新・私の本棚 「魏略西戎伝」にみる魏の西域経営と范曄後漢書誤謬 3/4 補充
2019/12/13 補充 2021/06/23, 26
*補充の弁
最近、当記事について批判した刮目天一氏の記事が、特に訂正もなく再公開されたので、氏が読み過ごされたと見える点を補筆したのである。末尾に追記あり。
*范曄後漢書の評価
ここで、魏略西戎伝のありがたいところは、後漢朝の西域経営の姿が、細かく描かれていることである。特に、漢書で記載された西域諸国のさらなる情報と共に、安息西方に得られた「西戎」新領域、つまり、カスピ海西岸方面の事情が知れたと言うことである。
ところが、范曄は、後漢書西域伝編纂にあたって、西戎伝の齎した後漢朝西域情報の大半を単なる風聞として棄却し、以下に説明するように、自身の創作した「おとぎ話」で埋めているのである。つまり、范曄は、魏晋朝の政治情勢に影響されていないが、自身の創作意欲に促されて史官ならぬ文筆家の才能を発揮したのである。いや、実際の所、笵曄の深意は知るすべもない。
范曄が、政府高官の要職の傍ら、片手仕事で既存の後漢史料を切り貼りして、本紀/列伝部分を再構成したので、その範囲では、大過なく書き終えたとしても、それ以外の部分、つまり、今日まで、良質な史料が継承されている袁宏「後漢紀」、魚豢「魏略」西戎伝を覆す西域伝を書いている以上、笵曄の手元には、適確な史料は存在せず、憶測を持って確たる史料を改竄したと思えるのである。
従来、范曄の真意を忖度して、間違いだらけの先行史書を是正するために、誰でも創作とわかる「おとぎ話」を描き込んだと書いたのだが、とことん言い立てないと理解できないという評があるので、厳しい言い方にしたのである。笵曄の著作全体を貶める意図はないことを、念のため、言い置く。
以上、明確な根拠史料はないが、素人としては、理性の力で推定するしかないのである。
范曄後漢書を史実の忠実な記録と見るのは、誤解そのものなのである。
*范曄のおとぎ話紹介
具体的に、事の成り行きを述べると、こういうことである。
まず、間違いの無い史実として、後漢西域都護班超は、副官甘英を、西方諸国の探査に派遣したのである。探査の対象は、漢書に紹介されている大宛、條支、安息、烏弋山離の四大国の現状確認であった。探査隊は、他の事例に準じて、百人の大部隊と思われる。
当時、西域都護班超は、其の拠点に幕府を開き、周辺諸国の服属を得て、自立して税務、軍務、労役を統括していたと思われる。事実上、大郡の郡太守ないしはそれ以上の軍事力、経済力をもっていたと思われる。
つまり、西域経営とは、そのように強力な拠点を設け、北方の匈奴勢力を退け諸国の服従を確保するものであった。
このようなことを言い立てるのは、西域都護が西方に軍務使節を派遣する時、与えた使命を理解するためである。趣味の探検隊などではないのである。つまり、四大国を軍事的な盟約下に置き、西方からの進入を防止すると共に、匈奴の復活などで、領域内諸国鎮圧の派兵を確保したかったのである。
交渉の目的は限定的だが難航必至である。西域諸国の中には、漢使を殺す国まであったのである。逆に使節が蕃王を威嚇した例もある。帰国後使節が処刑された例もある。かくして、使節団の百人には威圧も含まれている。
*范曄法廷の断罪
さて、そのような軍事使節団の成果は、後漢書には、素っ気なく書かれている。
甘英は、條支海辺で遙か大秦に赴こうとしたが、船人の脅しに怯えて引き返したとしている。しかし、これは、幾重にも不首尾な話である。そもそも、西戎伝には、そのような記事は存在しない。
勇猛果敢な軍人たる甘英の使命は、領域西端の安息、條支との「外交」であり、初見で接触皆無の「大秦」への渡航など命じられていない。なにより、言明された任務の限界を越えて、見通しの立てられない西に行くのは、背命である。
仮に、都護班超の密命があって、西方渡航を企てたのなら、途上で、怯懦にして使命を勝手に断念して帰途に就くのも背命である。
前者は、独断専行、後者は、敵前逃亡の大罪である。帰任後、都護副官は、使節任務の不備も含め、軍法に従い処刑/処罰されるがその記録は無い。
西戎伝には、虚構の使命もなければ、虚構の背命もない。
所期の任務は達成され班超は甘英を称揚したはずであるが、甘英ほどのものとしては、条支、安息の西域都護への服従を得たというような特筆に値する画期的な成果でなく、旧友好国との友好関係を確認したという程度の順当な成果であったということである。少なくとも、成果をまとめた後漢朝史官にはそのように判断されたのであろう。西戎伝は、史実の忠実な記録なのである。
つまり、後漢書西域伝には、史実ではなく虚構が書かれているのである。これが、最前、「おとぎ話」と書いた内容であり、是非読み飛ばさないでいただきたいものである。
*挿話 後漢書倭伝造作疑惑の話
念のため、箸置き、箸休め代わりとして言い置くと、後漢書「東夷列伝」は、根拠となるべき袁宏「後漢書」に、後漢初期の倭使来貢記事を除けば、「東夷列伝」相当の記事は存在せず、また、魏略東夷伝は伝わっていないので、范曄が、漢霊帝代以降の後漢末の「倭」記事の根拠としては、魏志倭人伝しか見当たらないのである。倭人伝が魏略に依拠しているとしても、多様な改竄の手が加わっているので、笵曄の「倭伝」の由来がわからないのである。
西域伝での「創作」の手口からすると、笵曄は、文筆家としての高度な魏領をふるって、倭人伝記事から改竄、創作したのではないかとする嫌疑が拭えないのである。
陳寿「三国志」の権威として大変高名であり、また、范曄「後漢書」全訳者であり、袁宏「後漢紀」の抜粋訳も公刊している渡邉義浩氏は、同時代史書について、至高の解釈者と思うのが、傍ら、「史官は、みな、真実を語る動機を持たず」、つまり、勝手気ままに書き残していると公言しているので、氏の権威に従うと、范曄もまた、創作派史官なのだろう。
*虚構の西行談 西戎伝による考証
そもそも、西戎伝には、カスピ海西岸の「海西」條支(アルメニア)までの皇帝道里は書かれていても、遙か彼方の地中海岸は一切書かれていない。アルメニア西方の黒海が示唆されているだけである。
安息から條支は、指呼の間であり、また所期の任務の一環でもあるから、甘英隊は、当然両国を訪問し、都護への服属を折衝したと思われる。(西方の地中海岸付近で、大国ローマと互角に張り合っていた安息帝国ほどの超大国が、西域都護に、易々と服属するとは思えないのだが、ここでは、後漢朝が夜郎自大になっているのである)
*犁靬西遷 西戎伝による考証
西戎伝では、初見の「大秦」は、前世、つまり、漢書記事でアラル海付近にあったと思われる小勢力「犁靬」(りけん。用字は数種あり)が、カスピ海南岸「メディア」(「中の国」の意あり。現テヘラン付近)が合流した安息帝国内の「小国」だが、地理的には、「安息」と指呼の間であり、「西域」諸国と比較して名実ともに大国であるが、それはさておき、甘英隊が條支往還の過程で寄り道で訪問しても、十分任務の範囲内である。因みに、メディアは、イラン高原を最初に全面支配した超大国「メディア」王国の残照であり、安息帝国の東西有力拠点に挟まれた有力勢力であった。
*莉軒ペトラ説の奇怪~莉軒余談 (追記)
因みに、最近制作されたナパティア王国ペトラ談義で、最後に、それまで欧州系史料に依存していた番組が、突然、漢書、後漢書系の西域伝史料を取り上げて、欧州発の新説として、ペトラは、「莉軒」の発音と似ていると取り上げていたのは、何とも、愚劣であった。
しばしば書いているように、漢、後漢代の西域探査は、安息国の東方拠点が限界であり、目前の裏海すら越えていないと思われるのに、死海近辺のペトラにいて言及したと推定するのは、よほど物知らずの妄想である。言う方も阿呆たが。そんな「ジャンク」新説を、「裏」も取らずに鵜呑みにして、大事な取り上げるのは、公共放送が、受信料を取ってまで世に広めるべきものとは、到底思えない。近年、NHKの文化教養番組制作が、安普請のやっつけ仕事に見えて、大変残念なのだが、受信料を値下げするより先に、制作の手寝紀を進めているとしたら。まことに遺憾である。
先に書いたように、莉軒は、前漢代アラル海近辺にいた遊牧系の小国が、世紀を経た後漢代に到って安息中部に寄宿したのに過ぎないから、さらに、厖大な荒野を越えて、死海近郊まで移動できるはずがないのである。
欧州系論者は、中国史料の原文を見ていないし、時代勘/土地勘が欠けているから、字面だけ、いや、不確かな発音推定だけで、とんでもない妄想を述べるのである。NHKほどの知識・見識のある報道機関が、無学な素人でもできる「ファクトチェック」を怠って、「フェイクニュース」を公開するのはどうしたものか。重ねて言うが、分野を限らす、新説は、大抵「ジャンク」なのである。この際、自分たちの制作した番組が「ジャンク」かどうか、十分内部確認した上で、世に出す手順を守ってもらいたいものである。一般視聴者は、無批判に、NHK番組の示唆に従うものなのである。
それにしても、NHKも、老朽化したのだろうか。
未完
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