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2021年2月

2021年2月24日 (水)

今日の躓き石 毎日新聞が語り継ぐ高校球界の汚点 「リベンジ」

                         2021/02/24

 今回の題材は、自宅で宅配講読している毎日新聞大阪朝刊14版の高校野球記事である。

 東海大系列の高校二校が初戦でぶつかることについて、毎日新聞が両校のコメントを求めたのだが、何とも、無理矢理言わせたような「やらせ」談話になっていて不愉快であった。
 毎日新聞の「作った主将談話」で、勝者側は、前回打てなかったので、今回は「打てるように挑戦者の気持ちで」と真摯であるのに対して、敗者側は、「関東大会では負けているので絶対にリベンジしたい」などと敵意をこめているが、これは、未成年者の言い分としても、何とも、情けない根性である。同校の目標は「再戦で仕返しする」ことが、唯一無二なのだろうか。これでは、まるでテロリスト集団の決意表明である。

 こ存知のように、「リベンジ」には、二種類の用法があって、あたらしく蔓延してきた「新型」は、雪辱の機会を目指すことを言うので在り、言うならば「もう一丁」と言う程度の「ふざけた」意味で、この汚い言葉を広げているのである。おかげで、このようにつまらない話を書かされるのである。
 その風潮に、天下の毎日新聞が蔓延に手を貸すべきではないが、今回の談話は、一段とたちの悪い、テロリスト紛いの「旧型」で、「血なまぐさい復讐の血祭りに上げてやる」との意味であり、若者言葉では「死語」であるから、引用符で区切っていても、ナマの談話の忠実な引用でなく。記者の作文かと危惧される。

 それにしても、天下の全国紙毎日新聞には、校閲部のように、不都合な言葉を指摘、指導して言い換えさせる部門はないのだろうか。ものを知らない若手が書き殴った記事を、そのまま載せるのだったら、ネットのニュースサイトの記事と変わらないことになる。「金返せ」である。

 大体、友好関係にあるかどうかはさておき、高校同士の対戦で試合に負けた時に仕返しに血祭りに上げてやるなどと言うべきではないのである。全国優勝しない限り、いつか、どこかで必ず負けるのである。
 そのあと、今回のように再戦の機会があるのはむしろ異例であって、無理矢理、因縁話を言わせるものではないのである。高校野球は、仲間内の仁義のためにあるのではないし、主将ともあろうものが、本当にこんな無様なことを言ったのなら、全国紙記者は、積極的にダメ出しして、こんな風に恥さらしさせるべきではないのである。

 と言うことで、今回手厳しいのは、毎日新聞社が、失敗に学んでいないからである。毎日新聞が、悪しき伝統を語り継いでいては、忌まわしい言葉は、永遠に絶えないのである。

以上

追記 以上の記事では、毎日新聞に対して不当な非難をしているように見えると思われるので、同社サイト記事から下記部分引用する。
 第93回選抜高校野球 東海大 相模×甲府 両監督・主将の話 /神奈川
〇最大限に全力で 東海大相模・門馬敬治監督
 昨秋の関東大会での負けは最も悔しい試合だった。新型コロナ感染拡大防止で制限がある中での練習が続き不安はあるが、今できることを最大限に全力で選手たちは取り組んでいる。
〇一戦必勝で戦う 東海大相模・大塚瑠晏主将
 甲府は投手を中心に守備が良い、粘り強いチーム。関東大会で負けているので一戦必勝で戦いたい。チームの雰囲気は良い。時間は限られているがまだまだ成長できるようにやりたい。
〇成長を見せたい 東海大甲府・村中秀人監督
 運命のいたずらなのか、母校の東海大相模と当たるとは。気持ちを新たにし、秋の大会からどれだけ成長できたのかを甲子園で見せられたらと思う。試合を楽しみにしている。
〇挑戦者のつもり 東海大甲府・三浦諒太主将
 秋の大会は守備も打撃もすきが多かったので挑戦者のつもりでやりたい。先輩たちから受け継いだ全国制覇という目標を達成できるように、一戦一戦地に足が着いた野球をしたい。
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2021年2月13日 (土)

新・私の本棚 ブログ記事批判 刮目天一「邪馬台国問題で短里説はこじつけだ.」 改 5/5

                             2019/12/06 補充 2021/02/13
*「世界に普通」のつづら折れ
 後年の大和河内国境街道竹ノ内峠越えを直線距離で論じる愚かしい説がありましたが、現代に至っても、奈良側旧道は、いたってありふれた、幾重にも重なるつづら折れで運転手を悩ませ、時に転落車輌が出たものです。
 古代街道は直登などしないのですが、そのような初歩的考慮のできない輩(やから)が、無造作に研究発表するのが目に付くのです。つまり、このような旧道区間を地図上で計測して、道里ならぬ直線距離を読み取っても無意味なのです。

 いや、現在は、一直線に竹ノ内峠を越えていく自動車道が整備されているので、これを道里と見る人が出そうですが、このような道路は、ごく最近まで存在しなかったのです。

 実道里の確定には、実見を要すると言うべきですが、「倭人伝」に戻ると、この間は、万二千里に及ぶ倭人伝道里では端数に過ぎず、倭人伝に特に必要の無い細目である事から、陳寿もさほど注意を払っていなかった筈です。

 基本的ですが、倭人伝」は倭地に牛馬なしと明記していて、緊急連絡で街道を疾駆することはできないと、強く示唆していることになります。従って、当区間道里は、郡管内と実質が異なる規格外の不規則里数である事が、事実上明記されているのです。

 どの道、倭地の内部の小国の配置や相互間の道里について、陳寿に責任を問うのは無理です。史官の務めとして、「述べて作らず」に、つまり、割愛、改竄せずに収録したことに感謝すべきでしょう。

 因みに、「世界に普通」の「世界」は、当時中原人の把握していた「天下」の意味であり、別に、地球儀上の全世界という意味ではないのです。また、「普通」は「世界」に普(あまね)く通じているとの意味であり、現代で言えば、「普遍」に近いのかも知れません、いずれにしろ、同時代用語の再現を試みたものです。

*道里勘定復習
 原点に戻ると、公式史料に必要なのは末羅国から倭への道里です。大局的には、郡倭一万二千里、郡狗七千里、狗末三千里であるから、末羅国から王の処まで二千里です。この議論に、短里説は全く必要ないし、先に挙げた理由で、末倭道里二千里は、どんな里であるか、保証できないのです。
 ここで言う末倭道里二千里の「里」は、表面的には、郡狗区間七千里という既知道里に基づいて、その概ね二/七と見えますが、郡倭一万二千里は、出所、基準不明ですから、この二千里も、憶測を重ねた漠たる数字でしかないのです。
 何しろ、未開の地の未開の官道なので、魏朝の国内基準では判断できないのです。言い方を変えると、実際上、何もわからないと言うことです。「倭人伝」に、そのように地域の事情による道里が書かれていても、陳寿には確認のしようがないので、史官の務めとして、そのまま収録したとみるべきです。
 そして、東夷の国の管理に最も必要とされる、従郡至倭の所要日数の確約があれば、遠隔の蛮人の地の道里に、特に信は置かなくていいのです。
 そして、いくら後世人が、最先端の機器と最先端の手法を駆使して、最高の努力を重ねても、元史料がデータとして不確実不安定なものである以上、そこから確たる数字が読み取れることはあり得ないのです。
 つまり、倭人伝」道里をいかに解析しても、皆さんが望むように、女王の都の比定地が確定されることはあり得ないのです。
 この点は、遙か、遙か以前に安本美典氏が指摘している至言ですが、正しく理解されていないようで残念そのものです。

 後ほど、狗邪韓国以降の渡海と陸行の道里が、「周旋五千里」と念入りに示され、「倭人伝」道里は、当時の視点で見て、簡潔だが要を得ていると見るものです。

*道里記事の淀みの解決
 ここで、道里記事の淀みの解決について、触れておかねばなりません。
 投馬国へ「水行二十日」は、以上の行程道里の原則に反しているものです。末羅国以降の行程は、王の処まで「陸行」であり、もはや「水行」がないとの規定であるように、投馬国行程は傍路、脇道であり、付け足しです。奴国、不弥国、投馬国の記事には、風俗、地理に関する付記がないのも、これらの国が、行程の通過する主要国でないことを物語っています。

 倭人伝の現存記事から見て、つまり、陳壽が必要と見た記事から見て、明らかに、伊都国は郡との交通、交信の終点かつ始発点であり、王の処は、其の至近でなければならず、そのような最重要道里が、水行二十日と官道なしの風任せ行程を挟んでいる筈がないのです。

 また、同様の筋道から、続く水行十日、陸行三十日(一ヵ月)は、伊都~王の処までの道里の筈がないのです。

 なお、この部分を「都水行十日陸行一月」と読解し、従郡至倭の所要日数の総計との解釈が、古田史学の会古賀達也氏によって提起されていて、当ブログ筆者の持論と符合したので、ここで同志宣言しておきます。そのため、当ブログ諸記事から「南至邪馬壹國女王之所都。水行十日陸行一月」との解釈を退場させています。

〇「水行二十日」「水行十日、陸行三十日 」 の仕分け
 近来、「水行二十日」と「水行十日、陸行三十日 」の記事が、倭人伝道里行程記事の理解の妨げである旨の指摘がありますが、以上のように、記事項目を仕分けすると、「従郡至倭」に始まる行程記事は、必要な道里記事だけが残されるので、円滑に理解できるはずです。(思わず、「自然に」と書きかけましたが、個人的な意見は千差万別なので、言葉を変えました。)

*伊都国起点の放射行程論議

 以上の行程解釈は、榎一雄氏が実質的な創唱者ですが、なぜか、理論的な評価がされていないようです。
 榎氏の発表時、先輩から「伊都国が、当時政治経済の中心だったと言いたいのか」と詰問されたように書いていますが、反論無しに、そのように書き残しているということは、文献に明記されていないので、史学論文に書けなかったものの、氏の論拠がそこにあると示していると見えます。
 このように明解で正当な仮説を否定するのに、未だに、「感情論や文法談義の屁理屈しかない」ようで、ここも、いたずらに混沌を書き立てている輩(やから)がいることになっています。

*行程道里記事の総決算
 つまり、「倭人伝」の眼目たる所要日数は、ここまで縷々述べてきた「従郡至倭」の総決算と見るものです。倭人は魏朝に服属したから、「従郡至倭」の総日数が不可欠であり、そのように読者に明示しなければならないと見るものです。つまり、洛陽の高貴な「読者」に、あれこれこむつかしい計算をさせるものであってはならないのです。と言うか、俗説にあるような行程解釈では、全所要日数が、読み取れない、不完全な史書となります。
 逆に、これが全所要日数という自然な結論を採用するなら、伊都国以降の進路がどちらを向いているとか、里数が実測かどうかなど、議論の必要は無いのです。
 「倭人伝」道里の公的史書における位置付けを思えば、「エレガントな」、つまり、複雑な謎解きと計算の要らない端的な解釈順当と判断できるはずです。

 以上が、当方の解法であり、自分なりに自信を持っていますが、そのように理解したくない、理解できない方が、圧倒的に多いでしょうから、総選挙すれば、あくまでも、支持者のない孤説に終わるものでしょう。要は、山火事に柄杓一杯の水をかけているだけなのです。

*混沌の由来
 おそらく、刮目天一氏は、世上氾濫する安直な「短里説」それを取り巻く安直な議論を「混沌」と見たのでしょうが、「混沌」も目鼻をつければ「面目」を得て成仏するのです。

 一向にそうならないのは、おそらく、混沌泥沼を好む不逞の輩が、無面目の混沌に不法餌付けしているのでしょうが、そのような事態の付けを陳寿に持ち込むべきではないと思います。

*まとめ
 以上、保守守旧派の諸兄にとっては、嫌みたっぷりでしょうが、これが芸風なので、飾りの少ない平文を、冷静に読み通して頂ければ幸いです。

 当初、当地基準で五ページ(ややてんこもり気味)になって反省ですが、まあ、ほぼ全文が新規書き出しであり、勢いに任せた初稿の半分以下に縮めたのでご勘弁頂きたい。

*応答御免
 当記事は、随分コメントを戴いているので、応答をかねた訂正、改善を反映していることをご了解戴きたいものです。
 ここで書くのが至当かどうかわかりませんが、洛陽と倭人の交信では、景初遣使以前に、帯方郡から洛陽に、全体道里、全体戸数、などの要件が報告されていたと見るべきです。

*不愉快な結論
 世上、「倭人伝」の道里は、後年の魏年訪問の際に、記事の上申した「出張報告書」から読み取ったと見ている向きが多いようですが、数十人の人夫を要すると見える大量の下賜物と百人規模と見える多数の人員を使節団として派遣する際に、相手の正体や目的地までの所要日数などを、一切下調べしないままに送り出すことはあり得ないのです。帯方郡の係員が現地調査して、当初の万二千里の報告と整合する報告を試みたはずです。
 以上の経緯は、あくまで、最善の考察をこらした推定ですが、諸所に、先賢の反感を煽りかねない推定が試みられているので、こっそり書き始めているところなのです。

 頓首頓首。死罪死罪。(「読者」の逆鱗に触れても、いきなり死罪にならないように、平伏しているのです)
                                以上

新・私の本棚 ブログ記事批判 刮目天一「邪馬台国問題で短里説はこじつけだ.」 改 4/5

                             2019/12/06 補充 2021/02/13
*「倭人伝」道里の提示
 ここには、「倭人伝」の道里基準が明記されているのです。この部分は、地方機関の上申した史料に基づく記事ですから、「現実」の道のりとの対比は、史官には不明でも根拠があるはずであり、史官の本分に従い、原史料をそのまま採用しのです。帯方郡で官道道里がそのように規定されていたというしかありません。

 あるいは、官道の道里とは別に、倭人伝だけに通用する道里「倭人伝里」を記入したのかもわかりません。帯方郡が、「普通里」と異なる里制を敷いていたという記録はありませんから、「倭人伝里」を適用していた可能性があります。倭人伝道里が、どのような里で書かれているかは、郡から狗邪韓国までの街道が七千里であるという定義の仕方から容易に計算できるので、この可能性の方がなり立ちやすいと見えます。

*倭人伝道里の由来 2022/01/23
 当ブログ筆者たる当方の最新の意見では、この区間の里は、官制に従った道里を元に換算などしたものではなく、恐らく遼東太守公孫氏が、倭人との交信の開始の際に、「従郡至倭」、つまり、郡から倭の王治までの総道里を万二千里と洛陽に報告し、これが、当時の皇帝の御覧を得て、管轄の鴻臚の公文書、例えば「賓客台帳」に登録されたために、以後、修正が効かなくなったものと見た上で、倭人伝道里記事編集までの何れかの時点で、「従郡至倭」のあらましが確定したのを反映して、各区間の里数を設定したという推定に至ったのです。

 その際、全行程万二千里というのは、言うまでもなく、大変大まかな、一千里単位の概数であることから、途中の三回の渡海は、それぞれ一律に一千里と見立てて、三千里を割り当て、残る九千里の内、七千里を半島内陸上行程に割り当てたと見えるのです。特に、一万二千里という大変、大変大まかな里数を按分するについて、二千,五千,七千,一万,一万二千の刻みにしたため、島外区間は、七千里と決着したものと見えるのです。

 「倭人伝」道里の区間別里数の設定は、総里数一万二千里が先に決まっていた上に、中間部に、一千里の渡海三回で、計三千里という動かしがたい里数が、先に決ったため、動かしがたい形で決着したものと見えます。

*古田史学への異論 2022/01/23
 古田武彦氏は、第一書『「邪馬台国」はなかった』に於いて、この区間の道里は、部分道里の合計が全体道里に等しいとの提言を打ち立てて、氏の所説の堅固な土台と見ていましたが、全体道里が先行して、それを各区間に割り当てたという異説を耳にされていたら、どう感じたろうかと思う次第です。
 因みに、当ブログでしばしば管区しているように、一万二千里を、一千里、ないしはそれより目の粗い刻みの里数の計算とした場合、百里代の里数は、「はした」として無視してよいのです。この意見も、古田氏の道里説に対して、異論となるので、合わせて、古田史学の方々には、受け入れがたいのではないかと、苦慮しています。

 以上の二点は、全体の論議に調和しないことがあるかも知れませんが、敢えて、追加記入しています。

▢第二段階は、敢えて呼ぶなら「狗末」区間です
 まず、倭人伝冒頭のまだ読者の集中力が続いている段階で、「倭人在…海中山島」と、目的地に至るには、海を渡る行程を要すると強く示唆しています。(中国)史書に異例の長距離の「渡海」宣言です。
 中原の道里で、官道が渡河、渡し舟を含む事は当然でしたが、行程のごく一部で、宿場から宿場までの一日の行程の中で済むので、道里や所要日数などには計上せず、「はした」として無視するものです。「渡海」と言って、「渡水」と言わないのも、意味深長です。

 ところが、「倭人伝」行程では、一日がかりの渡海が三度必要であり、道里基準として「陸行」とできないから、例外用法として、「倭人伝では海を渡る行程を「水行」と呼ぶ」と予告した上で「水行」としたのです。

 史書の用語は、極めて保守的であり、まして、官制として考慮されていない長距離の渡海行程を創造することは、史官の任に外れるので、陳寿は、格別の苦心を注いだものと見えるのです。

*「従郡至倭」の意義
 そして、道里記事の書き出しは、「自郡」でなく「従郡」としたことに、特別の意義が窺えます。
 古代以来の必須教養科目である算数教科書「九章算術」では、農地測量の際、目前の土地の幅を「廣」といい、奥行きを「従」ということが書かれています。
 「従郡至倭」とは、帯方郡から見て、東南方の倭人の処に至るには、「縦」方向にまっしぐらに進むと宣言されているのであり、西に逸れて海辺に出て、半島の西岸、東岸を延延と迂回することは、はなから方向違いであり、そのような迂遠な行程は、明記も示唆もされていないのです。

 続いて、「循海岸水行」と書いて、『以下の道里記事では、特に、海岸を盾にして、つまり、海岸線に直角に海を進むことを「水行」と呼ぶ』明記したのです。続けて読むと、海岸に沿う」のではなく、海岸を盾(循)にして(東南方に)「水行」すると予告しているのです。
 要は、「地域水行」宣言であり、内陸にある帯方郡から、いきなり海に出るようなことは書かれていないのです。

 世上、「循」は「従」と同義と速断している向きが大半ですが、用字が異なれば意味が異なると見るべきです。史官たる陳寿が、史書の道里記事に用いたのですから、いきなり一般的な辞書を参照していては解釈を誤るのです。厳しく言うと、現代日本人、つまり、三世紀中原人なる中国人から見て無教養、無知な夷人は、ほぼ自動的に誤解するのです。腹が立ったら、洗面所に立って、冷水で顔を洗い、清水を呑んで、座り直すことです。

 そもそも、「海岸」とは、陸上の足場に立っているものなので、海岸に沿って進むとは、陸上の移動なのです。海に出るには、「循」として、沖合に出る必要があるのです。なお、「海岸」で海に浮かんでも、そのまま陸地に沿って進むと、間違いなく、浅瀬や砂州に乗り上げて難破するので、どんな船でも「津」(船着き場)を出たら、まっしぐらに沖合に出るのです。

 陳寿は、内陸世界の住人で海辺の船での移動に詳しくなかったから、詳しいものの意見を聞いて、誤解のない言葉遣いを採用したと見るのです。現代日本人は、海に親しんで育っているので、以上に述べたような常識が身についているから、「海岸に沿って」と「普通に」読み替えてしまうもののようです。
 以上、余り見かけない議論なので、長々と述べました。

*「渡海千里」の意義
 この区間の各渡海千里を、実道里の反映と見るのは空論で、無意味です。肝心なのは暗黙の一日渡海です。
 その「一日」が、三時間であろうと六時間であろうと、丸一日が費やされるので、道里行程記事の日数表示には関係無いのです。世上、渡海一千里とは、測量した道里の意味でなく、一日分の行程だと明記したものだと解する意見がありますが、同時代の理解としては、そちらの方が近いのかも知れません。
 後ほど出て来るように、この行程は、中原で、河水(黄河)をわたるとき、洲島、つまり、中州で船をとどめるようなものだと言っているようです。古代では、「海中の島」と言うとき、海中に突き出した半島を言うので、洲島というのは、誤解を避けているもののようです。

▢第三段階は、呼ぶなら「末倭」区間です。
 当然陸上経路ですが、念のため「陸行」と付記しています。読者は、末羅国が中州の島でないと知らないので、地域水行解除宣言が必要です。

 この区間は、総じて未開地で、道里も百里単位であり、千里単位の倭人伝道里の大勢に響かない端数なのです。史官としては無関心です。

 と言うものの、末羅から伊都までは、狗邪までの交流、交易に常用されているから、倭地なりに、荷物輸送に支障が無い程度に道路整備されていた筈です。(宿駅、替え馬などのことも含むのである)
 当然、荷道は、重荷を担って通行可能なつづら折れであり、あるいは、荷駄馬がすれ違う道でした。(諸処に、道を広げて、すれ違い場所が設けてあった可能性はあります)("two horses abreast"とでも言うのでしょうか)ひょっとすると、駄馬が間に合わずに、痩せ馬(人夫の隠語)を動員したかもわかりませんが、農民の小遣い稼ぎになっていたでしょうから、決して、苦役ではなかったはずです。

 一方、急ぎの者につづら折れは迂遠であり、敢えて、直登に近いけものみち風の近道「禽鹿径」を採ったようです。
 といっても、魏使の記録係職員が、徒歩で近道しても、正使副使の高官が同じ道を通ったとも思えません。士人は、額に汗して、徒歩行したりせず、まして、荷を負うはずがないのです。

 なお、「禽鹿径」の「径」は、人馬が公式に往来する整備された「道」、「路」でなく、「抜け道」という趣旨で選ばれているので意味深長です。郡から狗邪韓国までの整備された官道にはほど遠い整備状況だったとしても、日頃、市糴(交易)に常用している官道であるからには、諸所に宿場があり、関所があったはずですから「径」ではなかったのです。「禽鹿径」を「けものみち」と自然に翻訳して、何となく理解できたようで、大抵は誤解に終わっているのは、残念なことです。

 道里には、当然、つづら折れの荷道道里が書かれるべきですが、それでは、随分里長が伸びるので、短縮して報告したかも知れません。ここは急ぐ旅でもないので、後で再論します。

                                未完

新・私の本棚 ブログ記事批判 刮目天一「邪馬台国問題で短里説はこじつけだ.」 改 3/5

                             2019/12/06 補充 2021/02/13
〇倭人伝道里解釈論の試み
 さて、以上のように、大前提を見定めた上で、目前の倭人伝道里を語らねばならないと思い、自説をぶっていくので、みなさん御覚悟ください。

*原則と例外
 端的に言うと、秦漢代以来の歴代官制で、一里は今日の四百五十㍍程度の「普通里」で、尺からの換算、一歩六尺、一里三百歩は、一貫して不変という明解な大原則がありながら、倭人伝道里が「素人目に」不条理にも書き残されたかのように見えるということです。しかし、史官が、公式史書に、不条理や無法を書くはずがありません。

 ここで、当方は、倭人伝は、正統派の史官である陳寿が、魏朝に残されていた倭人に関する基本資料を、どうして、現在ある形で収録したか、陳寿の視点に近づいて、理解しようとしなければならないと言う主張なのです。

*同時代史料確認
 とは言え、世に蔓延している頑固な俗説を洗い流すのは、容易ではありません。学界の権威者長老が、いわば、「無面目派」混沌愛好会に属しているから、心ある論者は、健全な世論を回復すべく、辛抱強く丁寧に努力しています。
 要は、「倭人伝」記事を、理詰めで解釈すると、「畿内説」は成立しないので、倭人伝の理詰めの解釈ができないように、「フェイク」情報をばらまいているのではないかと疑っているのです。「倭人伝」道里における「こじつけ」は、前世紀に、錚錚たる大家によって創唱されているので、新参の「短里説」が紛れ込むことは、無理なのです。 

 当方の定則は、倭人伝は「単独の史料として合理的に解釈できる」というものですが、論中に現代産物の「短里説」は存在しないのです。

〇エレガントな解法 無理なく明解な読み解き
 当方の理解では、「倭人伝」は、当時の中原教養人、つまり、洛陽政権の中核である中国文化の知識、教養を修めた行程を初めとする高官人士が、それなりの努力を払えば、「問題」無しに読解できるものです。なぜかというと、陳寿が三国志を上申したとき、これら教養人が理解できない書法があれば、ほぼ確実に拒絶されるからです。

 「倭人伝」談義でよく言われるのは、「倭人伝」は、古代中国人が、同時代の中国人のために書いた史書である」との断片的な引用ですが、後に続くと思われる「従って、現代日本人が(自然に)解釈すると、(ほぼ自動的に)誤った解釈になる」との重大な警句が欠落しているので、折角の警告が伝わっていないのです。
 但し、このような見方は、別に排他的なものでなく、一つの歴史観ですから、別に慌てて否定しなくても、命に別状はないのです。

 当時の知識、教養は、太古以来、秦漢に至って確立されていて、魏晋朝で俄に一部人士が提起した新規な用語、知識は含まれないのです。「正史」の概念が未形成でも、三国志のような公式史書に求められる基準は明確と見るべきです。史書は、記録を集積、編纂する史官として養成され、その資質を確認された史官のみが、公式史書を編纂しうるものであり、それは、単なる官職、官位ではないのです。
 もちろん、周代に始まったと見える史官の「記録」係としての使命は、陳寿の時代の直後、西晋が乱脈施政の結果、深刻な内乱に陥り、各勢力が導入した北方異民族の傭兵の反乱によって、国家としての機構が瓦解したときに、大きく損壊されたので、江東に「東遷」した東晋代以降には、かなり形骸化したようですから、西晋までと東晋以降では、史官と史書の費用化は異なるべきたと見えます。

〇無謀な改竄論  よその人(複数あり)の話、つまり、氏に関わりの無い「余談」です
 ここまでに字数をかけて、史官と史書について説明したのは、世上の議論に、現代的な不規則文書管理をこじつける向きがあるからです。
 例えば、公式史書として帝室書庫所蔵の三国志に対して、外部から改竄の手が加えられたなどと言う暴論がありますが、それは、今日の公文書改竄風潮の悪しき反映であり、ジャンクとして排除されるべきものなのです。念のため言うと、改竄論者は、帝室書庫に侵入して改竄したと言っているのではなく、世上の高級写本を改竄したと行っているに過ぎないと弁明するかも知れませんが、正史は、時に、帝室原本から写本を起こして、世上の「野良」写本の是正を行うものであり、勝手な改竄は、遅かれ早かれ淘汰されるのです。

 そのような粗暴で低俗な論法で良いのなら、古代史資料は全て虚妄、史官は全て嘘つきという主張が成り立つのです。岡田英次氏や渡邉義浩氏のもっともらしい暴論に染まっていなければ良いのですが。

 三世紀当時の公式史書は、竹簡などの簡牘片を長々と革紐で繋ぎあげた巻物であり、少し下ると、次いで、同様の装幀で、台に巻紙を使用した紙巻物となり、いずれも、大変な労力と技術の産物ですから、偽造、改竄は全巻対象となり論外なのです。後世も後世、北宋期以後の木版巻本になると、一枚物の各ページを袋綴じに糸綴じする形態になるので、頁単位の差替で済むのですが、その際は、印刷の際の木版原版が残っているので、巻本を改竄しても、持続しないのです。どう転んでも、三国志魏志第三十巻巻末の倭人伝の差替による改竄は、実行する術がないのです。
 さらに言うなら、三国志帝室蔵書の入れ替えという大仕事に紛れての差替となりますが、大仕事は、国家事業として、一流の文書学者が多数参加し、一流の写本工が多数参加して全文字写本するのであり、前後数回に亘って文字校正を重ねるので、勝手な差替は、忽ち露見します。

 どんな暴論も、現代の場で言うだけなら「ただ」(フリー)ですが、暴論を言うには、重大な立証責任が伴うのです。既に、改竄論者には、悪徳研究者としての烙印が押されています。

 今日は、ジャンク情報が堂々と世の出る世相ですが、懸命な研究者は、そのようなジャンク情報に、目も耳も貸さないのが、正しい対応です。

〇「倭人伝」道里の解釈
 背景説明を重ねると話は長くなりますが、趣旨は明解です。
 「倭人伝」道里行程記事は、帯方郡から倭に至る道里を書き出しています。

□第一段階は、帯方郡が定めた官道道里であり、郡から狗邪韓国までの「郡狗区間」を七千里としています。
 自明なので、当然書いていませんが、当然、半島中央部を東南方に走る官道の道里であり、官制上「陸行」ないしは「陸道」しか、存在しないのです。官道には、宿場と馬小屋を備えた関所があり、駄馬や驢馬が荷を担って通れる、騎馬で疾駆もできる、荷車も通れる、整備された街道だったのです。官道は、定刻の骨格ですから、整備されているのが当然なのです。

 にもかかわらず、この区間の道里が、450㍍程度の「普通里」でなく、75㍍程度の「短い里」で書かれているのは不可解です。「倭人伝」読者は、この「問題」への解を求められるのです。

                                未完

新・私の本棚 ブログ記事批判 刮目天一「邪馬台国問題で短里説はこじつけだ.」 改 2/5

                             2019/12/06 補充 2021/02/13
〇分解写真的分析
 指導的助言は、本来嫌われるものであり、特に、細かく区切った分析的な批評は、「面子」を潰されるとして、大変嫌がられるのは承知しているのですが、印象批判や感情論でなく、構文の難点を明らかにしないと、意味が無いので、敢えて以下のように「丁寧に」述べているのです。当ブログの書評は、概してこうしたすすめ方であり、「建設的」な「苦言」と考えているものです。

「邪馬台国問題」
 氏の周辺では自明なのでしょうが、一般的な解釈として、「邪馬台国問題」には、二つ、ないしはそれ以上の「問題」、つまり、「検討課題」が含まれています。提起されているのは、「所在地問題」のようですが、何を課題としているか、読者との間に合意がなければ、以下の主張は空転するだけです。
 つまり、氏の周辺で、氏の世界観、歴史観を共有している面々以外には、氏の主張は展開できないという「問題」、問題点にぶつかるのです。
 因みに、伝統的な論戦では、「問題」(problem,question)は、研究者に対して与えられた課題であり、正解を得ることにより、一段と進歩するものなのです。

「収拾つかなくなった」
 「収拾がつかない」とは、どのような現象か、一般読者に理解できません。氏の周辺だけで通じる言い回しは、まず、丁寧に説きほぐす必要があります。理解できないと、解決策も浮かびません。

「最大の理由の一つ」
 氏の理解では、収拾つかないという重大事態の発生した原因は、他にも幾つか上がっているようですが、それらはどんなものなのでしょうか。
 この言い方は、英語系の由来のようですが、大抵は、追求を避ける「逃げ」向上のようです。

「この短里説なのだ」
 氏の理解する短里説」が悪者になっていますが、自分で仮想敵を作り上げて攻撃しているのか、何なのか、この部分にも、背景説明が必要です。
 当ブログ筆者の意見では、「倭人伝」道里記事は、書かれている道里が、一里が周代以来不変の「普通里」(450㍍程度)の一/六程度の「短い里」(75㍍程度)と見た方が筋が通るという史料考証から来ているものです。
 1.よほど、個性的な解釈をしない限り、ここまでは、「倭人伝」道里記事の解釈としては、筋が通っていると見えるはずです。
 2.「短里説」は、大抵の場合、当時、公的な制度で「短い里」が施行されていたという「作業仮説」です。
 3.魏晋朝と時代を限った「短里説」も、根拠の無い思い付きで範囲かと見る向きが多いのです。
 「この短里説」などと大なたを振るうのでなく、1.2.3.のどの段階を言うのか、それとも、1すら認めない0なのか、と言うことです。このように、キッチリ区切って、区切りごとに是非を論じていけば、議論は、次第に収束するはずです。

 以上、しつこいようですが、氏が、本旨に示した見解を世に問うのであれば、不愉快であろうが、面倒であろうが、辛抱して踏まねばならない手順なのです。氏が、敵とひたすら戦うのでなく、広く賛同者を募りたいのなら、と言うことです。

 因みに、当方が、各位の意見を参照するときは、記事本体に至る前に、本旨の展開の際に、論理的な資料考証がされているかどうかを見た上で、記事を眺めるものであり、氏のブログの場合は、以上の短評でおわかりのように、参考にならないとして、質問がなければ、回避するものです。当ブログでしばしば顔を出す「門前払い」というものです。

 以上、何かの参考になれば幸いです。

〇記事短評 ジャンク資料の山
*巻頭動画紹介氏の批判対象であり、当方は、当動画の内容について氏を批判していません)
 まず、ずっしり重い動画ですが、検証、批判可能な文字資料として提示されたのではないので史料批判に値しないジャンクであり、読者迷惑です。
 当方も、影響力の大きいテレビ番組に批判を加えることがありますが、当史料は制作者自身論証努力を放棄しているから、論評すべきではありません。
 文字資料は、分析を加えることによって、正確に内容を把握できますが、画像史料は、制作者の主観で加工されているので、内容の把握が不可能なのです。まして、イメージと称するイリュージョンは、もっての外です。

*航路図の道草
 イリュージョンの典型です。「倭人伝」は、「千里渡海」と見立てているので、現代地図上に根拠不明の古代航路を引いた、児戯とも見える絵かきは無意味です。論評すべきではありません。

*「海島算経」の道草
 「答と解法」の提示者が「峰丈度」を里で表示していますが、山の高さは、「丈」で表示するものであって、「里」で表示されることはなく、門外漢の素人解釈です。論評すべきではありません。いずれにしろ、取り扱いやすいように数値を揃えた「問題」に対する幾何学的な解法を示したものであり、国家制度を示したものではありませんから、氏の主張の裏付けとして役に立たず、無意味なのです。
 時に、本項資料は、引用図、文章が錯綜としていて、誰が何と言ったのか、確認困難です。「三角関数表」など、半世紀以前の遺物表現で、計算尺、関数電卓から、PCと推移して、今や、特別な装備は何も要らないのです。いや、つまらない余談でした。

*道草の回顧
 氏は、このような愚論に対応して、肝心の本旨を見にくくしています。ゴミ資料は、記事末ででもゴミ箱に放り込み、本体部では、一切参照しないのが賢明です。読む方にとって新説であり、ずいぶん楽になります。

 と言うことで、続く項目は無視しています

 漢文古典である倭人伝」は、「倭人伝」自体の文脈、陳寿の見識/深意で理解するのが大原則であり外部文献を導入するなら、まずは、正史、ないしは、正史同等の権威ある史料に限定して史料批判し、ゴミは断固受付拒否すべきです。当ブログで大事なのは、「倭人伝」道里記事見極めなので、圏外ゴミで道草する必要はありません。

 くたびれたので、以下の論考は追跡していませんが、どう見ても、筋の通った「新説」を提示しているように見えませんし、そのような展開を予告するタイトルでもないのです。ただ単に、氏の思う妄説を否定する記事とわかれば、こんなに字数は要らないのです。
 ふと周囲を見ても、冷やかし客は姿を消して、閑古鳥が啼いています。いや、閑古鳥は当ブログにも住み着いていて、人ごとではないのですがね。(苦笑)

                                未完

新・私の本棚 ブログ記事批判 刮目天一「邪馬台国問題で短里説はこじつけだ.」 改 1/5

                     2019/12/06 補充 2021/02/13 2022/01/23
私の見立て ★★★☆☆ 奮闘 真摯

〇はじめに
 さて、かねて一言を求められていた刮目天一氏のブログに、当方守備範囲記事が書かれたので、恐る恐る記事批判を試みます。例によって、商用出版物書評でないので、個人の意見に文句を言う目的ではありません。無批判で採用される俗説や勘違いと思われる点を指摘し、口調は固くなるものの、そう書かないと話が捗らない決めつけ調で、別に決め付けてはいません。

 また、ここに公開するのは、一回の苦言で広く影響を与えたいというサボり根性であり、別に、面白がってはいません。全てこれまで通りです。

〇総論
 今回の記事だけかも知れませんが、氏の掲題記事は、冒頭から沢山の要素が、出自は書かれていますものの、趣旨が明解で無いまま積み上げられていて、何が、本旨なのか、その本旨をどのような論拠で積み上げているのか不明確で、読者は困るのです。食わず嫌いを強制されているようです。

 いや、氏の本来の意図は、じんわりとわかるし、言いたいことをしっかり主張しようと思ったら、引き合いに出すべき資料が殺到して、記事が膨れあがるのは、ごもっともですが、氏の意図が、読者を説得しようというものであれば、この書き方は、仲間受けしたとしても、「善意の冷やかし客を追い払う厄除け」としか見えず、「随分損してますよ」と言うしかありません。

 ありふれた言い方で恐縮ですが、言いたいことを箇条書きに書き分けて、それぞれに一回の記事を小分けして宛てるようにした方が、個別の記事の論旨が絞られて、賛成も、反対も、批判も、同調も、しやすいのです。

▢当ブログの芸風~ご参考まで
*記事構成~B5判で計量

 ご参考になるかどうか、当方の記事書きの定則は、近年採用している一太郎に依存して、B5縦書き二段組みの一ページ単位を意識していて計量していますが、縦書きブログ記事は運用困難なので、ブログ自体は横書きとしています。後は。淡々と小見出し付きにしているくらいです。

*史料引用はテキスト主体~画像データは「控え目に」
 史料引用は、必要に応じて適法に、つまり、出所明記の部分引用としていますが、基本的に文字テキストにとどめています。画像データは、採用されている文字資料の文脈に従って読み取らないと、著者の意図に反した理解となる可能性があり、また、もし、二重引用になると、原著者の著作権を侵害するので、一段と差し控える必要があります。

 以上の定則は適法で、無作法を避けていると信じるものです。

 世の中には、公開記事を複製利用禁止とするものもいますが、アクセス制限なしに参照できる資料を引用禁止とするのは知的財産権に関して違法です。
 と言うことで、当記事は、当方の定則で言えば、各引用資料の批評記事を分離して、本体部分の読み取りを明確にすべきです。

〇本旨批判
 邪馬台国問題が収拾つかなくなった最大の理由の一つがこの短里説なのだ(;一_一)
 行末の落書きは、学術的な論議に於いて無法な落書きとして無視すると、この本旨は、次のように因数分解できます。

 「邪馬台国問題」が「収拾つかなくなった」「最大の理由」の「一つ」が「この短里説なのだ」

 氏が、真剣に自説を主張し、真剣に一般読者を説得したいのであれば、当記事の本旨は、順を追って説きほぐさなければなりません。

                                未完

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