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2020年6月18日 (木)

私の本棚 7 礪波 護 武田 幸男 隋唐帝国と古代朝鮮 改 2/3

中公文庫 世界の歴史 6 2008年3月 文庫版 2014/05/22 分割再掲 2020/06/17

*軽率な銅鏡論
 その後、出土品である景初三年銘の三角縁神獣鏡を、さらりとこの下賜銅鏡と結びつけていますが、根拠の無い当て推量であることは明らかです。

 皇帝代替わりでてんてこ舞いしているはずの「尚方」(官製工房)にとって、皇帝不在の「景初三年銘」、「新規意匠、空前の大型」銅鏡百枚新作に、景初三年に着手したとして、期限内に全量制作・出荷できたかどうか。

 新型銅鏡新作とあれば、鋳型の新作までの試作と工夫、大量の銅材料の手配、尚方の人材と労力の投入が必要です。青銅を溶かす「坩堝」や溶けた青銅の湯を坩堝から注いで、鋳型に注ぎ立てるの「柄杓」も、倍近い量をこなす大型化が必要です。銅鏡工房の大改造が必要です。

 加えて、銅鏡の長距離搬送に要する厳重な梱包木箱の制作と膨大な箱詰め梱包作業がともなう大事業です。小分けした手運びも必要なので、一枚ごとの箱詰めも必要です。大型鏡百枚新作に、大きな疑問を抱く理由です。

 詔書の百枚は誇張と逃げるわけにも行かないのです。それにつけても、根拠の確認されていない「定説」に安易に依拠するのは、重ね重ね軽率です。

*後年下賜の仮説
 さらに、著者は、243年の第三回の通交では、「お返し」の記録がないと嘆いています。ここに上げられた「通交」は、対等な相手(敵国)との交渉ではなく、またプレゼント交換の儀式でもないのです。また、下賜物は、献上物に対する「お返し」ではないのです。

 と言うものの、定例の来貢への下賜は当然であり、それ故、ことさら正史に記録されていないのです。記事がないのは無事のしるし。それが、正史読者の大人の分別というものです。むしろ、莫大な下賜物を要する万里の賓客は、二十年一度の来貢受け入れが精々であり、それ以上頻繁に来られると、さすがに、下賜物が莫大になるので、来貢拒否になりかねないのです。

*余言のとがめ
 このあたり、著者が、専門外分野で「素人」で、専門家の助言を仰がず、熟慮なしに、子供じみた所感を吐露しているのでしょうが、読者は学者先生の権威ある意見と見てしまうものです。余言の弊害は夥しいものがあります。

 とにかく、古代史に、現代の価値観、学説を塗りたくるのは、時間錯誤と言うべき場違いであり、小賢しい考察と言うべきでしょう。

*安直な価値判断への批判
 安直な素人判断は、現代人の俗耳に訴えるでしょうが、学術的な判断には、客観的考察を妨げる邪魔な雑音でしかないのです。物の価値判断は、時代、立場によって大きく異なるので、後世人の素人判断は、軽々しく高言すべきではないのです。いくら俗耳に訴えて賛辞を浴びても、それは、一時の虚妄であり、後世に恥をさらしかねないのです。

*虚空の現実主義者
 著者が、張政は軍事顧問との卓見ですが、なぜか「現実主義者」と評しています。張政は、外交官でなく軍官なので、その資質が表れているのでしょうか。非現実的浪漫派と暗に非難されているのは、誰でしょうか。

 それにしても、247年に来訪し248年に帰国した、2年に足りない滞在と推定していますが、これは、正史記録と異なるように思われるのです。

                               未完

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