように滑らかに書き均しています。これは、よく見られる原文書き換えの手口です。魏志倭人伝全体が、このように滑らかに読み取れるとすれば、世上の議論は発生しなかったでしょう。まことにめでたいことです。

*さんざめくよそごと
 それ以外にも、著者は、諸処で余言を紛れ込ませて、さながら、ウグイス張りの廊下を歩く感じで、騒々しいことおびただしいのです。

*好太王嫌い~三韓視点の押しつけか
 例えば、346ページにご託宣があります。

 『とくにただ「好太王」というならば、それは内容のない美称だけの略称になってしまいます』

 「内容のない」と得々と説きますが、実は趣旨不明です。著者のような後世人の素人考えは求められていないのです。「好太王」は、自国の国土を拡大し国勢を高めた王と言い表していて、立派に「実質」のある美称です。後世局外者が、小賢しくしゃしゃり出る余地はないのです。

 何よりも「好太王」は「広開土王」と同一人物であることが自明です。してみると、著者は、この三文字略称が気に障るのですが、何かその過去に解きがたいトラウマ?でもあるのでしょうか。

 好意的に解釈すると「広開土王」と呼ぶ方が、字面に、領土拡大の業績が明示されているから好ましいと思いますが、そのために、世に広がっている簡明な「好太王」の通称を貶める必要はないと思います。

 とにかく、何でもないところで、何故著者が激高するのか不可解です。安手の韓流ドラマに「食あたり」したのでしょうか。

*韓流正史の怪
 続いて正史「三国史記」と書いていますが、いつから、「三国史記」は「正史」になったのでしょうか。まことに不可解です。

 「正史」は、中国の文化に基づいて書かれた中国の史書であり、蛮夷が一外国に過ぎない「自国」について書き記した史書を勝手に正史と称しても、「正史」と呼べないのです。これは「律令」も同様であり、蛮夷が「律令」、「正史」を策定するのは、万死に値する大罪なのです。

 筆者が、三韓に感情移入して、韓地天下の世界観を懐胎して主観が替わって、三国史記を正史と呼ぶなら、「中国」も「日本」も無学の野蛮人となりますが、筆者は、そのような主観遷移の表明を意図しているのでしょうか。

*私見の奔流
 以上のように、中国正史の権威と思えない筆者が、長年の学究生活を通じてその身にまとった揺るぎがたい世界観が、当歴史書物に無遠慮にせり出してくるのが、客観的で誠実な学術書を求める読者には場違いなのです。

 いや、つい、本論筆者の私見が前に出てしまいましたが、「私見を押しつけるのは偏向」と戦闘的な著者が書いているのを見て口が滑ったのです。

 当方は一私人であり、ここに何を書いて私見を押しつけようとしても、世間に一切定見として通用しないのですが、権威者が公刊物で私見を振り回すのは、押しつける意思はなくても、偏見の押しつけではないでしょうか。

                               以上

私の本棚 7 礪波 護 武田 幸男 隋唐帝国と古代朝鮮 改 2/3

中公文庫 世界の歴史 6 2008年3月 文庫版 2014/05/22 分割再掲 2020/06/17

*軽率な銅鏡論
 その後、出土品である景初三年銘の三角縁神獣鏡を、さらりとこの下賜銅鏡と結びつけていますが、根拠の無い当て推量であることは明らかです。

 皇帝代替わりでてんてこ舞いしているはずの「尚方」(官製工房)にとって、皇帝不在の「景初三年銘」、「新規意匠、空前の大型」銅鏡百枚新作に、景初三年に着手したとして、期限内に全量制作・出荷できたかどうか。

 新型銅鏡新作とあれば、鋳型の新作までの試作と工夫、大量の銅材料の手配、尚方の人材と労力の投入が必要です。青銅を溶かす「坩堝」や溶けた青銅の湯を坩堝から注いで、鋳型に注ぎ立てるの「柄杓」も、倍近い量をこなす大型化が必要です。銅鏡工房の大改造が必要です。

 加えて、銅鏡の長距離搬送に要する厳重な梱包木箱の制作と膨大な箱詰め梱包作業がともなう大事業です。小分けした手運びも必要なので、一枚ごとの箱詰めも必要です。大型鏡百枚新作に、大きな疑問を抱く理由です。

 詔書の百枚は誇張と逃げるわけにも行かないのです。それにつけても、根拠の確認されていない「定説」に安易に依拠するのは、重ね重ね軽率です。

*後年下賜の仮説
 さらに、著者は、243年の第三回の通交では、「お返し」の記録がないと嘆いています。ここに上げられた「通交」は、対等な相手(敵国)との交渉ではなく、またプレゼント交換の儀式でもないのです。また、下賜物は、献上物に対する「お返し」ではないのです。

 と言うものの、定例の来貢への下賜は当然であり、それ故、ことさら正史に記録されていないのです。記事がないのは無事のしるし。それが、正史読者の大人の分別というものです。むしろ、莫大な下賜物を要する万里の賓客は、二十年一度の来貢受け入れが精々であり、それ以上頻繁に来られると、さすがに、下賜物が莫大になるので、来貢拒否になりかねないのです。

*余言のとがめ
 このあたり、著者が、専門外分野で「素人」で、専門家の助言を仰がず、熟慮なしに、子供じみた所感を吐露しているのでしょうが、読者は学者先生の権威ある意見と見てしまうものです。余言の弊害は夥しいものがあります。

 とにかく、古代史に、現代の価値観、学説を塗りたくるのは、時間錯誤と言うべき場違いであり、小賢しい考察と言うべきでしょう。

*安直な価値判断への批判
 安直な素人判断は、現代人の俗耳に訴えるでしょうが、学術的な判断には、客観的考察を妨げる邪魔な雑音でしかないのです。物の価値判断は、時代、立場によって大きく異なるので、後世人の素人判断は、軽々しく高言すべきではないのです。いくら俗耳に訴えて賛辞を浴びても、それは、一時の虚妄であり、後世に恥をさらしかねないのです。

*虚空の現実主義者
 著者が、張政は軍事顧問との卓見ですが、なぜか「現実主義者」と評しています。張政は、外交官でなく軍官なので、その資質が表れているのでしょうか。非現実的浪漫派と暗に非難されているのは、誰でしょうか。

 それにしても、247年に来訪し248年に帰国した、2年に足りない滞在と推定していますが、これは、正史記録と異なるように思われるのです。

                               未完

私の本棚 7 礪波 護 武田 幸男 隋唐帝国と古代朝鮮 改 1/3

中公文庫 世界の歴史 6 2008年3月 文庫版 2014/05/22 分割再掲2020/06/17

 私の見立て★☆☆☆☆ 未熟な推測構成  以外★★★★☆

〇始めに 「古代朝鮮」論
 本書の主たる守備範囲は、「隋唐帝国」ですが、何故か、時代を遡った「古代朝鮮」が付随しているので、後半部が本論筆者の守備範囲に及んでいます。

*倭人伝考察
 第2部 朝鮮の古代から新羅、渤海へ 武田幸男
 「10高句麗と三韓 帯方郡と卑弥呼」に、魏志倭人伝に関する考察が展開されているので、ページをめくる手が止まるのです。

*景初三年皇帝拝謁仮説

 著者(武田氏)は、景初遣使が拝謁したものの下賜物は目録と解します。

 当然、景初三年一月一日に明帝が死亡したことは、ご承知ですから、年少の新帝曹芳が、喪中を顧みず接見したのでしょうか。どのような根拠で、「拝謁」、「接見」を得たと断定しているのか不可解です。

*安易な生口解釈追随
 生口は、捕虜ないしは奴隷と安易な「定説」追随が明らかとなっています。
 「鳥は宿る木を選ぶ」のですが、確かな木を選んだのでしょうか。

*的外れの出超評価
 景初遣使下賜物を魏側の出超と評していますが、物々交換の交易ではないので、時代錯誤、見当違いの低俗な評価です。

 献上物と下賜物の魏朝での時価を総合すれば、交易収支が推定できますが、ことは交易ではないのです。

 また、倭側としては、献上物の価値(コスト)評価には、危険を冒して遠路はるばる持参した運送費や使節の出張費といった膨大な「経費」を考慮するし、魏朝側としては、帝国の威光を遠隔地に広げるという「広告宣伝」が絶大であるのを考慮すれば、下賜物のコスト評価が変わってきます。

 こうして、単純な「物」の価値評価の埒外の評価が適用されるますが、それぞれ主観であり、どうしても正当、公平な価値評価とならないのです。

*拭いがたい時間錯誤
 後世の価値観を無思慮に古代に塗りつけるのは、時間錯誤であるし、ここで述べられた「出超」評価は、短評を試みたように、現代の合理的な経済原理を踏まえた評価でもないのです。何とも、子供じみた浅薄な放言であり、著作の価値を下げてしまうと言わざるを得ないのです。

*大盤振舞い
 それにつけても、魏朝下賜物は、その時ことさらに設えたのでなく、恐らく漢王朝以来の宮廷倉庫在庫品であり、後漢末期の長安遷都に伴う略奪を免れた貴重品としても、アウトレット(在庫処理)の大盤振舞いかと思います。

*万里の賓客
 とは言え、周代以来の制度として蛮夷受け入れ部門である鴻廬に示された規準では、万二千里の遠隔の新来蛮夷は、最大限の賓客厚遇を施すことになっているので、後世人には、到底理解できない処遇と見るのです。

 時の明帝曹叡は、漢代は勿論、祖父武帝曹操、実父文帝曹丕を越える絶大な偉業を示そうとしていたので、一段と厚遇されたものと見るのです。

 何にしても、詳細な内容と価値評価基準がわからない点からも、「出超」発言は軽率と言えるでしょう。

                                未完

 

私の本棚 6 上垣外 憲一 倭人と韓国人 改  3/3

 講談社学術文庫2003年 2014/05/21 分割再掲 2020/06/17

*あり得ない官費負担
 こうした画期的な遣使は、東夷が自発的に行うのでなく、中国側から半ば強制的に指示するものですが、中国側が、このような壮大な奴隷献上使節団派遣に要する食料、人件費、経費などを丸抱えしたとは思えないのです。

 百六十人の奴隷を伴った倭國使節の朝見で漢の威光は高まるでしょうが、洛陽までの巨額の旅費を丸ごと負担することなど論外でしょう。

*人員過剰~演出仮説
 宮廷には、数千人とも思われる、有り余るほどの終身雇用の「官奴」がいました。多少文字が読め、指図に従って雑用諸事をこなすので人手が足りないことはないのです。そこに、言葉の通じない、つまり、字が読めず、数を数えられない野蛮人が来ては、行儀作法の仕込めない「でくの坊」であり、ものの役に立たないお荷物です。

 それくらいなら、いっそのこと、官奴を選抜して東夷の扮装をさせ、献上儀式を演出すれば、皇帝の威光は確実に高まるのです。

 本紀の倭国使節来朝は史実でしょうが、倭伝記事は、このような演出による賑々しい儀式とすれば、誠に合理的な計らいと言うことになります。

 本論筆者は、物々しいばかりで実態の疑わしい「陰謀」論に荷担しないのですが、長々しい論考の果ての「演出」は、双方に手軽で、得られる効果が大きいので、十分ありえたものと考えます。百六十人の奴隷を倭国から洛陽まで連行、献上するという壮大な画餅に比べれば、妥当な推定と思うのです。

 どちらの判断が成立するか決定する根拠は存在しないから、奴隷貿易説の持論を廃し、作業仮説、私見として控えめに扱うのが学術的対応と思います。

*安直、公序良俗に反する摘発
 中国正史の記載とはいえ、後漢書の片々たる記載を論説の基底まで膨張させ、安直に、学説の形を借りて空想を紡いでいるように思います。

 いや、国内史学の視点から一介の「外国史料」に過ぎない後漢書倭伝を史料批判すれば、范曄による創作記事の疑いが否定しがたいと思うのです。

 後世の視点から人道に対する重罪を告発された当時の治世者には、告発に反論して自らを弁護する事が出来ないから、かかる告発糾弾は慎重にすべきです。まして、倭人傳諸国の中で、壱岐・対馬はほぼ確実に比定されていて、著者は、物証の提示なしに先入観に促されただけの状態で、壱岐・対馬の行った商行為は(非道な)人身売買と断定しています。

*勝手極まる独善
 著者は、本件に関して、自らを検察官兼裁判官なる法と秩序の執行者に擬して、このような重大な摘発と断罪を行っています。

 今日の法制度でも、私人による断罪は犯罪行為です。仮に、所定の司法機関に告発したとしても、客観的な裁定が有罪と決まるまでは、容疑者はあくまで推定無罪の境地に置かれるべきです。

 本書は、公序良俗に反する暴論で、無実の良民を断罪しています。

◯不当な断罪
 著者の両島断罪は、偏見と妄想に基づく不法な糾弾であり有罪です。

 後世に生きるものは、先入観で過去の人々を告発、裁断するのでなく、弁護の声にも耳を傾け、告発の妥当性を徹底的に検証すべきです。

 現代の著者にとって、古代史書の記事は、地の果ての土煙ほどのめざましさもないでしょうが、一人一人の古代人は一人の人間なのです。

                                以上

私の本棚 6 上垣外 憲一 倭人と韓国人 改  2/3

 講談社学術文庫2003年 2014/05/21 分割再掲 2020/06/17

*後漢書批判
 さて、倭伝の史料批判としては、倭国が大量の奴隷を、波濤と山嶮を越え、長期の旅程を経て、遠く洛陽まで送り届けたという記事解釈です。

*無謀な連行
 倭「奴隷」は、二度と帰れない異境に送り込まれると理解して、屠所に向かう羊のごとく従順に従うとは思えないので、逃亡、反抗を防ぐために兵士を同行させねばなりません。いくら反抗を恐れても、奴隷百六十人は八千キログラムに達する重量貨物で嵩高いのもあって、檻に入れていくことも出来ず、自分の足で歩かすしかないでしょう。

 手かせ、足かせで厳重に拘束してはまともに歩けないので、軽微な拘束しかできないと思われます。そうした状況で百六十人を長期に拘束するのは、難事業です。(普通の言葉で言うと、絶対不可能です)

 玉石、真珠類、貴重な鉱物、金属類や衣類を持ち運ぶのとは、比較ならない、とんでもない超難事業です。

*無理な使節団派遣
 著者も、百五十人の倭国使節団を想定しています。献上品である「奴隷」と合わせると三百十人に達する大集団です。

 海峡越えは三十人/一艘として延べ十艘が必要です。船の不足や天候待ちのことも考えると、海峡越えに一ヵ月近くかかりそうです。

*無謀な経費管理
 全行程のとば口である海峡越えも、経済活動の未発達なこの時代、どのようにして経費を捻出したのか心配です。総勢三百十人の行程中、食料現地調達として、貨幣経済なら漢銭持参で済むのでしょうか。

 とにかく、奴隷を生かして届けるためには、百六十人分の食料を日々支給しなければならないので、奴隷の食料に貴重な対価を払い続けるのです。
 このように、奴隷献上には、絶望的なほど膨大な「経費」が必要です。経費に、漢銭のような貨幣を充当するか、何か「財物」を充当するか、とにかく、「倭国国家予算の数年分」に達するかという巨額に及ぶと想定されます。

*国庫を虚にする大事業
 この時代の倭国は、発展途上の農業立国と思われますが、以上のような思考を適用すると、奴隷献上の遣使を自腹で行えば、数年の収穫備蓄を越えた大量の農水鉱産物と貴重な人材を投入することになり、これまた貴重なはずの百六十人の「奴隷」労力の喪失と併せて、国力が大きく消耗し、深刻な飢餓と疲弊で壊滅するのではないかと思われます。

 それでも、「どんな困難なことも成せばなる」と思うのでしょうか。この病には、付ける薬がないのでしょうか。

*中国の奴隷伝統
 因みに、太古以来、諸国抗争時の中原では、敗戦兵士が奴隷とされても、世間相場の対価を払えば自由の身になれたのです。時に、奴隷暮らしの中で蓄えを作って、あるいは、顔や見知りの基金を募って、自分を買い戻す例もあったのです。各国は、地続きですし、千里の彼方から連れてこられたのでもないので、根性で歩いて帰れば良いのですから、絶海の島国に帰るのとは大違いです。因みに、後世、奴隷の身分から自由を回復して「倭」に帰国した例があるのです。

 戦時奴隷以外に、奴隷階層があり、市場で契約書付きで売買されましたが、大抵、何かの理由で資産と自由を喪失しても、家事手伝いなどに用務が限定されていて、別に非人道的な扱い、虐待を受けていたとは限らないのです。一種の雇用契約とみても良いような成り行きだったようです。

                                未完

 

私の本棚 6 上垣外 憲一 倭人と韓国人 改  1/3

 講談社学術文庫2003年 2014/05/21 分割再掲 2020/06/17
 私の見立て☆☆☆☆☆ 滅ぼされるべき妄説   以外★★★☆☆

◯はじめに
 本書は、タイトルが示唆しているように、倭人伝時代が描かれていて、大変参考になる良書で、全体に堅実な論議が提示されていて、特に異論はないのですが、遺憾ながら、「生口」論は、史料の恣意に満ちた解釈で勝手放題の風評を醸しているので、断然異議を唱えるものです。

 本論筆者は、「生口」について先人諸賢の意見を徴していますが、この著者は、最初から、生口則ち奴隷と決めつけていて参考にならないのです。

 それに加えて、生口を献じた理由として、当時の交易の主力を為すものであったから、倭國が後漢に献上したのだとしています。正当な疑問は、何を根拠として、そうした仮説を言い立てるのかと言うことです。私見では、学術的な検証無しに、先入観によって決め込んでいるように思えるのです。

 以下、本論筆者の乏しい見識を総動員して、倭国の「奴隷」献上が、実現可能な「難事業」であったか、それとも、実現不可能な「不可能事業」であったか、吟味を試み、諸賢の批判を仰ぐものです。

▄鉄青銅論
 と言うことで、本書21ページの小見出し「鉄の道、青銅の道」に始まる議論に承服しがたいものを感じます。

*夢想の輸出統計
 ここで、著者は、「日本側の最大の輸出品目は、残念ながら奴隷であったとしか考えようがないのです」物知りぶって断じています。何が残念なのでしょうか。一度、鏡を眺めてほしいものです。こんな妄想を書き立てた「残念な」やつの顔が見たいと。

 著者は、当時の貿易統計でもお持ちのようですが、できれば、輸出品目上位五位まで開示いただければ幸いです。言うまでもなく、開示できなければ根拠なき言いがかりによる冤罪、誣告の大罪と言わざるを得ません。

 ダメ押しですが、冤罪を言い立てるのは、それ自体犯罪です。困った虚言癖です。

*安直な後漢書解読
 その根拠として、まずは、後漢書倭伝「安帝永初元年、倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見」を上げていますが、妥当な根拠と思えないのです。

 この記事は、西暦一世紀の時代、倭は、すでにこれだけの生口を引き連れた使節団を派遣できる航海力を保持していたという仮説が著者の学説の基底を成すものですが、史料批判された形跡がありません。

*倭人伝解読の錯誤
 続いて、魏志倭人伝の生口記事です。壹与の貢献は、「獻上男女生口三十人、貢白珠五千、孔青大句珠二枚、異文雜錦二十匹」と書かれています。

 著者は、賢そうに、生口三十人が重要で、他の貢物は添え物と独断していますが、そのような相対評価の根拠史料は、一切示されていません。

 著者は、史料に依拠して順当な仮説を提示しているつもりでしょうが、素人目には、無根拠の虚言の羅列と見えます。

*不可解な鉄通貨論
 「奴隷輸出」は、弁辰産鉄の輸入対価と想定しているようですが、鉄は通貨(銭)のように通貨扱いされたのであり、通貨買い付けの対価にはあり得ないと知るべきです。例えば、食料や食塩と交換されたと思われるのです。

 採掘は、帯方郡による官営事業であり、街道陸送の維持に努めたものと思われるのです。でなければ、弁辰の財力が韓地の天下を取っていたはずです。

 ここでも、史料批判のない、憶測が一人歩きしています。

 何事も、後世「素人」感覚で割り切るべきではないように思うのです。

                                  未完

私の本棚 33 笛木 亮三 「卑彌呼は殺されたか!」改 2/2

~卑弥呼以死考~ 季刊「邪馬台国」第125号 2015年4月 梓書院

*ユニコードの功績
 合わせて言うと、Microsoft社の英断(各国文化の個性を破壊すると非難されたが)で、全世界の文字データが共通のユニコードとなり楽々中国文献の検索ができ、Microsoft社の功績は絶大です。ここに謝辞を表しておきます。
 公開データを全文検索して用例列挙するのは素人も追試できフェアです。

*先人功績の称揚
 「邪馬臺国」「邪馬壹国」論争時に、三國志全文を手作業検索した話が、匿名の風評譚となっていて怪訝に感じるのです。手作業検索を評価するなら実名顕彰すべきです。と言う事で、曲がりくねった言い回しは残念です。

 また、当の昔に博物館入りしていたはずの「レジェンド」記事が多く、笛木氏の責任ではないのですが、延々と引用紹介と解読を強いられる「論争」のあり方が、折角の労作に苦言を呈する原因となっていて、もったいない限りです。

◯書評本論~私見御免
 用例検索の必要性は理解しますが、文献解釈として本末転倒と思います。
 記事筆者は、「以死」と書くとき汗牛充棟の古典用例でなく、普通の教養で書いたはずです。文脈から解釈困難となったとき古典を参照すればよいのです。これは、ほぼ笛木氏の趣旨でもありますが、敢えて書き立てます。
 卑弥呼は、不徳の君主でなく敗将でもなく、天寿と見るのです。没後に大いに冢(封土)を造営したころからもそう感じるのです。

▄補足 (2020/06/18)
 初回掲示の際、参照史料を書き漏らした不行き届きを、ここに是正します。
⑴阿倍秀雄「卑弥呼と倭王」(1971講談社) 
⑵生田滋  「東南アジア史的日本古代史」(1975大和書房) 
⑶松本清張 「清張通史 1 邪馬台国」(1976講談社) 
⑷樋口清之「女王卑弥呼99の謎」(1977産報ジャーナル・新書) 
⑸栗原朋信「魏志倭人伝にみえる邪馬台国をめぐる国際間の一面」(1964史学会) 
⑹上田正昭「倭国の世界」(1976講談社現代新書) 
⑦大林太良「邪馬台国」(1977中公新書) 
⑧三木太郎「魏志倭人伝の世界」(1979吉川弘文館) 
⑨福本正夫「巫女王・卑弥呼をめぐる諸問題」(1981大和書房) 
⑽奥野正男「「告諭」・「以死」・「百余歩」」(1981梓書院) 
⑾白崎昭一郎「卑弥呼は殺されたか」(1981梓書院) 
⑿三木太郎「倭人伝の用語の研究」(1984多賀出版) 
⒀張明澄 「一中国人の見た邪馬台国論争」(1983梓書院) 
⒁謝銘仁 「邪馬台国 中国人はこう読む」(1981立風書房) 
⒂徐堯輝 「女王卑彌呼と躬臣の人びと」(1987そしえて) 
⒃沈仁安 「倭国と東アジア」(1990六興出版) 
⒄水野祐 「評釈 魏志倭人伝」(1987雄山閣出版) 
⒅岡本健一「発掘の迷路を行く 下」(1991毎日新聞社) 
⒆井沢元彦「逆説の日本史 古代黎明編」(1993小学館) 
⒇生野真好「「倭人伝」を読む」(1999海鳥社) 
㉑藤田友治「三角縁神獣鏡」(1999ミネルヴァ書房) 
㉒佐伯有清「魏志倭人伝を読む (下)」(2000吉川弘文館) 
㉓井上筑前「邪馬台国大研究」(2000梓書院) 
㉔武光誠 「真説 日本古代史」(2013PHP研究所)
㉕岡本健一「蓬莱山と扶桑樹」(2008思文閣出版)
                             以上

私の本棚 33 笛木 亮三 「卑彌呼は殺されたか!」改 1/2

~卑弥呼以死考~ 季刊「邪馬台国」第125号 2015年4月 梓書院
 私の見立て★★★★★ 力作にして必読 2016/03/06 分割再掲 2020/06/18

◯総評
 当記事は、魏志倭人傳に於ける「卑彌呼以死」の解釈に関する論考です。
 先行する諸論考を「軒並み」採り上げて論評している本体議論に関する意見は置くとして、笛木氏が諸説について考察を加えた後、ぽろりと感慨を漏らされている点に大いに不満を感じるのです。

*世間知らずの了見違い
 第8章岡本説の検証と私見 115ページ上段です。
 『今、「三国志」にある「以死」のすべてが簡単にパソコンで検索できるらしいのです』とよそごとのように述べていますが、ちょっと意外でした。

 この場で論説を発表するほどの識者が、ご自身で、論拠として用例検索していないし、しようともしなかったと見えるからです。続いて、「コンピューターは大したものです」と感心しますが大きな了見違いです。

*えらいのは誰か
 コンピューター(PC)がえらいのではなく、PCなどの「端末」を介して、ネットから世界中のどこかに貯蔵されているデータを確認できるのがえらいのです。更に言うなら、そういう仕掛けを作った人、従来秘蔵されていたデータを世界のどこかに貯蔵した人がえらいのです。
 平たくいうと、「ネット」の効用であってPCの効用ではないのです。大型コンピューターの所蔵データを端末機から閲覧した時代は去り、自宅のPCで、三国志を全文検索して、用例を全文検索できるのです。

*PCすら不要の世界
 これには、特に有償販売されているアプリケーションを購入する必要はなく、自宅のPCに導入されているWindowsに作り付けのインターネットエクスプローラーや無償で利用できるFirefox, Google Chromeなどのブラウザーを使用して、そうしたデータの貯蔵されているサイトにアクセスし、サイト作り付けの仕掛けを利用して検索を依頼するだけで、検索例を全部列挙させられる時代になりました。ご自宅のPCは、別にえらくないのです。使用する「機械」がMacであっても、Androidスマホであっても、大差ないのです。

*頼れる友人が肝心
 大事なのは、PCを買ってくるのではなく、だれか初心者に対して丁寧に教えてくれる人を持つことです。困ったときに手を貸してくれる友人が本当の友人である、と言うことではないでしょうか。こうしてテキスト全文検索が広く普及したのは、三国志で言えば、刊本を自由に利用できるテキストデータとして公開している団体、ないしは、個人がいるからです。

 三国志を出版している出版社は、当然、使用した全テキストデータを保有していますが、かなりの人・物・金を投じて構築したデータベースで、出版社の知的財産(著作物)であり、簡単に無償公開はしてもらえないものです。

*公開データの効用
 と言うことで、WikiSourceや中国古典哲学書電子化計劃などの公開データですが、すべてボランティアが入力したものであり、時として誤読はありますが、膨大なデータ量を思えば仕方ないところです。

*見知らぬ友人
 面識も交信もなくてもこうした努力を積み重ねた人たちは本当の友人です。

                                未完

私の本棚 32 上田 正昭 日本古代国家成立史の研究 再掲

 青木書店刊 1959-1971
 
  私の見立て★★★★★ 必読  2015/10/10 再掲 2020/06/18

◯名著再見
 本書(当ブログ記事筆者の近年の購入書籍)は、かねてより斯界の泰斗である著者の比較的初期(略半世紀以前)の論考ですが、ここに引用するのは、「魏志」(刊本)と「魏略」(逸文)の間の記事の異同を精査した上での、まことに味わい深い言葉です。

 ところで、逸文にみえる箇所についてさえ、これだけの異同があるのだからというので、人によっては、そのことによってただちに、「魏志倭人傅」の歴史性を疑う人があるかも知れない。けれどもこれはやはり尚早である。

 なぜなら「古事記」を作為の書としてすべてを否定的にあつかうことが誤りであるのと同様に、あるいはそれ以上に、こうした立場は、「魏志」の限界を不当に拡大した見地に他ならぬからである。

 むしろこの「魏略」と「魏志」」のずれが、「魏志」編者の立揚と解釈を素直に表明する揚合が多いからである。「魏志」を絶対視してふりまわしたり、逆に過少にみつもったりするまえに、われわれとしては「魏志」そのものについて、編者の考えにそくして本文をありのままに読んでゆくことが肝要であると考える一人である。

 そのことが、むしろかってな修正を字句に加えてゆく分析よりも合理的であり、邪馬台国問題解決への近道ではなかろうか。

*実らなかった提言
 折角の貴重な提言でしたが、今日まで半世紀以上の間、「魏志倭人傅」(倭人伝)に関して、「編者の考えにそくして倭人伝本文をありのままに読んでゆく」という提言に沿って、学術的に堅実な分析が行われた例は希少です。

 日本古代史の論議は、堅実で合理的な正論が疎んじられ、性急な断定がはびこる世界となっているのです。

*近著での提言
 著者の近著では、「文献の細部を詮索することに精力を浪費するのではなく、歴史の流れを読み取る努力が大事だ」との趣旨の提言がされているように見えます。斯界の泰斗にして、そのような諦観に近い意見を吐露されると言うことは、斯界の頑迷さの罪深さを知らされる思いです。
 これに対して、素人の異論を付け足すのは、素人の特権として、不遜とのそしりを覚悟の上で言わせていただくものです。

 「文献の細部」が少ない字数で書かれているにしろ、時として「文献の細部」の読み過ごしによって、大局の議論が迷走することは少なくないのです。「大局は細部に宿る」と手前味噌の箴言を気取りたいところです。

*閉ざされた道
 衆知のように、上記提言に従った論考の好例として、古田武彦氏の諸著作が刊行されていますが、そうした学究の姿勢に対して、関係学界からの反応は細かい揚げ足取りにとどまっていて、誰でも歩ける「邪馬台国問題解決への近道」は閉ざされているようです。

                                以上

2020年6月11日 (木)

今日の躓き石 毎日新聞野球記事の誤報 リモート「同級生」記事のふがいなさ

                                2020/06/11

 本日の題材は、毎日新聞大阪朝刊第14版のスポーツ面である。ひっそり続いている「無観衆」練習試合の記事なので、スタンド観戦していない記者は、ネタに窮しているのかも知れない。

 やり玉に挙げられているのは、もはや新人ではない、「若手」プロ野球選手の報道である。と言っても、別に大したことではない。偶々、本塁打が重なったと言うだけである。それを「3年目同級生」と見出しにするのは、実戦を長く見ていない記者の感覚がなまっているとしか思えない。
 「同級生」とは、大誤報である。一人は、早稲田実業、一人は、九州学院だから、同じ教室で勉強したこともなければ、同じチームでもなかったのである。全国紙がつまらない誤用に加担してどうするのか、ということである。

 プロ入りして3年目にもなって、高校時代の姿を引き合いに出される二人も迷惑であろう。担当記者は監督の戯れ言につられているようだが、それは、こども言葉に流されている姿であって、全国紙記者として大変残念な姿である。

 ついでながら、日ハム監督のコメントは、何とも珍妙である。ヤクルトの三年目は、既に二シーズン39本の実績を持っていて、今季は開幕四番かと取り沙汰されてるほど堂々たる実力を示しているが、監督の言う選手は、10本すらほど遠い。
 3年目を迎えて、新人を脱していないといけないのに、同期の先行者から半周から一周離されていて、誰が見ても不甲斐ない姿だから、「尻に火」どころか、全身火だるま状態のはずである。よほど、気迫に欠けるとみられているのだろう。これは、監督のぼやきなのかも知れない。

 このあたり、監督のつまらない冗談をそのまま報道しているのは、記者の感覚がなまっているのであろうか。厳しく言うと、二年続けて期待を裏切った「期待の新人」に寄せる期待は、もうとうに消えているのである。毎年新人が加入しているから、不甲斐ない三年目はただの伸び悩んでいる若手であり、実力勝負の世界で立ち止まっていたら、チーム内の生きの良い後輩に追い越されるのである。それだけのことである。

 と言う事で、三年目にもなっているのに高校時代の評判をつつき回している担当記者の感覚にはとてもついてけないのである。報道に値する新進選手をちゃんとした言葉で報道して欲しいものである。そして、もっと正しい日本語の維持について、真剣に勉強して欲しいものである。記者が新人なのか古参なのか知らないが、今回の記事は新米の不出来な記事に過ぎない。

以上

2020年6月10日 (水)

新・私の本棚 遠山美都男 卑弥呼誕生 改訂新版    2/2

 洋泉社 歴史新書Y       2011年6月発行             2020/06/09
私の見立て ☆☆☆☆☆ 零点  よいこは真似しないように

*破格の構成
 氏の断言は、倭人伝底本の特定がなく、諸史料批判査読が欠けていて不適切です。また、漢文原記事が示されないのです。

 氏の脳内世界の「倭人伝」は、実は現代人著作なので、見たところ、氏は、本書の著者に要求される古代史料の解読を放棄しています。これでは、氏の真意を知るすべはありません。かくして、氏は、自身の脳内を徹底的に『史料批判』し、結果公開する義務を有しています。なぜなら、本書は読者の時間と注意力を盗み取るからです。

*裏切られた暗黙の保証
 いや、別に何も保証していないから、不適切と言われる筋合いはないというのでしょうが、本書のタイトル、惹き句、著者の肩書きから、学術書としての要件を備えていると示唆しているのであり、示唆されている要件を満たしていなければ、「詐称」なのです。

*先賢の提言
 救われることに、同ムック導入部に田中俊明氏の概論として、「古典派」とも言うべき史学王道が掲示されています。

 「卑弥呼は三世紀の倭国王であった。このことを伝えるのはほぼ『魏志』倭人伝のみである。卑弥呼がどういう人物、どういう王であったか知るには、『魏志』倭人伝を精査するしかない。ここでも、『魏志』倭人伝を通して、卑弥呼について考えられることを簡単に整理しておきたい」

 以下、ものの理屈、学会の良心が説かれるのですが、遠山氏は「浪漫派」なので田中氏の「古典派」提言は、聞く耳を持たないようです。

 無知で苦言に耳を貸さないでは、聞くに堪える論考は期待できません。

*本書の評価
 本書は、以上にやり玉に挙げたムック記事と違い、限られた紙面でなく新書の紙数を費やすことが可能であるにも拘わらず、批判対象である史料の原文参照は他史料を含めて存在しません。底本は書かれていないし、書き飛ばしている口語文風の読み解きの根拠も不明です。無責任な盗用です。

 氏は、倭人伝記事が自身の抱く浪漫に沿わないので、至る所で資料改訂していますが、それは浪漫派「創作」であって資料そのものではありません。読者は、氏の創作を読まされているのです。

 氏が倭人伝の「イメージ」が誤りと見ても、それは、氏が追従する諸氏の「イメージ」が歪んでいるのか、氏の視覚問題か、何れか/ないしは両方の原因によるのです。

*盗用疑惑しきり
 終始、現代語らしい文章を参照しますが、誰がどのような根拠で書いたものであるか書かれていない事が多いので、不審を感じても確認するすべがありません。言うなら、引用元を明記しないのは立派な盗用堂々たる剽窃です。

*責任の所在
 このような破格の著作が刊行された責任の一端は、編集部が、引用文献、特に底本の掲示など、論文形態の書籍の必須事項を承知していながら、それらの必須要件を欠いた書籍を刊行したことにあります。いや、参考文献一覧はありますが、全体を通じて本文注記が乏しいから、氏の試験、憶測なのか、だれかの意見の丸写しなのか根拠不明になります。

 それにしても、冒頭でこれまでの倭人伝研究を総括する触れ込みながら、安本美典、古田武彦、森浩一、直木孝次郎の諸賢書籍が漏れています。切りがいいという事でしょうか。諸論評は、総じて陳腐で真剣味が欠けています。

◯まとめ
 冒頭部分の荒廃で足が止まりましたが、本書全体が無意味だとまで言うつもりはないものの、有意義な考察があっても、以上のような非論理的な随想、古代史論書籍と見せかけた素人考え羅列では、総じて、読者を偽る魏書、いや偽書と言われかねません。編集部は職業人の務めを知るべきです。

*追記
 巻末年表に「239 魏の明帝が卑弥呼に親魏倭王を賜う」とありますが、魏帝曹叡は景初二年末に病臥し三年元日に病没したから、景初三年に、明帝が卑弥呼に親魏倭王を賜う事は不可能です。調べればわかるので、何か「フェイク」資料を無批判に踏襲したのでしょうか。

 そもそも、中国暦は、今日の世界で広く流通しているキリスト教暦とは、ずれがあって、景初三年の元旦は、CE(キリスト教紀元)239年の1月1日とは違うのです。まして、景初三年は、明帝曹叡の命日が元旦に重ならないように複雑な処理をしているので、CE239年とどう重なって、どうずれるのか、古代史学者でも混乱している例があるのです。つまり、遠山氏が混乱していても、それは不名誉ではないのですが、それを、このような年表に仕立てることで、ごまかすのは、「フェイク」ですよ、と言う事です。

 無知で粗雑では付ける薬がありません。
                                以上

新・私の本棚 遠山美都男 卑弥呼誕生 改訂新版    1/2

 洋泉社 歴史新書Y       2011年6月発行    2020/06/09
私の見立て ☆☆☆☆☆ 零点  よいこは真似しないように

◯総評
 本書は、こと倭人伝解説書の中で、原史料たる倭人伝を改竄、造作する流れの行き着くところを示したようです。他にも同様の無意味な解説書はあるから、最悪かどうかはわかりませんが、かなりの水準をいく悪書です。

 当ブログ記事の書評として書き出したように買うべきでないものです。

*概要 史論でなく「浪漫派」の独白
 本書は、日本古代史専攻史学博士たる著者の中国正史の文献学考察において要求される専門知識の欠如、稚拙さが露呈していて誠にお粗末です。

 要するに、日本古代史の国内史料の解説書に基づいて、古代浪漫を紡いでいるだけで、日本書紀を解読したわけでもなく、まして、倭人伝の漢文の解読を放棄していては、文献学先人の追従しかできないのです。

 正体不明の訳文を適当に引用して、もっともらしい装いですが、素人考えを素人風に書き散らしています。

 専門家を装っているため読者が丸呑みしそうで剣呑です。これを『素人風』と書くのは当ブログ筆者の謙遜表現と輻輳して大変不愉快ですが、素人と言えども、学べば改善されますが、学ばなければ付ける薬はありません。しゃれて「浪漫派」か。

*無学不遜 不熟の大成~ムック記事批判
 氏の無学不遜、不熟不撓は、近作の歴史読本2014年7月号 特集「謎の女王 卑弥呼の正体」~「徹底検証九人の卑弥呼」の一端に書かれた『卑弥呼機関説』なる粗暴な短文の書き出しに、往く繰りもなく表れています。

 卑弥呼とは『魏志』倭人伝という外国史料にしかあらわれない存在である。したがって、その実像の解明には『魏志』倭人伝に対する徹底的な史料批判がもとめられる。そこに書いてあることをそのまま追認することが許されないことは多言を要さないであろう。

 僅かな字数に、現代日本語としても特異な用語、表現が凝縮していて、読者に出費を求める商用出版物で、このような意味・意義不明な暴言は『許されない』事は言うまでもありません。

*誤解満載 以下同様
 衆知の誤解を列記すると、「卑弥呼」は、魏志倭人伝以外に後漢書倭伝に登場する人名、「固有名詞」です。光学的「実像」は倒立「イメージ」であり、所詮外観印象ですから、本来、目を開けば難なく見えるのです。

 「史料批判」は、史料テキストを理解した上で、内容を掘り下げた徹底的考察を付くすのが常識です。原文意を理解して初めて史料の適否を決めるのであり、既存の根拠不明の印象記は追認すべきでないのです。

 冒頭のつかみが、このような乱調ですが、以下の記事も、用語、行文が揺らぎはなしで、暴走、迷走するので、善良な読者は、何を言いたいのか聞き取ろうとする気がなくなるのです。と言う事で、これ以上引用はしません。

 以上、高校生のクラブ活動報告書の下書きのように、一歩ごとの用語ダメ出しが必要では、情けないものがあります。「歴史読本」誌は、伝統を継承していると信じていたのですが、ムックでは、何も編集しないのでしょうか。

*「浪漫派」の錯誤
 初心者なみの用語改善指摘では仕方ないので、重大な錯誤を指摘すると、視点錯誤です。
 中国古代史で「外国」は中国以外の蛮夷であり、「言葉」、「文化」を解しないから、史料はあり得ません。つまり、三世紀、文字のない「外国」に史料は一切ないのです。
 それに対して、氏は八世紀「日本」の夜郎自大視点で「外国」としていて、要は、中国も、鴻廬館に寄寓する蛮客に過ぎないという尊大な視点から、堂々と見下しているようです。ようですというのは、この暴言の根拠を示さないからです。

 と言う事で、はしなくも露呈しているのは、「浪漫派」共通の視点錯誤であり、後世「日本」成立以降の国家像が当然の原点となっている古代「浪漫」のようですが、同ムック主題から見ると、大きな見当違いです。

 「徹底的な」「史料批判」の視点がはなから的外れでは、御自分を診断したらいかがですかと言いたいところです。

 中国では、経書、史書などの文書編纂に高度の教養を動員したから、資料原文を読解できない素人は、現代風の貧弱な語彙を武器として理屈付けするのは、言うならば素手で岩壁を削るものです。

 とどめの「多言を要しない」は自身の言葉で正当化できない時の無責任な隠れ家です。衆知自明、自然などの逃げよりはましに聞こえるのでしょうか。二言、三言で済むなら、この場で言ってみたらどうかという事です。隠れ家にもなっていないのです。
                                未完

2020年6月 6日 (土)

私の意見 ブログ記事 倭人伝「南至邪馬壹国女王之所都」の異論異説 <補追記事>

古賀達也の洛中洛外日記 第2150話 などによる随想             2020/06/03, 06/06

〇はじめに 課題の明解
 今回は、前記事に続いて端的な課題の明解を模索します。提言者である古賀達也氏は、広大な中国古典書籍の用例を網羅して、堂々たる解析を進めていますが、当方(一人称単数)は、何分、浅学非才なので、直近の文脈を解析するところから出発し、文意の結論が出せたら脚を止めるので、道が異なるのです。

 当方は、電気工学技術者で、文系/理系の教養に乏しく、また、体系的に漢文解釈を学んだわけでなくて白川静氏の漢字学著書や「字通」の教えを自分なりに展開します。史料の文献記事解釈は、素人なりに一歩一歩刻んでいく地道を進みます。権威者から主観的と叱責されかねないのは覚悟していますが、部外者による常道外れの異論提示が、当方の本分と見ているのです。

 当方の行き方では、古典用例は直近の文脈に関連が薄いので重きを置かないのです。勿論、優先度が低いだけで、排除しているわけではありません。蟻が富士山と背比べするような無謀さは、持ち合わせていないのです。

〇本論
 白川静氏の「字通」、「字統」によれば、「王之所」は、それ自体「王の居城」を示す古典語法であり、「王之所都」と連ねるのは不自然と見ます。漢書西域伝で、数ある蛮夷の居処は「治」なのです。因みに、「所」は「ところ」を言う名詞です。

 史書は、古典語法を遵守すると共に、平易、明解に務めることから、ここは「女王之所」で句切るのが、順当な解釈ではないでしょうか。蛮夷の王の居城を記録するのに、変則的な語法を起用するはずがないのです。

*「中華」思想の誤伝 余談として
 つまり、東夷伝記事を「王之所都」と思い込むのは、時代観を見失っています。

 余談ですが、四百年後世の七世紀、国内史料は、中国天子の行人(隋使 文林郎 裴世清)を迎えたとき、急遽任じられた鴻廬掌客が、蕃客接待しますが、これは、中国古典を知らない別の東夷でしょう。

*「都」は「すべて」の意に落着
 以上に従うと、この部分の後半は「都水行十日陸行一月」となり、「都」は、辞書に掲示される代表的な定義の通り、「すべて」の意であり、全所要日数を示すと解するのが、文脈から、順当、妥当と思われます。そのため、当用例は、唯一無二でしょう。

*倭人伝記事の落着
 ここは、「従郡至倭」で始まった道里記事の総括として、全道里万二千里に相応の全所要日数が明記されたと見るのが、妥当と思われます。
 帯方新太守が、東域都護気取りでもないでしょうが、急遽洛陽に上申したと思われる東夷銘々伝の中の「倭人身上書」の要件を端的に明示するため、「女王之所」と「都水行十日陸行一月」が繋がって解釈されない行文としたと見ます。

 以上は素人考えの仮説ですが、一考に値すると感じています。

*積年の弊を是正する偉業
 それにしても、古来、史官の規律に従った行文を、後世の文献学者が句読を謬り、文意を誤解させた可能性がある、との古賀氏の指摘は卓見です。こうして見ると、先入観に囚われた史料誤読は、現代日本人の特技ではないのです。

*高句麗「丸都」の悲劇 余談として
 古賀氏が類似用例とされた「丸都」は、高句麗の創世記神話に由来するものであり、天下りした天子の治所を「都」と自称したのでしょうが、中国から見ると蛮夷の僭称であり、いずれ打倒されるべき「賊」なのです。
 一方、高句麗の世界観では、隋唐の皇帝は、かって高句麗に敵対し、時に臣従したとも思われる蛮夷(鮮卑 慕容部、拓跋部など)の「俗人」が、勝手に天子を名乗ったに過ぎないから相克します。
 どこかで聞いたような話ですが、それは、当記事とは無関係な空耳です。

                                以上

 

2020年6月 5日 (金)

陳壽(中国史)小論-23 (2013) 類書考

                              2013/10/07  追記 2020/06/05
◯類書考
 本小論では、ここまで、故意に「壹」「臺」論に触れていませんが、最後に私見を書き留めておきます。随分長くなった点をお詫びします。

 魏志倭人傳の結末付近に、
  「政等以檄告喻壹與、壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還、因詣臺」
 と、「壹」「臺」の両字が相次いで現れています。木簡,竹簡の時代には、一枚あたりの字数に限りがあるので、同じ「傳」でも、別の簡に書かれていて、前例を見過ごす可能性がありますが、ここまで至近距離で念入りに前触れされると、「壹」「臺」の取り違えは、まず起こらない、と言う仕掛けです。

 ここで、「臺」は、魏朝皇帝の意に用いられています。すると、直前の東夷の王名に「臺」を用いることは不敬に渉る可能性があり、不敬罪となれば親族まで連座して族滅されるのです。

 晋朝の史官は、そのような危険を避けるはずです。蛮夷の国名に「貴字」を使用するかどうかなどの優雅な話ではないのです、

 これほど至近距離ではないし、不敬罪にならない事項ですが、魏志倭人傳内には、ことさらに「壹拝」として「一」の正字を登場させているので、その日の字数を稼ごうと先を急いでいる写本工も、ここで目が覚める仕掛けです。

 もちろん、南朝劉宋の笵曄を始め、魏晋朝以降の後世史官や著者には、そのような危険はないのですが、重罪では、本人の処刑に家族、親類など三親等以内の親族が連座して処刑されるという族滅の制度自体は、すっと後世まで残っていますから、別の形でそのような使用回避の形跡が見られます。

 「史官の首が飛ぶ」と言うとき、現代人の理解と当時の時代人の理解とでは、それこそ、隔世の差があるのです。

 前置きはさておき、史料批判の問題に入ります。

 一般論ですが、正史は、代々厳格な照合を経て写本継承されます。国家事業としての写本では、専門家である写本工に的確な報酬と成績評価(賞罰)が課せられます。

 つまり、写本後に、原本との照合確認の上、正確であれば報酬を受け、誤写があれば罰を受けるのが、国家事業としての基本です。

 膨大な文字数を収めた文書の写本で、誤写の発生を極限まで減らすためには、写本の際の照合が不可欠であり、後年ですが平城京に於ける写経工房の管理で、このような管理が維持されていた事が、木簡史料から確認されています。
 もっとも、こうした品質管理以外に写本の信頼性を高める方法は無いのは自明なのですが。

 なお、重大な誤写が見過ごされて写本が世に出て、それが不敬罪を構成する文書となれば、上記のように親族まで連座して族滅されるのは、写本を主監する史官の定めです。編纂者として名をとどめるのすら、命がけなのです。

 このように、誤写の発生しないことを目指して写本されたと推定される、信憑性の高い正史刊本を克服して覆すには、少なくとも同等の信憑性を持つ史料を持ち出さなければなりません。

 見る限り、告発の証拠として提示される史料は、編纂資料の出所、信頼性が不明であるとか、資料引用の際の確認が不正確であるとか、果ては、史料自体の継承の過程が検証されていないとか、大きな弱点を抱えたものです。

*翰苑談義
 Wikipediaに曰く、「翰苑(かんえん)とは、唐の時代に張楚金によって書かれた類書。後に雍公叡が注を付けた。現在は日本の太宰府天満宮に第30巻及び叙文のみが残る。」

 後漢書引用の記事を見る限り、引用が不正確であり、信用するに足りないものと思われます。

 引用元の魏略は、残存していないので、魏略の引用の正確さについては推測の域を出ません。

 翰苑は、各資料について、孫引き、ひ孫引きになっています。

 つまり、元々大きな弱点を抱えている上に、史書としての校正、校訂がされていない、そういう本なのです。

 後世校勘で不正確な引用を校訂して補填するのであれば、それは、唐代資料でなく後代史料となります。

 また、「翰苑」は、ただ一冊のしかも断簡が残っているだけの孤立史料であり、他の「翰苑」と比較して写本の信憑性を検証できない点も考慮する必要があります。
 「翰苑」断簡は国宝であり、大変貴重な歴史文物です。

 ただし、現存する記事は翰苑の原記事かどうか検証不可能であり、従って、史料として信をおけるかどうか検証されているないと考えるのですが、素人の勘違いなのでしょうか。

*太平御覧談義
 太平御覧の記事は、原典直接引用でなく、孫引き、ひ孫引きであるとされています。

 魏略原本が残存しないので、魏略の引用の正確さについては推測の域を出ません。

 魏志原資料が、太平御覧制作時期まで残存していなかったのは自明です。

 太平御覧は、史書ではなく、史書として検討すると、引用が不正確な上に、史書としての校正、校訂がされていない、そういう本なのです。従って、他資料の引用についても、史書としての信を置くことが出来ないと考えます。

 ここで、ご参考までに、太平御覧倭國記事のPDF版を掲載します。句読点、改行は、漢字合成の技と合わせて、小論筆者の勝手な「著作」です。

「Gyoran_Wa.pdf」をダウンロード

*通志談義
 通志は、通史である史記を除くと各正史が王朝ごとの編纂であることを批判して、三皇から隋唐各代までの法令制度を記録する政書として編纂されたものですが、本小論で取り上げるのは、添付された「列伝」の倭の部分です。

 元々、各正史の倭・日本に関する部分を、歴史の流れに沿って手短に取り纏めて、膨大な正史の粗筋の手っ取り早い理解を助けるのが狙いであり、史書としての厳密さを目指したものでは無いのです。編纂の際に各正史の整合について、ある程度の時間は費やしたでしょうが、正史の校勘を目指したものでは無いのです。

 ここで、前回掲載の通志倭國記事のPDF版を掲載します。句読点、改行は、漢字合成の技と合わせて、小論筆者の勝手な「著作」です。

「Tsushi_Wa.pdf」をダウンロード

*寛容な史料批判
 関連史料の史料批判について、以下のように考えます。

 翰苑は、断簡自体信頼に耐えるものであるかどうか不明です。

 太平御覧の関連記事は、史書としての厳密な検証を経たものでは無く、写本継承の正確さに信頼が置けないので、御覧所引魏志に正史並みの信頼性を求めるのはお門違いです。

 通志の関連記事は、史書としての厳密な検証を経たものでは無く、写本継承の正確さに信頼が置けないので、通志所引記事に正史並みの信頼性を求めるのはお門違いです。

 「写本継承の正確さに信頼が置けない」のは、三國志の写本継承の正確さに遥かに及ばない程度という意味です。

 このような不確かな資料を根拠とする議論は、学術的でない憶測の議論です。

 こうした評価は自明と思っていましたが、「この世間」には、不確かな資料で確かな資料を否定する愚行が多いのに困惑します。

以上

陳壽(中国史)小論-22 (2013) 通志 テキスト

                            2013/10/04
◯通志紹介 
  浙江大學図書館所蔵 欽定四庫全書版 巻一百九十四(影印本)から読み取って書出したものです。Unicode対応端末(Windows 7, 8など)で読み取れるものと思います。

 原典のままでは読みにくいと思い、即席の勝手読みで、句読点と改行を追加しました。
 (  )は、Unicodeに無い(と思われる)文字を合成するものです。[  ]は、注です。

 以下、本文です。
< 新羅 >
    倭
倭自後漢時通焉。在帶方東南大海之中、依山島為國邑舊百餘國。
自漢孝武滅朝鮮、使驛通於漢者三十許國。國皆稱王、世世傳統。
自帶方郡至倭、循海岸水行、歴韓国乍南乍東、到其北岸拘邪韓國、七千餘里。
始度一海、千餘里、至對馬國。其大官、曰卑狗、副曰卑奴母離。所居絶島、方可四百餘里。土地山險多深林。道路如禽鹿徑。有千餘戶。無良田、食海物自活。乖船南北市糴。
又南渡一海、千餘里、名曰瀚海、至一大國。官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。方可三百里。多竹木叢林。有三千許家。差有田地耕田、猶不足食、亦南北市糴。
又度一海、千餘里、至末盧國。有四千餘戶。濵山海居。草木茂盛行不見前人。好捕魚、水無深淺皆沈沒取之。
東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚柄渠觚。有千餘戶。世有王、皆統屬於倭國。郡使往來常所駐。
東南至奴國、百里。官曰兕馬觚、副曰卑奴母離、有二萬餘戶。
東行至不彌國、百里。官曰多模、副曰卑奴母離、有千餘家。
南至投馬國、水行二十日。官曰彌彌、副曰彌彌(舟阝)利、可五萬餘戶。
南至邪馬臺、即倭國之所都也。[邪馬臺亦曰邪靡堆音之訛也] 水行十日陸行一月。官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮。可七萬餘戶。
自倭國以北、其戶數道里可得畧載。其餘旁國、遠絶不可得詳。
次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、次有彌奴國、次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有鬼國、次有為吾國、次有鬼奴國、次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴利國、次有支惟國、次有烏奴國、次有奴國。此倭國境界所盡。
其南有狗奴國。其官有狗古智卑狗不屬倭國。
自郡至邪馬臺二千餘里。
計其方向、當在會稽東冶之東、與儋耳相近。
男子皆黥面文身、露紒以木棉帕頭。其衣橫幅、但結束相連畧無縫。婦人被髮屈紒作衣如單被、穿其中央貫頭衣之。
皆徒跣。有室屋。父母兄弟卧息異處。以朱丹塗其身體如中國用粉也。食飲用籩豆手食。
其死、有棺無槨。封土作冢。始死停喪十餘日、當時不食肉。喪主哭泣、他人就歌舞飲酒。已葬、舉家詣水中澡浴以如練沐。
其行來渡海詣中國、恒使一人不梳頭不去蟣蝨、衣服垢汚。不食肉、不近婦人、如喪人名。之為持衰若。行者吉善、共顧其生口財物。若有疾病遭暴害、便欲殺。之謂其持衰不謹其有所。
舉事云為輙灼骨、為卜以占吉凶如中國。鑽龜法視火坼之兆而知之。
其會同坐起、父子男女無別。人情嗜酒。
見大人致敬但搏手以當跪拜。
國人多壽考、或百歳或八九十。
大姓皆四五婦、下戶或二三婦。婦人不淫不妬。
忌婚嫁不娶同姓。男女相悦者即為婚配。婦入夫家必先跨火乃與夫相見。
國多珍物。有青玉真珠。有如意寶珠、其色青大如雞子。夜則有光、云魚眼晴也。
其山有丹。其木有柟、梓、豫、樟、楺、櫪、(木殳)、橿、烏號、楓香。其竹篠簳桃支。有薑、橘、椒、蘘荷、不知以為滋味有。
黑雉有。獸如牛名曰山鼠。又有大虵吞此獸、虵皮堅不可斫。其上孔乍開乍閉時、或有光射中之即死。
無牛、馬、虎、豹、羊、鵲。
氣候温暖。草木冬青。土地膏腴、水多陸少。
種禾稻、紵、麻、蠶、桑、緝、績。冬夏皆食生菜。
兵有弓矢刀、矟、弩、禩(矛賛)、斧、戚漆皮為甲。
矢鏃用鐵或用骨。
樂有五絃琴笛。戯有碁博握槊摴蒲。
王所都、無城郭。
内官有十二等。一曰太德、次小德、次大仁、次小仁、次大義、次小義、次大禮、次小禮、次大智、次小智、次大信、次小信。員無定數。
有軍尼百二十人、猶中國牧宰。八十戶置一伊尼翼、如今里長也。十伊尼翼屬一軍尼。
其刑法彊、盜及姦皆死、盜者計贓酬物、無財者沒身為奴。自餘輕重或流或杖。毎訊冤獄不承引者、以木壓膝、或張彊弓以弦鋸其項、或置小石於沸湯中、令所競者探之。云理曲者即手爛。或置蛇缶中令取之。云曲者即螫手。
人頗恬靜、罕爭訟少寇盜。
頗敬佛法、始無文字。唯刻木結繩。後於百濟求得佛經方有文字。尤信巫覡。
每至正月一日、必射戲飲酒其餘節與華畧同。
漢建武中、遣使入朝自稱大夫。
安帝時、又遣朝貢。謂之倭奴。
靈帝光和中、其國亂、遞相攻伐歴年無主。有女子名卑彌呼、能以鬼道惑衆。國人共立為王。年長矣無夫婿。有男弟佐之治國。自為王以來、少有見者。
以婢千人自侍。唯有男子一人、給飲食、傳辭令。
居處宮室樓觀甚設。常有人持兵守衛。
魏景初三年、公孫淵誅後、卑彌呼始遣其大夫難升米、牛利等詣帯方郡求詣天子朝獻。太守劉夏遣史將送詣京師。
明帝詔賜卑彌呼為親魏倭王、假金印紫綬、以難升米為率善中郎將、牛利為率善校尉、假銀印青綬。
是歳明帝崩。齊王芳立。
明年改元正始。太守弓遵遣建中校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國、拜假卑彌呼爵命、并齎詔賜金帛錦罽刀鏡等物。
卑彌呼因使上表答謝。
四年、卑彌呼復遣使大夫伊聲耆掖邪狗等八人、上獻方物詔拜。掖邪狗等率善中郎將各假印綬。
六年又詔賜難升米黃幢、付帯方郡假授。
八年太守王頎到官。卑彌呼與狗奴國王卑彌弓呼交兵、遣其臣載斯烏越等詣郡、説相攻撃状。
郡遣塞曹掾史張政等、因齎詔書黃幢拜假難升米為檄告諭之。
卑彌呼已死、大作冢徑百餘歩。徇葬奴婢百餘人。
更立男子王、為國中不服。更相誅殺當時殺千餘人。復立卑彌呼宗女臺與為王。國中乃定。臺與時年十三。
政等以檄告諭臺與、臺與遣率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還因詣臺。
修其歳貢晋泰始初復遣使朝獻。
臺與死其国復立男王。
安帝時、有倭王讃者通表江左。
宋武帝永初二年詔曰倭讃遠誠宜甄可賜除授。
文帝元嘉二年、讃又遣使司馬曹達奉表獻方物。
讃死弟珍立。遣使入貢、自稱使持節都督倭百濟新羅任郍秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭國王。
表求除正。詔除安東將軍倭國王。
珍又求除正倭洧等十三人平西征虜冠軍輔国將軍等號。詔並聽之。
二十年、倭國王濟遣使奉獻復、以為安東將軍倭國王。
二十八年、加使持節都督倭新羅任(舟阝)加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東將軍如故、并除所上三十三人職。
濟死、子興遣使貢獻孝武大明六年。詔受興安東將軍倭國王。
興死弟武立。自稱使持節都督倭百濟新羅任郍加羅秦韓慕韓七國諸軍事安東大將軍倭國王。
順帝昇明二年遣使上表言、
「自昔祖禰躬擐甲胄跋歩山川。不遑寧處、東征毛人五十五國、西服衆夷六十一國、陵平海北九十五國。
王道融泰廓士遐畿。累葉朝宗不愆于歳道、逕百濟飾船舫而。句麗無道圖欲見呑、臣亡考濟亡兄興並欲大舉問罪。不幸奄喪父兄。使垂成之功不獲一簣。今欲練兵申父兄之志竊」
自假開府儀同三司其餘咸、各假授以勸忠節、詔除武、使持節都督倭新羅任郍加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭王。
齊建元中、除武、持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事鎮東大將軍。
梁武即位、進號征東大將軍自是迄于。
陳世使命不絶。
隋時、倭王姓阿毎字多利思比孤號阿輩雞彌。阿輩雞彌華言天兒也。王妻號雞彌。没官名太子為利歌彌多弗利。
開皇二十年、多利思比孤遣使詣闕。上令所司訪其風俗。使者言、「倭王以天為兄以日為弟。天明時、出聴政跏趺坐。日出、便停理務。云委我弟」文帝曰此大無義理。訓令改之。
大業二年、多利思比孤復遣使朝貢。使者云、「聞海西菩薩天子重興佛法。故遣朝拜無有」
沙門數十人来學竺乾道。
國書曰、「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」
煬帝覽之不悅謂鴻臚卿曰、「蠻夷書有無禮者勿復以聞」
明年、帝遣文林郎裴清使。
其國渡百濟、行至竹島、南望耽羅國、經都師麻國、逈在大海中、又東至一支國、又至竹斯國、又東至秦王國、其人同於華夏以為夷洲。疑不能明也。又經十餘國、達於海岸。自竹斯國以来、皆附庸於倭。
倭王遣小德阿輩臺從數百人。設儀仗鳴鼓角來迎。
後十日、又遣大禮歌多毗從二百餘騎郊勞。
既至彼都。其王與清相見設燕饗以遣復令使者隨清來貢方物。
先時、其王冠服仍其国俗。至是始賜與衣冠乃以綵錦為冠飾裳皆施(衤巽)[饌音]綴以金玉云。
唐貞觀五年、遣新州刺史高仁表持節撫之。浮海數月方至。仁表無綏遠之才、與其王爭禮、不宣朝命而還。
倭國之南、復有侏儒國。人長三四尺。又南、有黑齒國、裸國。船行可一年至。
使驛所傳極於此矣。
<  夫餘  >
 以上です。

 ちなみに、個人的利用には、上記テキストを縦書きPDF化して、手元資料としています。こうした資料を横書きで読むのは、字面が感覚に訴えるものが損なわれるので、感心しないのですが、仕方ないところです。

陳壽(中国史)小論-21 (2013) 倭傳原文資料

◯主要史料
 内容確認済みの権威ある史料として、「中國哲學書電子化計劃」サイトを紹介します。
 当初、テキストデータを掲示する予定だったのですが、権利関係が明確でないので、個別のリンクを掲示します。アクセスして、テキストデータを入手することは、さほど難しくないでしょう。
 下記サイトでは、所蔵テキストデータの全検索で、例えば「倭」の登場する文献を全部検索するようなことも出来ます。
 色々散策したあげく、こうして信頼できるデータにお目にかかれて下記サイト関係者に感謝しています。

 三国志
中國哲學書電子化計劃 魏書三十 倭人傳
http://ctext.org/text.pl?node=603372&if=gb
漢代之後 -> 魏晉南北朝 -> 三國志 -> 魏書三十 -> 倭人傳

 後漢書
中國哲學書電子化計劃 後漢書東夷列傳
http://ctext.org/hou-han-shu/dong-yi-lie-zhuan
先秦兩漢 -> 史書 -> 後漢書 -> 列傳 -> 東夷列傳

 通典
中國哲學書電子化計劃 通典 邊防一《倭》
http://ctext.org/zhhttp://ctext.org/text.pl?node=564583&if=gb
漢代之後 -> 隋唐 -> 通典 -> 邊防一

 太平御覧
中國哲學書電子化計劃 太平御覧 四夷部三·東夷三
http://ctext.org/taiping-yulan/782/zh
漢代之後 -> 宋明 -> 太平御覽 -> 四夷部三·東夷三 -> 倭

 通志は、まだテキスト化されていなくて、影印版になります。
 次回、筆者がテキスト入力したものを掲示します。

以上

陳壽(中国史)小論-20 (2013) 参考資料・文献

主たる参考資料は以下の通り。
 「俾弥呼 ひみか」 ミネルヴァ書房 古田武彦著 2011年初版
   紹熙本「三国志」(二十四史百衲本)魏志倭人傳写真版を収録
   俾弥呼魏使面接時30代との提言(初出未確認)を再録

 合本「市民の古代」第3巻  新泉社      1991年第1刷
   巻頭対談(古田武彦 木佐敬久)
           木佐氏から女子女王即位の提言あり

 歴史読本特別増刊 シリーズ「日本を探る」 2
  日本国家の起源を探る             1994年
   「古代史の争点となっている「邪馬台国」「倭の五王継体・欽明朝」を中心に」
   「これまでに発表された画期的論文の中から30篇ほどを選んで掲載」
    たとえば、榎一雄氏の古典的論文である「邪馬台国の方位について」
     1948年 「オリエンタリカ」所収 を収録

 以下の史料は、小論記入中に入手した物。
 「東アジア民族史 1 正史東夷伝」
   倭人伝(後漢書、三国志、晋書、宋書、南斉書、梁書、隋書)収載
     平凡社 東洋文庫 264 井上秀雄 他 訳注 昭和49年初版
 「東アジア民族史 2 正史東夷伝」
   倭・日本伝(南史、北史、旧唐書、新唐書、通典)収載
     平凡社 東洋文庫 283 井上秀雄 他 訳注 昭和51年初版
  注釈:テキストは汲古閣本を中心とし、百衲本、武秀殿本、南監本を参照した

◯正史データ
  権威あるデータ入手先としては、早稲田大学図書館蔵書の写真版がおすすめです。
 汲古閣本三国志(早稲田大学図書館蔵書)
  http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko11/bunko11_d0265/
   三国志画像の右下の「5」に倭人傳を含む冊子の写真画像が収録されている。
   PDFを選択すると一冊全部ダウンロードできる。
   HTMLを選択すると全頁の縮小画像が表示される。100以降が倭人傳である。
 後漢書. 1-90/范曄[撰];章懐太子注 (早稲田大学図書館蔵書)
 http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ri08/ri08_01735/ri08_01735_0037/ 
     後漢書画像の16番の冊子に倭傳が含まれている。
   PDFを選択すると一冊全部、どっさりダウンロードできる。
   HTMLを選択すると全頁の縮小画像が表示される。10と11が倭傳である。

陳壽(中国史)小論-19 (2013) 笵曄再考

                             2013/10/03  追記 2020/06/05

◯范曄度々
 以上書いたように、笵曄の史家としての資質をどう評価するかは別として、事情に通じた読者の目から見ると、范曄が、魏志倭人傳伝記事を潤色改訂して、倭人伝記事を逸脱した手口が見抜けるのです。しかし、なぜ後世史書が倭傳を記述する際に後漢書倭傳の記事を優越したのでしょうか。

 正史以外に権威ある歴史書として、唐時代に、杜佑が35年(CE766-801年)をかけて編纂した「通典」があります。(写真版が見つからず、頼りない原文を載せています)

 通典編纂期間は、唐王朝で言えば、大乱による打撃からの回復期でした。

 「安史の乱」(CE755-763年)は、首都長安が副都洛陽とともに反乱軍に制圧され、CE756年には皇帝一行が蜀に向けて逃亡し、反乱鎮圧後にようやく長安に復帰するような大乱でした。この異常な事態からの復興のめどが付き、壮大な史書を編纂できる程度まで回復したのがCE766年だったのでしょう。

 通典の「通」は、王朝変遷にこだわらず、時系列で歴史を記録するのであり、神話時代からつい先日である玄宗期までの超のつく長期間の記録です。

 当記事に関係する「通典倭傳」は、歴代正史の倭国関連記事をつなぎ合わせて一本の通史にしたものです。前漢時代から唐代に至る記事は、むしろ魏志倭人傳記事よりかなり短縮され、内容確認はさほどの手間ではありません。

 読んで気づくのは、通典倭傳は、後漢書倭傳を典拠としていると推定されるのです。なぜかというと、笵曄に始まった魏志倭人傳からの逸脱がここにも見えるのです。

 と言うことは、後漢書倭傳が魏志倭人傳を上書きするものでなければ、通典といえども、魏志倭人傳を乗り越える信頼性を持たないので、退けざるを得ないと言うことです。
*文献批判の前提
 さて、ここまでぐるっと回って、本小論の推定主題は維持されています。

 陳壽が編纂した三国志は、正史として注意深く写本継承された上で、継承された写本から注意深く写本版刻していると思われるので、正史としての信頼性は高いものである。
 注意深く写本継承されたものではないと推定される資料は、相対的に信頼性の低いものである。

 魏志倭人傳は、原情報を、ほぼ忠実に利用したと推定される同時代記事であり、史官である陳壽は信頼するに足ると推定される筆者であり、従って、魏志倭人傳記事は、総合的に判断して信ずるに足りると推定される記事です。

 これまで、魏志倭人傳記事に対する反対意見の証拠として提起されている資料の内、後年編纂された資料は、時を遡って魏志倭人傳を修正する根拠とはならないのです。

 同時代、ないしは、先行する可能性のある資料であっても、引用複写されたものや断片しか継承されていないものは、資料としての信頼性に欠けるので、魏志倭人傳を修正する根拠とはならないのです。

 よって、従来提起されている議論は、魏志倭人傳に推定されている信頼を覆すと推定するに足りないものと考えます。
*半終止
 ここまで、一介の素人の素人考えに、長々とおつきあいいただき感謝します。

 本小論では、倭人傳解釈について、導入部の資料尊重論の参考とした場合を除き、極力参考書籍の教えを請うことなく、魏志倭人傳記事と自分の経験と知識でこの小論を進めてきました。先賢の意見と重複していたとしたら、もの知らずの独り合点とご笑覧ください。

以上でとりあえず完結です。

陳壽(中国史)小論-18 (2013) 笵曄大亂

                              2013/10/02  追記 2020/06/05
◯笵曄大亂
 「桓靈間倭國大亂更相攻伐歴年無主」

 手口として、倭国は桓帝靈帝治世(CE148-188年)の40年間に渉る大亂としています。

 陳壽が「歴年」で足かけ2,3年程度の意味としているのですが、笵曄は40年戦争かと思えるほど、劇的に表現するために「大」乱としたのでしよう。

 ここで、「倭国」は、女王共立の対象ですから、のちの「女王国」、すなわち、戸数が多いとはいえ、あくまで一国の事情となります。一国に長年にわたる「大乱」があったとは思えませんし、もし、互いに殺戮し合う大乱であったとすると、大勢の戦死傷者が出て恨みの爪痕が残り、女王を共立しておさまるものではなく、その後に、魏志倭人傳に書かれているような一種のどかな風情は、実現できないはずです。

 大乱のせいで、青壮年男子の人口が減少し、女性の多い国になったと読むのは、限りなくブラックな深読みでしょう。

*創作談義
 以上のように、笵曄が魏志倭人傳に加えた変更の大半は、謎の新規史料を根拠にしたものでなく机上の創作と推定されます。

 かくして、後漢書倭傳は、改変字数こそ少ないものの、尊重すべき原典たる魏志倭人傳から処々で逸脱した創作物と化しています。

 以上の考えを、異界の笵曄(?)に伝えたところ、ぽつりと「食するものに火を通して、薑橘椒で滋味にするのが(文明)人だ」とのご託宣でした。(もちろん、ここだけの冗談ですが)

 察するに、司馬遷が、史記記事で文飾を加えたのに始まり、史実の潤色は史官の資質であり、笵曄の資質は、むしろ正統的なものだと言うようです。
 正史は史実記事の羅列ではなく、史官が自己の責任で自己の感情や思想を示す表現の場であって、それでこそ立派な著作なのだ、と言いたいようです。

 しかし、倭国現地の事情をそっちのけに、中国の春秋戦国時代の各国の模様を当てはめるような潤色は、褒められたもののではないでしょう。

 本小論は、後世史書が笵曄作品を典拠として、陳壽が多様な筆致で活写した倭人傳を、屏風の下張りのように隠したことを嘆いているのです。

 笵曄個人に関しては、超大作後漢書を輻輳する苦難の中で編纂したと賞賛し、不朽の功名を得るために、自身の創作意欲を重視し、これが倭傳でも十全に発揮されたたことについて、できれば、無理からぬ事と看過したいとまで思っているのです。

以上

 

陳壽(中国史)小論-17 (2013) 銅鏡談義

                              2013/10/01   追記 2020/06/05
◯銅鏡談義
 獻生口の蛇足で、これも大胆な私見ですが、魏朝から下賜された銅鏡百枚について憶測しています。

 漢時代には、官営工房が存在し、産銅地から銅器生産地への素材供給が確保され、加えて、銅器生産地の職人団の総合技能として、意匠の確定、銘文作成、鋳型制作、鋳造、仕上げの一連の工程の高度な分業活動も形成され、各工程の技術が世代継承されていたからこそ、数百年の期間にわたり安定した品位と品質で青銅器を生産供給できたのでしょう。

 しかし、そうした高度な生産体制ですが、官営故に後漢朝の崩壊とともに、素材供給の道は分断され、帝都洛陽の破壊とともに職人集団は散逸解体されていたと推定されます。

 倭国貢献の時点は、全国統一以前の分裂時代であり、官営工房は再興してないと思われます。産銅地からの素材供給も、回復できてないと思われます。職人集団は散逸から回復してないと思われます。

 とても、銅鏡百枚を新作するような状況ではなかったはずです。

 特に、後漢鏡など、お手本のあるサイズとデザインのものならともかく、一段と大型で、デザインの異なったものを新作することは、大型鏡の鋳造の不安も含めて、かなりの難行と考えます。どうにも、魏朝が難行に取り組むとは思えないのです。

 中国世界では、銅鏡に対する崇敬の念は衰退し、漢鏡、後漢鏡は、王宮などの宝庫に退蔵されていたのではないかと憶測しています。従って、倭国使節からの下賜依頼に応じることは、在庫の解消になったと推定しています。

 漢鏡、後漢鏡なら、デザインとサイズが定型化しているので、百枚新作するとしても、多少は取り組みやすい事業ですが、それでも、なぜそこまでしてやるのか、という疑問がついて回ります。

 これが、魏朝が、手間のかからない手順として、伝世の漢鏡(後漢鏡)の銅鏡百枚を下賜したと推定すると、銅鏡生産体制が崩壊した状況であっても、短期間で実行できたことになります。

 以上の推測を基にさらに推定すると、魏朝の銅鏡下賜は一度限りということになります。

 反対の声が渦巻いているので言い訳しますが、何の根拠もない獻生口談義も含めて、素人の憶測と推定の座興なので、余り強く受け止めないでください。

以上

 

 

陳壽(中国史)小論-16 (2013) 獻生口 3

                               2013/09/30   追記 2020/06/05
◯献生口
 それにしても生口は何者だったのか、一案を先賢に学びます。
 http://koji-mhr.sakura.ne.jp/PDF-2/2-3-4.pdf (無断Linkごめんください)

 獻生口の実態は技能工(匠)ではなかったかと提言しているものと思います。
 貴重な見識に感服はしましたが、承服はしかねるのです。

 中華王朝が、多年の歴史を誇る華夏文明(権威有る中国文明)に浴しない東夷の「匠」の技術を取り入れるとは思えないのです。
 中国を貫く儒教的世界観では、職人芸を尊ぶどころか、士人(一人前の人物)は、つまらぬ雑事(鄙事)に手を染めない、と手仕事を卑しみかねないほどに軽視するのですから。

 倭国も、貴重な匠を大挙して大陸に送り出したら、人材払底するし、匠の跡継ぎも生まれないので、不都合と思われます。倭国は、中国に対して、そこまで犠牲を払う理由はないと思われます。やはり、人員の移動があったとは思えないのです。
*新生口論
 さて、折角だから、否定だけで終わるのでなく、無理は承知で大胆な案を提示してみましょう。
 ここでは、生身の人間の献上、派遣は、大変困難性であり、「獻生口」とは、人数分の戸籍(戸口、今日の戸籍謄本)資料を献上したものであり、このような資料提出により魏朝への臣従を誓ったのではないかと思われます。

 「口」のつく熟語である「戸口」を分解すると、「戸」は「家」の管理情報であり、「口」は「人」の管理情報です。「生口」と合わせて、(各国王族の臣従の証拠となる)個人戸籍資料ではないでしょうか。

 これなら、献上品としての値打ちが高く、旅程上の荷物にならないし、もらった方も倭国の忠誠に価値を感じると共に、後の始末に困らないのです。

 つまり、「獻生口」とは、中国王朝への任官を願って身元資料、戸数資料、地図を献上し、献上地図の土地を知行地として与えるように求めているのであり、謝礼として礼物を献上しているのではないか、と言う「珍説」です。

 「難升米爲率善中郎將、牛利爲率善校尉」と書かれているように、正使副使は魏朝の高位の武官に任じられていますが、その際、先年の獻生口に基づく知行地を得ているはずです。二人は、魏朝の国家体制に組み込まれ、朝命が下れば、傘下の兵を率いて出兵する訳ですから、戸口資料でその陣容を上申しているはずです。

 なお、獻生口に基づく任官でも、これらの官位より下級の官職の任官記事は残らなかったのでしょう。

 このように、中国の王朝に忠誠を誓う獻生口の報酬として官位と印綬(記念品)を与えるのでしょう。魏朝としては、与える領地は元々本人たちの領地であり、中国の遙か彼方で国内の誰かが迷惑することもないのです。そして、各国国王は、女王配下の統治者としての権力を正当化されるという仕掛けです。

 魏朝から女王国に下賜された銅鏡100枚にしても、何か根拠がなければ100枚も纏めて下賜できないと思われますが、獻生口の見返りであれば、当面の任官の記念品となります。

 こんな「非常識な」方法で任官を誓願した外夷は、空前絶後で、かくも特異な記事になっているのでしょう。愉快な理論と思いますが、いかがでしょうか。

 聞けば聞くほど、獻生口とは、何のことかわからないと感じていただけたら幸いです。

 以上は、筋の通らない記事に筋の通りそうな意義を与える、無謀な素人考えなので、お忘れいただいて結構です。

 とにかく、「獻生口」の意味のわからないままに「奴隷」献上との解釈を定着させ、当時の統治者に、根拠もなく人身販売の汚名を着せるのは、好ましくない議論と思います。

 まして、一部の識者の論説にあるように、対海国、一大国が、食料、物資を調達する南北交易で、人身販売業に従事していたなどと論ずるのは、憶測による冤罪であり、今日の国際社会に波風を立て、後生に不安を与えるものではないかと懸念します。

 史上の人物、国家を論難するときも、確たる証拠無くして有罪としない「推定無罪」の適用が必要でしょう。

 毎度ながら、わからないことはわからないと認める勇気が、史料に対する誠実な対応法と考えます。

以上

陳壽(中国史)小論-15 (2013) 獻生口 2

                            2013/09/29  追記 2020/06/05
◯献生口
  なお、上記記事の後漢安帝時代は、前漢末から新朝、後漢登場の間の大乱による壊滅的状態から回復して、全国人口は5千万人程度、首都洛陽は周辺地帯を含めると100万人、ないしはそれ以上の住人がいたと思われるので、むしろ人口過密で人手不足はないと推定されます。また、宮廷や高官宅には有能な奴隷は居たので、手不足と言うことはないはずです。

 してみると、倭国から後漢への「獻生口」160人は、奴隷献上ではないと考えられます。

 魏朝の頃は、後漢末期からの戦乱で人口はかなり減っていたとは言え、女王国からの数十人の獻生口も、奴隷献上であれば、魏朝にとって不要と思われます。魏王朝は、一度不要な奴隷を送り込まれたら、二度と来ないようにしたはずです。

 それ以外に船舶航行の問題もあります。
 諸資料、意見はあるものの、当時は、帆船時代には尚早で手漕ぎ船と思われることも相まって、後漢や魏晋時代に洛陽に赴く際の船舶は少人数を乗せるのが精一杯であり、後漢時代に、お荷物となる奴隷を160人搬送するのは、全く現実的でないし、倭人傳記事の時代も、使節人員以外に数十人の人員を搬送する余裕はないことと思います。

 例によって、船酔いの問題も深刻を極めると推定します。

 どう考えても、風濤嶮岨の大海を越えて千里万里の奴隷献上は、実行不可能ではないでしょうか。

 地続きの中国周辺なら、戦闘捕虜の搬送もさほど困難ではないでしょうし、長年の戦乱で、勝った側が負けた側の兵士の捕虜を奴隷として取り込むのは、世の習いとして受け入れられたでしょう。

 また、古来、人口過密の城都では、種々の雑役に、衣食住付き、ただし、転居、転職不可能な束縛付きで売買可能な雇用形態で多数の「奴隷」を駆使していたものであり、普通考える「奴隷」というよりは、むしろ「年季奉公」の感があるのです。

*官奴談義
 文献では、官奴と称して、宮廷や官公庁の下働きを課せられた「奴隷」がいて、識者が、官奴に老人が目立つから、65歳で解放したらどうかと提言している例があります。

 労働力としてみると、老官奴は、早々に引退してもらった方が良いのですが、それは、本人にとっては失業だから、衣食住付きの官奴であれば70歳近くなっても生きていけるのですが、60代で早期に自由民となって食っていけたのかどうか。

 閑話休題

 最後になりますが、倭人傳の女王国に関する記事で気にとめる必要があるのが、女王について「以婢千人自侍」とする記事です。「婢」が奴婢だったのか、単なる召使いだったのか、はっきりしないのです。

 私見では、これだけ大勢のものを、非生産的な仕事に縛り付けていては、食料生産(農漁業)の人手が不足するし、「給与」や「福利厚生費」財源に、一般人に「課税」すると不満を煽りそうだし、どう見ても、分不相応な格好付けのように思えます。

 そうした不都合を無視して、「婢千人」だから、生口を多数送り出すこともできたはず、というのは、ちょっと乱暴な議論です。

 結論としては、百度百科の権威にもかかわらず、「獻生口」の意味はよくわからないのです。

この件続く

陳壽(中国史)小論-14 (2013) 獻生口 1

                           2013/09/28  追記 2020/06/05
◯献生口
 「安帝永初元年、倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見。」

 後漢書倭傳当記事は倭人傳になく、笵曄の文筆家としての凱歌と思えます。
 陳壽が、倭人来朝貢献は史上に燦然たる魏朝の功績と言うが、已に後漢朝に来朝しているので讃えるべきは後漢朝の威光となります。
 後世史家も、この一行故に後漢書倭傳記事を重視したのでしょう。

 しかし、後漢朝貢献の詳しい事情は何も書かれていない。詳しい経緯は知ることかできませんが、陳壽は、多分この来朝記事は見たが、特筆事項がないので触れなかったのでしょう。

*生口談義
 それにしても、倭傳、倭人傳でよくわからないのが、生口です。
 後漢書記事を皮切りとして、倭国からの「獻生口」記事があり、獻上物と併記されているので、価値ある何かに違いないし、単位が人であるから人間のように見えます。

 ここで、百度百科を参照すると、「生口」は、漢書、後漢書、三国志などで登場する古典的な二字熟語であり、用例の大半は、国内の奴隷や戦闘捕虜の記事であり、奴隶 俘虏 牲畜、つまり、奴隷、戦闘捕虜、犠牲用家畜の意味となっているので、奴隷で決まりのように見えます。

 しかし、よく吟味すると、倭傳、倭人傳の生口が、奴隷の類いとは思えないのです。
 生口として奴隷を献上するのであれば、倭国から中国の首都洛陽へ奴隷を連行することになります。故郷に還れない奴隷たちは、途中で脱走の恐れがあり、厳重な監視が必要と思われます。長期の移動に対して、食料も人数X日数分必要であり、諸般の始末も必要です。

 数人程度ならともかく、百人を大きく超える「奴隷」の献上は、とても、成り立つものではないと思われます。

*役に立たない労働力 
 中国側から見てもと、言葉の通じない、風習の異なる異境の奴隷を、繰り返し、多数献上されても迷惑と思われます。特に言葉が通じない、つまり、使い走りとして役に立たない野蛮人は、邪魔なだけです。力仕事にしか使えないのですが、手順を説明しても、一切通じない、わからないのでは、全くものの役に立ちません。せめて、言葉が通じていたら、何か仕込めるのでしょうが、まさか、各人に通字を二人ずつ付けるわけにも行かないのです。。

*光武帝の奴隷解放
 後漢光武帝の事績として奴婢解放があります。王莽の簒奪に始まる大乱によって発生した大量の奴婢を解放して、庶民(自作農民)に戻すという命令です。

 後漢朝創業者の栄えある事績は、安帝も承知していたはずであり、外夷から160人の奴婢を受け入れることはなかったのではないかと思われます。倭国も、これが初めての後漢への献使ではないので、役に立たない奴婢を大勢献上することはなかったと思われます。要は、後漢書倭伝記事は、范曄独自の安直な造作に過ぎないのです。

この件続く

 

陳壽(中国史)小論-13 (2013) 多女子

                                 2013/09/27  追記 2020/06/05
◯国多女子
 「國多女子大人皆有四五妻其餘或兩或三」

 結婚記事で、陳壽は、裕福なものは全て四、五人の妻を持つ。さほど裕福でないものでも、中には二、三人の妻を持つものがいると丁寧に説明したのに、笵曄は、裕福なものは四、五人、さほど裕福でないものも、二、三人の妻がいて、総じて多妻と断言しています。見事な文飾ですが、無邪気な勘違いと見るべきでしょうか。

 前段に、この国は女性が多いと4文字書き足して、反論や疑問がでないように根回しして周到です。

 魏志倭人傳は、女性が貞淑で嫉妬しないと書いて、そのため、多妻家庭でも平和との示唆があり、笵曄は、この趣旨は継承していますが、流麗な加筆で多妻説を強調しています。

 中国王家の例でも、多妻は、あくまで、国王の務めであって、当然発生する嫉妬の争いは、国の乱れに繋がるので、例えば、曹魏文帝曹丕は、嫉妬が激しいという理由で、夫人を何度か処刑していて、その一人は、明帝曹叡の生母なのです。と言うことになっているものの、あるいは、将来、自身の死後、皇帝生母として暴政を敷くのを怖れたものかも知れないのです。

 今回は息抜きでした。

以上

陳壽(中国史)小論-12 (2013) 世世傳統

                            2013/09/26  追記 2020/06/05
◯世世伝統の怪
この部分でも、笵曄が文飾を凝らして、魏志倭人傳を上書きする手順である切り捨てと創意工夫は、まずは冒頭に現れています。

 「使驛通於漢者三十許國。國皆稱王、世世傳統。」

 魏志倭人傳は、「倭人は」で書き出して、山島に三十国の「國邑」があるとしています。
 国邑の邑は、文脈に応じて、巨大な「国」の時もあり、地方領主の居城の時もあり、小村落という時もあって、陳壽のように意味を絞りたくない筆者にとって、融通のつきやすい便利な表現なのです。

 実情に通じた目で冒頭記事を読んで感じられるのは、三十国は、大小に大きな差があって、大きなのは人口10-20万人程度の結構大きな「国邑」ですが、大半は百人から千人規模の「国邑」村落と読み取れます。人口万の国々が、三十国ひしめき合っているのではないのです。
 このような実態であっても、国邑の意味が緩やかなので誇張や虚偽の報告にならず、魏朝皇帝や高官に対して遠路はるばる魏使を派遣し、大層な品物を下賜した面目が立つのです。

 案ずるに、「国邑」は魏使報告書の作品かもしれません。

 陳壽は、魏使報告書に書き込まれた現地情報を背景に、安んじて「国邑」と称したのですが、笵曄は、別に150年以上前の王朝や使節団の面目に配慮する必要はないので、別の言い回しをしたのです。已に時代は、倭讃の劉宋への献使時期に当たり、交流の両側で国情が大きく変動していました。

 ともあれ、笵曄は、過去を引きずる「倭人」を排除して「倭」といいきり、現地を、はっきり30許「国」と規定し、各国王が世襲しているとメリハリを付けているように見えます。ただし、未開の国が、全て王家を維持しているというのは、大変考えにくいのです。

 笵曄は、陳壽の凡表現を改善した一流の文筆家として称揚されたいと考えたのでしょう。

 滑り出しからわかるように、笵曄は、陳壽の記述に対してメリハリを付けているので、その結果、大変文意が読み取りやすい、流麗な文章となっているのですが、よく見ると誤解や勘違いが漂うものになっています。

 以下、魏使派遣先は、大倭国、即ちその国王の治所は「邪馬臺国」となり、二人目の女王は「臺與」となって、魏志倭人傳を逸脱しています。

以上

 

陳壽(中国史)小論-11 (2013) 鬼神道妖惑

                             2013/09/25 確認 2020/06/05
◯見えない卑弥呼の姿
 「有一女子名曰卑彌呼年長不嫁事鬼神道能以妖惑衆於是共立爲王」

 後漢書倭傳で、「卑弥呼は、女王共立時、年長で嫁に行ってない女で、死んだときは老婆になっていた」との風評が形成されたのです。
 魏志倭人傳の書いた、一女子を女王共立し、その後に成人(年長大)したのとは様変わりです。

 笵曄は、倭人伝の「事鬼道能惑衆」は、迫力不足と感じたのか、後漢書では「事鬼神道能以妖惑衆」と神と妖の2文字を足していますが、陳壽は、「神がかり」を強調せず淡々と書いてたのです。
*塗りたくられた卑弥呼の変貌
 倭人傳では祖霊や聖霊と交感して庶民を感動させた年若い一女子が、後漢書では「鬼神」に仕えて衆を妖しげに欺く老魔女に変貌したために、堅実質素な女王国見聞録は、色気のある大人の話に変身しています。とは、なんたることかと戸惑います。笵曄の筆力には敬服しますが、信じがたいものがあります。 

 いくら、古代の未開社会でも人の世であり、鬼神道とやらで詐欺師まがいのことをしたと否定的な描写で知られている女性を、こぞって女王に共立するものかどうか。そして、民間人時代に神通力で知られたにしろ、女王として引きこもって人と会わないでいては、めざましい鬼才も忘れ去られてしまうではないでしょうか。

 ずっと後世のことなので、参考にもならないと言われそうですが、北宋末期、江南で起きた方鑞の乱があります。マニ教の影響と思われる宗教集団が、「喫菜事魔」と呼ばれています。字面だけ見ると、卑彌呼も、同類とされてしまいそうです。

 中国では、長年にわたって、「鬼」や「魔」に事えるのは、かなりの淫祠邪教と思われていたのではないでしょうか。

 振り出しに戻って、女王は、衆を惹きつけた人柄を見込んで共立されたはずなのです。
 范曄倭傳では、女王国の政治を男弟が助けているという独特かつ重要な字句が抜けていますが、この逸脱も深刻です。

 魚嫌いの人に供するために大骨、小骨を取ってしまったら、魚の妙味は大きく失われるのです。

以上

陳壽(中国史)小論-10 (2013) 笵曄考 2

                             2013/09/24  追記 2020/06/05
◯笵曄考
 陳壽の三国志編纂以来150年を経ていますが、その間に倭国の事情は変化していたようです。

 宋に政権が移って早々に、倭賛が献使しています。当然、上表文に、自国の歴史と地理を紹介し、自国は西晋に貢献した女王国の正統な後継者であるという話にしたはずです。

 宋書以降の倭賛の国は、九州でなく東方、私見によれば、中国地方、ないしは、大阪湾沿岸、にあったことを伺わせますが、その際に、魏志の女王国国名を邪馬臺国と改称することにより、自国の先祖に引き込んだように思えます。

 ともあれ、倭賛と後継者の上表文を元に宋書以降の正史倭傳が書かれたのは当然として、後漢書にもその影響が現れているように見えます。

 以下は、あくまで、一個人の憶測です。左遷以前の笵曄には、倭賛の上表文を目にする機会が十分にあったと推定されます。笵曄の目には、そこに倭国の正確な歴史が反映されていると見え、これにより先行する正史を訂正できると感じたように思えるのです。

 笵曄は、陳壽の記事を典拠とし、時に潤色しながらも典拠に即した記事としているのですが、そのような潤色と関係のない倭国国名の改訂の動機は、そのようなところに求めるしかないのです。憶測も良いところですが、笵曄ほどの史官が、根拠無しに典拠記事を改訂するはずがないので、一種の状況証拠として記憶にとどめたいのです。

 なお、笵曄ほど鋭敏な人物が、派閥丸ごと左遷の次に、謀反の罪での刑死(三親等以内の親族連座を伴う、大逆罪)が待ち構えている可能性があることは悟っていたはずですが、厚遇が期待できる北朝側に亡命することもなく、任地にとどまって後漢書の編纂に多大な労力を費やしたことには、大きな覚悟があったものと感じます。(家長が北朝に亡命すれば、取り残された親族は全員刑死ですが)
*范曄後漢書の暗黒時代
 笵曄の刑死後、南朝側では、中原回復の展望を失ったなか王族間闘争による流血の惨事と仏教への逃避が盛んになり、国力は衰退してじり貧状態に陥ります。
 そして、同様に流血の覇権闘争を続けた北朝側は、一旦東西に分裂して衰退するかに見えた後、何故か隋に収束して強力な国勢を得、南朝の退勢と相まって、急展開の全国統一が達成されました。
 束の間の西晋全国統一を除けば、前後併せて300年続いた漢王朝以来の正統中国政権を名乗ります。

 編者范曄が、連座した嫡子共々刑死したとき、本来、断絶されるべき范家が存続したのは、嫡子が、王族有力者と婚姻関係にあり、孫が生まれていたからです。范曄後漢書が、散逸、廃棄を免れたのは、孫が范家を再興したおかげですが、大量の後漢書遺稿を誰が取りまとめて、誰が、帝室公認史書となるように上申したかは不明です。
 南朝劉宋は、激しい内紛の末に滅亡し、続く各南朝王家も、血なまぐさい内紛の末、世代交代していたので、劉宋に対する反逆罪など、疾うに消滅したのでしょうが、それでも、どのような経緯で范曄後漢書が声望を高めていったのか不明です。

 と言う事で、「陳寿が、随時上程できるように決定稿として後継者に託していたと思われる「三国志」が、直ちに、公式写本工によってに写本され、皇帝に上程されて、直ちに、皇帝蔵書に収録され、以後、最高の手順で、代々写本継承された」と記録されている「三国志」継承過程が明らかであることから、凡そ並みいる資料の中で、もっとも、正確に継承されたと思われるのに対して、史料批判されているわけでもなく、ただ訳もなく珍重されている范曄後漢書の暗黒時代は、深い闇に閉ざされているのです。

 本項の終わりです。

陳壽(中国史)小論- 9 (2013) 笵曄考 1

                           2013/09/23 追記 2020/06/05
◯范曄考

 さて、いよいよ別の正史「後漢書」と著者笵曄(はんよう CE398-445)について論評せざるを得ません。と言うことで、今回は長くなります。
 何せ、笵曄と陳壽が、倭(人)のほぼ同じ時代の同じ様相について、一部食い違った記事を書いていることが、陳壽に対する評価が揺らいでいる原因と思えるからです。

 笵曄は、陳寿の150年ほど後に後漢(CE 25-220)の正史を編纂したのです。

 後漢の初期に倭奴国貢献記事、その末期から魏朝にかけて女王国との交流がある事を手がかりに、魏志倭人傳に相当する時期まで包含した後漢書倭傳が書かれているのです。

 女王国の貢献は三国志時代であり後漢書の埒外なのですが、前提となる倭国の乱と女王の共立が後漢時代であったと叙述を凝らすことにより、笵曄は、魏志倭人傳記事を主たる典拠として後漢書倭傳記事をまとめ上げています。

 逆に、後世からは、陳壽が後漢朝末期(建安年間の曹操時代)を三国志に取り込んで、魏朝の創業を遡らせたとの非難を受けているのです。

 例えば、通典が歴代王朝通史を編纂するときに、三国志の後漢朝期記事は重視しないようです。つまり、正史の通読の際に、魏志倭人傳は、重要視されていないと言うことです。

*西晋から劉宋に
 下記の王朝継承事情は、笵曄の執筆態度の背景を知る上で、大変大事な点なので、重複をいとわずに書き残します。
 晋朝(西晋)は、魏を継いで三国を統一したものの、激しい内乱と外敵の侵略で国が崩壊して首都洛陽が兵馬に蹂躙される事態となりました。王朝文物は最重要のものを除き失われ、魏志倭人傳の原資料となる魏朝公文書や史料文書はうち捨てられたと推定されます。

 晋朝はいったん滅び、長江(揚子江)下流の呉の旧地に東晋を再興し、王朝文物の再構築が図られたのでしょう。逃げ延びた東晋は、中原回復を狙った無理な北伐で国庫を傾けたあげく、厚遇した軍隊の引き起こす内乱の結果、これを平定した宋朝(劉宋)に国を奪われたのです。

 笵曄は、こうして成立した劉宋政権の中枢にあって広く行政に参画していながら、王族の内紛により閑職の地方官に左遷された境遇で、先人の書き残した後漢書稿などの資料に自身の執筆を加えて後漢書を完成できたのです。

 笵曄が後漢書倭傳を編纂する際に、先行する正史である魏志の倭人傳記事を典拠としたことは、笵曄の史官としての資質をうかがわせるもので賞賛に値します。もちろん、後漢書稿や別種後漢書などに、信ずるに足る倭人記事が書かれていれば採用していたでしょうが、信じるに足る新資料がなかったので、書きようがなかったものと思われます。

 以下、続きます。

 

陳壽(中国史)小論- 8 (2013) 牛馬

                             2013/09/22  追記 2020/06/05
〇牛馬考
 陳壽の面白みについて、次の例を挙げます。どうも、今回は読書感想文になりそうです。

 魏志倭人傳には、この国に牛馬がいないと書かれています。

 しかし、倭国の数万戸を有する大国は、結構大きな農業国家なのに、牛馬の助けがなくて国が成り立つのでしょうか。

 あるいは、魏使が大挙到着して、大量の下賜物を運搬するのに、牛馬がつかえないとは、信じがたいものがあります。銅鏡100枚と言えば、頑丈に木箱梱包して総重量100kgを超えるはずです。移動経路には、山道も石ころ道もあるだろうに、担いで移動するのは至難と思います。

 それにしても、山道の徒歩行らしい記述はあるものの、使節団の移動が全行程徒歩とすると大変なものです。

*肉食論
 こうした食料の乏しい時代に、肉食のために穀物系飼料で牛を飼うのは、飼料の消費が激しく、人間様が飢えそうですが、何戸かが共有で飼育して農作業に労力提供させる分には、飼料も無駄ではないでしょう。

 「牛」がいないというのは、魏使を歓待しても牛肉は食べさせなかったと言うことでしょうか。(食べ物の恨み)

 食料として、ここに記載のない猪(飼豚)肉、狗(食用犬)肉を食べていたのでしょうか。それとも、明記されている魚介類以外は、完全な菜食主義だったのか、海の魚介類も生食する刺身主義だったか、疑問がわいてきます。

 この時代の中国で、沿岸部に刺身食の習慣があったようにも聞いていますが、魏使は、海の魚なら刺身でも食べたのでしょうか。

 このように、陳壽の抑制された表現は素朴な疑問を掻き立ててるのです。

 このように、陳寿は、なかなか味のある記事を書いているのです。

 私は、現に目で確認できる資料はそのまま読み取る主義ですから、魏志倭人傳の内容を紹介しています。

 

以上

陳壽(中国史)小論- 7 (2013) 男弟佐治國

                              2013/09/21  追記 2020/06/05
〇男弟記事
 「有男弟佐治國自爲王以來少有見者」

 ここまでに書いた私の説では、魏使到着時、女王はせいぜい20歳前後と若いのです。

 政治実務を担当するとされている男弟は、「弟」ですから成人になるかならずかの若さと示唆されていることになりまます。

 しかも、女王は、引きこもっていて男弟政権の実力者であると思われる大臣たちと面会することはほとんどない。
 ここまでの記事は、読み方によれば、「鬼道に事えて衆を惑わし」ていたを見込んで女王に立てたのですが、人前に出なくては惑わしようがない、それなら、別に誰でもいいじゃないか、と言いたくなります。

 魏使の目から見て、そんなやり方で、二人の若い指導者が、総人口二十万人以上(?)と推定される大「女王国」を、難なく統治しているとは、何とも浮き世離れした国だ、と言うおもしろさを秘めているように思います。

 文書統治と官僚制の進んだ中国本土やその地方官庁である帯方郡治で、統治者は、日々膨大な文書を読んで申請内容を決裁ないしは否決し、統治者の威令を轟かすべく、指示通達を発行し、また、多くの官吏を駆使して行政するので、権力者ほど文書処理、事務処理に忙殺されます。
 同時代、蜀漢の宰相であった諸葛亮は、北伐して大軍を率いていながら、日々、成都から届く厖大な裁可上申に全て目を通し、裁決を下していたため、過労で健康を損じたものと思われます。

 また、実世界の統治者のつとめとして、多くの手紙を読んだり書いたりするし、書類申請以外にも、申請事項の面談裁決、時には、紛争当事者の意見を聞いて、調停斡旋することも伴います。

 というものの、女王国が文書統治しているはずはないので、女王は書類の山に埋もれることはなく、また、臨見せずに引きこもっているので、面談に追われることももなく、俗世から孤立している女王が、無事に女王国を統治しているというのは、国のあり方として誠にのどかであり、陳壽にとって、ある種の夢物語であったのでしょうか。

 陳壽は、こうした記事を不審の目では書いていないので、倭人の振る舞いを書くことによって、政治のあり方を正そうとする「春秋の筆法」なのかなとも思いますが、結局は、よくわからないのです。

以上

陳壽(中国史)小論- 6 (2013) 年長大

                              2013/09/20  追記 2020/06/05  
◯「年長大」の架ける橋
 中国語の「長」という漢字には、二つの独立した意味があります。

 一つの意味は、「長短」の度合いで、長いという意味(形容詞)です。

 もう一つの意味は、成長する、年齢が長じるという意味(動詞)です。

 それぞれの意味で、中国語の発音は少し違うのですが、文字は同じなので文脈で区別することになります。

 これに従い「長大」には大別して二つの意味があります。

 一つは、我々日本人にもなじみの深い、何かが大きいという意味です。
 もう一つは、日本人にはなじみのない、人が成人(18歳)に達する、大人になる、という意味です。

 ここでは、「年長大」としているので、年齢の意味であることが明示されています。ただし、ここでも、大人であるという意味(形容詞)ではないのです。

 前に「已」が付くと、そう遠くない過去に成人に達したという現在完了の意味が読み取れれます。私の推定と異なって、女王共立がかなり昔であり、女王が成人をとうに過ぎていると現地で周知だったら陳壽は別の言い回しをしたはずです。

 後ほど、笵曄という大家の誤解の例が出てきますから、見過ごしても仕方ないのですが、それにしても、笵曄が、「年長大」は、「年長」+「大」、つまり年がいっていると読み解いたのは、元々の意味と変わってしまっている(逸脱)と思われます。

 陳壽は、丁寧に「年」を追加して「已年長大」と書き、体格の話でないことを明らかにするとともに、「已」で成人に達して間もないと示唆しているのです。一字の過不足もない見事な書き方です。

 なお、「長大」は、随分古典的な成句であり、中国語事典には、三国志(ということは、発生したのはそれ以前の歴史時代)から、近代・現代まで用例が収集されています。

 また、古典的な意味なので日本語の古典表現として国語辞典(例:広辞苑)にも載っています。

 「長大」の詳しい意味と使い分けは中国語の辞典/事典(例:百度百科)に出ているので、興味のある方はご確認ください。なお、現代中国語ではありふれた用語のようです。

 私の以上の論点から見ると、魏志倭人傳の「已年長大」という言葉は、これまで誤解され続けたようです。

 古田武彦氏は、近著「俾弥呼」でも、女王老齢の風評に反対して「長大」を30代と論じていますが、これは、魏朝皇帝曹丕の就任記事の用例に基づく解釈であり、百度百科にも小論の「成人になる」に続いて収録されている合理的な解釈です。

 追記:正確に言うと、当用例は、「呉志」の記事であり、魏志ではありません。また、孫権と臣下の問答の引用であり、当時、呉の宮廷で語られていた言葉遣い(地域用語)と言うだけであり、古典書本文ではないのです。ここでは、文章解釈はしていませんが、別記事で精査しています。

 と言う事で、三国史編者が、古典書に照らして適切と認めたものはないので、用例審査をすれば不適格と言えます。用例を早のみこみするのは、古田氏の史家としての限界と言えます。いや、大抵の史家は、大抵の場合、早のみこみで、誤解するので、同という事はないのですが。

 しかし、それでは、字句を吟味して、未成年一女子として共立された女王が、今や成人に達したという倭人長老の感慨が失われ、陳壽の本意ではないと思います。
 陳壽は、なかなか味のある記事を書いているのです。

 私は、現に目で確認できる資料はそのまま読み取る主義ですから、魏志倭人傳の内容を紹介しています。また、以上は、中国語の解釈として、普通の手順なので、特に根拠を示していないことが多いのです。

以上

陳壽(中国史)小論- 5 (2013) 女子王

                              2013/09/19 確認 2020/06/05  
〇女王国の由来
 陳壽の面白みについて、次の例を挙げます。

 魏志倭人傳は、この国「倭人」が女王国となった経緯と初代女王の人となりが述べられています。

 「乃共立一女子爲王名曰卑彌呼(-6字略-)年已長大無夫婿」

 案ずるに、元来、倭国は統一国家でない国家連合とはいえ、国の数で言えば小規模な村落国家が多かったと思われます。

 国家連合の盟主として男性の王を担いでいたら、あるとき国同士の喧嘩が収まらなくなった。卑彌呼という名の若い娘(一女子)を王に立てたところ、みんな仲良くなった。女王は、成年(十八歳)になった(年長大)。女王故に配偶者(夫婿)を持たない。

 政治を担当しているのは男弟である。女王は、人と面会することはほとんどない。

 今回の私の読み解きは、一般的な理解と異なっています。

 当ブログ記事の発端は、ごく最近「一女子」が若い娘ではないかと思いついたことにあります。

 この意見の先例を調べたところ、随分以前に木佐敬久氏が、添付資料に出てくる対談で提示しているとわかりました。明らかに前例のある意見と言うことです。

 一般には、魏志倭人傳の記事で「一女子」は、成人女性と解されています。しかし、それなら婦人など別の言い方があります。ここは、素直に「女の子」と解したらいいのではないでしょうか。

 さらに年少なら「女児」「女孩」とか言いそうなものです。

 中国では、伝統的に18歳成年(数え)であり、中国語で年齢を形容するときには、これに従ったであろうということで、「一女子」の年齢は15歳程度(数え)となるのではではないでしょうか。

 因みに、若干ややこしいのは、中国語で「男子」と言うときは、伝統的に成人男性を指すことが多く、「女子」「男子」と対になっていても、簡単に類推できないのです。

 私が、共立時の卑弥呼を若い娘と見たのは、一呼吸置いた直後の「已年長大」との関連です。

 「長大」は、幼いものが長じて(年齢を加えて)大(大人)になる意味ではないのかと、ある日思いついたのです。そう思って、魏志倭人傳を読み直して、直前の「一女子」に引っかかったのが、実際の検討手順です。

 「長大」論議が続きます。

以上

陳壽(中国史)小論- 4 (2013) 食い物のうらみ

                                     2013/09/18

 ここまで読んでいただけた方は、辛抱強い読者と思いますので、ここからは、なるべく短く区切るようにします。

 陳壽の史官としての資質を明らかにするために、魏志倭人傳記事の面白みについていくつか例を挙げます。

 魏志倭人傳は、前半部分の道里記事や風物民情の紹介記事では、魏朝正始年間に女王国に派遣された魏使の出張報告書を利用していると思われます。

 その中に、倭人は、韓半島に比べて温暖な土地で食料に恵まれているはずなのに、味気ない生野菜を食べる、と言う記事に続いて、野生の薑(はじかみ)や椒(山椒かな)のような香辛料類や酸っぱい橘(酢橘かな)が採れるのに、それを食べ物に振りかけて、味を引き立てようとしない、という記事を採用しています。

 「倭地溫暖冬夏食生菜」 「有薑橘椒蘘荷不知以爲滋味」
 魏使は、帯方郡治から北九州に到達するまでの韓半島内の行程で、寒い思いをしたのでしょうか、海峡を越えて北九州に来たら温々して、毎日過ごしやすかったのでしょう。

 ただ食に関しては、「毎天百五」(今日も寒食、明日も寒食)とでも嘆いたのでしょうか。寒食でもあるまいに、来る日も来る日も、火を通さない生ものの味気ない食事ばかり、という嘆きが聞こえそうです。ご苦労様というところでしょう。

 寒食(かんじき)とは、春秋時代の介士推を偲ぶと言われ、冬至から百五日目の寒食節の日、火を通さない食事するものです。

 古来、食い物の恨みは恐ろしいと言います。魏志倭人傳は皇帝の目にも触れる公文書なので、不平不満を生の形で書いていませんし、魏使がそれをどう克服したかは書かれていませんが、倭人に依頼して食事の味付けを中国人好みに改善したのでしょうか。

 ひょっとすると、懐から香辛料の包みを出して、どさっと振りかけるようにしたのでしょうか。倭人が、使節の不作法に眉をひそめ、強い匂いから身を遠ざけるのが見えそうです。

 そうしてでも食事を改善しなければ、食の不満から強烈なホームシックにとりつかれて、長期滞在は大変な苦痛になったでしょう。

 陳寿は、このように味のある記事を書いているのです。

 私は、現に目で確認できる資料はそのまま読み取る主義ですから、魏志倭人傳の内容を紹介していきます。

以上

陳壽(中国史)小論- 3 (2013) 擁護論

                          2013/09/18  更新 2020/06/05
*妄説横行
 インターネットサイトの記事や各種フォーラムで、陳壽が編纂した魏志倭人傳の記事が不正確と非難する人が結構多いのには驚きます。

 こういう発言をする人は、魏志倭人傳という、現に目で確認できる史料について、何を基準に不正確だと批評しているのか、根拠を明言しないで所感を述べ立てる例まであり、また、根拠となる別資料が示されていても、一般人には参照困難な場合も多いので、議論の手順として大変不思議なのです。英語で言うフェイク「fake」ジャンク「junk」と呼ばれる塵芥の類いと思います。

 また、別の論法では、魏志倭人傳はこうだが、別の複数の権威ある資料には、そう書いてないから、魏志倭人傳記事は信用できない、との論法がありますが、元資料の内容を誰かが引用紹介している資料を根拠に魏志倭人傳記事を否定することは不合理ではないかと感じています。

 実際、大抵の発言は、決めつけに終わって、他者を納得させるに至っていないのです。

 陳壽は、自分では非難に対して反論できないので、私が代弁しないといけないものと感じています。

*陳寿概要
 陳壽は、三国時代の後半を生き、自身の体験として記憶している同時代人であり、成人に達してから、西晋朝の三国志編纂任務を課されましたが、任務を果たすために、洛陽に帝都を置いていた後漢朝、魏朝の各種公文書を、任務のために参照することができました。
 古来、史書編纂を公務としている史官以外のものは、公文書を調査することは厳禁されていて、後漢代に漢書を編纂した班固は、当初、史官であっても、公務として指示されていない史書編纂を行ったとして、処刑されかけたのですが、班固が、正史編纂にふさわしい史官であることが認められて、命拾いしたとされています。
 少なくとも、西晋に至る各王朝では、部外者が、機密資料を渉猟することは厳重に禁止されていたから、史官ではない素人が、史書を編纂するには、先行史書を引用するしかなかったのです。

 公務であれば、資材、人員が付与されるので、必要があれば、弟子などに指示して深く調査することができたし、あるいは、存命中の関係者に手紙で問い合わせたりすることも許されたのだから、史実と資料に大変近い足場で三国志を編纂たはずです。

 言い方を変えれば、陳壽は西晋朝でただ一人、三国志編纂で同時代史を書いたのです。

*中原喪失
 以下の時代の史官達は、陳壽と同等の立場に立てないことになっています。
 陳壽の存命中にはさほど目立っていないのですが、三国を統一して無敵となったと思われた晋朝が内乱で凋落して、戦乱の谷間に墜落していったのです。

 とば口は、晋朝王族であって各地に領地と兵力を持った王族間の権力争いである八王の乱(AD291-311)です。
 晋王朝の中央政府は、三国統一後の平和を祝うように、大幅に軍縮していたので、国内の統制力がなくなったにもかかわらず、各王は、独自に兵力を募って首都に進軍することが可能なほどの寛大な自治を許されていて、徒党を組んで首都を攻撃したのです。
 歴代王朝で農民反乱などで首都を攻撃された例はあっても、王族が堂々と首都攻撃を行ったのし珍しいのです。

 このように深刻な内戦で西晋朝は弱体化しましたが、各王族が互いに傷つけ合って、国内の軍事力が消耗する果てに、匈奴などの北方民族が傭兵として導入され、内外の戦力が逆転した果てに、北方民族の軍が侵入する永嘉の乱 (CE311-316)が起こり、ついに首都洛陽が蹂躙され、皇帝、皇妃を始め、八王の乱を生き残った王族まで連れ去られて、西晋朝は崩壊し亡国の憂き目を見ています。

 このように、ほぼ25年に及ぶ大乱 (CE291-316)で、首都洛陽が壊滅したことにより、大規模な資料散逸・消失が起こりました。

 辛うじて脱出に成功した王族によって、長江(揚子江)流域に東晋朝が復興しましたが、王朝が継承し蓄えてきた後漢代以来の公文書などの貴重な資料は、ほとんど取り戻せなかったのです。

 東晋朝と後継宋朝が、後漢書編纂に懸命に取り組んだとしても、陳壽が健在だった頃の西晋朝の豊富な資料を駆使して同時代史を編纂した編纂環境の充実度には、到底及ばないのです。従って、このような大変動の後に書かれた正史が、魏志倭人伝にない原資料を駆使して、より、正確に当時の現地事情を期日したとする意見には、賛成しかねるのです。

 魏志倭人傳に不確かさがあっても、後発の正史や記録文書は、魏志倭人傳と同時代、同地域に関して書く時に伴う不確かさよりは、随分少ないとみるのが合理的な推定であり、そのような違いを考慮することなく比較議論するのは、合理的な論証手順ではないと思われます。

 以降、根拠のない陳壽批判を批判するのは避けて、陳壽擁護論を提案し高評を仰ぐことにします。

 私は、現に目で確認できる資料はそのまま読み取る主義ですから、魏志倭人傳の内容を紹介しています。

以上

陳壽(中国史)小論- 2 (2013) 魏志倭人傳

                                    2013/09/16   更新 2020/06/05
◯倭人伝という名の史料
 「魏志倭人傳」(倭人伝)に関する議論で、時々驚かされるのが、「魏志倭人傳」は通称であって正しい呼称でない、と言う大変強い指摘です。

 先の発言に驚いた原因は、権威のある歴史学者やベテランの小説家が、特に論拠も示さずにそのように発言していることです。

 しかし、中国正史「三国志」の現存版本(木版印刷出版物)である「紹熙本」(しょうき)の写真版(影印版)をみると、そこには、本文に先立つ行に「倭人傳」と見出しが書かれています。発言者は、紹熙本の史料を見ているのかいないのか、と不思議に思えると言うことです。
 権威者の発言でも、証拠の裏付けがなければ採用できないのが常識です。

 私は、現に目で確認できる資料はそのまま読み取る主義ですから、以下、「倭人傳」と読んで内容を紹介します。

 上に名前の出た「紹熙本」は、南宋紹熙年間(CE1190-1194)に出版された、ないしは、出版の指示が出た)版本であり、上で触れたように「三国志」の現存版本で、有力な資料とされているものですが、それ以外に紹興年間(CE1131-1162)版本「紹興本」が有力とされています。またも余談ですが、紹興年号は、同年間に命名された都市名である「紹興」と当地の地酒から発展したとされる紹興酒に名をとどめています。

 ともあれ両版本は、三国志執筆以来900年にわたって営々と写本で継承されてきた史書を、木版印刷出版業の興隆したこの時期に、大々的に印刷発行したもので、おそらく正史史書として空前の普及を示し、後年版本の典拠とされたと見られます。

 数千年に渡る歴史を綴った正史史書は、本来の中原を追われて難局にある中国人に、過去、難局に立ち向かって乗り越えた先人の事績を知らせることにより、大きな勇気と自信を与えたのでしょう。

 ただし、近接して発行された両版本の倭人傳には、一部文字に違いがあり、引用参照する際には、慎重に比較確認して、利用した版本と所蔵先を明らかにするものです。

 なお、紹熙本は、靖康の変(CE1127)による宋朝南遷(晋王朝の二の舞でした)に先立つ北宋時代版本の復刻版で、現存最古の内容を保つと言われています。

 とはいえ、(大々的に)印刷発行されたはずの北宋版本は残存せず、確たる証拠に欠けた推定にとどまっています。結局、.北宋時代の木版印刷では、小部数発行されたにとどまり、大半が宋朝高官の手元に留まったのではないかと推定しています。

 北宋(AD960建国)は、戦乱に備えて内部まで隔壁城塞化した長安や洛陽でなく、運輸交通に便利で、城塞化もほとんどされていない開封に首都を置き、軍縮による軍事費縮小と兵力削減による人材民間活用を目指して、国内移動や商業活動をほぼ自由化したので、中国史上初めて市民階級の経済活動が本格化したと言われています。

 とはいえ、製紙技術定着以来1000年を経ても、まだまだ紙の価格は高く、従って手ごろな価格の書籍を大量流通させる体制も整っていなかったので、書籍の中でも、分量が嵩張って、内容が専門的な正史史書の普及には至らなかったのでしょう。

 皮肉なことに、開封など めざましく繁栄した大都市を含む、黄河流域の中原を大きく取り囲む国土北半分を失い、長江(揚子江)流域に追いやられた南宋で、むしろ経済が発展して商工業が一段と拡大し、三国志版本の大量印刷販売が実現したのです。これにより、正史史書は富裕な市民階級まで普及し、幾度かの大乱を超えて生き残ったのです。

 いや、ご存じのように、三国志南宋刊本は、海を越えて「日本」に齎され、今日に至っているのです。中国本土は、王朝交代時の戦乱などによる損壊も多く、最後は、日本軍の空爆で、上海図書館が全壊したなどの戦災もあって、三国史南宋刊本の善本は、中国全土には希であり、むしろ、宮内庁書陵部に継承されている三国史南宋紹凞本など、徳川幕府や江戸時代有力大名の蔵書頼りなのです。

 今回、色々知を尽くして紹興本写真版を確認すると、「倭人傳」の見出しはないようで、これは、両版本間の相違点の一例です。

 とはいえ、現に紹熙本に倭人傳の見出しがあるので、「三国志魏書」のこの部分を「倭人傳」と呼ぶ根拠としたいと思います。現物確認主義は、手間がかかるのです。

 「魏志倭人傳」に対する否定的意見の根拠を案ずるに、史書の構成として、倭人に関する記事の段落は、「東夷傳」などの「傳」の一段下であり、これを「東夷傳」と同列に見せるような「倭人傳」扱いは、おかしいとの指摘なのでしょうが、三国志版本の見出し付けに対して、後世の文書管理論を元に否定し去るのは、過剰な介入ではないかと考えます。

 ということで、紹熙本を見る限り、「三国志-魏書-倭人傳」の構成が読み取れるのです。

 紹熙本「東夷傳」の他記事も「傳」の見出しがあるので「倭人傳」見出しは三国志紹熙本の原則通りであり順当かつ合理的な読みです。

 最後に、三国志の魏朝記事を、本来の書名である「魏書」でなく「魏志」と通称する理由は、以下のようなものと考えます。

 正史には、南北朝時代の魏(北魏)の正史である「魏書」があり、両者の混同を避けるには「三国志魏書」と呼ぶ事になり煩わしいのです。

 北朝の魏の通称である北魏は、三国時代の魏との混同を避けるために、便宜的に「北」と付けて呼んでいるだけで、国名は魏であり、正史は魏書なので、この正史を「北魏書」と呼ぶのは、間違いなのです。

 結局、「魏志倭人傳」の通称は、以上の実際的な理由から工夫された通称であり、広く通じています。この呼称は、大きな間違いではないし何より簡便なのがありがたいのです。ということで、私は、以下、通称である「魏志倭人傳」で呼ぶことにします。

以上

陳壽(中国史)小論- 1 (2013) 序文

                                  2013/09/15 更新 2020/06/05

〇はじめに
 陳壽(ちんじゅ CE233-297 陳寿)は、中国の歴史家と言うより、当時の晋(西晋)王朝の史官であり、紀元二-三世紀の中国三国分裂時代(CE184-280)の歴史書「三国志」の編纂者/筆者として名を残しています。

 私の見るところ、なかなか誠実な歴史家であり、自らも生きた三国時代の歴史、いわば同時代史を、蜀人としての個人的な意見や晋吏としての公的な立場をあまり表に出さずに、客観的な筆致で書き残しています。

 注目すべきは、晋朝の許可を得て、三国角逐の旧敵国である蜀宰相諸葛亮(CE181-234)の著作全集を編纂発行しています。

 特に、日本では、現在の日本に相当する地域にあった女王国が魏朝に貢献したことに始まる史上始めての日中交流を、漢字二千文字程度の紹介記事として、魏朝の公式歴史書である正史「三国志」に書き留めてくれたことが知られています。

 しかし、陳壽とその著作である「三国志」に対して、疑問と不満が提示されているのは、まことに残念なことです。

 私は、現役を引退した一介の民間人であり、もともと文系と言うより理工系の教育を受け、理工系の仕事に長年専念した者ですが、退職後暇になって、手薄な文系教養を掻き立てつつ関係資料を眺めていて、素人目にも残念な意見が多いので、ここに、ささやかながら異論を呈したいと思います。

 ここまで、慎重に論争の種を避けた言い方をしてきましたが、私の意見の根幹は、陳壽の書き残した記事を、まずは、そのまま読み解く立場であり、これは、理工系分野では正統的な態度であるので、この立場から、世間に流布している陳壽記事に対する疑問と不満について、出来るだけ筋道を立てて擁護したいと考えます。

 もちろん、ここで開示するのは、一介の素人の意見(素人考えの私見)であり、文章の体裁上、出来るだけ留保を避けるものの、本来、こうした意見を他人に押しつけるつもりはないので、冷静に受け止めていただければ幸いです。

 なお、話題の性質上、一般読者に説明不足で理解困難でしょうし、論文気取りで根拠を示そうとすると膨大になり一個人の暇つぶしでできることではないの、不親切であることはご容赦ください。

 最低限の参考資料を後ほど開示したいと思いますが、逐一私見の典拠を書き出せないことを、あらかじめお断りします。

 また、先輩諸氏の発表内容を幅広く確認することは大変困難なので、見落としや漏れは、ご容赦ください。

以上

私の本棚 27 完全図解 邪馬台国と卑弥呼 2015 その7 女王像

  別冊宝島2244 宝島社                       2014年11月発行

 私の見立て★☆☆☆☆ 乱雑、粗雑な寄せ集め資料    2015/06/18  追記 2020/06/05

*女王像の適否
 ここでは、原文の女王像について、本書に提示された解釈を批判する。

 本書32ページに、「倭の女王」(壱与)が「魏を滅ぼした晋に使いを送った」と晋書に書かれていると言う。しかし、晋書四夷伝には、主語無しに「泰始初遣使重譯入貢」と書いてあるだけである。遣使したのが、「倭の女王」かどうか、女王は、壱与かどうか、ここで言う「倭」が、魏志倭人伝でいう女王国かどうか、全て、検証する必要がある。

 正確には、書いていないことは判然としないと言うべきである。

 事のついでに言うと、また、魏を「滅ぼした」晋とは書かれていない。史料引用を紹介すべき記事に、個人の感想に基づく余計な言葉が足されているのは、まことに不用意である。

*Wikipedia批判 余談の余談
 因みに、関連資料を求めて辿り着いたWikipediaで「晋書起居註」と書かれているのを見て、びっくりしたことがあるが、「晋書」に「起居註」がないのは、常識と言わないにしても、晋書を検索すればすぐわかるのに、当人のうろ覚えをWikipedia記事として書き立てる悪習が蔓延しているのである。このあたりの自明事項を見逃すのは、門外漢の素人書き込みという事だったのだろう。見当違いの議論がはびこっているのも、道理である。

閑話休題。本題に戻る

*年長大~誤解の宝庫
 口語訳では、「すでに相当な年齢に達しているのに夫や婿はなく」とあり、ここでも、史料原文を離れた筆致である。第一歩が、勝手な創作に堕して、このように傾いていては、以下の進行は推して知るべしである。

 本書46ページでは、「成人となっていたが、夫はなかった」と異例なほど穏健な書き方であるが、原文はもっともっと淡泊に書かれている。

 私見では、原文は(数えで15歳程度の若年の)「女子が共立された」、(魏使到着時点)「すでに成人となっていた」、「夫はなかった」と、淡々と書いているだけである。

 「已年長大」とは、記事の書かれた年、ないしは、数年前までのいずれかの年の元日に、数えで18歳になって成人となった、と言う意味
と思われる。少なくとも、現代中国語では「年長大」は大人になるという意味であって、いい年をした大人という意味ではない。

 ただし、後継の壹与は、13歳で女王となったと書かれているので、卑弥呼の年齢を伏せる書き方は、記事の調子が合わないのである。陳寿の元に、女王に共立されたときの紀年や年齢が書かれた資料がなかったためかどうかは、不明である。

 古田武彦氏は、倭人伝の裴注(裴松之注釈)を元に、倭人は、春秋の二度加齢する習慣であったと説いているが、そうであれば、記録には卑弥呼は7歳で女王となったと書かれていたはずである。陳寿は、その年齢を見たが、同じ記録に女子と書いてあって、幼女と書いてなかったので、辻褄の合わない年齢表記を避け「女子」表記を残したとも推定される。(女子謎かけ論は別記事に譲る)

 一夫多妻の風俗があった倭国で、成人女性で未婚というのは特記すべき事項と思われたのだろうが、記事は事実の指摘だけである。

*迷走する女王像創作競争
 共立した国に対して公平であるべき女王が、しかるべき地位の男性を配偶者とすれば、それ以降女王の判断は夫に影響される可能性があり、従って、夫の属する「国」に有利となり、不公平となることから、女王は、未婚のままでいるべきと判断されたということかも知れない。

 本書の他のページでは、この淡泊な記事に色とりどりの誇張が施されていて、原文を離れて、各自の世界観(各人が勝手に構築した架空世界という意味である)が高々と掲げられている観がある。各自の世界観は、各人固有の知的財産であり、これらを統一、収束させると言うことは、無理というものではないだろうか。

 本書57ページでは、「かなりの高齢で、おまけに独身だった」、と書かれている。独身は、おまけだったのである。数文字の「彩り」ある言葉の追加で、大きく印象が変わるのである。学術的な議論では、史料記事に勝手な彩色を与えるのは、自制、自戒すべきだろう。

*新羅本紀批判
 さて、こうした「卑弥呼老女」史観が、朝鮮「正史」三国史記の西暦173年に相当する新羅本紀に、「二十年 夏五月 倭女王卑彌乎遣使來聘」と書かれている記事を参考にしているとすれば、過去の行きがりや世間体を顧みず、考え直して頂きたい。

 別記事で批判を予定しているように、諸般の資料、特に、魏志東夷伝全体と比較参照すれば、三国史記のこの時期の記事は、後代記事を流用した時代錯誤の造作であることが明白なので、「倭女王卑彌乎遣使」記事は、全く信用できないと結論するものである。

 史料重視と言っても、「正史」と呼ばれている史料だから信用すると言うことでは無いのである。正史とは、正確な歴史という意味ではない。「正確な」歴史など、幻想そのものである。
 また、朝鮮などで蛮夷の国には、「正史」はありえない。勝手に言っているだけで論外である。
 色々、史料批判を妨げる誤解が出回っているようである。

未完

私の本棚 26 完全図解 邪馬台国と卑弥呼 2015 その6 兵站

  別冊宝島2244 宝島社                        2014年11月発行

 私の見立て★☆☆☆☆ 乱雑、粗雑な寄せ集め資料    2015/06/18  追記 2020/06/05

 古代学の分野では、考古学も書誌学も立ち入らないと思えるので、下賜物搬送に関する兵站について考察を加える。ただし、以下の議論は、具体的な資料に基づく考察は少ないので、当方の勝手な推測として、読み飛ばして頂いて結構である。

*下賜物搬送考
 ここで、原文を冷静に読み解いて下賜物の処置について考えてみる。

 ここに列記された下賜物は、銅鏡百枚という極めつきの重量物以外にも、なかなかの物量があって、箱詰めして総重量数トンはあろうかと推定される。いや、輸送に際して、小分けした荷を、人手で運ぶことが多いのを想定して、小分けされていたろうから、個別の荷の箱なり過誤なりの重量が結構厖大になるのである。

 銅鏡の外形寸法が明確に想定されていない以上、銅鏡百枚の正味重量は不確定であるし、どのように、一枚、一枚を梱包するかも不明であるから、数トンという総重量も推定であるが、総重量二百トン以上の金属貨物を輸出した経験から、おおむねその程度と憶測しているのである。少なくとも、十人程度で運べる嵩でも重量でもないと推定して、外れていないと思う。

 下賜物を、二人単位で担送できる程度の重量に小分け梱包した上で、それぞれの個別の木箱に担ぎ棒を付け、道中の陸送は、それぞれ二人の人夫で担送することになるのだろうか。それとも、個々の荷を背負い運ぶことになるのだろうか。
 全体で数十人の人夫となるものだろう。まさか、道中担ぎづめとは行かないだろうから、区間を決めて交代して。荷送りしたのではないだろうか。いや、魏帝国の官道は、税金代わりの穀物や専売品の食塩のような重量物が常時移動していたから、賃料目当ての人夫は、手ぐすね引いて待機していたのではないか。

 これに比べると、倭国使節の献上物は、軽量のものであり、せいぜい数人分の荷物と思われるから、洛陽に届ける際の人夫は少人数であり、帰り道、自分たちで担いで帰れとも言えないはずである。

 貨物運送が発達した時代ならいざ知らず、後漢末期以来の戦乱続きで倭國まで官営運送網は、人的資源も含めて十分に整備できていなかったと思われる。とにかく、高価かつ、大重量の下賜物を「大海」を越えて長距離運搬するには、相当念入りの準備が必要である。
 まずは、洛陽を出るとき、下賜物を運ぶ人夫は、魏皇帝の手配した信頼できる人夫と言うことになる。また、高価な物品なので、屈強な護衛が必要である。

 ついでに言うと、使節が持ち帰ることにすると、使節達に人夫や護衛が加わって大集団となった一行全員の食糧や宿泊を、全行程にわたって確保する必要がある。

 魏国内は、日頃船馬の往来が盛んで、各宿駅に対して帯方郡への荷送りの手配との文書通達だけで、各地での手配ができたとしても、渤海/黄海を越えて韓半島に渡った後はそうも行かず、帯方郡治で荷を引き継いで、郡の手配した人夫と交代というのが、物の道理と言うことであろう。

 魏朝の威光が韓半島末端まで行き届いていたとすると、帯方郡治にあらかじめ届いていた朝廷通達で、人夫の手配、途中の宿泊地の手配、船の手配、等々、この行列がつつがなく進むような手配ができたものと思われる。

 それ以外にも、行程途中の諸國、諸勢力が、高価な下賜物に手を出さないという確信が必要である。つまり、後漢朝から天下を引き継いだ魏朝の意向が、東夷にくまなく及んでいた徴である。

 以上のような手順は、時代によって、多少の違いはあっても、山東半島など中国大陸から倭國までの直行の船便が確立されるまでは、避けられない手順と思われる。

 かくも大量の下賜物の送達は、魏朝の権力と威光を物語る大事業だったのである。

*別送の顛末
 以上のように下賜物運送の全貌を想定してみると、このような大事業は、倭國遣使の帰国に間に合わなかったと見るのが至当と思われる。

 そのような大事業であるから、下賜物が全て倉庫に並んでいるのを確認した上で詔書を起草したとしても、輸送に必要な箱詰めには相当の時間がかかるから、そのために間に合わなかったということかも知れない。また、下賜物の運搬役や護衛役の陣容が揃わないという事情もあったろうし。

*20年一貢という事
 これまで、盛大な下賜物は、新来の東夷に対して魏帝国の威信を示すものであり、経費は度外視されたという趣旨で書いているが、それは、あくまでも、新来の東夷に対する措置であって、一度臣下になってしまえば、他の臣下との釣り合いもあって、定例的に大量の下賜物は支給できるものでは無いのである。また、頻繁に来訪されては、受け入れの負担が嵩むのもあって、例えば、20年に一回の来貢としていたのである。

 ここで言いたいのは、下賜物としての銅鏡百枚、および後年の追加支給であるが、魏朝皇帝の所蔵品として備蓄されていた銅鏡、おそらく、漢鏡や後漢鏡を払い出すことは、いわば、百年来の在庫の総ざらえとして実施できても、更なる支給を求められたとき、元々国内での需要が限定されていたことから、作り置きは限られていたと思われることから、仮に、次回は、20年先であっても、銅鏡の在庫が底をつくことは避けられ無かったはずである。

 いくら中原王朝とは言え、倭国からの貢献に対して百枚と言う大量の銅鏡を追加支給するのは、鋳造に大量の銅材を要する上に、少なくとも、皇帝付きの職人工房である尚方の鋳造職人の多大な労力を費やすことになり、天下を平定したわけでない、臨戦態勢の魏朝としては、とても、対応しかねるものだったに違いない、ということである。
 ちなみに、在世中の明帝は、戦時体制の国威を投入して、新宮殿の造営に注力し、多用される青銅装飾品の新作に、尚方は忙殺されていたのである。青銅素材も、払底していたに違いない。

 ひょっとすると、追加支給に替えて、鋳型と数個の鋳造サンプルを提供し、あとは青銅鋳造技術の確立されている倭国で、好きなだけ現地生産しろ、と言い渡したのではないかなどと余計な空想を巡らすのである。

未完

私の本棚 25 完全図解 邪馬台国と卑弥呼 2015 その5 景初遣使

    別冊宝島2244 宝島社                    2014年11月発行

 私の見立て★☆☆☆☆ 乱雑、粗雑な寄せ集め資料    2015/06/18  追記 2020/06/05

 口語訳批判に戻る。
*景初遣使と下賜物
 ここでは、原文の景初遣使にまつわる記事の翻訳について批判を加える。

27. 景初遣使
、ここでは、景初二年と原文のまま読んでいるが、本書19ページおよび21ページでは、景初三年と、根拠を称すること無く読み替えている。
 本書を、一冊の書籍資料としてみるならば、各部を継ぎ接ぎして並べるのではなく、全体としての説明が必要であろう。

28. 「その年の十二月」
 と書いた後に続いている「魏の皇帝曹芳」は、原文には書かれていない。
 魏志倭人傳の記事のまま、景初二年の遣使と読むのであれば、この時点の皇帝は、実名を挙げていないものの、曹叡(明帝)であり、明らかに解釈が混乱している。

*皇帝の付かない景初三年
 本書22ページなどでは、景初三年時の魏皇帝は、曹叡(明帝)と書かれている。無知は、いやしがたいものである。

 景初三年時の魏皇帝は「曹芳」である。皇帝曹叡は、景初三年一月一日になくなったので、以後皇帝曹芳なのである。正し、元号は、皇帝没後の翌年年頭なので、皇帝の付かない景初三年が続いていたのである。

 因みに、当代皇帝の実名を口に出したり、書き出したりすることは大罪であり、王朝が存続している間は、そのような大罪は避けねばならないのだが、後世の論者としては、そう呼ぶしかないのである。

 なお、皇帝曹芳のことが、時に斉王芳と書かれているが、これは、即位前および廃位(退位)後の地位を言うのであって、在位期間中、皇帝斎王芳と呼ばれてはいない。

 さて、魏皇帝の詔に、下賜物を「難升米、牛利に持たせ」るとは、原文には書かれていない。とても、手土産の粗品を持参した面々の持ち運びのできるような代物でないのは明らかである。「録受」せよと書いているのである。

 おそらく、翻訳者の脳裏には、御自分が想起した皇帝の言葉が鳴り響いていて、それをすらすらと書き取ったのだろうが、原文を遠く離れた創作となっている。

 魏皇帝の詔は、「録受」せよと書いているように、使節に目録を持たせるから、当座はそれを読んでおけ、追って、実物を送り届けると言っているのではなかろうか。

*下賜物兵站
 下賜物の搬送に、大層な準備時間と労力がかかるという事情に加えて、早世した明帝曹叡の国葬、即日後継皇帝に就職した新帝曹芳の即位儀礼など、優先度の大変高い国事が延々と続いたはずであり、結局、下賜物の発送は、正始元年となったと思われる。

 ここまでの走り読みでわかるように、皇帝詔書にまつわる記事の翻訳の際に、翻訳者は、自分なりに原文から読み取った成り行きを、いわば一幕のお芝居として描き、それを現代語で書き出しているようである。

 しかし、「自分なりに読み取った成り行き」は、すでに翻訳者の創作的な補充を多分に含んでいて、そのために、時代考証の視点から見ると「現実離れ」した情景を書き出してしまったものと見えます。

 と言うことで、新皇帝就位後の正始元年に、帯方郡から倭国に使節が派遣されているが、その際に、詔に記された小山のような下賜物が届けられたと見られる。

 この使節は、皇帝の名代である魏国使節と共に下賜物の運搬と護送のために、かなりの人数の兵士と人夫を伴った大使節団となっていたと思われる。

 原文によれば、倭国には、言うに足りるほどの牛馬がいなかったと言うことだから、人夫の担送は続くのである。それまでも、韓半島からの到来物はあったであろうから、ある程度の担送人夫はいたであろうが、手不足になって、周辺の農漁民に対し、「労役」を課したのであろう。

 以上のように、魏志倭人伝口語(現代語)訳は、労作であり、のどごしの良い滑らかな日本語になっているが、滑らかな文章にする際に添加された後代記事のために内容が不正確との疑義が拭いがたく、丁寧に言うと現代著作物となっているので、それは、決して、古代史史料ではなく、本書の言う一大プロジェクトの第一歩としては、ものの役に経たないと率直に言わざるを得ない。

 こうした指摘は、耳に痛いものなので、ひっそりとご本人に説明できれば良いのだが、そうも行かないので、ここに書き残すだけである。
 故人の名誉のために、どなたかダメ出しをすべきではなかったかと思われる。

未完

私の本棚 24 完全図解 邪馬台国と卑弥呼 2015 その4 沈む親亀

   別冊宝島2244 宝島社                     2014年11月発行

 私の見立て★☆☆☆☆ 乱雑、粗雑な寄せ集め資料    2015/06/18  追記 2020/06/05

 引き続き、口語訳の検討を離れて、本書の内容に触れる。

*沈む親亀/親船
 本書22ページに、「発掘調査での物証検出が、論争のキャスティング・ボートを握る」と書かれている。
 突如、意味不明の比喩が出て来るので、論理の流れがかき乱されて、読者は困惑する。と言うことで、以下、「キャスティング・ボート」は、casting voteのこととして、ここでの話を進める。

 唐突で説明不足と感じられる原因は、言うならば、この言葉をどこかから借りてきたものの、論者が自分自身の言葉にできていないのではないか。あえて言うなら、言葉の意味を取り違えているのではないか。そう感じるのである。

*沈まないボート
 仮に、多数決原理の例で絵解きしようとするなら、架空の100人集会の議決の場で、1人が議長となった99人議決で、A,Bの二派が対立し、それぞれ49人で票数が拮抗している事態を想定したとき、残る一人の意見次第でいずれかの派が50人に達して多数決が成立するので、僅か1票に、両派各49人、合計98票をあわせたものより強い決定力が発生すると言うものである。

 これは、例外的事態とは言え、現実の世界でも似たような事態が発生してるのであり、単純多数決の欠点とも、限界とも見える事態を図式化した比喩なのである。

 以上の説明で、この比喩の出てきた背景を理解いただけたら、この比喩を、邪馬台国論争に敷衍することの意義を考えてみよう。

 もし、邪馬台国論争が多数決原理で決着するものであって、その議決が、多数が確立されていないために決着していないと見たのであれば、「キャスティング・ボート」の比喩は、少なくとも有効かどうか判断の俎上に載るものと見られる。

 しかし、邪馬台国論争は、人文科学的な論争であり、(民主主義的な?)多数決原理で決定するものではない。いや、この判断が間違っていたら、ご指摘いただきたいものである。

 ただし、邪馬台国論争は、史料の解釈に絶対的な合意が得られない一点で今に至るも決着していないとすれば、そのような史料解釈の不確かさを一気に払拭するような物証が、学術的に物証として認定されれば、その物証は、実質的に、唯一有効な一票となり、過去の物証は全て、それこそ、幻覚の産物として、論争の場から姿を消すのである。
 これは、物証の数や「質量」(目方)で決定されるものではない。

 こうして、よくよく考えてみれば、どんな大家が言い始めた比喩か知らないが、率直に言って「キャスティング・ボート」は、場違いな、不適当な比喩と言うべきであろう。

 くれぐれも、自分で確かめていない、言うならば、不確かな土台の上に載って議論を進めないことである。土台が、居眠りしている大亀の背中であれば、亀が眼を策して移動すれば、土台は消失するのである。大地を踏みしめることをお勧めしたい。

 下手をすると、その土台の上に、時には、数十年にわたって研究、論文発表を構築していくから、後日土台が傾いているのに気づいても、土台を見捨てることはできないし、土台を築き直すこともできなくて、土台が傾いていることに気づかないふりを強いられる、どうしようもない事態となるのである。

 それにしても、ここで描かれているような事態は、報道記事に世間が一喜一憂して、世評が動揺してざわつくのである。繰り返して言うが、学術的な論争は、総選挙や多数決で決まるものではない。

未完

私の本棚 23 完全図解 邪馬台国と卑弥呼 2015 その3 誤り?

   別冊宝島2244 宝島社                      2014年11月発行

 私の見立て★☆☆☆☆ 乱雑、粗雑な寄せ集め資料    2015/06/18  追記 2020/06/05

 ここで一旦、口語訳の検討を離れて、本書の内容に触れる。

*史料の乏しさ
 本書18ページは、冒頭から不穏である。

 堂々と「魏志倭人伝の記述は誤り?」とスポーツ新聞の見出し風に吠えているが、本書に登場する各論者それぞれが、長年の模索を通じてものにした、ある意味、個性豊か、かつ、不正確な解釈をしているものであり、各論者は、魏志倭人伝の書かれている記事ではなく、自身の解釈を元にして激論しているのである。いわば、論争の種を地産地消しているのである。

 この部分の筆者が論じているのは、原史料の不備なのか、各論者が感じた不備なのか、趣旨が不明確である。
 邪馬台国論争は、論争と言いつつ一向に正否が示されず、収束しないのであるが、断片的な議論が迷走するだけで収束しないのは、無理からぬ所である。

 続いて、「邪馬台国や卑弥呼に関する歴史的史料の乏しさ」と書いているが、ことの実体は、「乏しさ」などと、お上品にぼやかして言うべき状態ではないのである。

 史料として信ずるに足りる資料は、何より魏志であり、以下、おおむね魏志の引用で書かれた後漢書かあるだけであって、本質的に、信ずるに足りる史料は魏志一件しかないのである。
 記事も認めているように、該当する時代に関して記述していると思われる国内史料には「邪馬台国や卑弥呼」は登場しない。まことに、へんてこな話ではなかろうか。

*誤解・誤読の海
 続いて、『「邪馬台国」が史書に初めて登場したのは、3世紀末の魏志倭人伝と漢書地理志』とあるが、漢書地理志は、後漢時代に編纂されたのであり、3世紀末と言うと随分時点がずれている。また漢書地理志には、当然「邪馬台国」とは書かれていない。それとも、何か異本を見ているのだろうか。

 と言う事で、何のことが意味不明である。誤字、誤記の類いで起きる間違いではなく、コピペ操作の失敗であろうか。ちゃんと、自分で推敲すべきである。(魏志倭人伝に「邪馬台国」と書かれていないという、まことに当然の指摘は、ここでは差し控える)

 素人考えで失礼かも知れないが、これは「史実認定」が不正確といいたいところである。

 誰がどうと言うほど限定された話ではないが、編者は、各自の見解をつきあわせて議論したいと言うが、それ以前に、勘違いや書き違いを前提に持論を構築しているのであれば、各論者の見解の相違をつきあわせて、正否を吟味することはできないのである。

未完

私の本棚 22 完全図解 邪馬台国と卑弥呼 2015 その2 口語訳

   別冊宝島2244 宝島社                   2014年11月発行

 私の見立て★☆☆☆☆ 乱雑、粗雑な寄せ集め資料    2015/06/18  追記 2020/06/05

倭人在 
 さて、一例として、書き出しはどう訳されているか読んでみる。

1.「山に囲まれ島を連ねて国を作っています」
 と口語訳は滔々と述べているが、そのような言葉は原文にはない。

*口語訳という名の創作
 口語訳を書き出した前提として、翻訳者は、ここに日本列島の姿が描かれていると見たかったとも思えるが、「倭人」、ないしは「倭国」がそのような広がりを持っているとは原文には書かれていない。

 原文は、「倭人在帯方東南」と書き出していて、これは 「倭人は、帯方東南に在る」と簡潔かつ明解に言い切っているとみられる。

 その意味では、「倭人」ないしは「倭国」の所在は、後に言う「九州島」(の北の方)だけが想定されているのである。「北九州」と言いたいところだが、それでは、「北九州市」と紛らわしいので、普通は避けられている。古代地名の「筑紫」と言いたいところであるが、どうも、一部で嫌われているようで、定着していない。困ったものである。

*いきなり脱輪
 論者によっては、原文に書かれている内容を認識した上で、「実際には日本列島が連なっているのだから、そのように読み替える」と論拠を示して読み替えている例もある。いきなり、史料改竄である。同時代最有力の史料を、誇示船的な感慨で書き替えるのは、「蛮勇」と言いたくなるような、大した度胸と言える。このあたりが、「言ったもの勝ち」の乱雑論議と言われる原因である。

 しかし、ここで「倭人在」と言うのは、地図上の「海中山島」の配置を言うものではなく、「倭人」ないしは「倭国」の所在を言うのである。してみると、「実際にというものの、自身の個人的な定見以外に根拠は特にないはずである。定見は、論者自身が編み出すものではなく、原文から読み取るべきものである。

 論者の個人的な定見を元に史料を読み替えるのは本末転倒であり、行きすぎた解釈というものであろう。

10. 「不弥国から邪馬台国へは」
 前記事で書いたように、ここでは原文に無い記述を当然の如く書き足している

*道標を外された分かれ道
 また、「水行十日陸行一月」は、不弥国から邪馬台国への行程として書き出している。行程記事解釈で、多くの論者が選択している読み方であり、その解釈の上に、膨大な論考が繰り返され、高々と積層しているので、この読み方に固執している例も少なくないように見る。

 これに対して、本書18ページでは、「水行十日陸行一月」は、不弥国から邪馬台国への行程でなく、「帯方郡から邪馬台国までの距離と日数が示されている」と書いている。

 解釈として、一考に値する筋の通ったもののように思えるが、この読み方が世に出て久しいのに、頑として見向きもしない、一顧だにしない論者が少なくないようである。

 と言う事で、両論は、並立しているとの説明のないまま、併存しているのである。誠に、乱雑である。

*手遅れの忠言
 今回の記事に限らず、百年論争の果てに見えている事象を当ブログで言い立てる原因は、原点から脱線して走り始めて、そのまま迷走し続けている議論が多いと言うことである。不毛などと言うものではない
 と言っても、一介の私人が私見を述べても、各論者の耳には届かないのだろうが、例えて遅れでも、ここで言うしかないのである。。

未完

私の本棚 21 完全図解 邪馬台国と卑弥呼 2015 その1 序論

    別冊宝島2244 宝島社                  2014年11月発行

 私の見立て★☆☆☆☆ 乱雑、粗雑な寄せ集め資料    2015/06/18  追記 2020/06/05

序論
*口語訳の動員

 本書は、前書きで、「邪馬台国論争の原点」とすると編纂の方針を掲げ、『三国志』 「魏志」 倭人伝口語訳として、亡き池田仁三氏の訳文を掲載している。なお、魏志倭人伝自体は、著作権の消滅した公有著作物であるが、現代語訳は、翻訳者の「著作物」であり、ここでは、出典を明記した上で、引用、紹介しているので、適法な引用かな、と言うだけである。

 さて、「邪馬台国論争の原点として資料提供する」と言う本書編集方針は、その第一歩で脱線している。原点が、すでに原典資料から、大きく食みだしているのである。

 表紙裏「南至邪馬壹国」から「七萬餘戸」の部分の口語訳の抜き書きが掲示されていて、不吉な徴となっている。

 口語訳と書いているのは、いわゆる、漢文書き下し文が文語調で読み解きにくいので、そうではなく、普通読み書きしている文章にしていると言うことだろう。ただし、ここで問題になるのは魏志倭人伝の「原文」(紹凞本準拠と思われる。以下、単に原文という)の口語訳の際に、かなりの書き足し、読み替えが加えられていると言うことである。つまり、本書で展開されているのは、池田市の著作に基づく論議であり、原資料に基づいて稲とは言い切れないのである。

 「不弥国の南方向に行けば邪馬台国に着きます」と書き切っているが、原文には「不弥国の」はないし、毎度おなじみであるが、「邪馬台国」もない。申し訳ないが、ついていけない。

 史料翻訳の際に、自分の観念で書き換えるのであれば、書き換えた部分を明記すべきであり、またその根拠を示すべきと思われる。ここに掲載されているのは、注記の無い「べた書き」なので、口語訳でなく「超訳」と言うべき現代著作物となっているように見える、と言ってしまうと、故人に対して過酷な言い方になってしまう。

 察するに、ご本人の意思は、自分なりの読み解きを試行しただけであって、学術的な資料として細部に至るまで厳密さを要求される、いわば、測定原器として完成したものではないと思うのである。

 つまり、こうした利用は、当人にとって本意でないように思うので、著作権の中でも、著作人格権が侵害されているように思う。

 その辺りは、従って、以下の批判の口調から割り引いていただきたいのだが、当方としては、編者から、「百年論争」にとどめを刺す、新原典資料として提案されたものとして、批判を加えるしかないのである。くれぐれも、その辺りの情状を酌量頂きたい。

 また、当ブログの古代学論の全体を通じて言えることでもあるが、以下は、私見でしかない。

*多難な前途
 簡にして要を得た魏志倭人伝の原文は、決して、現代(日本)人が容易に趣旨を読み取れるものではないが、当方は一介の素人なので、一部独善論者が言うように、三国志全体を読破理解しないと、的確な理解ができないと言い放つつもりはなく、先人の偉業をなぞりつつ、一方で原文の字面を、懸命に追いかけていくのである。

 ただし、現代人の俗な世界観(「世界」をどう見ているかという意味である)を離れて、陳壽の世界観に馴染まないと、理解を誤ることが多い。そこは、先人の偉業に示された足跡を見て陳腐な落とし穴を避けることである。

 そのためには、十分注意して、絶えず、推定が妥当かどうかを自問自答すれば、避けられると思う。

未完

今日の躓き石 将棋記事に「リベンジ」発症 毎日新聞に悪疫蔓延の予兆か 

                               2020/06/05

 本日の題材は、毎日新聞大阪朝刊第14版「総合・社会」面トップの将棋ネタである。想定範囲の予定記事であるから、推敲の時間は取れたはずなのだが、輝かしかるべき記事に大きな汚点を記している。

 「本人にリベンジの気持ちはないと思うが」と口調を和らげているが、案ずるに、50代初頭の師匠は、内心に「リベンジ」の「暗黒」を抱えていて、10代の新進の心中を探っているようである。しかし、弟子を思うのなら、このような忌まわしい言葉にふれないのが、本人のために最高、最善である。今回の一言で、話題の棋士は、口には出さないが、実は激しい憎しみを原動力にしているのではないかとの疑念がわき上がるのである。ことさら否定するような師匠の談話であるから、額面通りにはとれないのである。

 この下りは、談話の引用であるから、担当記者は、事実は事実として報道するしかないと言い訳しそうであるが、別に言い換えても何の問題もないはずである。何しろ、痛い目に遭わされた相手との再戦ではないのであるから、血塗られた「リベンジ」、隣国の「トラ」さんの掻き立てる「テロ」はお門違いなのである。まして、先の(手痛い)敗戦は、相手の策謀に騙されたわけでもなく、最終盤に判断を誤ったための敗戦だから、責任は、自分に持っていくしかないのである。

 つまり、署名した担当記者二名も、脳内を血塗られて汚染されているものなのか、偉業を讃える記事の意義を損なっていて、毎日新聞としては大事件と言える。是非、このような不穏な表現は、とことん駆除していただきたい。

 根本的な問題として、将棋の世界に怨念とか復讐を見る前世紀の風潮は、カタカナ語に書き替えてごまかすのでなく、断乎排除して欲しいものである。そうしないと、師匠と弟子という関係にまで、悪弊の伝承という疑念が投げかけられるのである。

 毎日新聞は、全国紙として、国民の言語文化を保全する「言葉の護り人」の任にあると自覚して欲しいものである。いや、この際、気づいて欲しいのである。全記者の中の一人が無自覚に忌まわしい言葉を紙面にぶちまけたら、全社で進めている地道な活動が崩壊しかねないのである。今日改めれば、今日から改善が進むのである。

以上

2020年6月 3日 (水)

新・私の本棚 丸地 三郎 魏志倭人伝の検証に基づく邪馬台国の位置比定  2/2

 魏の使節は帆船で博多湾に 2012年6月         2020/06/03

*両島の繁栄
 両島は、農産物不足を南北運送の船賃や関税で補い潤っていたはずです。
 因みに、島民が身売りして食糧を得たなる妄想を述べる「大愚者」がいますが、人を売って食を得ると、早晩、両島は年寄りの廃墟となるのは、子供でもわかります。両島が荒廃すれば行船は寄港地を失い交易は途絶します。
 そうした成り行きを想定するとは、両島関係者は、随分見くびられたものです。古代史の俗説でも、極めつきの妄説ですが、恥知らずにも、現地講演でぶちまける人がいたのです。

⑵「野性号」の成果と限界
 「野生号」ならぬ「野性号」は、船体吸湿で重量が増えて難航したようですが、本来、渡し舟はそれに相応しい軽量です。漕ぎ渡れなければ不採用なので、無用の重装はあり得ません。何しろ、実験航海は、単に目的地に着けると実証すれば良いのでなく、実用に十分な荷物や乗客が運べることも、実証するものだったはずです。
 そもそも、実験航海難航は、漕ぎ詰めの疲労の要素も大きいと思われるのです。それは容易に予測できることであり、なぜ、空前絶後の大航海の実証を企てたのか、意図不明と言わざるを得ないのです。

 時代相当の配慮をすれば、渡し舟区間で別々に相応の船腹とし、適宜、漕ぎ手交代すれば、長年に亘り維持できるのです。
 いや、当時、倭人伝に記録されているように、盛んに南北乗船して市糴していたと言う事は、実験航海しなくても明白であり、曰わく言いがたい感想に囚われます。

 氏は、「野性号」報告が粉飾と感じたようですが、素人目には、関係者の志しを守るために、失敗発言を避けていますが、「実際には、このような航行は維持できない」との真意を秘めつつ報告したものと見えます。
 それを、「為せば成る」と勝手読みして、倭人伝論に採り入れるのは、俗耳の聞き違いですが、誰も正さないので、このように、報告粉飾に責任が回るのです。

⑶道里論 用語の整理
 倭人伝の里数と日数は表現を工夫が必要です。現代人は「距離」は「直線距離」と決めつけて、道里、道の里の意義が取り違えられているから、論議がかみ合わないのです。用語の時代錯誤は、論者にとって自滅行為です。

*道里の起源推定
 書かれている道里、二点間里数は、郡国志や地理志の公文書用公式数字であり、必ずしも実測と言い切れないから、実測値復元は無効です。

 まずは、全体道里「万二千里」は、郡が、公孫氏からの両郡回復早々に、疾駆参内を命じた未見未知の倭都への道里を、途方もなく遠い万二千里と洛陽鴻廬に申告したものであり、やって来た使節から、郡の南方拠点狗邪韓国から海を跨いですぐそこと知らされ、申告を訂正することはできず、辻褄合わせに苦労した「成果」と見られるのです。

〇概数論再論
*「余」の効用
 後代感覚で、道里、戸数の「余」は、切捨端数付きと誤解して、足すたびに端数が積もる妄想が広がります。不合理ではないとか疑うべきです。
 端的に言うと、みな概数中心値で、端数蓄積を考える必要はありません。

*概数の範囲
 倭地内行程は、百里単位で余がないが、精測したのではありません。全体道里で、百里単位は影響しないのです。まして、傍路諸國への里数に関心はないのです。

 ご一考いただきたい。七千里と三千里の足し算で、百里単位は計算結果に影響しない端数です。
 七千里に五百里足しても七千里であり、更に六百里足しても七千里です。
 七千里は上下十パーセント範囲どころか、五千里と九千里とも思える漠然たる範囲で、百里単位の端数は大海の一滴です。
 七千里付近の五千、六千、八千、九千里がないから、そのようにとてつもなく広い範囲と見ます。

 実際の道里や戸数がわからないから、覚悟を決めて概数表示していますから、実情を知らない後世人が、史料の字面、倒立実像を見て、勝手に上下限界を想定するというのは、とてつもなく不合理なのです。

〇まとめ
 氏の取材範囲は豊富ですが、得られた新規史料の時代考証、史料批判が不足し、考察が迷走する点が多々見られます。もったいないことです。
                                以上

新・私の本棚 丸地 三郎 魏志倭人伝の検証に基づく邪馬台国の位置比定  1/2

 魏の使節は帆船で博多湾に 2012年6月         2020/06/03

私の見立て ★★★☆☆ 玉座の細石(さざれいし)

〇はじめに
 当記事は、氏の個人サイト「日本人と日本語 邪馬台国」掲示のPDF文書であり、筆者の自信作のようなので、丁寧に読ましていただきました。正直、つまらない誤字、誤記があって評判を落とすのです。氏の台所事情もあるでしょうが、十年近く放置されているのは残念と思われます。

〇記事の旗印 匹夫の暴論にあらず
 氏の倭人伝論議の基本方針は、三国志魏志第三十巻に収録された「倭人伝」を基点として、考察を進めている点です。

*古代「浪漫」派の台頭と蚕食
 倭人伝論でよく見かけますが、三世紀中国史料に対する門外漢が、「日本」古代史論を手に倭人伝論に侵入し、「史料批判」と称して古代「浪漫」を保全するための雑多な改竄の押しつけが、むしろ多数を占めて見えます。

 国内史料は、原本どころか権威ある公的古写本も見当たらず、「貴重な」現存写本を踏み台の「推論」が出回る「史料観」が倭人伝に波及するのに暗澹たる思いを禁じ得ません。まるで、異国の「トラ」さんのツイッターです。

 数を言えば、または、権威から言うと、そのような見当違いの暴論が史論を蚕食し、無批判な追従も盛んですが、氏は、そのような喧噪と無縁です。

〇苦言の弁
 ただし、それはそれ、これはこれ、氏の勘違いと思われる事項は、氏に対する敬意の表れとして、率直に指摘するものです。
⑴半島沿岸帆船航行の不合理
 氏は、なぜか、帯方郡から倭までの行程の大半を占める韓半島行程を、帆船沿岸航行と決めていて、当記事筆者が推進する陸上行程説に反対なのです。これは、二重、三重に不合理です。

 つまり、郡の官道が、海上経路であったとする不合理と、沿岸を帆船航行できたとする無謀な仮定が重畳して、混乱を招いています。

 氏は、文献に依拠して、三世紀黄海東部に帆船が出回っていて、帯方郡はそのような帆船を、未知未踏の倭国航路に仕立てたと見ています。

 大胆不敵で、当分野で氾濫する暴論の類いですが、どんな船舶も未知の海域は、現代でも、水先案内人が不可欠です。
 隋唐代使節は、月日を費やして浮海し航路開拓したと報告したから、三世紀には未踏海域との証左です。

 氏は、帆船の未踏海域進出例として、バスコ・ダ・ガマをあげているが偏見史観です。ガマは、インド/アラビア商船が、千年以上に亘り運用していたインド洋航路と港湾を侵略奪取したのであり、先例と言えないのです。

*沿岸魔境
 半島西南部は、岩礁、浅瀬の多い多島海で、操舵の不自由な大型帆船は入り込めませんでした。地元海人の水先案内と、それこそ、船腹に体当たりして進路を誘導する「タグボート」先駆の漕ぎ船がなければ難船必至だったから、事情通の青州船人は、帆船で南下する無茶はしなかったのです。

*確かな船足
 倭人伝對海国/一支国条で、乗船南北市糴と書かれているように、それぞれの港から南北運航の便船に荷を積んだが明らかに手漕ぎ船です。区間一船でなく、多数往来のはずです。代替手段がないので活発でした。

                               未完

2020年6月 1日 (月)

今日の躓き石 「サブライズ花火」と言わないで

                                 2020/06/01

 本日の題材は、5/29の毎日新聞の記事であったが、扱いに困っていたのである。

 各地で一斉に花火サプライズ 「大曲の花火」参加者らがネットで資金募る。

 結局、全国紙ともあろうものが、カタカナ語の扱いに失敗しているのである。

 現在の合衆国大統領の暴言に表れた悪夢であるが、「武漢ウィルス」を合衆国に対する中国の「サプライズ」攻撃と受け止めて、定番で「パールハーバー」真珠湾攻撃の奇襲と「9.11」多発テロを引き合いに出すのである。詳しく言うと差し障りがあるので、手短に言うと、それぞれ無残な報復攻撃があったのであるから、当今の動きは驚くものではない。これが、その人たちの品性である。

 ちなみに、surpriseは、特に言い訳しない限り、不愉快な不意打ちである。アメリカ人を含めて、英語圏では、そう受けとめて不愉快に感じる人が大勢いる以上、安易に使って欲しくないカタカナ語である。それにつけても、後先考えない安直な名付けは、勘弁して欲しいものである。

 と言うべきかと思いながら、踏み切れずに躊躇っていると、時事通信の近報では「シークレット花火」と言い直していて、ほっとするのである。

 全国一斉にシークレット花火 相次ぐ大会中止で業者支援―CFで費用募る・秋田 

 と言う事で、安心していやなことを言わせて頂くのである。言葉は届かなくても、大曲には、既にこころざしが届いているので、空振りしても苦にならないのである。

 毎日新聞ともあろうものが、主催者の「サプライズ」御用に悪乗りしたのは、情けないことである。苦言を呈して、たしなめてあげるべきである。次世代に澄んだ言葉遣いを伝えるべき言葉の護り人は、そうあって欲しいのである。

以上

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