魏志天問 1 東治之山~見落とされた史蹟の由来 再掲 4/4
2013/12/22 再掲 2021/03/12
*三国志における「漢官儀」 陳壽は、広く諸資料を参照して、吟味の上で自己の著作に取り入れる正統派の執筆姿勢であり、漢朝儀礼の典範である漢官儀は、史官としての座右の書としていたと考えます。
よって、陳壽が「会稽東治」と書いたときは、会稽郡東冶県のことは考えもせず、会稽東治之山を想起していたと思われます。皇帝を含めた同時代読者も、当然、漢官儀を知っていたと思われます。
時折触れるように、陳壽の執筆時点から笵曄の執筆時点である南朝劉宋に到る間には、西晋末の大動乱で、洛陽の西晋朝書庫は散逸し、漢官儀も劉宋に継承されていなかった可能性があります。
会稽山近郊に生まれた笵曄には、禹の事績はなじみ深かったはずで、漢官儀を知ってさえいれば、「会稽東治」に深い感慨を持ったのでしょうが、実際は、劉宋高官の土地勘から「東冶」県と読んでしまったのでしょう。
それだけで止まっていれば三国志の継承記事にとどまり、笵曄の不見識は知られずに済んでいたのに、ついつい才気が走って、後漢書倭人記事の最後に「会稽東冶県」と書いて、早合点の証拠を残しています。
以上は、当方の勝手な推定であって、「漢官儀」には、元々「東冶之山」と書いてあったのかも知れませんが、それは当記事の論議に関係のない些事です。
とにかく、素人が気づくような史料考察に対して、寡聞ながら、当否を論じた意見を見たことがないので、ここに掲示するものです。
以上
*「漢官儀」 成都本
追記 2021/03/12
ついでに言うと、素人考えでは、禹の「東治」は、治世の終わりに近づいた大禹が、四方で「会稽」した中で、順当に終わった(と思われる)「西治」、「北治」、「南治」に当たる三方は継承されず、直後に大禹が崩御したことから、東方、つまり、「東治」が継承されたと見えるのです。特に、難点は無いと思うので、一言述べたものです。
以上
ついでに言うと、素人考えでは、禹の「東治」は、治世の終わりに近づいた大禹が、四方で「会稽」した中で、順当に終わった(と思われる)「西治」、「北治」、「南治」に当たる三方は継承されず、直後に大禹が崩御したことから、東方、つまり、「東治」が継承されたと見えるのです。特に、難点は無いと思うので、一言述べたものです。
以上
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コメント
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良い論文ですね。あなたも述べているように、素人が気づくような史料考察に対して、現在の東洋史学者、特に『三国志』の専門家、『三国志』の最高権威とみられている渡邉義浩氏などが、全く「魏志倭人伝」の内容についての正しい考察ができないことは残念でなりませんし、日本の文系学問の低俗さを嫌というほど感じます。中国では『三国志』の中の「魏志倭人伝」というのはほとんど文人に取り上げらることもなく現在に至りますが、その影響下にある渡邉義浩氏などはまともに「魏志倭人伝」を読んでいないで日本の国学者の訳を借用していることが良く理解できますね。それと、渡邉義浩氏というのは陳寿という史書家の評価を自分ではしないで清時代の陳寿悪評価を単に借用しており、残念ですが、『三国志』の専門家というのは多くの問題がありますね。
投稿: N.N | 2021年3月14日 (日) 20時13分