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2021年3月30日 (火)

新・私の本棚 伊藤雅文 邪馬台国は熊本にあった! 7/7 改

 扶桑社新書 219   2016年9月刊     2019/03/17 一部改訂 2021/03/30、2021/04/12

*海上里程の錯覚
 同様に見ると、渡海行程で一千餘里を一〇〇〇余里と書くと里単位測量との錯覚を呼びますが、海上移動に「路」も「道里」もないので、測量不能な海上を、例えば、七百里強から千五百里弱の範囲内と「見なした」大まかな数値と見るべきです。
 ただし、この道里は、実測と無関係の日程面からの概算であり、一日三百里の勘定で前後の余裕も見て所要三日を三回、全体で一日余裕で、切りの良い十日との勘定合わせしたものと見られます。
 そうであれば、測量の結果ではないので概算千里が合理的なのです。これは、現代人に喪われた、本当の意味で、数字に強い書き方です。

□水行談義
 水行談義で、氏は、時代無視の安易な「俗説」に、どっぷりと毒されていると見受けます。
 但し、氏は、子供ではないので、自分で書いたことに責任があると言えます。
 里程記事の冒頭で、「従郡至倭」で「海を渡るのを水行と言う」と宣言された倭人伝は例外として、魏晋朝までの正史記事で、「水行」は専ら河川航行であり、さらに言うと、大陸の道里で、「渡河」は「水行」とは別です。いや、そもそも、街道を行くのが正規の行程である以上、「水行」道里は、本来「無法」なのです。
 して見ると、半島西南岸の海上「水行」図で、島々を踏みにじる不可能な経路を表示しているのは、氏としては、航行不能な経路と示したとも見えます。

 なお、畿内説に必須の瀬戸内や日本海の「航路」は、(あったとすれば。以下略)毎日寄港し、潮待ち、風待ち、雲行き待ちがあるので、必ず翌日出港とは行かないのです。また、港港で船を代え、漕ぎ人を代え、天候好転を待ち、潮待ちして、四十日に到底収まらない日数をかけて旅するのです。日数が数えられないから正規の行程となりようがないのです。
 並行して陸上経路があれば「道里」測量できても、それは海上移動と異なりますが、陸上経路があれば、危険でお天気まかせの海上行程を行く理由がないのです。中原であれば、陸上の街道は、歩行することもあれば、ゆるゆると騎馬で行くこともあり、さらには、駿馬で疾駆する「急行」もありますが、海上移動となると、船上で駆け足しても移動速度は変わらないので、「急行」はないので、文書使の漕行や派遣軍の移動には、全く不向きです。

 こうした海の行程(あったと仮定すれば)と対比される対馬、壱岐伝いの三度の渡海は、岩礁、浅瀬もなく、日頃の交易便船と同様に、見通せる対岸に渡っては、必要に応じて漕ぎ手一同を替え、ときには、急流に適した便船に乗り換えるのであり、予備日を考慮すると、ある程度決まった日数で、ほぼ確実な運行が可能です。

 氏が、千差万別の実態を考慮せずに、一律、「水行一日二百里」と見るのは、氏にしては、不用意で不可解です。

*空想競争~余談
 またもや、一般論、俗説批判になりましたが、畿内説論者は、当時、長距離の便船、航路が君臨したと見るようですが、それなら、筑紫から中部大和、中和に至る魏使の四十日に渡る(と読み替えざるを得ないのであり、当論者の指示する論法ではない)最終旅程は、冒頭の諸国記に劣らぬ痛快な記事となるはずですから、割愛された理由が理解できません。(要するに、当方と「読み」違いですが)

 極端な「海路」論者は、景初遣使は、現在の大阪湾岸から万里波濤を越えて渤海湾岸天津に漕ぎ渡り、河水,洛水遡流で洛陽に漕ぎ至ったと「おおぼら」を吹くのですが、それは、無理に無茶を重ねた途方もない時代錯誤です。

 三世紀に、そのような強カな漕ぎ手を擁する漕ぎ船が便船として常用できていたら、船主は「天下」を取ったでしよう。何しろ、そのような漕ぎ船は、半島を沿岸廻遊せず、直接山東要地の東莱に乗り込めるし、狗邪韓国なしで倭の港に直行渡海できます。

 いやはや、できもしないことを積み重ねて、画期的な新説と述べる著者がいて、氏も、悪影響を受けていると困るので、長々と講釈を垂れたわけです。

*妄言多謝
 いや、最後まで、しばしば、氏の論議批判にこと寄せて、世にはびこる俗説を論断しましたが、旁々、ご容赦いただきたいのです。

 氏の作業仮説群の由来がわからないので、俗説から想定される根強い妄説を批判しただけです。

                                完

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