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2020年6月 5日 (金)

陳壽(中国史)小論- 2 (2013) 魏志倭人傳

                                    2013/09/16   更新 2020/06/05
◯倭人伝という名の史料
 「魏志倭人傳」(倭人伝)に関する議論で、時々驚かされるのが、「魏志倭人傳」は通称であって正しい呼称でない、と言う大変強い指摘です。

 先の発言に驚いた原因は、権威のある歴史学者やベテランの小説家が、特に論拠も示さずにそのように発言していることです。

 しかし、中国正史「三国志」の現存版本(木版印刷出版物)である「紹熙本」(しょうき)の写真版(影印版)をみると、そこには、本文に先立つ行に「倭人傳」と見出しが書かれています。発言者は、紹熙本の史料を見ているのかいないのか、と不思議に思えると言うことです。
 権威者の発言でも、証拠の裏付けがなければ採用できないのが常識です。

 私は、現に目で確認できる資料はそのまま読み取る主義ですから、以下、「倭人傳」と読んで内容を紹介します。

 上に名前の出た「紹熙本」は、南宋紹熙年間(CE1190-1194)に出版された、ないしは、出版の指示が出た)版本であり、上で触れたように「三国志」の現存版本で、有力な資料とされているものですが、それ以外に紹興年間(CE1131-1162)版本「紹興本」が有力とされています。またも余談ですが、紹興年号は、同年間に命名された都市名である「紹興」と当地の地酒から発展したとされる紹興酒に名をとどめています。

 ともあれ両版本は、三国志執筆以来900年にわたって営々と写本で継承されてきた史書を、木版印刷出版業の興隆したこの時期に、大々的に印刷発行したもので、おそらく正史史書として空前の普及を示し、後年版本の典拠とされたと見られます。

 数千年に渡る歴史を綴った正史史書は、本来の中原を追われて難局にある中国人に、過去、難局に立ち向かって乗り越えた先人の事績を知らせることにより、大きな勇気と自信を与えたのでしょう。

 ただし、近接して発行された両版本の倭人傳には、一部文字に違いがあり、引用参照する際には、慎重に比較確認して、利用した版本と所蔵先を明らかにするものです。

 なお、紹熙本は、靖康の変(CE1127)による宋朝南遷(晋王朝の二の舞でした)に先立つ北宋時代版本の復刻版で、現存最古の内容を保つと言われています。

 とはいえ、(大々的に)印刷発行されたはずの北宋版本は残存せず、確たる証拠に欠けた推定にとどまっています。結局、.北宋時代の木版印刷では、小部数発行されたにとどまり、大半が宋朝高官の手元に留まったのではないかと推定しています。

 北宋(AD960建国)は、戦乱に備えて内部まで隔壁城塞化した長安や洛陽でなく、運輸交通に便利で、城塞化もほとんどされていない開封に首都を置き、軍縮による軍事費縮小と兵力削減による人材民間活用を目指して、国内移動や商業活動をほぼ自由化したので、中国史上初めて市民階級の経済活動が本格化したと言われています。

 とはいえ、製紙技術定着以来1000年を経ても、まだまだ紙の価格は高く、従って手ごろな価格の書籍を大量流通させる体制も整っていなかったので、書籍の中でも、分量が嵩張って、内容が専門的な正史史書の普及には至らなかったのでしょう。

 皮肉なことに、開封など めざましく繁栄した大都市を含む、黄河流域の中原を大きく取り囲む国土北半分を失い、長江(揚子江)流域に追いやられた南宋で、むしろ経済が発展して商工業が一段と拡大し、三国志版本の大量印刷販売が実現したのです。これにより、正史史書は富裕な市民階級まで普及し、幾度かの大乱を超えて生き残ったのです。

 いや、ご存じのように、三国志南宋刊本は、海を越えて「日本」に齎され、今日に至っているのです。中国本土は、王朝交代時の戦乱などによる損壊も多く、最後は、日本軍の空爆で、上海図書館が全壊したなどの戦災もあって、三国史南宋刊本の善本は、中国全土には希であり、むしろ、宮内庁書陵部に継承されている三国史南宋紹凞本など、徳川幕府や江戸時代有力大名の蔵書頼りなのです。

 今回、色々知を尽くして紹興本写真版を確認すると、「倭人傳」の見出しはないようで、これは、両版本間の相違点の一例です。

 とはいえ、現に紹熙本に倭人傳の見出しがあるので、「三国志魏書」のこの部分を「倭人傳」と呼ぶ根拠としたいと思います。現物確認主義は、手間がかかるのです。

 「魏志倭人傳」に対する否定的意見の根拠を案ずるに、史書の構成として、倭人に関する記事の段落は、「東夷傳」などの「傳」の一段下であり、これを「東夷傳」と同列に見せるような「倭人傳」扱いは、おかしいとの指摘なのでしょうが、三国志版本の見出し付けに対して、後世の文書管理論を元に否定し去るのは、過剰な介入ではないかと考えます。

 ということで、紹熙本を見る限り、「三国志-魏書-倭人傳」の構成が読み取れるのです。

 紹熙本「東夷傳」の他記事も「傳」の見出しがあるので「倭人傳」見出しは三国志紹熙本の原則通りであり順当かつ合理的な読みです。

 最後に、三国志の魏朝記事を、本来の書名である「魏書」でなく「魏志」と通称する理由は、以下のようなものと考えます。

 正史には、南北朝時代の魏(北魏)の正史である「魏書」があり、両者の混同を避けるには「三国志魏書」と呼ぶ事になり煩わしいのです。

 北朝の魏の通称である北魏は、三国時代の魏との混同を避けるために、便宜的に「北」と付けて呼んでいるだけで、国名は魏であり、正史は魏書なので、この正史を「北魏書」と呼ぶのは、間違いなのです。

 結局、「魏志倭人傳」の通称は、以上の実際的な理由から工夫された通称であり、広く通じています。この呼称は、大きな間違いではないし何より簡便なのがありがたいのです。ということで、私は、以下、通称である「魏志倭人傳」で呼ぶことにします。

以上

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