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2021年6月

2021年6月27日 (日)

今日の躓き石 NHKBS ワースポMLB 「オールラウンダー」の汚名

                                  2021/06/27

 今回の話題は、暫くぶりに、NHKBS1の「ワースポMLB」が、どう感心しないのか、と言う話である。ここで、わざわざ批判しているのは、求められている基準がとても高いからである。言ってわからないと思ったら、言わないのである。

 今回、わざわざ書き立てたのは、本日のアトランタブレーブスの名選手を語る特集で、南部の伝統的なファンが「オールラウンドプレーヤー」とちゃんとした言葉遣いなのに、NHK BSは、「オールラウンダー」などと、汚い言葉遣いだったということなのである。

 「素人さん」は、気がつかないか、気づいても些細なことと思う程度かも知れないが、最高峰のメディアの語り手は、是非、安直な言葉遣いを考え直していただきたいものである。

 たまたま、斉藤氏から、ブレーブスの厳しいドレスコードが紹介されたので、一言言わねばと思ったのである。(因みに、ヒゲ厳禁のヤンキースにも、何かドレスコードは有るはずである)
 もちろん、保守的な南部ジョージアでも、一般人どころか、上流社会でも、普段着にジーンズは多いのだが、最高のプロスポーツの最高のチームの最高の選手は、人前では、最高の装いをするべきである、という主旨なのである。

 厳しい言い方をすると、NHKは、ファンの言葉遣いを高めるということを考えたことはないのだろうか。NHKぐらいは、言葉遣いのけじめを仕切って欲しいものである。

以上

 

2021年6月23日 (水)

新・私の本棚 「魏略西戎伝」にみる魏の西域経営と范曄後漢書誤謬 4/4 補充

                            2019/12/13 補充 2021/06/23
*補充の弁
 最近、当記事について批判した刮目天一氏の記事が、特に訂正もなく再公開されたので、氏が読み過ごされたと見える点を補筆したのである。

*大秦探索幻想の払拭~余談
 安息の東の入り口から西の果て、さらには、ローマ領域の地中海沿岸までは、道里として二千㌔㍍に及ぼうかという途方もない遠路であり、軍事使節団の出張予算を遙かに越える巨費を要するから、その理由でも、甘英の任務と与えられた権限を遙かに越えていて、直ちに断念されるべきである。

 安息帝国は、広大な領地を街道網で結んでいたから、旅費が続けば、数カ月に上るであろう長距離旅程を移動できないことは無いだろうが、異国の軍事使節にかくも遠大な国内通行が許されるはずが無いのである。カスビ海東岸の安息国は、かって、東方からの騎馬部隊の侵入に晒されたことがあり、国王戦死の事態も経験している。そのため、東方諸国との間に、二万が常駐する大要塞を設けていて、厳戒態勢であるから、みすみす異国兵通過を見過ごすことは無い。

 当時、パルティアは、過去二度に亘り、万余の大軍で侵入したのを都度撃退したローマと半世紀に亘る休停戦が続いたが、二国間に和平は成立していないので、シリアには属州総督麾下のローマ軍四万が駐在し、甘英使節団が訪問できる状態に無かったのも無視できない。

 後漢書記事否定論を根拠の無い妄想と見られては心外なので、ことさら、時間と労力をかけた時代考証を重ねた。画餅を書く方は、舌先三寸の戯れで気楽だが、食えないことを証するのに往生するのである。

*范曄虚構賦~西域伝、東夷伝限定
 当時の情勢をどう考えても、甘英が地中海岸に赴いて、西方遙かな異郷を目指すとは思えないので、本件は范曄の虚構である。先人未踏の偉業を達成した甘英は、功労者として偉功を賞されることはなく、武人としての本分まで無残に踏みにじられて、無法な汚名を背負わされたのである。後世人の暴威であるから、筆は剣より強いなどとしゃれてはいられないのである。

 范曄が、どうして、西戎伝に残された綿密な史実を廃棄して、そのような途方もないおとぎ話を考えついたか知ることはできないが、范曄が、何者にも命じられること無く、自主的に、そのような夢想談を史書に書き残したという嫌疑は、当人の確たる信念に基づくから弁護しがたいのである。

 范曄は、史実の記録者である史官ではなく、また、史官たろうともしてないので、遺された夷蛮傳は、時に華麗なおとぎ話となるのであろう。

〇結論
 范曄後漢書夷蛮傳は、このように特定された范曄独自の編纂方針により、原資料の忠実な継承を抛棄した、自主的な創作であるから、厳重な資料批判の後でのみ、資料として利用することができるのである。
 一部誤解している読者もあるので念押しすると、当記事で糾弾しているのは、後漢書西域伝及び東夷伝に限った話であり、正史の中核をなす、本紀、列伝については、ここでは何ら批判していないのである。(別記事あり)

 何しろ、范曄が後漢書編纂に取り組んだとき、後漢書公文書そのものは、落城した洛陽に取り残されて、以後、懸命に回復を図ったものの、大半は、華北で朽ちたものと思われるのである。従って、編纂に於いて参照できたのは、今日も、ほぼ完本が残存している袁宏「後漢紀」程度であり、しばしば無造作に列記される諸後漢書は、引用価値ありとされたのは、散漫な佚文程度であり、つまり、利用できたのは、本紀・列伝に属する主要部分だけだったのである。(先に挙げた西域旧圖は、笵曄の手元に届いていなかったと思われるので、西域諸国の地理関係について、正確に理解できなかったのも、無理はないと思われる)

 因みに、袁宏「後漢紀」は、年代記形式としていて、魏志などでは列伝とする記事を、適切と思われる年代記に書き込んでいるので、以上で論議した、班超西域都護の安息国探索は、主要部が書き残されているのである。

 渡邉義浩氏(三国志学会事務局長)が、以前のテレビ番組で、歴史家は「しばしば」勝手なことを書くから信用するな、との趣旨を述べられていたが、自爆発言の当否は別として、こと「史官ならぬ文筆家である」范曄に関しては、それなりの根拠ありと見える。ご明察と言いたいが、緩く広く網を打てば、時には、何か獲れるという事である。

□参考資料 略記御免
 魚豢「魏略西戎伝」、司馬遷「史記大宛伝」、班固「漢書西域伝」、范曄「後漢書西域伝」、後代史書西域伝、袁宏「後漢紀」、そして、陳寿「魏志」

Wikitionaryの諸項目
安息国(パルティア)、アルメニア、シリア、ローマ、メディア、ペルシャ

ローマ人の物語(Ⅴ~Ⅸ) 塩野七生 ローマ~パルティア記事を参照
 時宜を得た記事に加え、ローマ軍敗戦時、兵一万人が安息国東北境に移送され防衛に付いた記述は、貴重であるが、任地が寒冷地とは誤解であり、酷暑の中央アジア諸国とイラン高原の間にあって、むしろ過ごしやすい土地と思われる。元々、パルティアは、兵二万人を配置して、半世紀以上に亘って、東方騎馬勢力の侵略に備えたことから、施設、兵站は整って不自由は無かったと推察される。いや、40㌔㌘の装備を背負って毎日6時間、30㌔㍍行軍し続けられるよう鍛練を重ねた屈強なローマ兵一万人を虐待することなど不可能であり、むしろ、守備と工兵の即戦力に対して適度の処遇を与えたと推定される。余談である。
                               以上

新・私の本棚 「魏略西戎伝」にみる魏の西域経営と范曄後漢書誤謬 3/4 補充

                            2019/12/13 補充 2021/06/23, 26
*補充の弁
 最近、当記事について批判した刮目天一氏の記事が、特に訂正もなく再公開されたので、氏が読み過ごされたと見える点を補筆したのである。末尾に追記あり。

*范曄後漢書の評価
 ここで、魏略西戎伝のありがたいところは、後漢朝の西域経営の姿が、細かく描かれていることである。特に、漢書で記載された西域諸国のさらなる情報と共に、安息西方に得られた「西戎」新領域、つまり、カスピ海西岸方面の事情が知れたと言うことである。

 ところが、范曄は、後漢書西域伝編纂にあたって、西戎伝の齎した後漢朝西域情報の大半を単なる風聞として棄却し、以下に説明するように、自身の創作した「おとぎ話」で埋めているのである。つまり、范曄は、魏晋朝の政治情勢に影響されていないが、自身の創作意欲に促されて史官ならぬ文筆家の才能を発揮したのである。いや、実際の所、笵曄の深意は知るすべもない。
 范曄が、政府高官の要職の傍ら、片手仕事で既存の後漢史料を切り貼りして、本紀/列伝部分を再構成したので、その範囲では、大過なく書き終えたとしても、それ以外の部分、つまり、今日まで、良質な史料が継承されている袁宏「後漢紀」、魚豢「魏略」西戎伝を覆す西域伝を書いている以上、笵曄の手元には、適確な史料は存在せず、憶測を持って確たる史料を改竄したと思えるのである。
 従来、范曄の真意を忖度して、間違いだらけの先行史書を是正するために、誰でも創作とわかる「おとぎ話」を描き込んだと書いたのだが、とことん言い立てないと理解できないという評があるので、厳しい言い方にしたのである。笵曄の著作全体を貶める意図はないことを、念のため、言い置く。

 以上、明確な根拠史料はないが、素人としては、理性の力で推定するしかないのである。

 范曄後漢書を史実の忠実な記録と見るのは、誤解そのものなのである。

*范曄のおとぎ話紹介

 具体的に、事の成り行きを述べると、こういうことである。
 まず、間違いの無い史実として、後漢西域都護班超は、副官甘英を、西方諸国の探査に派遣したのである。探査の対象は、漢書に紹介されている大宛、條支、安息、烏弋山離の四大国の現状確認であった。探査隊は、他の事例に準じて、百人の大部隊と思われる。
 当時、西域都護班超は、其の拠点に幕府を開き、周辺諸国の服属を得て、自立して税務、軍務、労役を統括していたと思われる。事実上、大郡の郡太守ないしはそれ以上の軍事力、経済力をもっていたと思われる。

 つまり、西域経営とは、そのように強力な拠点を設け、北方の匈奴勢力を退け諸国の服従を確保するものであった。
 このようなことを言い立てるのは、西域都護が西方に軍務使節を派遣する時、与えた使命を理解するためである。趣味の探検隊などではないのである。つまり、四大国を軍事的な盟約下に置き、西方からの進入を防止すると共に、匈奴の復活などで、領域内諸国鎮圧の派兵を確保したかったのである。

 交渉の目的は限定的だが難航必至である。西域諸国の中には、漢使を殺す国まであったのである。逆に使節が蕃王を威嚇した例もある。帰国後使節が処刑された例もある。かくして、使節団の百人には威圧も含まれている。

*范曄法廷の断罪

 さて、そのような軍事使節団の成果は、後漢書には、素っ気なく書かれている。

 甘英は、條支海辺で遙か大秦に赴こうとしたが、船人の脅しに怯えて引き返したとしている。しかし、これは、幾重にも不首尾な話である。そもそも、西戎伝には、そのような記事は存在しない。

 勇猛果敢な軍人たる甘英の使命は、領域西端の安息、條支との「外交」であり、初見で接触皆無の「大秦」への渡航など命じられていない。なにより、言明された任務の限界を越えて、見通しの立てられない西に行くのは、背命である。
 仮に、都護班超の密命があって、西方渡航を企てたのなら、途上で、怯懦にして使命を勝手に断念して帰途に就くのも背命である。

 前者は、独断専行、後者は、敵前逃亡の大罪である。帰任後、都護副官は、使節任務の不備も含め、軍法に従い処刑/処罰されるがその記録は無い。
 西戎伝には、虚構の使命もなければ、虚構の背命もない。
 所期の任務は達成され班超は甘英を称揚したはずであるが、甘英ほどのものとしては、条支、安息の西域都護への服従を得たというような特筆に値する画期的な成果でなく、旧友好国との友好関係を確認したという程度の順当な成果であったということである。少なくとも、成果をまとめた後漢朝史官にはそのように判断されたのであろう。西戎伝は、史実の忠実な記録なのである。

 つまり、後漢書西域伝には、史実ではなく虚構が書かれているのである。これが、最前、「おとぎ話」と書いた内容であり、是非読み飛ばさないでいただきたいものである。

*挿話 後漢書倭伝造作疑惑の話
 念のため、箸置き、箸休め代わりとして言い置くと、後漢書「東夷列伝」は、根拠となるべき袁宏「後漢書」に、後漢初期の倭使来貢記事を除けば、「東夷列伝」相当の記事は存在せず、また、魏略東夷伝は伝わっていないので、范曄が、漢霊帝代以降の後漢末の「倭」記事の根拠としては、魏志倭人伝しか見当たらないのである。倭人伝が魏略に依拠しているとしても、多様な改竄の手が加わっているので、笵曄の「倭伝」の由来がわからないのである。
 西域伝での「創作」の手口からすると、笵曄は、文筆家としての高度な魏領をふるって、倭人伝記事から改竄、創作したのではないかとする嫌疑が拭えないのである。
 陳寿「三国志」の権威として大変高名であり、また、范曄「後漢書」全訳者であり、袁宏「後漢紀」の抜粋訳も公刊している渡邉義浩氏は、同時代史書について、至高の解釈者と思うのが、傍ら、「史官は、みな、真実を語る動機を持たず」、つまり、勝手気ままに書き残していると公言しているので、氏の権威に従うと、范曄もまた、創作派史官なのだろう。

*虚構の西行談 西戎伝による考証

 そもそも、西戎伝には、カスピ海西岸の「海西」條支(アルメニア)までの皇帝道里は書かれていても、遙か彼方の地中海岸は一切書かれていない。アルメニア西方の黒海が示唆されているだけである。

 安息から條支は、指呼の間であり、また所期の任務の一環でもあるから、甘英隊は、当然両国を訪問し、都護への服属を折衝したと思われる。(西方の地中海岸付近で、大国ローマと互角に張り合っていた安息帝国ほどの超大国が、西域都護に、易々と服属するとは思えないのだが、ここでは、後漢朝が夜郎自大になっているのである)

*犁靬西遷 西戎伝による考証

 西戎伝では、初見の「大秦」は、前世、つまり、漢書記事でアラル海付近にあったと思われる小勢力「犁靬」(りけん。用字は数種あり)が、カスピ海南岸「メディア」(「中の国」の意あり。現テヘラン付近)が合流した安息帝国内の「小国」だが、地理的には、「安息」と指呼の間であり、「西域」諸国と比較して名実ともに大国であるが、それはさておき、甘英隊が條支往還の過程で寄り道で訪問しても、十分任務の範囲内である。因みに、メディアは、イラン高原を最初に全面支配した超大国「メディア」王国の残照であり、安息帝国の東西有力拠点に挟まれた有力勢力であった。

*莉軒ペトラ説の奇怪~莉軒余談 (追記)
 因みに、最近制作されたナパティア王国ペトラ談義で、最後に、それまで欧州系史料に依存していた番組が、突然、漢書、後漢書系の西域伝史料を取り上げて、欧州発の新説として、ペトラは、「莉軒」の発音と似ていると取り上げていたのは、何とも、愚劣であった。

 しばしば書いているように、漢、後漢代の西域探査は、安息国の東方拠点が限界であり、目前の裏海すら越えていないと思われるのに、死海近辺のペトラにいて言及したと推定するのは、よほど物知らずの妄想である。言う方も阿呆たが。そんな「ジャンク」新説を、「裏」も取らずに鵜呑みにして、大事な取り上げるのは、公共放送が、受信料を取ってまで世に広めるべきものとは、到底思えない。近年、NHKの文化教養番組制作が、安普請のやっつけ仕事に見えて、大変残念なのだが、受信料を値下げするより先に、制作の手寝紀を進めているとしたら。まことに遺憾である。

 先に書いたように、莉軒は、前漢代アラル海近辺にいた遊牧系の小国が、世紀を経た後漢代に到って安息中部に寄宿したのに過ぎないから、さらに、厖大な荒野を越えて、死海近郊まで移動できるはずがないのである。
 欧州系論者は、中国史料の原文を見ていないし、時代勘/土地勘が欠けているから、字面だけ、いや、不確かな発音推定だけで、とんでもない妄想を述べるのである。NHKほどの知識・見識のある報道機関が、無学な素人でもできる「ファクトチェック」を怠って、「フェイクニュース」を公開するのはどうしたものか。重ねて言うが、分野を限らす、新説は、大抵「ジャンク」なのである。この際、自分たちの制作した番組が「ジャンク」かどうか、十分内部確認した上で、世に出す手順を守ってもらいたいものである。一般視聴者は、無批判に、NHK番組の示唆に従うものなのである。
 それにしても、NHKも、老朽化したのだろうか。
                                未完

新・私の本棚 「魏略西戎伝」にみる魏の西域経営と范曄後漢書誤謬 2/4 補充

                            2019/12/13 補充 2021/06/23
*補充の弁
 最近、当記事について批判した刮目天一氏の記事が、特に訂正もなく再公開されたので、氏が読み過ごされたと見える点を補筆したのである。

*裴松之の視点
 裴松之は、立場上、魏略西戎伝を補追せざるを得なかったが、当記事を割愛した陳寿の編纂方針を非としてはいない。つまり、両者ともに、西戎伝に魏朝の西域事跡は認めなかったのであり、両史官の意見は尊重すべきである。また、裴松之は、本文補注が任であるから、西戎伝には考証を加えていない。

 つまり、西戎伝は、陳寿、裴松之ともに、その内容を正史の一伝に値する史料として支持していないのである。まことに公正な姿勢であり史官の本分に従ったものなのである。一方、裴松之は、西戎伝としてほぼ完全収録したように、魏略の価値を認めているのであり、史官魚豢の真骨頂を示すものである。

*陳寿の西域観
 また、後漢の西域経営は、高名な桓帝、霊帝の悪政で撤退してから久しく、献帝期に僅かに再開したとしても、続く魏には何も手掛かりがなかったのである。

 陳寿は、蜀漢出自で、一時仕官していたから、蜀漢は、西域への同盟工作で入口の涼州等を鉄壁に封鎖していたから、洛陽の曹魏は西域から遮断されていたと知っていたのである。
 むしろ、敦煌遺物に呉書稿の残簡が伝わっているように、孫権政権以来の東呉が、西域と交易のつながりを持っていたと見えるが、呉書に西域伝はない。蜀書西域伝なら幾ばくかの記事が書けたであろうが、一つには、蜀には、官制史書の基礎となる起居註を書き溜めて年刊する体制がなく、そのため、記事根拠となる蜀書(稿)もなかったので、蜀都成都の反乱勢力は、公式西域記事を残せなかったのである。

 陳寿が、三国志を各国国志の統一された形式で編纂するのを諦めた原因は、主として、蜀書の不備によるものなのである。

*存在しない曹魏西域記事
 曹魏が、涼州の壁を越えて西方の大月氏と連携しようにも、大月氏は、蜀漢親密の各国に挟まれて身動きできなかったのである。曹魏が、涼州の壁を打破して、蜀漢北伐を牽制するなど痴人の夢想だった。密使交換がせいぜいである。

*倭人道里陰謀の起源
 いや、世の中には、奇特な御仁がいて、史料にそのような形跡が見て取れるとして、誰も知らない曹爽の功績を貶めるために、東夷倭人伝の道里一万二千里が創出されたと、とてつもない仮説を立てたようだが、想像力の豊かさに敬服するものの、資料に明示ないしは示唆された根拠のない思いつき、作業仮説を、権威を笠に着てやたらと高言するのは、勿体ないことだと思うのである。

*道里のままごと
 道里ごっこ好きであれば、西域最遠交流先は、裏海(カスピ海)東岸付近の安息であり、前世の漢武帝時代に百人規模の使節が往還している大月氏、康居、烏孫、大宛とは、爾来交渉が続いていて、何を今更大月氏である。

 大月氏は、武帝が匈奴挟撃を目論んで派遣した、後の博望侯張騫率いる最初の百人隊の目的地で、苦難の果てに張騫と従僕二名が生還、復命した燦然たる金字塔である。但し、大月氏は、亡命先の大夏地域で、諸勢力を制覇して大勢力を築いたので、その成果に満足して、故郷に帰る気をなくしていたのである。
 と言うことで、武帝は、大月氏との同名策を放棄したのである。
 魏代、大月氏の支配下から、貴霜(クシャン)なる新勢力が登場し、漢代の交流の再現を図って、はるか東方に使節を派遣したものである。当時、魏の本拠は、関東の洛陽であり、西域支配の拠点がなかったため、中央アジアの砂漠地帯を抜け関中の長安古城を経て必要があるなど、延々洛陽に至る必要があったのである。皇帝は、普通里で一萬二千里(六千公里(㌔㍍))に達するので、確かに偉業ではあるが、その間に魏の拠点が皆無なので、魏の西域経営など、何の意義もなかったのである。
 因みに、関中の長安古城領域は、関東回復を図った蜀漢の侵攻先であり、実際上、魏の安定した支配は成立していなかったのである。
 と言うことで、この意味でも、一蕃国の使節が、敵中を潜行して来訪したとしても、魏としては、印綬を与えて、後世に備える程度でしかないのである。
 魏の官人であった魚豢が、魏略西戎伝で、貴霜国来訪の件を大書していないのは、何の意義もない細事であり、書かない方が、魏朝の西域経営の恥をさらさないと見たものと思われる。陳寿が、魏志西域伝を編纂しなかったのは、この点に関しては、魚豢と同意見であったと言う事であり、裴松之が、貴霜国来訪記事を補注しなかったのは、同感だったことを示している。

*魏西域伝の幻影
 つまり、大月氏との再交流は、空前でも画期的でも無く、些事なのである。
 魏志西域伝はないから東夷伝で凌駕する必要はない。東夷来朝の意義を貶めるなら、史官として書きようが多々あるから、露見して不朽の汚名を着る「無様な改竄」をするはずがない。まして、誰も意図に気付かない深遠な改竄を青史に残しても、華麗に正装して闇夜を行くのでは野蛮の極みと誹(そし)られるだけである。陳寿が、史官の責務をどう感じていたか察していないのは悲惨なものである。

*改竄か死罪か
 自明、当然で、改めて言うのも恥ずかしいが、史官たる陳寿は、故事に精通し、記録改竄に応じず処刑されて名声を残した先人を尊敬し、その立場に立てば死を受け容れる決意をしていたのである。

 蜀書諸葛亮伝所収の定型句をご覧頂きたい。
「臣壽誠惶誠恐,頓首頓首,死罪死罪」

 ここで、頓首は、謀反人諸葛亮の伝を立てるのは、死罪にあたる大罪であると知っていて、ここに自首し、首切り人の前に首を差し伸べているという意味である。

*范曄頓首・族滅
 後漢書編纂者笵曄は、劉宋皇帝への反逆陰謀に連座して死罪となり、三親等内の親族、さし当たっては、成人となっていた嫡子共々、斬首、つまり、首を落とされたから、単なる冗談ではないのである。重罪人として処刑され、跡を継ぐ者のいない笵曄の著作後漢書が、唐代に公然のものとなるまで、どのように継承されたか、まことに不思議なのである。このあたり、後漢書を論ずる方は、承知と思ったが、結構知られていないようなので、この際補充したのである。

 この結語は、蜀書諸葛亮伝が、陳寿自身の手になるものであることを雄弁に語っている。
                                未完

新・私の本棚 「魏略西戎伝」にみる魏の西域経営と范曄後漢書誤謬 1/4 補充

                                            2019/12/13 補充 2021/06/23
*補充の弁
 最近、当記事について批判した刮目天一氏の記事が、特に訂正もなく再公開されたので、氏が読み過ごされたと見える点を補筆したのである。

□はじめに
*史書の相互確認
 古代史の一分野である魏志倭人伝の記事考証は、時に、比較検証資料が乏しいために、信頼性に欠けると難詰されている。これは、原編纂者陳寿の責任ではなく、後世人の勝手な結果論に過ぎないが、通説と呼ばれる風評では、結果論を正当化するために、陳寿が編纂時の司馬氏政権に阿(おもね)る曲筆を行ったに違いないと弾劾されている。史官として屈辱極まりない難詰であろう。

 その際に、弾劾側の証拠として提示されるのが、范曄「後漢書」である。笵曄は、三国志編纂時の西晋朝が南遷した後、これを継承した南朝宋、劉宋の官人であったから、司馬氏への阿(おもね)りのない客観的な編纂が行われたと断じているものである。当人が聞いたら爆笑する阿諛追従だろう。

 確かに、夏殷周三代以来連綿として、中原天下を支配していたのが、華夏文明不滅の証しであったのに、司馬氏の晋王朝は、北方異民族に国を奪われ、中原天下を文明を知らない蕃人に明け渡したのだから、劉宋が、司馬氏を弾劾する風潮に満たされていてもむしろ当然であるが、後漢朝は、秦漢と続いた偉大な中原政権の掉尾をなすものであり、一介の文書家が、亡国の賊である司馬氏を礼賛するはずはないのである。

*「カンガルーコート」の試み
 当方は、陳寿、笵曄のどちらにも偏しない視点を試みているから、倭人伝に対して注がれた批判に等しい批判を後漢書倭伝に与えるべきと考える。

 しかし、倭人伝と倭伝の共通部分は僅少で、意味のある相互確認は至難である。ここでは、笵曄の編纂姿勢を、陳寿と同時代の史官魚豢の編纂姿勢と比較して偏向の具合を見ることとした。いわば、私刑の場である。

*西戎伝の裁き
 検証対象は、魏略西戎伝(西戎伝)の西域記事であり、これを、范曄後漢書西域伝の記事と比較、検証しようというものである。幸い、西戎伝は、三千字に亘っているので有意義な比較検証ができる可能性が高いと見た。ご承知の通り、倭人伝は、二千字程度であり、確かに、列伝諸国の数と勢域の広さを考えると、不足はあるものの、魚豢は、正史を書こうとしたのではなく、魏略の西戎伝を書こうとしたので、これで十分とみたのだろう。

*西戎伝史料評価
 ここに上げた「魏略西戎伝」は、埋没史料の発掘では無く、三国志魏志第三十巻の巻末、倭人伝の補注として、裴松之によって収録された史料であり、三千字近い堂々たる「引用」である。末尾には、魚豢による結辞が記されていて、ほぼ完全な、原典部分引用とわかる。

 この引用記事は、いわゆる「佚文」、つまり、粗忽で不正確保証付きの手軽な抜き書きで無く、当時健在であった魏略の善本から、裴松之が史官としての最善の努力を払って引用しているので、魏略そのものと言っても良く、古代史の同時代史料として、三国志本文と同様の高い信頼の置けるものである。

〇西戎伝考証の始まり
 といいつつ、当史料の記事内容は、厳密には、魏朝の西域伝とは言いがたい。つまり、記事の大半は、先行する後漢朝の西域史料であり、散在する魏朝記事を除けば、後漢朝西域伝と呼ぶべきものである。

 ただし、魏略編者たる魚豢は、魏朝の史官にあって、魏朝の正当性を確信していたので、後漢朝史料は、当然後漢朝を正当に承継した魏朝史料と見ていた節があるが、これは、後世人には当否を論じられないと思われる。

*西域旧圖
 念のため、確認すると、魏の時代に、後漢代を記録した史書は未刊であり、魚豢は、恐らく、後漢の担当部局である鴻臚の公文書を収録したものと思われる。西戎伝中には、「西域旧圖」なる地図らしきものに言及されていて、恐らく、帛書、つまり、絹地に西域諸国の位置関係を書き記した資料が存在したようである。また、「旧圖」と言うからには、期間をおいて更新されていたと見えるのである。何しろ、大変高価であるから、鴻臚に控えがあっても、それ以外には数えるほどの枚数しか無かったはずである。
 言うまでもなく、正史にも、正史に準ずる資料にも、そのような図は添付されていない。どうやら、後漢の鴻臚官人や魚豢が実見したらしいと言うだけである。

 つまり、当記事は、前代(後漢)遺産などではなく、当代(魏代)かすべて受け継いだ「資産」である、と言う視点であるから、後世人としては聞き置くしか無いのである。それが、魚豢の「偏向」である。

*魏朝事跡評価
 端的に言うと、魚豢の史料観は、陳寿の賛同を得ていない。魏志に、西域伝がなく、従って、魏略西戎伝の魏代記事に相当する内容が収録されていないのは、陳寿が、関連史料、おそらく、魏略西戎伝を熟読吟味した上で、魏志西域伝を書くに足る事跡は無いと判断したと言うことである。こと、魏志編纂に関しては、陳寿が最高責任者であったから、いくさの際の司令官と同様、君命と雖も、従わないことがある、と言う程度の史官としての自負心は持っていたはずである。

                                未完

2021年6月 5日 (土)

新・私の本棚 番外 毎日新聞のはやし立てる 「今どき」の「歴史」と「進化」~平城京 第十条発掘綺譚 

 『平城京「十条」の発掘 九条の数百㍍南 「常識」揺るがす 歴史は調査で進化しうる  2021/06/05
 今回の記事は、本日(土曜日)付毎日新聞大阪夕刊 「岐路の風景」なる月一連載コラムの批判である。

⚪蒸し返しの確認
 記事の内容は、2007年に奈良平城宮関連遺跡の発掘で、従来南北九条とされていた平城京の第十条相当地に東西方向の道路遺構が発見され、発掘担当の奈良市教育委員会が平城京十条大路と断定したのに学会の同意を得られず、15年を経て、未だ、正当な学説として認知されていないことに、毎日新聞が、義憤を感じて、提唱者に加担する記事を書いたようである。全国紙ともあろうものが、何を今さら蒸しかえすのか、と不審を感じさせるのである。

⚪異様な展開に不満
 当ブログ記事筆者にとって、同時代、同地域には、誠に疎いので、記事に書かれている提唱者の言葉遣い、論考展開と毎日新聞社の態度に異議を唱えるものである。いや、学界構成員でないので、ただの素人考えを述べるのであるが、提唱者の世界観に大変不穏当なものを感じるのである。

⚪不穏当な語彙~今どきの「歴史」、「進化」
 記事タイトルにもなっている『 「常識」揺るがす 歴史は調査で進化しうる』なる言葉遣いは、学問的な「普通」の語彙に反しているのである。
 まずは、今どきのはやり言葉である「歴史」、「進化」の蔓延させている誤解を正す。

*「歴史」と「進化」の由来

 「歴史」とは、過去この世界に生じた出来事の積層であり、一度この世に生じた以上、書き換え、塗り替えなどできないのである。言い直すと、『歴史は』 不変である。

 恐らく、世界史的に見て後進国である英語圏の世界観、歴史観を直輸入しているのだろうが、日本には伝統があるのだから、勝手に、確立された「歴史」という言葉を乱さないでもらいたいものである。

 狭い学会で長年過ごしてきた提唱者は、そうした配慮は知らないのも仕方ないとしても、全国紙たる毎日新聞には、言葉に対する基準として断然守るべきものがあるはずである。文化遺産たるべき「言葉」の護り人として、当ブログで警鐘を鳴らしている外来カタカナ語の蔓延防止もさることながら、歴史的用語を守らねばならないのではないか。

 「進化」とは、ダーウィン進化論で知られるとおり、突然変異によって生じた新種によって与えられる、適者生存の生存競争、優勝劣敗の試錬であり、軽々しく口にすべきではないのである。学校でちゃんと教えて貰っていないのでしょうが無いのだが、まるで、今生きている人々が新人類に変身するかのような非科学的な「まやかし」に乗せられてはならないのである。少なくとも、勝手に、多数の先人が労苦の果てに積み重ねてきた伝統的な概念を踏みにじって、にわか作りの子供じみた思い付きを蔓延させないで欲しいものである。

 理屈のわからない子供に、当人の理解を超えた理屈を言い聞かせるようで、このような「苦言」は、なんとも甲斐の無い徒労の予感がするのだが、言うべき事は言うのが「誠意」の極みと思うのでも、敢えて書き遺すものである。

*不出来な新説、不出来な論証
 要するに、提唱者は、新規発見、新理論を見つけたから、古いものはさっさと捨ててしまえ、と言っているのである。

 しかし、それは、適者生存の生存競争に勝ち抜いての話であり、後発の者が常に勝つものではない。むしろ、「歴史」は後発の者が敗北した積み重ねである。俗に死屍累々と言う不快な表現をお許し頂きたい。但し、ここは、学問の世界であるから、感情を排して、議論で勝敗を付けねばならない。

*異様な「鳥肌世界観」
 提唱者は、古代ギリシャのアルキメデス以来、しばしば盗用されている「ユーレカ」症候群の罹患者らしく、事実かどうかは別として、慄然たる感激を覚えた「フィクション」を押し立てているようであるが、予兆としての「鳥肌」の解釈を間違えたようである。本来、おぞましく感じるはずなのに、至高の快感に溺れたようである。考古学に限らず、新説の90㌫は、はなからジャンクである。学問の徒として、恥をさらしているかも知れないという懸念は、生じなかったのだろうか。

 言うまでもないが、慣用句の現代風誤用を毎日新聞が政策的に煽り立てているのでない限り、「鳥肌」は、歴史的に慄然たる不快感で定着している。定例の解釈は、ガラスに爪を立てて引っ掻く響きによって掻き立てられる絶大な不快感であり、そのような不快な連想でおぞましく思う読者も少なくないのである。
 毎日新聞には、多くの人に不快感を与える忌まわしい表現を避ける報道者としての良心はないのだろうか。

 それは置くとして、少なくとも、この下りは学術的論議には、場違いな発言である。提唱者の名誉のために、毎日新聞は、この部分を割愛すべきであったろう。何しろ、学術的な主張に於いて、無用の冗語だからである。

 定説を乗り越えるためには定説の語彙に通暁しなければならない。定説の深意がわからずに、勝手な思い付きで言い分を言い立てるべきではない。

*自家製「曲解」観
 記事の後半に向かい、提唱者は、殉教者気取りで、学説審査の場で経験したダメ出しを忌み嫌っているようだが、解釈が合わないのは、自分の曲解か、相手の曲解か、双方の曲解か、冷静に判断し、克服すべきもののように思う。
 冷静に言うと、当時、キッチリ裁定しなかったために、議論の敗者が自覚せず、自身で是正しなかったので、15年後の今に至る「恨み」が残ったのである。

*論証の常道
 小生の素人考えでは、平城京時代には、法制が整い文書行政が確立していたはずだから、日本の帝都としての「平城京」に、公式に第十条が実在していたのなら、計画時点から平城京運用時までの一世紀近い期間に、何らかの文書記録が残ったはずである。あるいは、現場に荷札などの木簡が廃棄されたかも知れない。現場付近に詰め所のような仮小屋を建てたかも知れない。
 提唱者は、一件でも、そのような(文書)記録を提示する必要があったのである。
 「第十条は存在しなかった」というのが、多数の権威者の意見、「定説」である以上、十分な証拠で、その「定説」を覆すのが提唱者の務めと言うべきである。

 提唱者が、歴史学の定説は、最新の調査成果を取り入れて、不適切な点は是正すべきだというのは、(用語の不具合を補正すれば)一般論として耳を傾けるべきであるが、立証責任が果たされていないという多数の意見で却下されて17年間か経過する間、このようにうじうじと恨み言を唱えるだけで、ひたすら自説の風化するに身を任せているのは、一部古代史論に見られる「新発見」待ちの神頼みに似ているように見える。勿体ないことである。

*奈良市教育委員会「発掘報告書」のなぞ
 因みに、記事には、肝心な点が書かれていないのだが、「奈良市教育委員会」がどのような審査を経て、提唱者の「思い付き」を支持したのかということである。当記事を公開する際には、提唱者の主張の裏を取るために、取材すべきではなかったかと思われる。市の公費を、学界で認められていない異説の振興のために投じたと言われないために、審議したはずであるから、当時の議事録を公開すべきではないか。

 世上、地方公共団体の遺跡発掘の報告書に於いて、未検証の「思い付き」が、貴重な公費を費消して刊行されることが珍しくないと聞いているので、本件がそのような風評に属さないなら、提唱者の言い分を無批判に押し立てるのではなく、毎日新聞社として当該報告書の書評を収録するなり、読者に対して論議の経緯を明らかにするのが、毎日新聞読者に対する責任と思うのである。

*定説派の卓見
 提唱者自身の認めるように、第十条部分が平城京仮設段階で棄てられたと見れば、「常識」に何の不都合もないように思える。

 『平城京「十条」の発掘 定説動かず「九条」 奈良大教授・渡辺晃宏さん』と題した囲み記事で、定説派の見解が丁寧、かつ簡潔、平明に述べられているが、提唱者への配慮で明記を避けたと思われる深意は、「学問上の議論は論議するものであり、裏付けのない思い付きに感情的に固執するべきではない」と言うことのように思うのである。
 渡辺氏は、遺跡が当時のものと想定し、但し、一時何らかの工事が行われたと好意的に推定していて、遺跡の意義を否定しているのではないのである。

 当ブログ筆者には、今回の報道に於いて、毎日新聞担当記者の見識眼が、随分撓んでいるように見えるのであるが、これは、語彙の鬱屈も含めて、ジャーナリストに普遍的なものであり、別に個人批判しているものではない。ただ、毎日新聞社としては、報道の倫理にそっているかどうか、今一度監査が必要ではないか。

以上

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