陳壽(中国史)小論-12 (2013) 世世傳統
2013/09/26 追記 2020/06/05
◯世世伝統の怪
この部分でも、笵曄が文飾を凝らして、魏志倭人傳を上書きする手順である切り捨てと創意工夫は、まずは冒頭に現れています。
「使驛通於漢者三十許國。國皆稱王、世世傳統。」
魏志倭人傳は、「倭人は」で書き出して、山島に三十国の「國邑」があるとしています。
国邑の邑は、文脈に応じて、巨大な「国」の時もあり、地方領主の居城の時もあり、小村落という時もあって、陳壽のように意味を絞りたくない筆者にとって、融通のつきやすい便利な表現なのです。
実情に通じた目で冒頭記事を読んで感じられるのは、三十国は、大小に大きな差があって、大きなのは人口10-20万人程度の結構大きな「国邑」ですが、大半は百人から千人規模の「国邑」村落と読み取れます。人口万の国々が、三十国ひしめき合っているのではないのです。
このような実態であっても、国邑の意味が緩やかなので誇張や虚偽の報告にならず、魏朝皇帝や高官に対して遠路はるばる魏使を派遣し、大層な品物を下賜した面目が立つのです。
案ずるに、「国邑」は魏使報告書の作品かもしれません。
陳壽は、魏使報告書に書き込まれた現地情報を背景に、安んじて「国邑」と称したのですが、笵曄は、別に150年以上前の王朝や使節団の面目に配慮する必要はないので、別の言い回しをしたのです。已に時代は、倭讃の劉宋への献使時期に当たり、交流の両側で国情が大きく変動していました。
ともあれ、笵曄は、過去を引きずる「倭人」を排除して「倭」といいきり、現地を、はっきり30許「国」と規定し、各国王が世襲しているとメリハリを付けているように見えます。ただし、未開の国が、全て王家を維持しているというのは、大変考えにくいのです。
笵曄は、陳壽の凡表現を改善した一流の文筆家として称揚されたいと考えたのでしょう。
滑り出しからわかるように、笵曄は、陳壽の記述に対してメリハリを付けているので、その結果、大変文意が読み取りやすい、流麗な文章となっているのですが、よく見ると誤解や勘違いが漂うものになっています。
以下、魏使派遣先は、大倭国、即ちその国王の治所は「邪馬臺国」となり、二人目の女王は「臺與」となって、魏志倭人傳を逸脱しています。
以上
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