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2021年3月

2021年3月19日 (金)

私の意見 サイト記事批判 「古本三國志について」 再掲 3/3

                 2014/07/07 加筆再掲2021/03/18
〇類書の「信頼性」
 類書の信頼性の低い極端な事例で、「翰苑」写本の信頼性が上げられます。
 翰苑支持者は、翰苑は早期の編纂書であり、現存写本は写本回数が少ないので原本を忠実に継承しているはずであると評価しているようです。随分、史料批判を端折ったもので、倭人伝研究者も見くびられたものです。
 しかし、冷静に現存写本を観察すると、たった一度でも、誤りの多い写本工程を経ると、信頼性が壊滅的に悪化する惨憺たる「好例」とみることができます。個人的には、100点満点で10点以下の信頼性と思われます。

〇未完の論証
 ブログ著者は、丁寧に資料を発掘して「魏志倭人伝の現存刊本記事は、陳寿原本記事と同一とは限らない。その証拠に、傍系資料には別の形式の記事が伝わっている」という、理性的と見えるな主張を進めてきましたが、結局、魏志現存刊本を凌ぐ資料は見られず、論議は「壹臺」誤記論に辿り着かず、未完です。

 確かに、典拠資料を数多く提示する姿勢は貴重ですが、それら資料の信頼性が、まるで評価されていないのに加えて、論理の進め方に動揺が目立つのです。別に、反論にさらされて議論に窮していたとは見えないのに、なぜ、このような無理な(理屈の通らない)運びをしたのか不可解です。

〇不確定論の泥沼
 最後に、以下の捨て台詞が登場して、素人読者に徒労感が漂うのです。

 「いずれにしても、失われた書籍の方が残されたものより遙かに多いのは確かだろう。その「失われた書籍」に思いを致しながら、今日残る「書籍」に触れる構えを持たなければ、現在の文面に「惑わされ」ることになり、真実からは遠ざかるのではないかという危惧の念を持つ。

 これは、まことに情緒的な発言で、ブログ著者の意図の理解に苦しむのです。因みに、倭人伝に見られる「惑」は「感動させる」と肯定的な意味ですが、ここでわざわざ「」書きで何を意図しているのか、ちと怪しいのです。

 と言うものの、この捨て台詞は、「古代資料の原本は残っていないから、現存古代資料は当然誤った内容を含んでいる、だから現存する古代資料を信用してはならない」との趣旨と思われます。

 そこで「現存資料が原本と同一との確証がないから信用できない」と誇張されては、議論が不確定論の泥沼にのまれてしまいます。瑕瑾で前議論を否定するのは本末転倒であり、そのような暴論は忌避されるべきです。

 ここまでいろいろな資料を提示しておいて、最後に、そんな資料は全部幻だといわれては、懸命に議論を追いかけてきた読者はたまらないのです。
 当時も今も、「壹臺」誤記論を支持する読者が決して多くないのは、こうした「情緒論」を基調に無理な論議を進めているからのように思えます。

〇筋の通った議論
 少し考えればわかるように、千年を超える古代資料を論ずるのに、現にそこにある史料の文字を、より信頼性の乏しい傍系資料に基づく憶測の文字に書き換える議論は素人目にも筋の通らない勝ち目のない議論です。

 筋の通った見方は、「魏志」と「後漢書」を横並びで資料批判した上で、魏志「邪馬壹国」より後漢書「邪馬臺国」に高い信頼性を見出そうとする論議です。後漢書以降の正史編纂者も類書編纂者も、その議論を経て「邪馬壹国」でなく「邪馬臺国」を採用したのでしょう。それが科学的な論法と思います。

 ブログ著者が、いみじくも述懐しているように、「失われた書籍」に関して白熱の議論を展開するのは、この辺で終わりにしたいものです。

                                以上

私の意見 サイト記事批判 「古本三國志について」 再掲 2/3

                 2014/07/07 加筆再掲2021/03/18
〇現存刊本
 今書いた 現存刊本が、良質写本から順当に継承されたという評価は、直接的には、考証家に従うとして、間接的には、現存刊本が、各種刊本、写本から、最善史料と選択された事実が裏書きしているものです。

 これに対しては、異論もあるでしょうが、いずれにしろ、この議論と最前上げた「壹臺」誤記論との間には、論理的な繋がりがありません。そして、「壹臺」誤記論の対象は、実は、倭人伝二千文字中の一文字に過ぎません。

 それにしても、魏志現存刊本(紹熙本)の素性が怪しくて誤字が多くても、世上騒いでいるように、『魏志の「邪馬壹国」は、疑いもなく「邪馬臺国」の誤写である』という特殊な主張を裏付けるものではありません。

 なお、傍系資料である「後漢書」および類書類の現存刊本では、「耶馬臺国」に類する文字遣いで記事が書かれていることは衆知です。

〇資料の信頼性
 素人目にも不思議なのが、魏志陳寿原本から現存刊本までの写本工程で誤写があって当然(可能性百㌫)と扱われるのに対して、「後漢書」および類書類の現存刊本の誤写について同等の批判がされていないことです。

 写本の信頼性には、それこそ天地の差があるのですが、右から左にそのまま写し取る写本であれば、写本工自身も正誤をその場で確認できるし、官製写本で取り組むのであれば、検査/監査役を二重に設けて、重ね重ね確認(ダブルチェック)して万全の注意を払えば、ほぼ完全に誤写検出できます。

 賞罰の極致として官製写本の重大な誤写の見逃しは、監査役などに族滅の極刑の(親子兄弟の首が飛ぶ)可能性もあり信頼性は極めて高いと推定されます。

 個人的には、官製写本は、長年の写本累積や戦乱などによる障害も含めて、100点満点で70点程度の信頼性と思っています。

 これに対して、類書類は、最初に正史から抜き書きする段階で使用する写本の信頼度が不明である上に、抜き書き以後は、類者編纂者の手で気楽に修正される可能性もあり、正史写本ほどの信頼を置けないと考えます。

 先に挙げたような信頼性を高める手段は、高度な人材と資材をふんだんに投入し、延々と時間をかけるものであり、正史等の官製写本以外の写本や抜き書きでは、再現できないものです。

 また、正史写本の世代継承に対して、二次写本いか、どの程度信頼性が低下するかは、天地の差がありますが、世に出た二次写本の以降の継承では、誤りは、累積、拡散していきます。正史の二次写本以降が度重なったかどうかは不詳ですが、本質的に官製写本に劣るものと見るのです。

 個人的には、二次写本、ないしは、抜き書きは、100点満点で30点程度ないしはそれ以下の信頼性と思っています。下には下があるのですが、零点以下は付けられないのです。

 類書など、情報源が同じ資料は、何点集まっても、群としての信頼性はさほど高まりません。親亀がこけたら、皆揃ってこけるからです。

〇史料批判の基礎
 科学者というより技術者見識でしょうが、資料の「信頼度」は、その情報継承過程の信頼性を、冷静に多次元の数値で評価して、綿密に比較しなければ論理的な態度とは言えません。「情緒」で割り切れるものではないのであり、「知性」が必要なのです。

                                未完

私の意見 ブログ記事批判 「古本三國志について」 再掲 1/3

                  2014/07/07 加筆再掲2021/03/18

〇「「壹臺」誤記論の不毛」加筆再掲の弁
 当記事については、原著者らしい方から、コメントがあったものの、史料批判の視点の勘違いに始まって、当記事の主旨が理解できないとの決めつけもあって、その辺りを理解いただけるまでは拙速で回答しても無益と思ったので、しばし返信を控えたのが、筆無精の事態となったようです。というものの、初出以来の六年に関連記事で繰り返し説明しているので、コメント回答を控えたものであり、決して無視したわけではありません。

 今回当記事を読み返すと、時間をたっぷりかけて推敲し諄諄と理屈を説いていて、これで理解できなければ、読者に、論考を時間をかけて読み解く素地がないと見え、まことに遺憾ながら、無縁の衆生と言いたくなります。

 つまり、倭人伝に関する議論は、まず、「基準試料」を決めて、それに対する批判を随時論証するのが常道であって、以下に指摘したように、後漢書倭伝を筆頭とする信頼度の低い後世史料の山盛りで、「基準試料」の個別の記事の当否を論ずるべきでは無いというものです。はなから、話の筋が曲がっているので取り合わないのであり、下記ブログ記事に至るまで、十何年もかけてこね上げたと見える混み合った議論に、後から入り込む気はないのです。

 喧嘩をふっかけて場を騒がせるつもりでなければ、例えば、後漢書は范曄原文かどうか、笵曄が「倭伝」を創作した原資料は何か、等々、慎重な史料批判が先立つものと思うのですが、何れかでご教授いただけるのでしょうか。

 何しろ、史料として全く信用できない「翰苑」所引の「魏略」佚文をもって倭人伝を訂正する議論が無批判で横行するから、即答できないのです。

 倭人伝記事の校勘について勉強したらどうかと言われても、ここに書いている議論は覆らないものです。要は、無縁の衆生です。
 「論より」現に存在している「邪馬壹国」の文字が「邪馬臺国」から改竄されたものという「証拠」は見当たらないと見ています。
 以上、最近閲覧件数が出ているので、念押ししておきます。 

〇原記事再掲
 今回の論評対象は、下記記事です。当初掲載Linkは廃番であり、下記は、「魏志倭人伝への旅」と題されたブログの過去記事再録であり、批判するときはLink掲載するようにとの要望であるので、論評の内容参照先としてここに示します。
 「「古本三國志」について」 (Author:hyenanopapa)

 さて、「翰苑」現存写本の書評に続いて個人ブログ記事を論評することになりました。もちろん、個人攻撃目的ではなく、「議論の進め方」についての素人考えなので、論旨を冷静に読み取っていただければ幸いです。

 初出以来10年を経た記事で、以下の論評は、時代遅れかも知れませんが、「壹臺」誤記論が解消したと聞いていないので、私見を書き残すものです。

 察するところ、ブログ著者の真意は、魏志倭人伝現存刊本に記載されている「壹」の字が「臺」の字の誤記であるとの主張の論証(「壹臺」誤記論) なのでしょうが、一向に、論証の画が描けていないのです。

 根回しとして、現存刊本の素性について年代物の仮説を述べていますが、現存刊本が、良質な写本から順当に継承されたという評価に対して、有効な反論が示されていないのです。ひび割れた骨董品のような俗説は、「レジェンド」、過去の遺物として用済みにされたらどうかと思うのです。

〇「本」の継承と言うこと
 私見ですが、魏志の「陳寿原本」は、裴松之の付注という、偉大な「蛇足」を外した、本来の「魏志」を言うものと思うのです。それは、現存魏志刊本から裴注を除けば、かなりの精度で「復元」できるのです。もちろん、陳寿自身や写本工、そして、皇帝に至る各初期読者の「読んだ」魏志とは、完全に同一ではないとしても、皇帝以下の読者にとって、「原本」に近いものと見てとるものと思われます。
 言うまでもないのですが、ここで言う「本」は中国語ですから、物理的な「書」でなく、その内容を言うのです。
 たとえば、「紹熙本」というのは、南宋の関係者が、紹熙年間に完成した「魏志」を言うのであって、物理的な印刷物「魏書」を言うのではないのです。
 

                                未完

2021年3月17日 (水)

私の意見「謝承後漢書の行方」サイト記事批判 再掲

                    2016/03/22  2020/02/15 追記 2020/06/24
                            再確認 2021/03/17 LINK改訂 2021/12/22

 本記事は、神功皇后紀を読む会 2008.8.26 | 倭歌が解き明かす古代史(旧「神功皇后紀を読む会」通信 主宰・福永晋三)の(かなり古い)ブログ記事に対する批判である。ブログは、sfuku52とあるだけで署名は見て取れないが、福永晋三氏の書いたものであろうと言う認識である。単に、良くある軽率な判断の提示された記事を点検したものである。

 今回の追記は、時として、本記事を参照する訪問者が多いことから、定期でもないが点検・補強したのである。さらに、氏のサイト移動に対応して、訂正を加えた。対応が遅れて、ご不自由をかけたのであれば、お詫びする。

 また、今回気づいたのであるが、以後、氏は、邪馬壹國こそなかったに於いて、本記事及び先行する陳寿の見た後漢書を収録されているので、当方も、対応しなければならないのだが、氏の論議には変わりは無いと見えるので、当記事は、このまま維持することにした。

□前置き
 ネットを散策していると、いろいろな意見に出会うもので、人も知る貴重文献「翰苑」でしばしば引用されている「後漢書」は、笵曄編纂の「後漢書」ではなく、謝承の『後漢書』であったと主張しているのである。いや、思いつきの意見/放言に口を挟むのは何だが、これを、建設的な仮説と誤解する向きがあるので、一本、釘を刺すのである。

 謝承後漢書の行方   注)Yahoo!ブログが終了したため、当初掲載していたリンクを改訂した。
 当記事では、『翰苑』の証明と題して、概ね下記の論考が、高々と掲げられている。
 (翰苑編者の)雍公叡は「謝承の『後漢書』」を『後漢書』として引用し、范曄の言わば『新・後漢書』を『范曄後漢書』の名で、区別して引用していることが明らかになってきた。

 これは、単なる意見、作業仮説の提言と見えず、堂々と、新発見を旗揚げしているが、根拠がない意見は、確たる根拠がないことを自覚した上で、その旨明記すべきと思う。

*検証の海
 当方は、一介の素人読者であるので、深読みはできず、表面的な読解で恐縮だが、「翰苑」の書法から見て、こうした決めつけは、不適当だと考えるのである。と言うことで、第三者が追試可能な、明確な根拠のある「否定」の論証を試みる。

 竹内理三氏の労作書籍「翰苑」に収録された全文影印は、写本工の不手際と事後校正の不備/欠如を露呈していて、文献批判上、大変参考になるが、何分、「翰苑」 は奔放な書法で書かれていて、文字検索には全く不向きなので、いつもお世話になる「中國哲學書電子化計劃」で、「翰苑」の全文テキスト検索を行った。以下、()内の件数は、同サイトのデータを利用させて頂いた。

 謹んで、中國哲學書電子化計劃サイト関係者の多大な貢献に感謝する。

*「笵曄後漢書」と「後漢書」
 たしかに、翰苑写本の蕃夷部には范曄「後漢書」(7件)と「後漢書」(91件)の二種の書名が書かれている。

 班固漢書」(55件)、司馬遷「史記」(4件)、陳壽「魏志」(14件)の正史については、いちいち編纂者を示していない。「翰苑」編纂時の編者の視点では、これら「三史」が、後世「正史」と呼ばれた公式資料となる格別の史書として認知されているから、書名だけで自明だと言うことであろう。

 因みに、ここで言う「三史」は、あくまで、范曄「後漢書」が公認される唐代中期までの評判であり、その後は、「史記」、「漢書」、「後漢書」が「三史」となり、「三国志」は、表彰台から下りたのである。念のため。

*魚豢「魏略」と「魏略」
 例えば、「魏略」について確認すると、魚豢「魏略」と「魏略」(計29件)の二種が見られる。だからといって、二種の「魏略」があったわけではない。引用資料の出典を厳密に明記するには、毎回魚豢「魏略」と書けばいいのだが、わかりきった事項を繰り返し書くのは煩雑だし、字数分の紙面を消費するので、一々律儀に書かなくてもいいと言うことで、普段は省略形の「魏略」で済ませている箇所が多いのである。高級写本とするには、全件を魚豢「魏略」に復元するだけであり、そこには、高度な技巧も学識も要らないのである。

*後漢書検証
 してみると、多くの箇所(98件中 91件)で、単に「後漢書」と書いているのは、既に定評の確立した笵曄「後漢書」の省略形と見るのが、一番自然な、無理のない理解、いわば、極めて妥当な「定説」ではないか。
 大局的着眼を着実な実証で確保していて、定説とは、かくあるべきと言うお手本としたいものである。

 唐宋代当時、既に范曄「後漢書」の文章の質の高さは評判になっていて、その華麗な文体は教養人の手本になっていたから、後世に正史、つまり、歴史文化遺産とすべき「後漢書」に選ばれたものと思われるのである。

 福永氏に代わって、当方の「否定」に対して反論したくても、「翰苑」写本断簡の蕃夷部を検索しても、謝承「後漢書」どころか「謝承」もヒットしない。要は、明示も示唆も無い、何もないのである。氏は、何らかの幻想に囚われて、かくの如き駄文を物したとしか思えない。

 なお、本断簡における「写本工」の仕事が、職業人として信じがたいほどいい加減でも、引用出典として、原本に「謝承後漢書」と書かれているのを「後漢書」と書くような類いの誤写は、見る限り一切していないのである。本写本は、つまらない書き損ないを放置していて、書きかけで気づいたら、そのまま書き続けているのが見て取れる程である。しかし、勝手な書き端折りはしていないのである。

 当ブログ筆者は、かねてから、現存する翰苑「写本」が、「史料として色々不具合が多いものである」ことを言い立てているが、信頼できないのは、写本の行程そのものとその後に付いてくる校正の精度であって、翰苑の原著記事の信頼度は、史料からの引用の精度に疑問はあっても、それなりに高いもの(であった)と推定している。(賞賛しているのである)

 ただし、写本の出来が出来であるから、誤字脱字の山を正確に是正するのは、難易度が高いし、加えて、晩唐から五代十国、北宋初期の間に高度な進化を極めた四六駢儷体の「美文」を正確に解釈するのは、当時の「文化人」以外には、むつかしい。平たく言うと、「不可能」と思う。

*翰苑の正当評価
 それにしても、「翰苑」編纂の意図が史書抜粋の厳密さを追究したものでなく、また、「翰苑」編纂者の与り知らぬこととは言え、十分な文書校正されず、少なからぬ(平たく言うと、厖大な)誤字、誤記が残されている、どう見ても杜撰な写本の断片が一本だけ残存しているので、その真意を読み取ることは、大変困難である。平たく言うと、「不可能」である。
 
念を押すが、ここでは、当史料の文字テキストの信頼性を問題にしているのであり、「翰苑」断簡の文化財/国宝としての価値、つまり、書の芸術としての価値には、一切文句を付けていないのである。(当ブログ筆者には、批判できる見識が備わっていないので論評しないのである)

 正史は、帝国の一級文化財として、ちゃちな経済性を度外視して、正確さを最善に保持すべく写本継承され、実際、ほぼ健全に継承されたと思われる正史「三国志」記事を、憶測と風聞に基づく「論考」でもって覆すというのは、学問に取り組む者の姿勢として、どういうものだろうか。(平たく言うと、根本的に間違っている)


以上

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2021年3月14日 (日)

魏志天問 1 東治之山~見落とされた史蹟の由来 再掲 4/4

                         2013/12/22  再掲 2021/03/12
*三国志における「漢官儀」
 陳壽は、広く諸資料を参照して、吟味の上で自己の著作に取り入れる正統派の執筆姿勢であり、漢朝儀礼の典範である漢官儀は、史官としての座右の書としていたと考えます。
 
 よって、陳壽が「会稽東治」と書いたときは、会稽郡東冶県のことは考えもせず、会稽東治之山を想起していたと思われます。皇帝を含めた同時代読者も、当然、漢官儀を知っていたと思われます。

 時折触れるように、陳壽の執筆時点から笵曄の執筆時点である南朝劉宋に到る間には、西晋末の大動乱で、洛陽の西晋朝書庫は散逸し、漢官儀も劉宋に継承されていなかった可能性があります。

 会稽山近郊に生まれた笵曄には、禹の事績はなじみ深かったはずで、漢官儀を知ってさえいれば、「会稽東治」に深い感慨を持ったのでしょうが、実際は、劉宋高官の土地勘から「東冶」県と読んでしまったのでしょう。

 それだけで止まっていれば三国志の継承記事にとどまり、笵曄の不見識は知られずに済んでいたのに、ついつい才気が走って、後漢書倭人記事の最後に「会稽東冶県」と書いて、早合点の証拠を残しています。

 以上は、当方の勝手な推定であって、「漢官儀」には、元々「東冶之山」と書いてあったのかも知れませんが、それは当記事の論議に関係のない些事です。

 とにかく、素人が気づくような史料考察に対して、寡聞ながら、当否を論じた意見を見たことがないので、ここに掲示するものです。
以上

*「漢官儀」 成都本
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追記 2021/03/12
 ついでに言うと、素人考えでは、禹の「東治」は、治世の終わりに近づいた大禹が、四方で「会稽」した中で、順当に終わった(と思われる)「西治」、「北治」、「南治」に当たる三方は継承されず、直後に大禹が崩御したことから、東方、つまり、「東治」が継承されたと見えるのです。特に、難点は無いと思うので、一言述べたものです。

                                            以上

魏志天問 1 東治之山~見落とされた史蹟の由来 再掲 3/4

                         2013/12/22  再掲 2021/03/12                          
〇「水経注」所引 應劭「漢官儀」
 因みに、應劭「漢官儀」の当該部分は、太平御覧以外に、水經注にも引用されていて、史料の裏付けとなっています。

*水経注 四庫全書版
Suikeichu_kaikei

 各資料の成立時期等を確認すると、
  •  漢官儀  後漢建安元年(196年)成立と伝えられています。
  •  水經注  酈道元撰 北魏代の地理書です。延昌4年(515年)頃成立と伝えられています。
  •  太平御覧 李昉等による奉勅撰、北宋太平興国8年(983年)頃成立と伝えられています。
 ここで、太平御覧と水經注は、清朝勅撰の四庫全書に収録されているので、確実な資料と確認できますが、漢官儀は、散逸による記事の不安定さも影響してか、四庫全書には収録漏れです。

 漢官儀には、太平御覧と水經注とに引用されていることが注記されていますが、当然、これは後世の書き込みです。おそらく、散逸した漢官儀の復元の際に、太平御覧と水經注が利用されたものと推定されます。この点は、「東冶之山」の信頼度評価にも影響します。何事も、簡単に結論を出さずに、色々考え合わせる必要があるということです。

〇成都異稿本「漢官儀」
 別資料として、早稲田大学図書館の古典籍データベースに収録されていて、大事な異稿です。

 出版書写事項:民国2[1913] 存古書局, 成都
 叢書の校集:孫星衍(1753-1813)  覆校:劉沢溥
 尊経蔵本  唐装 仮に「成都本」と呼ぶことにします。
 驚いたことに、成都本では「或以號令,禹合諸侯大計東治之山會稽是也。」です。

 資料継承の跡をたどってみると、水經注(北魏)、太平御覧(北宋)と、別時点で漢官儀を引用した資料が、揃って「東冶之山」としているので、多数決原理に従うなら、清朝時代の漢官儀復元編纂時のもと資料も、そのように書いていた可能性が高いのです。と言うことは、成都本の校訂段階で、「東治之山」と校勘、訂正した可能性が高いということになります。
 史料考証は、多数決でなく、論理的な判断によるものだという教えのようです。

 訂正の理由は推定するしかないのですが、「東冶之山」では主旨不明であり、「東治之山」なら禹が東方統治した山、との妥当な意味が読み取れるので、合理的な判断からの校訂かとも思われます。

 当然、成都本の撰者も、歴史上の一時期に会稽郡東冶県が存在したことは知っていたと思われますが、「東冶県」の由来は、後漢成立時に、単に二字地名とするために「東冶」としたという説があり、秦の宰相李斯が、各郡を命名した際に存在しなかった地名ですから、無関係とみるべきです。

 現代は、校正不在のゴミ情報が、とにかく多数飛び回っているので、「治」、「冶」の混同例は、まま見られますが、本来、二つの文字は、意味が大きく異なるので、権威ある資料では、まず、混同されることはないのです。

 陳壽「三國志」の書かれたのは、まさしく、後漢最後の皇帝に「漢官儀」が献上されて関係者に流布した直後であり、また、許で再構築された後漢朝書庫は、順調に魏朝、西晋朝に継承されたと思われます。

                           未完

魏志天問 1 東治之山~見落とされた史蹟の由来 再掲 2/4

                         2013/12/22  再掲 2021/03/12
〇應劭「漢官儀」[承前]
 應劭「漢官儀」は、後漢最後の皇帝劉協(献帝)が、帝都洛陽から強引に拉致された長安から東還し、曹操の保護下に許に宮廷を再現しようとしたとき、王朝を構成する高官の官位と位置付け、宮廷儀礼の内容などを示す資料が、散逸していたため、代々高官で儀礼に通じていた應劭が、関連資料を渉猟して集約し、上申したものと言うことです。

 後漢末期、(三国志演義の超悪役で)有名な董卓の暴政で、帝都洛陽は破壊されて、皇帝以下の洛陽住民が、前漢末、新朝の廃絶後の後漢朝洛陽遷都により、廃都として200年近く残骸放置されて荒れ野原となっていた長安への移動を強制されたことから、後漢朝宮廷の書庫は大半が放置、廃棄され、宮廷要員の多くは、強制移動を免れても、追放か、逃散かしていたものです。

 應劭が献帝に漢官儀を献呈した時は、全10巻構成であったようですが、戦乱などの影響で散逸し、あるいは、短縮版が横行して混乱していたものを、後世になって再構成したものが、「漢官六種」などに収録されています。

 史料の信頼性を確認するために、苦労して引用元を探しましたが、應劭「漢官儀」の影印版(PDF)は、中國哲學書電子化計劃から辿って、「漢官六種」PDFテキストに辿り着くことができます。

*應劭「漢官儀」
Ou_kankangi_kaikei

 ここで確認した應劭「漢官儀」は、上下二巻が収録されていて、中国語素人の目では当該記事の場所を探すのに大変苦労しましたが、上巻に記載されています。なお、記載内容は、太平御覧に引用の通りです。

                                                    未完

魏志天問 1 東治之山~見落とされた史蹟の由来 再掲 1/4

                         2013/12/22  再掲 2021/03/12 2021/12/19
〇再掲載の弁
 今般、NHK BSPの「邪馬台国サミット 2021」([BSプレミアム] 2021年1月1日(金) 午後7~9時 NHKオンデマンドで公開中)なる特番で、世上、三国志の最高権威とみられている渡邉義浩氏が、倭人伝中華書局本という出典を隠したままで、倭人伝の「会稽東治」が正しくは「会稽東冶」であったという一種の「フェイクニュース」を高言していて、番組上で反論がなかったので、ここに、素人の調べた意見を再掲するものです。ひょっとすると、使い回しされそうなので、一連の記事を再公開します。

〇原記事
 下の記事は、魏志倭人傳に関する「素人考え」の疑問に「素人考え」の解を並べていくものです。伝聞、風評を極力減らすために、色々史料探索していますが、素人の悲しさで、調べや思いが行き届いていない点があれば、ご容赦ください。

 天問1は、
 「会稽東治」は、陳壽が参照した資料に、禹の事績の場として「東治之山」と書かれていたのが根拠であり、会稽山の位置を示したものであって、会稽郡東冶県の位置を示したものではない、のではないか、
 と言うものです。

 中國哲學書電子化計劃(中国哲学書電子化計画)では、大変ありがたいことに、太平御覧の全文をテキスト検索ができます。いや、全収録史料の全文テキスト検索ができます。(<画像収録は目下進行中であり、この部分は未収録のようです)
 とある一日、太平御覧で「東冶」を検索すると、興味深い文例が提示されました。
〇「太平御覧」 州郡部三 6 敘郡: 
應劭《漢官儀》曰: 秦用李斯議,分天下為三十六郡。凡郡:
 或以列國,陳、魯、齊、吳是也。
 或以舊邑,長沙、丹陽是也。
 或以山,太山、山陽是也。
 或以川源,西河、河東是也。
 或以所出,金城城下有金,酒泉泉味如酒,豫章章樹生庭中,雁門雁之所育是也。
 或以號令,禹合諸侯大計東冶之山會稽是也。
 京兆,絕高曰京。京,大也;十億曰兆,欲令帝京殷盈也。
 左輔右弼,蕃翊承風也。張掖,始開垂,張臂掖也。

 この部分は、中国の広域行政区画である「州」「郡」に関連する記事を連ねています。
 ここに提出されたのは、應劭「漢官儀」から太平御覧への引用で、「郡名」の起源、由来の記事を再録しています。
 その後段に、大要 下記の意味が書かれています。(中国語は専門ではないので、誤解があればご容赦ください)

 (郡名には)号令に由来するものがある。(会稽郡は)禹が諸侯を合わせて大計した「東冶之山」から会稽と命名された。
 禹が諸侯を集めた山は、それ以前の名前を書いていない場合が多く、せいぜい「苗山」,「茅山」,「防山」などと称していますが、ここでは、たぶん固有名詞でなく「東冶之山」と書かれています。
 一瞬、会稽東冶の裏付け史料かと錯覚しそうです。速断せずに、ご注意下さい。本項後出の論議で、「東冶之山」は「東治之山」の誤解と断じています。「東冶」は漢代新作の地名なので、秦始皇帝宰相李斯が提言することはないのです。

 「漢官儀」編者應劭は、後漢高官で、三國志武帝記(曹操傳)にも登場する著名人であり、後漢書には列伝を建てられています。

*「帝京」談義 2021/12/19
 ついでながら、漢代は、皇帝居処「長安」を、「京兆」と命名したことから、「帝京」の呼称の発祥が見えます。さらについでながら、当時の大数は、十 百 千 萬の後も、十進で連なっていて、十萬を[億]と言い、十億を[兆]、十兆を「京]と言ったことが示されています。当時の[京]は、千万だったのです。 
                                    未完

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