私の意見 ブログ記事批判 「古本三國志について」 再掲 1/3
2014/07/07 加筆再掲2021/03/18
〇「「壹臺」誤記論の不毛」加筆再掲の弁
当記事については、原著者らしい方から、コメントがあったものの、史料批判の視点の勘違いに始まって、当記事の主旨が理解できないとの決めつけもあって、その辺りを理解いただけるまでは拙速で回答しても無益と思ったので、しばし返信を控えたのが、筆無精の事態となったようです。というものの、初出以来の六年に関連記事で繰り返し説明しているので、コメント回答を控えたものであり、決して無視したわけではありません。
今回当記事を読み返すと、時間をたっぷりかけて推敲し諄諄と理屈を説いていて、これで理解できなければ、読者に、論考を時間をかけて読み解く素地がないと見え、まことに遺憾ながら、無縁の衆生と言いたくなります。
つまり、倭人伝に関する議論は、まず、「基準試料」を決めて、それに対する批判を随時論証するのが常道であって、以下に指摘したように、後漢書倭伝を筆頭とする信頼度の低い後世史料の山盛りで、「基準試料」の個別の記事の当否を論ずるべきでは無いというものです。はなから、話の筋が曲がっているので取り合わないのであり、下記ブログ記事に至るまで、十何年もかけてこね上げたと見える混み合った議論に、後から入り込む気はないのです。
喧嘩をふっかけて場を騒がせるつもりでなければ、例えば、後漢書は范曄原文かどうか、笵曄が「倭伝」を創作した原資料は何か、等々、慎重な史料批判が先立つものと思うのですが、何れかでご教授いただけるのでしょうか。
何しろ、史料として全く信用できない「翰苑」所引の「魏略」佚文をもって倭人伝を訂正する議論が無批判で横行するから、即答できないのです。
倭人伝記事の校勘について勉強したらどうかと言われても、ここに書いている議論は覆らないものです。要は、無縁の衆生です。
「論より」現に存在している「邪馬壹国」の文字が「邪馬臺国」から改竄されたものという「証拠」は見当たらないと見ています。
以上、最近閲覧件数が出ているので、念押ししておきます。
〇原記事再掲
今回の論評対象は、下記記事です。当初掲載Linkは廃番であり、下記は、「魏志倭人伝への旅」と題されたブログの過去記事再録であり、批判するときはLink掲載するようにとの要望であるので、論評の内容参照先としてここに示します。
「「古本三國志」について」 (Author:hyenanopapa)
さて、「翰苑」現存写本の書評に続いて個人ブログ記事を論評することになりました。もちろん、個人攻撃目的ではなく、「議論の進め方」についての素人考えなので、論旨を冷静に読み取っていただければ幸いです。
初出以来10年を経た記事で、以下の論評は、時代遅れかも知れませんが、「壹臺」誤記論が解消したと聞いていないので、私見を書き残すものです。
察するところ、ブログ著者の真意は、魏志倭人伝現存刊本に記載されている「壹」の字が「臺」の字の誤記であるとの主張の論証(「壹臺」誤記論) なのでしょうが、一向に、論証の画が描けていないのです。
根回しとして、現存刊本の素性について年代物の仮説を述べていますが、現存刊本が、良質な写本から順当に継承されたという評価に対して、有効な反論が示されていないのです。ひび割れた骨董品のような俗説は、「レジェンド」、過去の遺物として用済みにされたらどうかと思うのです。
〇「本」の継承と言うこと
私見ですが、魏志の「陳寿原本」は、裴松之の付注という、偉大な「蛇足」を外した、本来の「魏志」を言うものと思うのです。それは、現存魏志刊本から裴注を除けば、かなりの精度で「復元」できるのです。もちろん、陳寿自身や写本工、そして、皇帝に至る各初期読者の「読んだ」魏志とは、完全に同一ではないとしても、皇帝以下の読者にとって、「原本」に近いものと見てとるものと思われます。
言うまでもないのですが、ここで言う「本」は中国語ですから、物理的な「書」でなく、その内容を言うのです。
たとえば、「紹熙本」というのは、南宋の関係者が、紹熙年間に完成した「魏志」を言うのであって、物理的な印刷物「魏書」を言うのではないのです。
未完
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コメント
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hyena_no_papaさん
時間ばかり経って、回答に踏み切れずにいたのですが、思うところあって、ここにコメントいたします。
初稿で、掲示板時代の短文投稿記事の集成に、後世から批判を浴びせた点は、適切だったかどうか確かに疑問ですが、非礼な点はお詫びするしかないところです。
さて、貴兄見解へのの反問ですが、聞く耳を持って頂けたら幸いです。
現行刊本は、「現にそこにある以上、議論の原点として、尊重されるべきだ」というのが小生の見解です。別に、「〝原文に忠実に!〟」と絶叫も、小声も、漏らしていません。引用するなら、色つき大文字はご容赦ください。
以下、できるだけ手短に回答します。わかりにくかったら、手短でなく、丁寧にご指摘ください。
原典に対して、異議を唱え、審議を求めるなら、提出資料に史料批判を加え、批判対象史料と対等の重みを与えられるかどうか、慎重に審議した上で提議すべきと思います。
貴兄は、無造作に、『後漢書』、『梁書』、『北史』、『隋書』、『通典』、『翰苑』の六件連名で提議していますが、これら全てについて、当方に史料批判を強制されても困ります。
もし、素直に応答するなら、末尾の「翰苑」について、史料としての総合的な信頼性を問い、本質的に信頼性に欠けると判断した上で、このように明らかな「欠格史料」を一員とした一連の証拠文書は、全体として信頼性に欠けるとして一括却下です。
それとも、貴兄は、全件について、厳密に史料批判して有効との確信を持って提議されたのでしょうか。それなら、是非とも、審査内容を披瀝いただきたいものです。
私見では、もし、貴兄が、提言に確信があれば、范曄「後漢書」一件で十分と見ます。ご自身で、信頼性評価して頂ければ、范曄「後漢書」東夷列伝に限定しても、実に多くの疑問が存在していると気づかれるものと考えますから、是非、克服していただきたいものです。
貴兄が、そうした確実な手順を踏まず、無造作に六件列記の提言を掲げる点が、当回答を書いた原因です。
十分に審査に値する異議を提出いただければ、自ブログで進めている論評と同様に十分咀嚼させていただきますが、目下のところ、貴兄は立証責任を果たされていないように見えるのです。
以上
>私の主張のポイントは、「壹」というのは、現行刊本つまり南宋刊本より前に『魏志』を引用・参照した各典籍には一切登場しないということです。『後漢書』はもとより、唐代の『梁書』『北史』『隋書』『通典』も「臺」ですし、『翰苑』でも「馬臺」「邦臺」として「邪馬臺」に基づくと見られる表記が見えます。
>何より『隋書』では【都於邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也】と明記してありますし、宋代に入っても『太平御覧』所引『魏志』や『通志』でも「臺」です。何故、これらの唐宋代諸典籍が「壹」を一切引いていないか?この説明をどのように付けますでしょうか?
>また、壹與について考えてみましょう。これは『後漢書』には出てきません。何故、唐宋代の諸典籍がことごとく「臺」につくるのか?この説明をどのように付けますでしょうか?
>つい数日前、「壹」と「臺」の誤写の例を画像つきで私のブログにUpしました。御覧ください。
>https://hyenanopapa.blog.fc2.com/blog-entry-1573.html
>どうやら私のサイトの批判をされているやに窺えますが、一度校勘記類をひもどいてみてはいかがでしょうか?
>例えば『百衲本三国志校勘記』というものが、北京の商務印書館というところから出ています。価格は数千円程度ですから、手が出ないということもないでしょう。
>このような校勘記類を渉猟してみれば、〝原文に忠実に!〟などという宣言が、いかに虚しいものかよくお分かりになるかと思います。
>尚、私のブログでもコメントをお寄せいただくことができますので、何なりとご利用ください。
追記:
貴ブログへのコメント投稿方法がわからなかったので、ここに、回答しています。あしからず。
投稿: ToYourDay | 2022年5月25日 (水) 22時14分
こちらの記事にもコメントさせていただきます。
こちらも趣旨がよくわかりません。
私の主張のポイントは、「壹」というのは、現行刊本つまり南宋刊本より前に『魏志』を引用・参照した各典籍には一切登場しないということです。『後漢書』はもとより、唐代の『梁書』『北史』『隋書』『通典』も「臺」ですし、『翰苑』でも「馬臺」「邦臺」として「邪馬臺」に基づくと見られる表記が見えます。
何より『隋書』では【都於邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也】と明記してありますし、宋代に入っても『太平御覧』所引『魏志』や『通志』でも「臺」です。何故、これらの唐宋代諸典籍が「壹」を一切引いていないか?この説明をどのように付けますでしょうか?
また、壹與について考えてみましょう。これは『後漢書』には出てきません。何故、唐宋代の諸典籍がことごとく「臺」につくるのか?この説明をどのように付けますでしょうか?
つい数日前、「壹」と「臺」の誤写の例を画像つきで私のブログにUpしました。御覧ください。
https://hyenanopapa.blog.fc2.com/blog-entry-1573.html
どうやら私のサイトの批判をされているやに窺えますが、一度校勘記類をひもどいてみてはいかがでしょうか?
例えば『百衲本三国志校勘記』というものが、北京の商務印書館というところから出ています。価格は数千円程度ですから、手が出ないということもないでしょう。
このような校勘記類を渉猟してみれば、〝原文に忠実に!〟などという宣言が、いかに虚しいものかよくお分かりになるかと思います。
尚、私のブログでもコメントをお寄せいただくことができますので、何なりとご利用ください。
投稿: hyena_no_papa | 2020年3月 6日 (金) 18時54分