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2021年2月13日 (土)

新・私の本棚 ブログ記事批判 刮目天一「邪馬台国問題で短里説はこじつけだ.」 改 5/5

                             2019/12/06 補充 2021/02/13
*「世界に普通」のつづら折れ
 後年の大和河内国境街道竹ノ内峠越えを直線距離で論じる愚かしい説がありましたが、現代に至っても、奈良側旧道は、いたってありふれた、幾重にも重なるつづら折れで運転手を悩ませ、時に転落車輌が出たものです。
 古代街道は直登などしないのですが、そのような初歩的考慮のできない輩(やから)が、無造作に研究発表するのが目に付くのです。つまり、このような旧道区間を地図上で計測して、道里ならぬ直線距離を読み取っても無意味なのです。

 いや、現在は、一直線に竹ノ内峠を越えていく自動車道が整備されているので、これを道里と見る人が出そうですが、このような道路は、ごく最近まで存在しなかったのです。

 実道里の確定には、実見を要すると言うべきですが、「倭人伝」に戻ると、この間は、万二千里に及ぶ倭人伝道里では端数に過ぎず、倭人伝に特に必要の無い細目である事から、陳寿もさほど注意を払っていなかった筈です。

 基本的ですが、倭人伝」は倭地に牛馬なしと明記していて、緊急連絡で街道を疾駆することはできないと、強く示唆していることになります。従って、当区間道里は、郡管内と実質が異なる規格外の不規則里数である事が、事実上明記されているのです。

 どの道、倭地の内部の小国の配置や相互間の道里について、陳寿に責任を問うのは無理です。史官の務めとして、「述べて作らず」に、つまり、割愛、改竄せずに収録したことに感謝すべきでしょう。

 因みに、「世界に普通」の「世界」は、当時中原人の把握していた「天下」の意味であり、別に、地球儀上の全世界という意味ではないのです。また、「普通」は「世界」に普(あまね)く通じているとの意味であり、現代で言えば、「普遍」に近いのかも知れません、いずれにしろ、同時代用語の再現を試みたものです。

*道里勘定復習
 原点に戻ると、公式史料に必要なのは末羅国から倭への道里です。大局的には、郡倭一万二千里、郡狗七千里、狗末三千里であるから、末羅国から王の処まで二千里です。この議論に、短里説は全く必要ないし、先に挙げた理由で、末倭道里二千里は、どんな里であるか、保証できないのです。
 ここで言う末倭道里二千里の「里」は、表面的には、郡狗区間七千里という既知道里に基づいて、その概ね二/七と見えますが、郡倭一万二千里は、出所、基準不明ですから、この二千里も、憶測を重ねた漠たる数字でしかないのです。
 何しろ、未開の地の未開の官道なので、魏朝の国内基準では判断できないのです。言い方を変えると、実際上、何もわからないと言うことです。「倭人伝」に、そのように地域の事情による道里が書かれていても、陳寿には確認のしようがないので、史官の務めとして、そのまま収録したとみるべきです。
 そして、東夷の国の管理に最も必要とされる、従郡至倭の所要日数の確約があれば、遠隔の蛮人の地の道里に、特に信は置かなくていいのです。
 そして、いくら後世人が、最先端の機器と最先端の手法を駆使して、最高の努力を重ねても、元史料がデータとして不確実不安定なものである以上、そこから確たる数字が読み取れることはあり得ないのです。
 つまり、倭人伝」道里をいかに解析しても、皆さんが望むように、女王の都の比定地が確定されることはあり得ないのです。
 この点は、遙か、遙か以前に安本美典氏が指摘している至言ですが、正しく理解されていないようで残念そのものです。

 後ほど、狗邪韓国以降の渡海と陸行の道里が、「周旋五千里」と念入りに示され、「倭人伝」道里は、当時の視点で見て、簡潔だが要を得ていると見るものです。

*道里記事の淀みの解決
 ここで、道里記事の淀みの解決について、触れておかねばなりません。
 投馬国へ「水行二十日」は、以上の行程道里の原則に反しているものです。末羅国以降の行程は、王の処まで「陸行」であり、もはや「水行」がないとの規定であるように、投馬国行程は傍路、脇道であり、付け足しです。奴国、不弥国、投馬国の記事には、風俗、地理に関する付記がないのも、これらの国が、行程の通過する主要国でないことを物語っています。

 倭人伝の現存記事から見て、つまり、陳壽が必要と見た記事から見て、明らかに、伊都国は郡との交通、交信の終点かつ始発点であり、王の処は、其の至近でなければならず、そのような最重要道里が、水行二十日と官道なしの風任せ行程を挟んでいる筈がないのです。

 また、同様の筋道から、続く水行十日、陸行三十日(一ヵ月)は、伊都~王の処までの道里の筈がないのです。

 なお、この部分を「都水行十日陸行一月」と読解し、従郡至倭の所要日数の総計との解釈が、古田史学の会古賀達也氏によって提起されていて、当ブログ筆者の持論と符合したので、ここで同志宣言しておきます。そのため、当ブログ諸記事から「南至邪馬壹國女王之所都。水行十日陸行一月」との解釈を退場させています。

〇「水行二十日」「水行十日、陸行三十日 」 の仕分け
 近来、「水行二十日」と「水行十日、陸行三十日 」の記事が、倭人伝道里行程記事の理解の妨げである旨の指摘がありますが、以上のように、記事項目を仕分けすると、「従郡至倭」に始まる行程記事は、必要な道里記事だけが残されるので、円滑に理解できるはずです。(思わず、「自然に」と書きかけましたが、個人的な意見は千差万別なので、言葉を変えました。)

*伊都国起点の放射行程論議

 以上の行程解釈は、榎一雄氏が実質的な創唱者ですが、なぜか、理論的な評価がされていないようです。
 榎氏の発表時、先輩から「伊都国が、当時政治経済の中心だったと言いたいのか」と詰問されたように書いていますが、反論無しに、そのように書き残しているということは、文献に明記されていないので、史学論文に書けなかったものの、氏の論拠がそこにあると示していると見えます。
 このように明解で正当な仮説を否定するのに、未だに、「感情論や文法談義の屁理屈しかない」ようで、ここも、いたずらに混沌を書き立てている輩(やから)がいることになっています。

*行程道里記事の総決算
 つまり、「倭人伝」の眼目たる所要日数は、ここまで縷々述べてきた「従郡至倭」の総決算と見るものです。倭人は魏朝に服属したから、「従郡至倭」の総日数が不可欠であり、そのように読者に明示しなければならないと見るものです。つまり、洛陽の高貴な「読者」に、あれこれこむつかしい計算をさせるものであってはならないのです。と言うか、俗説にあるような行程解釈では、全所要日数が、読み取れない、不完全な史書となります。
 逆に、これが全所要日数という自然な結論を採用するなら、伊都国以降の進路がどちらを向いているとか、里数が実測かどうかなど、議論の必要は無いのです。
 「倭人伝」道里の公的史書における位置付けを思えば、「エレガントな」、つまり、複雑な謎解きと計算の要らない端的な解釈順当と判断できるはずです。

 以上が、当方の解法であり、自分なりに自信を持っていますが、そのように理解したくない、理解できない方が、圧倒的に多いでしょうから、総選挙すれば、あくまでも、支持者のない孤説に終わるものでしょう。要は、山火事に柄杓一杯の水をかけているだけなのです。

*混沌の由来
 おそらく、刮目天一氏は、世上氾濫する安直な「短里説」それを取り巻く安直な議論を「混沌」と見たのでしょうが、「混沌」も目鼻をつければ「面目」を得て成仏するのです。

 一向にそうならないのは、おそらく、混沌泥沼を好む不逞の輩が、無面目の混沌に不法餌付けしているのでしょうが、そのような事態の付けを陳寿に持ち込むべきではないと思います。

*まとめ
 以上、保守守旧派の諸兄にとっては、嫌みたっぷりでしょうが、これが芸風なので、飾りの少ない平文を、冷静に読み通して頂ければ幸いです。

 当初、当地基準で五ページ(ややてんこもり気味)になって反省ですが、まあ、ほぼ全文が新規書き出しであり、勢いに任せた初稿の半分以下に縮めたのでご勘弁頂きたい。

*応答御免
 当記事は、随分コメントを戴いているので、応答をかねた訂正、改善を反映していることをご了解戴きたいものです。
 ここで書くのが至当かどうかわかりませんが、洛陽と倭人の交信では、景初遣使以前に、帯方郡から洛陽に、全体道里、全体戸数、などの要件が報告されていたと見るべきです。

*不愉快な結論
 世上、「倭人伝」の道里は、後年の魏年訪問の際に、記事の上申した「出張報告書」から読み取ったと見ている向きが多いようですが、数十人の人夫を要すると見える大量の下賜物と百人規模と見える多数の人員を使節団として派遣する際に、相手の正体や目的地までの所要日数などを、一切下調べしないままに送り出すことはあり得ないのです。帯方郡の係員が現地調査して、当初の万二千里の報告と整合する報告を試みたはずです。
 以上の経緯は、あくまで、最善の考察をこらした推定ですが、諸所に、先賢の反感を煽りかねない推定が試みられているので、こっそり書き始めているところなのです。

 頓首頓首。死罪死罪。(「読者」の逆鱗に触れても、いきなり死罪にならないように、平伏しているのです)
                                以上

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コメント

度々ご面倒をおかけしています。
折角、漢籍の定則を縷々ご教授下さる先生に、失礼な応答で大変申し訳ないです。
定則を知らない世界で育った人間から見ると、なかなかおっしゃる理屈の納得は難しいので細かい質問させていただこうかとも思いましたが、最後の衝撃的な8文字でこれ以上の失礼は出来ないなと感じました。どうもこちらこそ、その言葉をそのまま返させていただきたい気持ちでございます。

しかし、こういう有り難い機会はあまり有りませんので、最後にひとつだけエレガントでない別世界の話を先程ブログにしましたのでお許しください。広いお心で、軽く聞き流して頂き、これにてやり取りは終りにして頂ければ幸いでございます。
どうも長々と有難うございました。

 刮目天 一(はじめ)さん
 毎度お手数をかけていますが、ここは、当方のブログなので、当家の家風、芸風をご容赦ください。貴兄のブログには、貴兄の運用があるのでお邪魔しないように、自宅で論じている気ままをお許しください。
 貴兄コメントへの回答返信という事で、細かいことに絞って即答します。と言うものの、最終的に長口説なのは、言葉の厳密を念押ししているためです。お詫びは、末尾を参照ください。
 いろいろ、語義について重箱の隅をつついているのは、世間の皆さんが自己流の新鮮な用語で大海を染めようとしているので、大海には大海の定則があると言っているだけですが、それは、ある意味、人の思考、発言として当然なので、「定則」を勉強してくださいと大声でほのめかしているだけです。貴兄についてだけ言っているのではないのは、当ブログの「今日の躓き石」カテゴリーを冷やかしていただければわかると思います。正論を、大声で一人ごとしているものです。
 何しろ、(貴重/希少な当ブログ読者の皆さんは、失礼ながら)三世紀の漢文資料を理解しようと取り組んでいるわけですから、当方も、一字一句、自分の直感的理解はあるものの、本当に本当にそう考えて良いのか、文献と対話しているのが現れている/意識して表しているだけです。日常会話と切り替えるという意識でもあります。時に、反芻しているのは、丑年のフィジカル、ならぬメンタルの特権とみています。俗に言う、友達をなくす愚考ですが、言わざるをえないとみているのです。
 さて、と言うことで、貴兄の今回のコメントの末尾については、当方の明記、ないしは示唆した論点を十分ご理解頂いていないと感じるので、貴兄のもてなしに甘えたとは言え、大変な時間と労力をかけてそろりと打ち上げた意見に対するご高評としては、いささか不満であると、僭越を顧みず、縷々申し上げます。
 まずは、当方は、『「従郡至倭」で始まる「行程記事」は邪馬壹国到着で終わり』、一般に、其の後に続いていると解釈されている「水行、陸行」は、別段の趣旨で書かれていると見ているものです。投馬国以降は帯方郡基点道里と解するなど、「道里」新解釈の打ち出しなどとともに、某ブログ主のつまらない誤解であり、相手にしてはいけません。
 倭人伝には、句読点も段落改行もなく、後世の権威者が、文意を解釈して付加しているので、「水行陸行」が、行程記事の続きだとする句点は、原著者の真意かどうか、審査してもよかろうという事です。
 当方は、「倭人伝」であろうと「倭人条」であろうと、新参の倭人の身上を示すものとして、漢書などの先例に倣って書かれているので、最寄りの帝国拠点である帯方郡から、「倭人」の王都までの「所要日数」(文書、人員の往来に要する日数として許容される日数)は、最重要項目であるので、由来の異なる道里/行程記事の連なりとは別に、「改めて段替えして明記されている」と読むべきだという主張なので、その点、ご理解頂きたい。後世人は、そのような史書記述の原則を知らないので、「そのまま」読んで、自然に誤解しているという見解です。一説としての意義はあると理解しています。
 因みに、過去書いたことがあるのですが、こうした解釈は、古田武彦氏が、ほぼ創唱したものであり、当時の学会では、「そのような書き方をした先例は無いのではないか」との指摘が、上田正昭氏からあったものの、「論理的に妥当な否定論は出ていない」ように見ています。榎一雄氏の「放射」行程説も、学会内の「反論」には、「(ぽっと出の若造には)そう読めるかも知れないが、(一人前の学者である)俺は、断固反対である」と言った主情的なものが多々あったと聞いていますから、榎氏の説は、氏の権威故に認められたものではなく、合理的な仮説出会った故に、意義を認められたのです。
 「倭地内の里数」については、貴兄はじめ多数の方がこだわっておられるのは理解していて、それを無碍に否定しているのではなく、「従郡至倭」と言う道里、「行程」の記事に連なるものとして解釈すると、大変な時間と手間を取られるので、この際切り離そうというものであり、おいしいものは、後で、ゆっくり頂こうという趣旨かも知れません。ともあれ、議論は、できるだけ区切って、区切った中で、お互いに筋を通して解釈しようという行き方なので、そのような実利的な、あるいは、工学的な行き方について理解いただいて、その前提の狭い了見で評価いただきたいものです。
 このあたりから先、貴兄はじめ、大変多くの方が、「常識」、あるいは「普通」とする「日常感覚」を打ち出すので閉口して、立ち入りを遠慮しているのです。当方は、主として、道里記事に絞って、陳寿の真意を想定して論じているのです。
 例えば、「放射」解釈は、漢書西域伝などで実用的に有効として採用されているので、こちらに分があるとみたいのです。因みに、そのような趣旨で言うと、伊都国は、目的地として「明記」されているので、隠されていると解釈するのは、後世人の持って回った解釈ということになります。一度、丁寧に考えてみてください。
 言うまでもありませんが、当方が言っているのは、議論を小分けして、その限られた範囲内で、それぞれの考えの根拠を見定めましょうという事であり、どれが正しいと断じて。押しつけているものではありません。くれぐれも、情緒、情感で戦わないで、論理で話し合いたいものです。最後は、情緒、情感の勝負でしょうが、最初から、最終兵器を動員されては、「義」が言えないのです。いや、これは、つまらない一般論であり、貴兄がどうこう批判しているのではありません。
 繰り返しになりますが、出発点は、陳寿の残した資料について、そのまま取り組むという「路線」であり「目的地」の旅(ツアー)なので、その主旨が合わない場合は、別の「路線」で「目的地」のツアーに参加いただきたいものです。貴兄のことをとやかく言うものではないのですが、最近、こうした当然の(無言の)了解事項を無視して、やじられることが多いので、軽快しているのです。
 「所要日数」の解釈も、当方の趣旨を誤解されているように思います。このような際に書かれるのは、法的な規定日数であり、季節変動があるのなら、最悪の状態を想定して書くものであり、帝国は、各地の事情で応答日数の期限をその都度変えることなどないのです。お気に要らなければ、「上限日数規定」とでも読み替えてください。
 水行が、唐六典に示されているように、歴代帝国で明確に規定された言葉であることは、常識的な理解であり、史官が、そのような公式用語に拘束される事については、当方の所論でもあり、異議を立てるものではありません。
 ここで言っているのは、道里に基づく所要日数の算定に際して(かならず)参照される行程分類として、「水行」と「陸行」の二種しか存在しない以上、そして、史官は、伝統的に認められた用語以外「絶対に」使用できない以上、倭人伝道里の一部として不可避な「渡海」は、「水行」と言わざるをえないという事です。(まさか、陸行とは言えないのですし、伝内で陸行は多用されているので、競合して混乱するのです)
 幸い、行程記事の範囲内に、『国の制度で定義されている「水行」に該当する行程は皆無』(当方ブログに記事あり)なので、史官は、倭人伝の記事を書き起こすに際して、「伝内では渡海を例外的に水行と呼ぶ」と宣言、つまり、明記した上で、結論部分で水行十日と書いているのです。(この時点では、倭地内道里は未入手なのです)
 繰り返すように、これは、当方が丁寧に文献解釈したものであり、根拠を明記しているので、少なくとも、御自分の先入観でなく、文献と当方記事を参照して、ご批判頂きたいものです。辛抱強く読んで頂ければご理解いただけると思うのですが、当方は、真剣に丁寧に文献と対峙したのであり、自分の意見を世界に塗ったくっているのではないのです。
 最後に、当方が見る限り、帯方郡の権威について再確認すると、帯方郡が、秦漢以来の官制に基づく、ぽっと出の一地方機関であり、一片の帝詔で、いつでも左遷、処刑される鴻毛の如き身の上であるという事が軽視されているように思います。公孫氏が、王として自立したのは、一つには、中央政府が腐敗して、全国的に統率力が失われていたためであって、また、一つには、遼東郡の勢威が、烏丸、高句麗を圧倒し、盛時には青州を支配するほどめざましいものであったためですが、魏武曹操が帝国の統率を引き締め、明帝曹叡が強大な帯方郡を撲滅駆除したので、弱小帯方郡太守は、さながら辺境で小皇帝の如き栄華を楽しんだとしても、一度皇帝から毒入りの器を送りつけられただけで、自裁するのです。
 明帝曹叡までの魏帝国盛時の規律、特に、青州、帯方郡に対する威勢を見くびるものではありません。まして、公孫氏討伐の際は、事前に、青州から渡海して小兵力を送り込むだけで郡太守の首をすげ替えて、その際、大半の吏人は温存することにより、おそらく、ほぼ無血で、たちまち楽浪、帯方郡両郡領域の平定ができたのですから、魏帝国の郡太守は、風にそよぐ鴻毛だったのです。何しろ、帯方郡は、青州から渤海一またぎですから、いつでも討伐できると実証されているのです。貴兄の帯方郡太守小皇帝説については、由来、根拠の程はわかりませんが、一度、再吟味頂きたいものです。
 中原帝国にとって、東夷の極端の帯方郡は、たくわんの端っこでしかなかったと見るものではありませんか。帯方郡太守が、夜郎自大に陥っていたというのは、根拠の不足した誤解でしょう。
 因みに、貴兄もご承知のように、現代に於いては、「シナ」は蔑称と解釈されるので損ですよ、とだけ指摘しておきます。耳タコでしょうが、率直派として、一回だけ(これっきり)述べます。
 と言うことで、いやなことを延々と述べましたので、陳寿に倣って、以下の結語を足しておきます。

頓首頓首死罪死罪 

>
>色々とご指摘くださいまして、どうもありがとうございました。
>長年染みついたものは直ぐに改善は難しいので、心の隅に置かさせて頂きます。
>言葉を知らない無教養の当方の主張に耳を傾けて頂いただけで恩の字でございます。
>
>>倭人伝里程、特に倭地内の里数は、根拠不明で、否定不可能である。その程度の不確かな話と見える、いう主張はタップリしたはずですが、ご理解いただけなかったようです。
>
>先生のご主張は理解はしているつもりですが、その先がありますので、根拠不明のままででストップするわけにはいかないからです。
>
>何故、そのような根拠不明のいい加減な里数を陳寿が記述したのかについて
>范曄も理解したと思われるエレガントでない理由をしっかりと主張するにあたり、
>まず、里数がいい加減であることを再度述べておいただけなのですが、ちょっとくどくなりましたか?
>しかし、冒頭で書きましたように、興味を持って来られた方のために改めて整理したということもあります。ご不快に感じられたようですので申し訳ありませんでした。
>
>もう一点いいわけですが、「セーフ」という言葉は決して見くびって書いたわけではありません。
>見解の違いがあっても結局、「魏志倭人伝だけでは邪馬台国の位置は確定しない」という非常に重要な結論に当方も賛同しましたので、一致点を見いだせた喜びと、それ故の親近感からつい手がすべってしまいました。以後、気を付けます(#^.^#)
>
>2.につきましても同様で、表現が拙ずかったようですのでまずはお詫びいたします。
>
>なぜそのように断じたかですが、倭地上陸地点の末盧国から先の行程記事は、構造上、一つ前の到着地を出発地として次の到着地への方角、到着地名、出発地から到着地までの距離または日数というパターンの繰り返しになっているからです。
>
>だから投馬国と邪馬台国の二か所だけが郡を出発地とした日数とはとても考えられません。
>目的地でもない投馬国にだけ郡から水行20日と書くのもおかしなものです。
>
>行程記事は普通は経路を書くのが常識ですから、同様に放射状に読む説もあり得ない説だと思います。「到」と「至」の意味の違いが根拠になるとも思えません。形式的であっても目的地である邪馬台国にも「至」と書かれているからです。ただ、伊都国に到ると書いたのは「微言大義の原理」で、実際の目的地は国王難升米の居る伊都国が隠された目的地かも知れませんが( ^)o(^ )
>
>もしも郡より「南して邪馬台国に至る。・・・・水行10日・陸行1月なり。」と解釈するとしたら、邪馬台国は郡より東南に万二千里ですから方角で矛盾します。
>
>また、狗邪韓国から末盧国までの3区間が渡海千里ですので、所要日数は渡海する季節に影響されると思いますので、郡から邪馬台国の所要日数は1年中一定ではありません。
>
>さらに言えば、渡海という用語と沿岸部の航路を意味する水行という用語は明確に区別されていますので、渡海の区間を水行に含められないと思います。
>
>ですから、「投馬国を出発地として、南して邪馬台国に至る」と読み取るしかないと考えた次第です(^_-)-☆
>
>なお、先生という表現はシナでは軽い感じなのですね。知りませんでした。(*^^)v
>でも漢籍の大先輩に向かって貴兄ではちょっと失礼だと思いました。
>当方は日本人ですので、日本人の感覚の敬語表現とご理解ください。
>今後ともどうぞよろしくお願い致します。
>

色々とご指摘くださいまして、どうもありがとうございました。
長年染みついたものは直ぐに改善は難しいので、心の隅に置かさせて頂きます。
言葉を知らない無教養の当方の主張に耳を傾けて頂いただけで恩の字でございます。

>倭人伝里程、特に倭地内の里数は、根拠不明で、否定不可能である。その程度の不確かな話と見える、いう主張はタップリしたはずですが、ご理解いただけなかったようです。

先生のご主張は理解はしているつもりですが、その先がありますので、根拠不明のままででストップするわけにはいかないからです。

何故、そのような根拠不明のいい加減な里数を陳寿が記述したのかについて
范曄も理解したと思われるエレガントでない理由をしっかりと主張するにあたり、
まず、里数がいい加減であることを再度述べておいただけなのですが、ちょっとくどくなりましたか?
しかし、冒頭で書きましたように、興味を持って来られた方のために改めて整理したということもあります。ご不快に感じられたようですので申し訳ありませんでした。

もう一点いいわけですが、「セーフ」という言葉は決して見くびって書いたわけではありません。
見解の違いがあっても結局、「魏志倭人伝だけでは邪馬台国の位置は確定しない」という非常に重要な結論に当方も賛同しましたので、一致点を見いだせた喜びと、それ故の親近感からつい手がすべってしまいました。以後、気を付けます(#^.^#)

2.につきましても同様で、表現が拙ずかったようですのでまずはお詫びいたします。

なぜそのように断じたかですが、倭地上陸地点の末盧国から先の行程記事は、構造上、一つ前の到着地を出発地として次の到着地への方角、到着地名、出発地から到着地までの距離または日数というパターンの繰り返しになっているからです。

だから投馬国と邪馬台国の二か所だけが郡を出発地とした日数とはとても考えられません。
目的地でもない投馬国にだけ郡から水行20日と書くのもおかしなものです。

行程記事は普通は経路を書くのが常識ですから、同様に放射状に読む説もあり得ない説だと思います。「到」と「至」の意味の違いが根拠になるとも思えません。形式的であっても目的地である邪馬台国にも「至」と書かれているからです。ただ、伊都国に到ると書いたのは「微言大義の原理」で、実際の目的地は国王難升米の居る伊都国が隠された目的地かも知れませんが( ^)o(^ )

もしも郡より「南して邪馬台国に至る。・・・・水行10日・陸行1月なり。」と解釈するとしたら、邪馬台国は郡より東南に万二千里ですから方角で矛盾します。

また、狗邪韓国から末盧国までの3区間が渡海千里ですので、所要日数は渡海する季節に影響されると思いますので、郡から邪馬台国の所要日数は1年中一定ではありません。

さらに言えば、渡海という用語と沿岸部の航路を意味する水行という用語は明確に区別されていますので、渡海の区間を水行に含められないと思います。

ですから、「投馬国を出発地として、南して邪馬台国に至る」と読み取るしかないと考えた次第です(^_-)-☆

なお、先生という表現はシナでは軽い感じなのですね。知りませんでした。(*^^)v
でも漢籍の大先輩に向かって貴兄ではちょっと失礼だと思いました。
当方は日本人ですので、日本人の感覚の敬語表現とご理解ください。
今後ともどうぞよろしくお願い致します。

刮目天 一(はじめ)さん
 冷静なご回答ありがとうございます。既にやじうまから、貴兄に因縁をつけてけしからんという風の無作法なヤジが入っていて、言い方が悪かったかと心配していたところです。(長文御免)
 正直な意見として、貴兄の今回の記事にも、愚見への対応だけではないのではないかと見えるほど豪勢な主張がタント盛り込まれているので、器の小さい当方としては、重箱隅つつきしかできないので、申し訳ないところです。と言っても、大体は、見解の相違ですから、言っても意味がないので、再批判するかは別として、二つほど言わせて頂くと、
1.所在地「福岡県説」と言うのは、貴兄も後ほど書き足しているように、当方への応答としては誤解であり、「福岡県を大きく出ない」としか言っていないので、「自説に都合の良い解釈でしかない」とすかさず言われると心外です。まして、古田氏ばりに「セーフ」と言われるとは、見くびられたかと、ちょっとむっとします。
 所在地に拘りのない当方としては、九州島内を出ることはない、鹿児島県までは行かない、多分、宮崎県にも行かない、範囲想定の中心は、福岡県内にあるように見える、という程度です。別人のヤジで、所在地を示せというのがあったので、一応触れただけなのですが、余計な発言だったでしょうか。ご不快であれば、お忘れいただいても結構です。
 倭人伝里程、特に倭地内の里数は、根拠不明で、否定不可能である。その程度の不確かな話と見える、いう主張はタップリしたはずですが、ご理解いただけなかったようです。この場は、論争の場ではないのを忘れないでください。
2.郡から倭都まで、水行十日、陸行一ヵ月という読みは、日本流の皇民教育を受けて育った張明澄氏のセリフに似ている「漢籍の素人にも分かるレベルの珍説・トンデモ説の類」と見えるかも知れませんが、なぜ、場違いな長台詞で否定するのかわかりません。「倭人伝」には、当然、郡倭の所要日数が明記されれていなければならないという「素人でもわかる明快さ」と言いたいところです。いや、単なる私見で、押しつけているものではありません。
 貴兄の意見に対して、同様の決めゼリフは避けていたはずですが、筆が滑ってご不快な響きがあったら、お詫びします。
 思うに、ブログの読みやすさとは、文章の上手下手でなく、良策としては、小分けして小分けして、あまり、丼鉢一杯に、ご飯とおかずとデザートとをてんこ盛りにしない構成法が大事だと愚考します。
 とにかく、貴兄のブログは、読解と批判の組み立てに疲れるのです。もちろん、小分けして、淡々と書いているので、意図がわからないと言うのが、当家の拙論に対する批判と理解していますが、細かい論理のの組み立てで、中くらいの論理を作り上げ、中くらいの論理の組み立てで、大きな構成の流れを作るというのが、当方の芸風なので、その鳴き方しか鳴けない、と言うことでもあるのです。
 因みに、中国語で「先生」は、「さん」程度なのでむずがゆく、当方の愛用する「貴兄」くらいで良いのでは無いでしょうか。
以上
>
>早速、当方のコメントに対する簡潔な回答コメントを頂き感謝いたします。取り敢えず今回はこのご回答について、邪馬台国問題に関心のある多くの皆さんにも考えていただきたいと思い、ブログにしました。必要に応じて先生のブログ内容についてもコメントさせて頂きたいと思いますので、説明不足の点など、色々とご指摘ください。長文かつ劣悪な文章ですので気が引けますが、どうぞよろしくお願い致します。なお、顔文字は表現力を補うエレガントでない手法ですが、重宝していますので、何卒ご容赦願います。
>
>「古代史の散歩道 など」先生へ感謝!
>https://blog.goo.ne.jp/katumoku10/d/20191209

早速、当方のコメントに対する簡潔な回答コメントを頂き感謝いたします。取り敢えず今回はこのご回答について、邪馬台国問題に関心のある多くの皆さんにも考えていただきたいと思い、ブログにしました。必要に応じて先生のブログ内容についてもコメントさせて頂きたいと思いますので、説明不足の点など、色々とご指摘ください。長文かつ劣悪な文章ですので気が引けますが、どうぞよろしくお願い致します。なお、顔文字は表現力を補うエレガントでない手法ですが、重宝していますので、何卒ご容赦願います。

「古代史の散歩道 など」先生へ感謝!
https://blog.goo.ne.jp/katumoku10/d/20191209

刮目天 一(はじめ)さん
 冷静に御評価頂き感謝します。コメント返信として、手短に回答致します。
貴兄との対話という事で。少々箍が外れていますが、酌量ください。
 なお、ランキング一位というものの、毎日自分で入れている票(70点程度)
を除くと、あと、一人いるかどうかと言う程度ですから、別に自慢にはなら
ないのです。(二位の方にも、裏話は告白しています)
 倭人伝の「短里説」について丁寧に評価すると、一部ご不快かも知りませんが、
1.短い「里」が使われていると確信しています。(学会の大勢と思います)
*岡田氏などの言う「誇張」、「捏造」などのけったいな説とは、別世界の議論です。
2.「魏晋朝短里説」は、誤解、大ボケです。(ブログにて論証済み)
3.「周朝短里説」は、早合点の中ボケです。(ブログにて論証済み)
*以上2件は、根拠史料(正史クラスのもの)が一切存在せず、否定的資料のみ
 存在する状態なので、議論もなんにもなりません。
4.「渡海」里程論は、思慮不足の失策です。(ブログにて論証済み)
*ですから、貴兄の「こじつけ」主張は、まことにもっともと思います。
5.全体里数は、部分里の合計にきっちり一致する、と言うのは、錯覚です。
  (概数論などとして、論拠を公開済み)
6.倭地内の「里」が、全体里と同様とは言えません。(否定的認容のみ)
  最近の境地です。三位「コタロー」氏の三分割説に影響されています。
7.倭国王都の所在は、倭人伝からは、特定できません。(ほぼ、最終結論)
  倭人伝記事をよむかぎり、九州北部、おそらく福岡県内を大きく出ることは
  ないというのは、「おそらく万人の認めること」でしょう。
  それでは、ご自身の生存が覚束ない論者は、倭人伝記事の解釈を混沌とさせ
  ることに、命がけなのです。(学問上、政治経済的な面の「生命」です)
 結局、否定できない1に絞ったのが、当方の議論です。目下賛成一票(自前)。
 他の論点を加えて、倭人伝里程論上、最も単純明快、エレガントな拙論とした
のです。賛成論は聞きませんが、あくまで、暇人の一案ですから、いじめないで
ください。ご縁があれば、貴ブログ上で、頭をなでていたければ幸いです。
以上
>
>ありがとうございます。先ほど拝見いたしました。
>ランキング1位の先生にこれ程懇切丁寧にご批評いただけるとは思いませんでした。
>参考になる内容ばかりでうれしい限りです。
>ご批判の論点につきまして改めてブログを作成する予定でございます。
>完成しましたらご案内差し上げますので、またお付き合いいただけると幸いです。
>どうぞよろしくお願い致します。
>取り急ぎ、お礼まで。

ありがとうございます。先ほど拝見いたしました。
ランキング1位の先生にこれ程懇切丁寧にご批評いただけるとは思いませんでした。
参考になる内容ばかりでうれしい限りです。
ご批判の論点につきまして改めてブログを作成する予定でございます。
完成しましたらご案内差し上げますので、またお付き合いいただけると幸いです。
どうぞよろしくお願い致します。
取り急ぎ、お礼まで。

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