陳壽(中国史)小論- 9 (2013) 笵曄考 1
2013/09/23 追記 2020/06/05
◯范曄考
さて、いよいよ別の正史「後漢書」と著者笵曄(はんよう CE398-445)について論評せざるを得ません。と言うことで、今回は長くなります。
何せ、笵曄と陳壽が、倭(人)のほぼ同じ時代の同じ様相について、一部食い違った記事を書いていることが、陳壽に対する評価が揺らいでいる原因と思えるからです。
笵曄は、陳寿の150年ほど後に後漢(CE 25-220)の正史を編纂したのです。
後漢の初期に倭奴国貢献記事、その末期から魏朝にかけて女王国との交流がある事を手がかりに、魏志倭人傳に相当する時期まで包含した後漢書倭傳が書かれているのです。
女王国の貢献は三国志時代であり後漢書の埒外なのですが、前提となる倭国の乱と女王の共立が後漢時代であったと叙述を凝らすことにより、笵曄は、魏志倭人傳記事を主たる典拠として後漢書倭傳記事をまとめ上げています。
逆に、後世からは、陳壽が後漢朝末期(建安年間の曹操時代)を三国志に取り込んで、魏朝の創業を遡らせたとの非難を受けているのです。
例えば、通典が歴代王朝通史を編纂するときに、三国志の後漢朝期記事は重視しないようです。つまり、正史の通読の際に、魏志倭人傳は、重要視されていないと言うことです。
*西晋から劉宋に
下記の王朝継承事情は、笵曄の執筆態度の背景を知る上で、大変大事な点なので、重複をいとわずに書き残します。
晋朝(西晋)は、魏を継いで三国を統一したものの、激しい内乱と外敵の侵略で国が崩壊して首都洛陽が兵馬に蹂躙される事態となりました。王朝文物は最重要のものを除き失われ、魏志倭人傳の原資料となる魏朝公文書や史料文書はうち捨てられたと推定されます。
晋朝はいったん滅び、長江(揚子江)下流の呉の旧地に東晋を再興し、王朝文物の再構築が図られたのでしょう。逃げ延びた東晋は、中原回復を狙った無理な北伐で国庫を傾けたあげく、厚遇した軍隊の引き起こす内乱の結果、これを平定した宋朝(劉宋)に国を奪われたのです。
笵曄は、こうして成立した劉宋政権の中枢にあって広く行政に参画していながら、王族の内紛により閑職の地方官に左遷された境遇で、先人の書き残した後漢書稿などの資料に自身の執筆を加えて後漢書を完成できたのです。
笵曄が後漢書倭傳を編纂する際に、先行する正史である魏志の倭人傳記事を典拠としたことは、笵曄の史官としての資質をうかがわせるもので賞賛に値します。もちろん、後漢書稿や別種後漢書などに、信ずるに足る倭人記事が書かれていれば採用していたでしょうが、信じるに足る新資料がなかったので、書きようがなかったものと思われます。
以下、続きます。
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