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2020年11月

2020年11月22日 (日)

今日の躓き石 口に出せない「シッター」 情けない「うんち屋」ネーミング

                         2020/11/22

 今回の題材は、どこの誰がいつという話では。世間全般の「情けない」風潮です。

 つまり、「シッター」と言う、とても人前では口に出せない言葉です。つまり、このカタカナを日本人が発音すると、それは、「Shitter」、つまり、排便する人「うんち屋」であり、大変な醜態です。
 しかし、公共放送や全国紙はじめ、最高の知性も教養もあり、国際感覚豊かな人たちが、平然と口にしているのです。当方は、地位も権威も無い、一介の私人で、何を言っても聞いてもらえないのでしょうが、ハーラン・エリソン(Harlan Ellison 米国の小説家 「世界の中心で愛を叫」んだ小説を書いた人)が書いたように、口が無くても大声で叫ばなければならないのです。

 いや、子供のお守り役は、日本でも古代以来ありふれていたのですが、なぜか、その職業を「ベビーシッター」と呼んだところから、この職業は、あぶない橋を渡ったのです。つまり、聞きようによっては、子供にうんちをさせる役と取られかねないのですが、おぞましい者達が、肝心の「ベビー」をゴミ箱に遺棄して「シッター」と呼んだので、今日の恥ずかしい事態になったのです。

 欧米語でも、子守りには、ナニーという奥ゆかしい言葉があって、うるさく言うと意味に違いはあっても、「うんち屋」に聞き間違えられる恐れがないので、うまく使いこなせば、今日のような恥ずかしい事態にはならなかったでしょう。知る限り、欧州系の教養の人は、米国流の即物的「ベビーシッター」とは言いたがらないように見受けます。

 それにしても、国内事情を眺めても、ここへ来るまで「シッター」にならないで済む賢明な策があったと思うのです。

 私見では、これ以上深入りしないうちに、「うんち屋」「シッター」は、厄介払いしたいものです。いや、当方には、何の権威も権限もないのですが、バカを承知で声を上げるのです。

以上

今日の躓き石 巨人軍の汚名 「リベンジ」の返り討ち 毎日新聞の報道姿勢を問う

                   2020/11/22

 本稿の批判の直接の的は、毎日新聞大阪朝刊第13版スポーツ面の日本シリーズ戦評の署名記事ですが、前日の民放テレビの中継画面でも、右上に長々と座っていたので、これは、ジャイアンツがプロ野球球団として、広報しているものかと見えるので、タイトルに曝したものです。もし、球団の本意に反して、両媒体が報道しているのであれば、厳重に抗議して撤回させるべきものでしょう。

 まずは、「リベンジ」なるカタカナ語に関して、長年全国民の尊敬を集めてきた全国紙の取扱が、余りに不注意だという事です。

 プロ野球界では、松坂大輔選手の高言以来、「再挑戦」の軽い意味が広がり、近年では、高校野球の指導者まで気軽に口にしているようですが、カタカナ語の原語に戻ると、大変不穏当な言葉であり、逆翻訳して英語で喋ると、大変な顰蹙を巻き起こすものです。例えば、菅野投手がメジャー入りして、インタビューで口にすれば、非難囂々で、社会的制裁まで行かなくても、長く、身の置き場がなくなることも考えられます。

 民放テレビも、毎日新聞も、そろって誤解しているのは、プロ野球選手が口にする「リベンジ」は、いわば「松坂語」で、前回やられたから再挑戦する主旨であり、決して、「やられたからやり返す、恨みで血祭りに上げる」という古くさい意味ではないのです。
 まして、スポーツの試合で負けたからと言って、個人的に恨みに思って、仇討ちに行くものではないです。そんな独りよがりが称えられるはずはないのです。

 つまり、巨人軍のチームとして、あるいは、特定の選手として、前回惨敗した相手に再挑戦するのが、即ち「リベンジ」であり、既に達成されているのです。後は、勝利を目指して全力で闘うだけでいいのです。

 ところが、毎日新聞は、選手の本意に気づかず、いわば、軽薄な思い込みで、とんでもない勘違いの「リベンジ」を書き立てています。これでは、読者から、毎日新聞は、正しい言葉を知らないと侮られるだけです。
 加えて、でかでかと「返り討ち」などと暴言を見出しにしています。この言葉は、江戸時代の武家のならいで、仇討ち免許を持って、私闘で無く公認の堂々たる戦いを挑戦してきた相手を、これまた、堂々と向かい撃って斬り殺すことを言うのであり、それで、罪科を免ぜられ、無罪放免になるものです。
 何とも古くさい社会制度で、明治維新の後、しばらくして、近代法制の理念に反するものとして、廃止されたものですから、百五十年も前に葬り去られたのですが、毎日新聞記者は、時代錯誤にお構いなしに言い立てるのです。困ったものです。なぜ、編集段階で誰も止めなかったのでしょうか。スポーツ面は、この程度の放言でいいというなら、読者は、随分なめられたものです。

 それにしても、毎日新聞記者は、何を自身の信条にして生きているのでしょうか。選手の汚れた言葉遣いを正すわけでも無く、プロ野球界に残る血なまぐさい言い回しを正すわけでも無く、ひたすら、負の遺産を讃えているのはまことに残念です。

 当記事をしめないといけないのですが、毎日新聞社には、全国紙としての矜持は無いのでしょうか。民放テレビ中継と同水準の品位でいいのでしょうか。

以上

 

2020年11月18日 (水)

新・私の本棚 季刊「邪馬台国」第12号 「邪馬台国の里程」 白崎 昭一郎 改 5/5

                  2018/09/18 追記2020/11/18 2022/01/27

*戸数概算のカラクリ
 戸数が正確に勘定できるのは、戸籍台帳が整っている場合だけであり、当時の倭の各国に戸籍台帳が整っていたはずはないので、言うならば、帯方郡が、無理矢理全国戸数「七万戸」を押しつけたのに基づき、各国に戸数を割り当てたものでしょう。
 何しろ、服属の証しとして、全国戸数を申告する必要があり、不明では済まなかったので、「可七萬餘戶」と申告したのです。

 いや、西域はじめ四囲の夷蛮では、服属する際に、キッチリした戸数を提出できなかったのは、珍しいことではないのです。(主要国の戸数だけを提出して、全国戸数を提出しなかった例は見当たらないようですが)もちろん、西の大国安息国のように、交流しても服属しない国もあったのですが。

 但し、景初遣使の際に帳尻の合う国別明細の提出を迫られた倭人側からすると、狗邪韓国から伊都国に到る幹線行程の諸国や近隣の諸国は、いつ、実情調査させられるかわからないので、ある程度見通しの立つ数字しか書けず、最後、遠隔地で調査困難な投馬国で帳尻を合わせたと見えるのです。つまり、「投馬国は、五万戸と思います」の意図で「可五萬餘戶」と書いたと思います。

 さすがに、全国戸数七万戸の帳尻合わせで、戸数がわかっているのは、奴国二万戸以外は千戸台では、五万戸をどこかに持って行かざるを得ないのですが、どうも、結構「でかい」らしい投馬国に押っつけるしかなかったのではないかという憶測です。と言って、別解として、世間知らずの投馬国が五万戸と申告したのを、課税などの跳ね返りを知っていたはずの伊都国などが止めもせずに郡への報告としたとは思えないのです。

 戸数は、中華文明の制度としては、徴税や徴兵の基礎となる、大変大事な数字ですが、帯方郡としても、倭人の中心地である伊都国から片道二十日かかる遠隔地域からは、徴税も徴兵もできないので、帳尻をここに持ってきても実害はないと倭人側は見たのでしょう。

 俗説では、各国の口数を列記した末尾に女王の直轄地の戸数が「可七萬餘戶」と書かれていると解していますが、女王の統制が行き届いている直轄地の戸数が、漠然たる憶測、つまり、戸籍台帳が整備されていないので不明、と言う説明は、帯方郡から見て無法であり、何としても、明確な戸数を書かせるものではないでしょうか。つまり、監督不行き届きになります。
 また、俗説に従うと、服属に際して全国戸数が申告されていなかったことになり、まことに、不都合です。

 倭人伝は、そのような女王の無知と帯方郡の監督不行き届きを、皇帝に報告したことの記録でしょうか。皇帝は、書式不備の申告書類を嘉納したのでしょうか。「帝詔」の上機嫌な口調からして、とても、不届きな所論を読まされたようには思えないのです。

 先に挙げた、全国総戸数「可七萬餘戶」とする説明は、頑固な俗説に断固異議を唱えるものです。

*飛び石数字の手口
 と言うわけで、戸籍台帳未整備で、「不確かさ保証付き」の倭人伝戸数では、有効数字が一桁取れず、言うならば「飛び石」の有効数字0.5桁の概数が見えるようです。松本清張氏など先賢が慨嘆しているように、倭人伝の数字(里数、戸数)は、一から九まで勢揃いでなく、奇数ばかりで二以外の偶数は少ないのです。
 つまり、一番上の桁が一、二(ないし三)、五、七と跳んでいるのです。

 極端に不確かな数字の扱いとして、ひょっとすると、二(ないし三)を「数」と書いたかも知れないのです。「一,数、五,(八)」で、八は、いきなり上の十です。例えば、慣用句で、「丈夫」は身長一丈、十尺でなく、実は、八尺余りなのです。古代中国人の数値表記に対する潔癖なまでの「きりの良さ」を察するべきではないでしょうか。

 そうは言うものの、倭人伝周辺では、こうした推定を検証しようにも、事例が少ないので、こうした概数の詳細は不明です。

*概数表示の達人
 このような概数計算は、よほど数字に強い人の偉業と言えます。むしろ、こうした概数計算では、平均的な現代人より、随分上のようです。

*概算と精算
 ちなみに、漢書・後漢書では、楽浪、帯方両郡の戸数、口数は、両郡戸籍台帳を元に一戸、一口単位で集計したと見えますが、晋書では、概数となっています(三国志は、「志」を欠くので不明)。楽浪、帯方両郡末期の混乱で、戸籍台帳集計ができなかった様子が窺えます。少なくとも、戸数、口数では、わからない数字を、筆を嘗めて格好だけ装うことはなかったのです。

*人海戦術の全桁計算
 と言う事で、普段は、簡略で即決できる算木計算を行っていても、経理計算を含め、一戸、一銭単位の精密計算が必要なときは、大変な手間を掛ける全桁計算を行ったのです。

 全桁計算は、桁数の数だけ算木を並べるので、少なくとも桁数倍の手間がかかるのであり、また、全桁計算ができる計算技術者は、大変限られているので、全国戸数集計は、それこそ、滅多にできるものではなかったのです。

*零も小数もなかった
 念のため付記すると、当時、零の概念は無かったのですが、多桁計算で、数字のない桁には「零」ならぬ「空き」記号の算木があったのです。

 また、小数はないものの、ある程度の分数計算は、約分、通分などの手を掛けて、使いこなしていたのですが、現代の小学生が難なくこなすはずの筆算計算からは遠かったのです。(九章算術に、問題-解答-解説の形で説明されています。つまり、「問題」は、学んできたものには「解答」が出せるものであり、照合するための正当である「解答」が用意されていたのです)
 問題と見ると、反射的に、難点、欠点と解している早合点の方が多いのですが、日本語が正確に理解できないようでは、倭人伝の古文中国語が理解できないのは、むしろ当然でしょう。
                               完

新・私の本棚 季刊「邪馬台国」第12号 「邪馬台国の里程」 白崎 昭一郎 改 4/5

                  2018/09/18 追記2020/11/18 2022/01/27
*多桁計算のとがめ
 白崎氏は、概数の有効数字について明確に理解しているのですが、奥野正男氏(「邪馬台国はここだ」 毎日新聞社 昭和五十六年)の表引用とは言え、里数表に算用数字を多桁表示したのは、ご自身の所説を外れ、不用意です。

 いや、奥野氏の作表に示された考証手法は、倭人伝道里行程談義でむしろ大勢を占めているので、白崎氏を咎める主旨は、後世の初心者に、間違ったお手本を示したことが原因なので、先覚者に課せられる重荷と考えて頂きたいだけです。

 つまり、「七千餘里」と、歴史的に正当な表示であれば、一見して千里単位概数と見て取れますが、算用数字の7000里は、一里単位まで実数で、0.1の桁で丸めたとの印象を与えます。つまり、当時の「実測値」有効数字が五桁と誤解させるのです。「業界」大勢は、一里単位整数どころか、小数点付きでいて、誤解山積となっています。科学的に正しい書き方では、7×10の3乗(10^3)とするものですが、一般読者には何のことかわからないでしょう。そして、7.0と書かずに7と書いても、意義がわからないでしょう。

 従って、歴史的に正しい、唯一正確な漢数字表現を遵守すべきと考える次第です。

 ついでに言うと、古代には、縦書きしかなかったので、算用数字の横書きは、重ね重ね場違いで無様なのです。

 当時常用していたと思われる算木による計算は、道里計算では、千里桁の数字を使うので、全行程は、桁上がりして十二「千里」、郡から末羅まで十「千里」、残り二「千里」と明確です。何しろ、三世紀当時は、算盤や筆算の多桁計算は行われてなかったのです。全桁計算は、厖大な手数がかかるので、経理計算や全国戸数集計のような、国家事業の特に行っただけなのです。

*古田氏の誤謬
 古田武彦氏は、里数計算に於いて、千里単位でなく百里単位の計算を行い、「部分里数の合計が全一万二千里に合う」よう工夫を凝らしましたが、倭人伝編者が想定していなかった百里単位の数字を持ち込むのは、深意を求めるという本義に反するのです。

 また、氏の堅持する、部分の合計は全体に等しくなければならない、とする提言は、概数計算では、部分の合計が全体と合わないのが普通であるとの原則を外れています。

 氏の創唱した里程計算には同意できないと明言させていただくものです。

*確定値の概数化
 白崎氏は、郡から狗邪までの七千余里を推定値と見ていますが、まことに不用意です。

 楽浪郡時代を含めると、狗邪韓国は、長年に亘り漢・魏朝の支配下にあった事から、両地点間は官道であり、正確に測量されていたものと推定できます。ただし、倭人伝記事で、この間だけ、精度の高い実測値を表示しても、他の概数値と釣り合わず、却って読者を混乱させるので、あえて、七千余里と概数にしたと見ます。かなり(あいまいな)数字に強い人の書き方です。

 ここで批判しているのは、測定可能であり、測定されていた里数を、編者の怠慢で「推定」にとどめたという批判への異論です。よろしく、趣旨をご理解ください。

*有効数字再考
 ここで、白崎氏は、『里数の概数表現として「許里」が倭人伝において使用されていない』と断じています。僅か二千字ほどの範囲のことですから、その指摘自体に間違いはないのですが、やや、早計に過ぎるようです。

 戸数系の数字では、一大国の戸数表示で「有三千許家」とあり、「許」なる概数表現を倭人伝編者は知っていたことを物語っています。
 更に、投馬国戸数に見られるように「可」付きの概数もあります。

 案ずるに、それぞれ、定義に合わない数字、ないしは、一段と漠然とした数字と見るものです。

 つまり、これらの数字は、単なる山勘であると表明したものです。

 倭人伝編者は、同列扱いされがちな概数であっても、ある程度根拠を想定できるものと丸ごと憶測の数字とは、区別を明記していたのです。現代読者は、そのように読み分けるものではないでしょうか。

*桁上がりの扱い
 白崎氏は、倭人伝に書かれた数字の有効数字が、一桁、ないしは、二桁のものと見なしていますが、随分過大評価しているようです。桁上がりの一万二千里を除けば、二桁有効数字は見当たらないと見えます。最大一桁と見るものと考えます。
 桁上がりとは、区間里数が、七「千」,一「千」,一「千」,一「千」と足していって、総計は、一万二「千」、つまり、十二「千」里となるというものですが、これは、有効数字が増えたものではないと見るものです。
 算木計算でも、上の桁の算木を用意するのではなく、「一」の算木を脇に置いて桁上がりを示したと見ます。あくまで、一桁計算なのです。
 何にしろ、有効数字が一桁の数字を足した結果が有効数字二桁というのは、まことに、不合理ですから、そのように対処したと見るのです。

 以上、特に高度な数学理論でなく、実際に概数と日々直面する工学分野では、基礎教養なのです。

                              未完

新・私の本棚 季刊「邪馬台国」第12号 「邪馬台国の里程」 白崎 昭一郎 改 3/5

                  2018/09/18 追記2020/11/18 2022/01/27

*余里の使命
 素人考えを率直に言わして頂くと、倭人伝道里の主行程で見られる千「余」里は、千里に届かない端数を「丸めた」中心値を示したものであり、プラスもマイナスもあると理解すれば、加算を重ねても端数の累積を免れます。また、千里に満たない端数里数は、概数加算で無視できるのです。
 もちろん、末羅国以降の百里単位の里程は、この原則に合わないようなので、別の背景で書き込まれたと見るものです。
 くれぐれも、文献解釈では、文脈を冷静に観察しなければなりません、

*新説の無礼ご免
 白崎氏は、世上に溢れる新説の大半が「山積する先賢の論考を無視する新説」であり「無礼」と断じ、およそ新説の提示に載しては、先賢所説を論破、克服した上で行うべきだとしています。これは、まことにもっともですが、現実には、倭人伝行程道里論に限っても、明確な検証が重ねられているわけではなく、世上見られる論考が、そうした正統的な論議の過程なのか、単なる思い付きなのか、素人目には、確認しがたいのです。つまり、先行論文の指摘と克服は、実行不可能な難業です。

 そのため、ここに述べた所説は、季刊「邪馬台国誌」という学術的な基盤に掲載された論考を批判した上に書かれたものであり、示した解釈は、力の及ぶ限り原典に密着した文献解釈から得たものですが、先賢諸氏は、原典解釈の段階で早々に異なった道を選択していることを指摘しています。
 当方には、遙か別の道を行く論考を論破するすべがなく失礼するのです。

*郡志論 方針
 ということで、倭人伝道里行程記事の使命は、従来不明の「倭」(倭人)の所在、つまり、国王治の位置を記録し、最寄りの帯方郡を起点とした方位、所要日数、道里、城数、並びに戸数、口数を記した報告書「帯方郡志」の作成であり、「倭」の来歴、国王の実名と出自を述べて正史「志」篇と夷蕃伝としての「倭人伝」の要件を整えたと考えるものです。

・里数
 国王治までの「萬二千餘里」は、景初二年六月の倭使帯方郡参上以前に、皇帝への報告に、早々と明記されていたものと思われます。

・日数
 海上移動及び内部道里の所要日数は、魏の国内基準では明確ではないので、「水行」と「陸行」に大別し。最後に「都水行十日陸行一月」と総括されていて、つまり、「都」(総じて)40日と見えます。
 この表記は、余り見かけないでしょうが、倭人伝を正直に読み進めると、こうした世界が見えてくるのです。
 ここで、「水行」日数は、海上移動の道里が不確定のため、三度の渡海で十日あれは十分としたものと見えます。

 中国国内では、街道整備が、全国でほぼ完備しているので、「道里」、つまり、道の里数を言えば、簡単な計算で所要日数が出て来るのですが、街道未整備の上に、一回ごとに一日がかりの長丁場の渡船が三度入っていると、道里の意味はあまりなくて、所要日数が肝心、というか、必須なのです。郡から何日で倭人の王城に達するかの規定は、皇帝の威令が、最短期間で到達し、応答されることを保証するものであり、国政の基幹です。

・城数

 城数は、構成諸国王治三十ヵ所と判断できます。

・戸数/口数

 戸数は、総戸数明記と見ますが、口数は、調べが付かなかったのでしょう。というものの、戸数は、現代風に言うと「世帯」を論じるものであり、つまり、「戸籍」の整備が前提であり、また、各戸に、所定の耕作地が供されていて、収穫物の一部を税として上納する制度ですから、そのような土地制度が異なっていると、戸数の意義は怪しいのです。つまり、帯方郡は、口数の意義が内のは承知の上で計上しているのです。

 世上誤解がありますが、「倭人」が魏皇帝に忠誠を誓う以上、傘下諸国の合計戸数が、明解に示されるべきです。明解というのは、倭人伝を読みながら、戸数を書き留めて、加算して得るもので無く、明記されているべきだという事です。因みに、倭人伝の戸数は、100戸台で始まっているので、読者は、対海国に始まる諸国戸数をすべて書き留めなければならないのですが、最後に、二万戸、五万戸と桁違いの戸数が提示され、千戸台の戸数は無意味と知れるので、まことに不意打ちで、腹立たしいものになったはずです。
 その意味でも、読者の怒りを買わないように、総戸数七万戸は明記しておかねばならないのです。

 このように、重要情報と言っても、それぞれ優先度があり、口数のように、遂に報告できなかったものもあるのです。
 因みに、帯方郡の戸数、口数は、楽浪郡と共に、後漢書、晋書に報告されていて、正式の戸数集計がされたときは、一戸、一人単位の数字が計上されているのです。数字に弱い官人のできることではないのです。

 以上、史料に根拠のない思いつきと批判されないように倭人伝の「方針」を論じたものです。

                               未完

新・私の本棚 季刊「邪馬台国」第12号 「邪馬台国の里程」 白崎 昭一郎 改 2/5

                  2018/09/18 追記2020/11/18
*余里論
 白崎氏は、三国志の「余」用例を総括した結果、「余」は端数切り捨てという見方です。どの程度までかについて、高木彬光氏は、15㌫程度と見たのに対して古田武彦氏は40㌫までとした、と先例を述べたうえで、それらは、史料に根拠を持たない(現代人の憶測)と否定しました。誠に妥当な意見ですが、どこへ話を持っていこうとしているのかすぐには見えてきません。
 白崎氏は、その上で、「余」で切り捨てた端数は、10ー70, 80㌫の範囲の数値であり得ると提唱しましたが、篠原氏は、基本的に、次の数値に繰り上がる直前までの幅に入る概数と捉えるようです。白崎氏は、倭人伝執筆時には、確たる数値範囲があったはずだとしています。まことに、趣旨のわかりにくい議論なので、もう少しお付き合いするしかないようです。

*新余里論
 以上の議論は、全て、「余」が端数切り捨てとする固定観念(思い込み)が災いして、解決から遠ざかっていると見ます。

 当方の意見は、次の通りです。
 倭人伝に多数の「余」が登場しますが、切り上げ表現である「弱」や「垂」(なんなんとする)は見られません。しかし、全数値が、基準値を超えた切り捨て対象の端数を持っていたとするのは、史料数値表現として不合理です。

 解決策としては、『倭人伝における「余」は中心値であり、後世で言う四捨五入の丸めを行った数値である』との割り切りです。
 これが、魏志全体、呉志、蜀志まで、果ては、中国全史書に敷衍できるかどうかは、当方の埒外であるのでご勘弁いただきたい。

*余里積算の弊害
 後段で、白崎氏は、里数表記を多桁表示の算用数字として表示した「表」について、「余」にはゼロもマイナスもないと断じ、「余」が積算されて繰り上がり上の桁に影響を及ぼす可能性を指摘しています。「余」が、桁下の端数を切り捨てると決め付ければ、そう判断して不思議はありません。
 以上のように、「余」を端数切り捨てと「仮定」して始まった論考ですが、次第に不合理が集積して、無視しがたい状態になっていると見えるのですが、「仮定」を論議することがなかったのは、後世に、悪いお手本を残したものであり、白崎氏ほどの先賢にしては、勿体ないと考えます。

*数字に弱い史官
 氏は、論考の蹉跌に気づいたものの、その原因を、そのような「不安定」な概数表記をした陳寿に対して「余り数字に強い人でなかった」と押しつけて、一気に断罪していますが、陳寿は、別に単独で編纂していたのではないから、編集者の集団には数字に強いものも多数いたろうし、当然、数字に関して厳重な検算は怠らなかったと見るべきです。

 また、当時の官人の基礎教養として、読み書きに続いて、「九章算術」のような幾何(数学全般のこと)学習があったことは明らかであり、当時に於いて、白崎氏が直ちに不審がるような愚行はなかったと見るものです。

 白崎氏ほどの見識の持ち主が、古代人に安易に付け回しするのは残念です。つまり、自身不用意に設定した、「余」は切り捨てという仮説の再検討に至らなかったのが、いかにも残念です。まずは、当時最高の人材が、渾身の著作で示した見識を疑うので無く、肘掛け椅子に納まった書斎考古学者たるご自身の見識を疑うべきです。

 くだけて言うと、西晋史官で随一の見識を持っていた、つまり、時世界一の陳寿と知恵比べするとは、いい度胸をしていると思うのです。同時代の当事者の見識を、軽々しく見くびるものではないと思うのです。

 まず、先人の筆運びを弾劾する前に、ご自身の解釈が倭人伝に適したものではないのではないかとの自問が必要と考える次第です。

 このような指摘は、言い方を変えると、古田氏が提示した「倭人伝解釈にあたっては、編者の見識を徹底的に信じることを根幹とする」との提言と同じ事を言っているのであり、古人曰く、「七度探して人を疑え」の趣旨にも通じるものです。

*余里の行き着く先
 先に述べた事に戻りますが、「余」が全てプラスであると想定するのは、古代史書の文献解釈の常道となっているとしても、倭人伝に適用すれば、二千字の範囲内で、たちどころに不都合を露呈するのだから、編纂時点で是正されていたはずであり、言うならば、現地確認を忘れた錯誤と見えます。

                               未完

新・私の本棚 季刊「邪馬台国」第12号 「邪馬台国の里程」 白崎 昭一郎 改 1/5

                  2018/09/18 追記2020/11/18 2022/01/27
 私の見立て ★★★★☆ 理知的な解釈で、範とすべきもの

*不出来な書き出し
 当記事は、堅実な検証を重ねた論考ですが、冒頭の惹き句の部分で、大きく躓いて、まことにもったいないことです。

 『「魏志倭人伝」の里程記事と日程記事は、実距離に比して大きすぎる』という文は、論理的に混乱しています。主語は「記事」ですが、「記事が大きい」では、ちゃんとした文になっていないのです。「実距離に比して」とおっしゃるのですが、当時、倭人伝道里行程記事に書かれた区間道里を、権限・技術のあるものが測量し記帳したとの根拠がなく、従って、実距離の知りようがないのです。

 なにか錯誤しているようにみえます。まさか、現代人なみに、地形「地図」を持っていたと言う事でもないでしょうが。

 このように要約したのが白崎氏ご本人であれば、大いに信用を失墜しますが、続いて「該博な知識」と言うところから、まさかご自身の発言とも思えず、編集担当者の脱線と思えます。

 いずれにしても、大歌手がいきなり音を外したような不吉な歌い出しです。もったいない話です。

 それはさておき、同誌の当記事は理数系素養を備えた理知的な文献であり、今日の古代史界にあまり見かけないので三十五年遡って論ずるのです。要するに、後進が、当論文を、引用克服していないので、博物館に収まることができないのです。

*長大、過大の怪
 本文冒頭では、『実距離に比して長大な里数と過大な日数』と、表現が是正されていますが、倭人伝で「長大」とは、物理的に長い、大きいとの現代的な意味でなく、女王の年齢の形容で使われているので、これは、学術的には不注意表現です。
 しかも、「長大」の解釈は、「老齢」の意味と決め付ける俗説が支配的で、「成人する」という妥当な意味が損なわれていて、引き合いに出すのは、重ねて不用意、不適当です。
 また、「過大」な日数というものの、所要「日数」と「実距離」がどう対比されるのか、不明確で不用意です。

 かくのごとく、論考冒頭の不用意な書き出しは、読者を見くびったものと解されかねず、読者に不適切な先入観を与えかねないのです。くれぐれも、ご自愛頂きたいものです。

*本題 里数論三択
 さて、本論考は、倭人伝里は一里九十㍍程度との認識に立ち、それは、
㈠魏朝当時の全国制度なのか、
㈡帯方郡管内の地方制度なのか、あるいは、
㈢倭人伝記事の里数が一律に定数倍されたのか、
 との三説を課題として、史書を元に論じているものです。
 この論議自体、今日に至るまで多くの論議と考察が重ねられているのは、衆知ですが、ここでは取り上げず、里数を含む倭人伝の概数表記についての卓見を取り上げるものです。

*余里論
 ここで、白崎氏は、当時雑誌連載中の篠原俊次氏の「魏志倭人伝の里程単位」(「計量史研究」1-2, 2-1, 3-1 昭和54ー56年)をふんだんに引用して論考を加えていますが、当方の課題ではないので割愛します。

 以下、倭人伝で多用される概数表現「餘」の「余里論」を考察します。

                               未完

2020年11月12日 (木)

新・私の本棚 歴史読本臨時増刊 「渡来人は何をもたらしたか」 2/2

 石井 謙治 古代の船と航海の歴史 新人物往来社 1994年9月刊

私の見立て ★★★★☆ 当記事に限定 瑕瑾ある卓見 2020/11/12

*遣唐使新羅道談義
 新羅道は、半島東南部の王治慶州(キョンジユ)から漢江河口部通称唐津(タンジン)海港を経た山東半島渡航の途次、慶州~唐津間を要所の驛亭を経る陸道としたのに拘わらず、氏は、西岸沖合航行と決めてかかっています。

 半島史素人にも、第三次遣唐使時点、西海岸は概して百済支配下で、漢江河口部付近には新羅が海港を設けていたと窺えます。つまり、西海岸沖合航行で百済領に寄港する行程なら「新羅道」と呼ばれることはないのです。

 因みに、半島西海岸から「大陸」に渡るには、海上行程の短い漢江河口部が唯一の適地であり、それ以外の土地からの渡海は、行程が長期化するため、不可能だったのです。あるいは、山東半島側には、新羅公館が設けられていて、百済船の入港を武力排除していた可能性もあるのです。いずれにしろ、当時、同航路は、新羅の独占、排他状態であって、新羅は、頑強だったのです。

*新羅の国威の根源
 新羅は、古来、南下する高句麗とこれを排除する百済との武力の狭間を、多大な犠牲を払ってこじ開けて自国領を確保し、中国に認知されるに至ったので、独占した海港の権益を損なう試みには断固実力行使したはずです。

 と言う事で、丁寧に時代考証すると、氏の唱える北路観は間違っています。氏は、慶州唐津間行程が陸上街道では、唐津から山東半島渡海船は、新羅船であり、和船の出る幕が無いので、意識外にしたようですが、先入観に囚われた論考は勿体ないものです。南方からの和船参入はあり得ないのです。

*沖合航行談義
 因みに、氏の「北路」は、特に難路ではないので、航路に熟知した現地「パイロット」(操縦士でなく水先案内)を想定していますが、当然、航路全般に通暁した案内人はいないので、寄港地で後続案内人と交代したはずです。これは、港港と「条件交渉」すればいいので、地元は、入港料や水、食糧の補給代に多額の関税もあり、商売として成立すれば維持できたはずです。

 結局、出発地政権と新羅、百済両国の関係を、「日鮮関係」と時代錯誤の概念で括るのは随分粗雑です。主として、百済と新羅の怨恨でしょう。

○百済新羅抗争
 古来、漢江河口の百済の王治漢城ですが、高句麗の南下攻勢で漢城陥落、王族全滅で要地を奪われ、百済は、旧都回復目指し角逐していたところ、新羅が小白山地越えで貿易最適地を奪ったので、百済は再度の失地回復を国是とし、南部でも新羅との東西紛争で、和解はあり得なかったのです。

*「北路」航海記欠落
 氏は、遣唐使などに「北路」航海記がないと歎きますが、新羅道陸行は、新羅使随行に臣従の体で、とても、実態を書き残せなかったのです。

 氏は、天平八年(736)の遣新羅使の半島東海岸への航海記を提示していますが、外洋航海の常識と見受けます。恐らく、筆者、読者ともども、内陸住民で海を知らなかったため、ことさら感動、特記したのでしょう。

○まとめ~半島内陸行の裏付け
 と言う事で、新羅慶州から漢江沿岸部の海港唐津への陸道は、倭人伝時代以来、確立された公道で迂遠で危険な沖合航行はなかったのです。
 帯方郡から狗邪韓国まで「陸行」解釈の当然とは言え、強力な支援です。

 氏にしたら、新羅道陸行説は天敵なでしょうのが、結果として、倭人伝行程道里解釈に、長く暗雲を投げたので、まことに罪深いのです。
                                以上

新・私の本棚 歴史読本臨時増刊 「渡来人は何をもたらしたか」 1/2

 石井 謙治 古代の船と航海の歴史 新人物往来社 1994年9月刊

私の見立て ★★★★★ 当記事に限定 瑕瑾ある卓見 2020/11/12

□はじめに
 本書は、新人物往来社が、斯界先賢の寄稿、ないしは、刊行物引用によって、特集テーマに関する総合的な定説構築を図ったものと見えます。「臨時増刊」各郷は、古代史関係で多数の好著を輩出し貴重な情報源となっています。この点、星五つ、本特集も同様、賛嘆置く能わざる、と言う感じです。

○石井 謙治 古代の船と航海の歴史
 当記事は、目下審議中の倭人伝行程道里論、特に、半島陸行に対する「和船史研究家」石井謙治氏の否定見解に対して、豊富な学識に背くように、専攻分野中心の偏見で史料解釈しているのを捉えて、異論を呈するものです。

 魏志倭人伝で「日本列島と大陸間」と述べていて、素人目には、地理概念の調整が必要と見えます。九州北部から半島内陸の帯方郡への経路が問われるのであり、難題を拵(こしら)えて解決を困難にするべきではないのです。

*技術考証
 また、当時の船体の技術解明において、六世紀前後と見られる大型「複材剥舟」遺物は、所詮、倭人伝の三世紀後であり時代考証不適当と見えます。

*技術「反考証」
 同誌には、三世紀から五、六世紀にかけて、造船技術の進歩がなく、むしろ、後退したとの憶測が説かれていますが、その間「大陸」交流が断絶したわけではないので、長期の技術停滞は信じがたいのです。

 その後、準構造船考察と国内史料依拠の七、八世紀軍事作戦の裏付けを進め、勢いがありますが、三世紀の渡海船構造談義と大きく隔絶しているです。

*大軍派遣の考証
 例えば、斉明四~五年(658~9)の軍船180隻蝦夷出兵、天智元年(662)の軍船170艘百済派遣、天平宝字五年(761)の新羅侵攻作戦用394艘造船と巨大な数字が連発されますが、必要な資材の調達、加工、そして、造船作業に要する資材と人材は厖大です。

*画に描いた餅
 誰かが基本構想を立てたとしても、誰が、全体図から明細図を書いて、各担当部隊に配布し、そのような広大で込み入った計画の進行を統御したのか、人材育成、技術移管の面だけ見ても、大変疑問が残ります。

*書紀の粉飾記事か
 書紀編者が筆を嘗めた虚構と見えます。八世紀後半平安京遷都後には、要地の造船所に技術者が配置されたでしょうが、「ローマは一日にして成らず」の成語通り、所望の予算を継続しても、体制作りに五十、百年を要すると見えます。そして、外征がなければ大量の造船体制は不要なのです。

 氏は、和船専門史家の務めとして、同時代の時代考証を行い、大計画群が、砂上の楼閣か、実質の裏付けがあるか、論考の必要があると見受けます。

○倭人伝行程道里考察~誤解釈の確認
 氏は、中国史書である「倭人伝」の読解に於いて、ご自身の専門分野の領域拡大のために勝手読み(誤解釈)していると見えます。

 遣唐使船が、ある時期から冒険航海になったのを見て、それだけの造船技術があったのなら、「北路」が半島西岸沖合航路と見て、ついに、「新羅道」まで、同様の体と決め付けるのは、時代錯誤の牽強付会(誤解釈)です。

                                未完

2020年11月11日 (水)

新・私の本棚 古田武彦 『「邪馬台国」はなかった』 道里論批判 7/7 再掲

    ミネルヴァ書房 古田武彦古代史・コレクション版 2010年1月 初刊 1971年 朝日新聞社刊

 私の見立て ★★★★★ 必読、不朽の名著  2019/02/13 2020/04/30 改定 2020/11/11

*概念図再掲
 以上のように、氏の基本原則に批判を浴びせましたが、持論の説明として、当時の帯方郡から倭にかけての概念的地図を試みたものです。この程度のおおざっぱさが、かえって、当時の世界観の「正確な」理解に近づいているのではないかと考える次第です。現代地図は、立ち入り無用です。
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*余談 東方倭種への道
 ついでに時代の瀬戸内海南岸沿いの輸送経路を推定しました。(おそらく、新説です)

 大前提は、当時の航海術では、まず通り抜けられない関門海峡は置くとして、瀬戸内海北岸東西の芸予・備讃海域は、潮流が激しく入れ替わる上に、浅瀬や岩礁で喫水の深い荷船は航行不能でした。(ということは、大きな荷船は来ないという事です)
 難所を熟知した地元漁民が、船底が浅い漁舟で日々出漁したのは別です。小さな荷船の往来も別です。

 この「航路」が通じたのは、恐らく、早くて、六世紀、ひょっとすると八世紀でしょう。書紀は、ポツンと、航路開通記事を書いているようですが、各地の難所を長年かけて徐々に開通したものであり、自身で開通させたのなら、功労者を顕彰するものでしょう。

*瀬戸内南岸経路の提案
 三世紀当時の東西輸送路を大胆に考えると、九州東岸、おそらく国東半島から東に出港、総じて、平穏な海域である伊予北岸沖合を、先ずは東へ、ついで北東へ、そして「高縄半島」北部西岸に寄港し、暫時山越え陸行、「今治」付近から瀬戸内海に戻り、総じて平穏で島嶼の稀な「燧灘」沿岸を、先ずは南へ、そして東へ向かい、突き当たりで上陸して、山越えで池田に抜け、後は吉野川沿いの陸行で、鳴門海峡の東に出たかも知れません。このように進めば、海の難所を避けられるのです。
 何しろ、「瀬戸内」とは、東西の多島海の「瀬戸」に挟まれた小宇宙のことかも知れないのです。
 以下、「淀川」河口から淀川水系を遡行して木津川を南し、湾曲部の終着港木津で荷揚げし、最後は、ゆるやかな「なら山」越えで南へ陸行したとの空想です。三世紀当時、数世紀後に持ち出された河内から東に金剛生駒の山並みを山越えする輸送路は、実際の地形からみて、とても主力でなかったと見ているものです。(全く無かったと言っているのではありません)

 俗説が軽視した数々の難所を避けた行程です。

*断ちがたい交易の鎖
 途中、随時寄港あるいは宿泊して、市糴して荷主が交替し、便船ないしは人馬を差し替え、荷を運びます。一貫行路は、時代錯誤の勘違いです。
 その当時、荷船は小舟であり、数千里の一貫航行は、夢にも思わなかったのです。せいぜい、月一の市を開く集落伝いに、手漕ぎ船や背負い荷の鎖が繋がって、ひょっとして一年、二年かけて、舶来船荷は旅路の果てのまほろばに届いたのです。
 遺物には、生産日も発送日も到着日も書いていないのですから、何年かかっていても、何の問題もないのです。勿論、価格も、生産者も、買い主も書いていません。

*淀川水系称揚
 淀川水系を延々水行するのは、巨大な水がめ琵琶湖を水源としていて、年を通じて渇水がなく、流れが緩やかであって、水量が安定して豊かなので、古来、船舶航行が多くて川港も整っていたことから、荷船が安心して運行できたと見たものです。 

*大和川水系の難航
 素人考えで、河内以降の経路を評価しました。森浩一氏などが提示した大和川水運は、「くに境」を貫く大和川が急流で遡行できず、柏原付近で荷下ろしして生駒山越えの急峻険阻の背負いは、地質が軟弱、不安定で官道が築けず、また、奈良側も、長く低湿地になっていて、輸送の幹線たり得なかったと思います。(全く無かったと言っているのではありません)
 もちろん、運河を開鑿して、大規模な水運を行ったなどは、夢物語に過ぎません。高低差のある河川に運河を開鑿するのは夢物語だし、そのように傾斜した運河は、現代の技術を持ってしても、運用できないのです。

 近年喧伝される日本海航路から早瀬を遡行し、険阻な峠道を越える難路も、所詮、行き交う荷のまばらな支線と思います。(全く無かったと言っているのではありません)

 以上、近年突如として持ち出された「新説」ですが、むしろ「隘路」そのものであって、主力となったはずのない、根拠のない新説は、単なる思い付き、夢想に過ぎないのです。

*未開の瀬戸内航路
 と言う事で、伝説や風聞を除き、七世紀に至るまで、瀬戸内海北岸沿いの一貫航行はなかったのです。

 因みに、このような遠大な難路行程は、倭人伝に記録されていないのです。

□総評
 当記事の全体を通じて、古田氏の論考に対する苦言が多いように見えるかも知れませんが、それは、勘違いと言うものです。
 氏の第一書である本書は、古来持てはやされていた空想的な議論を廃し、原史料である魏志倭人伝から、確実に導き出される仮説の論証を確実に展開するという、前人未踏の労苦に挑み、敢えて、一つの針路を突き詰めることの危険を怖れけなかったものです。

 ここまで指摘した事実誤認や牽強付会の誤解釈は、爾来、一部の例外を除き、堂々と批判を加える論客を得られなかったために、今日まで遺存しているだけであり、本来、論戦を通じて、早々に取り除くべきものなのです。

 と言う事で、当記事は、古田武彦氏の偉業を賞賛するものなのです。

                                完

新・私の本棚 古田武彦 『「邪馬台国」はなかった』 道里論批判 5/7 再掲

 ミネルヴァ書房 古田武彦古代史・コレクション版 2010年1月 初刊 1971年 朝日新聞社刊

 私の見立て ★★★★★ 必読、不朽の名著  2019/02/13 2020/04/30 改定 2020/11/11

*「餘」表記談義
 ここで、ひと息入れて、倭人伝の「餘」表記について見解を示します。

 一般的に、これは、端数を切り捨てたものと見られていて、例えば、一万二千餘里は、例えば、思いつきの一例ですが、13,352里と一里単位まできっちり出ていて、実数の残りの端数、1,352里は切り捨てたと見るようですが、そうすると、倭人伝に見られる里数、戸数が、軒並み「餘」付きでは、端数が累積して計算がずれてくるように見えるのです。
 これらの「餘」は、「前後」の意味であり、示されているのは、推定の中心値と見るものです。これは、筋が通った見方と感じています。

 通常、「餘」と書かなくても概数と承知されているので「餘」抜きで書き進めています。これは、以前の記事でも、しばしば指摘していたのですが、当記事の「餘」抜きが初対面の方は戸惑うと思うので、ここに書き留めます。

 また、当方が書いたのは、倭人伝「餘」であり、東夷伝全体すら確認できていないので、あくまで、倭人伝限定地域限定です。帯方郡で作成した史料の表記がそのまま採用されているとみれば、陳寿は介入の仕様がなかったと見ることができますが、あるいは、断片的な史料の寄せ集めで、最善の辻褄合わせをしたかもわかりません。

*渡海談義
 さて、倭人伝道里記事で、次に登場するのが、渡海里数の計三千里です。これは、明らかに実測でなく、単に、こんなものにしておこうという「当てはめ」に過ぎないので、地図上で測量したり、海流を加味したりするのは、全く無意味です。

 「渡」は、中原語法で河水(黄河)などの橋の架けられない川を渡し舟などで渡ることをいい、本来、道里、日数には入らないのです。
 倭人伝に限っては、一度の渡海に、必ず一日を要するので、里数を一律一千里と明記したのです。

 当然、渡海の水行日程は、待機や休養の日数を見込んだものです。渡海は一日、それぞれ前後一日を加えて、全体でさらに一日を見て、全渡海を計十日とし、延着、遅参の責任が及ばないようにしています。

*地域水行談義
 後年集成された「唐六典」は、全国輸送制度の諸規定を示していますが、これは、税衲される穀物の輸送が恐らく規定の下になっていて、秦代に制度が確立されて以来、代々、料金等を調整しながら、制度自体は確実に継承していたものと見えます。
 「水行」は河川の流れを遡行したり順行したりするのであって、当規定では、海難の危険のある海洋航行は(全く)想定していません。
 「水行」日数の算定は、流れの速い河水(黄河)とゆるやかな江水、長江(揚子江)の両大河にくわえて、余水として諸河川が規定されていて、流速を考慮して差が付けられ、まことにきめ細かいのです。

 ところが、倭人伝では、冒頭に「海岸に循い水行し」と、海岸から沖合に向かう渡海を「水行」と呼ぶという「地域水行」を宣言し、「水行」日数は、渡し舟なので往復に関係無く「陸行」同様の一日三百里を示唆しています。倭人伝は、運送規定などではないのです。

*不法な水行設定
 ちなみに、先行史書及び三国志自体で、官道の通信日数を、河川航行前提に設定したものはないと見ます。
 つまり、帝国拠点間の通信、交通の規定は、陸上街道に決まっていたのです。そのため、「倭人伝では渡海を水行と呼ぶ」と明言して、無法な記事だとの非難を避けているのです。
 注目すべきは、実行不可能な、沿岸「水行」などではなく、海岸を盾に行く「循海岸」であり、ありふれた渡河でなく「渡海」を規定している点です。
 古典書に於いて、海岸は、当然「内陸地」であり、これに沿う「沿岸」とは、今日言う海岸の内陸の大地の意です。「沿岸水行」など、端から不可能なのです。

 倭人伝が、独特の用語、独特の概念を駆使して書かれていることは、先賢の指摘が多々ありますが、史書である以上、肝心な用語は、宣言、明記されているのです。

                              未完

 

新・私の本棚 古田武彦 『「邪馬台国」はなかった』 道里論批判 3/7 再掲

 ミネルヴァ書房 古田武彦古代史・コレクション版 2010年1月 初刊 1971年 朝日新聞社刊

 私の見立て ★★★★★ 必読、不朽の名著  2019/02/13 2020/04/30 改定 2020/11/11

*全国里制説批判
 倭人伝里制は、全国里制とする見解への批判となります。

*地域短里宣言
 郡管内で道里実測していたと思われる狗邪韓国への「従郡至狗」道里が、七千里と明記された点に注目すべきです。
 「従郡至狗」が長里か短里かは別儀として、以下の記事を、「従郡至狗」七千里との「里」で統一していると宣言されているので、ここは、倭人伝の末尾、魏志末尾まで、魏制とは別扱いなのです。

 古田氏の里制論は、地域里制が宣言がされていないことに重きを置いているようですが、実は、宣言されているのです。

*漢書準拠の現地制度記述
 古田氏も明記するように、陳寿は、漢書に準じた「実地の実形に即応した表記法」で現地制度、記法に従い行程記事里数を書き、先の地区短里宣言により、そのような倭地里制を確保して、史書の体裁を保証したと見るのです。

*堅固な提言の確認
 ただし、氏の提唱に反して、「倭人伝」道里が、魏使「実地踏査」を基にした全国里制でなく、地域短里による表記としても、氏の提唱は揺るがないのです。

4 「道里」の前に「歴・行・渡(度)」などの「動詞」がある場合は、魏使が実際に行った主線行路であり、ない場合は、魏使が実際に行っていない傍線行程である
▢決定的な判断は困難です。

 私論では、現地事情から、伊都が行程の分岐点であり、奴、不弥、投馬国は、行程外、傍線行程と見ています。動詞の有無は必ずしも決定的でないと見ます。まして、一部で称している「文法的」解釈による「放射性」排除は、そのような文法が帯方郡管内で横行していたとの証拠がない限り、勝手な仮説にとどまります。

5 主線行路には、漢書に準じた「実地の実形(現地地形?)に即応した表記法」により、対海国(南島(下縣))の半周八百里(方四百里の二辺)と一大国の半周六百里(方三百里の二辺)が含まれていると読むべきである。
⊠本項は、不支持です。

 行程記事に示唆すらない道里を計算するのは氏の理路と矛盾します。特に、「方里」は、道里表記記法でなく、対象地形の実形を度外視し、農地面積の集計を、一里角の方形の個数で表示する「面積」表記記法と思われるので、道里計算に取り出すのは見当違いです。
 ここでは、倭人伝の「宣言」に先行する高句麗伝や韓伝に「方里」記事があって、これを「對海」「一大」両国記事に適用するのは、錯綜していて、不首尾です。
 古田氏は、高句麗伝の「方二千里」、韓伝の「方四千里」を、倭人伝同様の道里で書かれていると強弁していますが、方里と道里は、共存できない別系統の「里」であり、この点を見逃したため、魏晋朝短里説に引き込まれたものと見えます。この点は別記事で詳細に論じています。

6 主線行路の道里の和は、総道里万二千余里に等しい。
⊠各道里の加算によって、総行程が得られるとの前提は不支持です。
 道里の不確かさを指摘したいところです。氏が必須とする厳密さは、経理部門の銭勘定では絶対ですが、辺境東夷領域の道里では達成不能なのです。また、道里が不確かだから概数にしたとしても、ことは簡単ではないのです。

 先賢の指摘では、倭人伝道里の里数で、意義のある有効数字は、一千里単位の最上位桁と見えますが、これは、まだまだ甘い見方で、これら里数の有効数字は、時として一桁に満たない不確かなものと見られるのです。現に偶数が希になっているのです。

 倭人伝は、不確かな数字が目立たないように、演出されていると見えます。

                               未完

 

新・私の本棚 正木裕 邪馬壹国の歴史学 8「短里」の成立と漢字の起源 2/2 再掲

 ミネルヴァ書房 古田史学の会編 2016年3月刊      記2019/02/17   再掲2020/11/11
 8.「短里」の成立と漢字の起源

    私の見立て ★★★★☆ 重要 

 本論は区切った論述が紆余曲折で判読困難なので大まかに書きました。

*無意味な例証
 注釈(7)に「九章算術」(勾股)の問題と回答が例示され、これを解くには、丈里換算が必要と書かれていますが、これは氏の誤解です。 実際は、求める山高(丈)が、近傍の木高(丈)の何倍かを求める計算であり、山・木・人の離度は、計算式で相殺され無次元になっているので、短里、長里、現代の公里のどの里制でも計算結果に一切関係しないのです。いや、尺寸に換算するときは、里長に依存しますが。

有山居木西、不知其高。山居木五十三里、木高九丈五尺。人立木東三里、望木末適與山峰斜平。人目高七尺。問山高幾何。
答曰 一百六十四丈九尺六寸、太半寸
術曰 置木高減人目高七尺、餘、以乗五十三里為實。以人居木三里為法。實如法而一、所得、加木高即山高。

 本題は尺里換算が不要であり、単位系の使い分けが明快に徹底されていて混乱が一切なかった証拠であり、本題に依存する本論の里制変更仮説は根拠を失うのです

*文帝明帝相克
 氏は、文帝曹丕に里制変更を求めて、遂に、その形跡を見いだせず、明帝紀の改暦記事につけを回そうとしたようですが、記事を拡大解釈するなどの禁じ手を使わないと証拠を言い立てられなかったようです。

 氏は、明帝時に里制変更があったという記事が無くてもなかったと言い切れないと強弁しています。里制変更記事は漢魏晋を始め各時代正史になかったとしても、いつどの時代も「なかった」と「絶対に断定できない」となれば、もはや、それは史学ではないのです。

*最後の最後

 正木氏は、本論に不退転の意気で取り組んでいるらしく、記録のある「三百歩一里制」が、周朝以降長く実施されたと云いつつ、殷代記録がないのを良いことに、それ以前は、別の里制が敷かれていたと主張するのです。考えるに、周は、未開の種族であったものが、殷の臣下となり、ついには、高官の地位に就いたのであるから、その国内制度は、殷制に従っていたと考えるべきです。また、殷の文字を授かって、殷なの暦と法制を遵守するように強いられていたはずです。殷周革命、克殷というものの、すべて、殷制のお下がりであったはずです。

 氏には、殷代里制なる大胆な仮説は「可能性が高い」と見えているようですが、正史、ないしは、正史に準じる文献資料は、書かれているままに読解くと云う基本原理を失念したように見えます。もちろん、可能性は皆無ではないので、それを「高い」と見るのは、その人の感性次第であり、余人の口を挟むことではないのは承知していますが、何か考え違いをしているとしか見えないのです。

 氏は、最後の最後に捨て台詞を残し、未発見の周代物差しなどが発見されたら、確証の不足は解消するとか、果ては、遺物が出れば、いつ「短里」が廃止されたのかまで判明するから、それ以前には短里が敷かれていたと実証できるという、どこかで聞いたような「タラレバ」山師論に堕して痛々しいのです。
                                完

 

 

 

 

新・私の本棚 正木裕 邪馬壹国の歴史学 8「短里」の成立と漢字の起源 1/2 再掲

 ミネルヴァ書房 古田史学の会編 2016年3月刊      記2019/02/17   再掲2020/11/11
 8.「短里」の成立と漢字の起源

    私の見立て ★★★★☆ 重要 

 本論は区切った論述が紆余曲折で判読困難なので大まかに書きました。

*礼記論
 小見出しで「礼記」「礼記正義」に見る「古尺」と「周尺」と謳いだしながら、「古尺」と「周尺」が要領を得ません。どうも、原史料の解釈がずれているようです。
 礼記を見る限り、周尺は、古来の尺のままと書かれていて、氏の読みとずれているように見えます。

 「古」は、周以前、殷代のことですが、それ自体、特に異論はありません。「古尺は一尺八寸、周は八尺一歩なので、一歩は、六十四寸です。礼記正義も、同様に書いています」と言い立てますが、要は、周朝短里が、国家制度として存在しなかったことになるのです。

 晋書地理志に引用された司馬法にも、そのように明記されています。

*反転
 ところが、氏は、礼記の疏に「十寸為尺」とあることを根拠に、以上の定義を無視して、この記述を優先するのです。何のために、礼記/正義の本文を引用して解説していたのか、不可解です。どうも、史料に明記されていないが、周代に変化があったとの見方のようです。しかし、肝心の「寸」の定義が欠けているから尺が変わったのか変わらなかったのか、不明です。
 それとは別に、発掘遺物から、殷尺は、周尺より二十㌫程度短いとされていて、各時代、尺の物差遺物はあったが、「里」の物差しはないようです。

*単位系混乱論
 氏は、古代中国では、丈、尺、寸の「手の系」と里、歩の「足の系」の二つの単位系が混在して、換算する必要が生じることを理由に、両系の統一が行われたと見ていますが、何か勘違いしているようです。

 「丈」は、山の高さにまで用いられて、千㍍を越えることもあり、詩的表現では、「万丈の山」と謳われますが、それは、距離/道のりの単位の「里」とは別の単位系、云うならば「寸法」系です。例えば、山高を里ということはなかったのです。 

 両単位系のものを同じ用途に適用すれば当然混乱しますが、そのような用例は見かけません。つまり、きれいに棲み分けていたのです。それが、古代文明に対する合理的な見方というものです。

*始皇帝度量衡統一の範囲
 氏が語られるように、秦始皇帝は、度量衡統一を公布しましたが、自国などの周制逸脱で単位系が混在した(かも知れない)ものを、周制に忠実であった秦制に統一したのではないと思われます。いや、そもそも、各国に逸脱があったとは言い切れないのです。もともと統一されていた制度を、始皇帝の命によって確立したのかも知れません。わからないことはわからないのです。

 始皇帝の意図を、後世の東夷のものが拝察すると、それまで棲み分けていた単位系の一方を他方に合わせれば日常単位が大変混乱しますから、そんなことはしなかったのです。

                             未完

2020年11月10日 (火)

倭人伝随想 15 倭人伝里程の話 短里説の終着駅 6/6 再掲

                                                       2019/02/27 表現調整 2020/11/10
□余言として
 以上の議論の補足として若干余言を述べます。

*地域表記宣言
 ここまでの地域短里、地域水行宣言に比べると地味ですが、倭人伝が、郡から狗邪韓国まで七千餘里と千里単位里程で書き出したのは、倭人伝里数は千里が単位で、百里桁は無視という宣言です。

 直後の郡からの沿岸水行里数も日数も書かなかったのは、端数は書かない、無視したとの宣言に他なりません。(そのような水行などなかったという見解が後出します)

 時に苦言を呈される倭人伝独特の書き方、地域表記は、全てと言っていいくらい、冒頭附近で宣言されていて、編者陳寿の叡知と見るべきです。
 諸兄は、これを理解の上、それぞれの道を選んでいただきたいものです。

*部分里程総和
 古田武彦氏は、『「邪馬台国」はなかった』において、倭人伝行程記事の全体里数と部分里数の総計は「厳密に」一致するという趣旨を提示し、これに強くこだわったため、「島巡り」記法などを唱えて書かれざる端数里数を発掘し、数字合わせしています。

 
これは、以上に示した倭人伝記述方針を見落としたための誤解であり、当方の見る限り、『「概数計算によれば」、全体里数と部分里数の総計は一致する』と訂正すれば、そのような誤解は解消すると思います。

*端数里程について
 そうでなくても、自身の仮説に整合させるために、史料の行間から数字を取り出すというのは、氏の史料観を外れているように思います。
 
 一例として、倭人伝が狗邪~末羅を渡海三回三千里とした意図に反し、島巡りの端数里程を「発掘」したのは、伝の里程観を見損ねたと見るのです。
 倭人伝が、些末は理解の妨げと省き、渡海千里と概括した意図に従い解すべきです。つまり、総計算で編者達が熟慮の上捨て去った端数を拾い戻すのは、千里単位の概数構想(日数は十日単位、一日三百里)と合わないのです。
 
 これは、概数計算で大局的に整合させて書かれた記事に場違いな厳密さを求めた不合理であり、史料は、書かれたままに読むという方針を踏み外しています。 

 三国志大家が、議論の逃げ道として、全三国志を読んでから議論しろと自陣に逃げ込んでいる「カタツムリ」戦法に染まったのでなければ幸いです。
 
 どんなに明晰な理論に基づいて考察していても、万事に適確(適度に正確)な史観を持ち、適用するのは、この上もなく困難で、誰も、完璧ではないのです。

*参考資料 (誤解、見過ごし 御免)
 ⑴ 方位、里程論:倭人伝短里説は、安本美典氏の創唱と見えます。
 ⑵ 誇張説:古来、事例多数につき、省略します。
 ⑶ 創作説:岡田英弘氏を始めとして、渡邉義浩氏の独断的見解が、諸処に見られます。
 ⑷ 里制用例論議:曹魏短里説は、古田武彦氏の創唱であり、山尾幸久氏、白崎昭一郎氏等との用例解釈論争が知られています。(『「邪馬台国」はなかった』等)
 ⑸ 曹魏布令論議:文帝布令説は古田武彦氏『「邪馬台国」はなかった』の示唆により、文帝提唱明帝布令説は、古賀達也氏の著作に見られます。

                                完

倭人伝随想 15 倭人伝道里の話 短里説の終着駅 5/6 再掲

                                                       2019/02/27 表現調整 2020/11/10
*変動する天下の広さ
 司馬法の単位系展開の最後は、周制の「畿」に至る広域の定義です。
 天子の領域とされる「畿」は、一辺千里の方形であり、里から里の千倍に至る過程は、面積十倍(一辺3.16倍)刻みで、隙無く定義されています。つまり、周制が確固として定まった有史時代、里は変わりようがなかったのです。

 もちろん、周時代、王畿を実測測量して、一辺千里の方形を得たわけではなく、「畿」は、周王の領分が諸公領分の一段上との秩序の理念を示しているのです。(面積十万倍 一段下位の「封」は一辺三百(六は誤記)十六里と表記)

 また、司馬法で「領分」は、軍制規定の基本であり、それぞれ、領分の広さに応じた兵士の数が、義務として定義されています。天子は王幾に在り、諸公は、四方で蛮夷の侵入を防いで「中華世界」を護るのが天下なのです。

*軍制への波及
 秦始皇帝は、周制を採り入れるに際して、諸公軍務を数字だけで算定する形式的な制度が、防衛体制を形骸化して無力なものにし、西周末期に外夷侵攻を許し亡国を招いたのであり、秦は周制を全面踏襲しないとしました。

 そのように、周制の面積単位系は周代の諸公軍務の原則を決定しているものであり、秦漢でそのまま遵守していないとしても、国政の原則となっていたので、その一部である里制だけを変更はできないということです。

*郡国志
 郡及び国の所在地と方位、道里は、郡国志に明記されます。

 先に述べたように、実用単位畝や歩が不変で里を伸縮する改定は、日常生活にほとんど影響しないのですが、里は、広範に波及するので、郡国志及び地理志にとって大問題なのです。

 帝国の威勢を示す全土(天下)広さや各国道里が大きく変わるのは大問題(つまり、あってはならない不法、大逆行為)です。王幾の広さが変わると、中華世界の大きさも変わるのです。

 この辺りも、里制変更を地理志に明記しないといけない理由です。

*正史記録の不在は「史実」の不在
 つまり、これほどの天下の一大事が正史に記録されていないのは、一大事などなかったからと見るべきです。

*記録不在の意義
 時に史書に記事が無くても「無かった」とはならないとの強弁がありますが、天下の大事件を書かなかったのは「無かった」からに違いないのです。

 正史に書いてなくても、知られている史実は明白だから、そのように書いてあるものと見て、そのように「改竄」して読むと言う態度は、一部古代史論者の常套手段ですが、安易に真似してもらいたくないのです。

 史料は史料としてそのまま読むという基本原則に従うと、里制変更の主張には証拠が必要です。

 史料解釈は、史料自体による解釈から「始発」すべきではないでしょうか。

                                未完

倭人伝随想 15 倭人伝道里の話 短里説の終着駅 4/6 再掲

                                                       2019/02/27 表現調整 2020/11/10
□文献解釈編 晋書地理志
 ここでは、主として、晋書地理志所収の司馬法に規定が書かれている、周制に始まり魏朝に至る里制について考察します。
 
 当記事の一部として創作した概念図から、まず見て取れるのは、周制の単位系が、一尺25センチ程度の「尺」から、天子の領地にあたる一辺一千里の「畿」まで、ハシゴ段(階梯)に欠けがないよう、十倍、百倍で続いているのです。(井、里の下で三倍、九倍になっていますが、事情あってのことです)
 
 丁寧に追いかけると、里から尺に下る単位系と里から畿に上る単位系は、趣旨が一致しないようですが、この点は本論に関係無いので割愛します。
 

 当概念図は、当方が自習用に作成したものであり、晋書所収の司馬法は、言葉の定義だけですから、概念図の出来具合は本論に関係無いのです。

*綿密な単位体系
 周制に始まる「単位系」は、このように綿密に築かれているので、里を1/6、6倍に伸縮すると、尺、歩に始まり畿(一辺千里)に至る単位系の階梯が乱れるので、混乱無しに実施できないのです。

 なお、里に始まり、歩、尺に下る部分は、歴年保守されてきた土地台帳に常用されている「畝」を含んでいるので、社会的に大混乱を起こさず実施することはできないのです。
 
 総じて言うと、周制でこうした単位系が始めて構築、公布されて確定して以降、里長の伸縮は、歴史に深い刻印を残さずには不可能だったのです。

*周制以降
 なお、ここで提示しているのは、殷周革命により周が天下を把握して、相当部分で殷制を踏襲した「周制」の公布後は、全単位系を動揺させることなく里を伸縮することは不可能、というだけです。

 里長や換算係数の当否は本論に関係無いので議論しません。
 
 司馬法の「周制」以前、つまり、商(殷)の単位系は、史料に残されてないので実体不明であり、短里の由来や時間的、空間的棲息範囲は、今となっては憶測しかできないのです。

 倭人伝が、地域制度倭人伝限定の里制の孤証です。例外として適用されているので、当然、他に用例はありません。

                         未完

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倭人伝随想 15 倭人伝道里の話 短里説の終着駅 3/6 再掲

                                                       2019/02/27 表現調整 2020/11/10
2 周朝短里(仮説)の評価
 曹魏短里に於いて、短里は、周制のものとする仮説が述べられました。

 周制短里を秦が普通里に変えた改革が漢に継承されたが、漢の後継を越えて独自境地を求めた曹魏が、秦の改革を解消して周制に復帰したとする見方は、一応筋が通っているため、特に異議を呈されず、そのまま曹魏短里の検証に移っていったように見えます

 しかし、今般、晋書地理志を確認した結果、司馬法に示された周制は短里でなく普通里であった、との見解に至りました。

◇司馬法
 晋書地理志、秦漢以来の諸制度の典拠として引用した司馬法は、司馬穰苴によって書かれたとされる兵法書で武経七書の一つですが現存せず、所収部は佚文とみられます。
 
 司馬法には、秦朝が周制由来とした里制に基づく諸公所領などが規定されているため、秦漢制の基礎として晋書地理志に引用されているのです。

*周髀算経に依る短里説
 周制短里の論拠として、谷本茂氏による周髀算経の検証により、周代に七十五㍍(程度)の里長が知られていたとされています

 ただし、これは周代の教養人の常識として「短里」が知られていたと云うだけで、国家制度として短里が有効であったと証するものではないように見えます。あるいは、当時の計算法に載りやすいので、特に設定された可能性もあります。つまり、周朝短里制の根拠とはならないのです。
 少なくとも、俗に『周礼』とされる儀礼体系の中に、短里制が組み込まれていたと云う証拠はありません。むしろ、周里制は、普通里であり、「普通」の名にふさわしく、明記しなくても当然適用されていたのです。

*里制不変説
 以上を合わせて考えると、以下のように思量します。

 周朝国家制度として短里が採用された証拠がありません。
 証拠がないのは、そのような国家制度はなかった証拠です

 従って、魏朝皇帝などが、周制回帰を謳ったとしても、周制に短里は含まれず、結局の所、曹魏短里は無かったのです。
 もちろん、「大夫」を、陳腐な庶民の階級から、皇帝に準ずる高官に復帰させたほど、周制の復活に精力を傾けた、新帝王莽も、里制には手を付けていないのです。

3 地域短里説の堅持
 倭人伝短里説の旗手とされた曹魏短里は無効、後ろ盾の周制短里も根拠薄弱では、短里説そのものの当否が問われる事態になっています。しかし、倭人伝が短里で書かれたという解釈は、依然として揺るがないのです。
 
 今や孤塁となった地域短里説ですが、時に批判の論拠をとなっている「三国志全体が普通里制として、なぜか、そこに短里が紛れ込んで混在している」との評価は、評価者の深刻な認識不足です。
 行程道里記事の冒頭で地域短里が宣言され、伝末まで全て地域短里なので、首尾一貫した語法が敷かれていて、「混在」などしていないのです。(面積表示の「方里」は、道里ではないので別格です)

 論理の帰結として、太古以来三世紀に到る時期、倭人伝道里記事に記載された朝鮮半島中南部以遠に、短里が適用されたと見るべきです。

 文献史料に記載が無いので、なぜ短里が適用されたかは不明です。倭人伝で有効であったとする根拠は、倭人伝そのものです。

                                未完

倭人伝随想 15 倭人伝道里の話 短里説の終着駅 2/6 再掲

                                                       2019/02/27 表現調整 2020/11/10

*『曹魏短里』論争
 本説を広く宣言したのは古田武彦氏であり、『「邪馬台国」はなかった』において明言し、三国志全体の里数記事用例を対象に、普通里か、短里かの検証を進めた成果として、『曹魏短里』が証されたとの論議を展開しました。
 
 これに対して、古田氏の用例解釈に反駁し、『曹魏短里』はなかったとの議論が提起され、大変活発な論議が行われましたが、三国志全用例から当否を証する試みは、いまだ進行中と見えます。
 
 素人目には、短里制度を確実に支持すると見られる用例は少なく、全国制度として施行されたとするには根拠薄弱と見られますが、一方、全面的に否定はできないとの論があり、あたかも、レジェンドと化して博物館入りした「臺壹」争いの再現ですが、攻防が逆転し、論法だけは類似しているのが、奇観を呈しています。

*『曹魏短里』制度
 用例論争に比べて不活発ですが、魏の全国制度として、短里が施行されたという証拠となる帝詔などが、三国志魏書に明記されていないことが、『曹魏短里』の支持されない有力な理由となっています。

 古田氏は、初代皇帝文帝曹丕が、後漢献帝から国を譲り受けた際に、国家としての「礼」を、切り替える帝詔を発したことを引いて、里制は礼の一部であるから、それにより当然周制に復帰したと解釈しているのです。⑹
 
 「解釈」と言わざるを得ないのは、里制が「礼」の一部とする明確な定義が見当たらず、また、従来の普通里を短里にすると明記されてないことにあります。

 また、文帝は、後漢の復興、継承にあたったと評されていて、三国鼎立の臨戦体制で、社会構造の変革を引き起こす里制変更には想到しなかったと見られることから、古田氏提唱の曹丕改訂は否定的に見られています。

*景初改革
 続くのが、二代皇帝明帝曹叡の「景初暦」改定です。

 明帝は、後漢朝遺風の継承に反対で、魏朝礼制、暦制の創始、確立を指示し、景初暦採用の際は、礼制一新の帝詔を発しています。

 依然戦時下ながら断行した景初改暦と礼制改定は、国家大綱を改革する「景初維新」の大事業であり、その一環として、里制変更が行われたと推定するのが景初里制説です。

 しかし、裴松之の付注(裴注)は、明帝の布令を補足する際に、「文帝の遺制を廃して、殷の暦を用い、殷と同様に建丑の月を正月とし、犠牲や旗に使用する色は、すべて殷の礼を用いた」と「礼記」を参照しながら、それ以外については一切言及していないのです。つまり、明帝の布令は、里制の変更なる一大事に触れていないのです。
 

 景初年間は、遼東に割拠した公孫氏を討滅し、天朝の威光を東夷に及ぼした画期的時期であり、里制改定の大事業に相応しいように見えますが、それほど画期的な一大事が三国志魏書に明記されていないという克服しがたい難点があります。
 
 また、明帝の景初改革は、二年後の明帝早世によって終焉し、景初暦、並びに、宮殿造営が撤回された所からも明帝自身明言していない里制変更が、曹魏後継皇帝や司馬晋皇帝によって補追完成されたと見るのは、困難(不可能)です。

*曹魏短里説の終熄
 曹魏短里制度は、実施を証することができず、従って、潔く撤回されるべきです。

                               未完

倭人伝随想 15 倭人伝道里の話 短里説の終着駅 1/6 再掲

                                                       2019/02/27 表現調整 2020/11/10
□終着 道の果て(Terminus 米国南部 ジョージア州都アトランタの旧名)
 良く言うように、鉄道の終着駅は始発駅です。すべての道はローマに通ずという諺の英文(All roads lead to Rome.)は、「すべての道はローマに至る」と言う意味ですが、丁寧に言うと、すべての道は、ローマから始まりローマに果てるという意味です。ここに、「短里説の終着」と示したのは、短里制に関する議論の始発、原点を確認するためです。

 言うまでもなく、原点を確認した後、どの道を選ぶかは、その人の勝手です。

*里制論議 諸説の起源
 倭人伝解釈に於いて、短里説が提起されたのは、倭人伝の記事を、背景知識に欠けたものが読むと、方位、道のりが、日本列島内に収まらないように見えて、重大な難関になると見えた点から始まっているとされます。⑴

*短里説と誇張説
 難関回避の一案が、道のりの『里』が、定説の四百五十㍍程度の『普通里』でなく七十五㍍程度の『短里』との解釈、「短里説」です(以下、程度を略)。

 短里説は、主唱者である安本美典氏が、四十年ほど前に提唱し、近著でも維持している不朽の提言です。

 一方、巷間、短里には証拠がないとする否定的な論議が横行していますが、短里を理解しないと、倭人伝の道里が理解できないのです。

 そのため、倭人伝の採用した里制は、普通里であり、倭人伝記事は、普通里の里数を、六倍程度に誇張したとの「誇張説」が説かれています。⑵
 
 あるいは、倭人伝記事は、当時の現実を離れた創作であり、信を置くべきで無い、と言う極論として「創作説」まで説かれています。⑶
 
 共に、縺れを断ち切る「快刀乱麻」ですが、それは理解力の乏しい、短気な輩(やから)の暴力行使であって、謎を解(ほぐ)しとくという「解答」になっていないのです。

*短里制支持論
 本記事は、史料の記事(テキスト)を原点とする立場を採っているので、⑵「誇張説」、⑶「創作説」に言及しないことをご理解ください。
 言い訳するなら、これらの説は、学術的見解ではなく、論者の情緒の表明なので、議論が成立しないということが、割愛の理由です。

 また、これらの説は、短里が存在しなかったと主張しているに過ぎないので、短里の存在を証すれば自然に棄却されるということです。

1 「魏晋朝短里」説考
 短里説陣営から提示されている仮説の一つが、短里制は、曹魏が支配下の中原領域に施行した全国制度であったというものです。⑷

 それ以降、この短里制は、曹魏を継いだ西晋に継承され、西晋が北方異民族に打倒されたために南遷した東晋で廃止され、普通里制に復帰したとされています。代表的な提唱者は、古田武彦氏です。

 『魏晋朝短里説』は、かくの如く「非常」(臨時、暫定)の制度と提唱されました。本論は、字数節約して、勝手に『曹魏短里』と四文字略称します。

                              未完

新・私の本棚 番外 毎日新聞「今どきの歴史」 感染症と考古学 2/2

  人口激減の謎に迫る   毎日新聞2020年11月9日 東京夕刊

 私の見立て★★★☆☆ 購読料相当ないしそれ以上のもの 2020/11/10

○結末への疑問[承前]
 通貨がなく、共通した価値観がない時代に、どうやって、遠距離間で直接取引が成立するのだろうか。不可解である。「朝鮮半島との交流」と気軽に言うが誰と何の交流をしていたのだろうか。いつから、文書交信ができるようになったのか。総じて、史料批判不在である。

 下垣さんは「グローバル化にはリスクもあります。日本が開国した1854年の後、江戸でコレラが大発生した。ただ、そうなると、疫病というのは海外からやって来てひどい目に遭うと被害者意識を持ちやすいけれど、逆にこちらが伝えることもあるんだという意識が抜けがち。そこは気をつけなければいけません」と注意を促す。

コメント 縄文時代から古墳時代の時代で「グローバル化」は時代錯誤で不用意である。下垣氏は、当時の「グローバル化」をどう認識しているのだろうか。海峡や日本海の向こうすら「圏外」だったのではないか。素人の批判は僭越だが、だからといって、口ごもりたくないのである。

 幕末で言えば、自ら渡航しないものがどうやって外国に被害を与えられるのか不可解である。
 総じて、時代人は、「グローバル化」だなんだと言われて、何とか理解したとしても、どうにもできなかったはずである。
 因みに、来訪者が疫病を伝えた例は、古代にもあったはずである。数世紀の歴史の上に立って、無策で疫病の侵入を許したのだろうか。

 考古学者といえども、そうした「可能性」は否定できまい。どうすれば良かったのだろうか。お伺いしたい。

 さらに、目の前で進行して対策も打てる疫病に対し、気づいた時には手遅れになりがちな環境問題に言及し、「モノを扱う考古学は過去の環境悪化を明らかにできる。長期的観点から物事を見るのが得意なので、この問題にこそ提言できます」と議論を発展させた。

コメント 「環境悪化」と言う前に、古代人の環境認識を明らかにしないといけないのだが、こうした言葉のない時代、どう古代人の意志を推察するのか、疑問である。大体、古代人が、疫病をどう認識し、「対策」をどう策定し実施したのか、わかるはずはないのに、なぜ、思い付きを言い立てるのか。

○まとめ
 かつて、考古学界には、古代人の思いつかないような言葉や概念で古代を論ずる事の愚を戒めた先賢がいたように思うのですが、現下の考古学者には、古代の「謎」に迫る議論に、現代でも理解できない一般人が大多数の「現代言葉」を振りかざして受けを狙う自己主張しか存在しないのでしょうか。記者は、タイトル空振りを気にしないようですが、では、読者に何を伝えたかったのでしょうか。

*本分という事
 当記事では、専門家の見解とは言え、時代考証が随分粗雑と見えます。考古学は、圏外事象に素人考えを振り回すより、学会内で専門的な論議を進めて、丁寧に足元を固めるべきではないでしょうか。

 本記事を読み終わって、考古学界がパンデミックに直接対応など、飛んだ使命感です。どんな専門家でも、専門外の分野では、素人なのです。余計な風聞を気にせず、専門の学術分野を堅固に守ることが、学問の徒の本分ではないでしょうか。ご一考いただきたいものです。

○取りこぼし御免
 いや、偶々、壮大なタイトルをぶち上げた記者の進め方のせいで、コメントが、結論めいて見える下垣氏の発言の時代錯誤史観に集中してしまいましたが、記事全体が「今どき」の学界風潮なのでしょうか。

 以上、当然のことながら、考古学界の個人批判の意図ではありません。

                               以上

新・私の本棚 番外 毎日新聞「今どきの歴史」 感染症と考古学 1/2

  人口激減の謎に迫る   毎日新聞2020年11月9日 東京夕刊

 私の見立て★★★☆☆ 購読料相当ないしそれ以上のもの 2020/11/10

○切り出し
 毎日新聞夕刊文化面の月一歴史コラム「今どきの歴史」で、今回は「疫病ネタ」ですが、もう一つ趣旨が伝わってきません。切り出しから不吉です。

 崇神天皇陵とされる行燈山(あんどんやま)古墳(墳丘長242㍍)。疫病の渦中、こんな大古墳を造れたか? これも謎だ

コメント 何の謎もない。「造れない」。そうでなくても、大勢のおとなが一斉に農務を離れたら、農政崩壊の亡国なので、工事は農閑期に限ったと考えるのが自然ではないか。大抵、近郊住民が通いで従事していたのだろうか。

 むしろ、初期段階に「緊急・最優先」の工事に集中することで、疫病の広範囲への拡散を招いたと見るのが順当な考えではないか。言うまでもないが、病人集団に肉体労働を課するほど、非人道的な君主ではなかったはずである。

 と言うような切り出しで、考古学界の一部で、不確かな資料の不確かな解釈の上に込み入った「論争」が展開されているとの報道のようだ。不得要領で、「沙中偶語」と見える。記者は、読者に何を伝えたいのだろうか。

○結末への疑問 
 ここでは、記者が結語部分に置いた「結末」を批判させていただく。

 これに対し、夏号に掲載された下垣仁志・京都大准教授のメールは、(1)の崇神期(3世紀末~4世紀初頭ごろに相当)の逸話には後世の事実が使われた可能性があり、信用性が問題と述べる。

コメント 同感である。崇神期の時代比定は、不確かとしか言いようがない。

 その前提の上で、崇神天皇の宮殿「水垣宮」の想定地、纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)は「水の都」と呼べるほど水路の多い湿地で、「疫病にはひとたまりもない」と指摘。加えて、日本書紀に記された当時の朝鮮半島との交流ぶりが考古資料から確認できる上、この時期に畿内と共通の要素をもつ古墳が日本列島に広く拡散した事実を踏まえ、内外の交流の活発化という条件から「疫病の可能性はある」という。

コメント 時代が不確実で地形特定できない背景で何の議論かと不審である。

 湿地を形成するほど水路の多い土地の水はどこから来たのだろうか。それなら、ちょっと掘れば、地下水が浸潤したのではないか。なぜ、治水や下水排水抜きで運河導水して、水害必至、非衛生的と理不尽な居処を構えたのか。不可解、不可解。

 纏向は、建物群造成に始まり、箸墓以後の墳墓群の造成など、大規模土木工事開闢の地とされていると思うが、土地整備抜きで古墳を造成したのだろうか。そんな土地を平城京に先駆する「都」と浮かれるのも、不可解である。

 (2)の縄文の人口減についても、北海道に渡った南海産の貝輪や、福岡県で出土する新潟県産のヒスイなどを基に「縄文中期に広域ネットワークができていた」と、人の交流や接触の増加を想定。「疫病の可能性は十分考えられる」とした。

コメント 幻視された古代交通網「ネットワーク」は、時代錯誤の極みである。思い付きは検証第一ではないか。文字通信の無い時代、人の移動しか意思疎通手段がなかったはずだが、推定している「ネットワーク」に従事する人たちは、農地を離れて往来して、何で喰っていたのだろうか。

 言うなら、ものには足があって自律的に移動するので、人が持ち回る必要はない。駅伝のタスキの如く隣村交換を繰り返せば、遠方まで伝わる。あるいは、少し足を伸ばした行商人で十分である。「巨大交通網」は不要である。
                                未完

2020年11月 9日 (月)

倭人伝随想 3 倭人への道はるか 数の話 3/3 改

                             2018/11/25 追記 2020/11/09
*戸数計算談義
 戸数計算の成り行きは、ぼんやりしています。

 投馬国記事の「可五万」は、四万数千から五万数千程度の一万の範囲と限らず、四万から六万強の間の二万余りの範囲を包含するとも思えるのです。到達に二十日を要する遠隔地で指導が及ばず、正確な戸数集計ができていない可能性が高いと思われるのです。

 これに対して、奴国記事の「有二万」は、一万五千から二万五千程度の一万の範囲とされ範囲が狭いのです。伊都国の近傍で、適切な集計ができていると思われ、「有」と言い切ることから精度が高いと見るものです。

 戸数集計は七割程度を占める投馬国戸数が不確かで、万単位の加算の結果である「可七万」も、五万五千から八万五千程度の三万の範囲にあると見られるので、その他千単位の戸数、家数も、書いてない多くの小国の戸数を想定しても、「可七万」は変わらないのです。
 端数を積み上げても端数であり、総計を変えられないという概数計算の原理が生きているのです。

 あるいは、名のみ登場する諸国は、複雑な計算をこなす官人がいない上に、戸籍制度も備わっていないので、「戸数」は申告しようが無かったのかも知れません。

*戸数の起源考 (追記 2020/11/09)
 「倭人」は、そんな世界ですから、全国戸数七万戸というのは、何れかの段階で郡に提出された、架空の数字の可能性も否定できません。
 何しろ、「戸」というのは、何世帯住んでいるかとか、家が何軒あるかという事ではないのです。その国の農業生産力、農地面積や動員可能兵力を知る重大な指標なのです。

 と言うわけで、全国戸数七万戸は、全道里一万二千里と同じように、倭人が、最初に公孫氏の遼東郡に接触した際に要求されて、無理矢理捻り出した、あるいは、押しつけられた「数字」であって、何しろ国の実態を離れた虚構であった可能性が否定できないのです。
 遼東郡から追いかけて明細を求められたあげく、どうにも説明のつかない五万戸を、遠隔の投馬国に押しつけたのかも知れません。何しろ、行程が、片道水行二十日ですから、郡から倭に監査が来ても、ごまかし通せると見たのでしょう。
 仮に、郡から派兵指示があっても、交通不便をもって固辞できるだろうと、腹をくくったのかも知れません。なにしろ一万二千里の彼方ですから。
 と言う事で、全国戸数七万戸は、「誇張」そのものでは無いかというのが、この場の思い付きです。

*伏せられた王治
 また、王治たる邪馬壹国の戸数は伏せられていますが、王治独特の事情で、戸数が僅少だったため、あえて開示しなかったものと推定します。

 総じて、倭人伝の後段の王治描写は、引き写しのように紋切り型で、時に場違いであり、おそらく、関係者こぞってのフィクションと見えます。女王制度自体が、中国文化に反する野蛮極まりないものであり、それ以上、中原文化人の神経を逆なですることはできなかったものと思われます。

*多桁計算の世界
 因みに、帯方郡自体は後漢・魏晋朝の地方機関として管轄下の住民の戸籍を完備し、戸数も人口数字と思われる口数も、一の単位まで集計しています。一円単位を追究する経理処理にも似た高精度多桁計算は、中国では、太古以来確実に運用されていたのです。
 但し、厖大な計算労力を要する上に、高度な計算能力を有する官人を必要とするので、滅多に実施されなかったのです。

*原文交錯
 里程記事の末尾で、本来、全体日数や全国戸数を全体里数と共に書くべきところが、国名列記などに割り込まれて乱れているため、原著者の意図が読み取りがたくなり、後世、種々の解釈が交錯したようですが、入れ違いを整理すると、随分明解になるように思います。

 倭人伝の草稿編纂は、おそらく、竹簡を紐綴じした「原稿用紙」で行ったでしょうから、そのような入れ違いはわざとではなく、物の弾みの綴じ違いでしょう。何か目的があって差し替えたとも思えないのでそう推定します。

*終わりに
 三国志全体どころか、魏国志全体すら読み通していないので、大所高所の議論はお受け出来ないのですが、倭人伝の世界で、以上の絵解きにご不満があれば、コメント頂いて結構です。

                                              完

倭人伝随想 3 倭人への道はるか 数の話 2/3 改

                             2018/11/25 追記 2020/11/09
*概数の話
 前回の表に里数、戸数の概念を示したように、本来、有効数字が一桁あるかないかの概数であり、加算は、それぞれ、千里、萬戸の桁で行われたと見ています。これは、当時常用の算木計算に相応しいものです。
 一桁あるかないかというのは、一、三、五、七と飛び石になっているようにも見えるとの意味です。いや、三は、大小比例で言うと一と五の中間では無いので、二とも三とも言えない数字を「数」と称した可能性があります。
 例えば、四千,五千,六千の範囲であれば、五千(餘)と言えば済むので、「数千」という意味が無いのです。いや、これは、倭人伝の大雑把な数の世界だけかも知れませんが。(追記 2020/11/09)

 世の中には、一里が短いと、すぐ百里、千里になって不自由だというお節介な人もありますが、里数(に限らず)普段の計算は一番上の桁でこなすので、単位が百里でも千里でも、手間は同じなのです。

*里数談義
 計算は千里単位で、七に一を三つ足し十となったのに、残りの端を足して十二「千里」としたのです。里数決定は、郡倭間を何日で移動するかの基準設定が目的で、里の長短自体は問題ではないことによるのです。

 倭人伝論に於いて、諸兄は、倭人伝の一里が、当時の中国里と大きく異なることを含めて種々の論議をしていますが、肝心な日数が、水行十日、陸行一ヵ月、つまり、一ヵ月と十日(四十日)と明記すれば用は足り、別に里数は意に止めなかったのです。とは言いすぎでしょうか。

*水行陸行

 詳しく言うと、水行十日、陸行一ヵ月は、そのまま読み取れます。
 水行は、狗邪末羅間の渡海で、一回千里、渡海一日に前後を足し三日が三回の九日に予備日で十日、三千里を十日で一日三百里となります。
 陸行は、残る九千里を三十日で一日三百里となり、見かけの辻褄がきっちり合います。

 未開地の旅程を捌いた帯方郡の知恵は明解では無いでしょうか。

*棄却提言
 最後に、倭人伝里数談で当然とされた幾つかの定理をここで捨てています。
 曰く、部分行程の里数総和は全体里数と等しい、とする古田武彦氏の提言は、概数計算の特性を見過ごした誤解と見ています。

 曰く、行程記事は、次々に各国を訪れるものであるとの先賢の提言は、誤解と判断します。
 一つには、郡倭行程は、最短、明解であるべしという考えです。
 二つには、君臨する倭国は交易中心伊都国と最短経路で繋がるべしということです。また、諸国間に利害関係がある以上、他国を延々と経由して、伊都国との間を文書や貨物を運ぶのは考えがたいのです。

 曰く、倭の王治が伊都国から水行十日、陸行一ヵ月とは、あり得ない話です。文字が無い時代に、遠隔地から伊都国を支配するのは、神がかりです

 曰く、倭人伝旅行ガイド説は、重大、深刻な時代錯誤です。皇帝は我が儘者でなく武の人です。端的には、倭は何人の兵士を何日で動員するか求めているのです。あるいは、倭に指示したら、何日で怪とあうがあるかという事です。

 曰く、水行を河川行と断じた中島信文氏の卓見は、先行妄見を凌いでまことに貴重ですが、倭人伝記事は、帝国文書使などの日程規定のためのものであり、実際の荷役は別として、日程不定の水行は、不可避の渡海しか採用出来ないとしたのですが、当稿の郡語説は納得しがたいでしょう。

 以上の絵解きにより、方位の取り違い、道の曲折、海流の影響とかを論ずる必要はないのです。そのかわり、女王王治の所在は不確かです。

                              未完

倭人伝随想 3 倭人への道はるか 数の話 1/3 改

                             2018/11/25

□倭人への道はるか 数の話
*始めに
 ここまで当ブログサイトで展開した議論のまとめを随想としています。

*地方規格の話
 中原王朝にとって、倭人は新顔の外夷であったため、その全貌は把握しがたく、折衝窓口となった帯方郡が、倭人伝として簡にして要を得た小伝を企図したもののうまく行かなかった点が諸処に見られるようです。
 帯方郡は、長く、遼東公孫氏支配下で中原育ちの官員を揃えられず、中国人の基本教養に欠けた地方語(郡語)入り記事を書いたようです。魏朝官人魚豢や西晋史官陳寿のような教養人が、難解な倭人伝原文を損なわない編纂に努めた結果、今日伝わる出色、異色の倭人伝が出来上がったようです。

*独特の概数記法

 倭人伝冒頭の里数、戸数関係記事は次表に総括できると思われます。表中数字は、ほぼ全てが「餘」付きで、端数は全ての例で切り捨てされたとしていますが、ここでは上下合わせた「約」と見て、「餘」を省略して、普通の表現にしたのです。


*総括の考え方
 1 里数、戸数は、ほぼ全て「餘」概数であり、上下両様と見ます。

 2 狗邪韓国は、倭人(倭国)に属しない通過点で戸数等情報はありません。

 3 伊都国が当時、交易物資集散地であったため、伊都国を扇の要として、各国への専用街道が敷かれ、以下行程は「放射状」であると解します。
 4 倭人伝である以上、行程記事末尾に、本来、全里数、全所要日数と全戸数が書かれているべきなので、復原を図りました。一方、伊都から王治にいたる里数、及び、邪馬壹国の戸数等は伏せられたとの解釈です。

                               未完 

2020年11月 7日 (土)

新・私の本棚 藤田三郎 吉野ヶ里遺跡と邪馬台国 季刊「邪馬台国」第138号 3/3

 唐古・鍵遺跡から見た邪馬台国 吉野ヶ里遺跡指定30周年記念シンポジウム
 梓書院 2030年7月刊 2020/11/07記

 私の見立て ★★★★☆ 良心的で開明的 考古学の王道を示すもの

*ゆるやかな共存と発展
 最近しみじみ思いますが、それぞれの地域社会は、自身が「世界」であり、手足の伸びる範囲が天下の時代が長かったはずです。ここで言う、「北和」、「南和」、「葛城」は、それぞれ、盆地壺中天から外界/下界につながる際に、別の経路を持ち、異なる産物を採り入れ、それぞれの得失有無を、それぞれの市での売買、等価交換などを通じて補い合っていたはずです。

 互いのつながりが維持されれば、殺し合い奪い合う「乱」は起こりません。「乱」は、外敵の仕業でしょう。西方の山並は、長年に亘り、まほろばの里を守る青垣であり、大和川水運や峠越えの不便は言えなかったはずです。

○精神文化の謎
 文字のない時代の遺跡、遺物ですから、文字情報は残されていないので、「文化」は存在しないはずです。まして、「精神文化」など、記録も何もない、後世人の夢想であり、考古学の埒外の呪文は控えた方が良いと思います。
 因みに、世界唯一の「文化」が実在したのが中国ですが、理解するには、中国語読み書きに通暁し、四書五経を諳んじることが要求されたので、文字の無い蛮人に伝わることはなかったのです。この点を理解しないと、古代史で意味のある論考はできません。

*貧弱な言語思想
 それにしても、「日本ライズ」、「倭化」とは、口頭で伝えられたら、一向に理解できず、紙上で文字を見ても、何のことか理解の限界を超えています。

 まずは、当時、「日本」は、影も形もなかったことを肝に命じていただきたいものです。それとも、考古学では、日本列島上は、時代に関係無く「日本」と称するのでしょうか。業界符牒という事でしょうか。

 「日本ライズ」とは、「日が昇る(サンライズ)」という趣旨でしょうか。ちなみに、英語でJapan化することは、時として、乱暴にJapanizeというのですが、だからといって、この時代を日本ナイズというのは、愚の骨頂です。

 また、当時、漢字がなかったから「倭」と書いても発音できないのです。講演者として不用意です。原稿チェックは、しなかったのでしょうか。

 ふりがなも何も付されていないので、当日、どのように発音したのかわかりませんが、「わか」なら、聴衆は「若」と解するはずです。また、「倭」なる文字自体なかったのから、講師が「わ」なり「ちくし」なり「やまと」なり発音するのは、愚の骨頂です。

 以上、氏ほどの碩学が、うろ覚えの言葉で、子供の寝言みたいに「つたない」、聴衆に意味の伝わらない言い回しを、熱心な古代史研究聴衆の前で披露するのは、一種自業自得とは言え、いい笑いものです。ここに誌上掲載されたのは、本紙編集部が居眠りでもしていたのではないかと懸念されます。

 愚行は広まらないうちに是正すべきものです。氏の名声を穢さないように、率直な苦言を呈するものです。

○まとめ
 講義自体を言うと、他で得られない大量の知識をいただいたので(用語の瑕瑾を除けば)絶賛するのです。

 特に、マスコミを掻き立てて世上を騒がしている、言うならば「纏向天動説」が、奈良盆地のごく一部の現象に過ぎないことがわかって、久しく伝統されている学会の王道に気づき、感動しました。それにしても、「唐古・鍵遺跡から」邪馬台国は見えないとは、痛快でした。

 差し挟んだ考察は、氏の講義で触発された夢想です。考証などできないから単なる思い付きです。
                                以上

新・私の本棚 藤田三郎 吉野ヶ里遺跡と邪馬台国 季刊「邪馬台国」第138号 2/3

 唐古・鍵遺跡から見た邪馬台国 吉野ヶ里遺跡指定30周年記念シンポジウム
 梓書院 2030年7月刊 2020/11/07記

 私の見立て ★★★★☆ 良心的で開明的 考古学の王道を示すもの

○環濠の使命考 承前
 南和支流は、大和川に流入する支流の一部に過ぎず、更に遡った纏向との連絡に、川船を多用するほどの豊かな水量は維持できなかったはずです。もちろん、高低差があるから、連絡運河造成不能は、自明と思います。そもそも、土木工学の未発達の時代に、現に流れている河川の川幅拡幅や底浚え改修などできなかったはずです。

 それにしても、環濠への入り口に、興味が募ります。渓流が直接流入すると土砂やごみの進入が予想され、浚える労力を低減するには、水溜に一度呼び込んで流速を落とし、沈殿させて、水門を経て導入するように思います。
 環濠浚えは大事業ですが、水溜浚えは、春秋社日にこなせたはずです。
 上流に、別の環濠があるとしたら、そちらが貯水してごみ取りしてくれるのでしょうが、水量が減る可能性があり水運に差し支えると思えます。渇水期には、水が途絶えて、環濠が干上がるかも知れません。空堀は、野獣侵入防止に有効でしょうか。

 「運河」から内陸湖沼への繋ぎ水路は、どんな構造、運用で実現していたのでしょうか。
 環濠からの適度の流出を保つには水門が必要ですが、川船の出入りも必要ですから、結構な設備になるはずですが、その時代に実在したのでしょうか。
 そもそも、盆地の傾斜地の川の流れの途中に環濠運河を設け、自由に出入りすることなど、不可能ではないでしょうか。いや、別に、実証実験して見せろというのでは無いのです。図示していただくだけで十分です。

*治水の意義考
 結局、運河水運より、灌漑疏水の働きが強いのではないでしょうか。水田灌漑に、十分な水量を水分供給し、頭領の面目を保ったのでしょうか。
 豪雨増水時には、集落への浸水を防ぐために緊急排水が必要ですし、それ以外は、頑として保水しないといけないのです。治水は、環濠の使命です。

*土砂堆積問題
 以上は、途中で土砂やごみを取り除く設定ですが、渓流の土砂は、湖沼干拓に必要ですから、堰き止めて良いのかどうか疑問です。

*木材調達考
 同集落では、青銅器の鋳造、土器の焼成と、大量の薪が必要だったと思われます。古代遺跡の消長に重大な影響を及ぼすのは木材資源の枯渇です。奈良盆地では、樹木伐採しても跡地に植樹しておけば、数十年後には、伐採可能な樹木が復活するのでしょうが。
 それに加えて、多数の建物を建造すれば、一段と樹木資源の枯渇が懸念されます。言うまでもありませんが、伐採過多で山腹が樹木を失えば保水力がなくなるので、土砂喪失の危険と相俟って水害の可能性が高まるのです。いや、雨季には、怒濤の如き積水がやって来そうですから、深々とした環濠は必須だったと見るのです。

 石積みの得意なローマ人なら、水防ダムを築くところでしょうが、土木工学は未発達だし、石切できる鉄器もないしで、結局、多数の墳丘墓に、それぞれ環濠を設けるしかできなかったのではないでしょうか。

 このあたり、考古学の基礎科目と思うので、当然、多大な考察が行われているはずなのですが、この場では、洪水があったという程度で、深刻さや発生要因については、語られていないように見えます。

○まほろば壺中天考
 三世紀、纏向に古代国家があって、それこそ、権力にものを言わせて、日本列島各地から献上品が届けさせたとの図式が専らの「畿内」論でしたが、本講義で説かれているのは、壺中天で、地域社会が種子から発芽し双葉から幼木となって成長する姿であり、言うならば、奪わず殺さずの共存と徳治の思想が窺えます。

*侵入の謎
 ところで、壺中天には、まほろばの青垣なる高嶺を越えて大挙侵入して奪い取るに値する財物がありますと、外界に伝わっていたのでしょうか。
                                未完

新・私の本棚 藤田三郎 吉野ヶ里遺跡と邪馬台国 季刊「邪馬台国」第138号 1/3

 唐古・鍵遺跡から見た邪馬台国 吉野ヶ里遺跡指定30周年記念シンポジウム
 梓書院 2030年7月刊 2020/11/07記

 私の見立て ★★★★☆ 良心的で開明的 考古学の王道を示すもの

○はじめに~唐古・鍵遺跡概要紹介
 藤田氏は、奈良県磯城郡田原本町の田原本町教育委員会埋蔵文化センターセンター長であり、以下、氏による同遺跡の紹介を引用します。

 同遺跡は、史跡指定以来二十年を経過し、史跡公園とミュージアムを備えていて、近畿地方を代表する史跡であり、弥生時代前、中、後期を経て古墳時代前期まで続いた大集落という事です。

 奈良盆地は、南北三十㌔㍍東西十五㌔㍍であり、同遺跡は、中央部に位置しています。盆地の遺跡地域は、北の「北和」、その南の「南和」、最南部の「葛城」の三地区が示されています。同遺跡は、南和のやや北寄りで、纏向は、同遺跡南方で大和川支流を、同遺跡を去ること四㌔㍍遡った位置です。

○明晰な解説
 肝心なのは、この講義で、奈良盆地内の古代状勢について、時間的にも、地理的にも、十分な考察が払われていることです。

 本誌読者各位も、初耳と思いますが、本講義の視点で語られた「畿内説」は、初物です。本講義冒頭の述解で、氏は、同地域遺跡の考古学考察に注力し、「邪馬台国」纏向説の考察に余り関わっていなかったとのことです。

 ただし、ここで説かれるのは、同遺跡と纏向遺跡が、「南和」の近傍でありながら、互いに服属とも闘争とも見えない、両者共立の意見です。一世紀以来三世紀程度の間、互いに干渉し合わなかったとの意見です。

○大和川水運考
 ここで異論を挟むのは、唐子から大和川を経て上下往来する船舶とか集落環濠を運河としたとか、学界通念かも知れない後世概念への大疑問です。

 氏は同意されないかも知れませんが、当時残存の湖沼をもってしても、大和川本流、特に河内側は、抑制の効かない暴れ川と見ます。

 また、大和川が河内方面に出る渓谷に沢道は無く、峠越えの山道は、人力の担い仕事と見えます。ただし、細やかな物流なので間に合っていたのです。

 この点、纏向に九州を統轄する古代国家を見る諸兄に異議はあるでしょうが、二~三世紀の壮大な水運は夢想に見えます。

 いや、鉄製農工具、製材具がない時代、山道整備も、丸太舟造船も、不自由だったはずであり、水運や山越え輸送は、困難と見るのです。

 私見を挟むなら、氏の触れていない淀川水系から木津川に移行し、木津の川港を経た「なら山」越えで奈良盆地に入り「北和」に至る経路が、時代相応の主力輸送経路と推定しているので、ご評価いただきたいものです。

○環濠の使命考~思考実験
 同様に、当ブログ筆者は、ここで足を止め、素人考えの思考実験を展開しました。当然、氏の論考で説明されていますが、ご参考まで書き連ねます。

 集落を囲む環濠は、集落への野獣侵入を防ぐ実用性があり、さらに、決して多雨地帯でない同地域の水田稲作を支える「ため池」と思います。

 言うまでもありませんが、運河は、全長に亘り高精度で、水平を保つように等高線沿いに水路掘削する必要がありますが、それほどの土木技術はあったのでしょうか。水位保持は、とてつもなく大変だったと思うのです。

 恐らく、運河の基本機能、構造をご存じない方の戯れと思います。

                               未完

新・私の本棚 岡田 英弘 「倭国の時代」 改  2/2

 ちくま文庫 2009年2月初版  
私の見立て ★★★★☆ 独創強引の歴史講釈 2020/01/17 追記2020/11/06

○東夷西戎の不均衡
 衆知の如く、倭人伝は、夷蕃渉外の一端であり、本来並記すべき漢代以来の西域伝を敢えて割愛したのです。西域伝を欠くことは、賈豎(商家の小僧)にわかる不備ですが、大して誹謗されていないと見えます。

 三世紀当時当時、魏代西域渉外は、言うに足りる功がなかったと知れていたものと思われます。歴史地図では、三国鼎立時、西域は、魏の支配下であって、「西域長史府」なる「組織体」が西域を管轄していたと見えますが、実際は、後漢末桓霊代以来、魏に至っても、西域支配は断絶していました。

 霊帝末に、河西回廊の涼州勢力は、曹魏支配から自立し、成都の蜀漢と連携して、関中の旧都長安の獲得を目指していました。と言う事で、涼州の壁が、魏と西域の間を封鎖していたので、曹魏の西域支配は成立しなかったのです。支配していない西域の「伝」は書きようがなく、魚豢は、後漢以来の事績を「西戎伝」にまとめて、魏朝の欠点を覆い隠したのです。

*「月氏」の虚構
 来貢記録の月氏は、漢武帝以来の古狸で交通途絶していましたが、その国を奪った貴霜が遠路到来した時、怠慢を責めず久闊を叙した印綬です。
 「魏略」編者魚豢は魏朝官人で、その佚文は魏朝本位であり、諸葛亮は逆賊として罵倒される具合ですが、孫引き引用は、当然不正確と見えます。

 但し、西戎伝は、裵注が劉宋帝室善本を魏書末尾に「全文収録」したので佚文ではありません。裴松之は、陳寿が、漢書ではなく献帝時に「左伝」を念頭に編纂された荀悦「前漢紀」に範を求めたと見て共感したが、世の熱望黙しがたく付注した一環として、世の「西域伝」割愛不満に対応したと見えます。そのため、漢書西域伝に続く、「後漢」西域伝の大要が残っているのです。二十世紀初頭に世紀を迎えた欧州の西域探検家達は、魏略西戎伝を、座右の書として、オアシス都市の探検に臨んだと言われていますから、後漢代の西域事情を記すものとしては、最上の情報源だったのです。これに対して、范曄後漢書は、自身の理解に従って造作したため、不正確な記録になっているのです。

 岡田氏は、陳寿が、王沈「魏書」なる幻の先行史書を下敷きにしたと言いますが、裴注で引用されていないのは、同書には、西域伝不備であったと示しています。

 まとめて言うと、魏志第三十巻末の魏略「西戎伝」に魏自体の月氏功績は皆無です。貴霜(クシャン)をはじめ、数国が堂々と来朝したと錯覚されていますが、丁寧に読めば、実態の無い造作であることが、素人にも確認できるはずです。

 因みに、氏は、著述にしろ、写本、刻本にしろ、複数の専門家が、注意力を振り絞って校正すれば「ポカミス」は、ほぼ撲滅できるという基本原理をご存じないのでしょうか。専門家は、凡人の軽率を克服できるのです。

○史書嘉納
 司馬懿は、明帝から、継嗣曹芳の支持を遺託されながら、後年、退位させたと明記されています。蜀先主劉備の白帝城での遺託が、諸葛亮によって、その死に至るまで守られたのと対比すれば、陳寿の筆は明らかです。そもそも、「三国志」と称するものの、呉志は孫堅の偉業を、蜀志は劉備と諸葛亮の盟約を謳い上げています。
 晋帝は、そのような陳寿の筆を承知の上で、魏書を嘉納したのです。

○勿体ない断言
 岡田氏ほどの巨匠でも、人間的な欠点は一つならずあるようです。勿体ないことです。特に、学界大勢の子供じみた曲筆同調は氏の見識を疑わせます。
 聞くところでは、氏は、氏の著書は、学究の最終形で、ご意見無用と表明したようです。おかげで、氏のご威光の残照が、広く影を投げているのです。低レベルの意見ほど、派閥を問わず、広く伝わるのです。

○まとめ
 所詮、大家の卓見に、素人が口を挟んでも、世間に一顧だにされないのですが、ここでは、氏の壮大な講義に対して、率直な異議を呈するのが、素人の素人なりの務めと思うので、ここに、愚見を呈したのです。
                                 完

新・私の本棚 岡田 英弘 「倭国の時代」 改  1/2

 ちくま文庫 2009年2月初版  
私の見立て ★★★★☆ 独創強引の歴史講釈 2020/01/17 追記2020/11/06

*不似合いなお手本
 本書批判を後回しにしたのは、冒頭、「マレーシア年代記」が、誇張に溢れた創作で、史書として不正確極まりない悪書との評価を投げ付けて、凡そ、史書は、みんな嘘だと決めつけているからです。一刀両断です。ただし、同年代記は未読では、氏の判断に異論は唱えられませんが、伝説、神話の類いは創作文芸だから、史記以降の中国史書と別世界、同列に評するのは見当違いと見ます。

○対比困難な「三国志」
 何しろ、三国志は、裴松之付注で見られるように、編纂資料が山積で、勝手な創作は不可能です。つまらない嘘はすぐばれます。
 特に、三国志は、魏朝直後の編纂であり、稚拙な曲筆はあり得ません。蜀志、呉志は両国視点で書かれていて、陳寿は魏朝正統説による無益な改竄はしていません。

 史官は、史実継承を「天命」としていたから、曲筆はお門違いです。凡そ、史官への誹謗中傷は、論者の人格投影像に汚物まで投げる自損と見えます。

*当て外れの非難 無謀な講釈
 ご指摘の武断は、国内史書、例えば、「日本書紀」に当てはまるとしても、「三国志」、就中 魏志倭人伝に関しては、ご巷説は承るものの、倭人伝執筆背景も含め、氏の名調子の創作てんこ盛りで説かれては、調子良すぎて同意しきれません。
 所詮、氏は、現代の俗人(士誠小人)であり、気骨の士の真意は理解できないようです。

*年賀会の怪
 司馬懿が、倭使を年賀会に参席させて威勢を高めたとは「創作」でしょう。明帝没年に年賀会は無かったのは明らかですから、新帝曹芳の正始年間のことでしょうが、そのような記録は見当たりません。。

*司馬懿の暴挙~喪われた功業
 司馬懿に求められたのは、公孫氏排除のはずが、ご当人は、長年の対蜀戦での不甲斐ないとの評価を、遼東征戦で拭い去りたかったのではありませんか。遼東を、丸ごとぶっ潰した無用な暴虐が明記されています。

 明帝は、司馬懿の暴挙を苦々しく思ったでしょうが、講評しないまま夭折したので、その真意は知ることができません。私見では、新王朝の始祖たらんとしたとも見える「烈祖」たらんとしていた明帝は、公孫氏を放逐しても遼東郡組織は温存し、幕僚として信頼の篤い毋丘儉の指揮で東夷に威令を弘布する深謀遠慮を有していたと思えます。

 帯方郡が無血回復され、太守更迭だけで、郡の細(ささ)やかな東夷管理体制は温存されましたが、その際の最大の功業者毋丘儉は、後に奪権した司馬氏に対して挙兵し、誅殺されたので、伝は残されたが功は語られません。ただし、倭人来貢がその功であり、司馬懿は東夷平定に無関心であったと読めるから、司馬懿を高め毋丘儉を貶めてはいません。

○行程道里解釈の不首尾
 勿体ないのは、氏の現地体験で、郡から狗邪韓国の陸上行程の「竹嶺」(鳥嶺)を経る古代街道の存在を認識しながら、同地を越える「中央線」乗車の機会を逸したせいか、倭人伝行程道里解釈で無造作に海上行程をとることで、まことに、まことに不可解です。

 つまり、竹嶺で小白山地を越えて洛東江上流に降りる誇大街道の陸路は、氏のご名算ですが、後段、信をおけないはずの倭人伝俗解釈にとらわれて、折角の確固たる陸路を放棄し、経路、用船、運航体制、全て不詳で、「延着」「難破」必至の沖合航行を推すのは、「読み下し」に足を取られたようです。
 氏は、いい加減な道里行程をどう通ろうと問題無いとの割り切りでしょうか。読者は、氏の論考の瑕瑾に気づかないと見くびられているようです。
                               未完

2020年11月 5日 (木)

新・私の本棚 七田忠昭 吉野ヶ里遺跡と邪馬台国 季刊「邪馬台国」第138号 改 3/3

梓書院 2030年7月刊 吉野ヶ里遺跡指定30周年記念シンポジウム 2020/07/05記
「邪馬台国の今 ~弥生時代の研究のFrontline~

私の見立て ★★★☆☆ 良心的で開明的

*東夷伝語彙の確認
 東夷傳の「国」は、漢の「国」と全く異なるものです。漢は、中央から行政官を派遣して統治させる「郡」以外に「国」を設けましたが、国「王」は皇帝親族限定であり、藩屏、「藩」として、身をもって皇帝を守る盾です。

 蕃「国」は蛮夷をおだてて懐柔するものであり、それは、蕃使を「客」ともてなすのと同様です。漢蕃用語に後年「寧遠」なる概念がありますが、懐柔して叛意を失わせれば国益に繋がるとの主旨を示唆しています。

 現代では、いかなる国も国際的な独立主権を認められれば、外交関係を確立できますが、当時、対等の関係はなく「外交」はなかったのです。

*夜郎自大の戒め
 以上、子供に言い聞かせる指摘をするのは、古代史に於いて、「夜郎自大」的な意識が漂っていて、誇大な自画像を描く傾向が見られるからです。

*外交の幻想~破天荒の新説
 七田氏は、後漢期に、倭に「外交」が存在して漢帝を操ったように書きますが、「外交」錯誤の果てに人身売買妄説では余病は深刻です。漢と取引して、人を売って鏡を買うとは、漢皇帝も倭王も、見くびられたものです。漢は。絶大な権威と厖大な国富を有していて、取るに足りない東夷の蕃王を取引相手として、人鏡交換するとは、とんでもない夢想でしょう。

 氏は、その「外交」の背景として、皇帝が若年で、徳を補うため徳の豊かな東夷を買い求めたと見ていますが、どこで拾ってきた風聞なのか、いい加減な思いつきを言うものです。

 漢帝は、天子であり、私見では動かず、自身が「徳」に欠けると悟れば、臣下に愚策を指示して軽蔑を買うのでなく、むしろ譲位します。

 文字が無く先哲の書を読めない蛮夷、つまり、人間以下の存在から、何を、文化情報として受け取ろうというのか不審です。文字を読めないから、目に先哲の言のない、つまり、先賢の書を一切解しない、端的に言えば人とは言えない蛮夷から、何を学ぼうというのでしょうか。まことに、不可解です。

 まして、そのような蛮夷を、百人どころでない数で押しつけられたら、使い物にならないものをどうしようもないでしょう。何しろ、意思疎通ができないので、用事を言いつけようもなく、行儀を教えることはできないし、使い走りの役に立たないし、力仕事を言いつけても、道具の使い方を知らないし、そのくせ、食べ物は違うし、何たるお荷物かという事です。

 と言うものの、そのようなお荷物を、海山越えて数ヵ月引き回した、倭の者もえらい迷惑です。毎回、お荷物を運ばないと鏡が手に入らないとしたら、飛んだ「エビでタイ」、伊勢エビで鯛焼きを買う体でしょう。何しろ、海峡越えの漕ぎ船は、二十人を超える漕ぎ手で、数人運べるかどうかという輸送能力ですし、一人運ぶのに一人護送要員としたら、総勢、三百人の大部隊になるのですから、何回海峡越えしないといけないのか。もちろん、一人ずつ一人分の食料を食らうのです。お荷物が、逆らいもせず逃亡もせずならともかく、数ヵ月の先に着いたところから帰ってくることはないと知ったら、只事では済まないのです。

 冗談も休み休みにしてほしいものです。

 それにしても、この新説は、どのような文献史料に依拠しているのか根拠不明です。
 氏は、懸命に感情移入していますが、まず、史料批判、時代考証が必要でしょう。なぜ、ここぞとばかり、俗説派にお手の物の国内史料重視/正史軽視の弁舌を振るって、誤記、捏造、改竄、記憶違いを持ち出さないのか不審です。一番簡単なのは、史家の虚言です。三国志の権威によれば、史家は、みんな嘘つきだそうですから、虚構説が一番、周囲に迷惑がかからないのではないでしょうか。

 二千年前で時効とは言え、ご先祖様を、人道の大罪である人身売買で断罪して、何も感じないのでしょうか。

*用語錯誤
 このあたり一貫して、「日本史」感覚で中国史料を解釈していて不具合です。氏の周辺で「夜郎自大」は、陋習として、広く蔓延しているようです。

*「名付けて卑弥呼」
 倭人伝を「名付けて卑弥呼」と読むのは、飛んだ誤解です。当時、実名は親からもらったもので、勝手な改名などあり得ないのです。(大変な親不孝です)一部言うように「卑弥呼」が官名であれば、魏帝に向かって、実名を秘匿して、職名を実名扱いというのが不都合です。
 「日本」に改名、改姓があっても、当時、漢文化の支配下では、とてつもない時代錯誤です。

*「お隠れになった」
 「お隠れになった」とは、痛烈な倭人伝批判であり、要は、「死んじまった」ということです。女王になって以来、人と会見するのが希になったというのを、死んだも同然と決め付けているのだとしたら、大変辛辣です。

*倭人伝解釈の原点確認
 国内史料解釈は、夜郎自大で済むのでしょうが、中国史料を「夜郎自大」、日本語、現代感覚で読み進めるのは、度しがたい勘違いです。

〇まとめ
 批判が続いたように見えるかも知れませんが、批判されているのは、古代史学界全体を覆う忌まわしい風潮であり、七田氏だけのものではないのです。

 氏の講演で最も不出来なのは、史料批判不足/欠如の范曄後漢書倭伝解釈を根拠に、古代史学界の汚点「人身売買」論を蒸し返したことです。厳に戒められるべきでしょう。九州北部の人々は、いつまで、先祖が人身売買したとの汚名を着せられるのでしょうか。古代人を誹(そし)っても、反撃されることはないので、言ったもの勝ちという事でしょうか。

 自明と思いますが、ここに挙げた「国」体論は、傘下の各小国には適用されません。対馬、壱岐の「方里」も、別儀です。

*叱咤激励の弁
 氏は、在野の野次馬ではないので、中国史料の文献解釈の際には、無批判に、国内史料視点の先賢の所説に追従するのでなく、健全な批判精神を失わず、また、根拠の乏しい暴論を踏襲・高言しないようにご注意いただきたいものです。

                                以上

新・私の本棚 七田忠昭 吉野ヶ里遺跡と邪馬台国 季刊「邪馬台国」第138号 改 2/3

梓書院 2030年7月刊 吉野ヶ里遺跡指定30周年記念シンポジウム 2020/07/05記 追記2020/11/05

「邪馬台国の今 ~弥生時代の研究のFrontline~

私の見立て ★★★☆☆ 良心的で開明的

*「国」民処遇
 王の統治を支える「公務員」に軍務は無意味です。「近衛兵」は必要ですが、「公務員」の職務であり徴兵はしないのです。税の一部「労役」で駆り出して、道路、灌漑水路、宮殿の整備などにあてるのもあり得ないのです。
 「国」民が免税であるというのは、そういう意味です。
 そのような住民の人数は、後世の帝都住民のように多数ではないのです。

 何しろ、食糧自給できず、周辺の農地の収穫に依存するから、精々、数千人にとどまるはずです。それが、三世紀の時代考証です。

*「国」体論
 全国戸籍制度が未整備でも、「国」の住民台帳が未整備の筈はないのです。徴兵、徴税しないとしても、お膝元の住民管理は緻密の筈です。識字官僚を多数養成し、日本語で言う「経理」、財政実務、計算術に長けた官僚もいて、「国」民、成人男子、識字官僚の数なども、緻密に把握していたはずです。

 輸送や交通には、牛馬が不可欠で荷車も必要です。しかし、倭人伝は、牛馬駆使は無かったというから、「国」を支える物資輸送や文書通信は、人力に頼っていたのであり、巨大な「国」は成り立たないのです。

*用語考証
 因みに、七田氏は、無造作に「都」、「宮殿」(臺)と言いますが、当時の史書では、蛮夷の「国」、蕃国に蛮夷の「王」、蕃王がいても、蕃王の居処を「都」、宮殿を「臺」と呼ぶことは認めなかったのです。

 従って、倭人伝を解して、王の「都」を読み取ったとしたら、それは、誤解です。また、王の宮殿を「臺」としたらそれも誤解です。

 中国史料の誤解は根深いので、氏には初耳かも知れませんが、史料本位に読解すると、一定の境地に至るのです。

*後漢書隔世
 後世史書の范曄後漢書は、「大倭王居邪馬臺國」としています。それは、西晋が蛮族の攻撃で崩壊し、天子が捕虜となってなぶり者にされたあげく殺されるという下剋上大乱の後であり、笵曄の辞書は、陳寿と異なっていたので、「小国」盟主を「大倭王」と呼び、その居処を邪馬「臺」と呼ぶのに、禁忌はなかったのです。

*古代学語彙の風化
 因みに、七田氏の語彙は、国内史料本位の俗説派用語というものの、現代日常語の侵食が進んで感心しないのです。「はっきり書いている」など、日常語世界に足を引っ張られて低俗であり、こども言葉はやめて、大人の言葉で「明記」されているとけじめを付けるべきです。聴衆を、子供っぽい言葉しか解しないと決め付けるのは、大変失礼でしょう。つまり、行間から読み取れる「示唆」でなく「明示」されているとの主旨です。
 続いて、「トップ」とカタカナ語が突然乱入しますが、卑弥呼はスイーツのトッピングのようなお飾りでしょうか。
 子供っぽいカタカナ言葉はやめ、ちゃんと大人の「日本語」で書くべきでしょう。

 当記事は、講演録でしょうがないのでしょうが、学術的講演は言葉を改めるべきだと考える次第です。そうしないと、後日著書拝読の際に、食い違いに悩むのです。ある程度、日常語を離れて語る必要があると考えるものです。

*外交談義の序章
 七田氏の講演に、世間並みに「外交」なる時代錯誤が彷徨していますが、誤解を誘うので避けるべきでしょう。

 三世紀時点で、「中国」(漢と総称)と蛮夷の間の関係は、対等の二国間「外交」などではなく、「漢蕃関係」、つまり、漢が蛮夷をどうあしらうかという関係だったのです。当時、蛮夷を「外国」と呼んだとしたら、それは、漢の文化圏に属しない野蛮人の意です。決して、漢と対等の存在と見ているのではないのです。
 時に、蛮夷を「客」というのは、漢字の読める蛮人が、「蛮」、「夷」と呼ばれると、蔑称だと逆上、激怒するので、ご機嫌を取っているのであって、別に、敬意を表しているのではないのです。むしろ、「客」の文字が、蛮夷の示唆になるのです。鴻廬の掌客と言えば、現代語で言えば「接客担当」のように見えますが、実は、蛮夷の遇い(あしらい)役だったのです。

                                未完

新・私の本棚 七田忠昭 吉野ヶ里遺跡と邪馬台国 季刊「邪馬台国」第138号 改 1/3

梓書院 2030年7月刊 吉野ヶ里遺跡指定30周年記念シンポジウム 2020/07/05記 追記2020/11/05
「邪馬台国の今 ~弥生時代の研究のFrontline~』

私の見立て ★★★☆☆ 良心的で開明的

◯はじめに
 七田忠昭氏は、佐賀城本丸歴史館館長であり、考古学者として中国史料と親しんでいない旨明言されています。しかし、責任ある地位の方として、公開の場で講演するからには、当然、十分予習されての上と考えます。
 当記事は、掲題シンポジウムでの講演内容ですが、公式見解に対する批判を加えさせていただくことをご容赦下さい。

 本記事は、邪馬台国誌の七田氏論説の「図」で触発された議論ですが、表明されたのは氏個人の意見ではないことは承知で、格別に率直に批判するものです。

 と言っても、「図」自体の批判ではありません。近来氾濫しているまやかしの「イメージ」などでなく、概念図としての氏の思考の図式化は大変参考になるのですが、氏の古代史概念が錯綜していることを指摘しているのです。

◯時代錯誤の由来を探る
 図の懸念は、「邪馬台国」(倭人伝に言う邪馬壹国)が二重基準で書かれてことです。つまり、領域を持つ「国」、邪馬台国の領内に「倭」と邪馬台国の宮殿がある図式です。縦長楕円形内に〇二つの表現自体には不満はありません。倭は、諸国連合らしいし、両「宮殿」は環濠集落らしいのです。

*国と畿内
 当時の中国史書では、中原天子の畿は、天子王城を中心に半径千里の領域なのです。
 天子の威光は、光芒の如き直線的な距離に及ぶものですが、蛮王に威光はないというものです。

 東夷伝の高句麗は「方二千里」ですが、あくまで、耕作地の集成であり、耕作地外の地を含まないと見えます。敢えて、後世概念で、領域の広さを問うと、「方五千里」相当になるのではないかと思量します。つまり、国土の大半は「耕作不適」ということです。

*戸数と方里
 耕作地の面積(方田)は、全国戸籍を合算すれば、概要を知ることができるから、戸数に連動して、集計されていると思われます。つまり、農業生産力、獲れ高と動員可能な男子数が、国力指標として示されたと見えます。

 当時の蛮夷「国」は、領域面積では把握されていないと見えます。

*戸数錯解
 描かれた広域「邪馬台国」は勘違いで、「宮殿」が「邪馬台国」でしょう。

 倭人伝から「邪馬台国」戸数が、「可七万余戸」(正確な数は不明。憶測して七萬程度)と速断している解釈は、不合理な憶測とわかります。「邪馬台国」の姿を「王の居処」と見定めれば、それは一個の環濠集落であり、七萬戸の戸数は到底あり得ないとわかるのです。「邪馬台国」を、漢制の国と同一視、誤解しているから読み損なうのです。
 是正すると、「邪馬台国」戸数は千の桁、ないしはそれ以下となるのです。

*戸数談義
 ここで、戸数の概念を見直すと、先に確認したように、戸数は、本来、耕作地面積や成人男子の人数に、強固に連動しているのです。

 しかし、王の居処「国」の耕作地面積は無意味です。現代風に言う「公務員」を抱えていて食糧自給できず、収穫物を徴税はできません。

 また、古来、「首都圏」とみた「国」民は、凡そ税を納めないのです。大半が、国の「給与」で生計を立てているから、そこから「税」を取るのは無意味です。免税は、城内市、後の都市(といち)の振興に効果があります。

                                未完

新・私の本棚 平野 邦雄 邪馬台国の原像 1 「野性号」談義 改 3/3

 学生社 2002年10月初版
 私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/02/02 補足 05/14 11/04 2021/09/09

○魏使行程海上不通の弁
 以下、私論を連ねますが、当時、帯方郡が、官制道里として、郡から狗邪韓国まで海上行程を設定していたとは考えられません。
 このように、倭人伝道里行程記事の交渉から「海上行程」を排除すれば、議論の空転、時間の浪費を避けられるのです。

*帆走風待ち、潮待ちの難
 平野氏が操船技術の基本を提起しているように、当時の帆走技術では、定期航路の維持は不可能です。適度の追い風を受けたときだけ帆走できるものであり、向かい風や横風は、難船を招く物です。つまり、風待ちを重ねて、ようやく維持されるものですが、何日、いい風を待つのでしょうか。

*帆船操船の難
 氏は明言を避けていますが、帆走では適確な操舵ができないため、想定される多島海運航は難船必至です。帆船の重厚な船体は、操舵補助の漕ぎ手を乗せていても、手漕ぎ転進は困難です。入出港には、地元の手漕ぎ船が「タグボート」のように船腹に取り付いて転進させることになります。

 そのような人海作戦を要求される帆船航行が維持できたとは思えません。もちろん、山東半島と帯方郡を往来する渡船は、平穏な航海であり、また、船荷豊富と思われるので、入出港タグボートは動員できたでしょうが、客の滅多に来ない航路では維持できなかったでしょう。現地の岩礁、浅瀬を避けられるのは、小振りの漕ぎ船に乗った、老練の漕ぎ手達です。

 と言う事で、半島沿岸を帆船で往来していたとは、とても、とても思えないのです。関係者は、確実な史料をお持ちなのでしょうか。

○駅伝制採用と島巡り廃止
 当時、海峡渡海は、市糴で常用されていたから実証不要ですが、難行苦行と報告されている「島巡り」不要の駅伝方式と見ます。

 渡船乗り継ぎの提案です。海上泊は不要で、甲板も船室も煮炊きもいらず、また、日々寄港して休養できます。
 漕ぎ手は、都度、地元の者と交代し、自身は、帰り船で母港に帰るので、負担の軽い、維持可能な勤務形態です。別に、連日運行ではないので、漕ぎ手に無理をさせないのです。

*駅伝制~交易の鎖
 その際、舟も交代させるから、船主は、短期間で舟と漕ぎ手を取り戻せるので、持ち合わせた船体と人材で、市糴を続けられるのです。

 閑散とした沿岸航行の近場専用の軽装であれは、船体は軽量で漕ぎ手の負担が軽減されます。区間限定で、船と漕ぎ手を入れ替えるのであれば、淡々と定期便を運行できるのです。繁忙期には、運行間隔を縮めるなり、予備の船幅を提供するなりして増便すれば良いのです。

 つまり、無理して一貫航行しなければ、適材適所の船体と人材で、楽々運用できるのです。(半島沖合船行すら、運用可能なのです)
 特に、行程の短い渡し舟は、中原でも渡河の際に常用されていて、多少、所要時間は長いものの、常識の範囲と見えたのです。
 また、山東半島と朝鮮半島の漢は、古来、便船が往復していて、こちらも、何の不安もなかったのです。つまり、魏使の携えた大量の荷物は、帯方郡治までは、難なく運ばれたのです。
 問題は、前代未聞の半島沖合船行だったのです。

*官制航路への起用
 倭人伝冒頭に展開される道里行程記事は、郡から倭の王城に到る行程を皇帝に上申する文書であり、そのように理解しなければ、文書の深意を見損ないます。

 俀国の根幹である公式文書便は、渋滞、遭難なしで、迅速かつ確実でなければならず、つまり、日数死守です。経路選択は、慎重な上にも慎重で無ければなりません。

*水行論
 後代の「唐六典」には「水行」の規定がありますが、これは、大量の穀物輸送、つまり、華南産の大量の米俵を華北に送る官用輸送便の一日の輸送距離と運賃について、統一規定したものであり、文書便の走行距離を示したものではありません。国制として文書便を送達した「飛脚」は、甘英なので、運賃を規定する必要は無かったのです。
 もちろん、唐代は、長江(江水、揚子江)流域を支配下に収めていましたが、三世紀、江水流域は、蜀漢、東呉の勢力下にあり、華北に送達する官用輸送便など成立していなかったのです。つまり、唐六典の規定を、三世紀に適用するのは、重大な時代錯誤なのです。河水(黄河)の事情も、隔世の感があり、河水本流の下流部は、太古以来毎年の氾濫のくり返しで、両岸が荒れ地と化していて、荷船は、洛水などの支流を利用していたのですから、「唐六典」「の規定は、場違いなのです。
 まして、辺境であって、官制の「水行」、つまり、河川航行の規定が行き届いていない帯方郡管内に河川水行は論外であり、かといって、「水行」を、太古以来採用されていなかった沿岸航行の意に捉えるのは、二重三重の錯誤を冒しているのです。

 それとは、事情が違うにしろ、皇帝下賜の宝物の重量、大量の貨物と使節団を、「板子一枚下は地獄」の船旅には託しません。遭難時、使節関係者は重罪に問われます。いや、そう見ると、はなから、魏使の船便利用は、あり得ない無法な策です。
 私見ですが、古代中国が「国民皆泳」とは思えないので、金槌ぞろぞろの可能性があり、古代人だって、勅命とは言え、命は惜しいのです。ゴロゴロ船底を転げ回りつつ、睡眠を摂るなど到底できなかったでしょう。

*まとめ
 氏は、立場上、実証航海の否定的論議はしませんが、本書のコラムにまとめたのは、決定的な「成果」でないことを示しているようです。

 本書の本題では無い「コラム」の批判ですが、氏の、書籍全体を貫く堅実な考察に不満があるわけではなく、偶々、手掛かりの着いた議論の瑕瑾、それも、氏自身の本位で無い記事なので、本書に対して、当ブログにしては高評価なのです。

                                以上

新・私の本棚 平野 邦雄 邪馬台国の原像 1 「野性号」談義 改 2/3

 学生社 2002年10月初版
 私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/02/02 補足 05/14 11/04 2021/09/09

*半島西岸事情
 韓国側の顧問と見られる方東仁氏は、以下の海況を述べています。
 ⒈ 西海域は、干満の差が激しく、時に十㍍に及ぶため、海港からの出港は引き潮に、入港は、上げ潮に合わせたと思われる。

 コメント そうしないと、接岸施設の利用が覚束ないのです。満潮時に海浜に乗り上げた場合、引き潮時は取り残され、出港しようがないのです。まことに理の当然です。
 当海域の干満が激しいのは、黄海/渤海湾が奥深いため、干満時の海水往来が著しいためと思われます。

 と言う事で、出入港には、潮待ちが必要であり、常時往来していた渡海船の場合はともかく、未知の海域に乗り込むには、潮時を知る手立てが必要です。確実なのは、現地の水先案内を雇うことであり、そうすれば、岩礁なとの位置を知ることができますが、水先案内が通用するのは、精々隣の港までであり、隣の港では、別の水先案内を雇うことになります、

 と言う事で、一日の航海が終わると、水先案内の交代ですが、まずは、漕ぎ手と舟の交代が考えられます。小船の替えに不自由はないのです、

 西沖合海域の航行が終わるまでに、何回寄港し、潮待ちし、舟を替えたかは不明ですし、この点は語られていません。頭から、一貫して漕ぎ続けたと決めつれけているようです。

 ⒉ 南海域は、多島海であるが、干満の差は激しくはなく、ほぼ通年南西季節風が絶えないので帆走に利用できたはずである。

 コメント 帆船航行の示唆ですが、西海域は、およそ帆走できない海況であり、その間、帆を下ろして走行との想定でしょうか。帆船航路運用に必須の帆布、帆桁の替えは用意できたでしょうか。そして、何より問題な潮流逆行はどうなのでしょうか。
 肝心な課題点が、等閑にされているのは不穏です。

*對海国渡海事情
 平野氏の述解によれば、船は、韓国の国境検問のため釜山(プサン)入港し、そこから対馬に向かったものの、逆流に難航して、巨済島(コジェド)沖の南兄弟島で気息を整えて、対馬に出港し、以下、旅程完了とのことです。

 つまり、当航海の目的は、郡倭行程での半島西南海域船行解釈の実証であり、一部に難行程があっても克服したという実績を指しているのです。

*浅薄な狗邪非寄港談義~余談
 このあたりの経験談を生かじりして、半島南海域船行から狗邪韓国寄港を廃し、さらには対馬寄港すら割愛しかねない「狗邪非寄港」説を見かけますが、当実験航海の趣旨を見くびる浅薄な意見です。

 更に言うなら、里程道里記事全体に加え対馬条の「南北市糴」記事まで無視しています。史料記事を自分好みに改竄するのは愚考の極みです。

 当ブログ筆者の意見は、郡から一路陸道を南下し、狗邪韓国の岸辺から、渡海水行の途に就く、「自然」な行程が、官制街道として倭人伝に書かれたという主張ですから、机上空論の経路迂回など論ずるに値しないのです。

*倭人伝に沖合航行はなかった
 結局、半島沖合船行仮説は、陸上輸送の二倍の日数の上に、船数不足、難船懸念に迫られて、魏使の便船とはできなかったものと見えます。

 一方、潮待ち、風待ちがなく、定時運行で、横揺れ、縦揺れが無くて船酔いせず、水漏れもなく、時化に遭っての難船、転覆の無い、不沈の半島内陸行は精々二十五日程度整備された街道を粛々と進むのであり、既に一世紀に亘る実績によって、運用は定型化されていて、街道筋の宿舎は完備し、一方、事前の通達で荷が多いと知らされていれば、その当日の要請に合わせて必要なだけ人馬を増やすだけです。

 なぜ、官制の定める一本道の陸行を避けて、遠回りで難儀で、しかも、官制に反する無法な沖合航行を選択するのか、魏使の分別を疑いたくなります。

〇野性号所感のまとめ
 丁寧に読み進めば、大勢の努力で実現した実験航海で、(現代の科学技術の支援があれば)「不可能でない」と証された航海は、三世紀の官制に規定べき倭人伝道里には、採用不可能とわかるはずです。
                                未完

新・私の本棚 平野 邦雄 邪馬台国の原像 1 「野性号」談義 改 1/3

 学生社 2002年10月初版
 私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/02/02 補足 05/14 11/04 2021/09/09

〇総評
 本著は、「邪馬台国論」の書として、大変貴重な名著であり、中原、半島との関連はもとより、国内後代史へのつながりを踏まえた資料談義であり、とかく、俗説書に目立つ空論、先入観が少なく、学ぶところ大です。当ブログ筆者は、倭人伝専攻なので、全体の書評は手に余り課題になっているものです。本書評は、倭人伝道里行程論と関係している一部にとどまります。

□コラム 「邪馬台国への航海」
 概評済「野性号」1975年記録ですが、指導的立場の平野氏の自戦記が当方「書庫」から浮上したので、反省してコラム書評を掲載したものです。
 当記事は、初出『古代船「野性号」』(「日本歴史」344号 1977.1)記事の再掲です。雑誌「野性時代」1975年10月臨時増刊号が関連記事を掲載していますが、現時点で、古書として入手困難なので、公立図書館のお世話になる以外、閲覧方法はなく、当コラムは大変貴重な情報源です。

*航海記の教え
 手漕ぎ船航海記は貴重ですが、半世紀近く経ても、深意が知られてないのは残念です。麗々しく公刊の古代史書籍で、半島沖海域船行が難しいのは不可能の意でなく、史実で通っていたから通った、との強弁が展開されています。いや、大抵の論者は、地図上に線を手描く無責任な「画餅」主義です。
 「難しい」が「事実上不可能」の意と知らないのは、まあ、むしろ、子供っぽい誤解ですが、無批判な追従は、情けないものです。
 それはさておき、当時の関係者は、実験航海支援の恩人を忖度して、否定的見解を隠したのでしょうが、以下は、勉強していれば高校生学識でわかるはずです。

*船の要目
 木造船長16.5㍍ 船幅2.2㍍ 定員30名 3.9トンは排水量か。
 魏使一行所要艘数を計算するには、想定積載量・乗客が必要です。

 様子を見る限り、甲板、船室など無く、吹きさらし、雨ざらしの苛酷な風情です。中国人は、食物を必ず煮炊きするのですが、食糧と水の貯蔵庫も厨房も見て取れません。寒暑の時期は避けるとしても、中間期といえども、日数を重ねて乗り続けられるようには見えません。まして、夜通しの移動など、無理でしょう。
 総じて言うと、船舶と言うより筏の類いと見えます。古典書では、浮海と呼ぶものです。求められたのは、渡し舟の軽便さでしょうか。

*万全の漕ぎ手
 どうやら、想定乗員が三十人で、ほぼ半数が漕ぎ手とみたようです。
 片側七人計十四人~十六人の想定で、舵取り二名、交代二名で、二十人乗船でしょうか。詳細資料が欲しいところです。
 全員現役の若くて屈強の水産大学生が、臨んでいるのに感心します。

*所要日数
 仁川(インチョン)~釜山(プサン) 28日程度
 釜山(プサン)~  博多港     16日程度
 合計45日程度。休養を入れて60日程度と有意義な見積もりです。
 無寄港、無補給ではないでしょうが、煮炊き用の燃料まで考えると、相当な量と思われますが、明細は語られていません。

 支援船曳航の難局は、「当時常用の行路であれば」航路熟知で避けられても、概して漕力不十分です。
 また、全行程ほぼ漕ぎ詰めは、苛酷です。寄港時に休養をとるとしても、この日数は、超人集団に見えます。帆走で、どの程度労力を低減でキメか不明ですが、舵取りのために漕ぐのは不可避で、三世紀の魏使便船の場合は、異例に多数の船腹が必要なので、よくぞ、追加の漕ぎ手が揃い、長期間、病人もけが人も出ないで、完漕できたものと感心します。
 それにしても、使節一行に下賜物などを載せて何艘でしょうか。これは禁句でしょうか。

 槽運事業の視点で見ると、航海基点(船主の待つ母港)にしてみると、多数の主力船が漕ぎ手と船体もろとも、半年近く不在で、音信不通で、帰還が不安では、大いに悩むはずです。何しろ、通常は、往復数日で済む渡海船なのですが、官名とは言え、恐らく、新造船と新規の漕ぎ手の募集で、未知の行程、未知の遠国に向かうのでは、下見の探索を取材に送り込んだにしても、不安に駆られたでしょう。
 いや、当ブログ筆者は、帯方郡太守にとって、道中が安全に管理されていて、日々騎馬の文書使が急報してくる街道行程が、唯一無二の選択肢だったと確信しているので、官道としてあり得ない余傍行程について、余り議論したくないのです。

 さて、今回の実験航海は、現代文明の齎した羅針盤、海図や潮流、天候情報の支援を得て乗り切りましたが、当時、山東半島との間の渡船を運用していた面々が、半島西岸海域の知識無しに六十日間一貫航行など到底あり得ないと思います。

*現地海域事情の予習
 計画推進にあたり、当然ながら、航路について、慎重な予習が行われたと言う事です。ただし、有益な情報は後学の空論には反映されていないのです。
 疑問として、三世紀当時、海図も気象台もないのに、これだけの航路長に渡り、どのようして、「予習」したのか、大変疑問です。現代、遭難を避け、人命を保全したのは当然ですが、三世紀当時も、乗員の人命尊重に加えて、船荷と船体の安全は、至上命令だったはずです。

                                未完

2020年11月 2日 (月)

03. 從郡至倭 - 読み過ごされた水行 改訂第五版   3/3

        2014/04/03 追記2018/11/23、 2019/01/09、07/21 2020/05/13  2020/11/02

 おことわり: またまた改訂しました。そして、更に追記しました。3ページに分割しました。

郡から狗邪韓国まで 荷物運び談義 追記 2020/11/02

 郡から狗邪韓国への行程は、騎馬文書使の街道走行を想定していますが、荷物輸送であれば、荷船の起用は、自然なところです。と言う事で、倭人伝の行程道里談義を離れて、荷物輸送の「実態」を考証してみます。

 以下、字数の限られたブログ記事でもあり、現地発音を並記すべき現代地名を最小限とどめています。また、利用の難しいマップの起用も遠慮していますが、関係資料を種々参照した上での論議である事は書いておきます。

 なお、当経路は、当時郡の主力であったと思われる遼東方面からの陸路輸送を想定していますから、わざわざ黄海岸に下りて、荷船で南下する事は無く、当時、最も人馬の労が少ないと思われる経路を模索しています。

 それとは別経路として、黄海海船で狗邪韓国方面に向かう荷は、郡に寄る必要は無いので、そのまま漢江河口部を越えて南下し、海港で荷下ろしして陸送に移したものと見えます。海船は、山東半島への帰り船の途に着きます。当然ですが、稼ぎの多い荒海の大量輸送をこなす重厚な海船と乗組員を、閑散航路に就かせるような無謀な輸送はあり得ないのです。

*郡から漢江(ハンガン)
 推定するに、郡治を出た輸送行程は、東に峠越えして、北漢江の川港で、荷船に荷を積むまでの陸上輸送区間があったようです。郡の近辺なので、人馬の動員が容易であり、小分けした荷物を人海戦術で運ぶ、「痩せ馬」部隊や、驢馬などの荷車もあったでしょう。

 漢江河口の扇状地は、天井川と見られる支流が東西に並行していて、南北経路は存在していなかったと思われます。(架橋などあり得なかったのです)つまり、郡から南下して漢江に乗り付けようとしても、通れる道がなく、乗り付けられる川港もなかったのです。南北あわせた漢江は、洛東江を超える広大な流域面積を持つ大河であり、上流が急流であったことも加味されて、豪雨の際の保水力が乏しく、しばしば暴れ川となっていたのです。

 郡からの輸送が、東に峠越えして、北漢江上流の川港に向かう経路が利用されていたと推定する理由です。
 いや、念のため言うと、官制街道の記録があったというわけでもなく、推定/夢想/妄想/願望/思い付きの何れかに過ぎません。

*北漢江から南漢江へ
 北漢江を下る川船は、南漢江との合流部で、山地のすき間を突き破って海へと注ぐ漢江本流への急流部を取らずに南漢江遡行に移り、傾斜の緩やかな中流(中游)を上り、上流部入口の川港で陸に上り、山越えの難路に臨んだはずです。

 漢江河口部から本流を遡行して、南北漢江の合流部まで遡ったとしても、そこは、山地の割れ目から流れ出ている急流であり、舟の通過、特に遡行が困難なのです。と言う事で、下流の川港で、陸上輸送に切り替え、小高い山地を越えたところで、南漢江の水運に復帰したものと思われます。何のことはない、陸上輸送にない手軽さを求めた荷船遡行は、急流部の難関のために、難航する宿命を持っていたのです。合流部は、南北漢江の増水時には、下流の水害を軽減する役目を果たしていたのでしょうが、水運という面では、大きな阻害要因と思われます。

 郡からの内陸経路の運送は北漢江経由で水運に移行する一方、海船は扇状地の泥沼(後の漢城 ソウル)を飛ばして、その南の海港(後世なら、唐津 タンジン)に入り、降ろされた積み荷は、そこで小分けされて、内陸方面に陸送されるなり、「沿岸」を小舟で運ばれたのでしょう。山東半島への渡海船は、大容量で渡海専用、短区間往復に専念していたはずです。

 漢江は、山間部から流下する多数の支流を受け入れているため、増水渇水が顕著であり、特に、南漢江上流部は、急峻な峡谷に挟まれた「穿入蛇行」(せんにゅうだこう)や「嵌入曲流」を形成していて、水運に、全く適さなかったものと思われます。従って、中流からの移行部に、後背地となる平地のある適地(忠州市チュンジュ)に、水陸の積み替えを行う川港が形成されたものと思われます。

 そのような川港は、黄海海港からの経路も合流している南北交易の中継地であり、山越えに要する人馬の供給基地として繁盛したはずです。

*竹嶺(チュンニョン) 越え
 小白山地の鞍部を越える「竹嶺」は、遅くとも、二世紀後半には、南北縦貫の街道として整備され、つづら折れながら、人馬の負担を緩和した道筋となっていたようです。

 「竹嶺」越えは、はるか後世、先の大戦末期の日本統治時代、黄海沿いの鉄道幹線への敵襲への備えとして、帝国鉄道省が、多数の技術者を動員した新路線敷設の際の峠越え経路であり、さすがに、頂部はトンネルを採用していますが、その手前では冬季積雪に備えた、スイッチバックやループ路線を備え、東北地方で鍛えた積雪、寒冷地対応の当時最新の鉄道技術を投入し全年通行を前提とした高度な耐寒設備の面影を、今でも、しのぶ事ができます。
 と言う事で、朝鮮半島中部を区切っている小白山地越えは、歴史的に竹嶺越えとなっていたのです。

 それはさておき、冬季不通の難はあっても、それ以外の季節は、周辺から呼集した労務者と常設の騾馬などを駆使した峠越えが行われていたものと見えます。

 言葉や地図では感じが掴めないでしょうが、今日、竹嶺の南山麓(栄州 ヨンジュ)から竹嶺ハイキングコースが設定されているくらいで、難路とは言え、難攻不落の険阻な道ではないのです。

*洛東江下り
 峠越えすると、以下の行程は、次第に周辺支流を加えて水量を増す大河洛東江(ナクトンガン)の水運を利用した輸送が役に立った事でしょう。南漢江上流(上游)は、渓谷に蛇行を深く刻んだ激流であり、とても、水運を利用できなかったので、早々に、陸上輸送に切り替えていたのですが、洛東江は、かなり上流まで水運が行われていたようなので、以下、特に付け加える事は無いようです。

 洛東江は、遥か河口部から上流に至るまでゆるやかな流れなので、あるいは、曳き船無しで遡行できたかもわかりません。ともあれ、川船は、荒海を越えるわけでもないので、軽装、軽量だったはずで、だから、遡行寺に曳き船もできたのです。もちろん、華奢な川船で海峡越えに乗り出すなど、とてもできないのです。適材適所という事です。

*代替経路推定
 と言う事で、漢江-洛東江水運の連結というものの、漢江上流部の陸道は尾根伝いに近い難路を経て竹嶺越えに至る行程の山場であり、しかも、積雪、凍結のある冬季の運用は困難であったことから、あるいは、黄海よりに、峠越えに日数を要して、山上での人馬宿泊を伴いかねない別の峠越え代替経路が運用されていたかもわかりません。何事も、断定は難しいのです。

 このあたりは、当方のような異国の後世人の考察の到底及ばないところであり、専門家のご意見を伺いたいところです。

以上

03. 從郡至倭 - 読み過ごされた水行 改訂第五版   2/3

        2014/04/03 追記2018/11/23、 2019/01/09、07/21 2020/05/13  2020/11/02

 おことわり: またまた改訂しました。そして、更に追記しました。3ページに分割しました。

*「従郡至倭」の解釈 (追記 2020/05/13)
 魏志編纂当時、教養人に常識、必須教養であった算術書籍「九章算術」では、「従」は「縦」と同義であり、方形地形の幅方向を「廣」、縦方向を「従」としています。つまり、「従郡」とは、郡から見て、つまり、郡境を基線として縦方向、ここでは、南方に進むことを示していると考えることができます。

 続く、「循海岸水行」の「循」は「従」と同義であり、海岸を基線として縦方向、つまり南方に進むことを、ここ(倭人伝)では、特に水行と呼ぶという宣言と見ることができます。

 つまり、「通説」という名の素人読みではこれを実際に進むという意味と解していますが、これを行程記事の一部と見ずに、倭人伝独特の水行の定義句と見ると、不可解ではなくなり、行程記事から外せるのです。


*自明当然の陸行 (追記 2020/05/13)

 と言う事で、帯方郡から狗邪韓国の行程は、中国史書として自明なので、わざわざ書いていませんが、郡の指定した官道を行く「陸行」だったのです。以下、水行という名の「渡海」行程に移り、末羅に上陸すると、「水行」の終了を明示するために、敢えて「陸行」と字数を費やしているのです。
 倭人伝に示されているのは、実際は、「自郡至倭」行程であり、最後に、水行十日、陸行一月(三十日)と総括しているのです。
 ついでながら、陸行一月を一日の誤記とみる方がいるようですが、皇帝に上申する史書に、「水行十日に加えて陸行一日」などと書くのは無用な字数稼ぎであり、陸行一日は書くに及ばない瑣末事として、忽ち抹消されるものです。水行十日は、当然、切りのいい日数にまとめた概算であり、一日のはしたなど書くものではないのです。

 と言う事で、郡から倭まで、三角形の二辺を経る迂遠な「海路」に一顧だにせず、一本道をまっしぐらに眺めた図を示します。これほど鮮明でないにしても、「倭在帯方東南」を、図(picture)として感じた人はいたのではないでしょうか。現代風に言う「空間認識」の絵解きです。当地図は、Googleマップ/Google Earthの利用規程に従い、画面出力に追記を施したものです。
 先入観や時代錯誤の精密な地図データで描いた画餅「イメージ」で無く、仮想視点とは言え、現実に即した見え方で、遠近法の加味された「ピクチャー」なので、行程道里の筋道が明確になったと考えています。倭人伝曰わく、「倭人在帯方東南」、「従郡至倭」。

Koreanmountainpass00
以上

*旧記事再録
------------------------ 
 以下の記事では、帯方郡から狗邪韓國まで船で移動して韓国を過ぎたと書かれていると見るのが妥当と思います。
 「循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國」
 従来の読み方ではこうなります。
 「循海岸水行、歴韓國乍南乍東、到其北岸狗邪韓國」
 終始水行と読むことになります。

 しかし、当時の船は沿岸航行であり、朝出港して昼過ぎに寄港するという一日刻みの航海と思われますが、そのような航海方法で、半島西南の多島海は航行困難という反論があります。

 別見解として、水行は、帯方郡から漢城附近までの沿岸航行であり、以下、内陸行との読み方が提示されています。この読み方で著名なのは、古田武彦氏です。

 これに対して、(山東半島から帯方郡に到着したと思われる)船便が「上陸して陸行すると書かれてない」という難点と合わせて、魏使は、高貴物を含む下賜物の重荷を抱えての内陸踏破は至難、との疑問が呈されています。

 特に、銅鏡百枚の重量は、木組みの外箱を含めて相当なものであり、牛馬の力を借りるとしても、半島内を長距離陸送することは困難との意見です。

 これでは板挟みですが、中島信文 『甦る三国志「魏志倭人伝」』 (2012年10月 彩流社)によれば、次の読み方により、解決するとのことです。 
 「循海岸、水行歴韓國乍南乍東、到其北岸狗邪韓國
 つまり、帯方郡を出て、まずは西海岸沿いに南に進み、続いて、南漢江を遡上水行して半島中央部で分水嶺越えで洛東江上流に至り、ここから、洛東江を流下水行して狗耶韓国に至るという読みです。

 河川遡行には、多数の船曳人が必要ですが、それは、各国河川の水運で行われていたことであり、当時の半島内の「水行」で、船曳人は成業となっていたのでしょうか。

 同書では、関連して、色々論考されていますが、ここでは、これだけ手短に抜粋させていただくことにします。

 私見ですが、古代の中国語で「水」とは、河水(黄河)、江水(長江、揚子江)、淮水(淮河)のように、もっぱら河川を指すものであり、海は、「海」なのです。これは、日本人が中国語を学ぶ時、日中で、同じ漢字で意味が違う多数の例の一つとして学ぶべきものです。
 従って、手短に言うと、「水行は河川航行」との主張は、むしろ自明であり、かつ合理的と考えます。

 ただし、中島氏が、「海行」が、魏晋朝時代に慣用句として使用されていたと見たのは、氏に珍しい早計で、提示された用例は、呉志であり、言うならば魏志には場違いな呉の用語が持ち込まれているのです。また、同用例は、「ある地点から別のある地点へと、公的に設定されていた経路を行く」という「行」の意味でも無いのです。是非、再考いただきたいものです。

未完

 

03. 從郡至倭 - 読み過ごされた水行 改訂第五版   1/3

        2014/04/03 追記2018/11/23、 2019/01/09、07/21 2020/05/13、11/02

 おことわり: またまた改訂しました。そして、更に追記しました。更に、3ページに分割しました。

 注記:
 後日考え直すと、当初述べた水行行程の見方は間違っていましたので、書き足します。

 従郡至倭行程一万二千里の内、半島内狗邪韓国まで七千里と明記されたのは、この間がほぼ全て陸上官道であり、海上や河川の航行のように、道里、日程が不確かな行程は含まれていないと判断されます。いや、実際には、その時、その場の都合で、水の上を行ったかも知れませんが、国の制度としてはと言う事です。

 九州島上陸後も、末羅国で「陸行」と明記されていることもあり、専ら陸路で王治に至ると判断されます。一説に言うように、伊都国から後、「水行」二十日とされる投馬国は、脇道として除き、水行十日+陸行一ヵ月の膨大な四十日行程は、伊都国ないしは投馬国から倭王治に至る日数で無く、全体道里一万二千里に相当する所要期間と見るのです。

 このように整理して解釈すると、全体の筋が通り、陸行は総計九千里、所要日数総計三十日(一月)で、一日あたり三百里と、明快になりま
す。


 一方、「従郡至倭」行程の「水行」は、狗邪韓国から末羅国までの渡海行程と見るべきです。そう読めば明解になるという事です。
 渡海行程は、一日刻みで三度の渡海と見て、前後予備日を入れて、計十日あれば踏破できるのです。
 各渡海を一律千里と書いたのは、所要一律三日に相応したもので、全体に予備日を入れて、切りの良い数字にしています。誠に整然としています。
 なべて水行は三千里、所要日数十日で、一日三百里と、明快になります。
 
 そのように明快に書いたのは、行程記事が、官用文書送達期限規定のために書かれていることに起因するのですが、それ以外の実務で、移動経路、手段等に異なる点があるかも知れません。
 
つまり、半島西岸、南岸の沿岸で、飛び石伝いのような短距離移動の連鎖で、結果として、物資が全経路を通して移動していた可能性までは、完全に否定できないという事です。事実、この地域に、さほど繁盛していないものの、交易が行われていた事は、むしろ当然でしょう。ただし、この地域から、日本海外各地の産物が出土していたからと言って、此の地域の、例えば、月一の「市」に、遠方から多数の船が乗り付けていたと言う「思い付き」は、成り立ちがたいと思います。今日言う「対馬海峡」を漕ぎ渡るのは、死力を尽くした漕行の可能性があり、多くの荷を載せて、長い航路を往き来するのは、無理だったと思うからです。
 海峡を越えた交易と言うものの、書き残されていない古代の長い年月、島から島へ、港から港を、小刻みに、日数をかけて繋ぐ「鎖」の連鎖が、両地区を繋いでいたと思うのです。
 いや、ここでは、時代相応と見た成り行きを連ねる見方で、明快な解を提示したのであり、絶対、他の意見を徹底排除するような排他的な意見ではないのです。

 水行を「海」の行程(sea voyage)とする読みは、後記のように、中島信文氏が、中国古典の語法(中原語法)として提唱し、当方も確認した解釈と一致しませんが、倭人伝は、中原語法と異なる地域語法で書かれているとおもうものです。それは、「循海岸水行」の五字で明記されていて、以下、この意味で書くという「地域水行」宣言です。
 この点、中島氏の論旨に反していますが、今回(2019年7月)、当方が到達した境地を打ち出すことにした次第です。

 教訓として、文献解釈の常道に従い、倭人伝の記事は、まずは、倭人伝の文脈で解釈すべきであり、それで明快に読み解ける場合は、倭人伝外の用例、用語は、あくまで参考に止めるべきだということです。

 この点、中島氏も、倭人伝読解は、陳寿の真意を探るものであると述べているので、軌を一にするものと信じます。

 追記:それ以後の理解を以下に述べます。

未完

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