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2020年10月

2020年10月28日 (水)

新・私の本棚 サイト記事「水行20日、水行10日陸行1月の呪縛」公開コメント 3 1/1

 私の見立て ★★★★☆ 意欲的な史料批判の失敗  2020/10/28

 59.漢文の解釈 

〇非商用ブログサイト批判の弁
 同ブログサイト筆者KATS-I氏は、当記事の論述にあたり、中国史料の原文を引用した上で、意義を解釈し論考しているので、読者コメントを希望しているものと解して、氏の課題取組みの姿勢に大いに賛同するものの、ここに、論考の不合理を指摘する趣旨で、当ブログ筆者の意見を公開コメントします。
 批判は非難でなく、率直、誠実な批判は耳に痛いのもご承知と思うので、よろしく、ご理解の上、審議戴きたい。

〇総評
 冒頭に以下趣旨のご託宣がありますが、端的に言うと、自覚症状をご存じないのかと思われるので指摘します。
 曰「正史の漢文解釈では、字句の丁寧な吟味で、初めて真意を理解できます」
 それは周知事項であり、ここで、今さら、ことさら声を大にする意図が不明です。

 その後、本文として、倭人伝から引用したと思われる、次の白文が論じられます。
 「女王國東渡海千餘里復有國皆倭種又有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千餘里又有裸國黑齒國復在其東南船行一年可至

 ところが、いきなり、出所不明の句点、改行、分かち書きが根拠不明で導入され、目が回ります。以下、行数、字数を費やして、滔々と論じていますが、いくら眺めても、勘違いと早とちり連発の記事であり、とても見過ごせません。
 とはいえ、ご託宣から脱線、暴走していては、何とも是正困難です。

 ただし、以下の異議はあくまで異議であり、「論旨を理解いただいた上で」反論なり、無視なりお好きなようにと言う事です。

*先覚者罵倒の悪癖
 従来の句点処理とそれに基づく解釈は、多数の先哲が検証確立したものであり、一個人の勝手な理屈で、一気に覆せるものではありません。
女王國東渡海千餘里復有國皆倭種
又有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千餘里
又有裸國黑齒國復在其東南船行一年可至
     以上、改行追加のみ
 
*棄却の弁
 次の点から、当記事は、倭人伝里制解釈に不適当として棄却しました。
⒈ 又有 侏儒國    在其南  去女王四千餘里 (人長三四尺を除く)
  又有 裸國黑齒國 復在其東南  船行一年可至
 二条は、そのままでピッタリ対応していて、氏の早計誤解と思われます。

 「侏儒國去女王四千餘里」は、侏儒国が女王を去る四千里と名文です。
  直前の其国が不確定なので必須なのです。侏儒国が見つかれば其の東南が決着します。
  (四千余里も一年も、伝聞、風評、ホラ話の類いでしょう)
⒉ 後世史料によって先行史料「倭人伝」を批判するのは、常に不合理です。

⒊ 道里記事末尾のどんでん返しは、確実に読者の憤激を買い「馘首」です。

⒋ 思い付きの「一里55㍍程度との予断」に向ける強弁は、無理、無謀です。
  これほどアラだらけでは、持論補強にならないのでは、言わずもがなです。

〇史料、先行論議無視の不満 再説
 倭人伝里程論では常識ですが、古代中国では、出土の「尺」を規準とした一歩六尺。一里三百歩とした「普通里」(四百~五百㍍)が周代創始の大原則で、「倭人伝独自里」説は、よほど、主張の根拠を固めねばなりません。

 中国史書は、継続して書き継がれているので、勝手な思い付きを言い立てる前に、先賢諸氏の論考も参照した上で、全体を見て論考すべきです。

 当ブログ筆者の論法は、別記事で示しています。
                               以上

2020年10月25日 (日)

新・私の本棚 サイト記事 KATS.I 「水行20日、水行10日陸行1月の呪縛」公開コメント 追 1/1

 私の見立て ★★★★☆ 意欲空転、単なる勉強不足  2020/10/25

 01.魏志倭人伝の解釈の錯綜

○ブログコメント批判の弁
 当記事について、当方も、引用データの著作権管理と信頼性検証の甘さを指摘しただけで、誤謬に触れなかったのです。何事も、提案者の話の腰を折らないのが先決です。ところが、以下の無作法なコメントがあって唖然としたので、古代史論に見かける暴論の一例として、風聞評としたものです。

もう少し、「山海経」や「漢書」や「三国志」、「水経注」などの古代中国資料における水行という文句の意味を吟味してください。
唐時代くらいまでの資料の「水行」は「河川を使った旅」で「海を航行した旅」ではありません。勉強不足。

 ブログコメントで書き落としはあるでしょうが、この書き飛ばしはひどいのです。とは言え、ブログ主のKATS.I氏と投書子の交信に口を挟むのは失礼なので、漠たる風聞評論として、それなりに字数を使っています。

○暴言の戒め
 率直に言って、他人の記事をとやかく言うのなら、まずは、自分の読書体験と知見を披瀝してほしいものです。根拠の無い言いがかりは迷惑です。

 特に、唐代は、倭人伝の後世で、何が書かれていようが倭人伝に影響を与えることはできません。時代錯誤丸出しで引き合いに出してはいけません。

 投書子は、正体不明な漠然たる「資料」で、「水行」の意味を断定しています。先に例示された諸資料は厖大ですが、「紙」が普及した唐代の周辺資料は更に膨大で、とても、人知の及ぶところでは無いと思うのです。

 投書子は、煙幕で自己防衛しますが、本当に、先に書名を挙げた資料をくまなく読んで、文意を理解した上で、この意見を展開しているのでしょうか。各資料には、それぞれ編集意図があり、同じ言葉にこめる意味は異なるのです。すべての「水行」の意味が、評価できているのでしょうか。
 「旅」の出典はどこなのでしょうか。魏志を見る限り、「旅」は「軍旅」のように移動する「集団」を指します。「勉強不足」。
 短文といえども、実に不体裁です。

○灯台もと暗し~倭人伝知らず
 肝心なのは「三国志」の「倭人伝」での「従郡至倭循海岸水行」をどう解釈するかという事です。明後日(あさって)のぼやけた文例で無く、目前の文字を読めているのでしょうか。威勢のいい言い切りに大穴です。

 史料の解釈では、まず、史料そのものの解釈が最優先と思うのです。
 実に、この部分の解釈では、KATS.I氏を含む先人は、ほぼ揃って、「自然な」解釈で「倭人伝は、海岸沿い移動を水行という」と速断しているのです。
 付け加えると、魏志末尾の魏略西戎伝(三千余字)に「澤散王[治](略),北至驢分,水行半歲」とあり、編者(魚豢)の真意は海上移動でしょう。ついでながら、西戎伝には、「陸道」、「水道」の対句があり、「陸行」、「水行」の「道」を言うようです。
 不勉強は、勉強して改善できますが、不注意は、なかなか治らないものです。(Die hardです)

○先見知らず~安易な受け売りか
 投書子は、闘志横溢でも、無根拠なので、読解力や注意力の欠如で要点を見過ごした勘違いの独善、軽率な思い付きと解され、反発されるだけです。

 こうした独善の批判には、感情的な「おつり」が来そうなので、そのような「ごみコメント」を拒否できる「この場」で批判しているのです。

○KATS.I氏ブログ記事批判の弁
 念のため言うと、氏の本件の取組み姿勢に感心しても、「勉強不足」、「先見無視」の竹ザルもどきで、古代史論の大道すら踏み外していて残念です。

 何れかの段階で、KATS.I氏は、ご自身の5年の歩みを振り返り、もし、勘違いに気づけば仕切り直すでしょうが、大変なものと思いますが、氏の今後は、5年どころではないと思うので、ここに丁寧に意見しているのです。

                                未完

2020年10月21日 (水)

新・私の本棚 サイト記事 KATS.I 「水行20日、水行10日陸行1月の呪縛」公開コメント1/1

62.扶桑國(その7)

 私の見立て ★★★★☆ 意欲的な史料批判の失敗  2020/10/21

○非商用ブログサイト批判の弁
 同ブログサイト筆者は、論述にあたり、中国史料の原文を引用した上で、倭人伝道里記事の意義を解釈し、滔々と論考を公開し続けているので、読者コメントを希望しているものと解して、氏の課題取組みの姿勢に大いに賛同するものの、ここに、氏の一連の論考の基礎部分の不合理を指摘する趣旨で、当ブログ筆者の意見を公開コメントします。

 批判は非難でなく、率直、誠実な批判は耳に痛いのもご承知と思うので、よろしく、ご理解の上、審議戴きたい。

○総評
 蛮夷道里を「通典」邊防記事から推定することに重大な異議を提示します。

 ただし、異議はあくまで異議であり、「論旨を理解いただいた上で」反論なり、無視なり、お好きなようにと言う事です。「通典」紹介は略して論議します。

*非史書の取扱
 邊防を含む「通典」は、史記、漢書以来の正史の蛮夷(客)記録を、唐代読者、皇帝以下の高官のために集大成したものであり、全て史記、漢書以来の史書引用、総括であって、原資料の直接参照はないので、参照史料として不適当と判断されます。氏は、時に、推定原史料で確認されていますが、その際、原史料の特定と史料解釈の正確さへの「史料批判」が欠けています。

*史料棄却の弁
 次の点から、当史料は、倭人伝里制解釈に不適当として史料棄却しました。
⒈ 後続史料によって、先行史料を批判するのは、常に不合理です。
 氏は、中国史上一貫した里制は記録されてないとの前提のようですから、倭人伝の六世紀後の唐代史料は、倭人伝考証に全く不適です。これだけで、決定的最終判断ですが、以下で、本件主張が例外的に特採できないか確認します。

⒉ 個々の通典記事の評価に際しては、出典を特定すべきですが、出典不詳で検証ができません。
 氏は、質問する相手(依拠史料)を間違えています。

⒊ 魏志にない西域里程を東夷里程に適用するのは、端から不合理です。
 西域は歴史上変動が激しく、当記事(正史記事も)から、西域の地名比定は不確か、基準中国地点特定も不確か(原記事は読解困難)、東夷・倭人伝地名比定が不確かと、全て「不確か」ですから、当記事から現時点の各地点間の物理的距離を知ることは大変困難(事実上不可能)です。

 特に、倭人伝独特の道里行程記事の、道のり「里」も面積「方里」も、後世の東夷の素人には、読解困難、つまり、端的な利用は不可能です。
 特に、魏志に西域記事がないので、陳寿の語法を知ることができません。

 総合して、当史料は、倭人伝「里」の推定に無効とわかります。

 根拠の無い思い付きで一里55㍍程度と推定予断したのを根拠に各国を比定するのは無謀です。
 不確かなデータはそれに適した取扱いが必要です。

○史料、先行論議無視の不満
 倭人伝里程論では常識ですが、古代中国では、出土の「尺」を規準とした一歩六尺。一里三百歩とした「普通里」(千八百尺。四百~五百㍍)が周代創始の大原則で、「倭人伝独自里」説は、よほど、主張の根拠を固めねばなりません。

 中国史書は、継続して書き継がれているので、勝手な思い付きを言い立てる前に、先賢諸氏の論考も参照した上で、全体を見て論考すべきです。「先賢諸氏の論考」と言うのは、十把一絡げ、一山いくらという趣旨で無く、仮に五百の論考があれば、五百件のそれぞれが、論者の精魂こめた思索の結果を示しているので、ちゃんと理解しようと努力した上で、それぞれの論考の筋道を辿って異議を呈すべきであり、一連の記事の冒頭に書かれているような雑駁で深く読解していない意見は、失当だと思うからです。

 今し方提示したように、倭人伝里程論の展開の際には、必ず踏みしめなければならない事項が幾つかあるのですが、氏の快速論理は、そのような基本要件を等閑(なおざり)にしているようで心配しているのです。

 なお、当ブログ筆者は、諸兄の論考をできるだけ丁寧に読み解いて、筋の通らない点を率直に批判し続け、その上で形成した自身の論法は、別記事で示しています。
                               以上

2020年10月13日 (火)

倭人伝道里談義 号外 倭人伝道里行程記事の趣旨確認    1/1

〇はじめに                 2020/10/13
 今さらながら、倭人伝道里行程記事の趣旨を理解しない人が多いので「号外」です。短縮のため、私見断言御免。

〇帝国の要諦 「情報流通」
 魏武、つまり、没後魏の武帝と諡された曹操は、孫子兵法を読破、注釈し、戦争で勝つ兵法を極めたのです。孫子曰、「敵を知り己を知れば百戦百勝」。

 敵情探索はもとより、自陣営内情をつぶさに知ることが必須でした。喧伝される曹操諜報ですが、日常の指示と報告が迅速、確実であることを厳格規定したのです。そして、各郡太守などは、日報並み頻度で状勢報告したのです。
 各郡太守などから遅滞なく報告が届くには、通信期間、必達期限の設定が必要ですが、中原は官道が整備されているので、道里で日程設定できたのです。

〇倭人伝の要件 日程確約
 かくして、倭人が新参の蕃王と認知されるためには、所属帯方郡まで何日で通信するか、所要日数を確約するのが最優先だったのです。
 当然、そのような日数表示は最速手段である官道「陸行」が必須です。風、天気まかせ、難船御免で、急行不能の船舶交通は、はなから論外です。

〇 例外許容された「水行」~最短日程確保
 倭人伝独特の「水行」は、代替陸行がないので、余儀なく中原渡河同様の非常手段として認め、冒頭に「渡海、水行」と予告、渡海水行終了後、末羅国以降は「陸行」と正規運用に戻しています。臨機応変、首尾明解です。
 本筋行程日程は、都(すべて)水行十日、陸行一月と明記されていますから、当然、計四十日です。
 陳寿は、魏武曹操の威勢を継いだ今上晋帝に対し、「倭人伝」として新参蕃王の通信期間を明解にし、倭地内の諸国傍路は、細瑾だったのです。

 以上は、行程道里の本質に関わる議論ですから、生煮えの文法論とか下手な言い逃れはできないのです。最近見た「纏向説言い訳集」は、「笑点」大喜利の如く、「言葉の曲芸」連発で「水行陸行」を混ぜっ返していますが、本質を踏み外した「失敗演技」は、爆笑を呼んで俗受けしても、落第です。

〇本筋と余傍
 念押ししますが、郡から倭までの本筋行程を外れた余傍の国、なかでも、投馬国水行二十日は数日の渡海を含み、残りは、当然「陸行」ですが、所詮日数規定外です。

〇帝国の要諦再び
 大陸王朝は太古以来文書行政で、一片の勅命で郡太守の首が飛ぶ中央集権ですから、官用通信は、乗馬の文書使が繋いで日々怠りなかったのです。つまり、道路宿駅の整備が官道沿線「領主」の義務だったのです。

 因みに、通信期間は、諸国連合の盟主、「倭人」の王にも重大です。文書通信がないので、高官自ら、ないしは、信頼できる副官が移動して口頭指示を伝えることになり、一日、二日の到達範囲が限界です。諸国に「刺史」(率)を配しますが、小国王や刺史と王の間が片道十日などの間柄だと対話不自由でもあり、中央集権でない「倭人」ですから、現地裁量、自治に干渉しないのです。

〇音信不通の平和
 投馬国は、普段は交通不自由で、国王御前合議に臨席できません。代理人を常駐しても、本国と通信不自由では、参政できません。「参勤交代」したのでしょうか。
 その他遠絶諸国は名のみです。片道一ヵ月以上では対話どころか喧嘩も戦争もできません。
 倭人伝談義で、遠絶諸国まで参集の総会で次代の王を共立するなど、まじめに説かれますが、夢物語、児戯の類いです。
 また、遠絶諸国が互いに戦い、「日本列島」(古代史用語で、地図上の九州、中四国、近畿、東海まで、時には、関東を含める範囲を言う苦心の表現)の広域を揺るがす覇権争いの「大乱」など、到底、到底実行不能です。広域「倭国」の実在は、未検証で疑問です。

 以上、特に手短にまとめたので、記事内の注釈を省略しました。他記事参照の手間がかかりますが、万事御免。

                             この項完

2020年10月 9日 (金)

新・私の本棚 邪馬台国の会第381回講演「邪馬台国」論争 再 10/10

 安本 美典            記2019/09/17 追記2020/10/06 
私の見立て ★★★☆☆ 古典的卓見の現状確認

(6)承前
コメント:この項は、独立項でなく前項の続きとみても、趣旨不明です。
 「自然ではないか」と()内で論じて主語不明ですが、本項で何を主張しているのか不明です。()内は飛ばしてよい「はした」とみるものと思うのです。それにしても、前々項までの論理性が消失して不可解です。古田氏の後漢書読みを見損ねたのでしょうか。後漢書は、後漢代の大倭王の居処を「邪馬臺国」と称しています。
 ついでながら、「南北朝の対立」、「五胡十六国」は、時間的に前後していますが古田氏記述の引用とも見え、だれに誤記の責任があるのか不明です。

(7)(a)さまざまな現象・事実がある。(b)いま、ある仮説を真とすれば、そのさまざまな現象・事実がうまく説明される。(c)それゆえ、その仮説を真とみる理由がある。以上は、ドイツのヒルベルトの説いた公理論(「公理論」については、拙著『「邪馬壹国」はなかった』参照)以後、アメリカの C・S・パース、ノーウッド・R・ハンスンなどによって発展させられ、現代の科学方法論の主流となりつつある見解である。
コメント:この項は、一段と趣旨不明です。ことは、史料解釈における歴史観・考察技法の議論ではないと思うのです。
 安本氏が、同時代論者の啓発を図る趣旨であれば良いのですが、ごくごく一般論として、三世紀「東アジア」の世界観を論ずるのに、ここに描かれた論は、時代、文化が大きく異なる、無効な議論ではないでしょうか。
 
〇総評として
 以上のように、当記事は、期待に反して安本氏旧論の蒸し直しで、不変の信念は健在なものの、当方の私見を変えるものではありませんでした。
 当方の理解は、たかが「邪馬壹国」論、「壹」の一文字に関してすら、古田氏の至極当然の主張、つまり、「倭人伝に関する史学論議は現存史料を基礎として議論すべきである」という提言を遂に否定できなかったとみます。
 安本氏ほどの論客が、決定的な論証が行き届かず、古田氏自身の個人資質に関する根拠不明の風評を大量に起用して誤記論を展開したのは、控え目に言っても、安本氏の器量不足を思わせ、失礼ながら勿体ないのです。

 手厳しい論難と取られるかも知れませんが、斯界の最高峰たる安本氏に要求される基準はとてつもなく高いのです。つまり、当稿は、氏に対する当方の絶大なる敬意の表れです。記事字数を見て察していただきたいものです。
 以上が、当講義録に対する誠実、かつ、率直な批評です。

*終結宣言の提案
 かねてより安本氏が表明されているように、論争は、当事者全てが終結に納得しない限り終結しないのです。まずは、安本氏から、不毛の事態の終結を提案いただければ、時を経ずして、天下を揺るがし続けている「邪馬台国」論は、平和裏に終熄するものと感じています。

 書き漏らしましたが、「翰苑」は、翰林院、すなわち、皇帝の関係する文書を司る役所であり、用語、表現を典拠のある、そして、美麗な表現とできるよう、選りすぐりの文例を集める、と言う趣旨のように思います。翰苑そのものは、帝室の物ですが、教養人がお手本とする愛読書であったようです。
                              以上

新・私の本棚 邪馬台国の会第381回講演「邪馬台国」論争 再 9/10

 安本 美典            記2019/09/17 追記2020/10/06

私の見立て ★★★☆☆ 古典的卓見の現状確認

(4)福岡県太宰府市、太宰府天満宮に伝来する『翰苑』の九世紀写本は、卑弥呼の宗女の名を「壹與(壱与)」ではなく、「臺與(台与)」と記し、その都を記すのに、「馬臺(台)」と、「臺(台)」の字を用いている。これは、十二世紀以後の版本と異なっている。
コメント:翰苑は、前項の例外と見えますが、精査すれば論拠に不適格です。
 ちょっと困るのは、この用字が誰のものか不明確だと言うことです。雍公叡の付注、張楚金の正文、いずれかの史書の引用、どれであるかで、判断は変わります。どうも、史書ならぬ翰苑は、史書原文の用字を必ずしも維持していないようですから、論拠として不適格ではないでしょうか。
 それに先立ち、翰苑写本断簡の史料批判がされていませんが、同断簡は、明らかに、九世紀写本時点の翰苑原文に忠実とは思えません。誰も見たことがないので厳密な議論はできませんが、断簡に多数見られる明らかな誤写、誤記は、原本と厳密に照合・校正された正確なものでなく、佚文と見えます。
 原本ないしは忠実な複製品(レブリカ)であれば、論証資料に採用できますが、低劣な写本や佚文は、単なる参考資料ではないでしょうか。
 但し、このような論法は、当方が、かねて倭人伝現存本に対する批判手法として不適格と批判しているものですから、いわば、諸刃の剣であるかも知れませんが、それは、お互い様ではないでしょうか。
 また、「翰苑」の仮想原本は、写本の際の修飾が避けられず、引用資料の忠実な引用でないと思われます。何しろ、同断簡は、翰苑全巻でなく、断簡に過ぎず、また、現存唯一の史料ですから比較検証できず、以上の判断は検証困難であることは否定できないと思われます。佚文扱いが妥当でしょう。

(5)いま、三世紀の女王国名は「邪馬臺(台)国」宗女の名は、「臺与(台与)」であったと仮定してみる。そして、九世紀~十一世紀の間に、誤写、または、誤刻がおきたのだと、考えてみる。現行『三国志』版本に、「邪馬壹(壱)国」「壹與(壱与)」とあるのは、誤写、または、誤刻によって生じたと考えてみる。
コメント:仮定の設問は「お好きになさい」と言うところです。

(6)このように考えると、『後漢書』『梁書』『北史』『隋書』『通典』『翰苑』などに「臺(台)」の字が用いられている事実を、古田説よりも、はるかに、簡明に説明できる。(古田氏は、『後漢書』などに、「臺」の字があらわれる理由を、つぎのように説明する。すなわち、五世紀になり、南北朝の対立、五胡十六国の出現という時代になって、「臺(台)」の字は、各国の都の名に用いられるようになり、「臺」の字の性質は、変わってきた。したがって、五世紀になって成立した『後漢書』に、「邪馬臺国」が出現してもふしぎはない------。しかし、この古田説では、三世紀に「邪馬壹国」であった女王国の名を、『後漢書』が、とくに、「邪馬臺国」に改変しなければならなかった理由が、十分に説明されていない。三世紀の女王国の名が「邪馬壹国」であるならば、『後漢書』も、それを記すのに、「邪馬壹国」と記すのが、自然ではないか。)

                                未完

新・私の本棚 邪馬台国の会第381回講演「邪馬台国」論争 再 8/10

 安本 美典            記2019/09/17 追記2020/10/06
私の見立て ★★★☆☆ 古典的卓見の現状確認

〇「原文」考 歴史観の清掃
 案ずるに、そのようにして新作されたでっち上げ史料は、現代人の著作物であり、陳寿の編纂した著作物ではありませんから、かくなるでっち上げ史料を陳寿の著作物として、その良否、正邪を議論するのは、当の陳寿に対して、大変無礼かと思われます。

 例えば、当方は、一介の素人ですが、自身の著作物を、別人が盗用改竄して、当方の名で論じられるとしたら、とんでもない不法行為です。(現代風に言うと、著作権および著作人格権の侵害ですが、年月を経て著作権が消滅しても、剽窃、盗用は、許されません)
 ということで、ここまで読んだ限りでは、安本氏が堂々と論陣を展開した論拠は、ことごとく不適格ないしは不適当と思われます。つまり、論証の要諦を失していると思うものであるがどうでしょうか。

〇安本氏見解の総括
 本稿では、論議の総括として、以下のように表明されています。本題に関する主旨に変化はないものと思うので、当記事を論評します。
 個別項目に追記としてコメントを入れたことに対して、ご不快の方がいれば、申し訳なく思いますが、これが当ブログの芸風です。

**引用と追記**
 私の考えをまとめると、次のようになる。
(1)三世紀『三国志』原本をみた人はだれもいない。三世紀の原本は、存在していないのである。

コメント:失礼ながら、素人目にも、隙だらけの主張と見えます。
 氏が論拠とされている諸史料もまた、原本は存在せず、現存の「人」は誰も見ていません。(みた人はだれもいない、というのは、軽率な言いそこないと思われます。少なくとも、陳寿自身は見ているはずです)
 あら探しは置くとして、本項は、氏ほどの論客が、重大な議論の冒頭に掲げる論拠として有効とは思えません。本来、冒頭には、本項だけで論議を終結できるような決定的事項が掲げられるべきではないでしょうか。年月で熟成したはずの議論なので、万人がそのように期待して聞き入ったはずです。

(2)現存『三国志』の版本は、十二世紀以後のものである。『三国志』の成立から、十二世紀まで、およそ、九百年の歳月が流れている。

コメント:衆知、自明の客観的事実の表明であり、特に意見はありません。一項を建てる意義も無いと見えます。全ての史料は、世に出た時点から、経時変化(加齢)を避けられないのです。加齢劣化の質と量が大事なのです。

(3)十一世紀よりまえの史料で、女王国の名を、「邪馬壹(壱)国」と記すものは、一切ない。

コメント:「十一世紀よりまえの史料」とは、原文がその時代に書かれただけであり、その原文が確実に伝わってないので、無意味です。それとも、当時の正本が、たまたま、まだ見つかってないと言うことでしょうか。神がかりになりますね。

                                未完

新・私の本棚 邪馬台国の会第381回講演「邪馬台国」論争 再 7/10

 安本 美典            記2019/09/17 追記2020/10/06
私の見立て ★★★☆☆ 古典的卓見の現状確認

〇日本史権威の「素人考え」
 案ずるに、日本史の権威である氏は国内史書に対する態度として、史書には必ず複数の有力な異本があるから、特定の現存版本に決め込まず、諸本を照合して本来の形態を見出すべきであると教え諭されているように見えます。
 しかし、こと「三国志」は、陳寿の没後、西晋朝の命で、遺された確定稿を書き写して官撰史書として上申し、西晋帝室書庫に収納して以来、各王朝が代々国宝に準ずる扱いで厳格管理されたこともあり、二千年近い期間を歴た今日、残存する諸刊本に異本が極めて少ないと思うのです。

 恐らく、どこかの「三国志」異本に「邪馬臺国」とあるだろうから、はなから「邪馬壹国」に決め込まず、どちらが正しいか決めなさい、と言う大人の教えでしょうが、氏の予断に反して、「邪馬臺国」と書く「三国志」異本は、一切存在しないので、諸々の異本を糾合して照合校勘しても、結論は変わらないと思います。この程度の素人考えはとうにお見通しで、言い間違えたのでしょうか。

〇佚文(逸文)考
 「佚文」が導入されますが、ここに示された慧眼は深遠なものがあります。
 後世編纂された「類書」である太平御覧、翰苑などの「所引」魏志は、当時、今日言う厳密な引用を意図したものでなく、不確かな佚文に依拠する不確かなものとの明解な意見と思われます。氏として、格別の意義を表明したものであり、卒読せず、深甚な教訓をかみしめるべきでしょう。
 結局、三国志現行刊本に揃って書かれている「邪馬壹国」を「邪馬臺国」の誤写とする論拠は提示できなかったと見えます。

 氏は、そのような瑣末の論証を史学の本分とみてなかったと思えるので、引用の談話を不首尾と解するのは、随分失礼かと思います。

〇范曄考批判
 氏の後漢書論に考察を加えてみると、氏は、南朝劉宋の范曄が、高官在任中に三国志善本を実見して忠実に書き取ったとは想定してないようです。高官特権で帝室書庫に入り浸りになっても、書庫に山積の史書経書の中で、ことさら、皇帝蔵書の三国志の書写に没頭したと思えないということのようです。
 所詮、代理人に史書佚文を求めさせたと思われます。あるいは、後年、配所の閑職にあって、任地に持ち込んだ山なす蔵書から「佚文」を作成させたかと見ます。なお、范曄は、「佚文」の不確かさは承知していたはずです。
 当時、身命を賭して編纂に没頭した後漢書編纂の資料と言えば、地理的に後漢全土、時間的に二世紀にのぼる厖大なもので在野資料も多く、魏朝事象「邪馬臺国」に関し、綿密な原文考証を行ったという証拠は無いと思います。
 井上氏の高度な識見は、大局に具体を忘れるなとの戒めと信じるものです。

〇古田氏の信条の確認
 因みに、素人考えでは、古田氏の主張は、現に目前にある史料、便宜上原文というものを、まずは基本として読むべきだという、まことに至当な主張であり、はなから立証されていない誤記、誤写を書き足した、でっち上げ史料をもとに議論すべきではないという意見のように思えます。

                                未完

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 安本 美典      記2019/09/17 追記2020/10/06
私の見立て ★★★☆☆ 古典的卓見の現状確認

〇井上光貞事例
 続いて、井上光貞氏の席上談話が延々と引用されています。
**引用開始**
 東京大学の日本史家、井上光貞氏は、『論争邪馬台国』(1980年、平凡社刊)の中で、松本清張氏の問いに答え、次のように述べておられる。
「(邪馬壱国が本当であるというのは)、ぼくは結論的には、古田さんの思い過しであるという結論です。その理由は、古田さんの論拠の根底に原文主義がある、原文通りに読めというんです。ところが問題は、原文とは何ぞやということであります。原文というのは、『魏志』は三世紀に書かれたものですが、そのときの原文、これはないのであります。だから原文原文といっているのは非常に古い版本ということである。しかし古い版本は原文ではないのであります。校訂ということを学者はやるわけであります。おそらく古文をなさる方もいらっしゃるだろうと思いますが、それはいろんな写本やなんかから、元のそれこそ原物はどうであったかということを考えるために、いろんな本を校合して、元を当てていくわけです。これが原文に忠実なのでありまして、たまたまあった版本だの、後の写本に忠実であるということは、原文に忠実ということとは違うんだということですね。

これは非常に基本的なことなのであります。ところが古田さんはそこのところが何かちょっと違っているんじゃないか。これは学問の態度の問題であります。これだけいえばもう私はほとんど何にもいう必要はないのであります。」

「たとえば『三国志』は三世紀の末頃に出来て……これ、末のいつであるかということは問題だけども、まあ三世紀の末だろうと思われる。一方、いちばん古い版本は、……南宋の本で十二世紀なんですね。その間、本としては九世紀の隔(へだ)たりを持ってる。本としてはその間に今日のところ何もないわけです。写本はもとよりのこと、版本もそれだけの距離を持ってるわけです。ところがその間にいくつも逸文というものがある。それを途中で読んだ人の記録というのがあるわけです。

そういう意味からいって、途中で読んだ人の記録を見ると、やはり大きいのは『後漢書』だと思います。『後漢書』も、もちろん原文が残っているわけではないのですけれども、……『後漢書』のあの記事は明らかに『三国志』を見ているわけですけれども、そこにはちゃんと『邪馬台国』『台』と書いている。『後漢書』が出来たのは五世紀でありますが、それが『台』と書いているとすると、『後漢書』の編者のみた『三国志』の『魏志』の『倭人伝』には『台』と書いてあったととるのがすなおな見方です。」
*引用終わり*

〇古田氏史料観の当否
 冒頭で、井上氏は、古田氏の「邪馬壹国」論に秘められた根底は、要するに単純素朴な「原文」主義とした上で、三国志三世紀原文は存在しないから、遡って原文を確立した上で議論すべきと高度な一般論を持ち出します。

 大局的にはおっしゃる通りですが、素人の率直な意見としては、大変疎漏な見解と見えます。ご意見は理性的ですが、佚文や後漢書も、原本そのままではないから、公平な考察が疎かになっていると思います。井上氏といえども「全知全能」でない以上、専門外の分野の論議には介入を控え、専門家に委ねるべきと思います。
                                未完

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 安本 美典            記2019/09/17 追記2020/10/06
私の見立て ★★★☆☆ 古典的卓見の現状確認

〇書誌学談義 追加2020/10/06
 そのあと、忽然と「慶応大学の尾崎康教授」なる方が紹介されますが、素人の調べでは、氏は随分以前に同大学教授職を離れたと思われます。
 というような、つまらないアラ探しはさておき、ここで書誌学の権威たる氏が述べたのは、古田氏が紹凞本が三国志現存刊本中最上と決め込んでいるとの世評を受けたご託宣であり、書誌学上、南宋刊本紹凞本は、後追いの民間刊刻であり、由緒正しい官刻である先行紹興本が、紹凞本に優ると評価した上で以下論じています。

 史実としてはそのように解されるのが順当でしょうが、個人的には、南宋が多額国費を投じた、赫々たる官刻正史(紹興本)に重複する短期後追いの刊刻大事業(紹凞本)を、特段の意義無しに成したと思えないのです。

 氏は、当然書誌学の見地からのみ刊本の質を論じていて、倭人伝の一文字の当否は些末事、研究対象外でしたが、何らかの事情で、その点を特に精査し、ことさらに、このような書誌学的紹凞本評価をものしたようです。

〇評価の実態
 言うまでもないのですが、尾崎氏は、書かれている内容を評価して、書誌学的見地から紹凞本を毀損して紹興本を絶賛しているわけではなく、所詮、両刊本共に、数世紀に亘る版木に対する経年変化のために、部分補修あるいは一部更新などを歴ていて、大同小異であり、むしろ、個別の資料に於いて、書物としての質に、個体差がある事が述べられているように見えます。
 そして、肝心なことですが、氏の暗黙の知識として、三国志は、南朝劉宋期の裵松之による付注の際の原本校勘、北宋による初回刊刻、つまり、版木作りの際の校勘、さらには、南宋による復元刊刻の際の校勘というように、その時点の帝室原本と高官や地方愛書家などの所蔵する良質写本を照合して校勘する大事業が展開されていて、異本の発生が抑制されていたのです。

 時に、三国志に、世の正史に付きものの「異本」、「異稿」がないために、諸本を照合して原文を考察する「愉しみ」が得られないという嘆きが書かれていますが、そのような初歩的校勘は、とうに終わっているという事です。漁場は、別の海に求めるべきです。

〇誤記、誤写の事実無根確認
 ということで、極めて誤写されやすいと憶測されている「壹」の字が「臺」と文字化けしている資料は、一切露呈していないのです。

〇動機不順の懸念
 世の中には、自説の裏付けにならない「結果」しか出せない研究は、無意味な研究と断じる方がいますが、要は、「そんな研究に金は出さん」という恫喝で研究捏造を強要しているようで、薄ら寒いものがあります。
 あるいは、望む「結果」が得られなければ、発掘活動が衰弱して、開発による遺跡破壊が進むと警鐘を鳴らす向きもありますが、筋違いと見るものです。安本美典氏が、宗教論争と危惧する形勢がほの見えています。
 因みに、以上の尾崎氏の意見は、季刊邪馬台国誌の連載記事の総括ですが、尾崎氏は、張明澄氏と異なり、学究の士ですので、支援者に忖度することなく、その金言は、信ずるに足るとみるものです。

***追加終了
                                未完

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 安本 美典            記2019/09/17 追記2020/10/06
私の見立て ★★★☆☆ 古典的卓見の現状確認

〇鴻廬の苦情
 蛮夷の対処は辺境太守の専権事項であり、鴻廬は、むしろ、一々蛮夷を帝都に寄越すなというものであったはずです。道中の対応はもとより、天子の面目にかけて厚遇し、随員に至るまで印綬を下賜し、時に、過分とされる下賜物を持たせる必要があるので辺境太守が選別すべきです。

〇従郡至倭論
 そして、魏の官軍による公孫氏攻滅は、同二年八月とは言え、遼東から地理的に遠隔の帯方郡は、それ以前、同年前半に、早々に魏の支配下に入っていたと見る解釈が、むしろ有力であり、倭使が、新任の帯方郡太守の召集に従い、急遽六月に帯方郡に参上し、引き続き、洛陽に赴いた可能性が高いと思われます。帯方郡から中原洛陽に至るには、目前の山東半島青州に渡海上陸後、河水南岸官道を西行するので遼東戦乱は無関係と思われます。

〇戦時の上洛経路
 郡が公孫氏遼東に赴くのは、諸国王に等しい権威を持つ太守の威光によるとしても、郡から洛陽へは遼東を介しない古街道が通じていたと見るのです。史学界大勢が、帯方郡から北上して遼東郡治に着き西南転する、大変遠回りな経路に専ら信を置いているのは、素人として、大変不可解と感じるのです。正史に、そのような行程を示唆する道里が記載されているのは事実ですが、帝国の実務は、最短経路、最速の到達であり、古式蒼然たる誤解は、早々に廃棄すべきです。

 以上のように、当時の政治情勢を合理的に解釈すれば、景初二年を否定する論拠は特に無いと思われます。少なくとも、古代学界で蔓延る景初献使年に関する諸々の非科学的な俗説は、雲散霧消するのではないかと思われます。

〇闇の中の「自明」論
 資料解釈が大きく分かれる事項で、性急に自説を仮定し、無造作に「自明」と書き立てるのは、学問の徒として疑問と思われます。
 「自明」は、よほどの場合に取っておく極上表現であり、決めゼリフの安売りは自身の大安売りです。不用意な断言で、恥を千載に残さないようご自愛いただきたいのです。

 いや、ふと冷静に戻ると、同三年が正しいとしても、本題論議に直接関係はないのですが、一部の頑迷な同三年派は、ことさら雑駁な論拠を提示して誤写頻発の件数稼ぎとしているようなので、丁寧に反論するものです。

 しかし、当項目以外の誤字談義は、素人がこれまでに調べた限りでも根拠不明とされるべきです。各論は、追試されていないのでしょうか。
 安本氏ほどの高名、高潔な論客が、麗々しく引用するものとは思えないというのが正直な所感なのです。

〇追記:
 安本氏の引用に不審を感じ原著をよく読むと、当方の杉本憲司、森博達両氏への批判は一部当を得ていないので、追記の形で補正を図ります。

 両氏は、倭人伝解釈の基本を、中華書局標点本(1982年版)を底本とし、随時校異により訂正する立場に立ち、「對馬国」は前者の見地、邪馬臺国、一支国は後世史書依拠で、客観的物証はないが、一応筋を通しています。

 ただし、「東冶」校異が根拠のない推量であるように、校異の筋道は不安定で、「景初二年」校異は、合理性に欠け一段と不確かです。

                                未完

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 安本 美典            記2019/09/17 追記2020/10/06
私の見立て ★★★☆☆ 古典的卓見の現状確認

〇藤堂氏事例
 藤堂氏監修本は、太平御覧所引なる「魏志」御覧魏志を劈頭に後漢書、梁書、北史、隋書を並べて、これらがなべて「臺」を採用している以上、倭人伝は「壹」でなく「臺」と書いていたと判断するとしている、とのことです。
 藤堂氏は、漢字学における権威者と見かけますが、少なくとも、古代史分野における文献学の権威とは思えず、また、諸史書なべての記事の批判や御覧魏志の資料批判が、適切にされていないと見える点で大いに疑問です。

〇森氏事例
 森浩一氏は、古代史分野における考古学の権威であり、文献解釈は専門外なので、杉本、森博達両氏に全面的に委ねたと思われますが、同書の記事を見る限り、というか、掲表の末項、景初二年遣使論で見られるように、両氏の資料誤読を放置して「編著」としているので、氏の考古学分野での比類無き権威は、両氏に連座して大いに疑わしいものになったと見られます。

**森氏編著考察 **引用開始
 景初は魏の明帝の年号であるが、ここの二年とあるのは景初三年(239)の誤りと考えられる。日本書紀に引く「魏志」と「梁書」諸夷伝の倭の条では景初三年となっている。
 当時の政治情勢を見ると景初二年までの50年間、公孫氏が遼東で勢力をもち、一時は独立して燕王と称していたので、倭国の使者は魏に行けなかった。景初二年正月になって魏は公孫淵を攻撃し、八月に至ってようやく勝利を収め、遼東から楽浪・帯方に至る地域が魏の支配下に帰したのである。景初三年に遼東、楽浪などの五郡が平洲として本格的に魏の地となって、始めて倭国の卑弥呼が直接、魏に使者を派遣できるようになった。このような政治情勢からも、この景初二年が三年の誤りであることは自明のことである。
**引用終わり

 可能性のある漢数字二と三の誤認を「実態」と決めつけると、他の項目と比して字数が多いが故に、一段と記事著者の欠点が露呈していると見えます。

*書紀神功紀/梁書事例
 第一の論拠として引用された書紀神功紀の魏志引用は、記事自体に重大な錯誤があることでわかるように、当記事が、もともと、同時代にあった魏志記事原本の正確な引用であったことは疑わしいと思われます。
 冷静に見て、現存書紀原本の「三」が、長年の不安定、不規則、つまびらかでない私的な書写継承の間に伝世劣化、誤写、改竄された可能性は否定できないと思われます。誤写疑惑は当分野の定番なので書いてみただけです。
 また、後世正史の中で、よりによって、梁書記事が採用されているのも、うさんくさいと感じられるのです。「なべて」と、どっこいどっこいです。

*公孫氏遼東記事例
 個人的な時代考証として、公孫氏の五十年間、公孫氏が、魏朝に任じられた遼東郡太守の権威でもって適法に遮ったため倭使が魏に行けなかったのでしょう。別に、不法なことをしたいたわけではないのです。

                                未完

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 安本 美典            記2019/09/17 追記2020/10/06 
私の見立て ★★★☆☆ 古典的卓見の現状確認

〇張明澄事例
 最後に登場した張明澄氏は、当誌に倭人伝解釈議を延々連載し、編集長安本氏の意向を忖度したと感じられて、証人資格に、重大この上ない疑義があると思われます。
 また、当誌上でしばしば展開された長広舌は、論考ならぬ雑情報や根拠不明の私見を権威めかしたものに過ぎず、論考はごく一般論に過ぎないと感じられます。疑わしければ実読いただきたいのです。それにしても、記事の最後に、時に披瀝される「本音」らしきものは、事態の真相をえぐって貴重な啓示となっているからです。ということで、氏の意見は、本件論証には寄与しないと推定されます。

 事実確認ですが、氏の経歴から、日本統治下の台湾で、少なくとも、今日の小学校時代まで皇民教育を刷り込まれ、その世界観に染まっていると推定されるので「中国人史学者」として信を置くことが困難です。別に非難しているわけではありません。

 台湾が、日本統治時代の終了により「中華民国」に復帰して以来、当地に亡命した「中華民国」は、伝統的な中国文化の継承者として、歴史研究にも注力したと見え、正史二十四史の刊行などの大事業に取り組んだとみているので、氏が、以後どのような教育を受け、研鑽に励んだかは不明です。別に記したと思うのですが、「中華人民共和国」は、中国文化の継承ではなく、文化の革命に邁進したので、歴史教育は、随分疎かになったものと懸念しています。その意味では、台湾での歴史研究は、中国文化の継承が持続したものと推定していますが、その点は、滅多に語られないので、以上のように臆測するしかないのです。
 因みに、日本語に堪能な中国人である張氏は、執筆時日本在住であり、これまで、国交のない「本場中国人」とどう意見交換したか不明です。

 余談はさておき、氏が、季刊「邪馬台国」氏で展開した厖大な連載記事には、本件課題の「邪馬壹国」解明に寄与する議論は示されてないと思われます。長期に亘った連載記事の全体を入手してはいないので、全文照合はしていませんが、安本氏がここに引用していない以上、そのような有意義な論議はされていないと見るものです。

〇ひとくくりのスズメたち
 安本氏は、意味ありげに「中国人学者たちの、筆をそろえての批判」と言いますが、僅か三人限りで、それぞれ学識も境遇(住居国/地域は、中国、台湾、日本混在で交流不自由)も論調も三者三様ですから、童謡の「スズメのがっこう」でもあるまいに「おくち」ならぬ「おふでをそろえて」と書かれると、センセイがムチをふったかなと思うのです。考えすぎでしょうか。

〇「芸風批判」の弊害
 以下でも言及するかも知れませんが、小生の意見では、本記事(掲載当時)で安本氏に求められているのは、本件の課題である「邪馬壹国」の「純粋に論理的解明」であり、少なくとも、「敵手古田氏の芸風批判ではなかった」のです。
 いや、張氏が、当時、若い世代に猛烈に人気の某タレントの芸風を、「世界に通用しない日本だけの人気」と批判し、「古田氏はその同類」と揶揄する、誠に意味不明の「芸風」批判を垂れ流したので、そう言わされるのです。
 以下、古代史に無縁の芸風批判にあきれかえったころ、ようよう史学論めいた論議になるので、冗長、散漫の印象を招いたのは勿体ないと思うのです。

〇大家の誤字ご託宣
 そのあげく、当分野で定番化している倭人伝誤記例に関する論議が掲示されています。どうも、ここまで誤記がある以上、「壹」もまた誤記に決まっているという主張らしいのですが、まことにうさん臭い論法で同感できないのです。そこに、二書の誤記論が表形式で対照して引用されています。

①藤堂明保監修『倭国伝』(『中国の古典17』学習研究社昭和60年10月15日刊)
②森浩一編『日本の古代1 倭人の登場』(杉本憲司、森博達(ひろみち)訳注、中央公論社、昭和60年11月10日刊)

                                未完

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 安本 美典            記2019/09/17 追記2020/10/06
私の見立て ★★★☆☆ 古典的卓見の現状確認

〇始めに
 安本氏は、「邪馬壹国はなかった」なる好著で古田武彦氏の「邪馬壹国」主張を鋭く批判しましたが、以降、何も付け加わっていないのは残念です。

〇邪馬台国の会 第381回講演会(2019.7.28)
 当講演会に於いて、氏の「邪馬壹国」、「邪馬臺国」論の現時点での見解は次のように表明されています。
【日本古代史】「邪馬壹(壱)国」か、「邪馬薹(台)国」か論争 (2019.9.4.掲載) 
 同記事は、本来講演録なので、普通なら、文字起こしの誤記等はありえますが、分量からして氏の講演稿であり、サイト公開前に氏が目を通されているはずですから内容に齟齬は無いはずです。(薹はともかくとして)
 そして、ここには、氏の連年不変の持論が書かれているので、一般読者が参照可能な当記事に批判を加えても不当では無いと思うものです。
 講演の前半では、氏の持論を支える諸論客の所見が列記されていますが、「証人審査」、「所見批判」が尽くされてないのは、不備と思われます。
 以下、敬称、敬語表現に不行き届きが多いのは、当ブログ記事筆者の怠慢によるものであり、読者にご不快の念を与えることを申し訳なく思いますが、当ブログの芸風でもあり、ご容赦いただきたいものです。

〇三大中国史家 
 まず、中国諸氏の意見です。(三氏の著書は、いずれも拝読しています)

〇汪向栄事例
 冒頭の汪向栄氏は、書籍の内容紹介に「中日関係史の研究者として著名な著者が、中国の史書の性格を的確に捉えたうえで日本人研究者の論考を広く渉猟し、独自の邪馬台国論を展開」とあり、当時の政情不安定な中国における「邪馬台国」論が、多数の中国研究者の学究の集積でなく、氏独自の弧説であることを物語っているように見えます。
 特に、同書の骨格の一部が、日本側資料の日本側研究者の論考の渉猟の結果とされていることから見て、親交の深い日本側関係者の定説、俗説の影響を受けていることは、氏の論考の自由な展開を制約したものと見えます。
 そのような限界から、氏の労作『中国人学者の研究 邪馬台国』(風涛社刊、1983年)は、「一中国人学者の研究」と題すべきと考えます。氏の著書が、全中国人研究者の研究の集成と判定する根拠は見当たらないようです。
 また、引用された氏の見解は、単に中国古代史書の文献解釈の一般論を述べるに過ぎず、本件課題である「邪馬壹国」解明に寄与しないと思います。

〇謝銘仁事例
 次いで示された謝銘仁氏の著『邪馬台国 中国人はこう読む』(立風書房刊、1983年)は、タイトル不適切は別として、古田氏の「倭人伝」行程解釈の不備を言うもので、その際に、「日本流」定説を踏襲したのは皮肉な発言かと思われます。
 また、この発言は、古田氏所説の誤解釈の究明の例としても、本件課題である「邪馬壹国」解明に寄与するものでなく、単なる雑音でしかありません。
 

                                未完

2020年10月 1日 (木)

今日の躓き石 NHKGの暴言 再起図るアスリートに「リベンジ」の汚名 訂正あり

                         2020/10/01

 今回の題材は、NHKG、昔風に言うと総合、の夜7時のニュースだから、世の模範となるべきニュース報道のはずである。まさか、ここで、ド汚い言葉をふちまけられるとは思わなかった。世も末である。

 被害者は、長い闘病から再起を図っていて、本人は「ベスト」を目指すとしか言っていない。ところが、NHKにかかると、「リベンジ」を目指したと言うのである。こんな汚い言葉で、やられたからやり返してやると言った野蛮人のように報道されたら、当人に気の毒ではないか。誰にやり返すのかと非難されるのである。

 どうか、もっと、もっと言葉に気をつけて欲しいのである。一流のアスリートは、テロリストではないから、きたない復讐言葉など考えてはいないのである。それを、勝手に決め付けて、事もあろうに全国ニュースで触れ回るのは、公共放送のすることでは無いと思うのである。一度、こんな汚い言葉が出回って、視聴者の意識に残ると、消し難いのである。まして、世間の信用の高いNHKである。受信料を取り立てて、きたない言葉をまき散らすとは、情けない。職業倫理はないのだろうか。「リベンジ」暴言は、放送事故なみに謝罪なり、訂正告知すべきではないか。

 言い方がきついのは、まさかの場でまさかの暴言にであったからである。「制作・著作 NHK」とあるから、暴言で金を盗ったとなじられるのは、NHKである。

追記:8時50分からのBSニュースでは、池江選手自身が、「リベンジ」してやると暴言を吐いたという切り出しになっている。と言う事は、先に書いたのは、勘違いで、当人が不届きなのだろう。ここに訂正する。

 それにしても、かけがえのない公共放送が、当人の世間知らずの暴言を天下に曝して思い知らせるとは、どういうことなのだろう。別の意味で、公共放送の真価を問われると思うのである。舞台裏で、事情を説明してたしなめてやるのが、良心と言うものではないのだろうか。

 こんな陰湿ないじめは、とんでもないと思うのである。

再追記:午後11時50分のBSニュースを録画して聞き直したが、どうも、池江璃花子選手は、瀕死の病床から、「必ずリベンジする」と多分SNSで発言したのだろうが、まあ、誰も、これほどひどい言葉遣いのだらしなさをとがめ立てできなかったのも、人情からして無理は無いと思うが、身辺に誰も、敢えて苦言を呈する友達がいなかったのは、勿体ないことである。こんな時に、いやなことを言えるのは、本当の友達である。(A friend in need is a friend indeed.)
 おかげて、今回、NHKに晒し者にされているのである。本当に、勿体ないことである。多分、今回の報道についても、誰も言うべきことを言わないと思うのである。それにしても、NHKは、無神経である。

以上

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