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2020年10月 9日 (金)

新・私の本棚 邪馬台国の会第381回講演「邪馬台国」論争 再 4/10

 安本 美典            記2019/09/17 追記2020/10/06 

私の見立て ★★★☆☆ 古典的卓見の現状確認

〇鴻廬の苦情
 蛮夷の対処は辺境太守の専権事項であり、鴻廬は、むしろ、一々蛮夷を帝都に寄越すなというものであったはずです。道中の対応はもとより、天子の面目にかけて厚遇し、随員に至るまで印綬を下賜し、時に、過分とされる下賜物を持たせる必要があるので辺境太守が選別すべきです。

〇従郡至倭論
 そして、魏の官軍による公孫氏攻滅は、同二年八月とは言え、遼東から地理的に遠隔の帯方郡は、それ以前、同年前半に、早々に魏の支配下に入っていたと見る解釈が、むしろ有力であり、倭使が、新任の帯方郡太守の召集に従い、急遽六月に帯方郡に参上し、引き続き、洛陽に赴いた可能性が高いと思われます。帯方郡から中原洛陽に至るには、目前の山東半島青州に渡海上陸後、河水南岸官道を西行するので遼東戦乱は無関係と思われます。

〇戦時の上洛経路
 郡が公孫氏遼東に赴くのは、諸国王に等しい権威を持つ太守の威光によるとしても、郡から洛陽へは遼東を介しない古街道が通じていたと見るのです。史学界大勢が、帯方郡から北上して遼東郡治に着き西南転する遠回りな経路に専ら信を置いているのは、素人として、大変不可解と感じるのです。

 以上のように、当時の政治情勢を合理的に解釈すれば、景初二年を否定する論拠は特に無いと思われます。少なくとも、古代学界で蔓延る景初献使年に関する諸々の非科学的な俗説は、雲散霧消するのではないかと思われます。

〇闇の中の自明論
 資料解釈が大きく分かれる事項で、性急に自説を仮定し、無造作に「自明」と書き立てるのは、学問の徒として疑問と思われます。「自明」は、よほどの場合に取っておく極上表現であり、決めゼリフの安売りは自身の大安売りです。不用意な断言で馬歯を千載に残さないようご自愛いただきたいのです。

 いや、ふと冷静に戻ると、同三年が正しいとしても、本題論議に直接関係はないのですが、一部の頑迷な同三年派は、ことさら雑駁な論拠を提示して誤写頻発の件数稼ぎとしているようなので、丁寧に反論するものです。

 しかし、当項目以外の誤字談義は、素人がこれまでに調べた限りでも根拠不明とされるべきです。各論は、追試されていないのでしょうか。
 安本氏ほどの高名、高潔な論客が、麗々しく引用するものとは思えないというのが正直な所感なのです。

〇追記:安本氏の引用に不審を感じ原著をよく読むと、当方の杉本憲司、森博達両氏への批判は一部当を得ていないので、追記の形で補正を図ります。
 両氏は、倭人伝解釈の基本を、中華書局標点本(1982年版)を底本とし、随時校異により訂正する立場に立ち、「對馬国」は前者の見地、邪馬臺国、一支国は後世史書依拠で、客観的物証はないが、一応筋を通しています。

 ただし、「東冶」校異が根拠のない推量であるように、校異の筋道は不安定で、「景初二年」校異は、合理性に欠け一段と不確かです。

                                未完

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