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2020年11月11日 (水)

新・私の本棚 正木裕 邪馬壹国の歴史学 8「短里」の成立と漢字の起源 2/2 再掲

 ミネルヴァ書房 古田史学の会編 2016年3月刊      記2019/02/17   再掲2020/11/11
 8.「短里」の成立と漢字の起源

    私の見立て ★★★★☆ 重要 

 本論は区切った論述が紆余曲折で判読困難なので大まかに書きました。

*無意味な例証
 注釈(7)に「九章算術」(勾股)の問題と回答が例示され、これを解くには、丈里換算が必要と書かれていますが、これは氏の誤解です。 実際は、求める山高(丈)が、近傍の木高(丈)の何倍かを求める計算であり、山・木・人の離度は、計算式で相殺され無次元になっているので、短里、長里、現代の公里のどの里制でも計算結果に一切関係しないのです。いや、尺寸に換算するときは、里長に依存しますが。

有山居木西、不知其高。山居木五十三里、木高九丈五尺。人立木東三里、望木末適與山峰斜平。人目高七尺。問山高幾何。
答曰 一百六十四丈九尺六寸、太半寸
術曰 置木高減人目高七尺、餘、以乗五十三里為實。以人居木三里為法。實如法而一、所得、加木高即山高。

 本題は尺里換算が不要であり、単位系の使い分けが明快に徹底されていて混乱が一切なかった証拠であり、本題に依存する本論の里制変更仮説は根拠を失うのです

*文帝明帝相克
 氏は、文帝曹丕に里制変更を求めて、遂に、その形跡を見いだせず、明帝紀の改暦記事につけを回そうとしたようですが、記事を拡大解釈するなどの禁じ手を使わないと証拠を言い立てられなかったようです。

 氏は、明帝時に里制変更があったという記事が無くてもなかったと言い切れないと強弁しています。里制変更記事は漢魏晋を始め各時代正史になかったとしても、いつどの時代も「なかった」と「絶対に断定できない」となれば、もはや、それは史学ではないのです。

*最後の最後

 正木氏は、本論に不退転の意気で取り組んでいるらしく、記録のある「三百歩一里制」が、周朝以降長く実施されたと云いつつ、殷代記録がないのを良いことに、それ以前は、別の里制が敷かれていたと主張するのです。考えるに、周は、未開の種族であったものが、殷の臣下となり、ついには、高官の地位に就いたのであるから、その国内制度は、殷制に従っていたと考えるべきです。また、殷の文字を授かって、殷なの暦と法制を遵守するように強いられていたはずです。殷周革命、克殷というものの、すべて、殷制のお下がりであったはずです。

 氏には、殷代里制なる大胆な仮説は「可能性が高い」と見えているようですが、正史、ないしは、正史に準じる文献資料は、書かれているままに読解くと云う基本原理を失念したように見えます。もちろん、可能性は皆無ではないので、それを「高い」と見るのは、その人の感性次第であり、余人の口を挟むことではないのは承知していますが、何か考え違いをしているとしか見えないのです。

 氏は、最後の最後に捨て台詞を残し、未発見の周代物差しなどが発見されたら、確証の不足は解消するとか、果ては、遺物が出れば、いつ「短里」が廃止されたのかまで判明するから、それ以前には短里が敷かれていたと実証できるという、どこかで聞いたような「タラレバ」山師論に堕して痛々しいのです。
                                完

 

 

 

 

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