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2020年6月23日 (火)

新・私の本棚 古田 武彦 「俾彌呼」 西域解釈への疑問 2/3

 ミネルヴァ日本評伝撰 ミネルヴァ書房 2011/9刊行          初出 2020/04/10 補充 2020/06/23

〇安息の国パルティアにまつわる誤解
 古田氏が、安息国を「ペルシャ」と解しているのは誤解です。ペルシャは、太古以来、今日に至るまで、湾岸沿い高地の一地域です。当該地域の政権が興隆して、イラン高原全体を支配したのは、古代のアケメネス朝と後世のササン朝の二度に亘っていて、それぞれ東地中海に進出したこともあって、ギリシャ、ローマの史書に名を残していますが、安息国は、それとは別の地域から興隆した王国なのです。

 それはさておき、安息国、パルティアは、たしかに、西は、メソポタミアを包含して、広くイラン高原全域を支配し、後年「シルクロード」と呼ばれるようになった東西交易の要路を頑固に占拠し、交易の利益の大半を得ていたのです。
 其の国都「クテシフォン」は、大「王国」西端のメソポタミアにありましたが、漢使が五千里の彼方の国都に赴いたはずは無く、安息国内情報を取材したのは、全て、カスピ海東岸の安息の周辺だったのです。

 パルティアは、この地の小国(范曄後漢書の言う小安息)から起こって、イラン高原を西に展開し全土を支配しましたが、西の王都は当然、「安息」(パルティア)と称していたと共に、発祥の地である旧邦も引き続き「安息」(パルティア)としていたのです。
 東西両地域間には、北のメディア、南のペルシャの地域が介在しましたが、安息はね中央集権で圧政を敷いていたわけではないのです。

*小安国の世界観 余談
 漢使の取材に応じた安息の長老は、小国の代表者であり、その世界観は地域的なものだったのです。従って、ここで言う「西海」は、目前の「大海」、カスビ海であり、條支は、その西岸の大国、「海西」だったのですが、そこに到るのに、「大海」を百日航海するというのは、何らかの錯誤でしょう。西戎伝で見る限り、安息西境から條支国都まで、十日とかからなかったようです。

 古代史書に表れる「大海」は、今日想定されるような「海洋」などではなく、辺境に広がる塩水湖であったようです。少なくとも、後漢書、魏略西戎伝に至るまでの史書で、西の大海がカスピ海でなく、地中海、黒海、ペルシャ湾などを「大海」であったと論証するのは、大変困難と思われます。

*條支の西
 條支の先は、黒海か地中海ですが、安息長老は、旅行記を取り次いだ程度と思うのです。條支から西に行くには、「地中海」航路もあれば、アドリア海を渉る「渡船」もあり、また、その北の陸地を渉る陸上行程も知られていたようです。圏外になりますが、ギリシャ、ローマ側の記録は、結構豊富なのです。
 ともあれ。後漢朝の史官が史実の報告として史書に掲載したのは、大月氏までであり、条支以西は実見していないので風聞の採録に止まったのです。

*謝承後漢書考 余談
 謝承後漢書なる断片史書ですが、外夷伝を備えたと伝わっていて、その東夷伝が魏志東夷伝の原史料との主張が見られます。憶測の風聞が、現行刊本の信頼性を毀損するのは、無法なことです。亡失資料に関して確実なのは、謝承が後漢書公文書(漢文書)を閲覧できなかったことです。
 謝承は、後漢末から三国の呉人で、洛陽で史官の蜀に就いてないから、書庫に秘蔵の文書は閲覧不可能でした。できたのは、先行史料の引用だけです。

*魚豢魏略考 余談
 魏略を編纂した魚豢は、史官に準じる官職に合ったと見られる魏朝官人であり、漢文書を魏略に収録できたと見えます。魏略、特に西戎伝には、漢文書が豊富に引用されているので、魚豢が、漢文書を史書に取り込んだものと見えます。

 因みに、古来、史書執筆の際に先行資料を取り込むのは、史官の責務であったので、陳寿はじめ各編者は、魚豢魏略を、(断り無く)利用したものと見ます。裴松之も、魚豢魏略が史書として適確と知っていたから、西戎伝を丸ごと補追したのです。

 世の中には、范曄後漢書が、正体不明の先行史書を引用したと推定しているものがありますが、いかに、史官の責務に囚われない范曄にしても、それは無謀というものです。後漢書西域伝で、笵曄は、先行資料の筋の通った解釈ができない風聞は割愛したと述べているほどです。范曄なりの史料批判に怠りはなかったのです。

〇条支国行程
 古田氏は、條支に至る行程について、漢書西域伝の解釈を誤っています。

 漢書は、西域の果ての諸国の位置を書くのに、帝都長安からの距離に従い順次西漸しています。条支は、安息の東方にあったと思われる「烏弋」(うよく)山離から百日余の陸上行程で。安息は、烏弋と條支の間なので、安息~條支間は、陸上百日よりかなり短いはずです。

 いや、以上のような批判は、よほど西域事情について考察しないと判明しないのであり、洋の東西を問わず、ほぼ、全学会が、條支行程について誤解しているので、古田氏が世にはびこる誤解に染まったとしても、無理からぬ事です。

                                未完

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