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2020年10月14日 (水)

倭人伝随想 倭人伝里程課題へのエレガントな解答の試み 改 4/4

          2019/06/23 加筆2019/06/26 2020/05/06, 2020/10/12

*陳寿の史書編纂思想
 陳寿ほどの史官が、時に不備と見える「異常」な書法の倭人伝を、整理せずに後世に残したのは、帝国編纂史書として意義を認めたからだと思います。

 三国志呉(国)志(呉書)には、東呉史官が、国史を書き残す気概で呉の語法で書き残した、三国志には、時にと言うか、しばしば、曹魏に対して不敬に亘る東呉独自記録が、ほぼ温存されています。

 一方、二千字と言えども、倭人伝は、帯方郡の書記官が、中華文明の一端に触れたばかりの東夷「倭人」の記録を書き残した文書原文が生きています。
 倭人伝に見えるそのような編纂姿勢から、陳寿の志を味わいたいものです。

〇倭にいたる道 最後の五百里再説
 煎じ詰めると、伊都国から倭まで二日程度なら、これは、全体里数から部分里数を引いた一千五百里より少なくて、せいぜい五百里です。

*概算と演出
 ここまで、単純計算で、郡倭万千里で、千里ほど計算が合いません。

 ここで、各里数の由来を推察すると、総里数を含め、ほぼ全て「実測」に基づく概数でなく、それぞれ、切りの良い、演出概数です。
 全体道里は、先賢指摘の「最果ての万二千里」(本来帝都起点)と決まっていて、決まり事への辻褄合わせから、倭地里程を演出したとも見えます。

 陳寿にわからないことは、現代凡人にはますますわからないのです。

〇水行陸行の道理
 行程中の「水行」、つまり、渡海里数は、誰が考えても、適確に実測しようがないので、所要日数基準「水行」三千里を十日とし、一日三百里の概算で、必要な所要日数が明確になるので、それで良しとしています。因みに、「陸行」も、九千里三十日なので、こちらも一日三百里に揃うのです。もっとも、倭人伝里は現代単位で何㍍との議論は、以上の展開でおわかりのように、証拠不十分であり、当記事の論述に不要なので、言及を避けました。
 当世風だと、PC画面上で、対象の道のりを取り出して、㌢㍍。㍉㍍単位で書き出して、精密さを競うのでしょうが、不確かなデータに精密な計算を適用して桁数を増やして、議論に試用するのは、とてつもなく、大きな間違いです。困ったことです。

*概数の厄介さ
 なお、一部論者、先賢の決め込みに拘わらず、概数計算は「帳尻」が合わないのが通例で、大抵は、実務担当者がギリギリの辻褄合わせに苦労するのです。
 ご不審であれば、小学算数の「概数」など勉強し直して、AIならぬ天然インテリジェンス(NI)を、歴史対応に再調整いただきたいものです。

〇過去記事改訂のお知らせ~「都」に(総じて)と(みやこ)の別義あり
 「南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月」の「都」を「総じて」と読む「古賀達也の洛中洛外日記」(第2150話 2020/05/11~)提言を支持した改訂です。

 漢書以来の夷蕃記事は、一切、蛮夷「王之所」を「都」(みやこ)と書かないものの小国「伊都」は高句麗「丸都」同様の許容でしょうか。

 古賀氏は、学術的な見地から、長年、当作業仮説を慎重かつ丁寧に検証している途上のようですが、当部分は、文章家陳寿の緻密、寸鉄を示すものと見て、勝手に端的に検証を図ったものです。「都」の両義、別義は衆知であり、有力な仮説であり、端的な否定は困難でしょう。

 唯一例外は西域西界の安息国(パルティア)です。漢書では、武帝使節初回訪問時、同国の当方国境の防備を一任されていた「小」安息の「長老」、恐らく、現地国王は、兵二万を常駐した東端防塞で、百人の精鋭を従えたと思われる気鋭の漢使と会見し、対匈奴戦派兵を求められても、東方の騎馬勢力に対して専守防衛の国是を説き、漢使は、東西数千里の「大」安息を、皮革に横書する「文化」を有し、金銀硬貨制度と宿駅完備の全土官道網を具備する中国対等の品格を有する国家と認識したので、名は体をあらわか「安息」と命名し、また、遥か西方、未見の帝都を「王都」と書いています。漢使は、全国王都から急使の大安息国王の国書を見て、当の「安息国大王」と会見しないまま、友好国としての国交を結んでいます。

 魏使が、女王に会見しなかったとすると、この漢書記事に前例を見ていたのかも知れません。いや、当方は、女王は、伊都国のご近所との説なので、女王が会見を回避したとすると、物理的な(フィジカル)問題ではなく心理的な(メンタル)問題のようですが、魏使は、寧遠のために事を荒立てず、会見に関する記事は何も書かれていないので、全ては不明です。

 陳寿は、倭人を大海沿い小安息/條支の東夷版鏡像と見立てたのでしょうか。
                                完

おまけ
*宴の終わり

 本来単純明快な議論が、曲折を繰り返して,堂々巡りになっているのは、実は、論争が論争でなく、持論の押しつけ合戦,力比べ、肺活量比べに終始しているからです。全国各地に「邪馬台国」候補地が散在しているのは、畿内派が、勝てないとわかっている史料論の明快で不可避な結論を拒否して、カタツムリの殻にこもり、結果として月日、経費、労力を消費してきたからです。

*ブラック新説の時代
 最近の新手は、倭人伝は、元々、某地点を明示していたが、帝室書庫内に厳重保管されていた同時代随一の時代原本に、記事改竄と原本差し替えが行われて、今日の解読不可能な記事となったという提言です。

 史料としての倭人伝の尊重か蔑視か理解困難ですが、目新しくて、明快な新説として俗耳に訴えるのかも知れません。

 当方は、密かに「ブラック新説」と区分して、できるだけ、深く関わり合いにならないようにしているのです。あいにく、俗耳は持ち合わせていないので、デタラメな新説に耳を貸さないのです。要は、俗説としてはびこっている誤字、誤写論と同じで、手前味噌の「誤解」を押しつけているだけなのです。

*概念図の確認
 と言うことで、概念図を描いたのです。随分大まかで、言葉足らずですが、古代人は、こうした手短な範囲の素描で筋の通った絵解きができる「問題」を書いたのです。もちろん、墨黒一色の線画で、もっと大まか、単純だったでしょうが、見方は同じです。

20201013korearjapan  

実際に、戦塵の舞い踊る遼東巡り経路や黄土の泥流が溢れる河水(黄河)河口に近い渤海湾の奥まで漕ぎ寄せる経路で洛陽に行くとすれば、実感として、遠近法を効かした図で見える数十倍の難路の遠路だったでしょう。もちろん、難波して海のモズク、ならぬもくずになったとしても、悲報が故郷に伝わることもないのです。

 帯方郡高官に伴われた倭の大夫たちは、遼東の激しい戦から遠くはなれ、渡船のように揺れたり響(どよ)めいたりしない平和で確固とした大地の街道を進み、毎晩、無料で、整った寝床と整った食事の宿を泊まり継ぐ公用旅であり、多数ある関所も公用であるから、治安に関わる尋問も、おびただしい徴税もなく通過し、無事洛陽往還を達成できたのでしょう。それが、官道の旅というものです。
 並行して文書使が往復しているので、行程で何かあれば、宿駅から伝書便を出して、洛陽の鴻廬と帯方郡治に報告するのです。あるいは、周辺の宿駅から、救援の手が届くとも言えます。官制で維持されている陸道官道の強みです。

                                 おまけ完

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