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2020年10月

2020年10月31日 (土)

新・私の本棚 古田武彦 「倭人伝を徹底して読む」 里程・戸数論 5/5

大塚書籍 1987年11月 ミネルヴァ書房 2010年12月 2020/10/30

 私の見立て ★★★★★ 必読書 批判するなら、まず読むべし

〇渡海水行道里の意義~私見
 ついでながら、狗邪韓国から末羅国までの「狗末」渡海「水行」道里は、「実道里でなく見立てに過ぎない」事は自明と思いますので論議しません。
 実測できない「見立て里数」を書いているのは、道里の目的は行程の道のりでなく所要日数であるから、三回の渡海で計十日を要するとわかれば良いということなのです。倭人伝独特の渡海特例に限らず、およそ、「水行」は、急ぎの場合でも船上を駿馬疾駆して日程を短縮することはできないので、陸上の街道を行く「陸行」とは、別種の交通手段なのです。

 唐六典などで、両者が並記されているのは、全国統一で適用される荷物輸送の用語であって、定速定量定額の輸送の確立が規定公布の目的だからです。

〇最終区間の「謎」に明解な「解」~私見
 倭人伝道里解釈で肝心なのは、記述された道里に、そのような容易な推定を重ねて、最終残された倭地内では、末羅国から倭まで、残り行程二千里(概算の極み)と見ることができるということです。

 洛陽からは天地の果てでも、現地に着けば案内に不足はないし、日数に余裕を見ているから、多少の遅れは全体日程厳守には影響しないのです。とは言うものの、官制の行程道里規定ですから、末羅で上陸し「陸行」に復帰してからは、ひたすら、脇道に道草せず、最短の行程を規定しているはずです。
 脇道行程は、参考までに追記したのであり、諸国への道草が必須の規定ではないのです。

 因みに、行程の最後に到達するのは、女王の所、王治(城)であって、「王都」ではありません。王の所在を「都」と最高に尊称するのは、中原の帝都、ないしは、副都であり、夷蕃の王の住み処を「都」と崇めたてまつることはないのです。(当ブログの既出分は、極力訂正しましたが、取りこぼしがあれば、ご容赦いただきたいものです。なお、西域伝に一件例外がありますが、それなりに理由があってのことです)

 ここは、郡に発して倭に至る全行程が、すべて(都)水行行程十日、陸行行程一月、即ち三十日、合わせて、四十日を要すると総括し、皇帝以下の読者に、行程道里記事全体に対して、明快な「解」を提示しているのです。(都の解釈は、古賀達也氏の提言に触発されたもみのです)

 以上は、古田氏の見解では無く、当ブログ記事著者の意見ですから、当記事は、古田氏の著書をサカナに、自説提示している物でもあります。誤解される向きはないと思いますが、この部分は、特に私見が多く含まれているので付記しました。他の部分に私見を書いていないわけでは無い事は了解ください。

〇大局的考察の意義
 私見では、資料探索や語句解釈無しに、大局的考察で末羅国に到達します。
 陳寿設定の課題は、大局的考察で到達できる解を備えたはずです。
 それが、当方の持論なので、それに異論はあっても、このブログの記事では、最後まで従っていただくしかありません。異論があれば、全体を理解した上で提示いただきたいものです。いや、何にしろ途中退席は随時自由です。

〇最終行程の推定
 末羅国以降は、二千里程度なので、どこをどう通るかは些末です。従って、ここでは論じないつもりでしたが、最低限の推定は書き残します。

〇道里の帳尻
 行程道里の残りは、かなり大雑把な概数で二千里であり、千から三千里までを含んで緩やかであり、精密な比定はできないと見ています。
 要は、万二千(余)里に確たる基準はなく、概数と見ると万里から万五千里で、七千(余)里は、五千里から万里で、共に大まかなものです。
 想定の三千里キッチリを引いた概数計算で、残り、(マイナスはありませんから)零から五千里であり。先の千から三千里が辛く見える程です。
 陳寿は、全万二千里という「公文書」記事に縛られていたのです。

*切りのいい奇数数列
 このあたりは、切りの良い概数数字、千,三千,五千,七千,万,万二千と並ぶ、飛び飛びの(奇数優位の)数列を使うと、こうなります。数字に強い史官などには自明でも、(皇帝以下の)読者諸氏に、何のことかわからないから、後難を避けて詳しく書かなかったのです。

*ほんの余談
 因みに奇数の奇は、「奇瑞」「奇蹟」に残っている本来、古来の意味です。将棋で「奇手」は、本来、「至高」、「絶妙」の絶賛調でしたが、明治の文明開化で、「正義」が失われて誤解され、もっともらしい同音の「鬼手」に化けたのです。時には、知らない方が強いのです。

*積み残し雑談
 「概数加算の誤解を招くので避けるべき」直進行程を描き出したのは、多分、数字に弱い方の筆でしょう。数字に強い陳寿も、細事に手を加えなかったと見ます。
 行程外傍路国は詳細不明と逃げ、枠外諸国の風聞は埋め草です。西域伝は、古来西の果てに、かくかくの名所があるとの風聞列挙で締めています。
 夷蕃伝では、「隅から隅まで中原記事と同様の厳密さ」は維持できないのです。映画の遠景のように、遠隔の事象は、微少に見え、しかも霞んでいたり揺らいでいたりするので、強力な望遠レンズと頑固な三脚を駆使しても見定められないのです。

〇まとめ
 再確認すると、当方は、古田氏諸著作を熟読、吟味した上で、本書の細瑾、誤謬を指摘しているものです。よろしく趣旨ご了解いただきたいものです。

〇謝辞
 当記事は、藤井滋氏の提言を参考にしていますが、注目されていないようなので、特に明記します。
 藤井滋「『魏志』倭人伝の科学」『東アジアの古代文化』1983年春号
 *別途紹介記事を公開しています。
                                以上

新・私の本棚 古田武彦 「倭人伝を徹底して読む」 里程・戸数論 4/5

大塚書籍 1987年11月 ミネルヴァ書房 2010年12月 2020/10/30

 私の見立て ★★★★★ 必読書 批判するなら、まず読むべし

*領域外形は不要
 領域外形を表現する際には、混乱を避けるために、東西里、南北里を書き出しますが、領域の「国力」とは無関係です。領域の広がりは、中心地から四囲主要地の道里を知れば十分ですから、滅多に起用されないのです。

 現代人偏愛の地図は、農業本位の古代のメシの種にならず無用です。

*倭人伝里の物差し
 と言う事で、当記事到着点は、倭人伝里程解釈に、魏晋朝里も倭人伝里も不要で、実態把握していた郡狗七千里の「物差し」で十分と言うだけです。持ち運びできない物差しと言うなかれ、どの道、四百五十㍍に上る物差しなど一切実用にならず、里を三百分割して、歩を取り出す事などありません。

〇国力指標としての戸数
 「戸数」は、行政最小単位である「戸」の数を言うのであり、戸籍台帳を積算・集計すべきものです。戸籍は、戸の家族構成の明細を言いますが、ここでは、戸に付与された地券を併せています。つまり、戸は、家と耕作地もあわせて言うことにしています。
 それぞれの国で、戸主に耕作地が付与され、それは、直裁的に収穫量と戸に対する貢納(納税)義務を表現しています。

 国にとって、戸数は、各戸の動員可能兵力を示す意義があります。大抵は、大家族ですから、まずは、一戸あたり最低一名、戦時には、更に追加した軍務、徴兵が可能と明示していることになるのです。

*服従の形象
 君主から見て、戸数は、国内の動員兵力、農業生産を示すと共に、基礎となる戸籍を把握し、宗主国に服従を示すときに献呈するのです。戸数が示されないときは、服従関係が成立していないという事です。

 魏志に表示されている戸数は、魏領内の該当地域の農業生産を示すものであり、各地領主の格付け、上納の多寡を示すものでもあります。漢代以来、耕作物自体を貢納する事は廃れて、地元で耕作物を売却した上で銭納していましたから、戸数は銭納金額の指標になっていたのです。
 倭地に銭納はなく、各国は収穫物を楼閣まで担いで行ったのでしょうか。

*蜀志、呉志の戸数不記載の意義
 古田氏は、三国志蜀志、呉志に戸数記事が乏しいと指摘していますが、両国は魏に不服従で戸籍を献じず、魏制戸は存在しなかったのです。三国志の蜀志稿、呉志稿に両国の戸数は書かれていたでしょうが、それは、三国志を総括する過程で、全土が魏の天下であったとの大義に反するとして、削除したと見られるのです。(三国それぞれ独立した国志を立てているのに、戸数だけ、魏の主権が及ぶかのような改訂は、史実に反するのと同時に、編纂の全体方針に反するのです)

*蜀、呉の戸数管理
 両国は、元来後漢朝の地方勢力であって、当然、後漢官制の戸籍を継承維持していたと見られます。ところが、両国は、後漢朝が曹操の私物と化したのに反発して離脱したものの、魏朝の正当性は認めていなかったから、服従せず、後漢戸籍を変えることは無かったのです。

*晋書の両国戸数記事
 両国が、魏朝後継の晋朝に降伏した際、両国は領土、人民を献じたので、戸数、口数は、実数で確認されましたが、両国が戸籍を維持していなければ献上できないのです。と言う事で氏の戸数論も、根拠が不確かです。

                               未完

新・私の本棚 古田武彦 「倭人伝を徹底して読む」 里程・戸数論 3/5

大塚書籍 1987年11月 ミネルヴァ書房 2010年12月 2020/10/30

 私の見立て ★★★★★ 必読書 批判するなら、まず読むべし

〇「誤差」の意義
 氏の慎重な対応にあっても、素性が不確かな数値に不確かな計算を施した結果は、「誤差」では論じられないのです。世間には、不確かな計算結果を、多桁表示する豪傑もいますが、氏は、妥当な対応を心がけているのですが。
 もっとも、六倍に隔絶した「里」を問う際に誤差論は、実は、些末です。

〇図上推計の不合理
 近来、氏の考察と同様に壱岐島の現代地図から、方四百里に基づく推定を行った論者は、一里五十五㍍と見ています。先哲の手法を無断模倣した提言を新説と説くのは、非科学的、無礼ですが、かくなる暴論が世に出るのは、氏の壱岐島考証が、学術的に不安定だった事を物語っているのです。

〇「方里」解釈
 それはさておき、根本的で「深い」のは、韓地、壱岐島「方里」解釈です。
 氏は、まず、韓地を正方形と解し、後に平行四辺形と訂正しましたが、これは、氏の早計です。これは、誰も陥る陥穽で、それに気づくかどうかです。

〇面積表記の「方田」
 漢代算術教科書「九章算術」に従えば、「方」は、「面積」表現です。まずは、正方形に始まり、長方形、台形、果ては、円形などの耕地の各部寸法を測量して面積を計算する計算手順、面積公式を示しています。例えば、台形であれば、周知の通り、長辺と短辺を足して二で割り高さをかけるのです。

〇国力指標としての「方里」
 伝統的に教育されている「方」は、正方形、四辺形に限定されるものでなく、不規則な外形の領域も、収穫高に関係する「面積」(畝や頃)で表すのです。つまり、肝心なのは耕地面積であり、全領域の耕地面積を足し合わせたものであり、領域の農業生産力、国力を直裁に表現しています。

〇「方里」深読み~不確かな論拠の棄却
 「方里」は難易度が高く、計数が結果を左右して、大変不安定です。
 壱岐島方四百里は一辺一里の方里四百個を縦横二十個並べます。山地、海岸部を除く中核部が五㌔㍍四方なら一辺二十里、一里二百五十㍍となります。
 さて、記事には、島に課税対象「良田」が少ないとあるので、中核部たる領地の十分の一、十㌫を良田として台帳計上すると、耕作地は、千五百㍍四方、一辺二十里となり一里七十五㍍、つまり、倭人伝里に誘導できます。
 以上の通り、「方里」は、領域見立てが不確かで、更に、道里とは別系統で別種の不確かさを有する資料であり、途中の自乗計算で誤差が大きくなるので、一段と不確かであり、結局、氏の里程論の論拠には、不適切とみます。

 「方里」は、領域外形を示すものではないから、勝手に等辺四角形を想定して幾何学的にその一辺を里数計算に適用するのは本来、不合理なのです。

 言い換えると、面積単位である「方里」を「道のり」の「里」、「道里」に起用するのは誤りです。いや、史学会なべて同様なのですが。

*方里の確認
 因みに、韓地諸国は、概算とは言え戸数が示されていますから、既に戸籍が導入されていて、各韓国から帯方郡に「方里」が報告され、郡が、韓地方里を合算したものと見ます。韓地の外形を推定するには、耕作地占有率を想定することになり、その際、別系列の戸籍の数字を利用するので、いくら工夫しても、漠たる想定にしかならないのです。

 強大な高句麗が「方二千里」と韓地の半分に過ぎないのは、所領が高山深谷が多く、農業不適の土地が大半と書かれているためであり、強力な騎馬軍団を擁していた高句麗には、広大な牧草地や馬場があり、その実質的な領域は、韓地に劣らなかったと見ますが、農地で国力を評価する中原政権には、そのような耕作不適な土地は、価値のある土地でなく、一切国力に貢献しないと見ていたのです。
                                未完

新・私の本棚 古田武彦 「倭人伝を徹底して読む」 里程・戸数論 2/5

大塚書籍 1987年11月 ミネルヴァ書房 2010年12月 2020/10/30

 私の見立て ★★★★★ 必読書 批判するなら、まず読むべし

〇「倭人伝里」の意義
 氏は、まずは、倭人伝に「普通里」の六分の一程度の「倭人伝里」(七十五㍍程度)が採用されていると見た上で、史官たる陳寿の倭人伝書法は、「倭人伝里」で一貫しているとの「仮説一」を得たと思われます。
 念のため言うと、四百五十㍍も七十五㍍も、当記事の便宜上表記であって氏の表記ではなく、当記事筆者は、厳密な数字を主張しているものでもありません。ただし、倍率は、小数の無い算数のため、整数と「確信」しています。

 この「仮説一」は、氏によって乗り越えられ、陳寿が三国志全巻を編纂した以上、偶々倭人伝で顕在化したものの、魏晋朝で国家制度として全国で採用されていたという「魏晋朝里」「仮説二」に至ったと判断されます。

 「仮説二」において、氏は、まず、三国志魏書を探って、魏が後漢を継承した際に布告した礼制において里制変更したとの説を唱え、次いで、三国志里程記事に書かれている「里」が、現代比定地の実道里から判断して「魏晋朝里」に即しているとの「考察三」を提示し、これ対する反論と再反論が交錯して、大量の論考が重ねられていますが、収束の兆しがありません。

*「仮説二」の否定、「仮説一」の維持
 当方は、既に、古田氏の「仮説二」が成立しがたいと論証し、したがって、「考察三」の検証は無用と断じましたが、一方、「仮説一」は、倭人伝記事の解釈として合理的であり、依然として有力な仮説と考えています。
 ここまでは、既に私見を詳解したので繰り返しません。以下、古田氏著作の「仮説一」論証過程の「誤謬」を指摘し、その由来を探るものです。

〇「誤謬」の深意
 因みに、世間には、「誤謬」を感情的に捉える方があるようですが、要は、単に、個別の考察に適用されている部分的な見解が、勘違い、速断であって正しいものでないと言っているだけで、勘違い、速断は、誰でもある事なので、別に、感情的に受け取る必要はないのです。
 勘違いや速断による謬りでないということは、根本的な錯誤、大局的錯誤の表れと言う事であり、大変な非難になります。勘違いは慎みたいものです。

〇「方里」序章
 さて、氏の里程論における重大な懸案は、「方里」に対する誤解です。
 氏は、一大国方四百里を、領域が一辺四百里の方形と見て、検証のために壱岐島に想定した四辺形から、一里は七十五㍍程度と算定しています。
 これに先だって、韓伝記事の韓地「方四千里」を現代地図で見て三百㌔㍍程度で、一里七十五㍍程度と概算した事例と合わせて妥当と見たようです。
 「方里」に関する考証は、奥が深いので、後ほど改めて述べます。

*地図の責任~余談
 古田氏は、古代史書の数値の諸般の事情による大まかさを承知で、壱岐島が、二千年の風濤、海流で減縮した可能性にまで言及しています。在来論者が、現代地図を無神経に二千年前の考察に起用する無責任さと大違いです。

 掲載された「地図」の根拠となっているデータの責任者が明記されていないと不満の持っていきどころがないし、仮に明記されていても、二千年前の地形は保証していないから、責任所在が不明、つまり、無責任な地図なのです。これは、著作権とは別の学術論ですから是正してほしいものなのです。

                                未完

新・私の本棚 古田武彦 「倭人伝を徹底して読む」 里程・戸数論 1/5

大塚書籍 1987年11月 ミネルヴァ書房 2010年12月 2020/10/30

 私の見立て ★★★★★ 必読書 批判するなら、まず読むべし

〇本書の意義
 前置きを怠らないで言うと、氏が、倭人伝が提示し過去の先賢が読み損なっていた「課題」に新たな視点から明解な「解」を与えた偉業に絶賛を惜しみません。そして、「解」に至る論証過程を明記した事に絶賛を重ねます。後生のものには、氏の論証を追試、検証する務めが与えられているのです。

*本書の由来
 本書は論文集でなく、古田氏の大阪の朝日カルチャーセンターでの連続講義を、主催者事務局が席上収録、文字起こしした記録を底本として起こしたものであり、論文集と異なり日常表現に近い成り行きで、多少、メリハリがついています。ただし、古田氏が、責任を持った著作と感じるので、ここに、率直な批判を加えたのです。事実、書かれている論旨は、氏のものです。

*当記事の意義~第五章 里程論、第七章 戸数問題の部分書評
 つまり、本書の追試過程で、個々の論証、つまり、解の階梯に瑕瑾があって、是正が必要だと感じたら、率直に提示するのが、其の務めのもたらす、派生的課題なのです。以下は、そうした派生的課題の解であり、古田氏の提示した最終的、総合的な解を揺るがしているのではありません。

*誤謬の意味
 世間には、素人考えで、氏の個々の論証に誤謬を見つけて指摘する論者があり、それが、氏の解を全否定する根拠と見る言者があるようですが、それは、ものの筋道を解しない、浅薄な思い付きに過ぎません。
 いや、論者は、あくまで、階梯を論考し、自身の「解」の優越を称しているだけですが、言者は、ひたすら、階梯が誤れば解が誤りと断言します。
 本来厳密なはずの論争が混迷を極め、誇大表現大安売りとなっています。

*部分的批判のはなし
 と言う事で、既に、古田氏の提唱した「魏晋朝短里説」の当否を論じ、史料考察から、同説は「不成立」と断じました。既に、一つの務めを果たしましたが、氏の里程、戸数論を更に追試して誤謬の起源を探るものです。
 学問論議では、未開の荒野に針路を見出すために時に、先人の轍を辿りますが、無批判に辿るのでなく、地に足の着いた論考が、どこで道を外したか、先人の過ちを知る事が有益と考えたものです。

〇「魏晋朝短里説」の起承転結
 古田氏は、第一書から本書までに「短里説」を修正しています。
 まず、氏は、倭人伝が、晋朝史官陳寿が、参照した原史料に対し適確な考察を加えた著作との前提で、その真意を探るところから始めています。

*批判事始め~私見の形成
 当ブログ筆者は、本書で氏の論考を辿った上で、郡から狗邪韓国(郡狗)まで七千里の部分道里と倭に至る(郡倭)一万二千里の全道里に対して、当記事は「郡狗」が七千里となる独特の「里」を物差しに「郡倭」道里を定めたと理解したものです。ここまでは、さほどの飛躍は要しないと思います。

*「普通里」~不滅不朽の制度
 因みに、「里」は、中国で太古以来連綿として施行されていたものであり、「普通里」は、四百五十㍍程度と見られ、私見では、秦代に一歩六尺、一里三百歩の原則で「普通里」が全土に施行され、その際土地制度に刻み込まれた「里」が、尺の変動に関わりなく継承されたと感じているのです。
                                未完

2020年10月28日 (水)

新・私の本棚 サイト記事「水行20日、水行10日陸行1月の呪縛」公開コメント 3 1/1

 私の見立て ★★★★☆ 意欲的な史料批判の失敗  2020/10/28

 59.漢文の解釈 

〇非商用ブログサイト批判の弁
 同ブログサイト筆者KATS-I氏は、当記事の論述にあたり、中国史料の原文を引用した上で、意義を解釈し論考しているので、読者コメントを希望しているものと解して、氏の課題取組みの姿勢に大いに賛同するものの、ここに、論考の不合理を指摘する趣旨で、当ブログ筆者の意見を公開コメントします。
 批判は非難でなく、率直、誠実な批判は耳に痛いのもご承知と思うので、よろしく、ご理解の上、審議戴きたい。

〇総評
 冒頭に以下趣旨のご託宣がありますが、端的に言うと、自覚症状をご存じないのかと思われるので指摘します。
 曰「正史の漢文解釈では、字句の丁寧な吟味で、初めて真意を理解できます」
 それは周知事項であり、ここで、今さら、ことさら声を大にする意図が不明です。

 その後、本文として、倭人伝から引用したと思われる、次の白文が論じられます。
 「女王國東渡海千餘里復有國皆倭種又有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千餘里又有裸國黑齒國復在其東南船行一年可至

 ところが、いきなり、出所不明の句点、改行、分かち書きが根拠不明で導入され、目が回ります。以下、行数、字数を費やして、滔々と論じていますが、いくら眺めても、勘違いと早とちり連発の記事であり、とても見過ごせません。
 とはいえ、ご託宣から脱線、暴走していては、何とも是正困難です。

 ただし、以下の異議はあくまで異議であり、「論旨を理解いただいた上で」反論なり、無視なりお好きなようにと言う事です。

*先覚者罵倒の悪癖
 従来の句点処理とそれに基づく解釈は、多数の先哲が検証確立したものであり、一個人の勝手な理屈で、一気に覆せるものではありません。
女王國東渡海千餘里復有國皆倭種
又有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千餘里
又有裸國黑齒國復在其東南船行一年可至
     以上、改行追加のみ
 
*棄却の弁
 次の点から、当記事は、倭人伝里制解釈に不適当として棄却しました。
⒈ 又有 侏儒國    在其南  去女王四千餘里 (人長三四尺を除く)
  又有 裸國黑齒國 復在其東南  船行一年可至
 二条は、そのままでピッタリ対応していて、氏の早計誤解と思われます。

 「侏儒國去女王四千餘里」は、侏儒国が女王を去る四千里と名文です。
  直前の其国が不確定なので必須なのです。侏儒国が見つかれば其の東南が決着します。
  (四千余里も一年も、伝聞、風評、ホラ話の類いでしょう)
⒉ 後世史料によって先行史料「倭人伝」を批判するのは、常に不合理です。

⒊ 道里記事末尾のどんでん返しは、確実に読者の憤激を買い「馘首」です。

⒋ 思い付きの「一里55㍍程度との予断」に向ける強弁は、無理、無謀です。
  これほどアラだらけでは、持論補強にならないのでは、言わずもがなです。

〇史料、先行論議無視の不満 再説
 倭人伝里程論では常識ですが、古代中国では、出土の「尺」を規準とした一歩六尺。一里三百歩とした「普通里」(四百~五百㍍)が周代創始の大原則で、「倭人伝独自里」説は、よほど、主張の根拠を固めねばなりません。

 中国史書は、継続して書き継がれているので、勝手な思い付きを言い立てる前に、先賢諸氏の論考も参照した上で、全体を見て論考すべきです。

 当ブログ筆者の論法は、別記事で示しています。
                               以上

2020年10月25日 (日)

新・私の本棚 サイト記事 KATS.I 「水行20日、水行10日陸行1月の呪縛」公開コメント 追 1/1

 私の見立て ★★★★☆ 意欲空転、単なる勉強不足  2020/10/25

 01.魏志倭人伝の解釈の錯綜

○ブログコメント批判の弁
 当記事について、当方も、引用データの著作権管理と信頼性検証の甘さを指摘しただけで、誤謬に触れなかったのです。何事も、提案者の話の腰を折らないのが先決です。ところが、以下の無作法なコメントがあって唖然としたので、古代史論に見かける暴論の一例として、風聞評としたものです。

もう少し、「山海経」や「漢書」や「三国志」、「水経注」などの古代中国資料における水行という文句の意味を吟味してください。
唐時代くらいまでの資料の「水行」は「河川を使った旅」で「海を航行した旅」ではありません。勉強不足。

 ブログコメントで書き落としはあるでしょうが、この書き飛ばしはひどいのです。とは言え、ブログ主のKATS.I氏と投書子の交信に口を挟むのは失礼なので、漠たる風聞評論として、それなりに字数を使っています。

○暴言の戒め
 率直に言って、他人の記事をとやかく言うのなら、まずは、自分の読書体験と知見を披瀝してほしいものです。根拠の無い言いがかりは迷惑です。

 特に、唐代は、倭人伝の後世で、何が書かれていようが倭人伝に影響を与えることはできません。時代錯誤丸出しで引き合いに出してはいけません。

 投書子は、正体不明な漠然たる「資料」で、「水行」の意味を断定しています。先に例示された諸資料は厖大ですが、「紙」が普及した唐代の周辺資料は更に膨大で、とても、人知の及ぶところでは無いと思うのです。

 投書子は、煙幕で自己防衛しますが、本当に、先に書名を挙げた資料をくまなく読んで、文意を理解した上で、この意見を展開しているのでしょうか。各資料には、それぞれ編集意図があり、同じ言葉にこめる意味は異なるのです。すべての「水行」の意味が、評価できているのでしょうか。
 「旅」の出典はどこなのでしょうか。魏志を見る限り、「旅」は「軍旅」のように移動する「集団」を指します。「勉強不足」。
 短文といえども、実に不体裁です。

○灯台もと暗し~倭人伝知らず
 肝心なのは「三国志」の「倭人伝」での「従郡至倭循海岸水行」をどう解釈するかという事です。明後日(あさって)のぼやけた文例で無く、目前の文字を読めているのでしょうか。威勢のいい言い切りに大穴です。

 史料の解釈では、まず、史料そのものの解釈が最優先と思うのです。
 実に、この部分の解釈では、KATS.I氏を含む先人は、ほぼ揃って、「自然な」解釈で「倭人伝は、海岸沿い移動を水行という」と速断しているのです。
 付け加えると、魏志末尾の魏略西戎伝(三千余字)に「澤散王[治](略),北至驢分,水行半歲」とあり、編者(魚豢)の真意は海上移動でしょう。ついでながら、西戎伝には、「陸道」、「水道」の対句があり、「陸行」、「水行」の「道」を言うようです。
 不勉強は、勉強して改善できますが、不注意は、なかなか治らないものです。(Die hardです)

○先見知らず~安易な受け売りか
 投書子は、闘志横溢でも、無根拠なので、読解力や注意力の欠如で要点を見過ごした勘違いの独善、軽率な思い付きと解され、反発されるだけです。

 こうした独善の批判には、感情的な「おつり」が来そうなので、そのような「ごみコメント」を拒否できる「この場」で批判しているのです。

○KATS.I氏ブログ記事批判の弁
 念のため言うと、氏の本件の取組み姿勢に感心しても、「勉強不足」、「先見無視」の竹ザルもどきで、古代史論の大道すら踏み外していて残念です。

 何れかの段階で、KATS.I氏は、ご自身の5年の歩みを振り返り、もし、勘違いに気づけば仕切り直すでしょうが、大変なものと思いますが、氏の今後は、5年どころではないと思うので、ここに丁寧に意見しているのです。

                                未完

2020年10月21日 (水)

新・私の本棚 サイト記事 KATS.I 「水行20日、水行10日陸行1月の呪縛」公開コメント1/1

62.扶桑國(その7)

 私の見立て ★★★★☆ 意欲的な史料批判の失敗  2020/10/21

○非商用ブログサイト批判の弁
 同ブログサイト筆者は、論述にあたり、中国史料の原文を引用した上で、倭人伝道里記事の意義を解釈し、滔々と論考を公開し続けているので、読者コメントを希望しているものと解して、氏の課題取組みの姿勢に大いに賛同するものの、ここに、氏の一連の論考の基礎部分の不合理を指摘する趣旨で、当ブログ筆者の意見を公開コメントします。

 批判は非難でなく、率直、誠実な批判は耳に痛いのもご承知と思うので、よろしく、ご理解の上、審議戴きたい。

○総評
 蛮夷道里を「通典」邊防記事から推定することに重大な異議を提示します。

 ただし、異議はあくまで異議であり、「論旨を理解いただいた上で」反論なり、無視なり、お好きなようにと言う事です。「通典」紹介は略して論議します。

*非史書の取扱
 邊防を含む「通典」は、史記、漢書以来の正史の蛮夷(客)記録を、唐代読者、皇帝以下の高官のために集大成したものであり、全て史記、漢書以来の史書引用、総括であって、原資料の直接参照はないので、参照史料として不適当と判断されます。氏は、時に、推定原史料で確認されていますが、その際、原史料の特定と史料解釈の正確さへの「史料批判」が欠けています。

*史料棄却の弁
 次の点から、当史料は、倭人伝里制解釈に不適当として史料棄却しました。
⒈ 後続史料によって、先行史料を批判するのは、常に不合理です。
 氏は、中国史上一貫した里制は記録されてないとの前提のようですから、倭人伝の六世紀後の唐代史料は、倭人伝考証に全く不適です。これだけで、決定的最終判断ですが、以下で、本件主張が例外的に特採できないか確認します。

⒉ 個々の通典記事の評価に際しては、出典を特定すべきですが、出典不詳で検証ができません。
 氏は、質問する相手(依拠史料)を間違えています。

⒊ 魏志にない西域里程を東夷里程に適用するのは、端から不合理です。
 西域は歴史上変動が激しく、当記事(正史記事も)から、西域の地名比定は不確か、基準中国地点特定も不確か(原記事は読解困難)、東夷・倭人伝地名比定が不確かと、全て「不確か」ですから、当記事から現時点の各地点間の物理的距離を知ることは大変困難(事実上不可能)です。

 特に、倭人伝独特の道里行程記事の、道のり「里」も面積「方里」も、後世の東夷の素人には、読解困難、つまり、端的な利用は不可能です。
 特に、魏志に西域記事がないので、陳寿の語法を知ることができません。

 総合して、当史料は、倭人伝「里」の推定に無効とわかります。

 根拠の無い思い付きで一里55㍍程度と推定予断したのを根拠に各国を比定するのは無謀です。
 不確かなデータはそれに適した取扱いが必要です。

○史料、先行論議無視の不満
 倭人伝里程論では常識ですが、古代中国では、出土の「尺」を規準とした一歩六尺。一里三百歩とした「普通里」(千八百尺。四百~五百㍍)が周代創始の大原則で、「倭人伝独自里」説は、よほど、主張の根拠を固めねばなりません。

 中国史書は、継続して書き継がれているので、勝手な思い付きを言い立てる前に、先賢諸氏の論考も参照した上で、全体を見て論考すべきです。「先賢諸氏の論考」と言うのは、十把一絡げ、一山いくらという趣旨で無く、仮に五百の論考があれば、五百件のそれぞれが、論者の精魂こめた思索の結果を示しているので、ちゃんと理解しようと努力した上で、それぞれの論考の筋道を辿って異議を呈すべきであり、一連の記事の冒頭に書かれているような雑駁で深く読解していない意見は、失当だと思うからです。

 今し方提示したように、倭人伝里程論の展開の際には、必ず踏みしめなければならない事項が幾つかあるのですが、氏の快速論理は、そのような基本要件を等閑(なおざり)にしているようで心配しているのです。

 なお、当ブログ筆者は、諸兄の論考をできるだけ丁寧に読み解いて、筋の通らない点を率直に批判し続け、その上で形成した自身の論法は、別記事で示しています。
                               以上

2020年10月14日 (水)

倭人伝随想 倭人伝里程課題へのエレガントな解答の試み 改 4/4

          2019/06/23 加筆2019/06/26 2020/05/06, 2020/10/12

*陳寿の史書編纂思想
 陳寿ほどの史官が、時に不備と見える「異常」な書法の倭人伝を、整理せずに後世に残したのは、帝国編纂史書として意義を認めたからだと思います。

 三国志呉(国)志(呉書)には、東呉史官が、国史を書き残す気概で呉の語法で書き残した、三国志には、時にと言うか、しばしば、曹魏に対して不敬に亘る東呉独自記録が、ほぼ温存されています。

 一方、二千字と言えども、倭人伝は、帯方郡の書記官が、中華文明の一端に触れたばかりの東夷「倭人」の記録を書き残した文書原文が生きています。
 倭人伝に見えるそのような編纂姿勢から、陳寿の志を味わいたいものです。

〇倭にいたる道 最後の五百里再説
 煎じ詰めると、伊都国から倭まで二日程度なら、これは、全体里数から部分里数を引いた一千五百里より少なくて、せいぜい五百里です。

*概算と演出
 ここまで、単純計算で、郡倭万千里で、千里ほど計算が合いません。

 ここで、各里数の由来を推察すると、総里数を含め、ほぼ全て「実測」に基づく概数でなく、それぞれ、切りの良い、演出概数です。
 全体道里は、先賢指摘の「最果ての万二千里」(本来帝都起点)と決まっていて、決まり事への辻褄合わせから、倭地里程を演出したとも見えます。

 陳寿にわからないことは、現代凡人にはますますわからないのです。

〇水行陸行の道理
 行程中の「水行」、つまり、渡海里数は、誰が考えても、適確に実測しようがないので、所要日数基準「水行」三千里を十日とし、一日三百里の概算で、必要な所要日数が明確になるので、それで良しとしています。因みに、「陸行」も、九千里三十日なので、こちらも一日三百里に揃うのです。もっとも、倭人伝里は現代単位で何㍍との議論は、以上の展開でおわかりのように、証拠不十分であり、当記事の論述に不要なので、言及を避けました。
 当世風だと、PC画面上で、対象の道のりを取り出して、㌢㍍。㍉㍍単位で書き出して、精密さを競うのでしょうが、不確かなデータに精密な計算を適用して桁数を増やして、議論に試用するのは、とてつもなく、大きな間違いです。困ったことです。

*概数の厄介さ
 なお、一部論者、先賢の決め込みに拘わらず、概数計算は「帳尻」が合わないのが通例で、大抵は、実務担当者がギリギリの辻褄合わせに苦労するのです。
 ご不審であれば、小学算数の「概数」など勉強し直して、AIならぬ天然インテリジェンス(NI)を、歴史対応に再調整いただきたいものです。

〇過去記事改訂のお知らせ~「都」に(総じて)と(みやこ)の別義あり
 「南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月」の「都」を「総じて」と読む「古賀達也の洛中洛外日記」(第2150話 2020/05/11~)提言を支持した改訂です。

 漢書以来の夷蕃記事は、一切、蛮夷「王之所」を「都」(みやこ)と書かないものの小国「伊都」は高句麗「丸都」同様の許容でしょうか。

 古賀氏は、学術的な見地から、長年、当作業仮説を慎重かつ丁寧に検証している途上のようですが、当部分は、文章家陳寿の緻密、寸鉄を示すものと見て、勝手に端的に検証を図ったものです。「都」の両義、別義は衆知であり、有力な仮説であり、端的な否定は困難でしょう。

 唯一例外は西域西界の安息国(パルティア)です。漢書では、武帝使節初回訪問時、同国の当方国境の防備を一任されていた「小」安息の「長老」、恐らく、現地国王は、兵二万を常駐した東端防塞で、百人の精鋭を従えたと思われる気鋭の漢使と会見し、対匈奴戦派兵を求められても、東方の騎馬勢力に対して専守防衛の国是を説き、漢使は、東西数千里の「大」安息を、皮革に横書する「文化」を有し、金銀硬貨制度と宿駅完備の全土官道網を具備する中国対等の品格を有する国家と認識したので、名は体をあらわか「安息」と命名し、また、遥か西方、未見の帝都を「王都」と書いています。漢使は、全国王都から急使の大安息国王の国書を見て、当の「安息国大王」と会見しないまま、友好国としての国交を結んでいます。

 魏使が、女王に会見しなかったとすると、この漢書記事に前例を見ていたのかも知れません。いや、当方は、女王は、伊都国のご近所との説なので、女王が会見を回避したとすると、物理的な(フィジカル)問題ではなく心理的な(メンタル)問題のようですが、魏使は、寧遠のために事を荒立てず、会見に関する記事は何も書かれていないので、全ては不明です。

 陳寿は、倭人を大海沿い小安息/條支の東夷版鏡像と見立てたのでしょうか。
                                完

おまけ
*宴の終わり

 本来単純明快な議論が、曲折を繰り返して,堂々巡りになっているのは、実は、論争が論争でなく、持論の押しつけ合戦,力比べ、肺活量比べに終始しているからです。全国各地に「邪馬台国」候補地が散在しているのは、畿内派が、勝てないとわかっている史料論の明快で不可避な結論を拒否して、カタツムリの殻にこもり、結果として月日、経費、労力を消費してきたからです。

*ブラック新説の時代
 最近の新手は、倭人伝は、元々、某地点を明示していたが、帝室書庫内に厳重保管されていた同時代随一の時代原本に、記事改竄と原本差し替えが行われて、今日の解読不可能な記事となったという提言です。

 史料としての倭人伝の尊重か蔑視か理解困難ですが、目新しくて、明快な新説として俗耳に訴えるのかも知れません。

 当方は、密かに「ブラック新説」と区分して、できるだけ、深く関わり合いにならないようにしているのです。あいにく、俗耳は持ち合わせていないので、デタラメな新説に耳を貸さないのです。要は、俗説としてはびこっている誤字、誤写論と同じで、手前味噌の「誤解」を押しつけているだけなのです。

*概念図の確認
 と言うことで、概念図を描いたのです。随分大まかで、言葉足らずですが、古代人は、こうした手短な範囲の素描で筋の通った絵解きができる「問題」を書いたのです。もちろん、墨黒一色の線画で、もっと大まか、単純だったでしょうが、見方は同じです。

20201013korearjapan  

実際に、戦塵の舞い踊る遼東巡り経路や黄土の泥流が溢れる河水(黄河)河口に近い渤海湾の奥まで漕ぎ寄せる経路で洛陽に行くとすれば、実感として、遠近法を効かした図で見える数十倍の難路の遠路だったでしょう。もちろん、難波して海のモズク、ならぬもくずになったとしても、悲報が故郷に伝わることもないのです。

 帯方郡高官に伴われた倭の大夫たちは、遼東の激しい戦から遠くはなれ、渡船のように揺れたり響(どよ)めいたりしない平和で確固とした大地の街道を進み、毎晩、無料で、整った寝床と整った食事の宿を泊まり継ぐ公用旅であり、多数ある関所も公用であるから、治安に関わる尋問も、おびただしい徴税もなく通過し、無事洛陽往還を達成できたのでしょう。それが、官道の旅というものです。
 並行して文書使が往復しているので、行程で何かあれば、宿駅から伝書便を出して、洛陽の鴻廬と帯方郡治に報告するのです。あるいは、周辺の宿駅から、救援の手が届くとも言えます。官制で維持されている陸道官道の強みです。

                                 おまけ完

倭人伝随想 倭人伝里程課題へのエレガントな解答の試み 改 3/4

          2019/06/23 加筆2019/06/26 2020/05/06, 2020/10/12

*高度な解釈を求めて
 読者は、現代日本人の勉強不足の単純素朴な読みが却下された時、これら記事は、どのように読み解くべきか、一段と高度な判断を求められるのです。そう思いませんか?

*投馬国談義 ほんの余談
 手始めに、手始めの水行二十日の投馬は、行程外と見ます。投馬は戸数五万戸の有力国で、王制伝統でなくても、官を受け入れた国書筆頭付近の列国のため、里数不詳、戸数未確認の不備無体のまま国名を書いたのでしょう。

*水行陸行解釈の是正(かんちがいの見直し)
 次に、よくある単純解釈「水行十日陸行一月」の「誤解」は、旅程が水行、陸行の双方に書かれているのに相応しい郡倭の総所要日数と見て、さらに、水行十日を計三千里の渡海と見ると、残りはすべて陸行であり、長々とした、半島西岸南岸の「沿岸航海」(?)は、うたかたの幻なのです。

*扇の要
 かくして、俗に「放射説」と呼ばれている高度な解釈が登場します。但し、当方は、伊都を「扇の要(かなめ)」と呼ぶのが相応しいと思うのです。

*伊都国の重み
 つまり、倭人伝記事を読む限り、伊都は、郡倭の交通、交信の「要」であり、全ての旅客、文書は、一旦ここで審査されると明記されているので、郡、つまりは、魏朝は、この「要」まで、道里を知った上で、文書送信すれば、倭人に知らせたと同然との見方が示されているのです。

 言うならば、伊都から倭まで、せいぜい一,二日の行程の趣旨で書かれているのです。その程度の日数里数は、概数計算で無視され、ことさら書き留めるに及ばなかったということです。

 伊都が重要であれば、伊都の「追分」、「町辻」(辻は漢字にない国字)に、各国公道の分岐点「要」があって、そこには、道標が置かれていたはずです。

*地域拠点の意義
 「放射説」は、学術的表現ですが、この事情は別に異常でなく、西域でも、中原~西域都督からの旅客文書は、地域拠点に集じて各目的地に散じたはずです。伊都を、地域拠点、集散地と見れば、物の道理は自明です。

 榎一雄氏は、文法解析から伊都国放射説を創唱し、火あぶりとアラ探しの雨を浴びる試錬でしたが、当方は、非学術的な社会科解釈から、異例でも合理的と思います。

*倭人伝自体による読解の勧め
 倭人の国情は、倭人伝記事から読み取れるので、いたずらに、歴史、風俗、用語の異なる中国本土史書三国志に、あまり頼らない方が良いのです。
 過去の諸兄(中国人も含む)が時に率直に認めるように、倭人伝は、用語/語彙、語法が独特であり、解釈に注意を要するのです。

*奇数の奇跡
 倭人伝の数字は、考古学の泰斗も認めるように、随分大まかで、頭の一桁だけで、その一桁も、松本清張氏は、一、三、五、七の奇数が多いと歎いています。ただし、このような先見の卓見に、後続が見当たらないのです。

 ちなみに、倭人伝道里記事の一部は、郡書記官が郡太守に上程した、むしろ内輪の報告書が、ほとんどそのままに今日まで生き延びたと考えます。世評のように、東夷をまるで知らない中原人が皇帝周辺に向けて書いたとは思えないのです。
                               未完

倭人伝随想 倭人伝里程課題へのエレガントな解答の試み 改 2/4

          2019/06/23 加筆2019/06/26 2020/05/06, 2020/10/12

〇第一歩 倭人伝里程記事の取っつきと結尾
 記事の前半部、郡から半島南端の狗邪韓国までの略称「郡狗」区間を経て、狗邪の岸、つまり、陸上地点から三度渡海で海峡を渡り、末羅の岸に着いた時、郡から万里になることまでは、ほぼ異論が無いようです。そうでしょう?

 その後、末羅から倭の「末倭」記事がありますが、郡から倭の「郡倭」全体は万二千里ですから、「末倭」は二千里です。「郡狗」七千里ですから「倭人」は末羅から「郡狗」三分の一のあたりです。後ほど再確認するとして、ここでの議論は万事概数でかなり幅があるものの「倭人」はそれを外れた「圏外」にいないと明快です。以上、藤井滋氏が「『魏志』倭人伝の科学」(『東アジアの古代文化』1983年春号)で、四十年近い、とうの昔に提示しています。
 安本美典氏が、藤井氏の意見を氏の主張の論拠としていますが、世間は、一向に耳を貸さないのです。

*第一歩の明快な結論と混ぜっ返し
 このように、倭人伝を適切に解すると、倭に至る行程が、九州北部を出ないことは、遙か以前から知られていたのです。

 この明快な読みは、例えば、明治期の白鳥庫吉氏も認めていたようですが、そう認めると、倭人が九州北部に決まって、倭人はヤマトに行けないので、そのような倭人伝里程説は、「纏向」説から見て、無礼で不愉快であり、金輪際、正確と認められないわけです。
 以下、壮烈な混ぜっ返しが続いて、視界混沌と見えるのですが、沈着に心の目で眺めると、状況は何も変わっていないのです。

*名刀が鞘に収まらない話
 と言う事で、冷静に、最後の「末倭」間を精査するのですが、末羅―伊都―不彌―投馬―倭の間は、それぞれ数百里の近隣であり、滑り出し三区間は予想通り、五百里、百里、百里の計七百里で残るは千三百里と予測されます。

 残りは、投馬まで水行二十日と次に見える「水行十日陸行一月」の四十日を足して六十日と見て、結尾の帳尻のはずがどえらい遠隔区間となります。

 この解釈は、「放射説」に対する最強混ぜっ返しとされますが、一見して度外れです。全体の「郡倭」万二千里から「郡狗」七千里と「狗末」の渡海三千里を抜いた「末倭」二千里に六十日行程を含めるのは不正解です。

 つまり、良く言われる「自然で単純な」読み方は「間違い」であり、どう倭人伝を読み替えた処で、倭人を「纏向」に求める説は根拠を失っています。

 と言って、問題の書き方がどうこう言うのはまだ早いのです。

〇先に進む前に概数の基本のおさらい
 この機会に概数記法を復習すると、倭人伝に頻出の「余」は、端数切り捨てでなく端数を丸めたのです。軒並み「余」が付くのはそういう意味です。五百里等に「余」がないのは、きっちりという意味ではなく、ほぼ軒並み千里単位の里程なので、五「百里」の桁は端数で、大勢に全く関係無いと見たのです。

 仮に、陳寿が概数に強くなかったとしても、関係者は中国文明の威力で数字関係を知悉しているから、数字を誤記連発する愚は犯さないはずです。

〇第二歩 水行陸行のおさらい
 なお、最終記事の水行十日陸行一月を、水行なら十日、陸行なら一月と解釈するのは、里程記事の意味が無いので却下です。
 求められているのは、最短日程です。倭人伝は、魏使の旅行見聞記ではないのです。

                               未完

倭人伝随想 倭人伝道里課題へのエレガントな解答の試み 改 1/4

                2019/06/23 概念図 2019/06/26 加筆2019/06/26 2020/05/06, 2020/10/12

◯今回の結論
 倭人伝里数問題(道里課題、設問)は、ほんの少し知恵を絞って、ほんの少し工夫して、丁寧に考察すれば、ほとんど倭人伝の記事だけで、「無理少なく、より簡単明快に」、つまり、力業や曲芸でなく、エレガントに解けるのです。いや、これが誤解/誤答とは、誰にも断定できないはずです。

〇倭人伝道里論の再点検 概念図 2020/10/12
20201013korearjapan
 世に「倭人伝」の議論、特に、「倭人伝」の主題である「倭人」の所在が読み取れないから、史伝として不備とする議論が多いのです。時には、倭人伝を、教科書の「問題」なみに、必要以上に苛酷な、賢い読みを要求する「課題」と捉えて、頑として正解の出せない不備な「問題」としている例もあります。

*落第生の咆吼とのろまな彷徨
 世の中には、倭人伝道里に関して「これまで発表の千件の解答を確認したが、全部間違っていた」などと、並の人間が何十年かけてもできないことを「やった」と、高々と咆吼している人を、何人か見かけます。

〇井の中の蛙志向の言い訳
 当方は物知らずの凡老人で、膨大な諸説を残さず吟味できないと自覚しているので、倭人伝自体を読み解くのに、自分にもできて、素人目にはわかりやすい手順を求めて彷徨しつつ、何とか倭人伝道里記事を読み解こうとしただけです。

 二千字の倭人伝の、そのまた一部という、随分限定された「問題」ですが、ここまでの乏しい経験でも、倭人伝だけでも検討範囲を広げると、さらに大量の資料、意見を読んで、あれこれ考え合わせる必要があるので、とても、検討範囲を広げられないのです。
 更に、これまで敬遠していた後世の国内史料に手を付けると、史料批判だけで厖大な時間がかかるとわかっているので、頑として遠慮しているのです。

*解けない問題への解答
 普通、生徒が試験問題を解けないのは学力不足が原因ですが、「倭人伝」(魏志紹凞本などで「倭人伝」と小見出しの部分)課題は、いきなり問題「不備」とされています。倭人伝の「不備」を是正する義侠心の方までいます。

*史料尊重の視点
 冷静に考えれば、倭人伝は、三国志主部、魏志の一部で編纂者たる史官陳寿の著作物であり、後世の素人が気軽に書き替えられないのです。まして、知識、見識で大いに劣るとみられる「現代人」が、現代語に書き替えたと証する「戯作」を原史料と取り違えて論ずるのは「論外」です。

 「倭人伝」は、晋代の陳寿が、晋朝高官に向けて、東夷新来の「倭人」の素性、所在、道里を初回報告として漢文で書いたものです。陳寿の漢魏晋に至る歴史見識と文才、中でも参照資料の広範さ、豊富さは、古今通じ「世界一」です。超人でも神がかりでもない、偉才を見くびってはなりません。

                               未完

2020年10月13日 (火)

倭人伝道里談義 号外 倭人伝道里行程記事の趣旨確認    1/1

〇はじめに                 2020/10/13
 今さらながら、倭人伝道里行程記事の趣旨を理解しない人が多いので「号外」です。短縮のため、私見断言御免。

〇帝国の要諦 「情報流通」
 魏武、つまり、没後魏の武帝と諡された曹操は、孫子兵法を読破、注釈し、戦争で勝つ兵法を極めたのです。孫子曰、「敵を知り己を知れば百戦百勝」。

 敵情探索はもとより、自陣営内情をつぶさに知ることが必須でした。喧伝される曹操諜報ですが、日常の指示と報告が迅速、確実であることを厳格規定したのです。そして、各郡太守などは、日報並み頻度で状勢報告したのです。
 各郡太守などから遅滞なく報告が届くには、通信期間、必達期限の設定が必要ですが、中原は官道が整備されているので、道里で日程設定できたのです。

〇倭人伝の要件 日程確約
 かくして、倭人が新参の蕃王と認知されるためには、所属帯方郡まで何日で通信するか、所要日数を確約するのが最優先だったのです。
 当然、そのような日数表示は最速手段である官道「陸行」が必須です。風、天気まかせ、難船御免で、急行不能の船舶交通は、はなから論外です。

〇 例外許容された「水行」~最短日程確保
 倭人伝独特の「水行」は、代替陸行がないので、余儀なく中原渡河同様の非常手段として認め、冒頭に「渡海、水行」と予告、渡海水行終了後、末羅国以降は「陸行」と正規運用に戻しています。臨機応変、首尾明解です。
 本筋行程日程は、都(すべて)水行十日、陸行一月と明記されていますから、当然、計四十日です。
 陳寿は、魏武曹操の威勢を継いだ今上晋帝に対し、「倭人伝」として新参蕃王の通信期間を明解にし、倭地内の諸国傍路は、細瑾だったのです。

 以上は、行程道里の本質に関わる議論ですから、生煮えの文法論とか下手な言い逃れはできないのです。最近見た「纏向説言い訳集」は、「笑点」大喜利の如く、「言葉の曲芸」連発で「水行陸行」を混ぜっ返していますが、本質を踏み外した「失敗演技」は、爆笑を呼んで俗受けしても、落第です。

〇本筋と余傍
 念押ししますが、郡から倭までの本筋行程を外れた余傍の国、なかでも、投馬国水行二十日は数日の渡海を含み、残りは、当然「陸行」ですが、所詮日数規定外です。

〇帝国の要諦再び
 大陸王朝は太古以来文書行政で、一片の勅命で郡太守の首が飛ぶ中央集権ですから、官用通信は、乗馬の文書使が繋いで日々怠りなかったのです。つまり、道路宿駅の整備が官道沿線「領主」の義務だったのです。

 因みに、通信期間は、諸国連合の盟主、「倭人」の王にも重大です。文書通信がないので、高官自ら、ないしは、信頼できる副官が移動して口頭指示を伝えることになり、一日、二日の到達範囲が限界です。諸国に「刺史」(率)を配しますが、小国王や刺史と王の間が片道十日などの間柄だと対話不自由でもあり、中央集権でない「倭人」ですから、現地裁量、自治に干渉しないのです。

〇音信不通の平和
 投馬国は、普段は交通不自由で、国王御前合議に臨席できません。代理人を常駐しても、本国と通信不自由では、参政できません。「参勤交代」したのでしょうか。
 その他遠絶諸国は名のみです。片道一ヵ月以上では対話どころか喧嘩も戦争もできません。
 倭人伝談義で、遠絶諸国まで参集の総会で次代の王を共立するなど、まじめに説かれますが、夢物語、児戯の類いです。
 また、遠絶諸国が互いに戦い、「日本列島」(古代史用語で、地図上の九州、中四国、近畿、東海まで、時には、関東を含める範囲を言う苦心の表現)の広域を揺るがす覇権争いの「大乱」など、到底、到底実行不能です。広域「倭国」の実在は、未検証で疑問です。

 以上、特に手短にまとめたので、記事内の注釈を省略しました。他記事参照の手間がかかりますが、万事御免。

                             この項完

2020年10月 9日 (金)

新・私の本棚 邪馬台国の会第381回講演「邪馬台国」論争 再 10/10

 安本 美典            記2019/09/17 追記2020/10/06
 
私の見立て ★★★☆☆ 古典的卓見の現状確認

(6)承前
コメント:この項は、独立項でなく前項の続きとみても、趣旨不明です。
 「自然ではないか」と()内で論じて、主語不明ですが、本項で何を主張しているのか不明です。()内は飛ばしてよい「はした」とみるものと思うのです。それにしても、前々項までの論理性が消失して不可解です。古田氏の後漢書読みを見損ねたのでしょうか。後漢書は、後漢代の大倭王の居処を「邪馬臺国」と称しています。
 ついでながら、「南北朝の対立」、「五胡十六国」は、時間的に前後していますが古田氏記述の引用とも見え、だれに誤記の責任があるのか不明です。

(7)(a)さまざまな現象・事実がある。(b)いま、ある仮説を真とすれば、そのさまざまな現象・事実がうまく説明される。(c)それゆえ、その仮説を真とみる理由がある。以上は、ドイツのヒルベルトの説いた公理論(「公理論」については、拙著『「邪馬壹国」はなかった』参照)以後、アメリカの C・S・パース、ノーウッド・R・ハンスンなどによって発展させられ、現代の科学方法論の主流となりつつある見解である。
コメント:この項は、一段と趣旨不明です。ことは、史料解釈における歴史観・考察技法の議論ではないと思うのです。
 安本氏が、同時代論者の啓発を図る趣旨であれば良いのですが、ごくごく一般論として、三世紀「東アジア」の世界観を論ずるのに、ここに描かれた論は、時代、文化が大きく異なる、無効な議論ではないでしょうか。
 
〇総評として
 以上のように、当記事は、期待に反して安本氏旧論の蒸し直しで、不変の信念は健在なものの、当方の私見を変えるものではありませんでした。

 当方の理解は、たかが「邪馬壹国」論、「壹」の一文字に関してすら、古田氏の至極当然の主張、つまり、「倭人伝に関する史学論議は現存史料を基礎として議論すべきである」という提言を遂に否定できなかったとみます。

 安本氏ほどの論客が、決定的な論証が行き届かず、古田氏自身の個人資質に関する根拠不明の風評を大量に起用して誤記論を展開したのは、控え目に言っても、安本氏の器量不足を思わせ、失礼ながら勿体ないのです。

 手厳しい論難と取られるかも知れませんが、斯界の最高峰たる安本氏に要求される基準はとてつもなく高いのです。つまり、当稿は、氏に対する当方の絶大なる敬意の表れです。記事字数を見て察していただきたいものです。

 以上が、当講義録に対する誠実、かつ、率直な批評です。

*終結宣言の提案
 かねてより安本氏が表明されているように、論争は、当事者全てが終結に納得しない限り終結しないのです。まずは、安本氏から、不毛の事態の終結を提案いただければ、時を経ずして、天下を揺るがし続けている「邪馬台国」論は、平和裏に終熄するものと感じています。
 書き漏らしましたが、「翰苑」は、翰林院、すなわち、皇帝の関係する文書を司る役所であり、用語、表現を典拠のある、そして、美麗な表現とできるよう、選りすぐりの文例を集める、と言う趣旨のように思います。翰苑そのものは、帝室の物ですが、教養人がお手本とする愛読書であったようです。
                              以上

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 安本 美典            記2019/09/17 追記2020/10/06

私の見立て ★★★☆☆ 古典的卓見の現状確認

(4)福岡県太宰府市、太宰府天満宮に伝来する『翰苑』の九世紀写本は、卑弥呼の宗女の名を「壹與(壱与)」ではなく、「臺與(台与)」と記し、その都を記すのに、「馬臺(台)」と、「臺(台)」の字を用いている。これは、十二世紀以後の版本と異なっている。
コメント:翰苑は、前項の例外と見えますが、精査すれば論拠に不適格です。
 ちょっと困るのは、この用字が誰のものか不明確だと言うことです。雍公叡の付注、張楚金の正文、いずれかの史書の引用、どれであるかで、判断は変わります。どうも、史書ならぬ翰苑は、史書原文の用字を必ずしも維持していないようですから、論拠として不適格ではないでしょうか。
 それに先立ち、翰苑写本断簡の史料批判がされていませんが、同断簡は、明らかに、九世紀写本時点の翰苑原文に忠実とは思えません。誰も見たことがないので厳密な議論はできませんが、断簡に多数見られる明らかな誤写、誤記は、原本と厳密に照合・校正された正確なものでなく、佚文と見えます。
 原本ないしは忠実な複製品(レブリカ)であれば、論証資料に採用できますが、低劣な写本や佚文は、単なる参考資料ではないでしょうか。
 但し、このような論法は、当方が、かねて倭人伝現存本に対する批判手法として不適格と批判しているものですから、いわば、諸刃の剣であるかも知れませんが、それは、お互い様ではないでしょうか。
 また、「翰苑」の仮想原本は、写本の際の修飾が避けられず、引用資料の忠実な引用でないと思われます。何しろ、同断簡は、翰苑全巻でなく、断簡に過ぎず、また、現存唯一の史料ですから比較検証できず、以上の判断は検証困難であることは否定できないと思われます。佚文扱いが妥当でしょう。

(5)いま、三世紀の女王国名は「邪馬臺(台)国」宗女の名は、「臺与(台与)」であったと仮定してみる。そして、九世紀~十一世紀の間に、誤写、または、誤刻がおきたのだと、考えてみる。現行『三国志』版本に、「邪馬壹(壱)国」「壹與(壱与)」とあるのは、誤写、または、誤刻によって生じたと考えてみる。
コメント:仮定の設問は「お好きになさい」と言うところです。

(6)このように考えると、『後漢書』『梁書』『北史』『隋書』『通典』『翰苑』などに「臺(台)」の字が用いられている事実を、古田説よりも、はるかに、簡明に説明できる。(古田氏は、『後漢書』などに、「臺」の字があらわれる理由を、つぎのように説明する。すなわち、五世紀になり、南北朝の対立、五胡十六国の出現という時代になって、「臺(台)」の字は、各国の都の名に用いられるようになり、「臺」の字の性質は、変わってきた。したがって、五世紀になって成立した『後漢書』に、「邪馬臺国」が出現してもふしぎはない------。しかし、この古田説では、三世紀に「邪馬壹国」であった女王国の名を、『後漢書』が、とくに、「邪馬臺国」に改変しなければならなかった理由が、十分に説明されていない。三世紀の女王国の名が「邪馬壹国」であるならば、『後漢書』も、それを記すのに、「邪馬壹国」と記すのが、自然ではないか。)

                                未完

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 安本 美典            記2019/09/17 追記2020/10/06

私の見立て ★★★☆☆ 古典的卓見の現状確認

〇「原文」考 歴史観の清掃
 案ずるに、そのようにして新作されたでっち上げ史料は、現代人の著作物であり、陳寿の編纂した著作物ではありませんから、かくなるでっち上げ史料を陳寿の著作物として、その良否、正邪を議論するのは、当の陳寿に対して、大変無礼かと思われます。

 例えば、当方は、一介の素人ですが、自身の著作物を、別人が盗用改竄して、当方の名で論じられるとしたら、とんでもない不法行為です。(現代風に言うと、著作権および著作人格権の侵害ですが、年月を経て著作権が消滅しても、剽窃、盗用は、許されません)

 ということで、ここまで読んだ限りでは、安本氏が堂々と論陣を展開した論拠は、ことごとく不適格ないしは不適当と思われます。つまり、論証の要諦を失していると思うものであるがどうでしょうか。

〇安本氏見解の総括
 本稿では、論議の総括として、以下のように表明されています。本題に関する主旨に変化はないものと思うので、当記事を論評します。

 個別項目に追記としてコメントを入れたことに対して、ご不快の方がいれば、申し訳なく思いますが、これが当ブログの芸風です。

**引用と追記**
 私の考えをまとめると、次のようになる。
(1)三世紀『三国志』原本をみた人はだれもいない。三世紀の原本は、存在していないのである。

コメント:失礼ながら、素人目にも、隙だらけの主張と見えます。
 氏が論拠とされている諸史料もまた、原本は存在せず、現存の「人」は誰も見ていません。(みた人はだれもいない、というのは、軽率な言いそこないと思われます。少なくとも、陳寿自身は見ているはずです)
 あら探しは置くとして、本項は、氏ほどの論客が、重大な議論の冒頭に掲げる論拠として有効とは思えません。本来、冒頭には、本項だけで論議を終結できるような決定的事項が掲げられるべきではないでしょうか。年月で熟成したはずの議論なので、万人がそのように期待して聞き入ったはずです。

(2)現存『三国志』の版本は、十二世紀以後のものである。『三国志』の成立から、十二世紀まで、およそ、九百年の歳月が流れている。

コメント:衆知、自明の客観的事実の表明であり、特に意見はありません。一項を建てる意義も無いと見えます。全ての史料は、世に出た時点から、経時変化(加齢)を避けられないのです。加齢劣化の質と量が大事なのです。

(3)十一世紀よりまえの史料で、女王国の名を、「邪馬壹(壱)国」と記すものは、一切ない。

コメント:「十一世紀よりまえの史料」とは、原文がその時代に涸れたと言うだけであり、その原文が確実に伝わってないので、無意味です。それとも、当時の正本が、たまたま、まだ見つかってないと言うことでしょうか。神がかりになりますね。

                                未完

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 安本 美典            記2019/09/17 追記2020/10/06

私の見立て ★★★☆☆ 古典的卓見の現状確認

〇日本史権威の「素人考え」
 案ずるに、日本史の権威である氏は国内史書に対する態度として、史書には必ず複数の有力な異本があるから、特定の現存版本に決め込まず、諸本を照合して本来の形態を見出すべきであると教え諭されているように見えます。

 しかし、こと三国志は、陳寿の没後、西晋朝の命で遺された確定稿を書き写して官撰史書として上申し、西晋帝室書庫に収納して以来、各王朝が代々国宝に準ずる扱いで厳格管理したこともあり、二千年近い期間を歴た今日、残存する諸刊本に異本が極めて少ないと思うのです。

 恐らく、どこかの三国志異本に「邪馬臺国」とあるだろうから、はなから「邪馬壹国」に決め込まず、どちらが正しいか決めなさい、と言う大人の教えでしょうが、氏の予断に反して、「邪馬臺国」と書く三国志異本は存在しないので、諸々の異本を糾合して照合校勘しても、結論は変わらないと思います。この程度の素人考えはとうにお見通しで、言い間違えたのでしょうか。

〇佚文(逸文)考
 「佚文」が導入されますが、ここに示された慧眼は深遠なものがあります。

 後世編纂された「類書」である太平御覧、翰苑などの「所引」魏志は、当時、今日言う厳密な引用を意図したものでなく、不確かな佚文に依拠する不確かなものとの明解な意見と思われます。氏として、格別の意義を表明したものであり、卒読せず、深甚な教訓をかみしめるべきでしょう。

 結局、三国志現行刊本に揃って書かれている「邪馬壹国」を「邪馬臺国」の誤写とする論拠は提示できなかったと見えます。
 氏は、そのような瑣末の論証を史学の本分とみてなかったと思えるので、引用の談話を不首尾と解するのは、随分失礼かと思います。

〇范曄考批判
 氏の後漢書論に考察を加えてみると、氏は、南朝劉宋の范曄が、高官在任中に三国志善本を実見して忠実に書き取ったとは想定してないようです。高官特権で帝室書庫に入り浸りになっても、書庫に山積の史書経書の中で、ことさら、皇帝蔵書の三国志の書写に没頭したと思えないということのようです。

 所詮、代理人に史書佚文を求めさせたと思われます。あるいは、後年、配所の閑職にあって、任地に持ち込んだ山なす蔵書から「佚文」を作成させたかと見ます。なお、范曄は、「佚文」の不確かさは承知していたはずです。

 当時、身命を賭して編纂に没頭した後漢書編纂の資料と言えば、地理的に後漢全土、時間的に二世紀にのぼる厖大なもので在野資料も多く、魏朝事象「邪馬臺国」に関し、綿密な原文考証を行ったという証拠は無いと思います。

 井上氏の高度な識見は、大局に具体を忘れるなとの戒めと信じるものです。

〇古田氏の信条の確認
 因みに、素人考えでは、古田氏の主張は、現に目前にある史料、便宜上原文というものを、まずは基本として読むべきだという、まことに至当な主張であり、はなから立証されていない誤記、誤写を書き足した、でっち上げ史料をもとに議論すべきではないという意見のように思えます。

                                未完

新・私の本棚 邪馬台国の会第381回講演「邪馬台国」論争 再 6/10

 安本 美典            記2019/09/17 追記2020/10/06

私の見立て ★★★☆☆ 古典的卓見の現状確認

〇井上光貞事例
 続いて、井上光貞氏の席上談話が延々と引用されています。

**引用開始**
 東京大学の日本史家、井上光貞氏は、『論争邪馬台国』(1980年、平凡社刊)の中で、松本清張氏の問いに答え、次のように述べておられる。
「(邪馬壱国が本当であるというのは)、ぼくは結論的には、古田さんの思い過しであるという結論です。その理由は、古田さんの論拠の根底に原文主義がある、原文通りに読めというんです。ところが問題は、原文とは何ぞやということであります。原文というのは、『魏志』は三世紀に書かれたものですが、そのときの原文、これはないのであります。だから原文原文といっているのは非常に古い版本ということである。しかし古い版本は原文ではないのであります。校訂ということを学者はやるわけであります。おそらく古文をなさる方もいらっしゃるだろうと思いますが、それはいろんな写本やなんかから、元のそれこそ原物はどうであったかということを考えるために、いろんな本を校合して、元を当てていくわけです。これが原文に忠実なのでありまして、たまたまあった版本だの、後の写本に忠実であるということは、原文に忠実ということとは違うんだということですね。

これは非常に基本的なことなのであります。ところが古田さんはそこのところが何かちょっと違っているんじゃないか。これは学問の態度の問題であります。これだけいえばもう私はほとんど何にもいう必要はないのであります。」

「たとえば『三国志』は三世紀の末頃に出来て……これ、末のいつであるかということは問題だけども、まあ三世紀の末だろうと思われる。一方、いちばん古い版本は、……南宋の本で十二世紀なんですね。その間、本としては九世紀の隔(へだ)たりを持ってる。本としてはその間に今日のところ何もないわけです。写本はもとよりのこと、版本もそれだけの距離を持ってるわけです。ところがその間にいくつも逸文というものがある。それを途中で読んだ人の記録というのがあるわけです。

そういう意味からいって、途中で読んだ人の記録を見ると、やはり大きいのは『後漢書』だと思います。『後漢書』も、もちろん原文が残っているわけではないのですけれども、……『後漢書』のあの記事は明らかに『三国志』を見ているわけですけれども、そこにはちゃんと『邪馬台国』『台』と書いている。『後漢書』が出来たのは五世紀でありますが、それが『台』と書いているとすると、『後漢書』の編者のみた『三国志』の『魏志』の『倭人伝』には『台』と書いてあったととるのがすなおな見方です。」
*引用終わり*

〇古田氏史料観の当否
 冒頭で、井上氏は、古田氏の「邪馬壹国」論に秘められた根底は(要するに単純素朴な「原文」主義とした上で、三国志三世紀原文は存在しないから、遡って原文を確立した上で議論すべきと高度な一般論を持ち出します。

 大局的にはおっしゃる通りですが、素人の率直な意見としては、疎漏な見解と見えます。ご意見は理性的ですが、佚文や後漢書も、原本そのままではないから、公平な考察が疎かになっていると思います。氏といえども「全知全能」でない以上、専門外の分野の論議には介入を控え、専門家に委ねるべきと思います。
                                未完

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 安本 美典            記2019/09/17 追記2020/10/06 

私の見立て ★★★☆☆ 古典的卓見の現状確認

〇書誌学談義 追加2020/10/06
 そのあと、忽然と「慶応大学の尾崎康教授」なる方が紹介されますが、素人の調べでは、氏は随分以前に同大学教授職を離れたと思われます。

 というような、つまらないアラ探しはさておき、ここで書誌学の権威たる氏が述べたのは、古田氏が紹凞本が三国志現存刊本中最上と決め込んでいるとの世評を受けたご託宣であり、書誌学上、南宋刊本紹凞本は、後追いの民間刊刻であり、由緒正しい官刻である先行紹興本が、紹凞本に優ると評価した上で以下論じています。

 史実としてはそのように解されるのが順当でしょうが、個人的には、南宋が多額国費を投じた、赫々たる官刻正史(紹興本)に重複する短期後追いの刊刻大事業(紹凞本)を、特段の意義無しに成したと思えないのです。

 氏は、当然書誌学の見地からのみ刊本の質を論じていて、倭人伝の一文字の当否は些末事、研究対象外でしたが、何らかの事情で、その点を特に精査し、ことさらに、このような書誌学的紹凞本評価をものしたようです。

〇評価の実態
 言うまでもないのですが、尾崎氏は、書かれている内容を評価して、書誌学的見地から紹凞本を毀損して紹興本を絶賛しているわけではなく、所詮、両刊本共に、数世紀に亘る版木に対する経年変化のために、部分補修あるいは一部更新などを歴ていて、大同小異であり、むしろ、個別の資料に於いて、書物としての質に、個体差がある事が述べられているように見えます。

 そして、肝心なことですが、氏の暗黙の知識として、三国志は、南朝劉宋期の裵松之による付注の際の原本校勘、北宋による初回刊刻、つまり、版木作りの際の校勘、さらには、南宋による復元刊刻の際の校勘というように、その時点の帝室原本と高官や地方愛書家などの所蔵する良質写本を照合して校勘する大事業が展開されていて、異本の発生が抑制されていたのです。

 時に、異本、異稿がないために、諸本を照合して、原文を考察する「愉しみ」が得られないという嘆きが書かれていますが、そのような初歩的高官は、とうに終わっているという事です。漁場は、別の海に求めるべきです。

〇誤記。誤写の事実無根確認
 ということで、極めて誤写されやすいと憶測されている「壹」の字が「臺」と文字化けしている資料は、一切露呈していないのです。

〇動機不順の懸念
 世の中には、自説の裏付けにならない「結果」しか出せない研究は、無意味な研究と談じる方がいますが、要は、そんな研究に金は出さんという恫喝で研究捏造を強要しているようで、薄ら寒いものがあります。

 あるいは、望む「結果」が得られなければ、発掘活動が衰弱して、開発による遺跡破壊が進むと警鐘を鳴らす向きもありますが、筋違いと見るものです。安本美典氏が、宗教論争と危惧する形勢がほの見えています。

 因みに、以上の尾崎氏の意見は、季刊邪馬台国誌の連載記事の総括ですが、尾崎氏は、張明澄氏と異なり、学究の士ですので、支援者に忖度することなく、その金言は、信ずるに足るとみるものです。
***追加終了
                                未完

新・私の本棚 邪馬台国の会第381回講演「邪馬台国」論争 再 4/10

 安本 美典            記2019/09/17 追記2020/10/06 

私の見立て ★★★☆☆ 古典的卓見の現状確認

〇鴻廬の苦情
 蛮夷の対処は辺境太守の専権事項であり、鴻廬は、むしろ、一々蛮夷を帝都に寄越すなというものであったはずです。道中の対応はもとより、天子の面目にかけて厚遇し、随員に至るまで印綬を下賜し、時に、過分とされる下賜物を持たせる必要があるので辺境太守が選別すべきです。

〇従郡至倭論
 そして、魏の官軍による公孫氏攻滅は、同二年八月とは言え、遼東から地理的に遠隔の帯方郡は、それ以前、同年前半に、早々に魏の支配下に入っていたと見る解釈が、むしろ有力であり、倭使が、新任の帯方郡太守の召集に従い、急遽六月に帯方郡に参上し、引き続き、洛陽に赴いた可能性が高いと思われます。帯方郡から中原洛陽に至るには、目前の山東半島青州に渡海上陸後、河水南岸官道を西行するので遼東戦乱は無関係と思われます。

〇戦時の上洛経路
 郡が公孫氏遼東に赴くのは、諸国王に等しい権威を持つ太守の威光によるとしても、郡から洛陽へは遼東を介しない古街道が通じていたと見るのです。史学界大勢が、帯方郡から北上して遼東郡治に着き西南転する遠回りな経路に専ら信を置いているのは、素人として、大変不可解と感じるのです。

 以上のように、当時の政治情勢を合理的に解釈すれば、景初二年を否定する論拠は特に無いと思われます。少なくとも、古代学界で蔓延る景初献使年に関する諸々の非科学的な俗説は、雲散霧消するのではないかと思われます。

〇闇の中の自明論
 資料解釈が大きく分かれる事項で、性急に自説を仮定し、無造作に「自明」と書き立てるのは、学問の徒として疑問と思われます。「自明」は、よほどの場合に取っておく極上表現であり、決めゼリフの安売りは自身の大安売りです。不用意な断言で馬歯を千載に残さないようご自愛いただきたいのです。

 いや、ふと冷静に戻ると、同三年が正しいとしても、本題論議に直接関係はないのですが、一部の頑迷な同三年派は、ことさら雑駁な論拠を提示して誤写頻発の件数稼ぎとしているようなので、丁寧に反論するものです。

 しかし、当項目以外の誤字談義は、素人がこれまでに調べた限りでも根拠不明とされるべきです。各論は、追試されていないのでしょうか。
 安本氏ほどの高名、高潔な論客が、麗々しく引用するものとは思えないというのが正直な所感なのです。

〇追記:安本氏の引用に不審を感じ原著をよく読むと、当方の杉本憲司、森博達両氏への批判は一部当を得ていないので、追記の形で補正を図ります。
 両氏は、倭人伝解釈の基本を、中華書局標点本(1982年版)を底本とし、随時校異により訂正する立場に立ち、「對馬国」は前者の見地、邪馬臺国、一支国は後世史書依拠で、客観的物証はないが、一応筋を通しています。

 ただし、「東冶」校異が根拠のない推量であるように、校異の筋道は不安定で、「景初二年」校異は、合理性に欠け一段と不確かです。

                                未完

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 安本 美典            記2019/09/17 追記2020/10/06

私の見立て ★★★☆☆ 古典的卓見の現状確認

〇藤堂氏事例
 藤堂氏監修本は、太平御覧所引なる「魏志」御覧魏志を劈頭に後漢書、梁書、北史、隋書を並べて、これらがなべて「臺」を採用している以上、倭人伝は「壹」でなく「臺」と書いていたと判断するとしている、とのことです。

 藤堂氏は、漢字学における権威者と見かけますが、少なくとも、古代史分野における文献学の権威とは思えず、また、諸史書なべての記事の批判や御覧魏志の資料批判が、適切にされていないと見える点で大いに疑問です。

〇森氏事例
 森浩一氏は、古代史分野における考古学の権威であり、文献解釈は専門外なので、杉本、森博達両氏に全面的に委ねたと思われますが、同書の記事を見る限り、というか、掲表の末項、景初二年遣使論で見られるように、両氏の資料誤読を放置して「編著」としているので、氏の考古学分野での比類無き権威は、両氏に連座して大いに疑わしいものになったと見られます。

**森氏編著考察 **引用開始
 景初は魏の明帝の年号であるが、ここの二年とあるのは景初三年(239)の誤りと考えられる。日本書紀に引く「魏志」と「梁書」諸夷伝の倭の条では景初三年となっている。

 当時の政治情勢を見ると景初二年までの50年間、公孫氏が遼東で勢力をもち、一時は独立して燕王と称していたので、倭国の使者は魏に行けなかった。景初二年正月になって魏は公孫淵を攻撃し、八月に至ってようやく勝利を収め、遼東から楽浪・帯方に至る地域が魏の支配下に帰したのである。景初三年に遼東、楽浪などの五郡が平洲として本格的に魏の地となって、始めて倭国の卑弥呼が直接、魏に使者を派遣できるようになった。このような政治情勢からも、この景初二年が三年の誤りであることは自明のことである。
**引用終わり

 可能性のある漢数字二と三の誤認を「実態」と決めつけると、他の項目と比して字数が多いが故に、一段と記事著者の欠点が露呈していると見えます。

*書紀神功紀/梁書事例
 第一の論拠として引用された書紀神功紀の魏志引用は、記事自体に重大な錯誤があることでわかるように、当記事が、もともと、当時世にあった魏志記事原本の正確な引用であったことは疑わしいと思われます。

 冷静に見て、現存書紀原本の「三」が、長年の不安定、不規則、つまびらかでない私的な書写継承の間に伝世劣化、誤写、改竄された可能性は否定できないと思われます。誤写疑惑は当分野の定番なので書いてみただけです。

 また、後世正史の中で、よりによって、梁書記事が採用されているのも、うさんくさいと感じられるのです。「なべて」と、どっこいどっこいです。

*公孫氏遼東記事例
 個人的な時代考証として、公孫氏の五十年間、公孫氏が、魏朝に任じられた遼東郡太守の権威でもって適法に遮ったため倭使が魏に行けなかったのでしょう。別に、不法なことをしたいたわけではないのです。

                                未完

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 安本 美典            記2019/09/17 追記2020/10/06 

私の見立て ★★★☆☆ 古典的卓見の現状確認

〇張明澄事例
 最後に登場した張明澄氏は、当誌に倭人伝解釈議を延々連載し、編集長安本氏の意向を忖度したと感じられて、証人資格に疑義があると思われます。

 また、誌上で展開された長広舌は、論考ならぬ雑情報や根拠不明の私見を権威めかしたものに過ぎず、論考はごく一般論に過ぎないと感じられます。疑わしければ実読いただきたいのです。記事の最後に時に披瀝される本音らしきものは、事態の真相をえぐって貴重な啓示となっているからです。

 ということで、氏の意見は、本件論証には寄与しないと推定されます。事実確認ですが、経歴から、日本統治下の台湾で、少なくとも、今日の小学校時代まで皇民教育を刷り込まれ、その世界観に染まっているので「中国人史学者」として信を置くことが困難です。別に非難しているわけではありません。執筆時は日本在住で「本場中国人」とどう意見交換したか不明です。

 その厖大な連載記事には、本件課題の「邪馬壹国」解明に寄与する議論は示されてないと思われます。全文照合はしていませんが、安本氏が引用していない以上、そのような有意義な論議はされていないと見るものです。

〇ひとくくりのスズメたち
 安本氏は、意味ありげに「中国人学者たちの、筆をそろえての批判」と言いますが、僅か三人限りで、それぞれ学識も境遇(住居国/地域は、中国、台湾、日本混在で交流不自由)も論調も三者三様ですから、童謡の「スズメのがっこう」でもあるまいに「おくち」ならぬ「ふでをそろえて」と書かれると、センセイがムチをふったかなと思うのです。考えすぎでしょうか。

〇「芸風批判」の弊害
 以下でも言及するかも知れませんが、小生の意見では、本記事(掲載当時)で安本氏に求められているのは、本件の課題である「邪馬壹国」の純粋に論理的解明であり、少なくとも、敵手古田氏の芸風批判ではなかったのです。

 いや、張氏が、当時、若い世代に猛烈に人気の某タレントの芸風を、世界に通用しない日本だけの人気と批判し、古田氏はその同類と揶揄する意味不明の「芸風」批判を垂れ流したので、そう言わされるのです。

 以下、古代史に無縁の芸風批判にあきれかえったころ、ようよう史学論めいた論議になるので、冗長、散漫の印象を招いたのは勿体ないと思うのです。

〇大家の誤字ご託宣
 そのあげく、当分野で定番化している倭人伝誤記例に関する論議が掲示されています。どうも、ここまで誤記がある以上、「壹」もまた誤記に決まっているという主張らしいのですが、まことにうさん臭い論法で同感できないのです。そこに、二書の誤記論が表形式で対照して引用されています。

①藤堂明保監修『倭国伝』(『中国の古典17』学習研究社昭和60年10月15日刊)

②森浩一編『日本の古代1倭人の登場』(杉本憲司、森博達(ひろみち)訳注、中央公論社、昭和60年11月10日刊)

                                未完

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 安本 美典            記2019/09/17 追記2020/10/06 

私の見立て ★★★☆☆ 古典的卓見の現状確認

〇始めに
 安本氏は、「邪馬壹国はなかった」なる好著で古田武彦氏の「邪馬壹国」主張を鋭く批判しましたが、以降、何も付け加わっていないのは残念です。

〇邪馬台国の会 第381回講演会(2019.7.28)
 当講演会に於いて、氏の「邪馬壹国」、「邪馬臺国」論の現時点での見解は次のように表明されています。
【日本古代史】「邪馬壹(壱)国」か、「邪馬薹(台)国」か論争 (2019.9.4.掲載) 

 同記事は、本来講演録なので、普通なら、文字起こしの誤記等はありえますが、分量からして氏の講演稿であり、サイト公開前に氏が目を通されているはずですから内容に齟齬は無いはずです。(薹はともかくとして)

 そして、ここには、氏の連年不変の持論が書かれているので、一般読者が参照可能な当記事に批判を加えても不当では無いと思うものです。

 講演の前半では、氏の持論を支える諸論客の所見が列記されていますが、「証人審査」、「所見批判」が尽くされてないのは、不備と思われます。

 以下、敬称、敬語表現に不行き届きが多いのは、当ブログ記事筆者の怠慢によるものであり、読者にご不快の念を与えることを申し訳なく思いますが、当ブログの芸風でもあり、ご容赦いただきたいものです。

〇三大中国史家 
 まず、中国諸氏の意見です。(三氏の著書は、いずれも拝読しています)

〇汪向栄事例
 冒頭の汪向栄氏は、書籍の内容紹介に「中日関係史の研究者として著名な著者が、中国の史書の性格を的確に捉えたうえで日本人研究者の論考を広く渉猟し、独自の邪馬台国論を展開」とあり、当時の政情不安定な中国における「邪馬台国」論が、多数の中国研究者の学究の集積でなく、氏独自の弧説であることを物語っているように見えます。

 特に、同書の骨格の一部が、日本側資料の日本側研究者の論考の渉猟の結果とされていることから見て、親交の深い日本側関係者の定説、俗説の影響を受けていることは、氏の論考の自由な展開を制約したものと見えます。

 そのような限界から、氏の労作『中国人学者の研究 邪馬台国』(風涛社刊、1983年)は、「一中国人学者の研究」と題すべきと考えます。氏の著書が、全中国人研究者の研究の集成と判定する根拠は見当たらないようです。

 また、引用された氏の見解は、単に中国古代史書の文献解釈の一般論を述べるに過ぎず、本件課題である「邪馬壹国」解明に寄与しないと思います。

〇謝銘仁事例
 次いで示された謝銘仁氏の著『邪馬台国 中国人はこう読む』(立風書房刊、1983年)は、タイトル不適切は別として、古田氏の倭人伝行程解釈の不備を言うもので、「日本流」定説を踏襲したとは皮肉な発言かと思われます。

 また、この発言は、古田氏所説の誤解釈の究明の例としても、本件課題である「邪馬壹国」解明に寄与するものでなく、単なる雑音でしかありません。

                                未完

2020年10月 4日 (日)

新・私の本棚 遠山 美都男「古代中国の女性観から読み解く」卑弥呼 2/2

古代中国の女性観から読み解く~個人名ではなかった「卑弥呼」が女王とされた理由  歴史読本 2014年7月号

私の見立て ☆☆☆☆☆ 零点 よいこは真似しないように 2020/10/04

卑弥呼は個人名ではない 承前
 卑弥呼は「ひみこ」、あるいは「ひめこ」「ひめみこ」の音を写した[中略]
コメント:出所不明、根拠不明の「ひみこ」談義の言葉遊びは、一種感染症のようで要治療です。「三世紀倭人伝のことばと後世八世紀の「大和」言葉の関連を示す資料はない」と古代言語の権威が、揃って明言しています。

 卑弥呼は「鬼道」[中略]に長じていた[中略]倭国大乱を鎮めるために「鬼道」に長じた女子[中略]に卑弥呼という名があたえられた[中略]
コメント:「霊能力」は意味不明です。倭人伝に無い「妄想」と思われます。倭人伝に無い「倭国大乱」を鎮めるとは妄想です。卑弥呼命名談は妄想羅列で、史料批判のけじめは見えません。自身を史料批判すべきでしょう。

卑弥呼になった二人の女性
 [中略]卑弥呼とは[中略]地位・身分の呼称と考えるべきである。
コメント:思い付きは思い付きとして聞き置きます。「卑弥呼の実名が知らされていない」とは、氏の妄想に過ぎません。中華天子に実名を名乗らないことはあり得ません。

 [中略]結局、卑弥呼に就任した[中略]彼女らはいわゆる倭国王の地位にあったといえるのであろうか。[中略]中国史料による限り、この前後、二世紀から三世紀前半にかけては一貫して男王が擁立されたと伝えられており、なぜここで二代だけ女王があらわれるのかは不審[中略]
コメント:氏は、突然正気に返ったのか、中国史料と言うが、史料名を明らかにしません。男王の国も、正体不明です。不審と言わざるを得ません。根拠不明の妄想連発で逐行批判に疲れたので、以下、概略にとどめます。

 卑弥呼とはこのように男王による権力の継承を祭儀によってサポートした女性の地位を示す[中略]
コメント:時代錯誤で意味不明の「サポート」で読者は混乱します。倭人伝は男弟が女王を佐したが、倒立実像並に女王が男王を佐すとは理解困難です。

 以上、『魏志』倭人伝に対する史料批判をより徹底化するならば、[中略]卑弥呼機関説も十分成り立つものと確信している。
コメント:「より徹底化する」とは何語でしょうか。「説」と言うには、論理的な根拠を、先行論文や原史料の忠実な、正しい意味での史料批判を経て、展開しなければならないのは学問の常識と思います。思い付きに合うように史料解釈を撓めるのは、史料批判ではないと信じるのでここに明記します。

〇まとめ
 以上、氏は、長年醸しだした世界観をもとに滔々と談じていますが、原史料を遠く離れた「他愛もない幻想」(氏の用語)を露呈していると見えます。

 当記事掲載誌は、学術論文誌ではなく、古代史初心者も包含した古代史ファン向けムックと思われますが、古代史ファンは子供だましのホラ話で十分、と見くびられたことになります。けしからん話だと思うのです。

                                以上

新・私の本棚 遠山 美都男「古代中国の女性観から読み解く」卑弥呼 1/2

古代中国の女性観から読み解く~個人名ではなかった「卑弥呼」が女王とされた理由  歴史読本 2014年7月号

私の見立て ☆☆☆☆☆ 零点 よいこは真似しないように 2020/10/04

〇はじめに
 当記事は、途方もない誤読の集積ですが、その原因は、「古代中国の女性観」と言いつつ、国内史料熱愛から生じた怨念めいたものを語っていて、単に、国名や所在地比定の論議では片付かない大問題を示しています。

 以下、失礼を承知の上で、氏の誤読の解剖を図っています。率直に、子供に言い聞かせるように指摘しないと何も伝わらないだろうという事で、誠意をこめて説き聞かせているので、野次馬の介入は御免被るのです。

〇逐行批判
 卑弥呼とは『魏志』倭人伝という外国史料にしかあらわれない存在である。したがって、その実像の解明には『魏志』倭人伝に対する徹底的な史料批判がもとめられる。[中略]追認することが許されない[中略]

コメント:正史を「外国(野蛮人)史料」と視点錯誤です。正史は中国視点の中国史家が中国語で書いたから、文明圏外の「外国人」が批判できるものではありません。後漢書談義は扨置き、唯一資料を何をもって史料批判するのか不可解です。「実像」論だが視力検査はしたのでしょうか。倭人伝は二千字ですぐ底に徹するでしょう。中原史官は夷蛮の「追認」は要しませんから傲慢です。と言う事で、読解力のない半人前以下の野蛮人が何を言うかという誹りを免れません。氏は、経書を中国語で朗唱できるのでしょうか。

 [中略]卑弥呼が倭国の女王であったという[中略]事柄に関しても、[中略]徹底した検討の俎上にのせないわけにはいかないのです。
コメント:氏の倭人伝解釈は傲慢で早合点の誤釈に満ち、とても俎上に載りません。

卑弥呼は個人名ではない
 [中略]つぎの有名な一節がある。「其の国、本亦男子を以て王と為す。[中略]倭国乱れて、[中略]。乃ち共に一女子を立てて王と為す。名づけて卑弥呼と曰ふ。鬼道に事へ、能く衆を惑はす。[中略]男弟有りて国を佐け治む。」
コメント:「いわゆる卑弥呼」と称する「いわゆる遠山美都男」が何を言うかです。「有名」な一節も、「魏志倭人伝」でなく勝手解釈に過ぎません。

 [中略]倭国大乱とよばれる内乱を鎮めるために、[中略]擁立された[中略]しかし、文脈に即して解するならば、[中略]即位にともなって新たに卑弥呼という名が[中略]あたえられた役割に関わる呼称であった[中略]
コメント:倭人伝に無い「倭国大乱」風聞が意図不明です。思い付きは勝手ですが、原文読解できない限り「文脈」は手前味噌でしょう。「俎上」、「徹底的な史料批判」ともっともらしいのですが、巷の素人論者、野次馬同様、自己流解釈で史料を読み替えます。世には倭人伝改竄差替説もあります。氏の見識が非科学的な思い付きなら表明すべきです。因みに、当記事筆者は、「薄氷」を踏み渡る度胸はありません。

 このように卑弥呼が彼女のみに占有されるという意味でのたんなる個人名ではなかったことは、卑弥呼の語義からも推定されるところである。
コメント:「卑弥呼」は商標ではないから、占有/専有とは面妖です。「卑弥呼の語義」は後出しますが、氏に古代中国語を説く資格があるのでしょうか。
                                未完

2020年10月 1日 (木)

今日の躓き石 NHKGの暴言 再起図るアスリートに「リベンジ」の汚名 訂正あり

                         2020/10/01

 今回の題材は、NHKG、昔風に言うと総合、の夜7時のニュースだから、世の模範となるべきニュース報道のはずである。まさか、ここで、ド汚い言葉をふちまけられるとは思わなかった。世も末である。

 被害者は、長い闘病から再起を図っていて、本人は「ベスト」を目指すとしか言っていない。ところが、NHKにかかると、「リベンジ」を目指したと言うのである。こんな汚い言葉で、やられたからやり返してやると言った野蛮人のように報道されたら、当人に気の毒ではないか。誰にやり返すのかと非難されるのである。

 どうか、もっと、もっと言葉に気をつけて欲しいのである。一流のアスリートは、テロリストではないから、きたない復讐言葉など考えてはいないのである。それを、勝手に決め付けて、事もあろうに全国ニュースで触れ回るのは、公共放送のすることでは無いと思うのである。一度、こんな汚い言葉が出回って、視聴者の意識に残ると、消し難いのである。まして、世間の信用の高いNHKである。受信料を取り立てて、きたない言葉をまき散らすとは、情けない。職業倫理はないのだろうか。「リベンジ」暴言は、放送事故なみに謝罪なり、訂正告知すべきではないか。

 言い方がきついのは、まさかの場でまさかの暴言にであったからである。「制作・著作 NHK」とあるから、暴言で金を盗ったとなじられるのは、NHKである。

追記:8時50分からのBSニュースでは、池江選手自身が、「リベンジ」してやると暴言を吐いたという切り出しになっている。と言う事は、先に書いたのは、勘違いで、当人が不届きなのだろう。ここに訂正する。

 それにしても、かけがえのない公共放送が、当人の世間知らずの暴言を天下に曝して思い知らせるとは、どういうことなのだろう。別の意味で、公共放送の真価を問われると思うのである。舞台裏で、事情を説明してたしなめてやるのが、良心と言うものではないのだろうか。

 こんな陰湿ないじめは、とんでもないと思うのである。

再追記:午後11時50分のBSニュースを録画して聞き直したが、どうも、池江璃花子選手は、瀕死の病床から、「必ずリベンジする」と多分SNSで発言したのだろうが、まあ、誰も、これほどひどい言葉遣いのだらしなさをとがめ立てできなかったのも、人情からして無理は無いと思うが、身辺に誰も、敢えて苦言を呈する友達がいなかったのは、勿体ないことである。こんな時に、いやなことを言えるのは、本当の友達である。(A friend in need is a friend indeed.)
 おかげて、今回、NHKに晒し者にされているのである。本当に、勿体ないことである。多分、今回の報道についても、誰も言うべきことを言わないと思うのである。それにしても、NHKは、無神経である。

以上

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