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2021年4月

2021年4月24日 (土)

今日の躓き石 NHKBSスポーツ放送の堕落~「リベンジ」連呼の醜態

                           2021/04/23

 今回の題材は、NHKBSの番組本体でなく、番組予告の絶叫なのだが、今回は、MLB,バスケと相次いでの失態の「リベンジ」連発で、大変聞き苦しかった。バスケの方は、前々から口汚いのに呆れていたのだが、どんな汚い言葉でも、しょっちゅう口に出せば、世間があきらめると思っているのか、そういう中毒脳になっているのか、今回は立て続けだったので、MLBと束ねて手を上げたのである。

 いや、米語の生きた、つまり、汚い言葉を持ち込んで、どこが悪いかと言われそうだが、アメリカは、文明国であり、キリスト教倫理観の国であり、言葉のモラルがあり、言ってはいけない言葉、言うと軽蔑される言葉は、幾つかある。多分、知らないのだろうが、どうか、ガキ言葉を卒業して、大人言葉になって欲しいものである。せめて、全国放送しないで欲しいのである。こどもたちが真似するのである。大人もである。

 それにしても、NHKは、広く、漏れなく受信料を取り立てて経営しているのに、一部とは言え、心ある視聴者が強く反発する汚い言葉を、なぜ、(「無くそう」と言いたいのを我慢して、無理難題は言わず、せめて)減らそうとしないのだろうか。放送の品格、基準はないのだろうか。

 いや、野球シーズン開幕で、見る機会が増えているMLB番組で、元プロ野球選手が「ナイター」とか「セットアッパー」とか、程度の低いカタカナ語を繰り出しているのは気にしていたが、台本を読んでいるわけではないので、脳内のバツの悪い言葉が出てくることもあるかと思って、聞き流しているのである。多分、毎回反省会をして、再発防止していると信じているのである。

 それにしても、NHKBSは、最高峰の言葉が聞ける番組作りをしているのではないだろうか。少なくとも、最高峰のプロスポーツを語る番組では、その場限りの現地実況アナウンサーの真似で、変な、汚い言葉を広げないで欲しいのである。(原語で、revengeと叫んでいるとは思えないのだが)これに比べれば、Golden Grabberなど、ガキのドジ言葉である。

以上

2021年4月23日 (金)

新・私の本棚 番外 NHK特集「シルクロード第2部」第十五集~キャラバンは西へ~ 余談

                           2021/02/03
〇NHKによる番組紹介
 NHK特集「シルクロード第2部」、第十五集は「キャラバンは西へ~再現・古代隊商の旅~」。内戦前だったシリアの人々の暮らしや世界遺産・パルミラ遺跡を紹介する。

古代の隊商はどのようにして砂漠を旅したのか。 隊商都市のパルミラまで、約200kmの道のりを、ラクダのキャラバンを組織し、古代人そのままの旅を再現する。いまは激しい内戦下にあるシリア。80年代、取材当時の人々の暮らしや、破壊された世界遺産・パルミラ遺跡の在りし日の姿がよみがえる。

〇中国世界の西の果て
 この回は、中国両漢代、つまり、漢書と後漢書の西域伝の限界を超えているので、本来、注文を付ける筋合いはないのだが、シリアの探査で、何の気なしに後漢甘英を取り上げているので、異議を唱える。

 つまり、後漢書に范曄が書いた「甘英は、西の果ての海辺で、前途遼遠を怖れて引き返した」との挿話を引いて、地中海岸かペルシャ湾岸か不明というものの、どうも、取材班は、目指す地中海岸を見ているようである。

 しかし、ここまで踏破してきた旅程を思えば、後漢代に、安息国との国交を求めた甘英が、既にメルブで使命を達成していながら、これほどの苛酷な長途を旅したとは思えなかったはずである。まして、当時、この行程は、西のローマとの紛争下、大安息国、パルティアの厳戒下にあり、地中海岸に達する前に、王都クテシフォンで国王に拝謁した記録すらないのに、王都を越えて敵地である地中海岸に達したはずがない。

*笵曄の誤報~幻想の始まり
 そもそも、後漢書で笵曄は、漢使は、安息国すら尋ねてないとの見解で、それは誤解としても、数千里彼方まで行ったとの誤解は、なぜなのだろうか。
 現代人の眼で見ても、安息国東部辺境メルブの西域は、北に延びた「大海」カスピ海とその西岸、「海西」と呼ばれた條支(アルメニア)止まりである。

 後漢書の西域世界像を描いた笵曄は、一旦、小安息の隣国條支の世界観を描きながら、なぜか、数千里に及ぶ大安息国の隣国として、遠国の條支(ローマ属領シリア)と西の海(地中海)を見てしまったのではないだろうか。

 さながら、砂漠の果ての蜃気楼に甘英の道の果てを見たようである。笵曄は、後漢書西域伝の名を借りて、事実に反する一大ファンタジーを描いたのだが、以後、今日に至るまで、不朽の傑作として信奉されているのである。

*甘英英傑談~孤独な私見
 以上は、世界の定説に背く孤独な令和新説だから、NHKの番組制作者が知らなくて当然だが、取材班が、後漢人甘英の足跡を辿っているように感じたとき、一切記録がないことに感慨はなかったのかと思うだけである。

 甘英は、漢武帝代に交渉がありながら、長年、接触が絶えていた西方万里の大国安息国との盟約を再現した功労者なのである。
 当ブログ筆者は、甘英の偉業を笵曄が創作で練り固めたために、偉業として正当に評価されないことに不満で、ここに書き遺すものである。

〇まとめ
 言うまでもなく、当シリーズは、NHKの不朽の偉業であり、以上は、それこそ、天上の満月を取ってこいと命ずるものだが、僭越にも不満を記したのである。

                                以上

新・私の本棚 番外 NHK特集「シルクロード第2部」第十三集~知られざる東西交流の歴史 雑感追記 3/3

                     2021/02/02 2021/04/23

*幻の范曄原本
 先に挙げた、後漢書夷蕃列傳は「笵曄の誤解に基づく勝手な作文」満載なる私見は、魚豢が後漢朝公文書を直視した記述と笵曄が魏略を下敷きに潤色した記述とを対比して得た意見であり、先賢の評言にも見られる「定説」です。

 編者范曄が、重罪を得て嫡子共々処刑され家が断絶したため、范曄「後漢書」遺稿が、著作として決定稿であったかどうか、確実に知ることができません。陳寿「三国志」は、陳寿の手で最終稿まで仕上げられていて、没後、西晋朝の官人が、一括写本の手配を行ったことが記録されています。いわば、三国史の陳寿原本、と言うか、確定稿を、数人ならぬ数多くの関係者や読者が、つぶさに確認しているのです。

 これに対して、范曄後漢書は、いつ、誰が、遺稿を整えたのか不明です。隋唐統一以前、数世紀にわたる南北朝乱世をどのように写本、継承され、唐代に正史に列することになったのか、不明の点が多いのです。従って、范曄原本が存在したのか、関係者が体裁を整えたものなのかすらわからないのです。その意味で言うと、後漢時、范曄原本は、誰も知らないのです。

 このような事態は、史上最高の文筆家を自認したであろう范曄には大変残念な結果と思います。

*袁宏「後漢紀」西域条
 袁宏「後漢紀」は、百巻を超えて重厚な漢書、後漢書と異なり、皇帝本紀主体に三十巻にまとめた、言うならば準正史です。正史でないため、厳格な継承がされず、誤字が目立ちますが、佚文ならぬ善本が継承されています。

 列伝を持たないため、「西域伝」は存在しませんが、本紀に、西域都護班超の功績を伝える記事が残されていて、甘英派遣の成果も残されています。つまり、後漢紀は、西域伝や東夷伝を本紀内に収容したと言えます。

 魚豢「西戎伝」に続き、范曄「後漢書」西域伝の先駆となる小「班超伝」ですが、范曄が遺したおとぎ話は見えません。范曄が、魚豢に続いて、袁宏まで無視した意図は、後世人には知る由もありません。

 范曄は、「後漢書」編纂に際して、諸家の後漢書稿を換骨奪胎したと言いますが、史書として、最も参考になったのは「後漢紀」と思われるので、いわば笵曄の手口を知る手がかりとなるものもあります。

*余談の果て
 と言うことで、番組紀行がメルブを辿ったことから、種々触発された余談であり、これほど現地取材するのであれば、両漢紀の西域探査の果てという見方で、掘り下げていただければ良かったと思うのです。

 また、共和制末期、帝政初期のローマとパルティアの角逐、と言うか、ローマの侵略欲を紹介していただければ、いらぬ幻想は影を潜めていたものと思うのです。

*再取材の希望
 と言うことで、メルブは、仏教布教の西の果てという意義も重要ですが、東西に連なる三大文明世界の接点との見方も紹介して欲しかったものです。
 いや、遠い過去のことはさておき、再訪、再取材に値すると思うのです。西方は、ローマ史に造詣の深い塩野七生氏の役所(やくどころ)に思うのですが、東方は、寡聞にして、陳舜臣氏を継ぐ方に思い至らないのです。

*参考書
 塩野七生 「ローマ人の物語」 三頭政治、カエサル、アウグストゥス、そして ネロ
 司馬遷 史記「大宛伝」、班固 漢書「西域伝」、范曄 後漢書「西域伝」、魚豢「西戎伝」、袁宏「後漢紀」
 白鳥庫吉 全集「西域」
                               以上

新・私の本棚 番外 NHK特集「シルクロード第2部」第十三集~知られざる東西交流の歴史 雑感追記 2/3

                     2021/02/02 2021/04/23
*ローマ・パルティア戦記
 因みに、敗戦には必ず復仇するローマで、三頭政治末期の内戦を制して最高指揮官の地位に就いたカエサルは、パルティア遠征を企てたが暗殺に倒れ、カエサル没後の内乱期、エジプトを支配したアントニウスは、カエサル遺命として、前36年にエジプト軍と共にパルティア遠征したが敗退しています。
 アウグストゥス帝の前21年、本格的な講和が成立し捕虜返還を交渉しましたが、その間30年を要したため、捕虜は、全て世を去っていたといいます。余談ですが、初代皇帝アウグストゥスは、中国の秦始皇帝と大きく異なり、元老院の支持のもと密やかにローマの共和制に終止符を打ちましたが、表向きは、元老院の首席議員の立場にとどまり、専制君主を名乗らなかったのです。

*シリア準州駐屯軍
 ローマ-パルティア間に講和が成立しても、ローマ側では、共和制時代から維持してきたメソポタミア侵略の意図は堅持され、ローマ属州のシリアに総督を置き、四万人を常駐させたのです。

*あり得ない漢使シリア訪問~余談
 范曄は、『後漢使甘英が安息の「遙か西方の條支」まで足を伸ばした』と「創作」したので、「條支」を「シリア」(現在のレバノンか)と見る解釈がありますが、街道整備のパルティアの国土を縦走する行程は、延延百日を要する遠路であり、異国軍人のそのような長途偵察行が許されるはずはなく、まして、その果てに敵国との接触は論外でした。

 いくら、「安息」の名に恥じない専守防衛の国であって、常備軍を廃していても、侵略を撃退する軍備を擁していたのです。

 甘英の本来の使命は、安息国との締盟であって、援軍派兵を断られた以上、往復半年はかかる探査行など論外と見るべきです。西の王都まで数千里の長途であることは、武帝使節の報告で知られていたのです。
 いや、もし、実際に君命を奉じて、(范曄が安息西方と見た)厖大な日数と資金を費やして「條支」まで足を伸ばしたのなら、いかなる困難に直面しても、君命を果たすしかなかったのです。西域と塗膜の副官たる軍人甘英が、使命を果たさずに逃げ帰ったら、そのような副官に使命を与えた上官班超共々、軍律に従い厳しく処断されるのですが、そのような記録は一切残っていません。笵曄は、文官であったため、軍律の厳しさを知らなかったのでしょうが、それにしても、西域都護副官を臆病者呼ばわりするのは、非常識そのものです。
 因みに、班超は、勇猛果敢な軍人ですが、漢書を編纂した班固の実弟であり、文官として育てられたので、教養豊かな文筆家/蔵書家であり、笵曄は、そのような偉材に喧嘩をふっかけたことになるのです。
 いや、当ブログ筆者の意見では、條支は、途方もない西方の霞の彼方などではなく、甘英の視界にある巨大な塩水湖、大海(カスピ海)のほんの向こう岸と信じているので、范曄の意見は、誤解の積み重ねに無理筋を通した暴論に過ぎないのですが、なぜか、范曄の著書は俗耳に訴えるので、筋の通った正論に耳を貸す人はいないのです。

 いや、またもや、長々と余談でした。

*東西交流の接点
 と言うことで、メルブは、「ジュリアス・シーザー」が象徴する西のローマと「武帝」が象徴する東の漢の接点になったのです。さすがに、時代のずれもあって、東西両雄が剣を交えることはなく、「安息長老」(おそらく、当方安息国の国主)が、漢人の知りたがる西の果ての世界に関してローマの風聞を提供したように見えます。

*西域都護班超と班固「漢書」
 改めて言う事もない推測ですが、甘英の西域探査行の詳細にわたる報告は、西域都護班超のもとから、後漢帝都の洛陽にもたらされたものと思われます。また、先に触れたように、班超は漢書を編纂した班固の実弟であり、当然、漢書西域伝の内容は、班超のもとに届いたと思われます。つまり、漢書西域伝は班超座右の書であり、西域都護にとって無駄な探査行など意図しなかったと見ます。

 恐らく、都督府の壁には「西域圖」なる絵図を掲げていたでしょう。(魚豢西戎伝が「西域旧圖」に言及しています)

*范曄「後漢書」の「残念」~余談/私見
 西域探査功労者甘英は、笵曄に「安息にすら行っていないのにホラ話を書いた」と非難され「條支海岸まで行きながら怖じ気づいて引き返した」と軍人として刑死に値する汚名を被っていますが「後漢紀」に依れば、班超が臨んだ「西海」は、メルブにほど近い「大海」、塩水湖「裏海」です。
 よって、魚豢「魏略西戎伝」でも明らかなように、甘英の長途征西は、笵曄の作文と見ます。

 因みに、魚豢「魏略」は、諸史料所引の佚文が大半であるため、信用されない傾向があるのですが、「魏略西戎伝」は、范曄同時代の裴松之が「三国志」に全篇追加したので、三国志本文と同様に確実に継承され、紹熙本/紹興本も、当然、その全容を伝えているので、今日でも、容易に読むことができます。(筑摩書房刊の正史「三国史」にも、当然、全文が翻訳収録されています)

*笵曄の限界と突破
 魚豢、陳寿は、曹魏、西晋で、後漢以来の帝都洛陽の公文書資料の山に接する権限がありましたが、笵曄は、西晋が崩壊した後の江南亡命政権東晋の官僚だったので、参照できたのは「諸家後漢書」など伝聞記事だったのです。諸家後漢書の中で出色の袁宏後漢紀は、ほぼ完本が継承されているので、容易に全文に触れることができ、部分訳とは言え、日本語訳も刊行されています。

                               未完

新・私の本棚 番外 NHK特集「シルクロード第2部」第十三集~知られざる東西交流の歴史 雑感追記 1/3

                     2021/02/02 2021/04/23
〇NHKによる番組紹介
 NHK特集「シルクロード第2部」、第十三集は「灼(しゃく)熱・黒砂漠~さいはての仏を求めて~」。旅人が歩いた道の中で最も過酷なルート、カラクム砂漠を踏破する。
 シルクロードの旅人が歩いた道の中で最も過酷なルート、カラクム砂漠。何人も生きて越えることができないと言われた死の砂漠である。取材班はその道をトルクメンの人々の案内で踏破、チムール時代の壮大な仏教遺跡が残るメルブまでを紹介する。

〇待望の再放送~余談の山
 滅多にお目にかかれないメルブ(Merv)を見たのは貴重でしたが、漢代以来、東西を繋いだメルブの意義が見逃されているのは残念です。

 メルブは、漢書「西域伝」、後漢書「西域伝」で「西域」つまり漢の世界の西の果ての大国として紹介された「安息国」の国境要塞でした。

 そのため、漢武帝使節と後漢西域都護班超の副官甘英の97年の探検行が、西方では「パルティア」と呼ばれた「安息国」国境要塞メルブを、訪問行の西の果てとしたことの意義が見過ごされています。

 大「パルティア」首都、遙か西方メソポタミアの「王都」クテシフォンに、(強暴な)武人である漢使が詣でて、大「パルティア」国王に謁見することは論外でした。

 そのため、両代漢使はメルブで小安息国長老と会見し使命を果たしました。国都に参上せず国王に謁見しなくても、漢使の任務を果たしたのです。

 倭人伝解釈に於いて、随分参考になる前例です。

*メルブの意義
 当時、イラン高原を統轄していた大「パルティア」は、東西交易の利益を独占して当時世界一の繁栄を得ていましたが、その発祥の地でもあるメルブ(Merv)地域を最重要拠点として守備兵二万を常駐させていたのです。

 東方から急襲した大月氏騎馬戦力の猛攻により、国王親征部隊が壊滅して国王が戦死した前例があり、以後、大兵力を固定して、東方の蛮族(大月氏)の速攻に臨戦態勢で備えていたのですが、漢書「陳湯伝」で知られる匈奴郅支単于の西方侵攻のように、月氏事件は、空前でもなければ絶後でもなかったのです。

*西方捕虜到来
 因みに、大「パルティア」は、西方のメソポタミア地方では、ローマ軍の侵入に対応していて、共和制末期の三頭政治時代、シリア属州提督の地位にあった巨頭クラッスス(マルクス・リキニウス・クラッスス)の率いる四万の侵入軍を大破して一万人を超える捕虜を得て、「パルティア」は、一万の捕虜を東方国境防備に当てたとされています。(前54年)
 降伏した職業軍人は、遠からず両国和平の際に和平時に身代金と交換で送還されると信じて、数ヵ月の移動に甘んじたのです。ローマ側としては、生き残った万余の兵士を無事帰国させるために、司令官を引き渡し、捕虜をいわば人質として提供したしたものです。

 欧州側では、「東北国境」と云うことで、寒冷地を想定したようですが、メルブは、むしろ温暖なオアシスであり、何しろ、凶悪な敵を食い止める使命を課せられていて、それなりの処遇を得ていたはずです。この時、一万人の捕虜を得たおかげで、一万人の守備兵を帰宅させたので、地域社会(パルティア発祥の地)に、大きな恩恵を与えたのです。

 なお、ローマ正規軍には、ローマの中級市民兵士や巨頭ガイウス・ユリウス・カエサル(シーザー)が援軍としたガリア管区の兵士も含まれていたから、一時、メルブには、土木技術を有し、ギリシャ語に通じた教養のあるローマ人が住んでいたことになります。恐らく、両国軍人の会話は、ギリシャ語で進められたはずです。いや、まだ、アレキサンドロスか率いたギリシャ語圏の兵士や商人がいたかも知れません。
 また、漢書西域伝に依れば、安息国人は、比較に横書きで文字を書き付けていたようですから、共に、文明人だったのです。

                                未完

2021年4月15日 (木)

新・私の本棚 番外 NHK特集「シルクロード第2部」第十四集~コーカサスを越えて~ 雑感追記 3/3

               2021/02/03   追記 2021/04/15 補足 2021/11/26
閑話休題

○ローマ金貨の行方
 オアシス諸国だって「巨利」では負けてなかったはずで、二倍、三倍と重ねていたとすると、消費地ローマでの「価格」は、原産地中国の「原価」の一千倍でも不思議はありません。(世界共通通貨はなかったから、確認のしようはないのですが)

 西の大国ローマは、富豪達の絹織物「爆買い」で、金貨の流出、枯渇を怖れたようですが、厖大なローマ金貨は、パルティア、ペルシャを筆頭に行程途中の諸国、諸勢力の金庫に消え、原産地に届いていません。

 行程諸国が、山賊、掠奪国家の暴威も、死の砂漠もものともせず、東西交易を続けたわけです。何しろ、原産地と消費地が交易の鎖で繋がっていたから、さながら川の流れのように、ローマの富が絶えることなく、東に広く流れ下ったのです。

 ローマ帝国は、後年、積年の復讐として、投石機などの強力な攻城兵器を擁した大軍で、メソボタミアに侵攻し、パルティア王城クテシフォンを破壊し国庫を掠奪して、度重なる敗戦の「憂さ晴らし」としたのです。

 勝ち誇るローマ軍は、意気揚々と、当時の全世界最大と思える財宝を担いで凱旋し、一方、権力の源泉である財宝を失ったパルティア王家は、東方から興隆したペルシャ勢力に王都を追い出されて、東方の安息国に引き下がったのです。

 ローマは、地中海近くのナバテア王国を圧迫したときは、砂漠に浮かぶオアシス拠点、ペトラの「暴利」を我が物にするために「対抗する商都」を設けてペトラ経由の交通を遮断し、その財源を枯渇させましたが、イラン高原全土に諸公国を組織化していたパルティアの場合は、さすがに、代替国家を設けることはできず、また、いわば、黄金の卵を産み続ける鵞鳥は殺さず、太った鵞鳥を痛い目に遭わせるのにとどめたのです。

 ローマ帝国は、賢明にも、古代帝国アケメネス朝ペルシャを粉砕して、東西交易の利を確保しようとしなかったアレキサンドロスの「快刀乱麻」は踏襲しなかったのです。結局、ペルシャ全土に緻密に構築された「集金機構」を壊しただけで、ギリシャ/マケドニア本位に組み替える事もせず、大王の死によって武力の奔流が絶えた後は、ペルシャ後継国家が台頭しただけであり、要は、鵞鳥が代替わりしただけでした。

○まとめ
 シルクロードは、巨大な「ビジネスモデル」です。

*補足
 以上の記事の主旨を理解いただいていない読者があるようなので、若干補足します。
 
 まず、NHK特集「シルクロード第2部」は、大昔の番組ですが、最近再放送があったので、目にする方が多いと見て、注釈を加えたのです。
 「再放送」は、デジタル時代にあわせて、リマスターされたものの、内容は初回放送当時そのままであり、それ以来の時間経過を含めて、批判しておくべきと考えたものです。
 また、この地帯の再度の取材による「新シルクロード」が制作されていますが、当然、ここで展開された歴史観は踏襲されていて、依然として、大変大きな影響力を示しているので、その意味でも批判が必要と見たのです。

*第2部の偏倚
 一番、不満なのは、第1部が、中国史料と中国現地取材が結びついた堅実な時代考証に基づいていたのに対して、第2部は、ロシア、中央アジア系と思われる西寄りの史料に傾倒していて、中国史料を棄てている点です。それが、特に顕著なのは、漢書、後漢書などに見られる「安息国」及びそれ以西の世界に関する考察が無い点であり、大変不満に思えるのです。

 つまり、漢代中国史料の西域記事は、当時の中原から想像した、西の果てにある世界でさらにその西を見たおとぎ話が多く、あちこちに茶番めいた失態がありますが、この場で、それらの突き合わせをする事で、「ローマと漢を結んだ」「シルクロード」交易なる歴史浪漫の幻像が是正されると見たのですが、未だに満たされていないのです。

 また、先立つ回で無造作に描写されているマーブ要塞が、漢代、パルティア王国の東の守りであり、2万の守備兵に、一時、1万のローマ兵捕虜が加わっていたという興味ある挿話に触れていないのは、大変、大変勿体ないのです。
 また、兵士を主体に百人を要したと思われる漢の使節団が到達した「安息」は、安息国の西の王都でも無ければ、地域の居城であるカスビ海岸の旧都でもなく、マーブ要塞だったという事も、取り上げる価値があったと思うのです。突然切り捨てられた中国史料の視点が、大変残念なのです。

 確かに、当番組は、東西交易を隊商の駱駝の列が往来していたサラセン時代以降を主眼としているように見えますが、かたや、漢代シルクロード浪漫を言い立てているので、不満が募るのです。

                                以上

新・私の本棚 番外 NHK特集「シルクロード第2部」第十四集~コーカサスを越えて~ 雑感追記 2/3

               2021/02/03   追記 2021/04/15

*「條支」という国~私見連投
 「條支」は字義から「分水嶺、分岐路を占めた大国」との趣旨のようですが、地理上、北は峻嶺コーカサス山地が遮断し、南は強力なパルティアやペルシャが台頭して国境越えの交易を管制していたでしょうから、東西交易に専念した街道だったようです。パルティア時代、表立って漢と交際できなかったが、「安息は、買値の十倍で売って巨利を博している」との風聞が記録されています。こうした貴重な現地情報を残した甘英を顕彰したいものです。

 なお、「條支」も、当然、東西貿易独占で巨利を博したから、コーカサスを越える往来希な山道の密貿易も横行したようですが、あくまで、脇道です。「條支」が巨利を博したからこそ、抜け道の危険は十分報われたのです。

 当番組は、南道と見えるイラン高原経由をシルクロード本道と見て、中南道とでも言うべき、裏海~黒海道、「條支」経由を軽視したように見えます。確かに、アゼルバイジャン、アルメニア、グルジア(現ジョージア)の各地で取材はされていますが、それが、「シルクロード」の有力な支流だったとの説明は無いように思います。

 取材された事例が、後漢代から、五百年から一千年過ぎた時代の話ですから、研究者の時代感覚が違うのかも知れませんが、太古以来、商材は変わっても、有力な脇道であった事情に変わりはないのではないかと思うのです。高名な「トロイア」は、この東西交易の黒海下流で、巨利を博していたかも知れないと思うのです。もちろん、ここで述べられた歴史観は、多分、取材班が、地域の旧ソ連圏の研究者から学んだものでしょうが、中国西域としての視点が欠けているのは、何とも、残念です。

○白鳥西域史学の金字塔
 何しろ、中国側には、漢書、後漢書の盛時以降、魏代の閉塞も、北魏、北周の北朝時代に回復し、隋唐の西域進出に繋がる豊富な史料が、正史列伝に継承されていて、世界初の西域史学の創設者と言える白鳥庫吉(K. Shiratori)氏が、これら全ての西域伝を読み尽くして、労作を残しているので、欧州研究者は、まず、白鳥氏の著作を学び、次いで、原典である諸正史を学んでいます。

○魏略西戎伝の金字塔
 特に、「魏略西戎伝」は、それ自体正史ではありませんが、正史「三国志」に綴じ込まれているので、正史なみに適確に継承され、スヴェン・へディンなどの中央アジア探検行の最高の指南書とされています。それにしても、NHKが、「シルクロード」特集を重ねても、一貫して中国史料を敬遠しているのは、不可解です。

○「後生」笵曄の苦悩
 因みに、范曄は、後生の得で、袁宏「後漢紀」の本紀に挿入された西域都護班超に関わる記事と魚豢「魏略西戎伝」の大半を占める後漢代記事とを土台にして、後漢書「西域伝」をまとめ上げたのです。つまり、魏代以来、中国王朝は、西域とほぼ断交していて、魏晋朝と言うものの、西晋崩壊の際に洛陽の帝国書庫所蔵の公文書が壊滅したため、南朝劉宋高官であった笵曄は、西域伝の原史料は得られず、代々の史官ならぬ文筆家の余技であったので自家史料も乏しかったのです。

 そのため、笵曄は、魏略「西戎伝」後漢代記事の転用に際して、知識不足で史料の理解に苦しみましたが、建康に在って西域の事情を知るすべはなく、結局素人くさい誤読・誤解のあげくに、創作(虚構)の目立つ「西域伝」を書き上げた例が幾つか見られ、史料としての評価は随分落ちるのです。

 

                                未完

新・私の本棚 番外 NHK特集「シルクロード第2部」第十四集~コーカサスを越えて~ 雑感追記 1/3

               2021/02/03   追記 2021/04/15 訂正追記 2021/11/26
〇NHKによる番組紹介
NHK特集「シルクロード第2部」、第十四集は「絹と十字架~コーカサスを越えて~」。雄大なコーカサス山脈を縫いながら、絹交易のもうひとつのルートを明らかにする。
カスピ海の西岸モシチェワヤ・バルカで唐代の中国製絹が発見された。絹の出土地としては最西端にあたる。中国とローマを結ぶ絹交易は、税金の高いササン朝ペルシャを避け、カスピ海北岸をう回、コーカサス地方を縦断して行なわれていた時代がある。雄大なコーカサス山脈を縫いながら、絹交易のもうひとつのルートを明らかにする。

〇ささやかな誤解
 当番組の時代考証では、ペルシャを代名詞としているイラン高原の勢力を回避した「もう一つのルート」を考察していますが、コーカサスの高嶺を越えたと見ているのはどうかと思います。

*訂正
 今回再放送を確認したところ。番組が取り上げていたのは、ササン朝時代の状況であり、漢代、バルティア時代の視点にとらわれて、誤解した点をお詫びします。
 パルティア時代、当地を支配していたのは「アルメニア王国」であり、裏海-黒海の分水嶺の尾根を占拠していたアルメニア人が、東西の海港をも支配し、東西交易から収益を確保していた上に、政治的には、西のローマに対する牽制として、パルティアから親戚扱いされていた事から、こそこそ抜け道を迂回する必要はなかったのです。
 しかし、西のローマは、パルティア攻略の前提として、アルメニア王国の攻略を行い、強力な攻城兵器とシリア準州で臨戦体制を続けていた四万の常備軍に近隣諸国の援軍を加えた不敗の体制で、各地の山城をことごとく陥落させて、ローマの属国とし、パルティア東部への攻勢を見せて、メソポタミア領域の攻略に出たのです。
 結果、パルティアは、王都を攻略されて厖大な財宝を全て奪われて、全土を統制する威勢を喪い、東南方のペルシャ勢力に王国を奪われたのです。結果、ササン朝帝国が誕生しましたが、同帝国は、コンスタンティノープルの東ローマ帝国に移行した「ローマ」と対立を続け、ユーフラテス川流域の帰属を争ったために、アルメニアの黒海貿易を、高率の関税を課す事によって、厳しく規制したものと見えます。
 つまり、当番組は、西の東ローマ帝国との交易を事実上禁じられたアルメニアの苦肉の策して、コーカサス越えの「禽鹿径」交易を描いたものであり、同時代、及びそれ以後の時代考証としては正確と思われますが、交易への規制は、時代によって異なるので、何とも言えないのです。

 以上、大づかみな時代区分を誤った、連投違いの批判を欠いた事をお詫びします。

*條支に至る道~魏略「西戎伝」
 ササン朝時代の前である、後漢代に安息国を訪ねた甘英は、西の大海カスピ海の中部を横断する「海路」を確認し、その報告は、三国魏の魚豢編纂の魏略「西戎伝」(陳寿「三国志」の魏書第三十巻巻末に全文収録)に記録されています。

 往年の安息(パルティア)東部要塞メルブから北上した海東の港から、大海の西岸である海西、今日のアゼルバイジャンのバクーにあたる半島(大海海中の島)に至ります。裏海(カスピ海)は塩水で水の補給が課題と言っても、数日で着くので難路でもなんでもありません。

 地域の地形を確認すると、「大海」の南岸は低湿地である上に、地域勢力である「メディア」(中の国)の勢力範囲であったために、両国間の行程として常用していなかったのかも知れません。西戎伝には、「大海」南岸に安息と條支の国境があって、條支側の城から海岸沿いに遡って北に行く陸路行程が書かれているから、場合によっては、こちらを陸行したのかも知れません。

 このあたり、後漢の使節団が踏破したかどうか不明ですが、途中の渡河も含めて、まことに丁寧です。何しろ、目前の隣国で安息長老(公国の国王か)は、使節団を率いた甘英に対して、懇切丁寧に絵解きしたはずです。

○西域「海西」の正体~大海西岸の大国「條支」
 海西は、対外的には、「裏海」岸から「黒海」岸に至るアルメニア王国として、ギリシャ、ローマに知られていたとしても、裏海側はアゼルバイジャン民族、黒海側はグルジア(現ジョージア)民族が、それぞれ支配する高度な自治の状態だったかも知れません。イラン高原を含め、当該地域の各国は、中央集権ではなかったので、各国の内情はわかりませんが、現在の現地状勢からそう見ているのです。

 ともあれ、ここは、当ブログ筆者の孤独な「新説」によれば、西域伝で安息長老が「條支」と呼んだ西の大国であり、イラン高原を含めた地域の歴史から見ると、安息国成立のはるか以前から、黒海-裏海間の要地を占めて東西交易を仕切っていたとみるのです。何しろ、北のコーカサスは、急峻な壁であり、よほどの事情がない限り、大規模な交易路とはなり得なかったと思われるのです。

 安息国は、当初、條支に師事していたとの風聞が残されていますが、まだ、安息が、裏海東岸に定住したばかりで、弱小地方勢力だった時代、東方物産の仕入れ先として利用したものと思われます。その時点では、西方のイラン高原は、メディアないしはペルシャの巨大勢力が占拠していたので、安息は、大勢力のいいなりにならないために、條支交易を利用したものと見えます。
 西方のペルシャは、強力な支配者でしたが、西方ギリシャ勢力の侵略であるアレキサンドロス三世軍との対決で一気に壊滅し、ペルシャ地域は、大規模な破壊を被ったので、支配の緩んだ状況下で、東の小勢力、パルティアが台頭し、諸勢力の支持を集めて、アレキサンドロス亡き後のイラン高原を支配したものです。
 という事で、関係諸国の関係を概観しただけでも、支配-被支配の力関係は、時代時代のものであり、また、必ずしも、武力が国益に繋がるものでない事が見えてくるものと思います。

                                未完

2021年4月14日 (水)

新・私の本棚 石野博信討論集「邪馬台国とは何か」田中琢銅鏡論 2/2

 吉野ヶ里遺跡と纏向遺跡 新泉社 2012年4月刊

私の見立て 星無し ただし、本記事に限定       2021/04/14

○書記の変格・不法記事考察
 因みに、国内史料日本書紀は、景初三年記事を「明帝景初」と改竄しています。

 書紀編者は皇帝元日逝去の史実か、翌年改元の制度のいずれかをを知らず、好意的に見ると、景初三年中、何ヵ月かは皇帝が存命だったから、そう呼んだとの先入観でしょうが、田中氏は、冒頭の「史料読まず・知らず」という自罰高言を裏付けるように、いずれの史料も「読めていない」不勉強を露呈しているのです。いや、はなからデタラメ満載とみて、読もうとしていないのでしょうか。
 では、記紀も読まない、以下の史書も読まないのでしょうか。一体、何を根拠に、こうした暴論を言い続けるのでしょうか。

○石野氏弾劾発言の考察~敬意無き乱闘発言
 個人発言の後の、討論という名の意見交換で発生した大事件は、石野氏罵倒暴言です。
 銅鏡舶来・非舶来論議で、石野氏は「不勉強」と、大人の態度で、持論を公言するのを避けましたが、暴言氏は、まるで理解していないようで、「だったら勉強しろ」と言い放ちます。子供の口喧嘩みたいです。

 まさに、この暴言は、自罰発言です。素人目にも、石野氏は、考古学の分野の最高峰であり、広範、深遠な見識を備え、当然、銅鏡の由来に定見を持っているはずですが、専門外への介入を避けたと見えるのです。(当方の銅鏡論は、定見に至っていないので、ここでは批判も何もいたしませんが、暴言は、敗勢を自覚した側から、自暴自棄隠しとして出るものです)

 さらに深意を察すると、氏の意見は立場に相応しくないので明言を避けたと憶測されます。詮索を避け、「不勉強」発言をしたのは、まことに賢明です。

○見当識喪失の発言
 単純思考の持ち主である暴言氏は、これが、討論でなく衆知の結集を聴衆に伝えるであるとの意義を失念し、討論論客が誰かも忘れ、大先輩に論敵面罵発言を呈したのです。正直の所、これ程の暴言が公開されたのは驚きです。

 田中氏は、「失見当識」に加え、書面発言を問わず、文章深意の理解力に欠けているようです。暴言蔓延防止のため、治癒まで蟄居謹慎をお勧めします。

*最後の暴言
 田中氏は、最後に、またもや、根拠の無い暴言を発して何とも無残です。

 曰わく、『昔はみな邪馬台国を「やまと」と読んでいた』との証拠はどこにあるのでしょうか。氏は、史料を信じませんが、倭人伝にない「邪馬台国」を論じるのに、氏は何を信じているのでしょうか。奇っ怪です。まして、唯一信ずるに足る史料にない、手前味噌の国名の発音など、何の根拠もないのです。

*暴言救済
 水野正好氏が、取り繕うように蘊蓄を傾けますが、要は、『倭人伝に現実に書かれている「邪馬壹国」は「邪馬臺国」である』との改竄に始まって『「邪馬臺国」は「邪馬台国」と同発音』『「やまたい」でなく、「やまと」と発音した』と大変迂遠で、大飛躍連発であり、論理の鎖が繋がっているかどうかの不信は別として、これは、田中氏の持論に真っ向から挑戦するものと見えます。一向に、取り繕えていないのです。

*暴言フォローへの愚行
 水野氏の発言を理解できないのか、田中氏は、またもや『「やまと」と読んでいた』と暴言します。つけるクスリがないのでしょうか。

 「戦後変わったがそれ以前の昔は」と言う意図であるとしたら、倭人伝の時代である250年頃から周旋の1945年までの期間の発音の「信頼できる」記録史料はあるのでしょうか。と言うより、この暴論者は、信用できるのでしょうか。
 これでは、田中氏の銅鏡観の同調者は、氏の「無知と不勉強」に同調・加担していると見なされ、暴言者に連座して、不見識だと自罰することになるのです。

○小結尾
 田中氏の発言は、「邪馬台国」纏向派の足もとを根こそぎ掬います。
 主張のためには、唯一の同時代史料の倭人伝を「落書き」扱いするしかない、追い詰められた姿を露呈して、逆効果の自罰行為なのです。

 石野博信氏ほどの泰斗が、暴論の徒を招請したのは勿体ないと思います。そして、席上受けた罵倒を、愚直に収録したことに複雑な所感を覚えます。

                              この項 完

新・私の本棚 石野博信討論集「邪馬台国とは何か」田中琢銅鏡論 1/2

 吉野ヶ里遺跡と纏向遺跡 新泉社 2012年4月刊

私の見立て 星無し ただし、本記事に限定       2021/04/14

○はじめに
 本書は、掲題の通り考古学界の泰斗である石野博信氏が主催した当分野に関する討論会の集大成であり、本稿は、就中、「1992 邪馬台国ヤマト説 考古学から見た三世紀の倭国」と題された討論会記録の批判です。好著への批判は不本意ですが、総監督石野氏への責めと理解いただきたい。

○「銅鏡百枚から見えてくる邪馬台国」
 本記事の題材は、水野正好、石野博信、田中琢(みがく)三氏の講演と続く討論ですが、やり玉に挙げているのは、最後の田中氏の「発言」です。上げたのは、氏の設定した小見出しですが、看板にもならない、ボロボロのものです。

*「無知と不勉強」前提の提議
 不審なのは、高度な学術的な討論の場と期待されている席に、なぜ、このような無知、不勉強な輩(やから)の登壇と無法な決め付け発言が許容されたかということです。石野氏に人選責任があるのでしょうか。
 発言内容をなぞると、以下の感じです。

*根拠なき史料不信説諭
 何を考えてか、いきなり、低俗な史料不信を開陳します。
 具体的な記事をサカナに論(あげつらう)のでなく、自身の狭く浅い見識に基づく所感を強弁し、果ては、「お見合いに提出される釣書が、ウソばかり」との「風聞」を取り上げて、それが、史料不信の根拠とされています。胡散臭い古代史講演で定番の、自身の実体験らしい「卑近」ネタで、退席せずに我慢するしかありません。

 この下りは、誰に向かって講釈しているのか不審です。ある程度、古代史の史料考証に慣れていれば、氏が、専門外では一介の門外漢で、無資格と自白していると見て取れます。無様な自己紹介です。「金返せ」です。

 いい年をして、自身の狭くて浅い了見で世界を推し量るのは大した度胸ですが、実史料に言及せずに、はなから、ご自身の「無知と不勉強」を高言していると思う次第です。いわば、「史料読まず・知らず」と言う自罰発言です。

 ご自身の保身は別として、どうか、他人を巻き込まないでいただきたいものです。
 「無知と不勉強」は、自習し、適切な指導を仰いで是正するものです。「病的」と言われかねない性癖ですが、病気ではないからつけるクスリはありません。

*不似合いな前置き~動機不純な文献排除
 なぜ、そのような途方もない思い込みを言い立てるかと推察すると、要は、本題の銅鏡談義で、二千文字程度の倭人伝すら持論を妨げる鉄の壁なので、捨て身で排除しているようです。「目的のために手段を選ばない」とは「カラスの勝手」ですが、見え見えの暴言は逆効果と悟るべきです。対象非限定の史料全面否定では、「良識ある人」は、共感、支持を憚(はばか)るはずです。

 と言っても、田中氏の持論は、古代史学界で分の悪い「三角縁神獣鏡舶来」説ですから、苦し紛れに倭人伝を排除しても仕方ないのですが、本稿の発言の冒頭で度を過ごして力説しているのは、それだけ持論が崩壊していると見せているのです。

*「無知と不勉強」の好例~景初・正始論議の不覚
 「無知と不勉強」の好例として、ようやく「倭人伝」に言及して、景初三年に関する発言が提示されます。氏は、勝手に、魏帝逝去時、直ちに改元したと思い込んでいますが、景初~正始の経緯は自明で、景初三年元日皇帝逝去、即日新帝即位で、その年は皇帝なしの景初三年が続き、翌年元日に正始改元です。
 即日改元説なら景初三年は存在しませんが、氏は無知の強みで無頓着です。

 大抵の倭人伝読者には常識でも、氏の周囲では無知が常識なのでしょう。

                                未完

2021年4月13日 (火)

今日の躓き石 囲碁界に怨念復讐の渦~毎日新聞の「リベンジ」蔓延拡大

〇蒸し返し御免
 今回の題材は、毎日新聞大阪夕刊芸能面のトップ記事である。何しろ。見出しの脇に「リベンジしたい」と、堂々と罰当たりな発言が引用されている。十日前の記事のコビー・ペーストでもないだろうが、こうしたことに創意を発揮してほしいものでもないので、当記事は、かなりの部分で蒸し返しである。
 何しろ、全国紙毎日新聞の看板の本因坊戦挑戦者決定記事の見出しであるから、毎日新聞の沽券に関わる、あるいは、主催紙の面目躍如たる報道であろう。

〇意味不明な見出しの不備
 それにしても「リベンジしたい」とは、一介の購読者には、何を言いたいのか意味不明である。
 「リベンジ」なるカタカナ言葉は、意味が揺らいでいて、原語の「revenge」を辞書で引いて「血の復讐」と理解する人もいるだろうし、現代風に「再挑戦」と読み飛ばす人もいるだろうが、今回の両記事の理解には役立たない。訳のわからない言葉で、世間を汚染するのが、毎日新聞のポリシーなのだろうか。

 こうして、二度に亘る不出来な記事に対して、編集部で、誰もダメ出ししなかったのが、まことに不思議である。ここでは、挑戦者はタイトル戦の舞台に立つことが確定しているから、「リベンジ」は、「再挑戦」の意味でなく「怨念復讐」という血なまぐさい言葉のように読める。
 それにしても、「リベンジしたい」とは、血の海に沈めてやり「たい」という「願望」なのだろうか。滅多に見かけない凄まじい言い方である。

 リベンジの害悪は別にして、ここは「したい」ではなく「する」ではないのだろうか。なぜ、誰でもわかる言い方をしないのだろうか。こんな所で、創意を発揮しても仕方ないのではないか。

 持って回った言い方をしなくても、挑戦する以上は、「是非とも勝ちたい」というのではないだろうか。いや、挑戦者もタイトル保持者も、負けたいと思うはずはないから、「勝ちたい」という思いは言うまでもないことなのである。挑戦者は、「結果にこだわらずに打てたら良い」などと、主体性のない、不出来な発言を引用されているから、記者がけしかけたのかも知れないが、「リベンジ」などと、読者がどう解釈したらいいのかわからない「暴言」は不要であり、単に「結果にこだわらずに打ちたい」と明言すれば、何のとがめ立てもあり得ないのである。
 是非、ご自分の発言が、記者の手で歪められたり、捏造されたりしないように、談話には注意いただきたいものである。

 それにしても、タイトル保持者の九連覇目を実現させた前期の敗退を、(自身の力不足と言わず)不当な屈辱と捉えて、今期は、仕返しでぶちのめしてやると言うのはどんな志(こころざし)なのか、大変不審である。普通、このような場合には、「雪辱」とか「仕返し」とか、言わないはずである。

 しつこいとがめ立てであるが、ここまで汚い言葉をことさらに目立たせていると、一言言わざるを得ないのである。毎日新聞には、こうした不適当な言葉に対する基準などないのだろうか。

〇 毎日新聞の談話捏造疑惑
 天下の毎日新聞が、引用している談話から見出しを起こしているから、挑戦者の発言の忠実な報道と見たいところであるが、毎日新聞には、悪しき疑惑が投げかけられている。

 今年の選抜高校野球の事前の報道で、一回戦で対戦すべき東海大関係の二校について、地元記者が地方版サイトで報道している記事の談話に一切ない「リベンジ」を、スポーツ面担当記者が「創造」した事例がある。
 恐らく、関係者に取材しようとしても、毎日新聞の記者には、時間をかけて説明したので、何度も同じ事を言えないと言うことで、十分な取材ができていないと思われるのである。最初から、紙面に何を書くか決めていて、問い詰めたのかも知れない。いずれにしろ、お粗末である。

 この前歴があるので、当記事の発言引用も、記者の勝手な決め込みかも知れないと見ざるを得ないのである。

 つまり、挑戦者の人格を疑わせるようなとんでもない不穏当な汚い言葉の発言を、担当記者が「創造」したのではないかという疑惑は消えないのである。

 何にしろ、この記事で見られる表現の混乱は、目を覆わせるものがある。挑戦者は、文章を全国紙紙面に掲載する訓練を一切されていないし、新聞社の基準に従う用語、言い回しをできていないかも知れないから、専門家たる上級記者が、最後の護り人になるべきではないのか。
 当記事を読者が目にしたとき、見出しの言葉は、挑戦者の品格を疑わせると受け取っても、担当記者の文責とは思わないのである。

〇 頂上決戦には頂上報道を
 「囲碁界の頂上決戦」には、相応しい頂上報道が望まれるのではないだろうか。人ごとながら、大変気がかりである。

〇 蛇足
 いや、正直なところ、今回の記事を何とか読み通して、挑戦者の発言を辿った所で、氏一流の独特の物言いに精一杯歩み寄っても、「何とか勝てるようにしたい」、と言う意味しか出てこない。
 見出しで異様な言葉をぶつけても、記事で解説しないのでは、挑戦者の深意は、到底理解されないのである。新聞報道としては、随分無責任ではないだろうか。

 本因坊をさん付けしかしないのも、挑戦者の世界観が、正統的なものとずれているのを物語っている。本因坊と挑戦者は、対等ではないのである。本因坊を呼ぶのに敬称略では、たまるまい。挑戦者は、「本因坊」は、ただの飾りだと思っているのだろうか。毎日新聞社は、四百年の伝統の重みを託している本因坊の価値を落とされて、それで主催紙として満足なのだろうか。そして、それでは、熱心な読者に失礼ではないのだろうか。

以上

2021年4月11日 (日)

今日の躓き石 ラグビー界に「リベンジマッチ」を蔓延させる毎日新聞の報道

                                   2021/04/11

 本日の題材は、毎日新聞大阪朝刊14版のスポーツ面、ラグビートップリーグ戦評である。

 これまで、野球界にほぼ限定されていた怨念復讐語がラグビー界に蔓延を見せたとも見える「リベンジマッチ」であるが、選手などの談話でなく、記事の地の文であるから、これは、記者が感染爆発を期したもののように見える。

 それにしても、ラグビー界は、独特の言い回しを好むようで、「リベンジマッチ」は、「マッチ」と言うだけで、「タイトルマッチ」「リターンマッチ」とは別世界で、昨シーズンに惨敗を喫した、いわば、格下の弱者が、事を「復讐談義」にしているが、普通は、このようなことを「雪辱」とは言わないものである。

 いや、これは、見当違いの方向に詰問しているのだろう。書かれているのは、ラグビー界の声でなく、記者が勝手に作り上げた「創作」なのだろう。そうでなければ、ラグビー界に、このような罰当たりな汚い言葉の感染、蔓延が存在していることになり、とても、微力の及ぶところではないのであり、ただ、時の勢いに恐れ入るしかないのである。

 それが、毎日新聞記者によって、傲慢な復讐譚に書き換えられてしまったのなら、何とも、気の毒である。知る限り、昨年の大敗の痛みは、「ノーサイド」によって、恨み言の対象ではなくなっていると思うのだが、素人考えは、間違っているのだろうか。
 ラグビーの「マッチ」で、報復行為は固く禁じられていると思うのだが、間違っているだろうか。

 と言うことで、昨年の敗者は、力不足を恥じて、黙々と鍛錬に励み、今度こそは、何とか勝負にしたいと思っていたと信じたいのである。毎日新聞の報道が、虚報であると主張するのは無謀であるが、それならそれで、なおさら引っこんではいられないのである。

 毎日新聞のスポーツ記者は、書いて出すだけで、紙面を飾る特権を持っているのに、大事な「ものの理屈」を学ぶことはないのだろうか。勿体ないことである。

以上

2021年4月 5日 (月)

私の意見 倭人伝「循海岸水行」審議 補追     1/1

〇はじめに
 倭人伝道里行程記事の冒頭に置かれた「循海岸水行」の追加審議です。

〇「循海岸水行」用例審議
 古田氏は、第一書『「邪馬台国」はなかった』ミネルヴァ書房版 174ページで、倭人伝「循海岸水行」の「循」の典拠として左氏伝 昭 23から用例を求め、「山に循て南す」の注で「山に依りて南行す」と解しています。「循」は「依る」または「沿う」と解した上で、幾つかの用例を三国志に求めて暫し詮索の後、「海岸に沿う」と解しています。

 氏の解釈は、陳寿が、敢えて「循」と書いた真意を解明していないことから、同意できませんが、それは別としても、旗頭とした古典典拠は、陳寿が依拠していた「左氏伝」ですから、「左氏伝」用例が妥当であれば、その一例を本命として絞るべきと考えます。

〇諸用例の参照
 魏志用例は、数稼ぎでもないでしょうが、用例の趣旨が明瞭でないので、揚げ足取りされるなど審議の邪魔になるだけで、まことに感心しないのです。但し、読者に対して公正な態度を示す意義はあるのかも知れません。とは言え、「枯れ木も山の賑わい」とは行かないのです。

 なお、当方は、以下のように、古田氏の「左氏伝」読解は、ずいぶん甘いと感じます。

〇字義の確認
 まず、「依」の字義は、白川静氏の辞書「字統」などの示すように「人」が「衣」を身に纏い、背に「衣」を背負っている様子を言います。
 ここで、山に「依る」は、山を「背負う」比喩と解されます。一方、「山」は、山嶺、山並みではなく弧峰ですから、山に「沿う」経路行程は想定しがたく、山を「背負って」進む行程と察するのです。

 当用例により語義解釈すると、倭人伝の「循海岸水行」の深意は、「海岸を背負って海を渡ることを水行という」と解して無理はないと思います。何しろ、史官たるものが、わざわざ「循」を起用したのには、格別の意義があると考えたものです。
 別稿で、「循」は、海の崖を盾にして、つまり、前方に立てて、行くものと解釈しましたが、趣旨というか進路方向は同様なので、一票賛成票を得たものと心強くしています。

 このように見ると、倭人伝では、「水行」は河川航行でなく、「渡海」を「水行」と明確に、但し厳密に限定的に「指定」(用語定義)しています。「倭人伝」の「指定」以下での限定です。つまり、倭人伝の道里行程記事で、「水行十日」は、狗邪韓国から末羅国までの渡海、計三千里なのです。水行一日三百里と、まことに明解です。

〇用語定義の必要性~私見
 誤解されると困るのですが、当ブログで辛抱強く説明しているように、古典的な用語定義に従うと、川であろうと海であろうと、渡し舟の行程は陸行の一部ですが、はしたなので所要日数も道里も書かないと決まっているので、狗邪韓国から末羅国までの渡し舟の行程道里、数千里、数日は、勘定しようがないのです。
 つまり、倭人伝を正史記事とするには、適確に注釈しないと成立しないのですが、陳寿が編み出したのは、倭人伝記事で必要のない、河川航行「水行」を「渡海」に当てる「用語定義」だったのです。これは、法律文書、契約文書、コンピュータープログラム文書、特許明細書に代表される技術文書など、論理性、整合性を必須とされる文書で、挙って継承され、採用されている文章作法であり、まことに合理的な書法と考える次第です。

 因みに、当ブログの理解では、投馬国への「水行二十日」は、全行程一万二千里、倭地周旋五千里の圏外なので、二十日全部が渡海なのか、一部が渡海で全体が二十日なのか、何とも判定できません。脇道なので、詳しくは不明である、と言うことでしょう。

〇諸用例の意義~少数精鋭最上
 古田氏が追加した魏志用例は、ここで言う「海岸」と「水行」のような方位付けが明解で無いので、「循」が「沿って」の意味に使われた用法と愚考します。「背にして」と「沿って」の両義を承知で書いたのではないようです。

 思うに、三国志の魏志(魏書、魏国志とも言う)は、陳寿が全てを記述したものではなく、大筋は参照した魏朝公文書、つまり、史官が日々整備していた公式記録文書に従っているので、魏朝官人の語法で描かれています。従って、左氏伝の典拠を意識していないことも想定されるのです。
 用例は、厳選したいものです。できれば一例が最上です。

〇「海岸に沿って」行かない理由~再掲
 当ブログの見解では、「従郡至倭」の道里行程は明確に書かれていて、官制の通り、官道を直線的に目的地まで進むが、狗邪韓国から末羅国までは、唯一無二の移動手段である渡し舟に乗る必要があり、これを限定的に「水行」と分類し、残りは、当然の「陸行」と分類した行程としているのです。末羅国からは、「陸行」と明記されていて、傍路の投馬国行程は、この際圏外として、一路、陸行なのです。整然たるものです。話すと長いのですが、全体構想があっての独断です。

 海岸に「沿って」行くとの解釈を棄却する理由として、海岸陸地に沿った移動は、浅瀬や岩礁に確実に行き当たることによります。そのような危険のため、船は、ほぼ例外なく、港を出ると直ちに陸地を離れて沖合に出て、海図などで安全と確認できない限りは、陸地に近づかないのです。以上は、別に訓練経験がなくても、少し関連情報を調べるだけで、容易に理解できる安全航海の策ですが、聞く耳を持たない人が多いのです。

 そのために、苦労して説得記事を重ねているのですが、まだ、納得された方はいないようです。その最大の障壁が、冒頭の「循海岸水行」の誤釈と思うので、一度、「自然に、滑らかに」丸呑みするのでなく、一字一字審議していただきたいと思ったものです。

                                以上

2021年4月 3日 (土)

今日の躓き石 「囲碁界に渦巻く怨念復讐の渦」を思わせる 毎日新聞の「リベンジ」蒸し返し

                             2021/04/03

 今回の題材は、珍しく毎日新聞大阪朝刊総合・社会面の囲碁関係の記事である。

 何しろ、看板の本因坊戦挑戦者決定記事の見出しであるから、全国紙としての面目躍如たる報道であろう。

 それにしては、二期連続「リベンジしたい」とは、何を言いたいのか、意味不明である。編集部で、誰もダメ出ししなかったのが、不思議である。ここでは、どうも、「リベンジ」は、再挑戦の意味でなく、怨念復讐という血なまぐさい言葉のようであるが、「リベンジしたい」とは、血の海に沈めてやり「たい」という「願望」なのだろうか。滅多に見かけない言い方である。「したい」ではなく、「するぞ」ではないのだろうか。なぜ、誰でもわかる言い方をしないのだろうか。
 持って回った言い方をしなくても、挑戦する以上は、「是非とも勝ちたい」というのではないだろうか。いや、挑戦者もタイトル保持者も、負けたいと思うはずはないから、「勝ちたい」という思いは、言うまでもないことなのである。

 それにしても、タイトル保持者の九連覇目を実現させた前期の敗退を、(自身の力不足と言わず)不当な屈辱と捉えて、今期は、仕返しでぶちのめしてやると言うのはどんな志なのか、大変不審である。普通、このような場合には、雪辱とか仕返しとか、言わないはずである。
 しつこいとがめ立てであるが、ここまで、汚い言葉をことさらに目立たせていると、一言言わざるを得ないのである。

 いや、天下の毎日新聞が、引用している談話から見出しを起こしているから、挑戦者の発言の忠実な報道と見たいところであるが、毎日新聞には、今年の選抜の報道で、東海大関係の二校の対戦に際して、地元記者が地方版サイトで報道している談話にない「リベンジ」を、スポーツ面担当記者が「創造」した事例があるので、この発言引用も、勝手な決め込みかも知れないのである。
 挑戦者の人格を疑わせるようなとんでもない不穏当な汚い言葉の発言を、担当記者が「創造」したのではないかという疑惑は消えないのである。

 何にしろ、この記事で見られる表現の混乱は、目を覆わせるものがある。

 「囲碁界の頂上決戦」には、相応しい頂上報道が望まれるのではないだろうか。人ごとながら、大変気がかりである。

以上

2021年4月 2日 (金)

新・私の本棚 番外・破格 西村 秀己 古田史学会報 127号「短里と景初」誰がいつ短里制度を布いたのか? 追記再掲

 古田史学会報 127号 (ネット公開)  2015/04/15

 私の見立て ★★★☆☆ 思い余って言葉足らず  2020/12/13  追記 2021/04/02, 2021/04/12

□はじめに
 当記事は、古賀達也氏ブログの最新記事で踏襲されているので、最新論考とみて、あえて、非礼を省みず率直な(部分)批判を試みたものである。

○論考のほころび~景初初頭短里施行の検証
 案ずるに、「景初短里」圏外の長「里」が、三国志編纂時に換算され、処理に窮した端(はした)を「数*里」表記したとの部分的仮説の検証であり、以下の引用で主旨は尽くされていると思う。

 そこで三国志の陳寿の本文から、[中略](検証に関係しない用例を除くすべての)「里」を年代別に並べてみた。(本紀はともかく、列伝は年号を明記していないものが比較的多い。特に対象の人物の若いころのエピソードははっきりどの年代なのか判別できないものも多いので、間違いがあるかも知れないが、大勢には影響がないと思われるのでご容赦願いたい)
 表をご覧戴ければお判りのように、「数〇里」の出現比率は、
 漢=二一・三%
 蜀=三三・三%
 呉=四〇・〇%
 魏の黄初?青龍=三七・五%
 ところが
 魏の景初以降=五・三%
 つまり、短里の施行は景初初頭という仮説にピタリと一致しているのである。

*過度の精密表記~速断の弊
 当記事は、「数*里」限定だから、中略部は空振りとしても、断片的データ計算結果に過度に精密な数字を提示し、「ピタリ」一致とは不合理である。
 穏当な漢数字表記でも、元々不確か、うろ覚えの原データの信頼性であるから、二、三、四割が妥当と思われる。一桁も覚束ない数字に0.1㌫表現は、児戯で非科学的である。

 最もしく漢数字でも、三世紀当時は、小数のない時代なので、氏の表示は、時代錯誤である。
 あるいは、五分の一、三分の一、五分の二とでも表現するのであろうか。
 数字表記の意義は後回しとし、景初以降五㌫と言ってもサンプル個別評価が不明なので、統計数値として意味があるだけの数なのかどうか、判定しようがない。つまり、「ピタリと一致」と言うのは、根拠の無い速断なのである。
 いずれにしろ、胡散臭い精密な数字の陳列は、古代史論には無用である。

 さらに言えば、各数字は、各サンプルの意義次第であり、数字の字面論議で済む議論ではない。言い募るほどに論者の見識を疑わせるだけである。

 以上は、偶々、当史論の批判の機会に書き立てただけで、言うまでもないことながら、西村氏個人に独特のものではなく、まして、古田史学会にだけ存在している風潮でもなく、むしろ、広く古代史論全般を見る限り大半の論者と同列の書法なので、「史学論に科学はない」と言いたくなるほどである。心ある方は、是非、古代史論は、原資料と同等の漢数字書法にしていただきたいものである。

⚪場違いな用例の山積
 正史の道里表記の検証には、記録の正統性検証が必要であり、それには、相当の立証努力、試錬を要する。(鍛冶が刀剣を鍛えるように、叩いて焼き入れして、真っ直ぐで強靱なものにするという意味である)
 つまり、偶々、何れかの記事に書かれている「道里」が、「短里」で書かれているように見えたとしても、それは、国家の制度として実施されていたことを証する効力はないので、史学論議として、無意味な徒労なのである。それは、記録の数をいたずらに増やしても、意味がないのである。これは、夙に古田武彦氏が高らかに指摘しているものであることを、書き付けるものである。

*三国志の個性再確認
 通常、三国志の構成史書は、「魏志」、「蜀志」、「呉志」と言い慣わされているが、三国志の諸志というと、紛らわしいことがあるので、本編では、「魏国志」、「蜀国志」、「呉国志」と呼ぶことにしているが、これら三篇の「国志」は、それぞれの別の書き手によって整えられた史書であるから、当然、別の方針で編纂されているので、必ずしも、三国志としての統一語法、思想で編纂されているわけではないことは、公に意見を述べる程の品格の諸兄には、周知と思う。(『「周知」と勝手に言うが、俺は知らん』などと反論しないでほしいものである)

 各国志は、それぞれの「天子」の諸制度をもとに書かれているが、仮に、魏朝で里制変更があっても、何よりも、魏を後漢帝制の簒奪者と見ている蜀漢では、絶対に施行されないのである。

 つまり、蜀国志は、漢史であり、採用されているのは漢制であり、陳寿は、これを魏制に書き替えたりしていない。いや、蜀漢皇帝を先主、後主とし、両主に本紀を立てないが、国志の細目に(無法な変改の)手を入れていない。

 東呉は、本来、後漢に服属していたが、曹魏による簒奪は認めていない。従って、呉国志も、東呉編纂「呉書」が土台であり、その主旨は同様である。東呉は、時に魏に臣従表明したが、魏短里制を踏襲していないと思うのである。
 よって、蜀国志、呉国志の三国志統一史観のもとでの史料分析は、ほぼ無意味である。

○まとめ
 当論考は、元々不確実な魏晋朝短里説論証の過程として、全く不十分と見える。残念ながら、魏明帝「景初初頭短里施行」仮説は、却下判定である。もちろん、ここで指摘しているのは、仮説論証過程の不備であって、仮説自体を論じたのではない。

 ただし、視点を変えて、論証批判という見地から云うと、「景初初頭短里施行」仮説は、論証以前に随分無理がある。
 国家制度としての里制変革は、具体的な実施条件まで含めた、大部の要項が必要であり、また、各地で実施したときの多大な紛糾の記録が残るものであるので、実施されたのであれば、明確な記録が残されているはずなのである。
 また、後続の晋書地理志に、そのような制度変更の形跡を一切とどめていないのも、実施されていない変革と思わされるのである。

 正史「晋書」は、唐代に完稿と言っても、晋代から続く各家晋書稿を集積しているので、晋代の「重大な史実」を書き漏らしてはいない
のである。また、魏志が備えていない「志」(范曄「後漢書」も、補追された「志」しかない)を完備しているので、魏晋代の記録を補完しているものと見える。

 そのように、安定した資料に基づいて、確実な史観を確定すれば、陳寿の里制換算想定などの妄想は、「なかった」の一言で蛇足となり、明解である。

 古代史論で、「何かの制度変革がなかったと言うには、そのような史料がないと言うだけでは不十分だ」とする(どこか別の論議で聞いたような)抗弁が聞こえてくるが、国家制度を揺るがす制度変革が「一級史料に全く記録されていない」(明記されていない)というのは、史料批判どころか、史料の本質に反するとんでもない言いがかりであり、そのような提案には重大な立証義務が伴うと思うのである。

                               以上

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