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2021年3月

2021年3月30日 (火)

新・私の本棚 伊藤雅文 邪馬台国は熊本にあった! 7/7 改

 扶桑社新書 219   2016年9月刊     2019/03/17 一部改訂 2021/03/30、2021/04/12

*海上里程の錯覚
 同様に見ると、渡海行程で一千餘里を一〇〇〇余里と書くと里単位測量との錯覚を呼びますが、海上移動に「路」も「道里」もないので、測量不能な海上を、例えば、七百里強から千五百里弱の範囲内と「見なした」大まかな数値と見るべきです。
 ただし、この道里は、実測と無関係の日程面からの概算であり、一日三百里の勘定で前後の余裕も見て所要三日を三回、全体で一日余裕で、切りの良い十日との勘定合わせしたものと見られます。
 そうであれば、測量の結果ではないので概算千里が合理的なのです。これは、現代人に喪われた、本当の意味で、数字に強い書き方です。

□水行談義
 水行談義で、氏は、時代無視の安易な「俗説」に、どっぷりと毒されていると見受けます。
 但し、氏は、子供ではないので、自分で書いたことに責任があると言えます。
 里程記事の冒頭で、「従郡至倭」で「海を渡るのを水行と言う」と宣言された倭人伝は例外として、魏晋朝までの正史記事で、「水行」は専ら河川航行であり、さらに言うと、大陸の道里で、「渡河」は「水行」とは別です。いや、そもそも、街道を行くのが正規の行程である以上、「水行」道里は、本来「無法」なのです。
 して見ると、半島西南岸の海上「水行」図で、島々を踏みにじる不可能な経路を表示しているのは、氏としては、航行不能な経路と示したとも見えます。

 なお、畿内説に必須の瀬戸内や日本海の「航路」は、(あったとすれば。以下略)毎日寄港し、潮待ち、風待ち、雲行き待ちがあるので、必ず翌日出港とは行かないのです。また、港港で船を代え、漕ぎ人を代え、天候好転を待ち、潮待ちして、四十日に到底収まらない日数をかけて旅するのです。日数が数えられないから正規の行程となりようがないのです。
 並行して陸上経路があれば「道里」測量できても、それは海上移動と異なりますが、陸上経路があれば、危険でお天気まかせの海上行程を行く理由がないのです。中原であれば、陸上の街道は、歩行することもあれば、ゆるゆると騎馬で行くこともあり、さらには、駿馬で疾駆する「急行」もありますが、海上移動となると、船上で駆け足しても移動速度は変わらないので、「急行」はないので、文書使の漕行や派遣軍の移動には、全く不向きです。

 こうした海の行程(あったと仮定すれば)と対比される対馬、壱岐伝いの三度の渡海は、岩礁、浅瀬もなく、日頃の交易便船と同様に、見通せる対岸に渡っては、必要に応じて漕ぎ手一同を替え、ときには、急流に適した便船に乗り換えるのであり、予備日を考慮すると、ある程度決まった日数で、ほぼ確実な運行が可能です。

 氏が、千差万別の実態を考慮せずに、一律、「水行一日二百里」と見るのは、氏にしては、不用意で不可解です。

*空想競争~余談
 またもや、一般論、俗説批判になりましたが、畿内説論者は、当時、長距離の便船、航路が君臨したと見るようですが、それなら、筑紫から中部大和、中和に至る魏使の四十日に渡る(と読み替えざるを得ないのであり、当論者の指示する論法ではない)最終旅程は、冒頭の諸国記に劣らぬ痛快な記事となるはずですから、割愛された理由が理解できません。(要するに、当方と「読み」違いですが)

 極端な「海路」論者は、景初遣使は、現在の大阪湾岸から万里波濤を越えて渤海湾岸天津に漕ぎ渡り、河水,洛水遡流で洛陽に漕ぎ至ったと「おおぼら」を吹くのですが、それは、無理に無茶を重ねた途方もない時代錯誤です。

 三世紀に、そのような強カな漕ぎ手を擁する漕ぎ船が便船として常用できていたら、船主は「天下」を取ったでしよう。何しろ、そのような漕ぎ船は、半島を沿岸廻遊せず、直接山東要地の東莱に乗り込めるし、狗邪韓国なしで倭の港に直行渡海できます。

 いやはや、できもしないことを積み重ねて、画期的な新説と述べる著者がいて、氏も、悪影響を受けていると困るので、長々と講釈を垂れたわけです。

*妄言多謝
 いや、最後まで、しばしば、氏の論議批判にこと寄せて、世にはびこる俗説を論断しましたが、旁々、ご容赦いただきたいのです。

 氏の作業仮説群の由来がわからないので、俗説から想定される根強い妄説を批判しただけです。

                                完

新・私の本棚 伊藤雅文 邪馬台国は熊本にあった! 6/7 改

 扶桑社新書 219   2016年9月刊     2019/03/17 一部改訂 2021/03/30、2021/04/12

*精密計算の時代錯誤
 伊藤氏も、多くの論者と同様、現代データの古代への適用で錯覚に陥っています。それは、各種数値の有効数字に関する時代錯誤です。

 先に挙げた問題著者達は、不法使用地図データで、ある地点と別の地点を結ぶ直線(?!)が、途中の第三地点を㍍単位で通過すると主張します。しかし、太古には、メートル法SI単位系がなく、三角測量も不可能との認識が欠けている時代錯誤です。また、堂々と、見えない日没が超高精度で見える、地平の彼方が見えるなどとしている例まであります。錯視の極致です。

 氏は、そのような愚行に染まってないと見たのですが、百十四ページに、一尺は24.12㌢㍍との錯誤が書かれています。
 古代にそのような測定/制作精度はなく、ズバッと丸めて25㌢㍍程度(有効数字1.5桁)とすべきです。現物を手元で確認できるから、尺の精度は、1㌢㍍、5㌫程度は出せたでしょうが。(いや、二本の尺を並べて末端をすりあわせたら、㍉㍍単位で整合させられるでしょうが、ここで言っている精度は、そういう性質のものではないのです)

 一歩六尺なら百五十㌢㍍程度となります。土地測量、つまり、農地の検地に常用されるので、一部定寸の縄なり一部単位で目印の入った縄を使用していた可能性が高いのです。道里の測量となると、450㍍にも及ぶ縄は常用できないし、45㍍の縄も大変な重荷になるので、縄張りで、数百里にわたって測量したものかどうかは不確かです。街道の場合は、精々、一里塚を着々と築いて、道中の宿場で里を刻みなおしたでしょうが、行程が、海上の場合は、道里の測りようがないので、所要日数の見地から、「道里」を見立てたのでしょう。誰も、書かれている道里を、検証できないのですから、海上の場合は、それで十分だったのです。
 何しろ、未開地では、千里どころか百里単位の道里も、測定しようがなかったのですから、全体の道里の精度に見合った推定で埋めたのでしょう。

 と言うことで、勝手な考証はこれぐらいにして、氏の論考の批判に戻ります。

 この部分の過度な桁数は、引用転記に過ぎないのでしょうが、安直な誤解を広げている点は好ましくないと考えます。

*多桁表示の弊害~余談
 氏は、ご多分に漏れず、漢数字に、時代錯誤のゼロ位取りの多桁表示を多用し、有効数字が多いように演出し誤解を誘います。

 郡から狗邪韓国までの七千余里を七〇〇〇余里と書くと、一里単位まで計り、下の位を丸めた0.02㌫程度のとてつもない高精度に通じます。当時の感覚で、里程は七「千里」であり、まずは、千里単位で、五百里程度の出入りを含みうる概数なのです。(いや、二千里単位かも知れません)
 当時、全桁計算可能な算盤(そろばん)も実務での多桁筆算もなく、一桁計算で、七に一を三つ足して十(千里)、一萬里、ここで桁違いの百の位は端数で無視できます。必要なら百の位を添えて二桁計算し、十の位以下を無視するのです。そのような概数での運用であれば、高度な計算技術も不要であり、日常雑務の計算に多大な人数を注ぎ込む事もないのです。

 伊藤氏は、一里は三〇〇歩として、多桁計算後、一里四三五㍍としますが、有効数字二桁(一桁半)と見て四百五十㍍とするのが時代相応です。高精度を要しない文献批判の際には、一里を四百五十㍍と決めておいて、一歩百五十㌢㍍、1.5㍍、一尺二十五㌢㍍とした方が、各種計算が、有効数字二桁の概算になり、筆算しても簡単になるので便利です。お勧めの設定です。

 ついでながら、一歩三百分の一里と見るのは時代錯誤です。当時半分とか四半分はあっても、桁の多い分数は滅多にないので、一里の三百等分は不可能です。現代でも三百等分はなかなかできないのです。割り切った言い方をすると、世に言う「道里」の里は、尺度の延長線上にない、別次元の単位なのです。

 土地測量の単位として常用されていた「歩」は、度量衡、尺度の単位で原器も残っている物差しの「尺」の六倍であり、以下、畝などを経る倍数計算階梯を重ね、一里=三百歩に至るのであり、一気に三百倍されるとは限らないのです。まして、道里の里を得るのに、一尺の物差を千八百倍するなど、現在の技術を持ってしても実行不可能ですから、尺を持って里を測ることはできないのです。

*丸める話
 個人批判ではない一般論として、古代史の論考において、漢数字の多桁表示はもちろん、小数表示も多桁分数もやめてほしいものです。要は、当時の数値計算、表示の概念を遠く離れた表示は、好ましくないのです。
 わかっていて多桁表示するのは「読者を騙している」ことになるのです。

 素人目には、古代史学界の諸兄は、理数系教養の基礎の基礎を忘れて数字遊びに耽っているように見えますが、氏は、無縁でしょうか。

                                 未完

新・私の本棚 伊藤雅文 邪馬台国は熊本にあった! 5/7 改

 扶桑社新書 219 2016年9月刊  2019/03/17 一部改訂 2021/03/30、2021/04/12, 2021/04/12

*すり替え考察~余談
 実際的な思考を試みると、劉宋時の魏志は紙の巻物と思われます。
 中国は広いので、簡牘の巻物は、骨董品価値も含めて、長く残ったでしょうが、蔵書家、貴族、富豪などは、早い段階で、紙巻物に移行したものと思います。三国志六十五巻は、漢書に比べて細身というものの、紙巻物にすれば、随分手軽であり、全巻揃えても、書棚に収まる程度であるので、身近に置くことができ、あるいは、軍人であれば前線の兵舎にも持って行けるので、急速に普及したものと見るのです。

 但し、世間は広いもので、「歴博」には、三国志ならぬ、范曄「後漢書簡牘巻物の複製品」などと言う出所不明の展示物があり、複製元がどんなものか、お顔が見たいものです。

 因みに、西域、敦煌から出土している三国志の断簡は、どう見ても紙であり、西域まで持参するには、紙巻物が常識となっていたように見えます。いや、分量の少ない列伝は、仏教経文にあるような折り畳み小冊子の「折本」になっていたのではないでしょうか。
 倭人伝も、二千字程度なので、十分小冊子になっていて、表紙には「魏志倭人伝」と書かれていたように思います。特に証拠となる文物は見かけていませんが、「なかった」と言う証拠はないように思います。

 と言うことで、南朝劉宋の史官、裴松之が、補注の際にどんな三国志を手にしていたのか、正確には今ひとつわかりません。

 袋綴じ冊子は該当二ページ単位で偽造、すり替えできますが、巻子は全巻糊接ぎ、裏打ちされていて、部分すり替えはできないのです。
 魏志第三十巻全体の帝室原本の良質複製品を入手し、巻末附近のつなぎを剥がし、のり付けを外し、全く同一の幅の偽造部と入れ替える高度なすり替えが必要です。

 つまり、時代原本同等の用紙、墨硯筆、写本工で同等写本を仕上げ、更に装幀専門家が必要です。門外不出の時代原本の取出し、返納も含め、まことに壮大な事業です。現代人が削除追記するのとわけが違うのです。

 別案として、原本巻子を持ち出し、該当部の墨文字を削り取り書き直すのが、断然手間が少ないのですが、持ち出し、持ち込みの不可能犯罪はこの際度外視しても、そのような手軽な書き換えが、そもそも、可能かどうか判断に困ります。

*大罪連座の定め

 いや、帝室所蔵の時代原本を勝手に持ち出すだけで死刑ものですから、偽造品とすり替えるのは、露見すれば関係者残らず一家全滅です。当人は信念で本望としても、共犯者は得られず、密告されるでしょう。荷担しなくても、密告しなければ共犯で、共犯、密告以外に選択はないのです。

*やはり実行不可能
 一案として、帝室書庫の時代原本更新の時期、例えば、巻子から冊子への転換の際、担当部局に大金を積んで、記事の一部をすり替えて写本させるのは、うまく行けば露見せずに済みそうですが、どれほど大金が必要か空恐ろしいほどです。また、史学者が精査して改竄を指摘する危険もあります。

 と言うことで、折角の「改ざん説」、「すり替え説」ですが、肝心の時代原本すり替えは、到底実行不可能と思われます。

 時代原本は根源であり、下流写本が根こそぎ改竄されても、根源から新写本すれば、不可能犯罪は、水泡に帰するのです。時代原本のすり替えにこだわる由縁です。氏は、劉宋末期すり替えとしているので、以上の推定ができるのです。

*改竄の動機
 以上でおわかりのように、帝室の時代原本の巻子を偽造巻子とすり替えるのは、余りにも避けがたい危険が多く、また、そのような、本当の意味で「命がけ」、「必死」の大罪を犯す動機が見当たらないのです。とにかく、正史原本「改ざん」なる刑死族滅、家族皆殺しの大罪を、誰がなぜ犯すのか。
 また、道里記事すり替えは、魏志東夷記事の些細項目の改竄、すり替えです。大金を得ても、一族処刑されれば無意味で、家族全員の命を賭けられないのです。

 結論として、氏の壮大な「連続説」難局打開の救済策は、無理のようです。

 これだけの命がけの曲芸を持ち込めば、氏がご不快に思われた「放射説」も棄却原因となった矛盾を解消できる
でしょう。

*改竄不要の提言  2021/04/12
 ここで、せめて、建設的な意見を述べさせていただくと、安本美典氏の短里説と榎一雄氏の伊都国起点の放射経路説、加えて古田武彦氏の「水行陸行郡起点説」を採り入れると、「女王之所」は、伊都国の南というものの、概数計算の本質的な限界と原資料の持つ不確かさから、そこに達するための道里は不確定であり、手堅く見ても、最短百里未満、最長千里程度のかなり広い範囲が適用可能となります。

 一部論者の言う宮崎県域は「かなり無理」としても、久留米付近から日田を経て大分に至る(JR久大線もどき)東西横断経路も、一応「有理」(無理でない、理屈が成り立つの意味)であり、もちろん、手短な有明海岸も「有理」と見ることができるように見えます。
 「南」と言っても漠然と言うのであり、伊都国に道標が立っていれば、「南 邪馬一」と彫られていたでしょう。目前の南に向かう路を指示しているだけで、途中の東西転進は、道なりに進めば良いので始発点では言うに及ばないのです。何しろ、まともな道は他に無いので、追分(分岐点)があれば、そこで指示するだけで間違いはないのです。

 つまり、帝室蔵書改竄の大罪を犯さなくても、ある程度の範囲に誘致することはできる(否定できない)のです。

 そこで、古田武彦氏の金言が登場するのですが、倭人伝の文言解釈は必要だが、さらに、現地の出土物の評価が重大である、と言うことです。もちろん、筑紫地域の発掘の進展と比べて、県外地域の発掘はゆっくりしていますが、かなり有力な意見であることは間違いありません。

 と言うことで、本書を改定される際は、改竄説を撤回されることを最優先に取り組んでいただきたいものです。要するに、当ブログ筆者の所説に同化することを提案しているのですが、この程度の手前味噌は良くあることでしょう。
 いずれにしろ、同意するしないは、氏の勝手なのです。京都のわらべ唄で言う「ほっちっち」(ほっといて)も可能です。

                                未完

新・私の本棚 伊藤雅文 邪馬台国は熊本にあった! 4/7 改

 扶桑社新書 219   2016年9月刊     2019/03/17 一部改訂 2021/03/30

*「連続説」のつけ
 一応の根拠は示したものの、以下の進行で「連続説」に不合理な難点が多いのが露呈しているので、現代感覚頼りの決めつけは早計かと愚考します。

 氏は、以下、不弥ー投馬ー倭都間旅程の高度な解析にかかります。
 「連続説」では、肝心な二区間が壮大な日数表示の上に、長期の水行が含まれ、明快な解析ができないのですが、これは、「違和感」「疑問」などと、個人の感性に左右されるものではないからで、数式解法の不備などではないのです。

□改ざん説長談義

 と言うことで、氏は、本来明快な筈の現代語文倭人伝の旅程記事を自己流解釈で解読できなかったため、記事が不明瞭な原因は、陳寿が書いた明快な記事が、現行記事にすり替えられたものと断じています。大変な転換点なので、少し手間をかけて審議します。

 氏は、倭までの最終旅程が水行陸行四十日だけで道里不明との理解に立ち、書かれていない水行、陸行の速度を捻出して、その計算に合う里数記事を「創造」したものです。氏は、本来の記事を復元したものと見ていますが、そのような記事は、痕跡すら残っていません。倭人伝「伊藤本」とでも称すべきであり、氏の創造物です。(現代の著作物なので、著作権が発生しています)

 要するに、氏は、氏の見た倭人伝里程記事の「解読困難」を「後世改ざん」の帰結と早合点し、「なかった原型の復原」という、史料に根拠がなく仮説になれない、解答とは一切言えないロマン、夢想に取り憑かれたと見えます。

 この行き方は、氏自身が冒頭で提示した原則に、真っ向から違反しています。

*三国志原本の旅程
 三国志は、陳寿没後程なく、いち早く晋の帝室書庫に収蔵されました。陳寿は上程用に脱稿していたので、未完成でなく決定版でした。

 そして、晋朝の権威の根拠として尊重され、後に「正史」として権威づけられる史記、漢書の二史に続く第三の史書として重視されたのです。

 晋を継いだ劉宋の裴松之が、皇帝指示により、付注した際に異本を校勘して帝室原本を刷新した決定版としたこともあって、裴注版三国志は広く出回り、その直後に改竄版を流布させるなど不可能です。

 以後、北宋に至る各王朝で連綿として帝室貴重書として厳格に原本管理され、北宋、南宋刊刻時の大規模校勘もあって、原本のすり替えなどできなかったと見ます。世上言われるように、三国志は、版による異同が少なく、安定しているのです。

 北宋刊刻時、「三史」の掉尾として重要視された「後漢書」は、劉宋当時に編纂されたものの、編者范曄が謀反大罪で継嗣と共に処刑されて、南朝亡国後、唐代に正史とされるまで低迷しました。
 これに対して、後漢書が三史の地位を得た後は、正史として四位以降の「その他」に回されたものの、三国志の評価は依然として高かったのです。

                               未完

新・私の本棚 伊藤雅文 邪馬台国は熊本にあった! 3/7 改

 扶桑社新書 219   2016年9月刊     2019/03/17 一部改訂 2021/03/30

*速断の咎め
 以上は、僅かな字数ですが、編者陳寿がどんな意味を込めたか、勝手に決めるべきではないと考えます。

 自己流解釈で明快な現地図を描けないなら、まずは、その解釈を疑うべきでしょう。凡そ、いかなる分野でも、新説の九十九㌫はジャンク、錯覚です。

 最初の一歩の選択に無記名現代語訳を持ち出し、読者に対する説明無しに史料改竄しているのは、氏の原則に背いていて同意できません。

 まずは、原文表示から「邪馬台国」を外し、ちゃんと読者に向かって理由付けした上で、自己流解釈と置き換えるべきではないでしょうか。

*選択肢の明記
 また、旅程解釈で強引な議論を展開する前に、課題の部分で、伊都国から倭へ「南」する読み方も、「水行陸行」を郡以南の総日数と見る読み方も、説明無しに排除せず、審議した上で却下理由を説明すべきと思います。

 不採用仮説は、別に否定も排除も必要なく、単に氏が採用しない仮説であることが示されていれば、読者に、氏の意図が適確に伝わるのです。

 以上、是非、ご一考いただきたいものです。

*不用意な比喩

 氏は、郡から倭までの行程記事に里数と日数が混在するという「予断」を採用したため、まことに不出来な比喩を上程しています。

 軽率な比喩で、東京大阪間の旅程で、名古屋まで里数表記、名古屋から日数表記と不統一では「違和感」を生じると強弁していますが、このような感情論を持ち出すのは、氏が時代錯誤の旅程感に染まっているからです。

 万事如意の現代は忘れて、江戸時代の東海道道中を見れば、お江戸日本橋から名古屋まで、渡し舟などを「はした」として除けば「陸行」で里数がありますが、名古屋から桑名は渡し舟で里数は無意味です。
 以下、桑名から西して、京に至る旅程は里数が明記できます。南は、お伊勢さん、さらに、西には、やや南寄りなから大和路、難波路もあります。
 このように放射的に書くのは、別に、
桑名が国都だったからではありません。交通の要路、分岐点だったからです。

 このように、行程の実質が大きく異なれば、統一できないのは当然で、それを違和感として感覚的に拒否するのは現代人の我が儘というものです。

 三世紀旅程が、氏に違和感(水に油が浮いている様子か)を生じる背景には、当時、最高の知性が、長期間呻吟の上で、そう書くのを最善と判断した事情があり、現代視点を忘れて、同時代視点の、論理的で慎重な考察が必要と考えます。

 但し、当方は、氏の里数日数混在読みを支持しているのではないのです。

*公正ならざる両説評価

 好ましくないことに、「連続説」「放射説」の比較評価が、本来、旅程出発点の話題なのに後回しにされています。

 氏は、既に予断を固めていて、放射説起点を伊都とし、倭へ計四十日とした時、違和感、疑問など、解決できない「矛盾」が多いと感じたことを根拠に「連続説」を採用します。

 早計で、予め選択肢を狭めているのは、適切な手順では無いと考えます。

                               未完

新・私の本棚 伊藤雅文 邪馬台国は熊本にあった! 2/7 改

 扶桑社新書 219   2016年9月刊     2019/03/17 一部改訂 2021/03/30

*壮大な抱負
 氏は、次の三原則を抱負として打ち出しています。

 倭人伝の『「邪馬台国」位置研究』へのアプローチ法として、次の三つを念頭に置いて「魏志倭人伝」の解読に臨みたい。
㈠ 基本的に「魏志倭人伝」の記述は正しいと考え、安易な読替えは行わない。
㈡ 推論の根拠はできる限り「魏志倭人伝」の記述の中に求める。
㈢ 考古学的成果を、予断を以て「魏志倭人伝」記述と関連づけることは避ける。

*発進脱輪
 但し、忽ち『「魏志倭人伝」後世改ざん説』を提唱し、先のアプローチとの齟齬への批判の言い訳に「自身に都合の良い読替え」を否定します。
 つまり、アプローチと現実は別のようです。

 一応三原則で始めても、一旦予断を形成したら、合わせて自己流「倭人伝」を構成するのは、首尾一貫していません。
 帯に言う『邪馬台国の位置は「魏志倭人伝」に正確に書き記されていた!』は、結局、我流倭人伝であり、通りがかりの読者には虚言です。

 以上の点は、氏の基本的な執筆姿勢に反するものと考え、減点しています。

*残念な勘違い
 倭人伝旅程記事の「ごく一般的な現代語訳」は、責任者不明です。
 大は「邪馬台国」なる非倭人伝用語、小は諸処に軽率な誤訳、果ては、古代にない「ゼロ」整形多桁数字までてんこ盛りで、不適切な代物です。
 現代語で示す概念は三世紀に存在しなかったので、現代語訳は意味がないのです。

*誤訳が呼んだ進路錯覚
 結局、訳者不明の現代語訳の勝手な解釈が、伊藤氏の方針選定を誤らせたと見えます。最終旅程「南に水行十日、陸行一ヵ月で、女王の都である邪馬台国に至る」は、ごく一般的な誤訳です。

 文章明快な現代語訳が読み解けないのは、誤訳の可能性が最も高いのです。 

 氏の漢文は「南至邪馬台国」ですが、現行刊本は「南至邪馬壹國」です。倭人伝に「邪馬台国」がないのは、初学者にも周知の事実です。

 ついでながら後ほど出る「原本(陳寿のオリジナル文)」なる意味不明の語句も困ったものです。陳寿は、三国志を盗用や複写でなくオリジナルな著作物として書いたのです。とは言え、倭人伝「陳寿原本」はとうに消滅していて、それが自然の摂理というものです。

*旅程の終わりの始まり
 できるだけ原文の語順を保てば「南して邪馬壹国に至る。女王が都するところである。水行十日、陸行一月である」と読みくだすことができます。
 ここで、出発点を伊都、不弥、投馬のいずれと解釈しても、仮説であり断定できません。
 また、水行陸行日数計四十日が、どこから倭都への日数と解釈しても、それは、仮説であって断定はできません。

新たな読みの提案 2021/03/30
 因みに、20211年3月現在の解釈では、「南して邪馬壹国に至る。女王のところである。都(すべて)水行十日、陸行一月である」に落ち着いていますが、これは、まだ浸透していない読みなので、提言にとどめます。


                               未完

新・私の本棚 伊藤雅文 邪馬台国は熊本にあった! 1/7 改

 扶桑社新書 219   2016年9月刊     2019/03/17 一部改訂 2021/03/30

 私の見立て ★★★★☆ 力作 ただし空転あり

*はじめに
 最初にお断りしておきますが、当ブログ筆者、以下当方は、伊藤氏の当著作は、論理的で誠実なものと見ています。

 ただし、氏が重用する倭人伝「改ざん論」は、熱意の空転であり、志は尊重しますが、云っていることは無意味(ナンセンス)と考えます。

*誠実な論考
 誠実は、まずは、論者としての誠実さであって、例えば、倭人伝を解くのに、まず、紹凞本(?)のテキストを元にPDF文書、当然、漢字縦書き、を作成し、その労作全体は巻末に収録しつつ、本書全体で、当該文書の一部を取り出して表示した上で論じていることです。

 当方も同様の試みに取り組んだことはありますが、何しろ、当方の主媒体であるブログは、縦書き表示が大変難しいのです。縦書き表示自体は可能ですが、閲覧操作がわかりにくくなるので断念しています。というものの、PDF画面コピーを挟んで議論するのも難しいので足が遠のいているのです。

 この点、伊藤氏に敬服するものです。

*とんだとばっちり
 また、使用図版類の原典、出典を明らかにし、これを自身の責任で編集したことを都度書き添えていることは、当然ながら中々できないことです。
 ここで殊更言い立てるのは、当方の見るところ、古代史分野の他の著者には、現代の国土地理院地図データの個人的利用が許容されているのをよいことに、カシミールなどのアプリでデータを図示したと見られる地図を千年以上前の地図と見せる悪用例が、少なからず出回っているからです。
 一番甚だしいのは、一時、毎日新聞夕刊の「歴史の鍵穴」と称する謎解きコラムであり、毎日新聞社間専門編集委員なる金看板の元に、例えば、奈良県の山中から愛媛県の海岸まで山並と海を越えて、真一文字に直線の見通しが通っているような図を載せて、自説の裏付けとしていたものでした。権威のある肩書きの人物が、堂々と全国紙の紙面を飾っていたので、当ブログでは、毎回地図悪用を見る度に非難したのですが、どうも、ご当人は無視したようで、未だに、いらだちが燻ってるのです。もちろん、これは、当該非専門家がゼロから創始したのではなく、新書歴史本などに源流があるのですが、見るからにインチキ本なので、批判はそれほどでもなかったのです。

 そのような地図データの「悪用」は、国土地理院、カシミールのサイトの利用条件に書かれていない筈の保証外の流用であり、よって「不法」(犯罪)なのです。誰にも、今日の地図データを、一千年前、二千年前に適用できないのも明白です。

 と言うような、ご自身には、何の責任もない悪用論のとばっちりは余計なお世話でしょうが、反面教師を出して賞賛しているので了解いただきたい。

*「倭人伝」復権の時
 別に、氏の責任ではないのですが、「倭人伝」の位置付けを俗信に頼るのは感心しません。
 本書でもあるように、「倭人伝」は、魏志第三十巻の巻物から抜き書きした時代以来、独立史料として扱われていて、宋朝の叡知を反映した紹凞本は「倭人伝」と見出しを立て前段と分離しています。

 ぼちぼち「倭人条」などと格下げするのはやめるべき時が来ているように思います。

                               未完

2021年3月19日 (金)

私の意見 サイト記事批判 「古本三國志について」 再掲 3/3

                 2014/07/07 加筆再掲2021/03/18
〇類書の「信頼性」
 類書の信頼性の低い極端な事例で、「翰苑」写本の信頼性が上げられます。
 翰苑支持者は、翰苑は早期の編纂書であり、現存写本は写本回数が少ないので原本を忠実に継承しているはずであると評価しているようです。随分、史料批判を端折ったもので、倭人伝研究者も見くびられたものです。
 しかし、冷静に現存写本を観察すると、たった一度でも、誤りの多い写本工程を経ると、信頼性が壊滅的に悪化する惨憺たる「好例」とみることができます。個人的には、100点満点で10点以下の信頼性と思われます。

〇未完の論証
 ブログ著者は、丁寧に資料を発掘して「魏志倭人伝の現存刊本記事は、陳寿原本記事と同一とは限らない。その証拠に、傍系資料には別の形式の記事が伝わっている」という、理性的と見えるな主張を進めてきましたが、結局、魏志現存刊本を凌ぐ資料は見られず、論議は「壹臺」誤記論に辿り着かず、未完です。

 確かに、典拠資料を数多く提示する姿勢は貴重ですが、それら資料の信頼性が、まるで評価されていないのに加えて、論理の進め方に動揺が目立つのです。別に、反論にさらされて議論に窮していたとは見えないのに、なぜ、このような無理な(理屈の通らない)運びをしたのか不可解です。

〇不確定論の泥沼
 最後に、以下の捨て台詞が登場して、素人読者に徒労感が漂うのです。

 「いずれにしても、失われた書籍の方が残されたものより遙かに多いのは確かだろう。その「失われた書籍」に思いを致しながら、今日残る「書籍」に触れる構えを持たなければ、現在の文面に「惑わされ」ることになり、真実からは遠ざかるのではないかという危惧の念を持つ。

 これは、まことに情緒的な発言で、ブログ著者の意図の理解に苦しむのです。因みに、倭人伝に見られる「惑」は「感動させる」と肯定的な意味ですが、ここでわざわざ「」書きで何を意図しているのか、ちと怪しいのです。

 と言うものの、この捨て台詞は、「古代資料の原本は残っていないから、現存古代資料は当然誤った内容を含んでいる、だから現存する古代資料を信用してはならない」との趣旨と思われます。

 そこで「現存資料が原本と同一との確証がないから信用できない」と誇張されては、議論が不確定論の泥沼にのまれてしまいます。瑕瑾で前議論を否定するのは本末転倒であり、そのような暴論は忌避されるべきです。

 ここまでいろいろな資料を提示しておいて、最後に、そんな資料は全部幻だといわれては、懸命に議論を追いかけてきた読者はたまらないのです。
 当時も今も、「壹臺」誤記論を支持する読者が決して多くないのは、こうした「情緒論」を基調に無理な論議を進めているからのように思えます。

〇筋の通った議論
 少し考えればわかるように、千年を超える古代資料を論ずるのに、現にそこにある史料の文字を、より信頼性の乏しい傍系資料に基づく憶測の文字に書き換える議論は素人目にも筋の通らない勝ち目のない議論です。

 筋の通った見方は、「魏志」と「後漢書」を横並びで資料批判した上で、魏志「邪馬壹国」より後漢書「邪馬臺国」に高い信頼性を見出そうとする論議です。後漢書以降の正史編纂者も類書編纂者も、その議論を経て「邪馬壹国」でなく「邪馬臺国」を採用したのでしょう。それが科学的な論法と思います。

 ブログ著者が、いみじくも述懐しているように、「失われた書籍」に関して白熱の議論を展開するのは、この辺で終わりにしたいものです。

                                以上

私の意見 サイト記事批判 「古本三國志について」 再掲 2/3

                 2014/07/07 加筆再掲2021/03/18
〇現存刊本
 今書いた 現存刊本が、良質写本から順当に継承されたという評価は、直接的には、考証家に従うとして、間接的には、現存刊本が、各種刊本、写本から、最善史料と選択された事実が裏書きしているものです。

 これに対しては、異論もあるでしょうが、いずれにしろ、この議論と最前上げた「壹臺」誤記論との間には、論理的な繋がりがありません。そして、「壹臺」誤記論の対象は、実は、倭人伝二千文字中の一文字に過ぎません。

 それにしても、魏志現存刊本(紹熙本)の素性が怪しくて誤字が多くても、世上騒いでいるように、『魏志の「邪馬壹国」は、疑いもなく「邪馬臺国」の誤写である』という特殊な主張を裏付けるものではありません。

 なお、傍系資料である「後漢書」および類書類の現存刊本では、「耶馬臺国」に類する文字遣いで記事が書かれていることは衆知です。

〇資料の信頼性
 素人目にも不思議なのが、魏志陳寿原本から現存刊本までの写本工程で誤写があって当然(可能性百㌫)と扱われるのに対して、「後漢書」および類書類の現存刊本の誤写について同等の批判がされていないことです。

 写本の信頼性には、それこそ天地の差があるのですが、右から左にそのまま写し取る写本であれば、写本工自身も正誤をその場で確認できるし、官製写本で取り組むのであれば、検査/監査役を二重に設けて、重ね重ね確認(ダブルチェック)して万全の注意を払えば、ほぼ完全に誤写検出できます。

 賞罰の極致として官製写本の重大な誤写の見逃しは、監査役などに族滅の極刑の(親子兄弟の首が飛ぶ)可能性もあり信頼性は極めて高いと推定されます。

 個人的には、官製写本は、長年の写本累積や戦乱などによる障害も含めて、100点満点で70点程度の信頼性と思っています。

 これに対して、類書類は、最初に正史から抜き書きする段階で使用する写本の信頼度が不明である上に、抜き書き以後は、類者編纂者の手で気楽に修正される可能性もあり、正史写本ほどの信頼を置けないと考えます。

 先に挙げたような信頼性を高める手段は、高度な人材と資材をふんだんに投入し、延々と時間をかけるものであり、正史等の官製写本以外の写本や抜き書きでは、再現できないものです。

 また、正史写本の世代継承に対して、二次写本いか、どの程度信頼性が低下するかは、天地の差がありますが、世に出た二次写本の以降の継承では、誤りは、累積、拡散していきます。正史の二次写本以降が度重なったかどうかは不詳ですが、本質的に官製写本に劣るものと見るのです。

 個人的には、二次写本、ないしは、抜き書きは、100点満点で30点程度ないしはそれ以下の信頼性と思っています。下には下があるのですが、零点以下は付けられないのです。

 類書など、情報源が同じ資料は、何点集まっても、群としての信頼性はさほど高まりません。親亀がこけたら、皆揃ってこけるからです。

〇史料批判の基礎
 科学者というより技術者見識でしょうが、資料の「信頼度」は、その情報継承過程の信頼性を、冷静に多次元の数値で評価して、綿密に比較しなければ論理的な態度とは言えません。「情緒」で割り切れるものではないのであり、「知性」が必要なのです。

                                未完

私の意見 ブログ記事批判 「古本三國志について」 再掲 1/3

                  2014/07/07 加筆再掲2021/03/18

〇「「壹臺」誤記論の不毛」加筆再掲の弁
 当記事については、原著者らしい方から、コメントがあったものの、史料批判の視点の勘違いに始まって、当記事の主旨が理解できないとの決めつけもあって、その辺りを理解いただけるまでは拙速で回答しても無益と思ったので、しばし返信を控えたのが、筆無精の事態となったようです。というものの、初出以来の六年に関連記事で繰り返し説明しているので、コメント回答を控えたものであり、決して無視したわけではありません。

 今回当記事を読み返すと、時間をたっぷりかけて推敲し諄諄と理屈を説いていて、これで理解できなければ、読者に、論考を時間をかけて読み解く素地がないと見え、まことに遺憾ながら、無縁の衆生と言いたくなります。

 つまり、倭人伝に関する議論は、まず、「基準試料」を決めて、それに対する批判を随時論証するのが常道であって、以下に指摘したように、後漢書倭伝を筆頭とする信頼度の低い後世史料の山盛りで、「基準試料」の個別の記事の当否を論ずるべきでは無いというものです。はなから、話の筋が曲がっているので取り合わないのであり、下記ブログ記事に至るまで、十何年もかけてこね上げたと見える混み合った議論に、後から入り込む気はないのです。

 喧嘩をふっかけて場を騒がせるつもりでなければ、例えば、後漢書は范曄原文かどうか、笵曄が「倭伝」を創作した原資料は何か、等々、慎重な史料批判が先立つものと思うのですが、何れかでご教授いただけるのでしょうか。

 何しろ、史料として全く信用できない「翰苑」所引の「魏略」佚文をもって倭人伝を訂正する議論が無批判で横行するから、即答できないのです。

 倭人伝記事の校勘について勉強したらどうかと言われても、ここに書いている議論は覆らないものです。要は、無縁の衆生です。
 「論より」現に存在している「邪馬壹国」の文字が「邪馬臺国」から改竄されたものという「証拠」は見当たらないと見ています。
 以上、最近閲覧件数が出ているので、念押ししておきます。 

〇原記事再掲
 今回の論評対象は、下記記事です。当初掲載Linkは廃番であり、下記は、「魏志倭人伝への旅」と題されたブログの過去記事再録であり、批判するときはLink掲載するようにとの要望であるので、論評の内容参照先としてここに示します。
 「「古本三國志」について」 (Author:hyenanopapa)

 さて、「翰苑」現存写本の書評に続いて個人ブログ記事を論評することになりました。もちろん、個人攻撃目的ではなく、「議論の進め方」についての素人考えなので、論旨を冷静に読み取っていただければ幸いです。

 初出以来10年を経た記事で、以下の論評は、時代遅れかも知れませんが、「壹臺」誤記論が解消したと聞いていないので、私見を書き残すものです。

 察するところ、ブログ著者の真意は、魏志倭人伝現存刊本に記載されている「壹」の字が「臺」の字の誤記であるとの主張の論証(「壹臺」誤記論) なのでしょうが、一向に、論証の画が描けていないのです。

 根回しとして、現存刊本の素性について年代物の仮説を述べていますが、現存刊本が、良質な写本から順当に継承されたという評価に対して、有効な反論が示されていないのです。ひび割れた骨董品のような俗説は、「レジェンド」、過去の遺物として用済みにされたらどうかと思うのです。

〇「本」の継承と言うこと
 私見ですが、魏志の「陳寿原本」は、裴松之の付注という、偉大な「蛇足」を外した、本来の「魏志」を言うものと思うのです。それは、現存魏志刊本から裴注を除けば、かなりの精度で「復元」できるのです。もちろん、陳寿自身や写本工、そして、皇帝に至る各初期読者の「読んだ」魏志とは、完全に同一ではないとしても、皇帝以下の読者にとって、「原本」に近いものと見てとるものと思われます。
 言うまでもないのですが、ここで言う「本」は中国語ですから、物理的な「書」でなく、その内容を言うのです。
 たとえば、「紹熙本」というのは、南宋の関係者が、紹熙年間に完成した「魏志」を言うのであって、物理的な印刷物「魏書」を言うのではないのです。
 

                                未完

2021年3月17日 (水)

私の意見「謝承後漢書の行方」サイト記事批判 再掲

                    2016/03/22  2020/02/15 追記 2020/06/24
                            再確認 2021/03/17 LINK改訂 2021/12/22

 本記事は、神功皇后紀を読む会 2008.8.26 | 倭歌が解き明かす古代史(旧「神功皇后紀を読む会」通信 主宰・福永晋三)の(かなり古い)ブログ記事に対する批判である。ブログは、sfuku52とあるだけで署名は見て取れないが、福永晋三氏の書いたものであろうと言う認識である。単に、良くある軽率な判断の提示された記事を点検したものである。

 今回の追記は、時として、本記事を参照する訪問者が多いことから、定期でもないが点検・補強したのである。さらに、氏のサイト移動に対応して、訂正を加えた。対応が遅れて、ご不自由をかけたのであれば、お詫びする。

 また、今回気づいたのであるが、以後、氏は、邪馬壹國こそなかったに於いて、本記事及び先行する陳寿の見た後漢書を収録されているので、当方も、対応しなければならないのだが、氏の論議には変わりは無いと見えるので、当記事は、このまま維持することにした。

□前置き
 ネットを散策していると、いろいろな意見に出会うもので、人も知る貴重文献「翰苑」でしばしば引用されている「後漢書」は、笵曄編纂の「後漢書」ではなく、謝承の『後漢書』であったと主張しているのである。いや、思いつきの意見/放言に口を挟むのは何だが、これを、建設的な仮説と誤解する向きがあるので、一本、釘を刺すのである。

 謝承後漢書の行方   注)Yahoo!ブログが終了したため、当初掲載していたリンクを改訂した。
 当記事では、『翰苑』の証明と題して、概ね下記の論考が、高々と掲げられている。
 (翰苑編者の)雍公叡は「謝承の『後漢書』」を『後漢書』として引用し、范曄の言わば『新・後漢書』を『范曄後漢書』の名で、区別して引用していることが明らかになってきた。

 これは、単なる意見、作業仮説の提言と見えず、堂々と、新発見を旗揚げしているが、根拠がない意見は、確たる根拠がないことを自覚した上で、その旨明記すべきと思う。

*検証の海
 当方は、一介の素人読者であるので、深読みはできず、表面的な読解で恐縮だが、「翰苑」の書法から見て、こうした決めつけは、不適当だと考えるのである。と言うことで、第三者が追試可能な、明確な根拠のある「否定」の論証を試みる。

 竹内理三氏の労作書籍「翰苑」に収録された全文影印は、写本工の不手際と事後校正の不備/欠如を露呈していて、文献批判上、大変参考になるが、何分、「翰苑」 は奔放な書法で書かれていて、文字検索には全く不向きなので、いつもお世話になる「中國哲學書電子化計劃」で、「翰苑」の全文テキスト検索を行った。以下、()内の件数は、同サイトのデータを利用させて頂いた。

 謹んで、中國哲學書電子化計劃サイト関係者の多大な貢献に感謝する。

*「笵曄後漢書」と「後漢書」
 たしかに、翰苑写本の蕃夷部には范曄「後漢書」(7件)と「後漢書」(91件)の二種の書名が書かれている。

 班固漢書」(55件)、司馬遷「史記」(4件)、陳壽「魏志」(14件)の正史については、いちいち編纂者を示していない。「翰苑」編纂時の編者の視点では、これら「三史」が、後世「正史」と呼ばれた公式資料となる格別の史書として認知されているから、書名だけで自明だと言うことであろう。

 因みに、ここで言う「三史」は、あくまで、范曄「後漢書」が公認される唐代中期までの評判であり、その後は、「史記」、「漢書」、「後漢書」が「三史」となり、「三国志」は、表彰台から下りたのである。念のため。

*魚豢「魏略」と「魏略」
 例えば、「魏略」について確認すると、魚豢「魏略」と「魏略」(計29件)の二種が見られる。だからといって、二種の「魏略」があったわけではない。引用資料の出典を厳密に明記するには、毎回魚豢「魏略」と書けばいいのだが、わかりきった事項を繰り返し書くのは煩雑だし、字数分の紙面を消費するので、一々律儀に書かなくてもいいと言うことで、普段は省略形の「魏略」で済ませている箇所が多いのである。高級写本とするには、全件を魚豢「魏略」に復元するだけであり、そこには、高度な技巧も学識も要らないのである。

*後漢書検証
 してみると、多くの箇所(98件中 91件)で、単に「後漢書」と書いているのは、既に定評の確立した笵曄「後漢書」の省略形と見るのが、一番自然な、無理のない理解、いわば、極めて妥当な「定説」ではないか。
 大局的着眼を着実な実証で確保していて、定説とは、かくあるべきと言うお手本としたいものである。

 唐宋代当時、既に范曄「後漢書」の文章の質の高さは評判になっていて、その華麗な文体は教養人の手本になっていたから、後世に正史、つまり、歴史文化遺産とすべき「後漢書」に選ばれたものと思われるのである。

 福永氏に代わって、当方の「否定」に対して反論したくても、「翰苑」写本断簡の蕃夷部を検索しても、謝承「後漢書」どころか「謝承」もヒットしない。要は、明示も示唆も無い、何もないのである。氏は、何らかの幻想に囚われて、かくの如き駄文を物したとしか思えない。

 なお、本断簡における「写本工」の仕事が、職業人として信じがたいほどいい加減でも、引用出典として、原本に「謝承後漢書」と書かれているのを「後漢書」と書くような類いの誤写は、見る限り一切していないのである。本写本は、つまらない書き損ないを放置していて、書きかけで気づいたら、そのまま書き続けているのが見て取れる程である。しかし、勝手な書き端折りはしていないのである。

 当ブログ筆者は、かねてから、現存する翰苑「写本」が、「史料として色々不具合が多いものである」ことを言い立てているが、信頼できないのは、写本の行程そのものとその後に付いてくる校正の精度であって、翰苑の原著記事の信頼度は、史料からの引用の精度に疑問はあっても、それなりに高いもの(であった)と推定している。(賞賛しているのである)

 ただし、写本の出来が出来であるから、誤字脱字の山を正確に是正するのは、難易度が高いし、加えて、晩唐から五代十国、北宋初期の間に高度な進化を極めた四六駢儷体の「美文」を正確に解釈するのは、当時の「文化人」以外には、むつかしい。平たく言うと、「不可能」と思う。

*翰苑の正当評価
 それにしても、「翰苑」編纂の意図が史書抜粋の厳密さを追究したものでなく、また、「翰苑」編纂者の与り知らぬこととは言え、十分な文書校正されず、少なからぬ(平たく言うと、厖大な)誤字、誤記が残されている、どう見ても杜撰な写本の断片が一本だけ残存しているので、その真意を読み取ることは、大変困難である。平たく言うと、「不可能」である。
 
念を押すが、ここでは、当史料の文字テキストの信頼性を問題にしているのであり、「翰苑」断簡の文化財/国宝としての価値、つまり、書の芸術としての価値には、一切文句を付けていないのである。(当ブログ筆者には、批判できる見識が備わっていないので論評しないのである)

 正史は、帝国の一級文化財として、ちゃちな経済性を度外視して、正確さを最善に保持すべく写本継承され、実際、ほぼ健全に継承されたと思われる正史「三国志」記事を、憶測と風聞に基づく「論考」でもって覆すというのは、学問に取り組む者の姿勢として、どういうものだろうか。(平たく言うと、根本的に間違っている)


以上

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2021年3月14日 (日)

魏志天問 1 東治之山~見落とされた史蹟の由来 再掲 4/4

                         2013/12/22  再掲 2021/03/12
*三国志における「漢官儀」
 陳壽は、広く諸資料を参照して、吟味の上で自己の著作に取り入れる正統派の執筆姿勢であり、漢朝儀礼の典範である漢官儀は、史官としての座右の書としていたと考えます。
 
 よって、陳壽が「会稽東治」と書いたときは、会稽郡東冶県のことは考えもせず、会稽東治之山を想起していたと思われます。皇帝を含めた同時代読者も、当然、漢官儀を知っていたと思われます。

 時折触れるように、陳壽の執筆時点から笵曄の執筆時点である南朝劉宋に到る間には、西晋末の大動乱で、洛陽の西晋朝書庫は散逸し、漢官儀も劉宋に継承されていなかった可能性があります。

 会稽山近郊に生まれた笵曄には、禹の事績はなじみ深かったはずで、漢官儀を知ってさえいれば、「会稽東治」に深い感慨を持ったのでしょうが、実際は、劉宋高官の土地勘から「東冶」県と読んでしまったのでしょう。

 それだけで止まっていれば三国志の継承記事にとどまり、笵曄の不見識は知られずに済んでいたのに、ついつい才気が走って、後漢書倭人記事の最後に「会稽東冶県」と書いて、早合点の証拠を残しています。

 以上は、当方の勝手な推定であって、「漢官儀」には、元々「東冶之山」と書いてあったのかも知れませんが、それは当記事の論議に関係のない些事です。

 とにかく、素人が気づくような史料考察に対して、寡聞ながら、当否を論じた意見を見たことがないので、ここに掲示するものです。
以上

*「漢官儀」 成都本
Ou_kankangi_kaikei2
追記 2021/03/12
 ついでに言うと、素人考えでは、禹の「東治」は、治世の終わりに近づいた大禹が、四方で「会稽」した中で、順当に終わった(と思われる)「西治」、「北治」、「南治」に当たる三方は継承されず、直後に大禹が崩御したことから、東方、つまり、「東治」が継承されたと見えるのです。特に、難点は無いと思うので、一言述べたものです。

                                            以上

魏志天問 1 東治之山~見落とされた史蹟の由来 再掲 3/4

                         2013/12/22  再掲 2021/03/12                          
〇「水経注」所引 應劭「漢官儀」
 因みに、應劭「漢官儀」の当該部分は、太平御覧以外に、水經注にも引用されていて、史料の裏付けとなっています。

*水経注 四庫全書版
Suikeichu_kaikei

 各資料の成立時期等を確認すると、
  •  漢官儀  後漢建安元年(196年)成立と伝えられています。
  •  水經注  酈道元撰 北魏代の地理書です。延昌4年(515年)頃成立と伝えられています。
  •  太平御覧 李昉等による奉勅撰、北宋太平興国8年(983年)頃成立と伝えられています。
 ここで、太平御覧と水經注は、清朝勅撰の四庫全書に収録されているので、確実な資料と確認できますが、漢官儀は、散逸による記事の不安定さも影響してか、四庫全書には収録漏れです。

 漢官儀には、太平御覧と水經注とに引用されていることが注記されていますが、当然、これは後世の書き込みです。おそらく、散逸した漢官儀の復元の際に、太平御覧と水經注が利用されたものと推定されます。この点は、「東冶之山」の信頼度評価にも影響します。何事も、簡単に結論を出さずに、色々考え合わせる必要があるということです。

〇成都異稿本「漢官儀」
 別資料として、早稲田大学図書館の古典籍データベースに収録されていて、大事な異稿です。

 出版書写事項:民国2[1913] 存古書局, 成都
 叢書の校集:孫星衍(1753-1813)  覆校:劉沢溥
 尊経蔵本  唐装 仮に「成都本」と呼ぶことにします。
 驚いたことに、成都本では「或以號令,禹合諸侯大計東治之山會稽是也。」です。

 資料継承の跡をたどってみると、水經注(北魏)、太平御覧(北宋)と、別時点で漢官儀を引用した資料が、揃って「東冶之山」としているので、多数決原理に従うなら、清朝時代の漢官儀復元編纂時のもと資料も、そのように書いていた可能性が高いのです。と言うことは、成都本の校訂段階で、「東治之山」と校勘、訂正した可能性が高いということになります。
 史料考証は、多数決でなく、論理的な判断によるものだという教えのようです。

 訂正の理由は推定するしかないのですが、「東冶之山」では主旨不明であり、「東治之山」なら禹が東方統治した山、との妥当な意味が読み取れるので、合理的な判断からの校訂かとも思われます。

 当然、成都本の撰者も、歴史上の一時期に会稽郡東冶県が存在したことは知っていたと思われますが、「東冶県」の由来は、後漢成立時に、単に二字地名とするために「東冶」としたという説があり、秦の宰相李斯が、各郡を命名した際に存在しなかった地名ですから、無関係とみるべきです。

 現代は、校正不在のゴミ情報が、とにかく多数飛び回っているので、「治」、「冶」の混同例は、まま見られますが、本来、二つの文字は、意味が大きく異なるので、権威ある資料では、まず、混同されることはないのです。

 陳壽「三國志」の書かれたのは、まさしく、後漢最後の皇帝に「漢官儀」が献上されて関係者に流布した直後であり、また、許で再構築された後漢朝書庫は、順調に魏朝、西晋朝に継承されたと思われます。

                           未完

魏志天問 1 東治之山~見落とされた史蹟の由来 再掲 2/4

                         2013/12/22  再掲 2021/03/12
〇應劭「漢官儀」[承前]
 應劭「漢官儀」は、後漢最後の皇帝劉協(献帝)が、帝都洛陽から強引に拉致された長安から東還し、曹操の保護下に許に宮廷を再現しようとしたとき、王朝を構成する高官の官位と位置付け、宮廷儀礼の内容などを示す資料が、散逸していたため、代々高官で儀礼に通じていた應劭が、関連資料を渉猟して集約し、上申したものと言うことです。

 後漢末期、(三国志演義の超悪役で)有名な董卓の暴政で、帝都洛陽は破壊されて、皇帝以下の洛陽住民が、前漢末、新朝の廃絶後の後漢朝洛陽遷都により、廃都として200年近く残骸放置されて荒れ野原となっていた長安への移動を強制されたことから、後漢朝宮廷の書庫は大半が放置、廃棄され、宮廷要員の多くは、強制移動を免れても、追放か、逃散かしていたものです。

 應劭が献帝に漢官儀を献呈した時は、全10巻構成であったようですが、戦乱などの影響で散逸し、あるいは、短縮版が横行して混乱していたものを、後世になって再構成したものが、「漢官六種」などに収録されています。

 史料の信頼性を確認するために、苦労して引用元を探しましたが、應劭「漢官儀」の影印版(PDF)は、中國哲學書電子化計劃から辿って、「漢官六種」PDFテキストに辿り着くことができます。

*應劭「漢官儀」
Ou_kankangi_kaikei

 ここで確認した應劭「漢官儀」は、上下二巻が収録されていて、中国語素人の目では当該記事の場所を探すのに大変苦労しましたが、上巻に記載されています。なお、記載内容は、太平御覧に引用の通りです。

                                                    未完

魏志天問 1 東治之山~見落とされた史蹟の由来 再掲 1/4

                         2013/12/22  再掲 2021/03/12 2021/12/19
〇再掲載の弁
 今般、NHK BSPの「邪馬台国サミット 2021」([BSプレミアム] 2021年1月1日(金) 午後7~9時 NHKオンデマンドで公開中)なる特番で、世上、三国志の最高権威とみられている渡邉義浩氏が、倭人伝中華書局本という出典を隠したままで、倭人伝の「会稽東治」が正しくは「会稽東冶」であったという一種の「フェイクニュース」を高言していて、番組上で反論がなかったので、ここに、素人の調べた意見を再掲するものです。ひょっとすると、使い回しされそうなので、一連の記事を再公開します。

〇原記事
 下の記事は、魏志倭人傳に関する「素人考え」の疑問に「素人考え」の解を並べていくものです。伝聞、風評を極力減らすために、色々史料探索していますが、素人の悲しさで、調べや思いが行き届いていない点があれば、ご容赦ください。

 天問1は、
 「会稽東治」は、陳壽が参照した資料に、禹の事績の場として「東治之山」と書かれていたのが根拠であり、会稽山の位置を示したものであって、会稽郡東冶県の位置を示したものではない、のではないか、
 と言うものです。

 中國哲學書電子化計劃(中国哲学書電子化計画)では、大変ありがたいことに、太平御覧の全文をテキスト検索ができます。いや、全収録史料の全文テキスト検索ができます。(<画像収録は目下進行中であり、この部分は未収録のようです)
 とある一日、太平御覧で「東冶」を検索すると、興味深い文例が提示されました。
〇「太平御覧」 州郡部三 6 敘郡: 
應劭《漢官儀》曰: 秦用李斯議,分天下為三十六郡。凡郡:
 或以列國,陳、魯、齊、吳是也。
 或以舊邑,長沙、丹陽是也。
 或以山,太山、山陽是也。
 或以川源,西河、河東是也。
 或以所出,金城城下有金,酒泉泉味如酒,豫章章樹生庭中,雁門雁之所育是也。
 或以號令,禹合諸侯大計東冶之山會稽是也。
 京兆,絕高曰京。京,大也;十億曰兆,欲令帝京殷盈也。
 左輔右弼,蕃翊承風也。張掖,始開垂,張臂掖也。

 この部分は、中国の広域行政区画である「州」「郡」に関連する記事を連ねています。
 ここに提出されたのは、應劭「漢官儀」から太平御覧への引用で、「郡名」の起源、由来の記事を再録しています。
 その後段に、大要 下記の意味が書かれています。(中国語は専門ではないので、誤解があればご容赦ください)

 (郡名には)号令に由来するものがある。(会稽郡は)禹が諸侯を合わせて大計した「東冶之山」から会稽と命名された。
 禹が諸侯を集めた山は、それ以前の名前を書いていない場合が多く、せいぜい「苗山」,「茅山」,「防山」などと称していますが、ここでは、たぶん固有名詞でなく「東冶之山」と書かれています。
 一瞬、会稽東冶の裏付け史料かと錯覚しそうです。速断せずに、ご注意下さい。本項後出の論議で、「東冶之山」は「東治之山」の誤解と断じています。「東冶」は漢代新作の地名なので、秦始皇帝宰相李斯が提言することはないのです。

 「漢官儀」編者應劭は、後漢高官で、三國志武帝記(曹操傳)にも登場する著名人であり、後漢書には列伝を建てられています。

*「帝京」談義 2021/12/19
 ついでながら、漢代は、皇帝居処「長安」を、「京兆」と命名したことから、「帝京」の呼称の発祥が見えます。さらについでながら、当時の大数は、十 百 千 萬の後も、十進で連なっていて、十萬を[億]と言い、十億を[兆]、十兆を「京]と言ったことが示されています。当時の[京]は、千万だったのです。 
                                    未完

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