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2020年11月 2日 (月)

03. 從郡至倭 - 読み過ごされた水行 改訂第五版   2/3

        2014/04/03 追記2018/11/23、 2019/01/09、07/21 2020/05/13  2020/11/02

 おことわり: またまた改訂しました。そして、更に追記しました。3ページに分割しました。

*「従郡至倭」の解釈 (追記 2020/05/13)
 魏志編纂当時、教養人に常識、必須教養であった算術書籍「九章算術」では、「従」は「縦」と同義であり、方形地形の幅方向を「廣」、縦方向を「従」としています。つまり、「従郡」とは、郡から見て、つまり、郡境を基線として縦方向、ここでは、南方に進むことを示していると考えることができます。

 続く、「循海岸水行」の「循」は「従」と同義であり、海岸を基線として縦方向、つまり南方に進むことを、ここ(倭人伝)では、特に水行と呼ぶという宣言と見ることができます。

 つまり、「通説」という名の素人読みではこれを実際に進むという意味と解していますが、これを行程記事の一部と見ずに、倭人伝独特の水行の定義句と見ると、不可解ではなくなり、行程記事から外せるのです。


*自明当然の陸行 (追記 2020/05/13)

 と言う事で、帯方郡から狗邪韓国の行程は、中国史書として自明なので、わざわざ書いていませんが、郡の指定した官道を行く「陸行」だったのです。以下、水行という名の「渡海」行程に移り、末羅に上陸すると、「水行」の終了を明示するために、敢えて「陸行」と字数を費やしているのです。
 倭人伝に示されているのは、実際は、「自郡至倭」行程であり、最後に、水行十日、陸行一月(三十日)と総括しているのです。
 ついでながら、陸行一月を一日の誤記とみる方がいるようですが、皇帝に上申する史書に、「水行十日に加えて陸行一日」などと書くのは無用な字数稼ぎであり、陸行一日は書くに及ばない瑣末事として、忽ち抹消されるものです。水行十日は、当然、切りのいい日数にまとめた概算であり、一日のはしたなど書くものではないのです。

 と言う事で、郡から倭まで、三角形の二辺を経る迂遠な「海路」に一顧だにせず、一本道をまっしぐらに眺めた図を示します。これほど鮮明でないにしても、「倭在帯方東南」を、図(picture)として感じた人はいたのではないでしょうか。現代風に言う「空間認識」の絵解きです。当地図は、Googleマップ/Google Earthの利用規程に従い、画面出力に追記を施したものです。
 先入観や時代錯誤の精密な地図データで描いた画餅「イメージ」で無く、仮想視点とは言え、現実に即した見え方で、遠近法の加味された「ピクチャー」なので、行程道里の筋道が明確になったと考えています。倭人伝曰わく、「倭人在帯方東南」、「従郡至倭」。

Koreanmountainpass00
以上

*旧記事再録
------------------------ 
 以下の記事では、帯方郡から狗邪韓國まで船で移動して韓国を過ぎたと書かれていると見るのが妥当と思います。
 「循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國」
 従来の読み方ではこうなります。
 「循海岸水行、歴韓國乍南乍東、到其北岸狗邪韓國」
 終始水行と読むことになります。

 しかし、当時の船は沿岸航行であり、朝出港して昼過ぎに寄港するという一日刻みの航海と思われますが、そのような航海方法で、半島西南の多島海は航行困難という反論があります。

 別見解として、水行は、帯方郡から漢城附近までの沿岸航行であり、以下、内陸行との読み方が提示されています。この読み方で著名なのは、古田武彦氏です。

 これに対して、(山東半島から帯方郡に到着したと思われる)船便が「上陸して陸行すると書かれてない」という難点と合わせて、魏使は、高貴物を含む下賜物の重荷を抱えての内陸踏破は至難、との疑問が呈されています。

 特に、銅鏡百枚の重量は、木組みの外箱を含めて相当なものであり、牛馬の力を借りるとしても、半島内を長距離陸送することは困難との意見です。

 これでは板挟みですが、中島信文 『甦る三国志「魏志倭人伝」』 (2012年10月 彩流社)によれば、次の読み方により、解決するとのことです。 
 「循海岸、水行歴韓國乍南乍東、到其北岸狗邪韓國
 つまり、帯方郡を出て、まずは西海岸沿いに南に進み、続いて、南漢江を遡上水行して半島中央部で分水嶺越えで洛東江上流に至り、ここから、洛東江を流下水行して狗耶韓国に至るという読みです。

 河川遡行には、多数の船曳人が必要ですが、それは、各国河川の水運で行われていたことであり、当時の半島内の「水行」で、船曳人は成業となっていたのでしょうか。

 同書では、関連して、色々論考されていますが、ここでは、これだけ手短に抜粋させていただくことにします。

 私見ですが、古代の中国語で「水」とは、河水(黄河)、江水(長江、揚子江)、淮水(淮河)のように、もっぱら河川を指すものであり、海は、「海」なのです。これは、日本人が中国語を学ぶ時、日中で、同じ漢字で意味が違う多数の例の一つとして学ぶべきものです。
 従って、手短に言うと、「水行は河川航行」との主張は、むしろ自明であり、かつ合理的と考えます。

 ただし、中島氏が、「海行」が、魏晋朝時代に慣用句として使用されていたと見たのは、氏に珍しい早計で、提示された用例は、呉志であり、言うならば魏志には場違いな呉の用語が持ち込まれているのです。また、同用例は、「ある地点から別のある地点へと、公的に設定されていた経路を行く」という「行」の意味でも無いのです。是非、再考いただきたいものです。

未完

 

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