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2020年11月

2020年11月22日 (日)

今日の躓き石 口に出せない「シッター」 情けない「うんち屋」ネーミング

                         2020/11/22

 今回の題材は、どこの誰がいつという話では。世間全般の「情けない」風潮です。

 つまり、「シッター」と言う、とても人前では口に出せない言葉です。つまり、このカタカナを日本人が発音すると、それは、「Shitter」、つまり、排便する人「うんち屋」であり、大変な醜態です。
 しかし、公共放送や全国紙はじめ、最高の知性も教養もあり、国際感覚豊かな人たちが、平然と口にしているのです。当方は、地位も権威も無い、一介の私人で、何を言っても聞いてもらえないのでしょうが、ハーラン・エリソン(Harlan Ellison 米国の小説家 「世界の中心で愛を叫」んだ小説を書いた人)が書いたように、口が無くても大声で叫ばなければならないのです。

 いや、子供のお守り役は、日本でも古代以来ありふれていたのですが、なぜか、その職業を「ベビーシッター」と呼んだところから、この職業は、あぶない橋を渡ったのです。つまり、聞きようによっては、子供にうんちをさせる役と取られかねないのですが、おぞましい者達が、肝心の「ベビー」をゴミ箱に遺棄して「シッター」と呼んだので、今日の恥ずかしい事態になったのです。

 欧米語でも、子守りには、ナニーという奥ゆかしい言葉があって、うるさく言うと意味に違いはあっても、「うんち屋」に聞き間違えられる恐れがないので、うまく使いこなせば、今日のような恥ずかしい事態にはならなかったでしょう。知る限り、欧州系の教養の人は、米国流の即物的「ベビーシッター」とは言いたがらないように見受けます。

 それにしても、国内事情を眺めても、ここへ来るまで「シッター」にならないで済む賢明な策があったと思うのです。

 私見では、これ以上深入りしないうちに、「うんち屋」「シッター」は、厄介払いしたいものです。いや、当方には、何の権威も権限もないのですが、バカを承知で声を上げるのです。

以上

今日の躓き石 巨人軍の汚名 「リベンジ」の返り討ち 毎日新聞の報道姿勢を問う

                   2020/11/22

 本稿の批判の直接の的は、毎日新聞大阪朝刊第13版スポーツ面の日本シリーズ戦評の署名記事ですが、前日の民放テレビの中継画面でも、右上に長々と座っていたので、これは、ジャイアンツがプロ野球球団として、広報しているものかと見えるので、タイトルに曝したものです。もし、球団の本意に反して、両媒体が報道しているのであれば、厳重に抗議して撤回させるべきものでしょう。

 まずは、「リベンジ」なるカタカナ語に関して、長年全国民の尊敬を集めてきた全国紙の取扱が、余りに不注意だという事です。

 プロ野球界では、松坂大輔選手の高言以来、「再挑戦」の軽い意味が広がり、近年では、高校野球の指導者まで気軽に口にしているようですが、カタカナ語の原語に戻ると、大変不穏当な言葉であり、逆翻訳して英語で喋ると、大変な顰蹙を巻き起こすものです。例えば、菅野投手がメジャー入りして、インタビューで口にすれば、非難囂々で、社会的制裁まで行かなくても、長く、身の置き場がなくなることも考えられます。

 民放テレビも、毎日新聞も、そろって誤解しているのは、プロ野球選手が口にする「リベンジ」は、いわば「松坂語」で、前回やられたから再挑戦する主旨であり、決して、「やられたからやり返す、恨みで血祭りに上げる」という古くさい意味ではないのです。
 まして、スポーツの試合で負けたからと言って、個人的に恨みに思って、仇討ちに行くものではないです。そんな独りよがりが称えられるはずはないのです。

 つまり、巨人軍のチームとして、あるいは、特定の選手として、前回惨敗した相手に再挑戦するのが、即ち「リベンジ」であり、既に達成されているのです。後は、勝利を目指して全力で闘うだけでいいのです。

 ところが、毎日新聞は、選手の本意に気づかず、いわば、軽薄な思い込みで、とんでもない勘違いの「リベンジ」を書き立てています。これでは、読者から、毎日新聞は、正しい言葉を知らないと侮られるだけです。
 加えて、でかでかと「返り討ち」などと暴言を見出しにしています。この言葉は、江戸時代の武家のならいで、仇討ち免許を持って、私闘で無く公認の堂々たる戦いを挑戦してきた相手を、これまた、堂々と向かい撃って斬り殺すことを言うのであり、それで、罪科を免ぜられ、無罪放免になるものです。
 何とも古くさい社会制度で、明治維新の後、しばらくして、近代法制の理念に反するものとして、廃止されたものですから、百五十年も前に葬り去られたのですが、毎日新聞記者は、時代錯誤にお構いなしに言い立てるのです。困ったものです。なぜ、編集段階で誰も止めなかったのでしょうか。スポーツ面は、この程度の放言でいいというなら、読者は、随分なめられたものです。

 それにしても、毎日新聞記者は、何を自身の信条にして生きているのでしょうか。選手の汚れた言葉遣いを正すわけでも無く、プロ野球界に残る血なまぐさい言い回しを正すわけでも無く、ひたすら、負の遺産を讃えているのはまことに残念です。

 当記事をしめないといけないのですが、毎日新聞社には、全国紙としての矜持は無いのでしょうか。民放テレビ中継と同水準の品位でいいのでしょうか。

以上

 

2020年11月10日 (火)

新・私の本棚 番外 毎日新聞「今どきの歴史」 感染症と考古学 2/2

  人口激減の謎に迫る   毎日新聞2020年11月9日 東京夕刊

 私の見立て★★★☆☆ 購読料相当ないしそれ以上のもの 2020/11/10

○結末への疑問[承前]
 通貨がなく、共通した価値観がない時代に、どうやって、遠距離間で直接取引が成立するのだろうか。不可解である。「朝鮮半島との交流」と気軽に言うが誰と何の交流をしていたのだろうか。いつから、文書交信ができるようになったのか。総じて、史料批判不在である。

 下垣さんは「グローバル化にはリスクもあります。日本が開国した1854年の後、江戸でコレラが大発生した。ただ、そうなると、疫病というのは海外からやって来てひどい目に遭うと被害者意識を持ちやすいけれど、逆にこちらが伝えることもあるんだという意識が抜けがち。そこは気をつけなければいけません」と注意を促す。

コメント 縄文時代から古墳時代の時代で「グローバル化」は時代錯誤で不用意である。下垣氏は、当時の「グローバル化」をどう認識しているのだろうか。海峡や日本海の向こうすら「圏外」だったのではないか。素人の批判は僭越だが、だからといって、口ごもりたくないのである。

 幕末で言えば、自ら渡航しないものがどうやって外国に被害を与えられるのか不可解である。
 総じて、時代人は、「グローバル化」だなんだと言われて、何とか理解したとしても、どうにもできなかったはずである。
 因みに、来訪者が疫病を伝えた例は、古代にもあったはずである。数世紀の歴史の上に立って、無策で疫病の侵入を許したのだろうか。

 考古学者といえども、そうした「可能性」は否定できまい。どうすれば良かったのだろうか。お伺いしたい。

 さらに、目の前で進行して対策も打てる疫病に対し、気づいた時には手遅れになりがちな環境問題に言及し、「モノを扱う考古学は過去の環境悪化を明らかにできる。長期的観点から物事を見るのが得意なので、この問題にこそ提言できます」と議論を発展させた。

コメント 「環境悪化」と言う前に、古代人の環境認識を明らかにしないといけないのだが、こうした言葉のない時代、どう古代人の意志を推察するのか、疑問である。大体、古代人が、疫病をどう認識し、「対策」をどう策定し実施したのか、わかるはずはないのに、なぜ、思い付きを言い立てるのか。

○まとめ
 かつて、考古学界には、古代人の思いつかないような言葉や概念で古代を論ずる事の愚を戒めた先賢がいたように思うのですが、現下の考古学者には、古代の「謎」に迫る議論に、現代でも理解できない一般人が大多数の「現代言葉」を振りかざして受けを狙う自己主張しか存在しないのでしょうか。記者は、タイトル空振りを気にしないようですが、では、読者に何を伝えたかったのでしょうか。

*本分という事
 当記事では、専門家の見解とは言え、時代考証が随分粗雑と見えます。考古学は、圏外事象に素人考えを振り回すより、学会内で専門的な論議を進めて、丁寧に足元を固めるべきではないでしょうか。

 本記事を読み終わって、考古学界がパンデミックに直接対応など、飛んだ使命感です。どんな専門家でも、専門外の分野では、素人なのです。余計な風聞を気にせず、専門の学術分野を堅固に守ることが、学問の徒の本分ではないでしょうか。ご一考いただきたいものです。

○取りこぼし御免
 いや、偶々、壮大なタイトルをぶち上げた記者の進め方のせいで、コメントが、結論めいて見える下垣氏の発言の時代錯誤史観に集中してしまいましたが、記事全体が「今どき」の学界風潮なのでしょうか。

 以上、当然のことながら、考古学界の個人批判の意図ではありません。

                               以上

新・私の本棚 番外 毎日新聞「今どきの歴史」 感染症と考古学 1/2

  人口激減の謎に迫る   毎日新聞2020年11月9日 東京夕刊

 私の見立て★★★☆☆ 購読料相当ないしそれ以上のもの 2020/11/10

○切り出し
 毎日新聞夕刊文化面の月一歴史コラム「今どきの歴史」で、今回は「疫病ネタ」ですが、もう一つ趣旨が伝わってきません。切り出しから不吉です。

 崇神天皇陵とされる行燈山(あんどんやま)古墳(墳丘長242㍍)。疫病の渦中、こんな大古墳を造れたか? これも謎だ

コメント 何の謎もない。「造れない」。そうでなくても、大勢のおとなが一斉に農務を離れたら、農政崩壊の亡国なので、工事は農閑期に限ったと考えるのが自然ではないか。大抵、近郊住民が通いで従事していたのだろうか。

 むしろ、初期段階に「緊急・最優先」の工事に集中することで、疫病の広範囲への拡散を招いたと見るのが順当な考えではないか。言うまでもないが、病人集団に肉体労働を課するほど、非人道的な君主ではなかったはずである。

 と言うような切り出しで、考古学界の一部で、不確かな資料の不確かな解釈の上に込み入った「論争」が展開されているとの報道のようだ。不得要領で、「沙中偶語」と見える。記者は、読者に何を伝えたいのだろうか。

○結末への疑問 
 ここでは、記者が結語部分に置いた「結末」を批判させていただく。

 これに対し、夏号に掲載された下垣仁志・京都大准教授のメールは、(1)の崇神期(3世紀末~4世紀初頭ごろに相当)の逸話には後世の事実が使われた可能性があり、信用性が問題と述べる。

コメント 同感である。崇神期の時代比定は、不確かとしか言いようがない。

 その前提の上で、崇神天皇の宮殿「水垣宮」の想定地、纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)は「水の都」と呼べるほど水路の多い湿地で、「疫病にはひとたまりもない」と指摘。加えて、日本書紀に記された当時の朝鮮半島との交流ぶりが考古資料から確認できる上、この時期に畿内と共通の要素をもつ古墳が日本列島に広く拡散した事実を踏まえ、内外の交流の活発化という条件から「疫病の可能性はある」という。

コメント 時代が不確実で地形特定できない背景で何の議論かと不審である。

 湿地を形成するほど水路の多い土地の水はどこから来たのだろうか。それなら、ちょっと掘れば、地下水が浸潤したのではないか。なぜ、治水や下水排水抜きで運河導水して、水害必至、非衛生的と理不尽な居処を構えたのか。不可解、不可解。

 纏向は、建物群造成に始まり、箸墓以後の墳墓群の造成など、大規模土木工事開闢の地とされていると思うが、土地整備抜きで古墳を造成したのだろうか。そんな土地を平城京に先駆する「都」と浮かれるのも、不可解である。

 (2)の縄文の人口減についても、北海道に渡った南海産の貝輪や、福岡県で出土する新潟県産のヒスイなどを基に「縄文中期に広域ネットワークができていた」と、人の交流や接触の増加を想定。「疫病の可能性は十分考えられる」とした。

コメント 幻視された古代交通網「ネットワーク」は、時代錯誤の極みである。思い付きは検証第一ではないか。文字通信の無い時代、人の移動しか意思疎通手段がなかったはずだが、推定している「ネットワーク」に従事する人たちは、農地を離れて往来して、何で喰っていたのだろうか。

 言うなら、ものには足があって自律的に移動するので、人が持ち回る必要はない。駅伝のタスキの如く隣村交換を繰り返せば、遠方まで伝わる。あるいは、少し足を伸ばした行商人で十分である。「巨大交通網」は不要である。
                                未完

2020年11月 9日 (月)

倭人伝随想 3 倭人への道はるか 数の話 3/3 改

            2018/11/25 追記 2020/11/09 2024/05/11

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

*戸数計算談義
 戸数計算の成り行きは、ぼんやりしています。
 投馬国記事の「可五万」は、四万数千から五万数千程度の一万の範囲と限らず、四万から六万強の間の二万余りの範囲を包含するとも思えるのです。到達に二十日を要する遠隔地で指導が及ばず、正確な戸数集計ができていない可能性が高いと思われるのです。

 これに対して、奴国記事の「有二万」は、一万五千から二万五千程度の一万の範囲とされ範囲が狭いのです。伊都国の近傍で適切な集計ができていると思われ、

算の結果である「可七万」も、五万五千から八万五千程度の三万の範囲にある大まかな数字でしかないと見られるので、その他千単位の戸数、家数も、書いてない多くの小国の戸数を想定しても、「可七万」は変わらないのです。
 端数を積み上げても端数であり、総計を変えられないという概数計算の原理が生きているのです。

 あるいは、名のみ登場する諸国は、複雑な計算をこなす官人がいない上に、戸籍制度も備わっていないので、「戸数」は申告しようが無かったのかも知れません。

*戸数の起源考 (追記 2020/11/09)
 「倭人」は、そんな世界ですから、全国戸数七万戸というのは、何れかの段階で郡に提出された、架空の数字の可能性も否定できません。
 何しろ、「戸」というのは、何世帯住んでいるかとか、家が何軒あるかという事ではないのです。その国の農業生産力、農地面積や動員可能兵力を知る重大な指標なのです。

 と言うわけで、全国戸数七万戸は、全道里一万二千里と同じように、倭人が、最初に公孫氏の遼東郡に接触した際に要求されて、無理矢理捻り出した、あるいは、押しつけられた「数字」であって、何しろ国の実態を離れた虚構であった可能性が否定できないのです。
 遼東郡から追いかけて明細を求められたあげく、どうにも説明のつかない五万戸を、遠隔の投馬国に押しつけたのかも知れません。何しろ、行程が、片道水行二十日ですから、郡から倭に監査が来ても、ごまかし通せると見たのでしょう。
 仮に、郡から派兵指示があっても、交通不便をもって固辞できるだろうと、腹をくくったのかも知れません。なにしろ一万二千里の彼方ですから。
 と言う事で、全国戸数七万戸は、「誇張」そのものでは無いかというのが、この場の思い付きです。

*伏せられた王治
 また、王治たる邪馬壹国の戸数は伏せられていますが、王治独特の事情で、戸数が僅少だったため、あえて開示しなかったものと推定します。

 総じて、倭人伝の後段の王治描写は、引き写しのように紋切り型で、時に場違いであり、おそらく、関係者こぞってのフィクションと見えます。女王制度自体が、中国文化に反する野蛮極まりないものであり、それ以上、中原文化人の神経を逆なですることはできなかったものと思われます。

*多桁計算の世界
 因みに、帯方郡自体は後漢・魏晋朝の地方機関として管轄下の住民の戸籍を完備し、「戸数」も成人男性の数と思われる「口数」も一の単位まで集計しています。一円単位を追究する経理処理にも似た高精度多桁計算は、中国では、太古以来確実に運用されていたのです。
 但し、厖大な計算労力を要する上に、高度な計算能力を有する官人を多数必要とするので、滅多に実施されなかった/できなかったのです。

*原文交錯
 里程記事の末尾で、本来、全体日数や全国戸数を全体里数と共に書くべきところが、国名列記などに割り込まれて乱れているため、原著者の意図が読み取りがたくなり、後世、種々の解釈が交錯したようですが、入れ違いを整理すると、随分明解になるように思います。

  「倭人伝」の草稿編纂は、おそらく、竹簡を紐綴じした「原稿用紙」で行ったでしょうから、そのような入れ違いはわざとではなく、物の弾みの綴じ違いでしょう。何か目的があって差し替えたとも思えないのでそう推定します。

*終わりに
 「三国志」全体どころか、魏国志全体すら読み通していないので、大所高所の議論はお受け出来ないのですが、「倭人伝」の世界で、以上の絵解きにご不満があれば、コメント頂いて結構です。

                                              完

倭人伝随想 3 倭人への道はるか 数の話 2/3 改

                             2018/11/25 追記 2020/11/09
*概数の話
 前回の表に里数、戸数の概念を示したように、本来、有効数字が一桁あるかないかの概数であり、加算は、それぞれ、千里、萬戸の桁で行われたと見ています。これは、当時常用の算木計算に相応しいものです。
 一桁あるかないかというのは、一、三、五、七と飛び石になっているようにも見えるとの意味です。いや、三は、大小比例で言うと一と五の中間では無いので、二とも三とも言えない数字を「数」と称した可能性があります。
 例えば、四千,五千,六千の範囲であれば、五千(餘)と言えば済むので、「数千」という意味が無いのです。いや、これは、倭人伝の大雑把な数の世界だけかも知れませんが。(追記 2020/11/09)

 世の中には、一里が短いと、すぐ百里、千里になって不自由だというお節介な人もありますが、里数(に限らず)普段の計算は一番上の桁でこなすので、単位が百里でも千里でも、手間は同じなのです。

*里数談義
 計算は千里単位で、七に一を三つ足し十となったのに、残りの端を足して十二「千里」としたのです。里数決定は、郡倭間を何日で移動するかの基準設定が目的で、里の長短自体は問題ではないことによるのです。

 倭人伝論に於いて、諸兄は、倭人伝の一里が、当時の中国里と大きく異なることを含めて種々の論議をしていますが、肝心な日数を水行十日、陸行一ヵ月、つまり、一ヵ月と十日(四十日)と明記すれば用は足り、別に里数は意に止めなかったのです。とは言いすぎでしょうか。

*水行陸行

 詳しく言うと、水行十日、陸行一ヵ月は、そのまま読み取れます。
 水行は、狗邪末羅間の渡海で、一回千里、渡海一日に前後を足し三日が三回の九日に予備日で十日、三千里を十日で一日三百里となります。
 陸行は、残る九千里を三十日で一日三百里となり、見かけの辻褄がきっちり合います。

 未開地の旅程を捌いた帯方郡の知恵は明解では無いでしょうか。

*棄却提言
 最後に、「倭人伝」里数談議で、当然/必須とされた幾つかの定理をここで捨てています。
 曰く、部分行程の里数総和は全体里数と等しい、とする古田武彦氏の提言は、概数計算の特性を見過ごした誤解と見ています。

 曰く、行程記事は、次々に各国を訪れるものであるとの先賢の提言は、誤解と判断します。
 一つには、正史「魏志」蛮夷伝の末尾である「倭人伝」の郡倭行程は、最短、明解であるべしという考えです。
 二つには、君臨する倭国は交易中心伊都国と最短経路で繋がるべしということです。また、諸国間に利害関係がある以上、他国を延々と経由して、伊都国との間を文書や貨物を運ぶのは考えがたいのです。いや、「倭人」に「文書」なぞ無かったと言わないで欲しいものです。雒陽文化人にとって、「文書行政」は、常識だったのです。

 曰く、倭の王治が伊都国から水行十日、陸行一ヵ月とは、あり得ない話です。文字が無い時代に、遠隔地から伊都国を支配するのは、神がかりです

 曰く、「倭人伝」「旅行ガイド」説は、重大、深刻な時代錯誤です。皇帝は我が儘者でなく武の人です。端的には、倭は何人の兵士を何日で動員するか求めているのです。あるいは、もっと基本的な事項として、郡から倭に指示したら、何日で回答があるかという事です。

 曰く、「水行を河川行と断じた」中島信文氏の卓見は、先行妄見を、ことごとく凌いでまことに貴重ですが、倭人伝記事は、帝国文書使などの日程規定のためのものであり、実際の荷役は別として、日程不定の「水行」は、不可避の渡海しか採用出来ないとしたのですが、当稿の郡語説は納得しがたいでしょう。

 以上の絵解きにより、方位の取り違い、道の曲折、海流の影響とかを論ずる必要はないのです。そのかわり、女王王治の所在は不確かです。

                              未完

倭人伝随想 3 倭人への道はるか 数の話 1/3 再改

            2018/12/04 補追 2019/01/09 2024/05/11

*加筆再掲の弁
 最近、Amazon.com由来のロボットが大量に来訪して、当ブログの記事をランダムに読み囓っているので、旧ログの揚げ足を取られないように、折に触れ加筆再掲していることをお断りします。

▢倭人への道はるか 数の話
*始めに
 ここまで当ブログサイトで展開した議論のまとめを随想としています。

*地方規格の話
 中原王朝にとって、倭人は新顔の外夷であったため、その全貌は把握しがたく、折衝窓口となった帯方郡が、倭人伝として簡にして要を得た小伝を企図したもののうまく行かなかった点が諸処に見られるようです。
 帯方郡は、長く、遼東公孫氏支配下で中原育ちの官員を揃えられず、中国人の基本教養に欠けた地方語(郡語)入り記事を書いたようです。
 魏朝官人魚豢や西晋史官陳寿のような教養人が、難解な倭人伝原文を損なわない編纂に努めた結果、今日伝わる出色、異色の倭人伝が出来上がったようです。

*独特の概数記法

 倭人伝冒頭の里数、戸数関係記事は次表に総括できると思われます。表中数字は、ほぼ全てが「餘」付きで、端数は全ての例で切り捨てされたとしていますが、ここでは上下合わせた「約」と見て、「餘」を省略して、普通の表現にしたのです。


*総括の考え方
 1 里数、戸数は、ほぼ全て「餘」概数で中心値を記し、上下両様と見ます。
 2 狗邪韓国は、倭人(倭国)に属しない通過点で、戸数等情報はありません。
   追記:意味を持っているのは、海岸に存在する「倭」の館であり、実際上、對海國の飛び地です。
 3 伊都国が当時、交易物資集散地であったため、伊都国を扇の要として、各国への専用街道が敷かれ、以下行程は「放射状」と解します。
   追記:「倭人伝」道里記事の初期状態(後漢献帝の建安年間、公孫氏駐屯時)では、伊都国が「終点」であったと見えます。
   景初/正始段階では、伊都国の上位に「女王国」が創成されていたため、道里記事が、若干撓んだものと見えます。
 4 「倭人伝」である以上、遅くとも、行程記事末尾に、本来、全里数、全所要日数と全戸数が書かれているべきなので、復原を図りました。 
   一方、伊都から王治にいたる里数、及び、「邪馬壹国」の自体は伏せられたとの解釈です。
   追記:郡文書の伊都国到着をもって「倭国」到着と見なせば、伊都から王治までの日数は考慮しないのです。
  「邪馬壹国」自体は、女王、王弟を除くのは当然として、非課税/徴兵の有司と官奴だけの存在なので、戸数は無意味です。

                               未完 

2020年11月 5日 (木)

新・私の本棚 七田忠昭 吉野ヶ里遺跡と邪馬台国 季刊「邪馬台国」第138号 改 3/3

梓書院 2030年7月刊 吉野ヶ里遺跡指定30周年記念シンポジウム 2020/07/05記
「邪馬台国の今 ~弥生時代の研究のFrontline~

私の見立て ★★★☆☆ 良心的で開明的

*東夷伝語彙の確認
 東夷傳の「国」は、漢の「国」と全く異なるものです。漢は、中央から行政官を派遣して統治させる「郡」以外に「国」を設けましたが、国「王」は皇帝親族限定であり、藩屏、「藩」として、身をもって皇帝を守る盾です。

 蕃「国」は蛮夷をおだてて懐柔するものであり、それは、蕃使を「客」ともてなすのと同様です。漢蕃用語に後年「寧遠」なる概念がありますが、懐柔して叛意を失わせれば国益に繋がるとの主旨を示唆しています。

 現代では、いかなる国も国際的な独立主権を認められれば、外交関係を確立できますが、当時、対等の関係はなく「外交」はなかったのです。

*夜郎自大の戒め
 以上、子供に言い聞かせる指摘をするのは、古代史に於いて、「夜郎自大」的な意識が漂っていて、誇大な自画像を描く傾向が見られるからです。

*外交の幻想~破天荒の新説
 七田氏は、後漢期に、倭に「外交」が存在して漢帝を操ったように書きますが、「外交」錯誤の果てに人身売買妄説では余病は深刻です。漢と取引して、人を売って鏡を買うとは、漢皇帝も倭王も、見くびられたものです。漢は。絶大な権威と厖大な国富を有していて、取るに足りない東夷の蕃王を取引相手として、人鏡交換するとは、とんでもない夢想でしょう。

 氏は、その「外交」の背景として、皇帝が若年で、徳を補うため徳の豊かな東夷を買い求めたと見ていますが、どこで拾ってきた風聞なのか、いい加減な思いつきを言うものです。

 漢帝は、天子であり、私見では動かず、自身が「徳」に欠けると悟れば、臣下に愚策を指示して軽蔑を買うのでなく、むしろ譲位します。

 文字が無く先哲の書を読めない蛮夷、つまり、人間以下の存在から、何を、文化情報として受け取ろうというのか不審です。文字を読めないから、目に先哲の言のない、つまり、先賢の書を一切解しない、端的に言えば人とは言えない蛮夷から、何を学ぼうというのでしょうか。まことに、不可解です。

 まして、そのような蛮夷を、百人どころでない数で押しつけられたら、使い物にならないものをどうしようもないでしょう。何しろ、意思疎通ができないので、用事を言いつけようもなく、行儀を教えることはできないし、使い走りの役に立たないし、力仕事を言いつけても、道具の使い方を知らないし、そのくせ、食べ物は違うし、何たるお荷物かという事です。

 と言うものの、そのようなお荷物を、海山越えて数ヵ月引き回した、倭の者もえらい迷惑です。毎回、お荷物を運ばないと鏡が手に入らないとしたら、飛んだ「エビでタイ」、伊勢エビで鯛焼きを買う体でしょう。何しろ、海峡越えの漕ぎ船は、二十人を超える漕ぎ手で、数人運べるかどうかという輸送能力ですし、一人運ぶのに一人護送要員としたら、総勢、三百人の大部隊になるのですから、何回海峡越えしないといけないのか。もちろん、一人ずつ一人分の食料を食らうのです。お荷物が、逆らいもせず逃亡もせずならともかく、数ヵ月の先に着いたところから帰ってくることはないと知ったら、只事では済まないのです。

 冗談も休み休みにしてほしいものです。

 それにしても、この新説は、どのような文献史料に依拠しているのか根拠不明です。
 氏は、懸命に感情移入していますが、まず、史料批判、時代考証が必要でしょう。なぜ、ここぞとばかり、俗説派にお手の物の国内史料重視/正史軽視の弁舌を振るって、誤記、捏造、改竄、記憶違いを持ち出さないのか不審です。一番簡単なのは、史家の虚言です。三国志の権威によれば、史家は、みんな嘘つきだそうですから、虚構説が一番、周囲に迷惑がかからないのではないでしょうか。

 二千年前で時効とは言え、ご先祖様を、人道の大罪である人身売買で断罪して、何も感じないのでしょうか。

*用語錯誤
 このあたり一貫して、「日本史」感覚で中国史料を解釈していて不具合です。氏の周辺で「夜郎自大」は、陋習として、広く蔓延しているようです。

*「名付けて卑弥呼」
 倭人伝を「名付けて卑弥呼」と読むのは、飛んだ誤解です。当時、実名は親からもらったもので、勝手な改名などあり得ないのです。(大変な親不孝です)一部言うように「卑弥呼」が官名であれば、魏帝に向かって、実名を秘匿して、職名を実名扱いというのが不都合です。
 「日本」に改名、改姓があっても、当時、漢文化の支配下では、とてつもない時代錯誤です。

*「お隠れになった」
 「お隠れになった」とは、痛烈な倭人伝批判であり、要は、「死んじまった」ということです。女王になって以来、人と会見するのが希になったというのを、死んだも同然と決め付けているのだとしたら、大変辛辣です。

*倭人伝解釈の原点確認
 国内史料解釈は、夜郎自大で済むのでしょうが、中国史料を「夜郎自大」、日本語、現代感覚で読み進めるのは、度しがたい勘違いです。

〇まとめ
 批判が続いたように見えるかも知れませんが、批判されているのは、古代史学界全体を覆う忌まわしい風潮であり、七田氏だけのものではないのです。

 氏の講演で最も不出来なのは、史料批判不足/欠如の范曄後漢書倭伝解釈を根拠に、古代史学界の汚点「人身売買」論を蒸し返したことです。厳に戒められるべきでしょう。九州北部の人々は、いつまで、先祖が人身売買したとの汚名を着せられるのでしょうか。古代人を誹(そし)っても、反撃されることはないので、言ったもの勝ちという事でしょうか。

 自明と思いますが、ここに挙げた「国」体論は、傘下の各小国には適用されません。対馬、壱岐の「方里」も、別儀です。

*叱咤激励の弁
 氏は、在野の野次馬ではないので、中国史料の文献解釈の際には、無批判に、国内史料視点の先賢の所説に追従するのでなく、健全な批判精神を失わず、また、根拠の乏しい暴論を踏襲・高言しないようにご注意いただきたいものです。

                                以上

新・私の本棚 七田忠昭 吉野ヶ里遺跡と邪馬台国 季刊「邪馬台国」第138号 改 2/3

梓書院 2030年7月刊 吉野ヶ里遺跡指定30周年記念シンポジウム 2020/07/05記 追記2020/11/05

「邪馬台国の今 ~弥生時代の研究のFrontline~

私の見立て ★★★☆☆ 良心的で開明的

*「国」民処遇
 王の統治を支える「公務員」に軍務は無意味です。「近衛兵」は必要ですが、「公務員」の職務であり徴兵はしないのです。税の一部「労役」で駆り出して、道路、灌漑水路、宮殿の整備などにあてるのもあり得ないのです。
 「国」民が免税であるというのは、そういう意味です。
 そのような住民の人数は、後世の帝都住民のように多数ではないのです。

 何しろ、食糧自給できず、周辺の農地の収穫に依存するから、精々、数千人にとどまるはずです。それが、三世紀の時代考証です。

*「国」体論
 全国戸籍制度が未整備でも、「国」の住民台帳が未整備の筈はないのです。徴兵、徴税しないとしても、お膝元の住民管理は緻密の筈です。識字官僚を多数養成し、日本語で言う「経理」、財政実務、計算術に長けた官僚もいて、「国」民、成人男子、識字官僚の数なども、緻密に把握していたはずです。

 輸送や交通には、牛馬が不可欠で荷車も必要です。しかし、倭人伝は、牛馬駆使は無かったというから、「国」を支える物資輸送や文書通信は、人力に頼っていたのであり、巨大な「国」は成り立たないのです。

*用語考証
 因みに、七田氏は、無造作に「都」、「宮殿」(臺)と言いますが、当時の史書では、蛮夷の「国」、蕃国に蛮夷の「王」、蕃王がいても、蕃王の居処を「都」、宮殿を「臺」と呼ぶことは認めなかったのです。

 従って、倭人伝を解して、王の「都」を読み取ったとしたら、それは、誤解です。また、王の宮殿を「臺」としたらそれも誤解です。

 中国史料の誤解は根深いので、氏には初耳かも知れませんが、史料本位に読解すると、一定の境地に至るのです。

*後漢書隔世
 後世史書の范曄後漢書は、「大倭王居邪馬臺國」としています。それは、西晋が蛮族の攻撃で崩壊し、天子が捕虜となってなぶり者にされたあげく殺されるという下剋上大乱の後であり、笵曄の辞書は、陳寿と異なっていたので、「小国」盟主を「大倭王」と呼び、その居処を邪馬「臺」と呼ぶのに、禁忌はなかったのです。

*古代学語彙の風化
 因みに、七田氏の語彙は、国内史料本位の俗説派用語というものの、現代日常語の侵食が進んで感心しないのです。「はっきり書いている」など、日常語世界に足を引っ張られて低俗であり、こども言葉はやめて、大人の言葉で「明記」されているとけじめを付けるべきです。聴衆を、子供っぽい言葉しか解しないと決め付けるのは、大変失礼でしょう。つまり、行間から読み取れる「示唆」でなく「明示」されているとの主旨です。
 続いて、「トップ」とカタカナ語が突然乱入しますが、卑弥呼はスイーツのトッピングのようなお飾りでしょうか。
 子供っぽいカタカナ言葉はやめ、ちゃんと大人の「日本語」で書くべきでしょう。

 当記事は、講演録でしょうがないのでしょうが、学術的講演は言葉を改めるべきだと考える次第です。そうしないと、後日著書拝読の際に、食い違いに悩むのです。ある程度、日常語を離れて語る必要があると考えるものです。

*外交談義の序章
 七田氏の講演に、世間並みに「外交」なる時代錯誤が彷徨していますが、誤解を誘うので避けるべきでしょう。

 三世紀時点で、「中国」(漢と総称)と蛮夷の間の関係は、対等の二国間「外交」などではなく、「漢蕃関係」、つまり、漢が蛮夷をどうあしらうかという関係だったのです。当時、蛮夷を「外国」と呼んだとしたら、それは、漢の文化圏に属しない野蛮人の意です。決して、漢と対等の存在と見ているのではないのです。
 時に、蛮夷を「客」というのは、漢字の読める蛮人が、「蛮」、「夷」と呼ばれると、蔑称だと逆上、激怒するので、ご機嫌を取っているのであって、別に、敬意を表しているのではないのです。むしろ、「客」の文字が、蛮夷の示唆になるのです。鴻廬の掌客と言えば、現代語で言えば「接客担当」のように見えますが、実は、蛮夷の遇い(あしらい)役だったのです。

                                未完

新・私の本棚 七田忠昭 吉野ヶ里遺跡と邪馬台国 季刊「邪馬台国」第138号 改 1/3

梓書院 2030年7月刊 吉野ヶ里遺跡指定30周年記念シンポジウム 2020/07/05記 追記2020/11/05
「邪馬台国の今 ~弥生時代の研究のFrontline~』

私の見立て ★★★☆☆ 良心的で開明的

◯はじめに
 七田忠昭氏は、佐賀城本丸歴史館館長であり、考古学者として中国史料と親しんでいない旨明言されています。しかし、責任ある地位の方として、公開の場で講演するからには、当然、十分予習されての上と考えます。
 当記事は、掲題シンポジウムでの講演内容ですが、公式見解に対する批判を加えさせていただくことをご容赦下さい。

 本記事は、邪馬台国誌の七田氏論説の「図」で触発された議論ですが、表明されたのは氏個人の意見ではないことは承知で、格別に率直に批判するものです。

 と言っても、「図」自体の批判ではありません。近来氾濫しているまやかしの「イメージ」などでなく、概念図としての氏の思考の図式化は大変参考になるのですが、氏の古代史概念が錯綜していることを指摘しているのです。

◯時代錯誤の由来を探る
 図の懸念は、「邪馬台国」(倭人伝に言う邪馬壹国)が二重基準で書かれてことです。つまり、領域を持つ「国」、邪馬台国の領内に「倭」と邪馬台国の宮殿がある図式です。縦長楕円形内に〇二つの表現自体には不満はありません。倭は、諸国連合らしいし、両「宮殿」は環濠集落らしいのです。

*国と畿内
 当時の中国史書では、中原天子の畿は、天子王城を中心に半径千里の領域なのです。
 天子の威光は、光芒の如き直線的な距離に及ぶものですが、蛮王に威光はないというものです。

 東夷伝の高句麗は「方二千里」ですが、あくまで、耕作地の集成であり、耕作地外の地を含まないと見えます。敢えて、後世概念で、領域の広さを問うと、「方五千里」相当になるのではないかと思量します。つまり、国土の大半は「耕作不適」ということです。

*戸数と方里
 耕作地の面積(方田)は、全国戸籍を合算すれば、概要を知ることができるから、戸数に連動して、集計されていると思われます。つまり、農業生産力、獲れ高と動員可能な男子数が、国力指標として示されたと見えます。

 当時の蛮夷「国」は、領域面積では把握されていないと見えます。

*戸数錯解
 描かれた広域「邪馬台国」は勘違いで、「宮殿」が「邪馬台国」でしょう。

 倭人伝から「邪馬台国」戸数が、「可七万余戸」(正確な数は不明。憶測して七萬程度)と速断している解釈は、不合理な憶測とわかります。「邪馬台国」の姿を「王の居処」と見定めれば、それは一個の環濠集落であり、七萬戸の戸数は到底あり得ないとわかるのです。「邪馬台国」を、漢制の国と同一視、誤解しているから読み損なうのです。
 是正すると、「邪馬台国」戸数は千の桁、ないしはそれ以下となるのです。

*戸数談義
 ここで、戸数の概念を見直すと、先に確認したように、戸数は、本来、耕作地面積や成人男子の人数に、強固に連動しているのです。

 しかし、王の居処「国」の耕作地面積は無意味です。現代風に言う「公務員」を抱えていて食糧自給できず、収穫物を徴税はできません。

 また、古来、「首都圏」とみた「国」民は、凡そ税を納めないのです。大半が、国の「給与」で生計を立てているから、そこから「税」を取るのは無意味です。免税は、城内市、後の都市(といち)の振興に効果があります。

                                未完

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