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2020年10月 9日 (金)

新・私の本棚 邪馬台国の会第381回講演「邪馬台国」論争 再 3/10

 安本 美典            記2019/09/17 追記2020/10/06

私の見立て ★★★☆☆ 古典的卓見の現状確認

〇藤堂氏事例
 藤堂氏監修本は、太平御覧所引なる「魏志」御覧魏志を劈頭に後漢書、梁書、北史、隋書を並べて、これらがなべて「臺」を採用している以上、倭人伝は「壹」でなく「臺」と書いていたと判断するとしている、とのことです。

 藤堂氏は、漢字学における権威者と見かけますが、少なくとも、古代史分野における文献学の権威とは思えず、また、諸史書なべての記事の批判や御覧魏志の資料批判が、適切にされていないと見える点で大いに疑問です。

〇森氏事例
 森浩一氏は、古代史分野における考古学の権威であり、文献解釈は専門外なので、杉本、森博達両氏に全面的に委ねたと思われますが、同書の記事を見る限り、というか、掲表の末項、景初二年遣使論で見られるように、両氏の資料誤読を放置して「編著」としているので、氏の考古学分野での比類無き権威は、両氏に連座して大いに疑わしいものになったと見られます。

**森氏編著考察 **引用開始
 景初は魏の明帝の年号であるが、ここの二年とあるのは景初三年(239)の誤りと考えられる。日本書紀に引く「魏志」と「梁書」諸夷伝の倭の条では景初三年となっている。

 当時の政治情勢を見ると景初二年までの50年間、公孫氏が遼東で勢力をもち、一時は独立して燕王と称していたので、倭国の使者は魏に行けなかった。景初二年正月になって魏は公孫淵を攻撃し、八月に至ってようやく勝利を収め、遼東から楽浪・帯方に至る地域が魏の支配下に帰したのである。景初三年に遼東、楽浪などの五郡が平洲として本格的に魏の地となって、始めて倭国の卑弥呼が直接、魏に使者を派遣できるようになった。このような政治情勢からも、この景初二年が三年の誤りであることは自明のことである。
**引用終わり

 可能性のある漢数字二と三の誤認を「実態」と決めつけると、他の項目と比して字数が多いが故に、一段と記事著者の欠点が露呈していると見えます。

*書紀神功紀/梁書事例
 第一の論拠として引用された書紀神功紀の魏志引用は、記事自体に重大な錯誤があることでわかるように、当記事が、もともと、当時世にあった魏志記事原本の正確な引用であったことは疑わしいと思われます。

 冷静に見て、現存書紀原本の「三」が、長年の不安定、不規則、つまびらかでない私的な書写継承の間に伝世劣化、誤写、改竄された可能性は否定できないと思われます。誤写疑惑は当分野の定番なので書いてみただけです。

 また、後世正史の中で、よりによって、梁書記事が採用されているのも、うさんくさいと感じられるのです。「なべて」と、どっこいどっこいです。

*公孫氏遼東記事例
 個人的な時代考証として、公孫氏の五十年間、公孫氏が、魏朝に任じられた遼東郡太守の権威でもって適法に遮ったため倭使が魏に行けなかったのでしょう。別に、不法なことをしたいたわけではないのです。

                                未完

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