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2020年12月13日 (日)

新・私の本棚 番外 「古賀達也の洛中洛外日記」 第2310~4話 1/2

 明帝、景初元年(237)短里開始説の紹介(1)~(5) 2020/12/05

 私の見立て ★★★☆☆ 思い余って..言葉足らず   2020/12/13

□はじめに
 ここに紹介したのは、もともと古賀達也氏が「新古代学の扉」サイトに掲載した記事ですが、本来、同名ブログからの転載であり、ここではブログ記事を参照しています。ということで、批判は、利用者共通のものと見ていただいて結構です。
 当ブログでは、非商用ブログの書評は、極力控えていますが、当記事は読者の批判を期待して公開されているものと思うので、率直な批判を掲載します。

○倭人伝短里説の流れ~補足の試み
 当記事のタイトル「明帝、景初元年(237)短里開始説」の課題は、古田武彦氏が、第一書『「邪馬台国」はなかった』において、先行する「倭人伝短里説」に対して「三国志短里制」を説いたことから発しています。

*論争の開闢の回顧
 「倭人伝短里説」は、当時、安本美典氏が、埋もれた「倭人伝道里記事は、帯方郡から狗邪韓国までを七千里とする里長に基づいて書かれていた」との提言を発掘しましたが、古田氏は、「三国志が、公式史書として編纂された以上、全巻統一里制を採用していたに違いない」との信念をもって提唱したものであり、後に、範囲を魏晋朝に限定し、それも、魏の初代文帝曹丕、後に第二代明帝曹叡が施行したとする「魏晋朝短里説」を提唱しました。

 但し、魏朝の正史記録である魏志に、そのような里制変更を明示した帝詔は記録されていないため、説得力に欠けるとみられています。

*実証模索~論争山積
 反面、三国志を全面的に用例検索して、記録上にある具体的な地名間の里数を、現在の地図上の相応する地点間の道のりと比較して、それが、普通里(四百五十㍍程度)か、1/6の短里(七十五㍍程度)か検証が試みられていますが、論議を重ねても種々の事情で確定的な判断はできません。
 私見では、そのような検証は、地点の不確かさと記録者の感覚の不確かさが重なり、6倍の差異があってもいずれとも言い難い状態なのです。

*最新情勢2020~提言の基準
 という事で、短里制実証は、行き詰まりのようです。

 魏朝における里制変更は、明帝曹叡の最後の元号景初の冒頭と見ています。明帝は、文帝の漢制継承の方針を嗣ぎましたが、景初、礼制、暦制を殷制に変更する帝詔を発した際に、里制を秦以前の古制に変えたとしています。

 明帝は、維新画期の「烈祖」を目論んだものの早世で水泡に帰したのです。

*消えた周制~殷暦・殷制の覚醒
 短里の議論に於いて、従来、「短里」は、封建制度で各国を統率していた周の制であり、秦始皇帝は、周制を廃して「普通里」を全帝国に統一施行したとの見解がありましたが、晋書地理志などによれば、秦里制は、周里制を継承したものなので、周制に復古しても里制は変わらないと見えます。

 そのため、短里は、殷(商)里制との見解が生じています。但し、三世紀当時参照できたらしい殷里制史料は、今や、痕跡すら見当たりません。

 古賀氏の当記事は、最新見解に基づく新見解の確立を図ったものです。氏は、魏晋朝短里説推進論者なので、史料の解釈、記述が撓(たわ)んでいますが、まあ、真っ直ぐな史料解釈などないので、そ方向付けを確認するためだけに諸解釈が書かれているものと見えます。つまり、信じがたいのです。

                               未完

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