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2020年12月

2020年12月26日 (土)

今日の躓き石 朝日新聞将棋記事の『忌まわしい「リベンジ」』を歎く

                                2020/12/26

 今回の題材は、大変珍しいことに、朝日新聞デジタルの将棋報道である。ここで文句を言わざるを得ないのは、肝心なところで的外れだからである。

 豊島竜王が羽生九段下して4勝目 村山七段が激戦を解説
 躓いたのは、次の一行である。 
 「豊島竜王は、竜王戦七番勝負に続き、A級順位戦でも羽生九段に勝利。羽生九段からすると、竜王戦敗退のリベンジを、今回は実現できなかった形となってしまった。」

 他社主催とは言え、将棋界が最高に遇している「竜王戦」の番勝負と、二紙共催の最高棋戦とは言え、予選たる順位戦が同列とはどういうことか。竜王戦は名人戦と同格でないのだろうか。というのは、随分な言い草であるが、まあ、当方は、ただの野次馬であって、竜王戦関係者でもなんでもないので、ことさらこの場で言うほどではない。お目汚し御免。お忘れください。

 それはさておき、ここで、羽生九段の動機を個人的な復讐心と捉え、口汚く「リベンジ」狙いと罵るのは、共催紙看板記者の筆とは思えない。一流棋士が、個人的な復讐心を糧にしていると決め付けるのは、事実報道では無く、記者の勝手な「逃げ」であろう。当読者は、そんな安直な記事は、全国紙の紙面で読みたくはない。(タイトルでは、村山七段と謳い上げているが、会員向け記事の予告部分の一文は「解説」でなく記者の口説である)
 記者は、かって、第28回将棋ペンクラブ大賞を受賞しているが、今回の記事のこの一行は、氏の業績に陰りを投げかけているように見える。安直なカタカナ言葉に染まらないで、安直な決め付けに逃げないで、ご自愛いただきたいものである。

 因みに、名人戦共催の毎日新聞の順位戦観戦記は、羽生九段の当今の人気高揚に対して、「同情論」で募っているのだと、バッサリ切り捨てている。居酒屋で言い立てるような個人的な感想を、全国紙に掲載できる特権を悪用しているのである。
 この点、当記事は、報道を核心としていて大違いである。毎日紙の独善は、他山の石としていただきたいものである。

以上

2020年12月21日 (月)

倭人伝の散歩道 2017 東夷伝 評の読み方 再掲

                                  2017/09/20 補正2020/12/20
○はじめに
 「評」は、倭人伝末尾に書かれていて、本来、東夷伝の一部と解すべきなのですが、大抵の倭人伝論で忘却されています。

*評釈
 当方は、四十一字の字数に惑わされず、「評」として書かれた(重い)意義を伝えたいのです。
 まことに、つたない解釈ですが、以下に私訳と所感を述べます。

*原文 (句読点等は、中国哲学書電子化計劃による)
 評曰:史、漢著朝鮮、兩越,東京撰錄西羗。魏世匈奴遂衰,更有烏丸、鮮卑,爰及東夷,使譯時通,記述隨事,豈常也哉!
私訳:

 評して言う。司馬遷「史記」と班固「漢書」は、朝鮮と両越を著し、東京(東漢 洛陽)は、西羌を撰錄した。魏の世に匈奴は遂に衰え、更わって烏丸、鮮卑があり、加えて東夷が使訳し時に通じたので事に随い変化を記述した。

*所感
 ここに書かれているのは、魏による司馬懿の公孫氏討伐、遼東平定によって拓かれた東夷新知識を記録した倭人伝が中華文明史上に燦然と輝く史書であるとの自負です。魏志の掉尾は、東夷伝で画期的に意義深いので、冒頭に序文が書かれ、末尾に東夷伝に付された「評」が書かれたと見るべきです。

 念のため言うと、陳寿の時代、范曄「後漢書」は百五十年先で影も形もないのですが、「東京撰録西羌」は、史記「大宛伝」、漢書「西域伝」、荀悦「漢紀」西域記事に続いて、後漢書西羌伝の企画があったということです。魏の世に匈奴が衰え、代わって烏丸、鮮卑が書かれ、東夷から使者が来ましたが、四夷は、早足で推移するから書き留めねばならない、との慨嘆と思えます。(荀悦「漢紀」は、後漢献帝の諮問による著作ですから魏朝に継承されていたはずです)

 これは、陳寿の理解では、後漢代、特に、末期には、東夷交流にさしたる事績の記録は無かったということです。また、暗黙の意見として、後漢末期から魏代にかけて、西域交流にさしたる事績の記録はなかったと言う事であります。

 四夷来貢の度に鴻廬が歓待し礼物を渡し、印綬を施した事例は、容易に書き尽くせないほど多かったのですが、史官が「列伝」を著するのは、帝詔公布、使節往来など大事件があったときなのです。このように、陳寿は、慎重に言葉を選んで、寸鉄言としています。

*追記
 因みに、世の中には、この「評」が、倭人伝の不出来さを自認していると解する人がいるようですが、それは物知らずの勝手読みです。

 陳寿は、史官の系譜を嗣いで魏志を書いた自負心を持ち、つまらない「評」を載せるはずがないのです。個人的「レポート」の締めではないのです。

 史料は、先ずは、史料自身の文脈で読むべきです。

 因みに、当記事は、神の目で見て「評」が適切な自己評価と言うのではありません。陳寿がどういう趣旨で何を書いたかと言っているのです。個人の意見は当人固有なので以上趣旨に同意できないとして、それは当人の勝手です。

 時には、自明のことを明言したいのです。

                               以上

 

2020年12月15日 (火)

今日の躓き石 Windows 10 32ビット版提供中止の波紋 GIZMODO US 誤解による「フェイク・ニュース」

                                             2020/12/15

 今回の題材は、Googleニュースから辿ることのできる「GIZMODO」サイト記事であるが、「フェイク・ニュース」である。

 「ARM PCでx64エミュレートが可能に。まるでRosetta 2みたい」

 記事の報道全体に文句はない。問題は、文中で書き飛ばしている大事件である。素人でも腰を抜かしそうになる「サプライズ」=不意打ちの暴挙である。

 「Windows 10でさえ、バージョン2004で32ビットプログラムのサポートを停止しました。」

 過去形で書いているが、これは、世界的な大事件であり、こんな処に、こっそり書き飛ばす話題ではないのである。そうした事情をまるで認識していないので困るのだが、文字通り解釈すると、同UpDateを導入すると、これまで動作していたWindows 32プログラムが、突然停止することになる。また、32ビット版の開発ツールも、一挙に、無用の長物になるが、すべての開発ツールが64ビットに対応しているわけではない。 原文(Joanna Nelius - Gizmodo US)を確認すると、確かにその通りの意味の英文が書かれていて、誤訳ではないようである。

 一方、さきにあげたマイクロソフトの声明は、長文で多岐に亘っているが、「今後、32ピット版OSは提供しない」と明言しているに過ぎない。報じられているように、64ビット版OSの32ビットプログラムサポートを停止するとまでは書いていない。要は、原文筆者の勘違いなのである。

 当日本文記事は原文に忠実な記事であり、署名者に責任はないと言いたいのだろうが、こうした重大な件については、常識を働かして、最低限の「ファクト・チェック」をして欲しいものである。結局、この記事が広く知られると、マイクロソフトに問い合わせと抗議が殺到しかねないのであり、「フェイク・ニュース」の責任は免れないと思うのである。

以上

 

 

2020年12月13日 (日)

新・私の本棚 番外 「古賀達也の洛中洛外日記」 第2310~4話 2/2

 明帝、景初元年(237)短里開始説の紹介(1)~(5) 2020/12/05

 私の見立て ★★★☆☆ 思い余って..言葉足らず   2020/12/13

○三国志の成り立ち~私見
 三国志は、三篇の国志、魏国志、呉国志、蜀国志をまとめたものですが、陳寿の編纂方針として、各国志の編纂方針を温存しているので、原則として、里制の統一はしていないものと見られます。

 魏国志、魏志の里制は、魏の明帝景初年間の記事は、当然、その時点で施行されていた里制、ここでは、魏制と仮想された「短里」に基づいて書かれたと仮定されます。(当記事筆者は、「短里」と断定しているのではありません)

 その伝で行くと、後漢代の魏武曹操の記事は「普通里」のはずです。魏朝創業後、文帝曹丕の治世と景初以前の明帝曹叡の治世は、遡って「短里」で書くべきだとなりますが、呉志、蜀志すら是正を控えた陳寿が、たかが「道のり」表記で緻密な書き換えをしたかどうか不明です。

*換算改訂の想定
 別稿に換算書き換え仮説が提示され、その副作用として、切りの悪い計算結果を「数*里」という曖昧表現をしたと論じられています。換算の証拠として、換算されたと見られる記事は「数*里」が多く、換算不要の景初記事は少ないとされていますが、私見では、元々の概数数字を計算可能な整数で逓倍するなら、大抵の場合、概数を切りの良い数字に丸められると見えます。

 批評記事には書きませんでしたが、信頼できる統計推定には、有意と言えるだけの件数が必要で、更に、何よりも内容確認が必要です。提起されたものでは、断定的な結論どころか推定すら困難なものと思量します。

 ということで、提言は憶測に見えるのですが、いつも慎重な古賀氏は、そのような換算は、時と場合で適用しなかったこともあるとしています。

 そのように、とても論証と思えない憶測と決めつけの羅列ですが、古賀氏が、そのような論議に賛同しているのは共感できません。

*難詰 その一 土地制度改訂の難題
 当方の思い付きですが、里制を触ると、一里(三百歩)四方の土地を、三頃七十五畝の面積とする、秦漢代以来の(九章算術)計算公式を破壊するのです。加えて、全国で土地台帳の全面書き換えを要するから、全土混乱どころか、実行不可能です。

*難詰 その二 里数・運賃規定改訂の難題
 また、全国運送制度の体系に干渉します。唐六典規定集には、全国各地の河川水運と付随陸運で、一日の到達里数と規定運賃が規定されていますが、これは秦漢代来の全国規定の唐代最新形です。魏朝体系で里制改訂すると、各地点は固定で所要日数と運賃は維持されますが、規定表は書き換えです。書き換えには、厖大な計算、つまり、人員動員と長期間の専従が必要であり、大変な労力を伴い、かつ、本務を途絶させて、官僚機構を壊滅させますが、達成しても、税収は増えない制度変更であり、全土混乱するのです。

*不思議な記録不在
 どちらも、全国の官吏、つまり、高官から小役人に至る面々に、大変な厄介ごとを招くから、記録にも記憶にもとどまり、西晋代、陳寿の取材に、ぞろぞろと不平不満の報告が入るはずです。新朝王莽は、官僚組織や地名を復古させたための混乱を、反乱、亡国の要因とされていますが、魏志には、そのような大事件は書かれていません。

 陳寿自身は、洛陽にとどまっても、必要なら「取材班」を各地に送り出すことはできるのですから、大事件の痕跡があれば把握していたはずです。それまで、何も、気づいていなかったとしてのことですが。

 周知のように、明帝は、景初年間の大規模な新宮殿造営で、人件費を節約するために洛陽官人を「通い」で大量動員し、囂々たる不平を買いました。不名誉にあたるので、本紀には没後の工事中止を言うだけであり、君子不徳の極みとする重臣の諫言を収録しています。

 里制改訂という有害無益な皇帝命令があったのに、それについて陳寿が書かず、時に辛辣な付注を加える裴松之が、何も語っていないのは不審の極みであり、つまりは、そのような天下を揺るがす暴挙はなかったから、何も書かれていないのです。

 ついでながら、万事網羅する晋書地理志にも通典にも、そのような大事件は記録されていないのです。

○甲斐なき熱弁
 古賀氏の熱弁に拘わらず、魏晋朝短里説は論証されてないのです。

 論証の筋の通らない話では、人は納得しないのです。

                                以上

新・私の本棚 番外 「古賀達也の洛中洛外日記」 第2310~4話 1/2

 明帝、景初元年(237)短里開始説の紹介(1)~(5) 2020/12/05

 私の見立て ★★★☆☆ 思い余って..言葉足らず   2020/12/13

□はじめに
 ここに紹介したのは、もともと古賀達也氏が「新古代学の扉」サイトに掲載した記事ですが、本来、同名ブログからの転載であり、ここではブログ記事を参照しています。ということで、批判は、利用者共通のものと見ていただいて結構です。
 当ブログでは、非商用ブログの書評は、極力控えていますが、当記事は読者の批判を期待して公開されているものと思うので、率直な批判を掲載します。

○倭人伝短里説の流れ~補足の試み
 当記事のタイトル「明帝、景初元年(237)短里開始説」の課題は、古田武彦氏が、第一書『「邪馬台国」はなかった』において、先行する「倭人伝短里説」に対して「三国志短里制」を説いたことから発しています。

*論争の開闢の回顧
 「倭人伝短里説」は、当時、安本美典氏が、埋もれた「倭人伝道里記事は、帯方郡から狗邪韓国までを七千里とする里長に基づいて書かれていた」との提言を発掘しましたが、古田氏は、「三国志が、公式史書として編纂された以上、全巻統一里制を採用していたに違いない」との信念をもって提唱したものであり、後に、範囲を魏晋朝に限定し、それも、魏の初代文帝曹丕、後に第二代明帝曹叡が施行したとする「魏晋朝短里説」を提唱しました。

 但し、魏朝の正史記録である魏志に、そのような里制変更を明示した帝詔は記録されていないため、説得力に欠けるとみられています。

*実証模索~論争山積
 反面、三国志を全面的に用例検索して、記録上にある具体的な地名間の里数を、現在の地図上の相応する地点間の道のりと比較して、それが、普通里(四百五十㍍程度)か、1/6の短里(七十五㍍程度)か検証が試みられていますが、論議を重ねても種々の事情で確定的な判断はできません。
 私見では、そのような検証は、地点の不確かさと記録者の感覚の不確かさが重なり、6倍の差異があってもいずれとも言い難い状態なのです。

*最新情勢2020~提言の基準
 という事で、短里制実証は、行き詰まりのようです。

 魏朝における里制変更は、明帝曹叡の最後の元号景初の冒頭と見ています。明帝は、文帝の漢制継承の方針を嗣ぎましたが、景初、礼制、暦制を殷制に変更する帝詔を発した際に、里制を秦以前の古制に変えたとしています。

 明帝は、維新画期の「烈祖」を目論んだものの早世で水泡に帰したのです。

*消えた周制~殷暦・殷制の覚醒
 短里の議論に於いて、従来、「短里」は、封建制度で各国を統率していた周の制であり、秦始皇帝は、周制を廃して「普通里」を全帝国に統一施行したとの見解がありましたが、晋書地理志などによれば、秦里制は、周里制を継承したものなので、周制に復古しても里制は変わらないと見えます。

 そのため、短里は、殷(商)里制との見解が生じています。但し、三世紀当時参照できたらしい殷里制史料は、今や、痕跡すら見当たりません。

 古賀氏の当記事は、最新見解に基づく新見解の確立を図ったものです。氏は、魏晋朝短里説推進論者なので、史料の解釈、記述が撓(たわ)んでいますが、まあ、真っ直ぐな史料解釈などないので、そ方向付けを確認するためだけに諸解釈が書かれているものと見えます。つまり、信じがたいのです。

                               未完

2020年12月 9日 (水)

新・私の本棚 別冊歴史読本 日本古代史[謎]最前線 2/2

 発掘レポート 1995    人物往来社   1995年2月刊

 私の見立て ★★★★★ 情報満載の好著      2020/12/08

□平安京遷都の背景を探る 奈良から山背へ 鬼頭 清明
 当記事は、掲題のごとく、「奈良」なる京都(けいと)から、山背(山向こう)なる僻遠の地に都を移した原因を探るものです。もちろん、大変重大な議論なので、本編をもって、定説を築こうとしたものではないでしょう。

 以下は、当ブログ筆者が自分なりに消化した見解なので、氏の本意とは異なる点もあると思いますが、そのつもりで読んでいただきたいものです。

*平城京回顧
 冷静に見ると、平城京建都は、奈良盆地内を支配していた勢力が、西方に生駒山地を越え難波勢力と交流することよりも、木津経由で淀川水系を活用することに重きを置いたのであり、壮大な平城京を建都造成しながら、聖武天皇が、敢えて恭仁京に遷都した原因と見えます。壮大な平城京は、西方との交流が困難で首都として成立しがたいことが露呈したものと見るのです。

 但し、巨大な首都建設に続いて、僅かな年月で、新都建設を目指す全体計画の「資金」源が不明です。打ち出の小槌を手に入れたのでしょうか。

*難波京副都論
 氏は、難波京が、平城京に至るまでの期間、奈良平野の首都に対する副都扱いと推定しますが、それなら、交易で難波京に多大な利益が落ちたはずであり、CK(中韓)使節への対応も、難波京で万全を尽くせたはずです。
 副都と言いつつ、立地条件の面からは、「主都」と見えるのです。
 推定するに、難波京は、西方勢力の東方拠点「東都」かと思われます。

*平安京の限界
 平安京は、淀川水系と連携して、難波勢力から離脱を図ったと見えますが、伏見で淀川に川港を持ったものの、賀茂川が水量に乏しく、平安京への水運の役を果たせなかったので、陸送せざるを得ず、結局、物資不足、山間僻居の感を免れなかったようです。

 洛東賀茂川は、普段は水量が少ないのですが、増水時には荒れ狂う、水運に適さない河川でしたが、洛西桂川は、嵯峨野付近から上流に岩瀬が多く、荷船の往来に支障を来していたようです。桂川が水運に適していたら、平安京は、そちらに向けて発展したはずですが、実際は、賀茂川に向けて発展したのです。
 このような事情は、遷都後に判明したと思われ、氏も、詳しく考察を加えていません。

 因みに、洛陽は、元来、長安帝都に対する東京(とうけい)副都です。

*平城京水利談義
 氏は、平城京における大和川水運を有力視していません。平城京は、有力河川を持たない、古来希な王都だったのです。いや、同水運が有力なら、平城京から難波勢力を支配でき、遷都を急ぐ理由にならなかったのです。
 そもそも、大和川が水運至便の大河であれば、平城京を、大和川支流の河源に近く、水利に欠けた盆地北端に設けたはずはないのです。

*大局論の潔さ
 氏がこの点に触れないのは、紙数制限のせいと思われます。いずれにしろ、事の大小、概括に際して、些末を切り捨て、大局を説くのが論考の常道であり、些末事を針小棒大に言う「今どき」論法とは、志が違うのです。

 乱暴になったかも知れませんが、氏の論説に書き足すとそうなるのです。

*継承されない先賢の説
 それにしても、氏の、いわば、健全な平城京/平安京観は、二十五年を経ても十分に理解されていないようで、纏向、飛鳥と移動した勢力中心が、突然平城京に移動したと見える牽強付会の論説が増えているように思います。

                                以上

新・私の本棚 別冊歴史読本 日本古代史[謎]最前線 1/2

 発掘レポート 1995    人物往来社   1995年2月刊
 私の見立て ★★★★★ 情報満載の好著      2020/12/08

○はじめに
 「今どきの歴史」風潮には文句がありますが、ここでは、往年の好著二件を取り上げ、その提言が見捨てられていることを指摘することにします。

□治部省の役割と遣外使節の派遣をめぐって 松尾 光
 当記事は、八世紀初頭の日本政府の対外折衝機構を取り上げ、その組織と使命、役割を、中国唐代律令制度と照らして考察しているものです。

*疑問点の解消
 最初に疑問点を挙げておくと、当時、「東アジア」、つまり、CJK、中(China)・日(Japan)・韓(Korea)の関係が、中国中心の漢蕃関係であって、三国の「国際関係」などではなかったことが、末尾で確認されていますが、記事の大半はJ(日本)視点になっています。

 あくまで、CJKでは、C中国王朝が世界中心であって、当記事のJ国内制度は、あってはならないものです。「律令」は、唯一C律令だけであり、蕃国が、我流律令を制定、公布するのは討伐対象となる違法行為です。
 蕃国律令では、蕃王が最高権力者であり、それだけで反逆です。世上、遣唐使が大宝律令を献上したと見る方がいらっしゃいますが、不遜な蛮夷と雖も、そのような自滅行為は犯さなかったのです。とはいえ、律令の官職と異なる J職名は、律令盗用でないとの逃げとも見えます。
 K二国は、対岸の中国文化に直撃されても、Jは馬耳東風だったのです。

*蕃客対応の規定
 さて、当記事で説かれているのは、J制度で、来貢する「外国人」の対応を行う部門として、礼部、鴻廬の二部門が想定されていることの不審を述べ、それが、C律令に基づくものだとしています。

 例示されるのが、隋書俀国伝の隋使裴世清の「文林郎」なる役職です。国使(行人)ですから、外務高官のはずなのですが、同職は最下級に近い下級文官に過ぎません。俀国はその程度の扱いであったのです。

*裴世清の職分
 実は、書紀には、隋使裴世清は鴻廬掌客と書かれていますが、氏は議論の本筋に影響しないので、この点は省略しています。
 私見では、下級文官、雑用係と知れては不都合なため自称しなかったはずですが、書紀は、編纂時に補填したのか、裴世清の身分を誤解して、鴻廬掌客とし、これに対応して、蕃客受け入れとして、高官を筆頭とした三人を掌客に任じたとしています。是は、J国内基準の官職なので、魏使の耳にさえ入らなければ、扶南に過ぎたことでしょう。というものの、長期間の滞在中、自身の氏名、官職を、一切名乗らずに済んだのでしょうか。名乗ったら、苦言を受けて、訂正することができたでしょうが、何も指摘されなかったのでしょうか。
 掌客が、C基準に従っていたとしたら、蛮人が勝手にC官位を名乗ったことになり、これも無礼なのです。
 ということで、三人の叙任は、後世の造作であり、記事全体が、後世の造作では無いかとの疑いが募るのです。

 氏は、同時期のC外交使節役職を点検して、時に応じ、適宜、人選されていて、職業的な「外交」官はいないとしますが、鴻廬掌客も見かけていません。このあたりは、C視点で適確に検証しているのです。

*蕃客の仕切り
 ついで、J視点に戻って、その職制を考証していますが、必ずしも、明解にではないようです。私見では、J視点では、蕃客は鴻廬典客が対応し、賓客は礼部が対応するような棲み分けをしていたのではないかと見るのです。書紀記事では、隋使に掌客が対応して蕃客扱いしていたが、何れかの時点で(とんでもない非礼であるという)不明に気づいたと見るのでしょうか。

 いずれにしろ、広範なCJ史料を参照して、妥当な解釈に至っているのは、賞賛に値すると思います。当方は、二十五年を経た今日の論客が、先人の功績を無視して、勝手な論理を展開しているのを嘆かわしいと見るのです。

                               未完

2020年12月 3日 (木)

今日の躓き石 毎日新聞スポーツ面記者の決め付ける「リベンジ」の伝統

                                2020/12/03

 今回の題材は、毎日新聞大阪朝刊14版スポーツ面、都市対抗野球準決勝戦評である。東京都対京都市の対戦で、東京都の勝利投手の話である。

 記者は、勝利投手の談話に大した知恵がないようで、折角、準決勝の大舞台で先発して7回を二安打零封と大好投し、1-0の僅差の勝利をもたらしたベテランに対して、3年前の決勝戦で三回降板した苦い記憶の痛みを再体験させ、その時はチームが優勝したのに「チームに迷惑をかけた」と言わせて、それなら、今回準決勝で好投しても大して意味がないね、と冷笑している感じである。
 随分、えらい記者なのだろうが、最初からそう書きたくて、インタビューに臨んだ感じである。そりゃ、別に聞かなくても、投手として、チームの優勝の瞬間をマウンドで迎えたい、と言うに決まっているが、そんな子供じみた我が儘もののはずがない。またも、記者の決めつけである。それ以前に、何よりもチームの優勝を願っているはずである。

 と言う事で、記者は、これは、13年目のベテランに、自分の雪辱が完成していない、と言わせて、それでなくては「リベンジ」にならないと決めつけるのである。何とも、残酷な決めつけである。記者は、絶対に負けないから、気楽なものなのだろう。
 加えて、投手自身が「リベンジ」なる罰当たりな言葉を口走ったような、とんでもない印象を与えているのである。念入りな予定記事に見える。

 読者は、選手自身の言葉で、選手自身の思いを聞きたいのである。罰当たりな言葉は勘弁いただきたいが、13年目のベテランが、人前で口に出したらダメな言葉を、誰からも教えて貰っていないとしたら、残念だが仕方ないところである。NTTなる一流企業の社員だから、社会人としての言葉遣いは、十分習っていると思うのだが、どうだろうか。

 それにしても、毎日新聞スポーツ面記者は、自由放任で書きまくっているのだろうが、いつになったら、全国紙の品格を身につけるのだろうか。

以上

 追記:不愉快な苦言は決勝戦が終わってからと言う事で、公開を抑えていたが、もう良かろうとしたものである。同投手が、マウンドで優勝の瞬間を迎えたかどうか、中継放送を見損なったので、以上は結果論ではない。



 

新・私の本棚 番外 藤江かおり 「邪馬台国の所在地論争」に歴女が少ない理由 1/1

 ダイヤモンドオンライン 「連載コラム」の著者に聞くシリーズ、第3回
 古代史最大の謎「邪馬台国の所在地論争」に歴女が少ない理由

□おことわり
 当記事は、フリーライター岡田光雄氏の著作であって、藤江氏の原稿そのままではないので、番外も良いところですが、広く読まれるはずなので、最低限のダメ出しをしました。

○誘い水 「」内は、フリーライター 岡田光雄の地の文
「邪馬台国はどこにあったのか――。日本の古代史を語る上で永遠のテーマの一つだ。だが、古代史研究の学界は旧態依然とした“男社会”で、女性の視点がほぼ皆無だという。そうした中で新しい風を吹き込む一人の女性がいる。各媒体で人気の「連載コラム」の著者に聞くシリーズ、第3回は古代史の総合雑誌『季刊邪馬台国』(梓書院)で連載中の「オトナ女子のコラム 晴れ、ときどき、古代史」の著者・藤江かおり氏だ。」

 と言う事で、一般読者に「古代史の世界」を紹介する記事が始まります。

*第一の謎 古代史の二大潮流 「」内は、藤江氏談話引用
「古代史の世界は一人一説といわれるほど、さまざまな解釈があります。あくまで主流派の傾向としての話ですが、九州説を唱えているのが文献学界(文献学派)、畿内説を唱えているのが考古学界(考古学派)です。また、(中略)文献の中でも『日本書紀』や『古事記』など日本の書物を根拠に主張しているのが九州説の文献学派、その一方で中国の文献である『魏志倭人伝』を根拠としているのが畿内説の考古学派ともいわれています」

*コメント~不可解な割り切り
 この議論は、中の人である藤江氏が、中略部の言葉である「少しややこしい」潮流を読み解いて、解明して下さっているようですが、何か誤解されているようです。これは、公式見解でしょうか、藤江氏の私見でしょうか。

 「邪馬台国」は、国内史料には一切出てこないので、ここで言う「文献」派は、「魏志倭人伝」に立脚する九州説と思うのです。そして、国内史料の伝統的な解釈に影響された考古学の「一派」を岩盤として、そこに邪馬台国を取り込もうとしているのが、畿内説だと思うのです。
 以上は、特に、偏見のない意見と思うので、ご一考いただきたいものです。

*第二の謎 象牙の塔の斜影 「」内は、藤江氏談話引用
 「古代史研究の世界の一部では、力のある学派が支持している説に異を唱えると、学界内で出世できなかったり、仕事が振られず十分なお給料をもらえなかったりなどもするようです。本来、文献学や考古学などを複合的に考察することで歴史は見えてくるものですし、『A or B』ではなく『A and B』という考え方のほうが視野も広がるはずなのに…。(以下略)」

*コメント~蟷螂の斧
 まずは、当ブログが取り上げる「躓き石」の一例ですが、『A or B』、『A and B』の解釈が、本来の意味とずれています。

 『A or B』は、A,Bの何れかが成立する範囲なので「広い」のであり、『A and B』は、A,Bの両方が成立する範囲なので「狭い」のです。最悪、成立する範囲がなくなります。「論争」は、大抵そうなっていますから、無意味な提言なのです。

 文系/理系と言いたいでしょうが、このは理系固有です。無批判な聞きかじりは、大抵、誰かの早合点を引き継ぐ共倒れになるので、誰でもわかる普通の言葉にされた方が、間違いなく趣旨が伝わるのです。

 言う方と聞く方が同じ理解(誤解)をしていたら、そのままで意味が伝わるから、これで良いとして過ごされるのでしょうか。勿体ないことです。

 因みに、「学派」至上、「党議拘束」は、アカデミック世界全般にざらであり、古代史分野は可愛いものです。「象牙の塔」は、今も健在です。私見ですが、大規模な企業は、社員の人数が多いので、ご指摘のしがらみは、むしろ希薄です。慣用表現は、いくら先例があったとしても、無批判に追従していると、汚れ雑巾で顔を拭いたり、路傍の溜まりに入浴したりすることになるので、十分吟味した上で、採り入れていただきたいものです。

                               以上

2020年12月 2日 (水)

新・私の本棚 番外 追悼 志村 裕子 講演『遠賀川流域の神々』 1/1

                                   2020/12/02
□追悼記事
 古代史分野で、優れた論考を重ねていた志村裕子氏が、この六月になくなったということです。哀悼瞑目。

 思うに、氏の注力した分野は、日本列島の神社史でしたから、当方の講読する季刊「邪馬台国」誌での発表は、中国史書視点を離れた貴重なものでした。以下は、YouTubeで公開されている氏の講演の紹介です。

 氏は、各地神社資料に目を配り、深く広く調べ考察して体系的世界観、歴史観を提示したので、謹んで傾聴すべきですが、コメントとして、生かじりの思い付きで異議が挟まれているので、氏に代わって反駁を加え顕彰にかえたいと思います。
 因みに、発表者が見を削って練り上げた講演内容に対して、野次馬がこのような無意味なコメントを貼り付けられるのは、YouTubeコメントの欠陥であり、単なる中傷の類いは、排除できるようにすべきだと思うのです。もちろん、異議、異論は否定できませんが、何を言って求められないというのは、勿体ない事だと思います。

*嘉麻講演紹介
 第1部 講師 志村裕子 古代史シンポジウムin嘉麻 「女神輝く遠賀川」
   基調講演『遠賀川流域の神々』
 平成28年10月16日 会場/嘉麻市嘉穂生涯学習センター

 遠賀川流域の人々は、列島各地に進出している。
 それは神話から読み取れるし、考古学、神社伝承とも適合する。
 広い視野で、筑豊から進出した神々に思いを馳せ、
 その神々を生み出した筑豊の女神たちに思いを馳せてほしい。
 感謝申し上げます。
              志村裕子様より寄稿
 コメント
 この人「つくし」「つくし」って気になるねー。「ちくし」やろ「ちくほう」「ちくぜん・ちくご」全部「ち」と発音するやろうに。それと関東平野はほぼ湿地帯だから丘とか山の高い土地しかすめないのは当たり前千葉のいせきもそういうとこから出るのは当たり前のことです。

 この野次馬は、一般向け講演と言うものが、まるで理解できていません。この場では、大抵の人の耳に馴染んでいる「つくし」が当然です。その程度の常識もありません。このようなごろつきめいた罵倒、中傷を退場処分にできないのは、全く残念です。

 以下、コメントを丁寧に批判しますが、このような徒労は、何とも情けないのです。

*時代錯誤
 「関東平野はほぼ湿地帯だ」と無造作ですが、正しくは「だった」です。当時「関東」はありませんでした。時代錯誤連発です。当時、「関東平野」中南部は、海中か、泥沼でした。当時がいつかは、ここでは触れません。万事垂れ流しでは、誰も真剣に読みません。

 後世、「関西」から房総半島に至る道は、三浦半島から船で至り北上したので半島南部を上総、北部を下総としたのですが、隔世です。その程度の常識を知らなくても、言いたい放題なのです。

*地理錯誤
 周知の通り、房総半島は、ほぼ平坦で湿地帯はなく山の高い土地もありません。関東「平野」は、低地に川筋が刻み込まれていて、丘などの高い土地など、ほとんどないのです。まして、房総半島には、低い山すら滅多にありません。だからといって、関東平野なるものが、低湿地帯ばかりだったというのは、安直な決めつけです。このコメントは、字面でわかるように、ほろ酔い気分の「書いて出し」であり、ブログへのコメントであれば、非公開のまま削除、出入り禁止にするものですが、YouTubeで、それはできないので、誠に不条理です。本来、ごみ発言は、ゴミ箱直行が似つかわしいのです。

 鹿島神宮と香取神宮は、当時から、(後の)利根川河口部の南北岸で、それぞれ勢威を振るっていました。渡船往来だったので、棲み分けたのです。

*神社が束ねた国々
 志村氏の指摘の通り、両総、安房三国には、大河から多少離れた地域に香取神宮氏子が住む国々が生まれましたが、住民は争いごとを、氏神、つまり神宮分社に委ねたのです。
 両神宮の神官、巫女は、そのような裁きで「王」の国々を制し、記録になくても、「大王」が全体のまつりごとを捌いたと見るのです。

*コメント批判総括
 野次馬は、不自覚のまま、長年の学究を踏まえる論者と背比べして勝っていると自慢たらたらです。論者の提言が読めていないだけであり、恥を知るべきです。

 以上、志村氏追悼の意味をかねて番外議論を試みたものです。

                                以上

2020年12月 1日 (火)

今日の躓き石 根深い悪質報復の伝統 「リベンジ」アメフト界の悪しき風潮

                               2020/12/01

 今回の題材は、毎日新聞大阪14版スポーツ面の「毎日甲子園ボウル」待望記事である。

 と言っても、2018年にあった悪質タックル事件は、当大会で凶行のあったものではないので、選手の談話は、同事件の報復(revenge)を期したものではないと見せているのだろうが、それなら、記者会見の場で「リベンジ」を宣言するのは、何事か。むしろ、只事では無い心構えを感じさせる。

 この世界では、仕返しに手段を選ばない、何をしても許されるという風潮があるのではないかと思わせて、限りなく不吉である。何しろ、「リベンジ」は、神の指示を受けた聖戦、天誅であるから、何としても「してのけねばならない」との最高の動機付け(motivation)に見える。

 そうした忌まわしい考え方を叩き込まれていたから、ルールお構いなしの「何でもあり」の事件になったのでは無いとか思うのである。今回の談話を見ると、その辺り、特定のチームだけが反省すれば良いものではないようである。全体としてそういう風土であれば、悪しき習慣は、絶えることはなく、継承、拡散する。主旨を徹底して根絶しなければ、いずれ浮上するのである。

 それにしても、主催紙たるものが、このような不埒な発言をそのまま取り上げて、読者の目にさらすのはどんなものか。一種因縁話にして、観客の忌まわしい思いを掻き立てたいのだろうか。

 全国紙たるもの、事の核心を突いて、悪しき伝統、報復の無限連鎖を、この際断ち切って欲しいものである。選手には、余計な「気持ち」を棄てて、最高のプレーを目指して欲しいものである。世間は、「リベンジ」を血なまぐさい意味でなく、「もう一丁」の軽い意味で使う「松坂語」でごまかされかけているが、言葉自体の「悪質」さは、ごまかせないと見るのであるが、それは、別の話である。

 それにしても、国民の良識を託されている全国紙たる毎日新聞が、自社主催のスポーツで、悪しき伝統の温存に手を貸すとは、何とも、情けないと思うのである。

以上

 

 

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