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2020年11月11日 (水)

新・私の本棚 古田武彦 『「邪馬台国」はなかった』 道里論批判 7/7 再掲

    ミネルヴァ書房 古田武彦古代史・コレクション版 2010年1月 初刊 1971年 朝日新聞社刊

 私の見立て ★★★★★ 必読、不朽の名著  2019/02/13 2020/04/30 改定 2020/11/11

*概念図再掲
 以上のように、氏の基本原則に批判を浴びせましたが、持論の説明として、当時の帯方郡から倭にかけての概念的地図を試みたものです。この程度のおおざっぱさが、かえって、当時の世界観の「正確な」理解に近づいているのではないかと考える次第です。現代地図は、立ち入り無用です。
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*余談 東方倭種への道
 ついでに時代の瀬戸内海南岸沿いの輸送経路を推定しました。(おそらく、新説です)

 大前提は、当時の航海術では、まず通り抜けられない関門海峡は置くとして、瀬戸内海北岸東西の芸予・備讃海域は、潮流が激しく入れ替わる上に、浅瀬や岩礁で喫水の深い荷船は航行不能でした。(ということは、大きな荷船は来ないという事です)
 難所を熟知した地元漁民が、船底が浅い漁舟で日々出漁したのは別です。小さな荷船の往来も別です。

 この「航路」が通じたのは、恐らく、早くて、六世紀、ひょっとすると八世紀でしょう。書紀は、ポツンと、航路開通記事を書いているようですが、各地の難所を長年かけて徐々に開通したものであり、自身で開通させたのなら、功労者を顕彰するものでしょう。

*瀬戸内南岸経路の提案
 三世紀当時の東西輸送路を大胆に考えると、九州東岸、おそらく国東半島から東に出港、総じて、平穏な海域である伊予北岸沖合を、先ずは東へ、ついで北東へ、そして「高縄半島」北部西岸に寄港し、暫時山越え陸行、「今治」付近から瀬戸内海に戻り、総じて平穏で島嶼の稀な「燧灘」沿岸を、先ずは南へ、そして東へ向かい、突き当たりで上陸して、山越えで池田に抜け、後は吉野川沿いの陸行で、鳴門海峡の東に出たかも知れません。このように進めば、海の難所を避けられるのです。
 何しろ、「瀬戸内」とは、東西の多島海の「瀬戸」に挟まれた小宇宙のことかも知れないのです。
 以下、「淀川」河口から淀川水系を遡行して木津川を南し、湾曲部の終着港木津で荷揚げし、最後は、ゆるやかな「なら山」越えで南へ陸行したとの空想です。三世紀当時、数世紀後に持ち出された河内から東に金剛生駒の山並みを山越えする輸送路は、実際の地形からみて、とても主力でなかったと見ているものです。(全く無かったと言っているのではありません)

 俗説が軽視した数々の難所を避けた行程です。

*断ちがたい交易の鎖
 途中、随時寄港あるいは宿泊して、市糴して荷主が交替し、便船ないしは人馬を差し替え、荷を運びます。一貫行路は、時代錯誤の勘違いです。
 その当時、荷船は小舟であり、数千里の一貫航行は、夢にも思わなかったのです。せいぜい、月一の市を開く集落伝いに、手漕ぎ船や背負い荷の鎖が繋がって、ひょっとして一年、二年かけて、舶来船荷は旅路の果てのまほろばに届いたのです。
 遺物には、生産日も発送日も到着日も書いていないのですから、何年かかっていても、何の問題もないのです。勿論、価格も、生産者も、買い主も書いていません。

*淀川水系称揚
 淀川水系を延々水行するのは、巨大な水がめ琵琶湖を水源としていて、年を通じて渇水がなく、流れが緩やかであって、水量が安定して豊かなので、古来、船舶航行が多くて川港も整っていたことから、荷船が安心して運行できたと見たものです。 

*大和川水系の難航
 素人考えで、河内以降の経路を評価しました。森浩一氏などが提示した大和川水運は、「くに境」を貫く大和川が急流で遡行できず、柏原付近で荷下ろしして生駒山越えの急峻険阻の背負いは、地質が軟弱、不安定で官道が築けず、また、奈良側も、長く低湿地になっていて、輸送の幹線たり得なかったと思います。(全く無かったと言っているのではありません)
 もちろん、運河を開鑿して、大規模な水運を行ったなどは、夢物語に過ぎません。高低差のある河川に運河を開鑿するのは夢物語だし、そのように傾斜した運河は、現代の技術を持ってしても、運用できないのです。

 近年喧伝される日本海航路から早瀬を遡行し、険阻な峠道を越える難路も、所詮、行き交う荷のまばらな支線と思います。(全く無かったと言っているのではありません)

 以上、近年突如として持ち出された「新説」ですが、むしろ「隘路」そのものであって、主力となったはずのない、根拠のない新説は、単なる思い付き、夢想に過ぎないのです。

*未開の瀬戸内航路
 と言う事で、伝説や風聞を除き、七世紀に至るまで、瀬戸内海北岸沿いの一貫航行はなかったのです。

 因みに、このような遠大な難路行程は、倭人伝に記録されていないのです。

□総評
 当記事の全体を通じて、古田氏の論考に対する苦言が多いように見えるかも知れませんが、それは、勘違いと言うものです。
 氏の第一書である本書は、古来持てはやされていた空想的な議論を廃し、原史料である魏志倭人伝から、確実に導き出される仮説の論証を確実に展開するという、前人未踏の労苦に挑み、敢えて、一つの針路を突き詰めることの危険を怖れけなかったものです。

 ここまで指摘した事実誤認や牽強付会の誤解釈は、爾来、一部の例外を除き、堂々と批判を加える論客を得られなかったために、今日まで遺存しているだけであり、本来、論戦を通じて、早々に取り除くべきものなのです。

 と言う事で、当記事は、古田武彦氏の偉業を賞賛するものなのです。

                                完

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