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2021年3月30日 (火)

新・私の本棚 伊藤雅文 邪馬台国は熊本にあった! 5/7 改

 扶桑社新書 219 2016年9月刊  2019/03/17 一部改訂 2021/03/30、2021/04/12, 2021/04/12

*すり替え考察~余談
 実際的な思考を試みると、劉宋時の魏志は紙の巻物と思われます。
 中国は広いので、簡牘の巻物は、骨董品価値も含めて、長く残ったでしょうが、蔵書家、貴族、富豪などは、早い段階で、紙巻物に移行したものと思います。三国志六十五巻は、漢書に比べて細身というものの、紙巻物にすれば、随分手軽であり、全巻揃えても、書棚に収まる程度であるので、身近に置くことができ、あるいは、軍人であれば前線の兵舎にも持って行けるので、急速に普及したものと見るのです。

 但し、世間は広いもので、「歴博」には、三国志ならぬ、范曄「後漢書簡牘巻物の複製品」などと言う出所不明の展示物があり、複製元がどんなものか、お顔が見たいものです。

 因みに、西域、敦煌から出土している三国志の断簡は、どう見ても紙であり、西域まで持参するには、紙巻物が常識となっていたように見えます。いや、分量の少ない列伝は、仏教経文にあるような折り畳み小冊子の「折本」になっていたのではないでしょうか。
 倭人伝も、二千字程度なので、十分小冊子になっていて、表紙には「魏志倭人伝」と書かれていたように思います。特に証拠となる文物は見かけていませんが、「なかった」と言う証拠はないように思います。

 と言うことで、南朝劉宋の史官、裴松之が、補注の際にどんな三国志を手にしていたのか、正確には今ひとつわかりません。

 袋綴じ冊子は該当二ページ単位で偽造、すり替えできますが、巻子は全巻糊接ぎ、裏打ちされていて、部分すり替えはできないのです。
 魏志第三十巻全体の帝室原本の良質複製品を入手し、巻末附近のつなぎを剥がし、のり付けを外し、全く同一の幅の偽造部と入れ替える高度なすり替えが必要です。

 つまり、時代原本同等の用紙、墨硯筆、写本工で同等写本を仕上げ、更に装幀専門家が必要です。門外不出の時代原本の取出し、返納も含め、まことに壮大な事業です。現代人が削除追記するのとわけが違うのです。

 別案として、原本巻子を持ち出し、該当部の墨文字を削り取り書き直すのが、断然手間が少ないのですが、持ち出し、持ち込みの不可能犯罪はこの際度外視しても、そのような手軽な書き換えが、そもそも、可能かどうか判断に困ります。

*大罪連座の定め

 いや、帝室所蔵の時代原本を勝手に持ち出すだけで死刑ものですから、偽造品とすり替えるのは、露見すれば関係者残らず一家全滅です。当人は信念で本望としても、共犯者は得られず、密告されるでしょう。荷担しなくても、密告しなければ共犯で、共犯、密告以外に選択はないのです。

*やはり実行不可能
 一案として、帝室書庫の時代原本更新の時期、例えば、巻子から冊子への転換の際、担当部局に大金を積んで、記事の一部をすり替えて写本させるのは、うまく行けば露見せずに済みそうですが、どれほど大金が必要か空恐ろしいほどです。また、史学者が精査して改竄を指摘する危険もあります。

 と言うことで、折角の「改ざん説」、「すり替え説」ですが、肝心の時代原本すり替えは、到底実行不可能と思われます。

 時代原本は根源であり、下流写本が根こそぎ改竄されても、根源から新写本すれば、不可能犯罪は、水泡に帰するのです。時代原本のすり替えにこだわる由縁です。氏は、劉宋末期すり替えとしているので、以上の推定ができるのです。

*改竄の動機
 以上でおわかりのように、帝室の時代原本の巻子を偽造巻子とすり替えるのは、余りにも避けがたい危険が多く、また、そのような、本当の意味で「命がけ」、「必死」の大罪を犯す動機が見当たらないのです。とにかく、正史原本「改ざん」なる刑死族滅、家族皆殺しの大罪を、誰がなぜ犯すのか。
 また、道里記事すり替えは、魏志東夷記事の些細項目の改竄、すり替えです。大金を得ても、一族処刑されれば無意味で、家族全員の命を賭けられないのです。

 結論として、氏の壮大な「連続説」難局打開の救済策は、無理のようです。

 これだけの命がけの曲芸を持ち込めば、氏がご不快に思われた「放射説」も棄却原因となった矛盾を解消できる
でしょう。

*改竄不要の提言  2021/04/12
 ここで、せめて、建設的な意見を述べさせていただくと、安本美典氏の短里説と榎一雄氏の伊都国起点の放射経路説、加えて古田武彦氏の「水行陸行郡起点説」を採り入れると、「女王之所」は、伊都国の南というものの、概数計算の本質的な限界と原資料の持つ不確かさから、そこに達するための道里は不確定であり、手堅く見ても、最短百里未満、最長千里程度のかなり広い範囲が適用可能となります。

 一部論者の言う宮崎県域は「かなり無理」としても、久留米付近から日田を経て大分に至る(JR久大線もどき)東西横断経路も、一応「有理」(無理でない、理屈が成り立つの意味)であり、もちろん、手短な有明海岸も「有理」と見ることができるように見えます。
 「南」と言っても漠然と言うのであり、伊都国に道標が立っていれば、「南 邪馬一」と彫られていたでしょう。目前の南に向かう路を指示しているだけで、途中の東西転進は、道なりに進めば良いので始発点では言うに及ばないのです。何しろ、まともな道は他に無いので、追分(分岐点)があれば、そこで指示するだけで間違いはないのです。

 つまり、帝室蔵書改竄の大罪を犯さなくても、ある程度の範囲に誘致することはできる(否定できない)のです。

 そこで、古田武彦氏の金言が登場するのですが、倭人伝の文言解釈は必要だが、さらに、現地の出土物の評価が重大である、と言うことです。もちろん、筑紫地域の発掘の進展と比べて、県外地域の発掘はゆっくりしていますが、かなり有力な意見であることは間違いありません。

 と言うことで、本書を改定される際は、改竄説を撤回されることを最優先に取り組んでいただきたいものです。要するに、当ブログ筆者の所説に同化することを提案しているのですが、この程度の手前味噌は良くあることでしょう。
 いずれにしろ、同意するしないは、氏の勝手なのです。京都のわらべ唄で言う「ほっちっち」(ほっといて)も可能です。

                                未完

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