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2020年11月12日 (木)

新・私の本棚 歴史読本臨時増刊 「渡来人は何をもたらしたか」 1/2

 石井 謙治 古代の船と航海の歴史 新人物往来社 1994年9月刊

私の見立て ★★★★★ 当記事に限定 瑕瑾ある卓見 2020/11/12

□はじめに
 本書は、新人物往来社が、斯界先賢の寄稿、ないしは、刊行物引用によって、特集テーマに関する総合的な定説構築を図ったものと見えます。「臨時増刊」各郷は、古代史関係で多数の好著を輩出し貴重な情報源となっています。この点、星五つ、本特集も同様、賛嘆置く能わざる、と言う感じです。

○石井 謙治 古代の船と航海の歴史
 当記事は、目下審議中の倭人伝行程道里論、特に、半島陸行に対する「和船史研究家」石井謙治氏の否定見解に対して、豊富な学識に背くように、専攻分野中心の偏見で史料解釈しているのを捉えて、異論を呈するものです。

 魏志倭人伝で「日本列島と大陸間」と述べていて、素人目には、地理概念の調整が必要と見えます。九州北部から半島内陸の帯方郡への経路が問われるのであり、難題を拵(こしら)えて解決を困難にするべきではないのです。

*技術考証
 また、当時の船体の技術解明において、六世紀前後と見られる大型「複材剥舟」遺物は、所詮、倭人伝の三世紀後であり時代考証不適当と見えます。

*技術「反考証」
 同誌には、三世紀から五、六世紀にかけて、造船技術の進歩がなく、むしろ、後退したとの憶測が説かれていますが、その間「大陸」交流が断絶したわけではないので、長期の技術停滞は信じがたいのです。

 その後、準構造船考察と国内史料依拠の七、八世紀軍事作戦の裏付けを進め、勢いがありますが、三世紀の渡海船構造談義と大きく隔絶しているです。

*大軍派遣の考証
 例えば、斉明四~五年(658~9)の軍船180隻蝦夷出兵、天智元年(662)の軍船170艘百済派遣、天平宝字五年(761)の新羅侵攻作戦用394艘造船と巨大な数字が連発されますが、必要な資材の調達、加工、そして、造船作業に要する資材と人材は厖大です。

*画に描いた餅
 誰かが基本構想を立てたとしても、誰が、全体図から明細図を書いて、各担当部隊に配布し、そのような広大で込み入った計画の進行を統御したのか、人材育成、技術移管の面だけ見ても、大変疑問が残ります。

*書紀の粉飾記事か
 書紀編者が筆を嘗めた虚構と見えます。八世紀後半平安京遷都後には、要地の造船所に技術者が配置されたでしょうが、「ローマは一日にして成らず」の成語通り、所望の予算を継続しても、体制作りに五十、百年を要すると見えます。そして、外征がなければ大量の造船体制は不要なのです。

 氏は、和船専門史家の務めとして、同時代の時代考証を行い、大計画群が、砂上の楼閣か、実質の裏付けがあるか、論考の必要があると見受けます。

○倭人伝行程道里考察~誤解釈の確認
 氏は、中国史書である「倭人伝」の読解に於いて、ご自身の専門分野の領域拡大のために勝手読み(誤解釈)していると見えます。

 遣唐使船が、ある時期から冒険航海になったのを見て、それだけの造船技術があったのなら、「北路」が半島西岸沖合航路と見て、ついに、「新羅道」まで、同様の体と決め付けるのは、時代錯誤の牽強付会(誤解釈)です。

                                未完

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