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2021年3月14日 (日)

魏志天問 1 東治之山~見落とされた史蹟の由来 再掲 3/4

                         2013/12/22  再掲 2021/03/12                          
〇「水経注」所引 應劭「漢官儀」
 因みに、應劭「漢官儀」の当該部分は、太平御覧以外に、水經注にも引用されていて、史料の裏付けとなっています。

*水経注 四庫全書版
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 各資料の成立時期等を確認すると、
  •  漢官儀  後漢建安元年(196年)成立と伝えられています。
  •  水經注  酈道元撰 北魏代の地理書です。延昌4年(515年)頃成立と伝えられています。
  •  太平御覧 李昉等による奉勅撰、北宋太平興国8年(983年)頃成立と伝えられています。
 ここで、太平御覧と水經注は、清朝勅撰の四庫全書に収録されているので、確実な資料と確認できますが、漢官儀は、散逸による記事の不安定さも影響してか、四庫全書には収録漏れです。

 漢官儀には、太平御覧と水經注とに引用されていることが注記されていますが、当然、これは後世の書き込みです。おそらく、散逸した漢官儀の復元の際に、太平御覧と水經注が利用されたものと推定されます。この点は、「東冶之山」の信頼度評価にも影響します。何事も、簡単に結論を出さずに、色々考え合わせる必要があるということです。

〇成都異稿本「漢官儀」
 別資料として、早稲田大学図書館の古典籍データベースに収録されていて、大事な異稿です。

 出版書写事項:民国2[1913] 存古書局, 成都
 叢書の校集:孫星衍(1753-1813)  覆校:劉沢溥
 尊経蔵本  唐装 仮に「成都本」と呼ぶことにします。
 驚いたことに、成都本では「或以號令,禹合諸侯大計東治之山會稽是也。」です。

 資料継承の跡をたどってみると、水經注(北魏)、太平御覧(北宋)と、別時点で漢官儀を引用した資料が、揃って「東冶之山」としているので、多数決原理に従うなら、清朝時代の漢官儀復元編纂時のもと資料も、そのように書いていた可能性が高いのです。と言うことは、成都本の校訂段階で、「東治之山」と校勘、訂正した可能性が高いということになります。
 史料考証は、多数決でなく、論理的な判断によるものだという教えのようです。

 訂正の理由は推定するしかないのですが、「東冶之山」では主旨不明であり、「東治之山」なら禹が東方統治した山、との妥当な意味が読み取れるので、合理的な判断からの校訂かとも思われます。

 当然、成都本の撰者も、歴史上の一時期に会稽郡東冶県が存在したことは知っていたと思われますが、「東冶県」の由来は、後漢成立時に、単に二字地名とするために「東冶」としたという説があり、秦の宰相李斯が、各郡を命名した際に存在しなかった地名ですから、無関係とみるべきです。

 現代は、校正不在のゴミ情報が、とにかく多数飛び回っているので、「治」、「冶」の混同例は、まま見られますが、本来、二つの文字は、意味が大きく異なるので、権威ある資料では、まず、混同されることはないのです。

 陳壽「三國志」の書かれたのは、まさしく、後漢最後の皇帝に「漢官儀」が献上されて関係者に流布した直後であり、また、許で再構築された後漢朝書庫は、順調に魏朝、西晋朝に継承されたと思われます。

                           未完

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