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2020年11月 5日 (木)

新・私の本棚 平野 邦雄 邪馬台国の原像 1 「野性号」談義 改 3/3

 学生社 2002年10月初版
 私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/02/02 補足 05/14 11/04 2021/09/09

○魏使行程海上不通の弁
 以下、私論を連ねますが、当時、帯方郡が、官制道里として、郡から狗邪韓国まで海上行程を設定していたとは考えられません。
 このように、倭人伝道里行程記事の交渉から「海上行程」を排除すれば、議論の空転、時間の浪費を避けられるのです。

*帆走風待ち、潮待ちの難
 平野氏が操船技術の基本を提起しているように、当時の帆走技術では、定期航路の維持は不可能です。適度の追い風を受けたときだけ帆走できるものであり、向かい風や横風は、難船を招く物です。つまり、風待ちを重ねて、ようやく維持されるものですが、何日、いい風を待つのでしょうか。

*帆船操船の難
 氏は明言を避けていますが、帆走では適確な操舵ができないため、想定される多島海運航は難船必至です。帆船の重厚な船体は、操舵補助の漕ぎ手を乗せていても、手漕ぎ転進は困難です。入出港には、地元の手漕ぎ船が「タグボート」のように船腹に取り付いて転進させることになります。

 そのような人海作戦を要求される帆船航行が維持できたとは思えません。もちろん、山東半島と帯方郡を往来する渡船は、平穏な航海であり、また、船荷豊富と思われるので、入出港タグボートは動員できたでしょうが、客の滅多に来ない航路では維持できなかったでしょう。現地の岩礁、浅瀬を避けられるのは、小振りの漕ぎ船に乗った、老練の漕ぎ手達です。

 と言う事で、半島沿岸を帆船で往来していたとは、とても、とても思えないのです。関係者は、確実な史料をお持ちなのでしょうか。

○駅伝制採用と島巡り廃止
 当時、海峡渡海は、市糴で常用されていたから実証不要ですが、難行苦行と報告されている「島巡り」不要の駅伝方式と見ます。

 渡船乗り継ぎの提案です。海上泊は不要で、甲板も船室も煮炊きもいらず、また、日々寄港して休養できます。
 漕ぎ手は、都度、地元の者と交代し、自身は、帰り船で母港に帰るので、負担の軽い、維持可能な勤務形態です。別に、連日運行ではないので、漕ぎ手に無理をさせないのです。

*駅伝制~交易の鎖
 その際、舟も交代させるから、船主は、短期間で舟と漕ぎ手を取り戻せるので、持ち合わせた船体と人材で、市糴を続けられるのです。

 閑散とした沿岸航行の近場専用の軽装であれは、船体は軽量で漕ぎ手の負担が軽減されます。区間限定で、船と漕ぎ手を入れ替えるのであれば、淡々と定期便を運行できるのです。繁忙期には、運行間隔を縮めるなり、予備の船幅を提供するなりして増便すれば良いのです。

 つまり、無理して一貫航行しなければ、適材適所の船体と人材で、楽々運用できるのです。(半島沖合船行すら、運用可能なのです)
 特に、行程の短い渡し舟は、中原でも渡河の際に常用されていて、多少、所要時間は長いものの、常識の範囲と見えたのです。
 また、山東半島と朝鮮半島の漢は、古来、便船が往復していて、こちらも、何の不安もなかったのです。つまり、魏使の携えた大量の荷物は、帯方郡治までは、難なく運ばれたのです。
 問題は、前代未聞の半島沖合船行だったのです。

*官制航路への起用
 倭人伝冒頭に展開される道里行程記事は、郡から倭の王城に到る行程を皇帝に上申する文書であり、そのように理解しなければ、文書の深意を見損ないます。

 俀国の根幹である公式文書便は、渋滞、遭難なしで、迅速かつ確実でなければならず、つまり、日数死守です。経路選択は、慎重な上にも慎重で無ければなりません。

*水行論
 後代の「唐六典」には「水行」の規定がありますが、これは、大量の穀物輸送、つまり、華南産の大量の米俵を華北に送る官用輸送便の一日の輸送距離と運賃について、統一規定したものであり、文書便の走行距離を示したものではありません。国制として文書便を送達した「飛脚」は、甘英なので、運賃を規定する必要は無かったのです。
 もちろん、唐代は、長江(江水、揚子江)流域を支配下に収めていましたが、三世紀、江水流域は、蜀漢、東呉の勢力下にあり、華北に送達する官用輸送便など成立していなかったのです。つまり、唐六典の規定を、三世紀に適用するのは、重大な時代錯誤なのです。河水(黄河)の事情も、隔世の感があり、河水本流の下流部は、太古以来毎年の氾濫のくり返しで、両岸が荒れ地と化していて、荷船は、洛水などの支流を利用していたのですから、「唐六典」「の規定は、場違いなのです。
 まして、辺境であって、官制の「水行」、つまり、河川航行の規定が行き届いていない帯方郡管内に河川水行は論外であり、かといって、「水行」を、太古以来採用されていなかった沿岸航行の意に捉えるのは、二重三重の錯誤を冒しているのです。

 それとは、事情が違うにしろ、皇帝下賜の宝物の重量、大量の貨物と使節団を、「板子一枚下は地獄」の船旅には託しません。遭難時、使節関係者は重罪に問われます。いや、そう見ると、はなから、魏使の船便利用は、あり得ない無法な策です。
 私見ですが、古代中国が「国民皆泳」とは思えないので、金槌ぞろぞろの可能性があり、古代人だって、勅命とは言え、命は惜しいのです。ゴロゴロ船底を転げ回りつつ、睡眠を摂るなど到底できなかったでしょう。

*まとめ
 氏は、立場上、実証航海の否定的論議はしませんが、本書のコラムにまとめたのは、決定的な「成果」でないことを示しているようです。

 本書の本題では無い「コラム」の批判ですが、氏の、書籍全体を貫く堅実な考察に不満があるわけではなく、偶々、手掛かりの着いた議論の瑕瑾、それも、氏自身の本位で無い記事なので、本書に対して、当ブログにしては高評価なのです。

                                以上

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