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2020年11月 5日 (木)

新・私の本棚 平野 邦雄 邪馬台国の原像 1 「野性号」談義 改 1/3

 学生社 2002年10月初版
 私の見立て ★★★★☆ 必読好著 2020/02/02 補足 05/14 11/04 2021/09/09

〇総評
 本著は、「邪馬台国論」の書として、大変貴重な名著であり、中原、半島との関連はもとより、国内後代史へのつながりを踏まえた資料談義であり、とかく、俗説書に目立つ空論、先入観が少なく、学ぶところ大です。当ブログ筆者は、倭人伝専攻なので、全体の書評は手に余り課題になっているものです。本書評は、倭人伝道里行程論と関係している一部にとどまります。

□コラム 「邪馬台国への航海」
 概評済「野性号」1975年記録ですが、指導的立場の平野氏の自戦記が当方「書庫」から浮上したので、反省してコラム書評を掲載したものです。
 当記事は、初出『古代船「野性号」』(「日本歴史」344号 1977.1)記事の再掲です。雑誌「野性時代」1975年10月臨時増刊号が関連記事を掲載していますが、現時点で、古書として入手困難なので、公立図書館のお世話になる以外、閲覧方法はなく、当コラムは大変貴重な情報源です。

*航海記の教え
 手漕ぎ船航海記は貴重ですが、半世紀近く経ても、深意が知られてないのは残念です。麗々しく公刊の古代史書籍で、半島沖海域船行が難しいのは不可能の意でなく、史実で通っていたから通った、との強弁が展開されています。いや、大抵の論者は、地図上に線を手描く無責任な「画餅」主義です。
 「難しい」が「事実上不可能」の意と知らないのは、まあ、むしろ、子供っぽい誤解ですが、無批判な追従は、情けないものです。
 それはさておき、当時の関係者は、実験航海支援の恩人を忖度して、否定的見解を隠したのでしょうが、以下は、勉強していれば高校生学識でわかるはずです。

*船の要目
 木造船長16.5㍍ 船幅2.2㍍ 定員30名 3.9トンは排水量か。
 魏使一行所要艘数を計算するには、想定積載量・乗客が必要です。

 様子を見る限り、甲板、船室など無く、吹きさらし、雨ざらしの苛酷な風情です。中国人は、食物を必ず煮炊きするのですが、食糧と水の貯蔵庫も厨房も見て取れません。寒暑の時期は避けるとしても、中間期といえども、日数を重ねて乗り続けられるようには見えません。まして、夜通しの移動など、無理でしょう。
 総じて言うと、船舶と言うより筏の類いと見えます。古典書では、浮海と呼ぶものです。求められたのは、渡し舟の軽便さでしょうか。

*万全の漕ぎ手
 どうやら、想定乗員が三十人で、ほぼ半数が漕ぎ手とみたようです。
 片側七人計十四人~十六人の想定で、舵取り二名、交代二名で、二十人乗船でしょうか。詳細資料が欲しいところです。
 全員現役の若くて屈強の水産大学生が、臨んでいるのに感心します。

*所要日数
 仁川(インチョン)~釜山(プサン) 28日程度
 釜山(プサン)~  博多港     16日程度
 合計45日程度。休養を入れて60日程度と有意義な見積もりです。
 無寄港、無補給ではないでしょうが、煮炊き用の燃料まで考えると、相当な量と思われますが、明細は語られていません。

 支援船曳航の難局は、「当時常用の行路であれば」航路熟知で避けられても、概して漕力不十分です。
 また、全行程ほぼ漕ぎ詰めは、苛酷です。寄港時に休養をとるとしても、この日数は、超人集団に見えます。帆走で、どの程度労力を低減でキメか不明ですが、舵取りのために漕ぐのは不可避で、三世紀の魏使便船の場合は、異例に多数の船腹が必要なので、よくぞ、追加の漕ぎ手が揃い、長期間、病人もけが人も出ないで、完漕できたものと感心します。
 それにしても、使節一行に下賜物などを載せて何艘でしょうか。これは禁句でしょうか。

 槽運事業の視点で見ると、航海基点(船主の待つ母港)にしてみると、多数の主力船が漕ぎ手と船体もろとも、半年近く不在で、音信不通で、帰還が不安では、大いに悩むはずです。何しろ、通常は、往復数日で済む渡海船なのですが、官名とは言え、恐らく、新造船と新規の漕ぎ手の募集で、未知の行程、未知の遠国に向かうのでは、下見の探索を取材に送り込んだにしても、不安に駆られたでしょう。
 いや、当ブログ筆者は、帯方郡太守にとって、道中が安全に管理されていて、日々騎馬の文書使が急報してくる街道行程が、唯一無二の選択肢だったと確信しているので、官道としてあり得ない余傍行程について、余り議論したくないのです。

 さて、今回の実験航海は、現代文明の齎した羅針盤、海図や潮流、天候情報の支援を得て乗り切りましたが、当時、山東半島との間の渡船を運用していた面々が、半島西岸海域の知識無しに六十日間一貫航行など到底あり得ないと思います。

*現地海域事情の予習
 計画推進にあたり、当然ながら、航路について、慎重な予習が行われたと言う事です。ただし、有益な情報は後学の空論には反映されていないのです。
 疑問として、三世紀当時、海図も気象台もないのに、これだけの航路長に渡り、どのようして、「予習」したのか、大変疑問です。現代、遭難を避け、人命を保全したのは当然ですが、三世紀当時も、乗員の人命尊重に加えて、船荷と船体の安全は、至上命令だったはずです。

                                未完

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