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2020年11月 2日 (月)

03. 從郡至倭 - 読み過ごされた水行 改訂第五版   3/3

        2014/04/03 追記2018/11/23、 2019/01/09、07/21 2020/05/13  2020/11/02

 おことわり: またまた改訂しました。そして、更に追記しました。3ページに分割しました。

郡から狗邪韓国まで 荷物運び談義 追記 2020/11/02

 郡から狗邪韓国への行程は、騎馬文書使の街道走行を想定していますが、荷物輸送であれば、荷船の起用は、自然なところです。と言う事で、倭人伝の行程道里談義を離れて、荷物輸送の「実態」を考証してみます。

 以下、字数の限られたブログ記事でもあり、現地発音を並記すべき現代地名を最小限とどめています。また、利用の難しいマップの起用も遠慮していますが、関係資料を種々参照した上での論議である事は書いておきます。

 なお、当経路は、当時郡の主力であったと思われる遼東方面からの陸路輸送を想定していますから、わざわざ黄海岸に下りて、荷船で南下する事は無く、当時、最も人馬の労が少ないと思われる経路を模索しています。

 それとは別経路として、黄海海船で狗邪韓国方面に向かう荷は、郡に寄る必要は無いので、そのまま漢江河口部を越えて南下し、海港で荷下ろしして陸送に移したものと見えます。海船は、山東半島への帰り船の途に着きます。当然ですが、稼ぎの多い荒海の大量輸送をこなす重厚な海船と乗組員を、閑散航路に就かせるような無謀な輸送はあり得ないのです。

*郡から漢江(ハンガン)
 推定するに、郡治を出た輸送行程は、東に峠越えして、北漢江の川港で、荷船に荷を積むまでの陸上輸送区間があったようです。郡の近辺なので、人馬の動員が容易であり、小分けした荷物を人海戦術で運ぶ、「痩せ馬」部隊や、驢馬などの荷車もあったでしょう。

 漢江河口の扇状地は、天井川と見られる支流が東西に並行していて、南北経路は存在していなかったと思われます。(架橋などあり得なかったのです)つまり、郡から南下して漢江に乗り付けようとしても、通れる道がなく、乗り付けられる川港もなかったのです。南北あわせた漢江は、洛東江を超える広大な流域面積を持つ大河であり、上流が急流であったことも加味されて、豪雨の際の保水力が乏しく、しばしば暴れ川となっていたのです。

 郡からの輸送が、東に峠越えして、北漢江上流の川港に向かう経路が利用されていたと推定する理由です。
 いや、念のため言うと、官制街道の記録があったというわけでもなく、推定/夢想/妄想/願望/思い付きの何れかに過ぎません。

*北漢江から南漢江へ
 北漢江を下る川船は、南漢江との合流部で、山地のすき間を突き破って海へと注ぐ漢江本流への急流部を取らずに南漢江遡行に移り、傾斜の緩やかな中流(中游)を上り、上流部入口の川港で陸に上り、山越えの難路に臨んだはずです。

 漢江河口部から本流を遡行して、南北漢江の合流部まで遡ったとしても、そこは、山地の割れ目から流れ出ている急流であり、舟の通過、特に遡行が困難なのです。と言う事で、下流の川港で、陸上輸送に切り替え、小高い山地を越えたところで、南漢江の水運に復帰したものと思われます。何のことはない、陸上輸送にない手軽さを求めた荷船遡行は、急流部の難関のために、難航する宿命を持っていたのです。合流部は、南北漢江の増水時には、下流の水害を軽減する役目を果たしていたのでしょうが、水運という面では、大きな阻害要因と思われます。

 郡からの内陸経路の運送は北漢江経由で水運に移行する一方、海船は扇状地の泥沼(後の漢城 ソウル)を飛ばして、その南の海港(後世なら、唐津 タンジン)に入り、降ろされた積み荷は、そこで小分けされて、内陸方面に陸送されるなり、「沿岸」を小舟で運ばれたのでしょう。山東半島への渡海船は、大容量で渡海専用、短区間往復に専念していたはずです。

 漢江は、山間部から流下する多数の支流を受け入れているため、増水渇水が顕著であり、特に、南漢江上流部は、急峻な峡谷に挟まれた「穿入蛇行」(せんにゅうだこう)や「嵌入曲流」を形成していて、水運に、全く適さなかったものと思われます。従って、中流からの移行部に、後背地となる平地のある適地(忠州市チュンジュ)に、水陸の積み替えを行う川港が形成されたものと思われます。

 そのような川港は、黄海海港からの経路も合流している南北交易の中継地であり、山越えに要する人馬の供給基地として繁盛したはずです。

*竹嶺(チュンニョン) 越え
 小白山地の鞍部を越える「竹嶺」は、遅くとも、二世紀後半には、南北縦貫の街道として整備され、つづら折れながら、人馬の負担を緩和した道筋となっていたようです。

 「竹嶺」越えは、はるか後世、先の大戦末期の日本統治時代、黄海沿いの鉄道幹線への敵襲への備えとして、帝国鉄道省が、多数の技術者を動員した新路線敷設の際の峠越え経路であり、さすがに、頂部はトンネルを採用していますが、その手前では冬季積雪に備えた、スイッチバックやループ路線を備え、東北地方で鍛えた積雪、寒冷地対応の当時最新の鉄道技術を投入し全年通行を前提とした高度な耐寒設備の面影を、今でも、しのぶ事ができます。
 と言う事で、朝鮮半島中部を区切っている小白山地越えは、歴史的に竹嶺越えとなっていたのです。

 それはさておき、冬季不通の難はあっても、それ以外の季節は、周辺から呼集した労務者と常設の騾馬などを駆使した峠越えが行われていたものと見えます。

 言葉や地図では感じが掴めないでしょうが、今日、竹嶺の南山麓(栄州 ヨンジュ)から竹嶺ハイキングコースが設定されているくらいで、難路とは言え、難攻不落の険阻な道ではないのです。

*洛東江下り
 峠越えすると、以下の行程は、次第に周辺支流を加えて水量を増す大河洛東江(ナクトンガン)の水運を利用した輸送が役に立った事でしょう。南漢江上流(上游)は、渓谷に蛇行を深く刻んだ激流であり、とても、水運を利用できなかったので、早々に、陸上輸送に切り替えていたのですが、洛東江は、かなり上流まで水運が行われていたようなので、以下、特に付け加える事は無いようです。

 洛東江は、遥か河口部から上流に至るまでゆるやかな流れなので、あるいは、曳き船無しで遡行できたかもわかりません。ともあれ、川船は、荒海を越えるわけでもないので、軽装、軽量だったはずで、だから、遡行寺に曳き船もできたのです。もちろん、華奢な川船で海峡越えに乗り出すなど、とてもできないのです。適材適所という事です。

*代替経路推定
 と言う事で、漢江-洛東江水運の連結というものの、漢江上流部の陸道は尾根伝いに近い難路を経て竹嶺越えに至る行程の山場であり、しかも、積雪、凍結のある冬季の運用は困難であったことから、あるいは、黄海よりに、峠越えに日数を要して、山上での人馬宿泊を伴いかねない別の峠越え代替経路が運用されていたかもわかりません。何事も、断定は難しいのです。

 このあたりは、当方のような異国の後世人の考察の到底及ばないところであり、専門家のご意見を伺いたいところです。

以上

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