新・私の本棚 「魏略西戎伝」にみる魏の西域経営と范曄後漢書誤謬 2/4 補充
2019/12/13 補充 2021/06/23
*補充の弁
最近、当記事について批判した刮目天一氏の記事が、特に訂正もなく再公開されたので、氏が読み過ごされたと見える点を補筆したのである。
*裴松之の視点
裴松之は、立場上、魏略西戎伝を補追せざるを得なかったが、当記事を割愛した陳寿の編纂方針を非としてはいない。つまり、両者ともに、西戎伝に魏朝の西域事跡は認めなかったのであり、両史官の意見は尊重すべきである。また、裴松之は、本文補注が任であるから、西戎伝には考証を加えていない。
つまり、西戎伝は、陳寿、裴松之ともに、その内容を正史の一伝に値する史料として支持していないのである。まことに公正な姿勢であり史官の本分に従ったものなのである。一方、裴松之は、西戎伝としてほぼ完全収録したように、魏略の価値を認めているのであり、史官魚豢の真骨頂を示すものである。
*陳寿の西域観
また、後漢の西域経営は、高名な桓帝、霊帝の悪政で撤退してから久しく、献帝期に僅かに再開したとしても、続く魏には何も手掛かりがなかったのである。
陳寿は、蜀漢出自で、一時仕官していたから、蜀漢は、西域への同盟工作で入口の涼州等を鉄壁に封鎖していたから、洛陽の曹魏は西域から遮断されていたと知っていたのである。
むしろ、敦煌遺物に呉書稿の残簡が伝わっているように、孫権政権以来の東呉が、西域と交易のつながりを持っていたと見えるが、呉書に西域伝はない。蜀書西域伝なら幾ばくかの記事が書けたであろうが、一つには、蜀には、官制史書の基礎となる起居註を書き溜めて年刊する体制がなく、そのため、記事根拠となる蜀書(稿)もなかったので、蜀都成都の反乱勢力は、公式西域記事を残せなかったのである。
陳寿が、三国志を各国国志の統一された形式で編纂するのを諦めた原因は、主として、蜀書の不備によるものなのである。
*存在しない曹魏西域記事
曹魏が、涼州の壁を越えて西方の大月氏と連携しようにも、大月氏は、蜀漢親密の各国に挟まれて身動きできなかったのである。曹魏が、涼州の壁を打破して、蜀漢北伐を牽制するなど痴人の夢想だった。密使交換がせいぜいである。
*倭人道里陰謀の起源
いや、世の中には、奇特な御仁がいて、史料にそのような形跡が見て取れるとして、誰も知らない曹爽の功績を貶めるために、東夷倭人伝の道里一万二千里が創出されたと、とてつもない仮説を立てたようだが、想像力の豊かさに敬服するものの、資料に明示ないしは示唆された根拠のない思いつき、作業仮説を、権威を笠に着てやたらと高言するのは、勿体ないことだと思うのである。
*道里のままごと
道里ごっこ好きであれば、西域最遠交流先は、裏海(カスピ海)東岸付近の安息であり、前世の漢武帝時代に百人規模の使節が往還している。大月氏、康居、烏孫、大宛とは、爾来交渉が続いていて、何を今更大月氏である。
大月氏は、武帝が匈奴挟撃を目論んで派遣した、後の博望侯張騫率いる最初の百人隊の目的地で、苦難の果てに張騫と従僕二名が生還、復命した燦然たる金字塔である。但し、大月氏は、亡命先の大夏地域で、諸勢力を制覇して大勢力を築いたので、その成果に満足して、故郷に帰る気をなくしていたのである。
と言うことで、武帝は、大月氏との同名策を放棄したのである。
魏代、大月氏の支配下から、貴霜(クシャン)なる新勢力が登場し、漢代の交流の再現を図って、はるか東方に使節を派遣したものである。当時、魏の本拠は、関東の洛陽であり、西域支配の拠点がなかったため、中央アジアの砂漠地帯を抜け関中の長安古城を経て必要があるなど、延々洛陽に至る必要があったのである。皇帝は、普通里で一萬二千里(六千公里(㌔㍍))に達するので、確かに偉業ではあるが、その間に魏の拠点が皆無なので、魏の西域経営など、何の意義もなかったのである。
因みに、関中の長安古城領域は、関東回復を図った蜀漢の侵攻先であり、実際上、魏の安定した支配は成立していなかったのである。
と言うことで、この意味でも、一蕃国の使節が、敵中を潜行して来訪したとしても、魏としては、印綬を与えて、後世に備える程度でしかないのである。
魏の官人であった魚豢が、魏略西戎伝で、貴霜国来訪の件を大書していないのは、何の意義もない細事であり、書かない方が、魏朝の西域経営の恥をさらさないと見たものと思われる。陳寿が、魏志西域伝を編纂しなかったのは、この点に関しては、魚豢と同意見であったと言う事であり、裴松之が、貴霜国来訪記事を補注しなかったのは、同感だったことを示している。
*魏西域伝の幻影
つまり、大月氏との再交流は、空前でも画期的でも無く、些事なのである。
魏志西域伝はないから東夷伝で凌駕する必要はない。東夷来朝の意義を貶めるなら、史官として書きようが多々あるから、露見して不朽の汚名を着る「無様な改竄」をするはずがない。まして、誰も意図に気付かない深遠な改竄を青史に残しても、華麗に正装して闇夜を行くのでは野蛮の極みと誹(そし)られるだけである。陳寿が、史官の責務をどう感じていたか察していないのは悲惨なものである。
*改竄か死罪か
自明、当然で、改めて言うのも恥ずかしいが、史官たる陳寿は、故事に精通し、記録改竄に応じず処刑されて名声を残した先人を尊敬し、その立場に立てば死を受け容れる決意をしていたのである。
蜀書諸葛亮伝所収の定型句をご覧頂きたい。
「臣壽誠惶誠恐,頓首頓首,死罪死罪」
ここで、頓首は、謀反人諸葛亮の伝を立てるのは、死罪にあたる大罪であると知っていて、ここに自首し、首切り人の前に首を差し伸べているという意味である。
*范曄頓首・族滅
後漢書編纂者笵曄は、劉宋皇帝への反逆陰謀に連座して死罪となり、三親等内の親族、さし当たっては、成人となっていた嫡子共々、斬首、つまり、首を落とされたから、単なる冗談ではないのである。重罪人として処刑され、跡を継ぐ者のいない笵曄の著作後漢書が、唐代に公然のものとなるまで、どのように継承されたか、まことに不思議なのである。このあたり、後漢書を論ずる方は、承知と思ったが、結構知られていないようなので、この際補充したのである。
この結語は、蜀書諸葛亮伝が、陳寿自身の手になるものであることを雄弁に語っている。
未完
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