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2020年11月 2日 (月)

03. 從郡至倭 - 読み過ごされた水行 改訂第五版   1/3

        2014/04/03 追記2018/11/23、 2019/01/09、07/21 2020/05/13、11/02

 おことわり: またまた改訂しました。そして、更に追記しました。更に、3ページに分割しました。

 注記:
 後日考え直すと、当初述べた水行行程の見方は間違っていましたので、書き足します。

 従郡至倭行程一万二千里の内、半島内狗邪韓国まで七千里と明記されたのは、この間がほぼ全て陸上官道であり、海上や河川の航行のように、道里、日程が不確かな行程は含まれていないと判断されます。いや、実際には、その時、その場の都合で、水の上を行ったかも知れませんが、国の制度としてはと言う事です。

 九州島上陸後も、末羅国で「陸行」と明記されていることもあり、専ら陸路で王治に至ると判断されます。一説に言うように、伊都国から後、「水行」二十日とされる投馬国は、脇道として除き、水行十日+陸行一ヵ月の膨大な四十日行程は、伊都国ないしは投馬国から倭王治に至る日数で無く、全体道里一万二千里に相当する所要期間と見るのです。

 このように整理して解釈すると、全体の筋が通り、陸行は総計九千里、所要日数総計三十日(一月)で、一日あたり三百里と、明快になりま
す。


 一方、「従郡至倭」行程の「水行」は、狗邪韓国から末羅国までの渡海行程と見るべきです。そう読めば明解になるという事です。
 渡海行程は、一日刻みで三度の渡海と見て、前後予備日を入れて、計十日あれば踏破できるのです。
 各渡海を一律千里と書いたのは、所要一律三日に相応したもので、全体に予備日を入れて、切りの良い数字にしています。誠に整然としています。
 なべて水行は三千里、所要日数十日で、一日三百里と、明快になります。
 
 そのように明快に書いたのは、行程記事が、官用文書送達期限規定のために書かれていることに起因するのですが、それ以外の実務で、移動経路、手段等に異なる点があるかも知れません。
 
つまり、半島西岸、南岸の沿岸で、飛び石伝いのような短距離移動の連鎖で、結果として、物資が全経路を通して移動していた可能性までは、完全に否定できないという事です。事実、この地域に、さほど繁盛していないものの、交易が行われていた事は、むしろ当然でしょう。ただし、この地域から、日本海外各地の産物が出土していたからと言って、此の地域の、例えば、月一の「市」に、遠方から多数の船が乗り付けていたと言う「思い付き」は、成り立ちがたいと思います。今日言う「対馬海峡」を漕ぎ渡るのは、死力を尽くした漕行の可能性があり、多くの荷を載せて、長い航路を往き来するのは、無理だったと思うからです。
 海峡を越えた交易と言うものの、書き残されていない古代の長い年月、島から島へ、港から港を、小刻みに、日数をかけて繋ぐ「鎖」の連鎖が、両地区を繋いでいたと思うのです。
 いや、ここでは、時代相応と見た成り行きを連ねる見方で、明快な解を提示したのであり、絶対、他の意見を徹底排除するような排他的な意見ではないのです。

 水行を「海」の行程(sea voyage)とする読みは、後記のように、中島信文氏が、中国古典の語法(中原語法)として提唱し、当方も確認した解釈と一致しませんが、倭人伝は、中原語法と異なる地域語法で書かれているとおもうものです。それは、「循海岸水行」の五字で明記されていて、以下、この意味で書くという「地域水行」宣言です。
 この点、中島氏の論旨に反していますが、今回(2019年7月)、当方が到達した境地を打ち出すことにした次第です。

 教訓として、文献解釈の常道に従い、倭人伝の記事は、まずは、倭人伝の文脈で解釈すべきであり、それで明快に読み解ける場合は、倭人伝外の用例、用語は、あくまで参考に止めるべきだということです。

 この点、中島氏も、倭人伝読解は、陳寿の真意を探るものであると述べているので、軌を一にするものと信じます。

 追記:それ以後の理解を以下に述べます。

未完

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倭人伝新考察」カテゴリの記事

コメント


 真摯なご返事、ありがとうございます。
 当方は先史時代の古代日本の真実を知りたいという思いで研究をしているもので、「魏志倭人伝」の邪馬壹国への行程記述については、あくまでも当時の文人(史書家なども含めて)たちが書く、そして、読む古代中国漢文の基礎と基本、例えば、共通語や文章の制作方法から行程記述を正しく日本語訳しておきたいというだけです。 これが第一歩と考えて。

そして、 「魏志倭人伝」の邪馬壹国への行程記述についての貴方様と当方の違いというのは、
 あなた様の述べているのは多くの仮説であり、
当方の述べているのは仮説や世界観などではなくて、「水行」という文句は『史記』に始まり『漢書』、『宋書』、『唐書』などや『水経注』など全て「河川の行程、旅」であるという統計学からの事実を述べているだけです。そして、史書である「魏志倭人伝」の邪馬壹国への行程記述については、当時の水行という文句は「河川の行程、旅」というのは共通語として素直に読んでいるというだけです。

 そして、投稿したのは、貴方様の多くの仮説は尊重をいたします(だから読んではいます)が、古代中国漢字や漢文の基礎や基本から、そして、先の事実から逸脱しているのではないかと単に問題提起をしているだけです。感情論はほとんど述べていないと思っています。

 余談ですが、
 貴方様は陳寿をよく理解されているとは思いますが、陳寿を利用(例えば、陳寿は、このように考えているとか、陳寿の意図はこうだ)して、「魏志倭人伝」の邪馬壹国への行程記述についてだけはかなり自説をおぎなおうというのが気になります。それでは陳寿を真に大切にしているのではないかもしれないと思う次第です。
 

nnさん
 コメントありがとうございます。
 前回に続き、遺憾ながら、感情的な指摘に見えて、お腹立ちは甘受するとしても、大変残念に思います。
 最近、数年前の旧稿に屡々参照が入っているのをみて、慌てて、最新記事として更新しているだけですので、気長に見ていただけたら幸いです。
 貴信でおっしゃっていることは聞こえていますが、小生は、貴兄の弟子でもないし、古田氏の弟子でもないので、見解の相違とお答えしておきます。
 貴兄の「海」、「陸」の世界観は、豊富な見識に基づく強固な信念と思いますし、他人の世界観は、とやかく言うものではありませんが、小生も、倭人伝から広げて魏志、呉志の関係部分から、あちこち関連史料を読み込んでいるので、倭人伝は、陳寿が、帯方郡由来の原史料を、魏志に採り入れられるように苦吟を重ねた編纂の成果と見て、色々工夫して発言しているのです。
 決して、陳寿を「バカにし出し」ているものでもないし、むしろ、いろいろの混迷は晴れて、エレガントな解に進んでいるもの自負しています。こうやって、ブログに書き出している以上、当人なりの思索を念入りに積み上げたものであり自信はあります。道里一万二千里を四十日と見て一日三百里平均、普通里で五十里と示唆するというのは、史官のフィクションとして、洛陽読者万人が納得する筋の通し方と思うのです。
 郡から狗邪韓国は、漢制を継いだ魏制の官道であるから、洛陽士人の誰も水上を行くなどと思わないのであり、史官が「陸行」と明記したら、錯乱していると非難を浴びるだけです。古来、帝国に敷かれた道路網は、統一された車軌(荷車の軸幅)と駅逓制が確立されたものであり、全国一律の運用となっていたので、本来、道里を示すだけで、所要期間を得ることができたのですが、倭人伝の道里は、実際の行程が一切不明な時点で皇帝に提出された一万二千里の道里が一人歩きしたため、里数の勘定が合わなくなっていて、優先して参照される所要期間を明記するように倭人伝の書法を定めたとみて、初めて混迷が晴れたのです。(現在の所、魏晋朝短里どころか、地域里制もなかったと見ています。何しろ、史料に一切そのような制度は記載されていないので、随分、正当化するのに苦慮していたのです)
 また、渡海水行説は、史書に例のない表記を、冒頭宣言で地域独自、倭人伝限り、つまり、魏志末尾までの約二千字に限り通用させるものであり、この場所にこのように書くしかないものと思うのです。宣言から先は読み替えるという行き方は公明正大、単純明快です。現代文であれば、「定義:以下、特に明言しない限り、[1.「水行」とは、渡海を言う]、[2.里とは、郡から狗邪韓国を七千里とする「里」とする]」とでも書くのでしょうが。
 いや、小生の見方が、「正解」かどうかは別義ですが、以上の考察は、踏み絵になっている古田氏の「イメージ」に追従していないし、かといって、輻輳して排除するものではなく、また、貴兄のご高説を毀損する意図でもないのです。(この際「フィクション」作品は、お忘れください)

以上
 
 


どうも、古田氏の説、邪馬台国の「南水行十日、陸行一か月」は一万二千里を意味するに囚われて、、どんどん、混迷の度を増している感じですね。そして、陳寿という史書家を蔑ろにして、バカにしだしたのかと思いますね。

 ①、もしも、帯方郡から狗邪韓国の行程、七千里が陸行ならば、陳寿は「循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國」などと記述せず簡易に、「陸行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國」と記述するでしょう。 百里と五百里でも、陳寿は陸行と記述しており、もしも七千里もの旅であれば、必ず陸行と書きますよ。
 ですから、
 *この行程が陸行であるのは自明なので陳寿は書いていませんなどというのは完全に欺瞞ですね、言い逃れの。書かないどというのは論理性もない言い逃れですね。

  、補足ですが、以前にも書いたのですが、古代中国の「陸」という文字は、現代のような用法とは少し違い、海という文字に包含されており、この点が理解されていないようですね。『山海経』で理解されるようにr中国本土とその周辺の地は山と海という文字で表現されていることが理解されていない、山と陸で構成されているのではないのですよ。『山陸経』でないことを少し、お考えになったらよいのではないでしょうか。古代中国漢字では、「陸」という文字の本義は何か。

②、それから、投馬国記述などの旅の二十日とか一か月というのは期間であり距離などには換算はできません。技術系なら単位が違うというのは理解されるはずですね。

③、帯方郡から狗邪韓国の行程、七千里が陸行ならば、投馬国の「南水行二十日」も陸行に
しないと一貫性が無いですね。すると、投馬国は朝鮮半島にあることになるが。



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