新・私の本棚 「魏略西戎伝」にみる魏の西域経営と范曄後漢書誤謬 4/4 補充
2019/12/13 補充 2021/06/23
*補充の弁
最近、当記事について批判した刮目天一氏の記事が、特に訂正もなく再公開されたので、氏が読み過ごされたと見える点を補筆したのである。
*大秦探索幻想の払拭~余談
安息の東の入り口から西の果て、さらには、ローマ領域の地中海沿岸までは、道里として二千㌔㍍に及ぼうかという途方もない遠路であり、軍事使節団の出張予算を遙かに越える巨費を要するから、その理由でも、甘英の任務と与えられた権限を遙かに越えていて、直ちに断念されるべきである。
安息帝国は、広大な領地を街道網で結んでいたから、旅費が続けば、数カ月に上るであろう長距離旅程を移動できないことは無いだろうが、異国の軍事使節にかくも遠大な国内通行が許されるはずが無いのである。カスビ海東岸の安息国は、かって、東方からの騎馬部隊の侵入に晒されたことがあり、国王戦死の事態も経験している。そのため、東方諸国との間に、二万が常駐する大要塞を設けていて、厳戒態勢であるから、みすみす異国兵通過を見過ごすことは無い。
当時、パルティアは、過去二度に亘り、万余の大軍で侵入したのを都度撃退したローマと半世紀に亘る休停戦が続いたが、二国間に和平は成立していないので、シリアには属州総督麾下のローマ軍四万が駐在し、甘英使節団が訪問できる状態に無かったのも無視できない。
後漢書記事否定論を根拠の無い妄想と見られては心外なので、ことさら、時間と労力をかけた時代考証を重ねた。画餅を書く方は、舌先三寸の戯れで気楽だが、食えないことを証するのに往生するのである。
*范曄虚構賦~西域伝、東夷伝限定
当時の情勢をどう考えても、甘英が地中海岸に赴いて、西方遙かな異郷を目指すとは思えないので、本件は范曄の虚構である。先人未踏の偉業を達成した甘英は、功労者として偉功を賞されることはなく、武人としての本分まで無残に踏みにじられて、無法な汚名を背負わされたのである。後世人の暴威であるから、筆は剣より強いなどとしゃれてはいられないのである。
范曄が、どうして、西戎伝に残された綿密な史実を廃棄して、そのような途方もないおとぎ話を考えついたか知ることはできないが、范曄が、何者にも命じられること無く、自主的に、そのような夢想談を史書に書き残したという嫌疑は、当人の確たる信念に基づくから弁護しがたいのである。
范曄は、史実の記録者である史官ではなく、また、史官たろうともしてないので、遺された夷蛮傳は、時に華麗なおとぎ話となるのであろう。
〇結論
范曄後漢書夷蛮傳は、このように特定された范曄独自の編纂方針により、原資料の忠実な継承を抛棄した、自主的な創作であるから、厳重な資料批判の後でのみ、資料として利用することができるのである。
一部誤解している読者もあるので念押しすると、当記事で糾弾しているのは、後漢書西域伝及び東夷伝に限った話であり、正史の中核をなす、本紀、列伝については、ここでは何ら批判していないのである。(別記事あり)
何しろ、范曄が後漢書編纂に取り組んだとき、後漢書公文書そのものは、落城した洛陽に取り残されて、以後、懸命に回復を図ったものの、大半は、華北で朽ちたものと思われるのである。従って、編纂に於いて参照できたのは、今日も、ほぼ完本が残存している袁宏「後漢紀」程度であり、しばしば無造作に列記される諸後漢書は、引用価値ありとされたのは、散漫な佚文程度であり、つまり、利用できたのは、本紀・列伝に属する主要部分だけだったのである。(先に挙げた西域旧圖は、笵曄の手元に届いていなかったと思われるので、西域諸国の地理関係について、正確に理解できなかったのも、無理はないと思われる)
因みに、袁宏「後漢紀」は、年代記形式としていて、魏志などでは列伝とする記事を、適切と思われる年代記に書き込んでいるので、以上で論議した、班超西域都護の安息国探索は、主要部が書き残されているのである。
渡邉義浩氏(三国志学会事務局長)が、以前のテレビ番組で、歴史家は「しばしば」勝手なことを書くから信用するな、との趣旨を述べられていたが、自爆発言の当否は別として、こと「史官ならぬ文筆家である」范曄に関しては、それなりの根拠ありと見える。ご明察と言いたいが、緩く広く網を打てば、時には、何か獲れるという事である。
□参考資料 略記御免
魚豢「魏略西戎伝」、司馬遷「史記大宛伝」、班固「漢書西域伝」、范曄「後漢書西域伝」、後代史書西域伝、袁宏「後漢紀」、そして、陳寿「魏志」
Wikitionaryの諸項目
安息国(パルティア)、アルメニア、シリア、ローマ、メディア、ペルシャ
ローマ人の物語(Ⅴ~Ⅸ) 塩野七生 ローマ~パルティア記事を参照
時宜を得た記事に加え、ローマ軍敗戦時、兵一万人が安息国東北境に移送され防衛に付いた記述は、貴重であるが、任地が寒冷地とは誤解であり、酷暑の中央アジア諸国とイラン高原の間にあって、むしろ過ごしやすい土地と思われる。元々、パルティアは、兵二万人を配置して、半世紀以上に亘って、東方騎馬勢力の侵略に備えたことから、施設、兵站は整って不自由は無かったと推察される。いや、40㌔㌘の装備を背負って毎日6時間、30㌔㍍行軍し続けられるよう鍛練を重ねた屈強なローマ兵一万人を虐待することなど不可能であり、むしろ、守備と工兵の即戦力に対して適度の処遇を与えたと推定される。余談である。
以上
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コメント
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興味深く拝見させていただきました。有難うございます。
時間がかかってしまい失礼いたしました。
しかし、頓首死罪は陳寿の言だったのですね。先生のものだと早とちりしたようで、失礼しました( ^)o(^ )
漢籍については無教養の素人ですので、とても独自で原典の解釈などおぼつきません。色々な先生の解釈を基に日々研鑽という気持ちです。でも、全くの門外漢故、こうやって先達に教えて頂くとそれなりに、分かった気になるのでかえって怖ろしい感じがしますね(´・ω・`)
コメントが長くなったので先程ブログにアップしました。お時間があればどうぞ。過激な意見はシロウト話と笑い飛ばして頂ければ幸いです。よろしくお願い致します(*^▽^*)
投稿: 刮目天 一(はじめ) | 2019年12月19日 (木) 20時31分