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2020年8月

2020年8月30日 (日)

新・私の本棚 御覧所収 謝承「後漢書」佚文 史料批判の試み  2/2

                       2020/07/25 2020/08/30
〇書かれなかった後漢東夷伝
 後漢書原史料として、後漢東夷管理記録(公文書)が存在していたとは思えません。(個人の感想です。念のため)

 半島南部の荒地を領分とする帯方郡創設時期は、曹操が君臨していた献帝建安九年(204)頃とされますが、当時、遼東公孫氏は、後漢に臣従しつつ自立して、帯方郡の東夷管理を報告していなかったので、東夷に関する後漢公文書は整備されていなかったと見られます。

 いろいろ考えあわせましたが、謝承後漢書は「東夷列伝」を持たず、従って、各書は、東夷伝を語る場合、別史料を引用したとみる解釈が、一番据わりが良いようです。

 魏志によれば、景初二年の司馬懿の遼東討滅で、郡公文書は焼却され、郡官人は全滅しましたが、それ以前に、先だって無血開放されたと見える帯方郡に、公孫氏東夷管理記録が存在し、新任太守によって、以後の東夷管理に活用されたようです。

〇范曄「後漢書」東夷伝の由来
 一々考証内容は書きませんが、范曄後漢書は、東夷伝を語るに際して、魚豢「魏略」西戎・東夷伝と陳寿魏書東夷伝の使えそうな記事を、後漢代に時点をずらして採用していると見られます。
 つまり、史料の欠落を、時代ずらし、記事補填などの曲芸で埋めたのです。別稿で、西域伝に対して行った曲芸を考証しています。
 後漢書東夷伝は、ここまでに書いたように、ほぼ欠落していた史料を「美文」で造作したと見えるので、よほど丁寧に考証を加えない限り、史料として採用できないと考えられます。何しろ、欠落していたわけですから、本来の後漢書東夷伝、中でも倭伝は存在せず、范曄後漢書と対照して校正することはできないのです。

 思うに、論議している「東夷列傳」は、謝承後漢書編纂時に、後漢公文書から編纂された「東夷列傳」なる列伝、つまり、銘々伝として存在したようであり、魚豢魏略も、陳寿魏書も、そのような「東夷列傳」を承知していたかも知れませんが、史書として公認されなかったため継承されず、早期に散佚したようです。

〇佚文の扱い
 佚文をもって、謝承後漢書に東夷列傳があったとするのは、余りに軽率です。
 正史解釈にあたって、外部資料を参照する際には、まずは、厳密な史料批判の上で、考慮に値する資料かどうか判断すべきです。当然至極の原則ですが、国内視点の古代史学では大抵無視されているので、素人考えで指摘するものです。

 具体的に云うと、謝承後漢書自体の写本断簡が提示されたのならともかく、一片の佚文で史料解釈を撓めるべきではありません。

〇『七家後漢書』の解釈
 汪文台『七家後漢書』は、当時残存していた諸所から各後漢書佚文を広く収集した労作であり、下記佚文が収録されていますが、依然として「東夷列傳」を謝承「後漢書」の一伝とする根拠とはならないと見えます。あるいは、太平御覧から用例を収集したものかと見えます。

 《東夷列傳》一(曰):一 (三)韓俗以臘曰(日)家家祭祀。俗云:臘鼓鳴、春草生也

〇結論
 結論として、氏の意見は、史料批判も史料考証が不十分であり、当方の意見を変えるには及びません。
 『七家後漢書』は、悪く言えば、低質の残滓をかき集めたものであり、その努力に感謝するものの、史料として採用するには、まずは厳重な史料批判が必要という事に変わりはありません。

〇念押し
 そもそも、類書である太平御覧の記事には、正史の記事を覆すに足るだけの信頼は置けないと見るものです。信頼を置けない資料に引用された佚文は、悪材料が重責、山積しているので、一切参照すべきではありません。

                                以上

新・私の本棚 御覧所収 謝承「後漢書」佚文 史料批判の試み  1/2

                       2020/07/25 2020/08/30
〇概要
 謝承「後漢書」史料批判である小論に於いて、同書には、東夷伝がないと評したところ、以下の史料を根拠に、「東夷伝を備えていた」とみるとのコメントがあり、ポツポツ書きためて反論を試みたものです。

 端的に言うと、同資料は、そのような主張の論拠とならないとの結論であり、以下、考証内容を述べています。

〇史料解釈の原則確認
 史料には、確たる根拠を持って編纂され、適確に継承され、厳密に審査された「一級史料」と、それ以外の雑史料があり、雑史料は厳重な史料批判を要するのです。史料批判されていない雑史料は「ごみ」であり、一級史料批判に参加させてはならないのです。

〇御覧所収記事(御覧記事)
太平御覧 時序部十八に次の記事があります。(中国哲学書電子化計劃)
臘:
謝承《後漢書》曰:第五倫,母老不能之官,至臘日,常悲戀垂涕。
又曰:      沛國陳咸為廷尉監,王莽篡位,還家杜門不出。莽改易漢法令。及臘日咸常言,我先祖何知王氏之臘乎?
又《東夷列傳》曰:三韓俗以臘日家家祭祀。
 俗云:臘鼓鳴,春草生也。

 当記事は、百科全書「御覧」が発掘した佚文を掲示し、「時序」、年間の季節風物などを記した「時序部」の「臘」なる項目の用例、故事を書き出したものと見えます。

〇臘(ろう)の意義~参考まで
 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 部分引用御免
 [略]臘とは本来、中国において冬至の後の第三の戌の日(臘日)に行なう、猟の獲物を先祖百神に供える祭り(臘祭)の意味である「略」

〇御覧記事解釈
 論者は、謝承『「後漢書」「東夷列傳」』と解しますが、その見方は根拠の無い憶測と見えます。「御覧」で、「又」は、同原典内の小区分か、外部資料か、一定してないので、『「後漢書」「東夷列傳」』との根拠となりません。

 文脈から、謝承「後漢書」は『外部資料「東夷列傳」』を引用したと思われます。一旦「三韓俗」とし、「又云」でなく「俗云」と書く文脈は不確かです。むしろ、記事全体が、謝承「後漢書」記事であり、東夷用例として『外部資料「東夷列傳」』を挿入したとも見えます。
 つまり、「曰云々」、「又曰云々」、「又東夷列傳曰云々」の三段構成、あるいは、「俗云云々」を加味した四段構成かとも見えます。要するに、何が何やらわからないのです。

〇孤証、それとも不在証明
 そもそも、「東夷列傳」なる夷蕃[伝]が、謝承「後漢書」に備わっていたら、後出史書、類書に多数引用されるはずですが、このように、類例のない孤証となっています。謝承「後漢書」は、東呉系の編纂なので、蛮夷伝には、当時交流が活発であった豊富な西域伝を収録していたはずですが、裴松之が、魏志付注の際に引用したのは、専ら、全文引用した魚豢「西戎伝」だけであり、(存在していれば)先行史料として尊重されたはずの謝承「後漢書」西域伝の引用が皆無なのは、まことに不審です。

 結局、謝承「後漢書」に、夷蕃伝は、全方位で存在していなかったのではないかと見えるのです。と言っても、魏晋代の後漢書稿に蛮夷伝が欠けていても、それは、謝承「後漢書」だけの欠落ではないので、元々、全体として、論議の種になるような蛮夷伝はなかったのでしょう。

 因みに、諸家の中で、袁宏「後漢紀」は、ほぼ全体が継承されていますが、同書は、「列伝」の無い短縮史書であり、東夷伝がないのは、むしろ当然です。また、謝承「後漢書」は、東呉孫権政権下の著作なので、東夷は「圏外」だったのです。

                                未完

2020年8月11日 (火)

今日の躓き石 揺れ動くNHKの見識と失調 『進化し続ける女王、石川佳純 1000日の記録』 

                             2020/08/11

 題材は、タイトル通りのドキュメンタリーである。放送は、8/10の夜であるが、祝日特別枠の拡大版なので再放送予定はよくわからない。なお、当記事の主たる批判の的は、後で出てくるので、ここでは、まずは、番組タイトルの下品さとサイトでの紹介の品格を語る。

「進化し続ける女王」批判
 崖っぷちに立たされ、もがきながらも東京オリンピックの切符をつかみ取った
石川佳純さん。変化を続けながら挑んだ勝負の軌跡をどうぞお楽しみに!

 ここに引用した番組サイトの紹介文は、何と言うことのない番組紹介のようだが、まずは「女王」などと、ケバケバしい冗語が見えないのはありがたい。心あるなら、まずは「女王」と囲んで、毒消しを図るものではないか。当人にとって、大変迷惑な言いがかりだと思うのである。

 また、世上、本来の意味を遠く、遠く離れて悪用、誤用されている「進化」が見えないのもありがたい。
 科学の世界、つまり、中学などで学ぶダーウィンの進化論では、「進化」とは遺伝継承の失敗で生まれた変種が、生存競争で母体種を滅ぼして取って代わることを言うのであり、母体種が変種に生まれ変わるのではない。冷酷なものなのである。つまり、個人が進化することなど、「絶対にない」のである。

 また、当然ながら、ドキュメンタリーが描くのは「過去」の1000日であり、それは、現在でもなければ、未来でもないから、「進化し続ける女王」とは、かくのごとく罪深い失言なのである。

 いや、先に挙げた下線の紹介は、取材され表現された一連の出来事の要約として、簡潔にして抑制が効いていて、一言で言えば絶妙のプロの技であり、品格ある文章はかくあるべきと思うのである。これこそ、公共放送たるNHKの神髄と見えるので、まずは、口切りである。素人にもわかる愚言には、毒消し程度の配慮は必要ではないかと思う。

 メディアの愚劣さは、別に昨日今日始まったことではないし、ここで一私人が厳しく言っても、到底聞き届けられるとも思えず、まして、世間全体の悪習が癒えることはないことは、十分承知しているのだが、当ブログの芸風なので、「進化」も「変化」もしないのである。

○忍び寄る「リベンジ」感染
 以下が、本題である。
 この番組の取材対象者は、石川佳純選手で(全農)である。実名を出すと、そのたびに余計な感情を巻き起こして、議論がそれる恐れがあるので、実名は控える。

 要は、番組全体に表現された、密着取材を通じて感じ取れたであろう当人の発言、行動が、そろって、敵愾心依存のスポーツ根性と一線を画すものであり、すがすがしい好感を抱かせるものなのだが、中盤を過ぎたところで、突如、陰の声として、番組主題に反する「リベンジ」が乱入してぶち壊しなのである。

 制作担当者の脳が在来のスポ根ものに毒されていて、この番組では無理矢理自制していたから、突然禁断症状が出たのだろうか。一人で台本を書いたわけではないだろうから、どこかでチェックの赤鉛筆が入るべきである。

 もちろん、取材対象者が、オフレコの場で、「やられたからにはやり返す」と発言したのかもしれないが、そのように「記録されていない」会話をここに取り上げるとしたら、それは、密着取材に応じた対象者の信頼を裏切るものである。
 オリンピック出場をかけた決戦を勝ち取った後、ひょっこり、ポルトガルのトーナメントに出場した点を、当人は、わずかなポイントでも確実に取り込みたいとする意思に加えて、リオ・オリンピックで苦杯をなめた、下位ランキングの選手と再戦した意図する気持ちもあったかのように描かれているが、どこまで、どんな思い入れがあったかは、当人の内面の問題であり、当人でもなければ「同業者」でもない、単なる野次馬が、当人の思いを踏みつけにして賢そうに解釈すべきではないと思うものである。

 まして、「リベンジ」などと、キリスト教世界では背徳の禁句を言い立てるべきではないのである。ずいぶん、遙かな高みに立って、選手の内面を見くびったものである。まるで、野次馬コメントである。

 加えて言うなら、この暴言は、視聴者に対しても不誠実である。普通の言葉で言えば、「最低」、「ぶち壊し」である。NHKは、次代を担う子供たちのためにも、罰当たりな暴言の感染拡大を阻止すべきなのである。NHKの番組制作の方針を信じるから、ここに批判を書き残す。

 繰り返しになるが、この番組は、現代に生きる一人の選手が大人として生きる姿を克明に描いていて、大勢のスポーツ選手のお手本になるものである。だからこそ、暴言が刻む傷は、単なる瑕瑾でなく、番組の趣旨を切り崩す、深刻な亀裂となるのである。

 世間では、敵愾心を糧にがむしゃらに戦い続ける選手が高く評価されるが、「屈辱」や「汚名」に根ざした不屈の闘争心ばかり目については、興ざめなのである。そのような悪しき伝統が育てた指導方針のせいで、高校野球の選手まで、自分の個人的な、低次元の屈辱を晴らすために戦い続けているなどと、絶対言ってはいけない「リベンジ」を口に出して全国紙に報道される醜態を招いていて、残念な事態になっている。

 このような言葉は、なんとかして、撲滅したい、せめて、忘却の淵に沈めたいと思っているのだが、全国紙や公共放送が堂々と言い立てていては、感染は拡大するだけである。

 当番組を手がけるほどの有力な制作者は、ご自分の影響力を、もっと大事にしてほしいものである。多分、誰も、当番組プロデューサーの台本にダメ出ししていないのではないかと危惧するのである。
 校閲部門があるはずの全国紙でも、紙面に出てくるのだから、重度の蔓延と思う次第である。

以上 

 

2020年8月 9日 (日)

今日の躓き石 NHKBSでのさばる「同級生」アナ

                    2020/08/09
 本日の題材は、日曜朝のNHK BS1「エンジェルス vs. レンジャーズ」の実況放送である。

 いや、中継放送などで、解説の元選手が、ぼんやりしていて呟くのなら時にあることである。解説者は、元々、野球以外眼中にない職業だったから、引退してから、多少訓練を受けても、普段の無頓着な物言いが飛びだして、無造作に出来の悪いコメントを口に出すことはある。

 現に、最近の「ワースぽMLB」でも、NHK側が、折角「同学年」とお手本を示しているのに、解説者が無神経に「同級生」と口に出して、ぶち壊していたのに気づいたことがある。いくら、局側が丁寧に悪いガキ言葉に蓋をしても、解説者が一言言えば、何の効果も無いので、大変嘆かわしいのだが、素人にお説教しても、次回の出番では忘れているだろうし、局からきつい注意があったろうという事で、記事にせず、飛ばしたのだった。
 今回は、アナウンサーが切り出して、その後も、蒸し返しているのが重症と思うのである。ほとんど放送事故ではないだろうか。

 つまり、最初は、両チームの先発投手が、加州のオレンジカウンティの同学年で、地域のハイスクールチームで対決していたとしている。つまり、同じハイスクールでなかったのだから、同じクラスで共に学んだことは無いのである。と言うところまで、事実確認した上で、次に口にするときは「同級生」と言ってのけるのだから、これは、病的な誤用癖である。至急、治療すべきだろう。

 NHKのアナウンサーは、最高の訓練を受けていて、今回のような「同級生」については、念入りに言い換え、訂正を用意しているはずである。それが、自分から誤用の泥沼に乗り入れて、子供達を含む多くの視聴者に誤用を蔓延させるというのは、どういうことなのだろうか。
 善良な納税者、ならぬ受信料支払者は、高額なBS受信料を、このようなたわごとを聞くために支払っているのではない。「金返せ」と言いたいところである。
 今回は、高名なNHKアナが相手であるので、遠慮しないのである。

 余談であるが、引き合いに出すとき、変な書き方をした「ワースぽ MLB」であるが、毎回聞いていて、「ワースポ」の語尾を呑み込んでいるために、何を言っているのか聞き取れないのである。

 耳慣れない新造語であるから、全文字きっちり発音して欲しいものである。

 端折られた4文字目であるが、母音がOであることは辛うじて聞き取れるが、子音がうまく聞き取れないので、ひょっとして時に会話に出て来る「ワースト」かと聞いてしまうのである。ちなみに、本職の局アナの番組紹介では、「ポ」の発音、特に、子音の破裂音に微かに力が入っていて、母音も時間的に微かに引き延ばされて、「ワールドスポーツ」の略称かな、と連想させるから、何を言っているのか聞き取れるのである。
 素人は、勝手にそう思うのである。

 いや、事は、NHKだから、ことさら言い立てているだけであって、しかも、プロのアナウンサーを念頭に置いているので、点がからいのである。NHK内部では、誰もこうした事項を指導しないのだろうか。

以上

2020年8月 5日 (水)

新・私の本棚 松尾 光 「現代語訳 魏志倭人伝」 参 通詞論 2/2

 新人物文庫 .KADOKAWA/中経出版 Kindle版

 私の見立て ★☆☆☆☆ 誤解と認識不足の露呈  2020/08/05

〇文書論議
 文書交換は高度な筆談であるから、ここに書かれているようなお粗末な手配りはあり得ない。まして、国家の大事に無教養な野良通詞を雇うのは、失笑ものである。鞍作福利は中国古典に精通していたと同時に、その高度な概念をヤマト言葉に噛み砕いていたものと思われる。中国人と会話するためには、鞍作氏が創造したヤマト言葉によって思考できる人材が求められたのである。何しろ、ヤマトの側には、後世律令で確立するような国家規律の言葉はなかったから、その大半は、漢語で埋められていたはずである。

〇漢字現地化禁制
 因みに、漢字を自国風に発音して文章、会話を構築することは、文明の根幹に反するので禁じられていたのである。かな文字は、中国との交通が疎遠だったため見過ごされたのであり、至近の百済と新羅は、中国の規律に厳格に拘束されていたので、漢語の現地化などできなかったのである。

 今日でも、政治、経済などの高度な談義で、漢語や漢語風現代造語をヤマト言葉に置き換えたら、意思疎通できないのである。

〇児戯敷衍の愚
 ちなみに、「伝言ゲーム」なる、低級で陳腐な比喩が登場するが、事は、子供の遊び事ではないのである。正確な意思伝達の保証には、対面筆談による文意確認であり、つまり、都度伝達内容を検証し是正するのである。

 このような、児戯に属する、低劣な比喩を持ち出して、古代人の叡知を見くびるのは、自身の無知を高言しているものである。

〇外世界の文化、文明
 史記大宛伝、漢書西域伝の漢武帝期の西域踏査記録で知られているが、西域に威勢を誇った安息国は、皮革に横書きで文字を書き付ける高度な文書制度を有し、数千里に広がる広大な国内に宿駅を備えた街道を隈無く整備運用し、常時、官制文書使を往来させ、漢使の東部国境到来時は、西境王都に急報し、想定日数内に国王から応対許可の指示が届いたと報告されている。

 縦書き漢字文書ではないが、巨大国家が、文書行政で秩序正しく運営されていたと知られている。其国は、銀銅貨が有り、計算集計技術が確立し、「法と秩序」も健在で、前世、女性一人で安全に長旅できたとされている。ただし、中原外情報であり、中国に皮革紙や横書筆記が伝わったわけではない。

〇まとめ
 文化、文明は、文字の上に構築される。単なる民族風習ではない。

〇魚豢の嘆き
 魏書第三十巻巻末に裴松之が補追した魏略「西戎伝」全文で魚豢の著作が伝えられているが、巻末で、魚豢のような知識人でも知りうる範囲の限られた池の鯉で外界を知り得ないと達観したが、現代人は知識を得るのに池を出る必要はないから、その場で認識を広め、かつ、深めて欲しいものである。

〇教訓
 古代史談義を現代人の言葉と概念で進めるのは無謀である。同時代概念を摂取し、内なる言葉と概念を整えた上で古代史料の言葉を取り込むべきである。氏の解説は、言葉と概念の貧困により意図不明の絵解きに終わっている。

 更なる境地に至るためには、情報源の「貧困」を理解いただいた上で、止まる木を選んで研鑽いただきたいものである。

                                以上

新・私の本棚 松尾 光 「現代語訳 魏志倭人伝」 参 通詞論 1/2

 新人物文庫 .KADOKAWA/中経出版 Kindle版

 私の見立て ★☆☆☆☆ 誤解と認識不足の露呈  2020/08/05

〇はじめに
 当記事は、本書に追記された「通詞論」に関する批判である。
【Q】魏の使者と倭人は、どのようにして会話したか
【A】魏国の使者が倭国に来たときもそうだが、倭国の使者が魏国に赴いても、使者の出身国の言葉がそのまま通じることはない。まして、世界の真ん中にいると称する国の人が、蛮夷の言葉に通じているはずも、通じていようと努力するはずもない。

〇コメント
 問われたのは、魏使来訪時の会話方法と明快だが、氏は時代錯誤の自己満足のせいか、筋の通った説明を怠っているので、率直に指摘せざるを得ない。

〇「倭人」錯誤看過
 「倭人」を、倭人伝「倭人」でなく、倭の住民とみて躓き石をやり過ごす。

〇識字率ならぬ識語率
 倭の住民といっても大半は文字を知らないし、一切教育されてないので、魏使の発言を理解できるはずはなく、また、身分の高い魏使と対話するのは、同様に身分が高く漢字を解する高官のはずである。「会話」など、端からあり得ないのである。しっかり、事態を想定する必要がある。

〇洛陽遣使談義
 洛陽に赴いた倭国正副使は、当時最高の教養の持ち主であり、あるいは漢語を解したかも知れないが、概していえば、それ以外の倭王以下の高官は漢語を解せず、倭国使が漢語まじり倭語に通訳したはずである。
 ちなみに、倭王は、国王の教養として漢字の素養はあったと思われる。でなければ、国事報告の内容が理解できず、裁決、指示できないからである。
 言うまでもないが、当時、中国語の通じない蛮夷、倭に、中国人と国事を談じる「日本語」など存在しなかった。(日本が影も形もないことは別として)関心を持っても、存在しない言葉を学ぶことはできないのである。

 三世紀当時、中国世界では中国が(唯一の)文明国であり、国事を語る言葉は中国語だけだったのである。「世界」は中国であった。松尾氏は、わけもなく中華思想を揶揄しているようだが、自身が不勉強で、誰かの意見に追従しているだけであり、つまり、見識が狭いために、自身の井戸の中に囚われていることに気づいていないのである。特に、三世紀どころか、中国太古以来の文字文化の堆積と当時の『外国』の文字無く、文化無き世界との隔絶を想到できないで、勝手な意見を垂れ流しているのではないかと危惧される。

〇掌客の意義
 中国は、世界の外の「外国」つまり外道の来訪時、紛糾を避けるため、客として遇したが、客は、中国の内国として認知されるために懸命に中国語、中国古典を学んだのである。蛮人が中国人として認知されるには、四書五経を暗唱し、古典書に書かれた先哲の言葉に関して問答に耐えることが「目安」とされていたのである。
 それでも、帝都の蕃客受入部局鴻廬の下級官、実務担当者の「掌客」が蛮人に言葉と儀礼を教えて、宮中参内で大過ないようにしたのである。

〇掌客の実務
 蛮人との『会話』の最先端に位置する掌客は、最下級とは言え官人であるから、蛮夷の言葉に染まることは許されなかったが、通詞として蛮夷の言葉を解する官奴がいたとも思われる。通詞を介しなければ、漢語、漢儀礼を教えようにも、端緒がつかめないのである。会話に要する片言は覚えざるを得なかったであろう。

〇会話通訳の意義と限界
 以下、氏が図式化して論じているのは、会話通訳であり、同原理を国事の意思疎通に敷衍するのは、全くの見当違いで、氏の認識不足を露呈している。蛮夷は、高度な概念を表す言葉を持たないから「通訳」は成立しないのである。いや、脳内に図式がなければ、文字や図で表しようはないのであり、氏は、読者に教授するつもりで、自身の浅薄な理解を示しているのである。

 また、日常会話の類いでも、両者の間に通じるものがなければ、通訳のしようがないのである。
 例えば、対面で行われる商取引では、数や通貨の勘定や月日の記法も、共通していたはずである。共通していなければ、言葉が通じても、意思が通じないことになる。
 簡単な日常会話は理解し合えたとしても、日常会話の延長の言葉や概念で国事は語れない。
 いや、ここまで説いている勘違いは、一般人、素人にはむしろ常態であり、民放の古代史番組で、司会者が番外発言として、同様の誤解をこぼしたのを聞いたことがあるが、氏のように中国史書の翻訳に挑むほどの玄人論者が、これほど簡単な原理を知らないままに過ごしてきたことが、不可解である。

                                未完

2020年8月 4日 (火)

新・私の本棚 松尾 光 「現代語訳 魏志倭人伝」 弐 陳寿論 2/2

 新人物文庫 .KADOKAWA/中経出版 Kindle版

 私の見立て ★☆☆☆☆ 史料批判なき風聞憶測 2020/08/02

〇陳寿の諸葛亮観
 続いて、氏は陳寿の諸葛亮への感情を述べるが、普通に見て深い尊敬を抱いていたとみる。魏で諸葛亮は連年関中方面を侵略し続けた極悪人であり、魏略を書いた魚豢は、魏官人として当然、諸葛亮に敵意を示す記事を残している。
 魏官人の憤懣を引き継いだ西晋に於いて、旧敵国の巨魁たる諸葛亮著作集を上申したのは、大抵の決意ではない。
 因みに、魏を創始した武帝曹操は時代最高の詩人であり、孫子兵法の注釈を表した文人であるが、曹操著作集は残されていない。

 諸葛亮は、私心のない宰相であり、戦地にあっても政務に心身を労したが、軍人として、むしろ凡庸(非凡とは言えない)とみるのが妥当な人物評ではないか。その子についても、陳寿は、むしろ冷静に評価しているとみられる。これを害意と見、筆誅と見る者は、陳寿の器を見くびって、評者自身の狭隘な史眼を露呈しているものである。

〇三国志上申挿話の考証
 全体に、なぜか、陳寿を支持する筆勢が痩せているが、例えば、没後の三国志上申の際の建言は、三国志六十五巻の大著の書写と皇帝上程を齎すものだから、識者は、身命を賭して推薦したはずである。

 著作とは、上申を想定してまとめていた三国志最終稿善本、美本を言う。つまり、陳寿原本を上申し、書写は控えと見るべきである。実務は、河南尹・洛陽令の采配であるが、六十五巻分の用紙、ないし、簡牘と墨硯は、官費で手配するとは言え、最高級の資材である。また、写本工は、在野の職人ではなく、皇帝書庫写本に任じられる当代最高の著名の人材だった筈である。何しろ、皇帝命で、金に糸目は付けなかったと見るべきである。

〇洛陽の復興
 まさかとは思うが、このような写本工の動員を、現代風の雇用形態とみていると困るのでわかりきったことを言う。
 まずは、写本工は高度な専門技術者であり、官営工房に多数の職人が常雇い、つまり、官人となっていると共に、周辺の下働きは、官奴として組織化されていたのである。つまり、簡牘書写と仮定すると、必要な竹簡なり木簡なりは、規定の尺寸、品質のものを、要求量納品する業者が必要であり、途中で、簡牘を保管する問屋めいた存在があって、それぞれの間のやりとりは、価格、数量、納期が協定されて運用されているのである。
 こたびのように、六十五巻に及ぶ特上写本の場合、国営工房に皇帝命が下って最優先で取り組むから、そこそこの納期で完了するが、それ以外だと、後回しとか、写本工不足とかで、随分期間を要するのである。

 大量の新規写本が粛々と行われたのは、曹操が、半ば廃墟としなっていた帝都洛陽を、献帝の威光を生かして、勅命で復興したからであり、曹丕文帝の時代も、着々と、往年の洛陽の威光が再建されていたからである。ここでは、既に晋に代替わりして、洛陽の活気は戻っていたから、かなりの数の写本工が、陳寿の結構広壮な旧宅を埋め尽くして、手分けして六十五巻の筆写を手がけたと思うのである。

〇洛陽の荒廃
 これも念のための背景確認であるが、かの霊帝の没後、洛陽は戦場と化して、最後は、無冠の暴君董卓の指示で、西方の旧都長安への遷都が強行され、董卓が、移転督促の目的で、洛陽に火を放ったので、一時期、洛陽は、廃都となっただけでなく、廃墟と化していたのである。
 そのため、献帝が東都に復帰と言っても洛陽再建が追いつかないため、後漢宮廷は、曹操一党の本拠、鄴なる地方都市に再興されたのであり、洛陽が国都に戻るまでには、さらに年月を要したのである。

〇士誠小人
 最後に、松尾氏は、陳寿に対して勝手に矮小化された心情を想定しているが、自身との器の違いに気づかない小人の誤解と言わざるを得ない。「(士誠小人也)『孟子』」と言うべきか。以下は、小人の史上の偉人に対する阿りとしか見えないので勿体ない。

〇東冶幻覚
 蜀は、地図上では「会稽」から見て長江(揚子江)の遥か上流であり、とてもではないが、成都から会稽は見通せず、どの方角と言えない。また、東冶県は、一時会稽郡に属し、地図上、会稽の南とは言え、巨大な福建山地の南であり、交通至難のため、早々に会稽郡から分離されている。
 と言う事で、東冶は、蜀都成都から親しく感じられるものではない。
 まして、これら地域は、三国時代の東呉、孫氏の領分で、敵地であった。心情的にも遠いのである。

 紙上の散策だけで、深く資料批判を行わず、事情のわからないままに、勝手な感慨を加えて、陳寿を戯画化するのは御免である。

〇政治的歴史観の蔓延
 一方、世上、ためにする陳寿誹謗が絶えないのは、こと倭人伝論に於いては、そこに書かれている記事が、国内史書を基礎にした政治的な歴史観と衝突するからである。政治的な歴史観は、国費によって正当化されて根強いのである。何しろ、三国志の校訂が丁寧に行われていたため、異稿、異本が無いに等しいことまで、誹謗の種になっているのは滑稽ですらある。

 魔境では、論理でなく俗耳に心地良い響きを求めて小人跋扈するのである。松尾氏は、そのような歴史観迎合の魔境潮流に流されて満足なのだろうか。
                                以上

新・私の本棚 松尾 光 「現代語訳 魏志倭人伝」 弐 陳寿論 1/2

 新人物文庫 .KADOKAWA/中経出版 Kindle版

 私の見立て ★☆☆☆☆ 史料批判なき風聞憶測 2020/08/02

〇はじめに
 当記事は、本書に追記された「陳寿論」に関する批判である。
【Q】『魏志倭人伝』の著者・陳寿とは何者か
【A】『魏志倭人伝』の著者である陳寿については、『晋書』巻八十二にその伝記が載せられている。このほかには格別の資料もないので、筆者の解説をまじえて、『晋書』の陳寿伝の語るところを紹介しよう。

〇史料批判なき筆者解説
 客観的な書き出しから流れ出す大半は、俗説流布の根拠不明の誹謗中傷であるが、著者は、資料批判を行わず無造作に風評に追随し、最後に、個人的信条に筆を撓(たわ)めて敷衍し、結局、世上の誹謗中傷を正当化して結んでいると見えるのである。

〇蜀漢誤伝
 蜀の建国の意が示されていないのは、不用意である。漢高祖以来の伝統を継承していた漢朝が、逆臣曹氏に滅ぼされたので、蜀の地で漢の正統を保ったのであり、単に三国鼎立最弱国ではない。漢と自称していたのを「蜀」と呼び、先主、後主と皇帝を格下げしたのは、魏晋朝の正統宣言による。

 陳寿は蜀の士人、史官として、蜀こそ正統の意識は保っていたのである。従って、蜀書は、蜀漢史官の視点で書かれているのである。また、呉書は、東呉孫氏政権の史官の呉書稿を、基礎資料として採用している。

〇蜀漢亡国事情
 蜀は、皇帝劉禅が晋軍の前に開城降伏したため、臣下官人は、多くが身分、職を保つことができた。勿論、皇帝の代わりに晋の任じた太守が君臨し、旧蜀漢高官は職を免じられたが処刑されたわけではない。当然、旧来蜀官人は、新来晋官人の下につくが、亡国でその程度で済んだのはむしろ幸運である。

 因みに、諸葛亮の後継として蜀軍の北伐を指揮した羌伯約は、後主劉禅の指示に従い侵攻軍に降伏した後、敵の指揮官鐘会の戦後処理の補佐を務め、晋軍の内紛によって戦死したが、敗軍の将として刑死したわけではない。

 著者の余談に悪乗りしたが、蜀人の資質を論じたかったのである。

〇千石の米、一膳の飯
 千石事件については、古田武彦氏が冷静な解釈を発表している。千石の米とは、後世、室町時代や江戸時代に、沿岸航路で大量千石の米を大型帆船で運んだように、とんでもない大量の米である。一方、千斛(石)の米の価値は、言うまでもなく莫大である。無理に例えるなら、数千万円の価値である。

 金に飽かせて、功名のない父親の伝を正史に立てさせるというのが、どれほどの罪悪か思い知らせたのであり、賄賂で動かないと公表したのに等しい。当の兄弟も、大金を惜しんで無理押ししなかったし、この相場では、以後、持ちかける相手は出なかっただろう。一罰百戒である。

〇冤罪と誤断
 著者は、現代風経済観念から、莫大な賄賂なら陳寿も動いたろうとの評価のようだが、憶測による冤罪も良いところである。

 陳寿誹謗の記事にすら書かれていない「史実」を独自創作して、史論にあるまじき筆踊りである。ことは、筆曲がり、筆撓めを越えている。

 春秋時代以来、司馬遷を代表として、時には、皇帝の指示に刃向かって、文字通り馘首も怖れないという、伝統的な史官の根性を見くびったものである。

                                未完

2020年8月 3日 (月)

倭人伝随想 再考 倭人伝行程記事の前提とすべき考察

                                                  2020/08/03 (脱字訂正 2020/08/04
〇はじめに
 本記事は、当議論の中級者以上に、従来と異なった視点を供しようとするだけで従来諸説を駆逐する意図ではないので、まずは一読いただきたい。

 なお、談じるのは、景初初期に魏朝鴻廬が最初に申告した事項であり、魏帝は当該申告を欣然裁可し、帯方を指嗾して当該東夷を招請するよう厳命したと思われる。かくて、以降訂正があっても裁可文書は改竄不可能であった。

 概して、当記事は、あくまで思考実験による推定であり、意見有用、議論無用である。

〇倭人伝の足取り
倭人在帯方東南中依山島 (脱字訂正 2020/08/04
 「倭人」談義は別記事に譲り、当記事では、「在帯方東南」云々の解釈を審議する。
 魏書は、当時の洛陽官人、「中国人」を読者と想定し、読者は私蔵書から、「帯方」が遼東郡の陸続きの南方、当然陸地と知っていたことになる。「倭人伝」は、魏書巻末の些事として実務家の奏した文書であり、読解に要求される教養は、それに相応したものである。

*「海中」の意義
 「倭人」は、帯方東南の「海中」だが、塩っぱくて飲めない海水(salt water)の深みには住めず「山島」は「山」の島と知る。ただし、中国人の地理知識で「山島」の実例は、南海の「海南島」だけだが、この島は沖合で、四周は「海」と知れていた。

 「海中」用例に漢書西域伝、魏略西戎伝の條支国がある。其国(国王治所)は、西海「裏海」(塩水)西岸の岬だが、「海中」とされる。三方臨海だが、一方陸道で、食糧、飲料水に窮しない。

*初期地理観の推定
 倭人伝の「海中」山島の地理を『帯方東南の海に「九州島」(倭)があり其の周囲は「海洋」なので海中』と見立てようにも、倭の南岸が見えない。

 とすると、「朝鮮半島」が引き続き南下し、そこから大海に向け東方に突きだした岬が山島との理解(誤解)かもわからない
 中国は、「海洋国家」でなく巨大陸封国家で、所詮井の中の蛙である。して見ると、極東に過ぎない帯方郡東南は、漠たる関心・理解しか得られない。
 そして、韓伝が云う「南は倭に接する」は、関心・理解のさらなる最果てであり、よくわからない「海」の入り組んだ地理は、無駄に面倒くさいから、あっさり陸続き解釈としたかも知れない。
 史書は、寡黙極まりないから、わからないことは、わからない。

*改竄不可能な初見記事
 敢えて補うと、当記事以降、魏、西晋代、交信と派遣者報告により地理認識は是正されても、皇帝裁可公文書は不可侵である。洛陽政権の史官は後漢伝統に縛られ、後世知識による史料改竄はできなかったと見る。そして、魏書編纂に際して、史官が、勝手に公文書を改竄することは不可能である。
 晋書などで窺えるように、少なくとも西晋代まで、洛陽官界には、活発な論客/批評家が存在したから、史官は行いを正さねばならなかったのである。

*あり得ない迂回路
 因みに、俗説の非が強く唱えられる代表例である「帯方郡・狗邪韓国行程」(郡狗)だが、当初、半島地続きの(誤)認識なら、大迂回の沿岸行は、全く想定外となる。郡狗に続く渡海三度の狗邪から末羅行程は、後日の補筆だろうが、国内官道の渡河同様に、大海の洲島経由の渡船であり、末羅を岬と見た上で、以下「陸行」としたのではないかと推定される。
 ついでながら、さらに続く末羅以降の行程記事は、一段と後世であり、明帝逝去で景初が終わり「初見記事」との整合は乏しくなったが、それでも破綻させなかったのは史官の筆の冴えと思われるが、当記事欄外であるので筆を止める。

 狗邪に至る経路の西方は、官道に関係無いので、倭人伝は触れていないが、そうでなくても、急務に供すべき官道が、お天気まかせの海上経路の筈がないのは、自明である。中国官制に無い無法な行程は、皇帝に報告されないのではなから論外である。

 再説すると、三十巻に亘る大著魏書講読の掉尾を締める倭人伝の一東夷の道里に些事を詰め込んで、読者の精力を浪費してはならないのである。

〇結語
 以上の論議は、冒頭のほんの僅かな字数の掘下げであるが、後世人が、早計な浅慮に駆り立てられて「倭人伝問題」の文章読解、題意解読を最初から取り違えると、倭人伝論の進路を大きく撓めるので、ことさらくどくどと述べたものである。

 「問題」は、出題者が、想定される読者の解答欲を刺激する知的「解」を用意した上で示すものであり、文意を順当に読み取れば、さほど困難な解とはならないはずである。

 二千年余(1800年程度)の以前同時代最高の知識人が設定し、同時代知識人読者が非を鳴らしていないのに、現代読者が、古典的な問題を解けないのは、大抵、出題者が責められるべきでなく、読者の非力、不勉強、心得違いの結果である。

 何人寄って出題文の不備を非難しようが、二千年以前の出題者には、一切聞こえないのであるが。

                                以上

新・私の本棚 松尾 光 「現代語訳 魏志倭人伝」壹 祢軍墓誌「本余譙」談義

 新人物文庫 .KADOKAWA/中経出版 Kindle版

 私の見立て ★★★★☆ 倭人伝訳文は ★★☆☆☆  2020/08/02

〇はじめに 余塵顕彰
 本書は、倭人伝現代語訳を展開しているが、ここに提示するのはその余塵である。しかして、肝心の倭人伝訳文は偉業ではあるが、定説どっぷりの凡々たる展開と見る。おまけ部分は、力作であって毀誉褒貶混沌であるが、ここでは触れない。

〇百済祢軍墓誌に関する考察
 墓誌本文については、別記事で詳報したので、当記事では省略する。ここでは、改行を追加して、氏の注記を引用する。
(2)日本の餘、扶桑に拠りて以て誅を逋がる
 
白村江の戦いに敗れた日本軍の残党ともいえるが、百済の残党とも読み取れる。

 というのは前項の『旧唐書』列伝劉仁軌伝の続きに「百済の土地を棄つるべからず。余豊は北に在り、余勇は南に在り。百済・高麗は旧より相党して援く。倭人遠しと雖も、亦相影響す【百済の土地を棄ててはならない。余豊璋は北(高句麗)におり、余勇は南(倭)にいる。百済・高句麗はもともと相党して助け合っていた。倭人は遠いとはいえ、亦おたがいに影響しあっている】」とあり「扶余勇は扶余隆之弟也。是時走れて倭国に在り、以て扶余豊の応を為す【扶余勇は扶余隆の弟である。白村江の戦いの時に戦場から逃れて倭国におり、それによって余豊璋の応援をしている】」とある。余勇はほかに見えないが、扶余隆の弟ならば余豊璋の兄か弟である。余豊璋とともに人質とされていた余禅広(善光)は日本に滞在し、帰国しないまま百済王の氏名(うじな)を得ている。この余禅広の実名が扶余勇だったのか。

 その当否はともかくとして、倭国では唐軍の侵攻を覚悟し朝鮮式山城・水城の防禦施設や烽火という情報伝達施設を造らせて本土決戦の日に備えているが、唐では高句麗と連携した倭軍による百済復興・唐軍挟撃の動きを警戒していた。


〇時代考証の試み~史料批判の第一歩
 史書の解釈で、時代考証が混乱しているのは気がかりである。

 何しろ「唐軍の侵攻を覚悟し」「本土決戦」と場違いな用語が飛び出すが、ヤマトに王都防衛施設を大挙造成したとは聞かない。また、ヤマトが、比較的近場の百済残党を差し置いて、極北の高句麗とどう連携したか、誰の懸念か不審である。全知全能の神のごとき陰謀説は、華麗で俗耳に馴染みやすいが、限りなく後世人の妄想世界と見える。

 と言うように、さまざまな時代錯誤、視点のずれが露呈している。

〇早計、浅慮の俗説への適確な異論
 重大なのは、八世紀冒頭の公開以前で誰も知らない「日本」が書かれたとの俗説である。

 舊唐書では、専ら「倭」であり、倭、倭人ないし倭国と気ままである。「日本」なぞ誰も理解できないから墓誌作者は「日本」余譙と書けず、氏の提起のように百済残党、「本藩余譙」を「本余譙」と縮めたではないか。墓誌構文としては「于時日、本余譙」と三字句に読むものだろう。

 案ずるに、墓誌は、唐代当時最高の教養人を読者として想定し、読者衆知の百済亡国後の残党の想定で書いたのであり、読者にとって典拠不明の「日本」を書くはずがないと思う。

 して見ると、本件で早計、浅慮の俗説の粉塵の中、氏が文脈を丁寧に読み取った「百済の残党」は、燦然と筋が通っていると賛辞を呈したい。「俀国ヤマト説」など「党議拘束」の範囲外では、氏は、卓越した史料解釈を示すようである。

〇先行文献調査不備
 基本的な事項であるが、祢軍墓誌解釈は未踏分野でなく、論文の数は限られているから、逐一、確認が可能と思う。

 当ブログでは、素人なりに著名な先行論考を克服して、『祢軍墓誌に「日本国号不在」』と断じている。よくよく調べて書くべきではないか。

 私の意見 禰軍墓誌に日本国号はなかった 1/6  序論

                                以上

2020年8月 2日 (日)

新・私の本棚 片岡 宏二 「続・邪馬台国論争の新視点」 3/3

 「倭人伝が語る九州説」   雄山閣 2019/12刊

 私の見立て ★★★☆☆ 折角の論考の基礎が乱調で幻滅 2020/08/02

*世襲・禅譲と革命
 本書の由来を物語るのは、このけったいな用語談義である。
 氏は、正史の意義を理解してないようである。帝都長安を脱出し流亡の皇帝が、曹操の庇護のもと面目を回復し、後に継嗣曹丕に天子を譲ったのは妥当な権力継承である。氏は曲がりくねった消化不良の言い回しを採用しているが、堂々たる国事で留保は必要ない。因みに、漢を再興した光武帝劉秀は、王莽の禅譲を受けたものではない。(いや、書き漏らしたが、王莽は、反乱軍赤眉に打倒されたのであって、劉秀は、王莽亡き後の混沌を制し天命を得たから、「正しい形式を経て漢の皇帝から天子を譲られ正統な皇帝となった王莽を不法に打倒したのではない」と見られるのではないか。いや、このあたりは素人には判断が難しい)

 司馬晋が「魏からの権力奪取を正当化」したと言うが、魏書編纂の姑息な正当化は不要である。衰弱した魏帝が、最後の国事行為として新帝に譲位したことは、天下公知、当然だったのである。

 無造作に提示した「革命」は、状況も実態も異なる後世概念であり、中国古代史を語る際には場違いである。全くのところ、時代錯誤である。

 して見ると、片岡氏には、古代史料読解が任に余ることは理解できる。

*倭人伝解釈の常道
 倭人伝は、古代中国人が古代中国人のために書いた著作であるから、そのように読解すべきだとか、倭人伝は魏書の一部であるから魏書全体を見た上で読解すべきだとか、無理難題の教訓が見られるが、氏のような見当違いの意見の横行が目に余ったと思われる真意を察するべきである。

 翻訳は、遥かな山々を居間のこたつに引き寄せるが、何らかの手法で「情報」の全てを取り込んでも、それは、現地そのものではない。

*傀儡という無様な比喩
 二度登場する「傀儡」は、業界通念だろうが廃語をお勧めする。時代錯誤を棄てれば実相が、一段と正確に読み取れるはずである。

 献帝を曹操の傀儡と言うが、氏は傀儡を操れるのだろうか。人形浄瑠璃、糸操り人形芝居など、とても、人形遣いの意のままと思えない。誰が言い始め蔓延したか、できの悪い比喩である。当時、形式に絶大な意義があり、天子は天子で、実権論は、関係者の隠語だったのである。曹操の理念は、成文法をもって帝国を律するもので、「名のみの皇帝」と言うはずがない。

*君主裁可の形
 平安時代の関白では、臣下が上奏した議案は、全て関白があずかって稟否し天皇は追認したという。曹操も同様ではないか。皇帝は、曹操の決定を皇帝裁可し、はんこ押しであっても、芸術的な操り人形になったのではないか。どの道、大抵、皇帝は、上申事案を、添付書通りに裁可、つまり、「そうせよ」と決したのである。皇弟専政と一口で言っても、実相は多様である。

 今日の官庁、企業で、大抵、起案した者の書いた通りに、決裁権限者の裁可、稟議決裁が下りるからといって、決裁者は傀儡ではない。

*陳腐と伝統
 陳腐な比喩は唱えた人間の安直さと追従者の更なる安直さを偲ばせるものである。場違いな比喩で、自身の品格を落とさないようにしたいものである。

 原点に還ると、古代史料の解読は、その史料の著者、読者の属する言語、倫理に即して解釈するしかないのであり、当時存在しなかった言語、倫理を唱えるのは、徒労なのである。

 倭人伝から始める総合的な論考は、考古学、文献史学の両要件を満たしたものとすべきである。

                                以上

新・私の本棚 片岡 宏二 「続・邪馬台国論争の新視点」 2/3

「倭人伝が語る九州説」   雄山閣 2019/12刊

 私の見立て ★★★☆☆ 折角の論考の基礎が乱調で幻滅 2020/08/02

*景初二年説の精査
 では、早々に棄却された景初二年説に成立の余地はないのだろうか。

 ここに筑摩本の難点が露呈する。遼東征伐に付随して半島西岸に「密かに」渡海し、両郡を「回収」したと書いている。戦後処理と見せているが、それなら「密か」に行う必要はない。事前に郡太守を洛陽官人にすげ替え、無血で両郡平定したと見るのが合理的である。平定は交通困難な厳冬期であったため、遼東は両郡喪失に気づかなかったかと思われる。

*疾駆参上の背景
 帯方郡を収めた魏朝は、郡の東夷台帳で最遠の「倭人」に早速の参上を命じたと見る。
 倭人は、参上すれば絶大な功として皇帝奏上すると発信されて好機を逃さず即応したと見える。郡命で、途中の関所は全て無事通過し、官道宿駅は、官費でもてなしたはずである。
 以上は、景初遣使なる蕃客への多大な下賜物と皇帝詔の背景として妥当と見えるのである。

 魏は、曹操が再興した法治国家であるから、訳もなく厚遇しないのである。

*「倭人伝」語りの「倭人伝」知らず
 俗説の倭人伝誤記説は、なべて言うと「ならやまと」を救済の牽強付会で、無批判に追従、原文改竄することはできない。厳密な史料批判が必要である。

 片岡氏には、倭人伝誤記説に従う原文改訂を採用するに際しては、俗説に無批判に追従したり、論者の人数を数えて「大に事える」したりするのでなく、論理的な批判を加えた上で納得できる議論を戴きたいものである。

 氏の本領たる考古学考察は、十分資料批判を経ていると信を置くが、倭人伝文章解釈が、非科学的では「曲解」の産物と見ざるを得ない。

*禁断の性格批判
 「賢い鳥は止まる樹を選ぶ」は古人の説くところである。片岡氏ほど道理を弁えた方が「倭人伝が語る」と銘打ちつつ、倭人伝ならぬ既存の俗説を止まり樹としているのは勿体ない。また、参考資料に、「九州説」二大論客、安本美典、古田武彦両氏著作が見当たらないのも疑問である。

 本書に具現化された「性格」が、歴史科学者の資質に欠けると見られるのは、氏が、学会人、組織人として、筆を撓めて著述しているからだろう。古代史学業界では、考古学者は、文書解釈で専門家に追従するのが不文律と感じる。氏も、やむなく保身しているのだろうか。学術的な見地からは、俗説迎合で素人批判に耐えない著作は、業績として相応しくないとみる。

 念を入れると、氏の考古学考察を批判しているのではない。国内古代史の視点から倭人伝に造作を加えている「現代語訳」に基礎を置いている不都合を指摘しているのである。

*「近畿」綺譚 ~「中和」提唱
 「畿内」に異議を示す一方、「近畿」を受け入れるのも筋の通らない話である。「近畿」は「王幾」から発し、「畿内」とちょぼちょぼである。まして、「近畿」の「イメージ」は多様である。奈良盆地は、ほぼ一貫してヤマトと呼ばれたから「ならやまと」で十分ではないか。それで範囲が合わないのであれば、南北記法で言う「中和」が一案である。
 いや、「古代史学界」が、確固たる定見を示さないのが問題なのである。

                                未完

新・私の本棚 片岡 宏二 「続・邪馬台国論争の新視点」 1/3

 「倭人伝が語る九州説」   雄山閣 2019/12刊

 私の見立て ★★★☆☆ 折角の論考の基礎が乱調で幻滅 2020/08/02

〇はじめに
 毎日新聞古代史記事のお勧めで入手、熟読したが、片岡氏の意見は倭人伝勝手改訂を引き摺って低迷しているのが、難である。
 考古学が、発掘遺跡、遺物の現物、現場から出発するように、文献学は、「倭人伝」原文から出発すべきである。訳文は前世紀の遺物であり、「新視点」を謳うなら、手指を洗い、顔を洗い、出発点を刷新すべきである。

 なお、入手困難な本書より、さらに困難な前著は未読である。

*造語の弁解
 「性格」なるユニークな用語(独特であるとの指摘で非難では無い)について弁解されているが、世間で通用している単語に、自分なりの特異な意義を付するのは、読者に意図が伝わらず誤解を誘うので不適当である。言うならば、出版社が止めるべきものである。

 「イメージ」は、読む人ごとに解釈が異なるのに適例を示していない。

*依拠資料の誤認
 本史論で重大なのは、「倭人伝が語る」と銘打ちながら、倭人伝でなく筑摩書房刊の「世界古典文学全集 三国志Ⅱ 魏書⑵ 今鷹真他訳」以下、「筑摩本」を根拠としていて、読者に誤認させる虚偽表示である。

 史書訳文は原文そのものでない。凡そ世にある倭人伝翻訳は、訳文を国内古代史「俗説」に撓めている。倭人伝「翻訳」は、現代創作であり、筑摩本は、今鷹氏他が著作権を有する現代著作物であり創作である。

 史料翻訳は、付注して原文からの乖離を示すべきだが、当該翻訳は、訳者の書き足した文字を埋め込んで原文が読み取れない。つまり、学術的でない。氏が、倭人伝準拠の古代史論を説くのなら、原文に密着した解釈から開始すべきであって、翻訳は、あくまで参考にとどめるものではないだろうか。業界儀礼を離れて欲しいものである。タイトルに裏切られて不満である。

*やまと言葉の塗りつけ
 なぜそのようなことを言い立てるかというと、筑摩本は、なら盆地中心の世界観に基づき、俗耳に訴えるべく造作されているからである。

 如実なのは、冒頭の「倭人」「わびと」ルビである。訓読ふりがなは、当時存在せず、時代錯誤、学術的な偽りでしかない。ふりがなの主旨は、「倭人」は後世の「倭」とは単にひとの意の「人」の意図らしいが無理である。魏書編者陳寿は、格別の蛮夷と認知したから伝を立てたのであり、「訓読」など存外であるから、その真意は、「倭人」の典拠を探るしか無いのである。

 いや、氏は、そのような主張をしていないと言うだろうが、筑摩本を「倭人伝」と見なすのは、「わびと」史料観に従属していると言うことである。

*無理を通す話 事実考証の試み
 景初遣使が何年かと論じたくても、ならやまと国家が景初二年六月に使節を派遣するのは到底不可能である。そのため、関係者は挙って三年と読み替えるが、事実考証を図ると、そのような延命策は不毛である。

 景初二年八月に遼東郡を壊滅させた後の十月頃に両郡接収とすると、翌六月まで八ヵ月しかない。三世紀、帯方郡となら盆地の間、約千三百㌔㍍を、騎馬無しの純歩行であって、片道四ヵ月で踏破したという。

 宿駅整備された半島内官道をよそに、いつ着くともわからない半島沿岸連漕と想定しているから、底なしの無法である。それにしても、中四国経由は、道も何も無い蛮境の遠大な距離だが、どうやって踏破したのだろうか。

 とは言え、景初二年六月は、さらに不可能であるから、俗説は、史書誤記を提示して、景初三年六月を採り、後は言わない。同年元旦に明帝曹叡が逝去、新帝即位と言うも、改元は翌年であり景初が維持されていた背景がある。

                                未完

今日の躓き石 高校野球に根強い「リベンジ」蔓延を助長する毎日新聞の罪科

                          2020/08/02

 本日の題材は、毎日新聞大阪朝刊14版スポーツ面、高校野球甲子園交流試合第5日第2試合記事の左側の出場校紹介である。当の高校、発言した選手の実名は、直接挙げない。全ては、毎日新聞担当記者の暴挙だからである。

◎二重の大罪
 いきなり「リベンジだ」で始まるが、見出しは、「敗戦の雪辱 晴れ舞台で」と前世紀の遺物の「檄」を飛ばしているのだから、辻褄が合わないのである。むしろ、失笑を禁じ得ない、素っ頓狂な物語である。

〇身の丈に合わない無様な意見
 昨年夏の地元の練習試合で失敗した屈辱がどんなものか、当人でないから知ることはできないが。世間の眼で見れば、随分ちっぽけなものに過ぎないのである。高校野球は、厖大な負け試合の山、また山である。個人的な負けの「屈辱」を、個人の心の糧にするのは勝手だが、大抵は、自分の非力や失敗を、向上心の糧にするものである。それを、屈辱だけ捉えて、全国紙で全国読者にぶちまけ、担当記者にでかでかと書かせるのは随分自己中心である。
 右の高校は、見たことも聞いたことも無い、相手校地元相手の「恨み」を投げつけられて迷惑に違いない。仇討ちというなら、相手を取り違えるなと言うところである。親の敵と言われるのも困るが、なんで、相手の投手のつまらない負け経験を言い立てられるのか。自分たちだって、どこかでだれかに負けているが、つまらない恨み、辛みを言っていないのである。いや、部員の中には、屈辱とか、飽託とか言う者がいたかも知れないが、担当記者は、そんなことを書き残して、当の選手の恥を全国にさらさないのである。
 左の高校は、よほどの不運だったのだろうか。
 毎日新聞スポーツ面には、編集責任者がいないのだろうか。

 いや、こうした暴言、妄想は、人生経験の無い高校生なら、内心に点しそうだが、まずは、身辺の指導者が考え違いをただしてやるべきである。高校野球は、高校教育の一環であって、野蛮な闘争心を掻き立てるのが目的では無いはずである。

 最後に出て来るのが、担当記者の心かけである。いつまで、明治、大正の遺物である「雪辱」を担ぎ出すのか、まして、全国多数の高校の全ては、優勝チームを唯一の例外として、皆、敗退するのである。敗戦に対処する心構えを育てるのを優先すべきではないのだろうか。全国紙の記者は、英雄崇拝、つまり、男性崇拝の悪しき伝統を断ちきって、新たな気概を育てるべきではないだろうか。

 毎日新聞では、高校野球報道のあり方、特に高校生の育成のあり方などについて議論しないのだろうか。
 読者は、記者の失敗を、無編集のまま自宅に届けられて、返品のすべがないのでいいのだろうか。
 この記事は、多くの若者達が読むものではないのだろうか。

〇断固排斥すべき言葉
 元に戻って、やり玉に挙がっている「リベンジ」は、単なる不出来な新語ではなく、中東を発生源として世界に立ちこめている血の復讐、「テロ」を支持するものである。全国紙の記者として、厳に戒めるべき、忌まわしい言葉であるから、断じて、紙面から排除すべきだと信じていて、わざわざ、ここに記事を興したのである。

以上

 

2020年8月 1日 (土)

新・私の本棚 番外 上村 里花 毎日新聞 「邪馬台国はどこにあったのか」

「考古学界で優位の近畿説に反論 九州説の「逆襲」相次ぐ理由は」
 毎日新聞2020年7月21日 10時20分 (最終更新 7月22日 15時19分)

 私の見立て ★★★★★ 絶賛 毎日新聞古代史記事の復興          2020/08/01

〇はじめに
 当ブログ筆者は毎日新聞宅配購読者であるが、当時、留守で宅配停止していたのでWeb記事で拝見した。本記事は、全国紙に冠たる毎日新聞の古代史記事の復興と見て、勝手ながら賞賛した。従来、同紙で散見した纒向中心記事と異なり冷静な目配りで一般読者(納税者)に、古代史に関する適確な視点を提供する記事であるので、ことさら目立つ言い方をしたのである。

 記事中紹介されている片岡氏の著書の原文を入手するのに日数を要したが、確認した所では、記者の読解力は適確であり、先輩諸氏の変調と無縁である

*報道ならぬ騒動
 見出しが半ば揶揄しているが、末尾の高島氏の談話が説くように、「学界で優位」、「逆襲」は、復讐も逆襲もない学問論に不適切である。

*考古学界の動向
 いや、正体不明の「考古学界」であるが、実際は、「風聞」集団でなく、良識を有する論者が、寡黙な大勢を構成していると信じている。

 片岡氏の論議であるが、劈頭、纏向が支配的な学界風聞の引用である。学術発表が「報道」されていれば引用できるが、同紙を先頭に「ヒートアップ」とか「近畿説で決まり」など、野次馬好みの喧噪が書き立てられている。

 ここで、氏の論議は、概して冷静で、学界に蔓延る軽率な風聞を窘め、まことに貴重である。

 ただし、別記事(近日予定)書評で歎いたように、氏は考古学者であり、中国史書「倭人伝」の解釈で国内通説、俗説依存の読替え訳文を信奉し、原文の意義を取り違えている点が、氏の折角の冷静な論議を揺るがして、何とももったいない。

 また、氏の中国「古代国家」観は、時代離れした後世史学に染まっているので、ここではひっそりと治癒を祈るものである。

*時代錯誤「訳文」に依存
 端的に言うと、「倭人伝で晩年の卑弥呼は、千人の侍女をはべらせ、常に警護がつくなど、強大な力を持った姿で描かれる。しかし、それは半世紀近くの治世の間に生まれた権力で、当初はクニグニに「共立」された弱い存在に過ぎなかった。(後略)」と時代錯誤に染まっている。

 翻訳文に苔のように纏わりついた先入観を取り除き、描かれている原文に密着すると、以下の判断が提示できる。

 「晩年」は事実無根である。婢千人は、侍女とは限らない。身辺でなく「王治」(後漢書にいう大倭王の治所 「邪馬台国」)の警護であり、「強大な力」は、創作された幻影である。「半世紀近」い 治世とも、クニグニに共立されたとも書かれていない。男王を継ぐ王は弱い存在ではない。

 以上は、女王の「性格」(片岡氏の手前味噌造語)を纏向から九州北部を支配した権力者のものに仕立てた創作であり、原文に無い「俗説」に過ぎない。言うならば、『「魏志倭人伝』が描いた邪馬台国』も、同様の背景による「俗説」の被造物である。 「我田引水」に荷担するのは、十分に史料批判した後のことに願いたいものである。

*切望される原典回帰
 当記事を魏志に採用した陳寿は、同時代史家であり、時代錯誤に無縁である。女王の墓碑銘「倭人伝」の泥や苔を洗い落として欲しいものである。

*冷静な総括 百年、河清を待つ
 末尾の高島氏の談話は、冷静な指摘であり「逆襲」ではない。『現在の考古学界にはそれが決定的に欠ける。それが問題であり、課題だ』と断じておられるが、「問題」、「課題」には、明快な解答、是正策が示唆、ないしは予定されている。

 古代ギリシャの挿話「幾何学に王道なし」の流用であるが、中国古代史文献に「ジーンズとスニーカーで行き着ける散歩道」は無い。

〇まとめ
 本記事は、全国紙の古代史記事の正道を想起させる。諸先輩は、顔を洗って出直してほしい。人が代わっても毎日新聞の古代史記事は残るのである。
                                以上

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