陳壽(中国史)小論- 3 (2013) 擁護論
2013/09/18 更新 2020/06/05 2022/06/08
*妄説横行
インターネットサイトの記事や各種フォーラムで、陳壽が編纂した魏志倭人傳の記事が不正確と非難する人が結構多いのには驚きます。
こういう発言をする人は、魏志倭人傳という、現に目で確認できる史料について、何を基準に不正確だと批評しているのか、根拠を明言しないで所感を述べ立てる例まであり、また、根拠となる別資料が示されていても、一般人には参照困難な場合も多いので、議論の手順として大変不思議なのです。英語で言うフェイク「fake」ジャンク「junk」と呼ばれる塵芥の類いと思います。
また、別の論法では、魏志倭人傳はこうだが、別の複数の権威ある資料には、そう書いてないから、魏志倭人傳記事は信用できない、との論法がありますが、元資料の内容を誰かが引用紹介している資料を根拠に、魏志倭人傳記事を否定することは、子供じみていて、大変不合理ではないかと感じています。
実際、大抵の発言は、決めつけに終わって、他者を納得させるに至っていないのです。
陳壽は、自分では非難に対して反論できないので、私が代弁しないといけないものと感じています。
*陳寿概要
陳壽は、三国時代の後半を生き、自身の体験として記憶している同時代人であり、成人に達してから、西晋朝の三国志編纂任務を課されましたが、任務を果たすために、洛陽に帝都を置いていた後漢朝、魏朝の各種公文書を、任務のために参照することができました。
古来、史書編纂を公務としている史官以外のものは、公文書を調査することは厳禁されていて、後漢代に漢書を編纂した班固は、当初、史官であっても、公務として指示されていない史書編纂を行ったとして、処刑されかけたのですが、班固が、正史編纂にふさわしい史官であることが認められて、命拾いしたとされています。
少なくとも、西晋に至る各王朝では、部外者が、長安、ないしは、洛陽の公文書機密資料を渉猟することは、厳重に禁止されていたから、史官ではない素人が、史書を編纂するには、先行史書を引用するしかなかったのです。
公務であれば、資材、人員が付与されるので、必要があれば、弟子などに指示して深く調査することができたし、あるいは、存命中の関係者に手紙で問い合わせたりすることも許されたのだから、史実と資料に大変近い足場で三国志を編纂たはずです。
言い方を変えれば、陳壽は西晋朝でただ一人、三国志編纂で同時代史を書いたのです。
*中原喪失
以下の時代の史官達は、陳壽と同等の立場に立てないことになっています。
陳壽の存命中にはさほど目立っていないのですが、三国を統一して無敵となったと思われた晋朝が内乱で凋落して、戦乱の谷間に墜落していったのです。
とば口は、晋朝王族であって各地に領地と兵力を持った王族間の権力争いである八王の乱(AD291-311)です。
晋王朝の中央政府は、三国統一後の平和を祝うように、大幅に軍縮していたので、国内の統制力がなくなったにもかかわらず、各王は、独自に兵力を募って首都に進軍することが可能なほどの寛大な自治を許されていて、徒党を組んで首都を攻撃したのです。
歴代王朝で農民反乱などで首都を攻撃された例はあっても、王族が堂々と首都攻撃を行ったのし珍しいのです。
このように深刻な内戦で西晋朝は弱体化しましたが、各王族が互いに傷つけ合って、国内の軍事力が消耗する果てに、匈奴などの北方民族が傭兵として導入され、内外の戦力が逆転した果てに、北方民族の軍が侵入する永嘉の乱 (CE311-316)が起こり、ついに首都洛陽が蹂躙され、皇帝、皇妃を始め、八王の乱を生き残った王族まで連れ去られて、西晋朝は崩壊し亡国の憂き目を見ています。
このように、ほぼ25年に及ぶ大乱 (CE291-316)で、首都洛陽が壊滅したことにより、大規模な資料散逸・消失が起こりました。
辛うじて脱出に成功した王族によって、長江(揚子江)流域に東晋朝が復興しましたが、王朝が継承し蓄えてきた後漢代以来の公文書などの貴重な資料は、ほとんど取り戻せなかったのです。
東晋朝と後継宋朝(南朝劉宋)が、後漢書編纂に懸命に取り組んだとしても、陳壽が、健在だった頃の西晋朝の豊富な公文書資料を駆使して同時代史を編纂した編纂環境の充実度には、到底、到底及ばないのです。従って、このような大変動の後に書かれた正史が、魏志倭人伝にない原資料を駆使して、より、正確に当時の現地事情を期日したとする意見には、賛成しかねるのです。普通に言うと、嘘は言うな、と言うことです。
魏志倭人傳に不確かさがあっても、後発の正史や記録文書は、魏志倭人傳と同時代、同地域に関して書く時に伴う不確かさよりは、随分少ないとみるのが合理的な推定であり、そのような違いを考慮することなく比較議論するのは、合理的な論証手順ではないと思われます。
以降、根拠のない陳壽批判を批判するのは、時間の無駄なので、陳壽擁護論を提案し高評を仰ぐことにします。
私は、現に目で確認できる資料はそのまま読み取る主義ですから、魏志倭人傳の内容を紹介しています。
以上
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